上条「やれやれ、僕は射精した」





「私は、お腹が空いていると、言っているの」

それはさながら、太平洋の真ん中で生まれては消えていく台風を思わせた。

「ねえ、聞いてる?」

彼女が不機嫌な声を漏らし始める。
慌てて僕は、アフリカの焼畑のような床に置かれていた惣菜のパンを彼女に渡した。

「私は魔術結社に追われているの」
彼女はパンを食べながら言った。

「魔術結社?」
不思議な言葉だった。
頭がぼんやりして、その中で様々なイメージが浮かんでは消えた。

「連中は私の持っている十万三千冊の魔導書を狙っているのよ」

僕は既に彼女を疑い始めていた。
『十万三千冊の魔導書』だって?
この『目次』と名乗るシスターはそんなものを持ち運んでいるというのだ。

僕は大量の本を持ってマカオに逃げようとする移動図書館のような少女を追跡する想像をして、思わず苦笑した。

「悪いけど、魔術だなんて信じられないよ。それに興味もない。なんなら君がベランダの手摺を壊したことも、僕にはどうでも良いことなんだ」

「『どうでもいい』ですって?」と目次は言った。
「魔術に興味がないなんて、あなたどうかしてるわよ」

「そんなことないさ。君は田中義一は好き?」
「何よ、それ」
「昔の日本の首相だよ」
「知ってるわよ」
「じゃあパナマ運河は好きかい?あるいは君は日付変更線は?円周率は?独占禁止法は好き?セネガル国家はどう?1973年のピンボールは好きか嫌いか?」俺は思いつくままに問いかけた。

「わかったわよ。『どうでもいい』」
目次はため息をついて言った。
「でも、魔術は本当にあるのよ。私の修道服もその産物なの。私を護ってくれる、『歩く教会』なのよ」
目次は誇らしげに胸を張って言った。
その様は絶対な自信のあるレポートを提出する学生を思わせた。

やれやれ。

「それなら、試してみるかい?」
俺は『右手』を持ち上げて目次に言った。

「この右手は『幻想殺し』といって、あらゆる漠然として暫定的なものを消滅させてしまうんだ。それこそ、好き嫌い関係無くね。この右手で君の服の魔術を消すことができたら俺は君の言うことを信じるよ」

「ふぅん」
目次は言った。「その右手が『歩く教会』に通じるかしら?」
「さあね、通じるかもしれないし、通じないかもしれない。でも、自信はあるよ」
意思のあるところに結果は生じるものなのだ。上手くいくかはわからないけど、やってみる価値はある。

俺は目次の服の肩の部分に『幻想殺し』をあてた。
そのときガラス製のペーパー・ナイフを石畳に叩きつけるような音を聞いた気がした。






結論から言うと、俺は目次を酷く怒らせることになり、また、魔術の存在を多少は認めざるを得なくなった。

目次は縫い目がほどけるようにばらばらになってしまった修道服を修繕すると、――安全ピンで繋ぎ止めるのを修繕と呼ぶとするべきかは怪しいけれど――俺の方へ向き直って言った。

「私は出ていく。教会に逃げ込むわ」

俺は慌てて言った。
「ちょっとまてよ。君には悪いことをしたけれど、事故みたいなものじゃないか。――魔術のことは信じるよ。君が酷い魔術師に追われているのも本当なんだろう。ここにいればいい」

「だからこそ行くのよ。ここにいたらあなたが危ないわ」
目次は肩を竦めて、微笑みながら言った。もしよかったらそのまま一週間くらい泊まっていってもいいよと言ってしまいそうになるくらい感じの良い微笑みだった。

OK、認めよう。
俺は勃起していた。




目次が部屋を出ていったあと、俺は冷蔵庫の中を点検し、必要なものをメモ帳に書き込んだ。
停電によって食材のほとんどは駄目になってしまっていたが調味料や米は無事だったし、いくつかあった野菜も今日中に食べ切ってしまえば大丈夫だろう。

