とある世界の残酷歌劇 > 序幕 > 6


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いつの間にか降り出した雨に、街の光に濡れた路面が目を突いた。

さあさあというノイズにも似た雨音の中、初春は傘も差さぬまま歩いていた。

最初から傘など持っていなかった。
そんな矮小な、どうでもいい事は頭にはなかった。

ただようやく見つけた手懸かりを手繰り寄せようと必死で、それ以外の事は考えてなどいられなかったのだ。

バックパックを力なく肩からぶらさげたまま初春は幽鬼のように街を歩く。

一歩踏みしめる度にぐちゃりと湿った足音が靴の中で鳴いた。

今自分はどんな表情をしているのだろう。

きっと寒さに肌は真っ白で、見る人がいればすぐさま救急車でも呼びかねないようなそんなひどい物だろう。

けれど幸か不幸か、ただの一人とも出会わなかった。



ぐちゃり、ぐちゃり。

街はいつものように煌びやかに光を放ち、降りしきる雨にそれを喧しく乱反射させ、だというのに静まり返っていた。

まるで死都のようだ。

街全体が死に絶え、機械だけがひとりでに動いているだけのような、そんな錯覚。

誰も生きている者なんていないんじゃないのかとさえ思う。

ぐちゃり、ぐちゃり。

もしかすると自分はもう死んでしまっていて、それに気付かないままに徘徊しているのではないか。

生きている者がそれに気付かないように、死んでしまった自分も気付いていないだけなのではないか。

そういえばそんな都市伝説にも似た少女の話を聞いた事があったな、と思い軽く親近感を覚える。

多分彼女もまた、そうして世界に見放されたのだろう。

こうして歩いていたら彼女と会えるかもしれない。

そう思うと少しだけ心が晴れた気がした。

頬を濡らしているのは雨か、それとも涙なのか。

自分は泣いているのか哂っているのか。

それすらも分からず初春は機械的に歩みを進める。



ぐちゃり、ぐちゃり。



冷えた体は雨の感覚さえなく、踏みしめているはずの地面の感触も覚束ない。

幽霊に足はないのだから仕方ない、と思うが、濡れた足音だけは確かだった。



ぐちゃり、ぐちゃり。



ぐちゃり、ぐちゃり。



ぐちゃり、ぐちゃ、



「――――――」



人が、いた。







雨に煙る視界の隅をゆらり、横切る。

それはすぐに消えてしまったが、間違えるはずもなかった。

ぱしゃ。ぱしゃり。

気が付けば走っていた。

悴んだ体はいう事を聞いてはくれず、思わず転びそうになる。

前のめりにたたらを踏みながらも、踏み止まり、初春は走った。

白と黒と灰色だけの無機質な街を走る。

いつの間にか雨音は消えていたが視界には相変わらずの線が降り注いでいた。

だのに耳元で、ぜひ、ぜひ、と嫌な音が聞こえる。

ごうごうと耳鳴りがするのは雨の雫が耳の中に入り込んで血流の音が反響しているからだろうか。

体中がきしきしと悲鳴を上げている。

けれどそんな事はどうでもよかった。

垂れ下がる蜘蛛の糸にしがみ付くように、初春は無我夢中で走った。

ばしゃり、と大きな水溜りに足を踏み入れ、初春は立ち止まる。

通りからひっそりと隠れるように伸びる小路。

何度も通った事のある道だというのに、今の今まで気付かなかったほどの存在感のない路地裏。

明日にはどこにあったのかさえ忘れてしまうような、存在そのものがおぼろげな道。

ここが虚数学区の入り口だと言われても納得してしまうような、そんな漠然とした正体の知れぬ空間だった。

そんな裏道の入り口で初春は道の先を見る。

じじ、と焙るような音を立て壁面に取り付けられた街灯が瞬く。

隣接する飲食店の残飯か、腐った下水のような臭いが僅かに燻る壁と壁に押し潰されそうな狭い空間。

その先に、真っ黒な蝙蝠傘が揺れていた。

傘を差すのは男だろう。

カーキ色のジーンズに濃い青のスタジアムジャンパー。

左手に傘を持ち、差し出すように掲げているその逆肩はこの距離でも分かるほどにぐっしょりと濡れていた。

そして。

彼の左側に立つ人影。

見覚えのある学校指定のブレザーにスカート。

少女だ。

顔は傘で隠れて見えない。

けれど、傘の下から覗く髪と、先程一瞬だけ見えた横顔。それは確かに初春の知る人物だった。

――――ぱしゃり。

気付かぬままに一歩を踏み出し、致命的な過ちを犯した事を直感する。

何故だか分からないけれどそう理解できてしまったのだ。

左右の壁が押し潰そうと覆い被さってくる錯覚を覚え、異様なまでの圧迫感を感じる。

水溜りを踏んだ足音がわんわんと反響し、空気が揺れ。

――――ぴたりと、前方を往く二人の足が止まる。

「………………」

どっどっどっどっ、と、心臓は早鐘のように鳴り響き、初春は貧血のような眩暈を覚える。

全身の毛穴がぶわりと開き、凍え切った体にも感じるほどの冷や汗が流れた。

視界は既にモノトーンのそれとなり、ぱらぱらと蝙蝠傘の跳ね返す雨音だけがやけに耳についた。

「………………」

二人はぴくりとも動こうとはせず、まるでじぃ――と見つめられているような、気さえした。

「………………」

無言。

ただ、傘を跳ねる雨粒の音だけが耳障りだった。

その気拙い空隙に、初春は魚が喘ぐように何度か口を開いたり閉じたりして、空を掻くように手を伸ばし、何かを堪えるように目を引き瞑り指を胸の前で握り締め、そして。

その名を呼んだ。










「――――――御坂さん!」









ようやく、ようやく見つけた。

事件の中心――御坂美琴。

初春は叫び、その後姿に駆け寄る。

――が、立ち止まる。

隣に立つ少年――クセの強い、ツンツンした黒髪の少年だ――がゆっくりと振り返り、初春に微笑んだ。

「……呼ばれてるぞ、御坂」

そして――。

「――――――」

振り返った彼女に、初春の動きが停止する。

……なんだ。

なんだこの違和感は。

見知った顔。

見慣れた制服。

けれど。



――目の前にいる彼女は誰だ?