俺は補習に必要な物を入れた学生鞄を持ち、財布と寮の鍵をポケットにしまって部屋を出た。





補習を終え、校門を出てスーパーマーケットに行くために公園を歩いていた俺は敷地内に設置された自動販売機の前に立っている少女を見つけた。

「やあ」と俺は言った。
「君も補習だったのかい?」

「違うわよ。一緒にしないでちょうだい」と彼女は不満げに言った。
「だいたい、君って呼び方はやめてっていったじゃない。私には御坂美琴っていう名前があるのよ」
「わかったよ、美琴」
「それでいいのよ」
美琴は手に持っていた『苺おでん』を実に旨そうに飲んだ。


――――――――


美琴の好物はこの不気味な飲み物である。
彼女は初めて普通に話したときにも、公園に降り注ぐやわらかな日射しの下でそれを胃の中に流し込んでいた。

「この飲み物の優れた点は、」と美琴は俺に言った。「食事と飲み物が一体化していることよ」

そういうと彼女は飲み終えたスチール缶からプルトップを外してポケットに入れ、缶をごみ箱に放り込んだ。


――――――――


美琴は今日も缶からプルトップを外し、ポケットにしまった。



美琴は『超電磁砲』という名前を持っている。何度か見たことがあるが、金属片を能力で加速させて撃ち出しているらしいのだ。
そのためか、美琴にはそういった癖がついたらしい。

俺は以前「コインか何かでも良いんじゃないか?」と彼女に言おうとしたことがあったが、止めた。
彼女が何を使おうが彼女の好きにすべきだと思ったのだ。
レコードの針でもなんでも飛ばせば良い。彼女の自由だ。


「自由意思」と俺がふと呟いたのを聞いても、美琴は何も言わなかった。



美琴と少し他愛のない話をして別れ寮に帰ると、部屋の前に自動清掃ロボットが集まっているのが目についた。
近づいて見ると、そこには今朝見たばかりの少女――目次が横になっていた。

やれやれ。またどこかから落ちてきたのだろうか、と俺は思った。
今度は食材もある。何か食べさせてあげるのも悪くない。



しかし、彼女の真っ白だった修道服が赤く染まっているのを見て茫然とした。
頭の中で言葉が固まるまで長い時間がかかった。まるで頭の後ろを何かで思い切り殴られたような気分だった。

一刻も早く出血を止めてやらなくてはならなかった。
俺の部屋にはまともな薬も無く、たいした治療はできない。
外部の人間である目次を病院に連れていくとなれば、面倒な手続きに時間を取られることになるだろう。


俺は意識の無い目次の服を一度脱がせ包帯を巻き、近所に住む担任教師の家に連れていった。





翌朝の八時に目次はやっと意識を取り戻し、少し話せるくらいになった。
先生は目次と俺のために朝食を買いに出ていった。

「大丈夫かい?」と俺は言った。
「ええ、なんとか」
「君が言っていた魔術師にやられたの?」
「ええ、そうみたいね。私の持っている魔導書を奪いにきたの」

俺はその事がどうしても納得いかなかった。

「君は今、十万三千冊の本を持っているの?」
「そうよ。…いえ、『覚えている』のよ」
「『覚えている』?」
「そう。私は一度見たものを決して忘れないの。知識だけが延々と積み重なっていくのよ。そういうのってわかる?」

俺は大きな水槽に水が注がれる様子を想像した。水槽はあっという間にいっぱいになり、水はフローリングの床を濡らしてしまった。

「それより、君はどうして俺の部屋の前にいたんだい?」


「フードよ」
「フード?」と俺は言った。
「ええ」目次は申し訳なさそうに言った。

「あなたの部屋に『歩く教会』のフードを置いてきてしまったの。私、あなたに迷惑をかけてしまうと思って取りに行ったのよ」
結局もっと面倒なことに巻き込んじゃったけど、と言って目次は布団を被った。

「取ってくるよ」と俺は言った。
「いいわよ」
「いいから」
俺は返事を返して部屋を出た。



俺は歩きながら魔術師のことを考えた。

彼(彼女かもしれないが)はなぜ目次を攻撃するのだ?

そうだ、目次は危うく命を落としかねない所だったのだ。『魔導書』が狙いならもっと安全な方法を取るのではないか?

とすればだ。連中の狙いは何か別に有るのではないか?なんだろう?わからないな。

データが不足しているのだ。
なにかがそこから欠けているのだ。



そして、その疑問の答えは俺の部屋の前に立っていた。


部屋の前には見たことの無いような巨大な男が立っていた。男はコカ・コーラの缶のような真っ赤な髪を生やし、夏だというのに十月の夜の闇のようなマントを着ていた。
俺は彼が魔術師なんだろうな、と思った。魔術師はサハラ砂漠に行くときにも黒いマントを着なくてはいけないのだろう。

「目次のことだけど」と彼は言った。
「彼女は保護する必要があるんだ。なんとしてもね」

俺はすでに魔術師から逃げる気は無かった。逃げ回ったところで、俺の直面した――あるいは巻き込まれた――問題は解決しない。すでに自分一人の力ではどうにもならなくなってしまっているのだ。

「あなたは彼女の持つ魔導書を狙っているんですか?」と俺は言った。
男は少し驚いたような顔をして、俺の顔を見た。
「彼女は僕らにとって極めて重要な人間なんだ。君には感謝している。彼女が危うく死んでしまう所だったからね」
男は懐から煙草を取り出して口にくわえた。
「さっきも言ったけど、僕らは彼女を『保護』したいんだ」



「『保護』だって?」と俺は言った。

「そうさ。彼女の持つ魔導書は使い方によっては世界を滅ぼしかねない。僕らは違うけど、そういう目的をもつ連中に渡れば厄介なことになるんだ」と男は言った。

男の言うことには不思議な説得力があったが、ひとつ分からないことがあった。
「どうして目次に攻撃をしたんです?」
「『歩く教会』が守るはずだったのさ。どういうわけか働かなかったらしいがね」


なるほど。彼らは『幻想殺し』のことを知らなかったのだろうし、彼女が怪我をするはずがないと思っていたのだろう。

「あなた方は目次に何をするつもりなんです?」と俺は言った。すると男は少し考えるような素振りをして言った。
「彼女が『完全記憶能力』を持っていることは知ってるかい?」
「ええ」と俺は言った。

「彼女の脳は限界に近づいているんだよ」


「限界?」と俺は言った。
「そうさ。十万三千冊の魔導書の記録は彼女の脳の記憶容量の大部分を埋め尽くしている。『忘れる』ことができない彼女は一年ごとに記憶を消してやらなくてはいけないんだ」

俺は頭の後ろを壁につけ、ぼんやりと天井を眺めながらズボンで手のひらの汗をぬぐった。ひどく混乱していた。たぶんひどい顔をしていることだろう。

少しして混乱が収まってくると、今度は腹が立ち始めた。何もかもがグロテスクで間違っているような気がした。目次は何のわけもわからずに渦中に立たされているのだ。

俺は心の中が重油が海面に広がるように陰鬱なもので覆われていくような気がしたが、それでも全てを何もかも放り出してしまうわけにはいかなかった。
何もかも放り出すには既に深入りし過ぎていたし、何より俺は彼女を何とか救ってやりたかったのだ。



「…彼女にはあと何日の猶予があるんですか?」と俺は声を震わせながら言った。
「三日ほどだ。それまでに彼女の記憶を消す準備を終わらせる」と男は言った。
「準備?」
「ああ、あらゆる魔術には準備が必要だ」
「記憶を消す以外に何か方法は無いんですか?例えば、記憶を一時的に他の所にうつしてやれば良い。外付けのハード・ディスクみたいに」
「簡単にいうけど、そんな方法がどこにあるんだい?」