「――こんばんは」

そして、初春の思考は完全に停止する。





「ええと――ごめん、誰だっけ?」






「………………」

ぱらぱらと傘に反響する雨音だけが場を支配していた。

あまりにも予想外の言葉に初春は完全に硬直していた。

彼女は一体何が起こったのか全く理解していない様子で、呆然とした態で立ち尽くすより他なかった。

目の前に立つ少女はどこか空ろな無表情の仮面を貼り付けたような顔で初春の顔をじっと見ていた。

かちかちかち。

いつの間にか聞こえていたその音は、初春の歯が発するものだった。

幾許かの時間が過ぎ、初春はようやく寒さに悴んだ唇を動かした。

「誰、って……初春、飾利です、よ。風紀委員の」

震える声でそう呼びかければ、彼女はようやく合点のいった様子で頷き。

「ああ――初春――初春飾利さん――ええ、そうだった。ごめんなさいね。ど忘れしちゃったみたいで」

作り物めいた笑顔を初春に向けるのだった。



見知った顔。

見知った声。

なのに――どうしてだか足が竦んで仕方なかった。

かちかちかち。

震えは止まらない。

「それで、何かしら。私、ちょっと忙しいんだけど」

今すぐこの場から逃げ出したかった。

目の前にいる友人がとてつもないバケモノのような気がして、
次の瞬間には途轍もない怪物に変化して初春を頭からばりばりと貪り尽くしてしまうような気さえして。

けれどパニックのあまり初春の思考は完全に静止して全く動けずにいた。

ぐっしょりと濡れたスカートの足に絡みつく感触が、冷えた体が凝り固まるような錯覚が、初春をその場に縛り付けているような気がして。

そんな事よりも。

初春は今目の前の友人にどんな顔を向けているのか、それがどうしようもなく気がかりだった。



「忙しいって……何を、してるんですか」

ようやく出てきた言葉はそんなものだった。

「御坂さんがいなくなって、大騒ぎですよ。みんな、心配してるんですよ」

――そんな事が言いたいんじゃない。

初春の言葉に彼女は不思議そうに首を傾げ。

「大騒ぎ? 心配? そんなはず、ないんだけど」

大して興味のない様子で言う彼女の声が妙に癪に障った。

今までの自分を否定された気がして、それは恐らく正解なのだろう。

今日までの一週間の全てを、そして今日の出来事と初春の努力と葛藤と判断と決意と行動と、それら全てを粉々に壊された気がして。

怒りと羞恥とがないまぜになった感情は、それでも動いてくれなかった。



「一週間も何をしていたんです?」

「別に。いいじゃない、そんな事」

相変わらずの薄っぺらい笑顔のまま、彼女はそう答えた。

――そんな事が訊きたいんじゃない。

「もしかしてまた何か事件に巻き込まれてるんですか」

「そうでもないわよ」

――そんな事はどうでもいい。

本当に、本当に大切なのはたった一つだけだ。

震えは止まらない。

歯は相変わらずがちゃがちゃと喧しいし、体中が痙攣するようにしている。

けれど、そんな些細な事よりももっと大切な事がある。

がくがくと笑う膝をどうにか押さえつけて、初春は睨みつけるようにして言った。

「…………白井さんは、どこにいるんですか」

搾り出すようにして放たれたそれに、彼女はやっぱり不思議そうに首を傾げ。





「どこって…………後ろにいるじゃない」





ぱしゃり、と。

水溜りを踏む音が聞こえた。









一瞬、訳が分からなかった。

彼女が何を言っているのかが分からなかった。

けれど目の前の二人の視線は、初春の肩越しにその後ろを見ていて。

それを追いかけるように、真っ白になった頭のままにゆっくりと後ろを振り向くと。

「――――――」

チェックのスカート。

学校指定のブレザー。

赤いリボンタイ。

そして、左右で二つに括った長い髪。

あまりに見覚えのあるその姿に、一瞬幻影ではないかと疑うが。



「あらまぁこれは……濡れ鼠ですわね、初春」



声。

口調。

仕草。

雰囲気。

困ったように苦笑する、顔。





「――――白井さん――――!!」





一体どこにいたのか。

一体何をしていたのか。

問い詰めたい事は他にいくらでもあった。

けれど張り詰めていた感情が爆発し、頭の中で吹き荒れ、それどころではなかった。

顔はきっとぐちゃぐちゃになっている。

でもそんな事はどうでもいい。

今目の前にいる少女の姿を見て、初春はどうしようもなくなって、彼女に駆け寄る。

――が。

「……待ってくださいな」

制止され、初春は凍りつく。

差し出された手は平をこちらに向け、何かを押すように伸ばされた拒絶だった。

「…………白井、さん?」

斜めに顔を逸らし、俯く様子で表情を隠す白井。

何故。なんで。どうして。

もう、何がなんだか初春は分からなくなっていた。

「待ってくださいな、初春」

白井は俯いたまま言葉を続ける。

「そんな顔をしないでくださいまし。わたくし、どうすればいいのか困ってしまいますの」

それはこっちの台詞だ、と。

言い返す事もできず初春は動けぬままに呆然と白井を見ていた。

「そんな顔をされては――わたくし、迷ってしまいます」

何を、迷う事があるのだろう。

その一言がどうしようもなく絶望的なものに思えて、まともな思考ができぬまま、しかし直感だけで初春は一歩を踏み出す。

「――初春っ!!」

そして、怒声にも似た白井の放つ言葉に再び動きを止められる。

「こちらに――来ないでくださいな。あなただけは、来てはいけませんの」

……白井が何を言っているのか全く分からなかった。

でも。

どうしようもない絶望の淵が足元に広がっているのだけは理解できた。

あと一歩を踏み出せばその奈落の底へ落ちてしまうだろう。

そこはどうしようもなく最悪な地獄が待っていて、初春はどうする事もできないだろう。

――それが、どうした。

その先にたった一人の大切な友人がいるのだ。

その彼女が、声を震わせ、今にも泣きそうな顔で俯いているのだ。

踏み止まる理由など存在しなかった。



だから、

初春は、

その一歩を踏み出し、





ぱしゃり、と水溜りを踏む足音が響く。

――――――え?

初春はまだ、その踏み出した足を、下ろしていない。

踏み出した足はまだ空に浮いていて、足音が鳴るはずもないのだ。

なのに水音は左右にそびえるコンクリートの壁に反響して。

見れば、白井との距離は縮まっていない。

「――――ごめんなさい、初春」

……遅れて踏んだ水溜り。

ぐちゅりと濡れた靴中の嫌な感触に、初春はそれ以上の絶望を覚えた。

そう。距離が縮まらないのは。

白井が一歩後ずさったからで。



ぱしゃり。

再び響く水音に初春はようやく気付く。

「――ごめんなさい、初春」

その音を発したのは、初春でも白井でも、背後の二人でもなく。

「………………ねえ、白井さん」

そんな事はどうでもいいのに。

そんな事を訊いている時間もないのに。

そんな事よりももっと大切なものが目の前にあるのに。

そんな事よりももっともっともっともっとタイセツナモノが目の前から遠ざかってしまおうとしてるのに。



「ごめんなさい――――――さようなら、初春」



その泣きじゃくるような白井の顔を遮るように立ったのは。





「――――――そちらの方は、誰です?」










「どうも。『友達』です」





がしゃりと、世界が閉じた。









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