「魔術なら無理かもしれない。でも科学ならあるかもしれないんです」と俺は言った。
「記憶を消す前に目次を預からせてください。俺は彼女を救いたいんです」


男は喉の奥で小さな音を立てた。
「僕は今、非常に正直に語っている。それは君が目次を助けてくれたことに対する僕なりの返礼だと思って欲しい。」
俺は黙って頷いた。
「そして僕は君の提案について答えることにする。しかし僕がそれを語り終えたときには、君に残された選択肢は極めて狭く限定されることになるだろう。それは理解してほしい。簡単にいえば、『君が賭け金を吊り上げた』んだ。いいね?」

「仕方ないでしょうね」と俺は言った。


男と別れ目次のいるアパートへ向かう間、俺はこれからやるべきことを考えた。

男――彼はステイルと名乗った――は俺に条件を出していった。

ひとつは『目次』の身体に危害を加えないこと。
もうひとつは結果がどうなっても三日後の夜には『目次』を引き渡すこと。
はっきりと言わなかったが、その条件を守らなければ彼は俺を何らかの形で破滅させるようだ。賭け金を吊り上げた、とはそういう意味だろう。

少なくとも俺はこの条件を課されたことで、彼に対して好感を持った。きっと彼もなんとか目次を救ってやりたいのだろうと感じたのだ。

何はともあれ目次を救う決意を固めたことで、気分は不思議なほど良くなっていた。
アパートに着く頃には街はもう淡い藍色の夕闇に覆われていた。



部屋に入ると、机の上に先生の残していった書き置きを見つけた。仕事がある・夜までには戻る、と書いてあった。
俺は目次の寝ている布団の横に座り、部屋の中を見回してみた。缶ビールと雑誌がいくつか床に転がっていることを除けばさっぱりとした部屋だな、と思った。

俺が冷蔵庫から昼に買っておいたオレンジ・ジュースを取り出して飲んでいると、しばらくして先生が帰ってきた。
「急に仕事が入ったの。全く嫌になっちゃうわ」と先生は言った。










「あの子の様子はどう?」と先生は俺に優しい声で言うと、冷蔵庫から缶ビールを取り出して僕の向かいに座った。

「良く眠っていますよ。」と俺は言った。実際、目次の怪我は出血のわりには大したものではなかったのだ。

「お酒が飲めるのってやはり楽しいんですか?」と俺はコップを回しながら言った。
「どうかしらね」と先生は言った。
「昔から飲んでいるからなんともいえないわね。比べようがないから」
そういうと先生は床に散らばった空き缶を払いのけ、リモコンを拾い上げてテレビを点けた。
テレビが『宇宙戦争』という映画をやっているのを観て、つまらなさそうにビールを飲んだ。



俺は先生がテレビを眺めている間、魔術師のことを相談するか考えていた。
ある程度の協力を依頼することは必要だろう。しかし、彼女まで『混沌』に巻き込むことは出来ない。

そして目次……何も知らないでいる彼女に事情を話すべきだろうか?話すべきなんだろうな。彼女はあまりにも孤独に晒され過ぎている。彼女だけが何も知らされないというのはフェアじゃない。
俺は机を叩いて「不公平だ!」と叫ぼうかと思ったが、もちろんやらなかった。そんなことをしても何も変わらない。


「何を悩んでいるの?」と先生は言った。


あまりに突然だったので、俺は一瞬先生が何のことを言っているのかよく分からなかった。

「突発的な感情の処理について」と少し間をおいて俺は言った。
「感情の処理に上手い方法は見つかった?」
「いいえ」
「吐き出してしまえば良いのよ。『王さまの耳はロバの耳』みたいに」と先生は微笑みながら言った。
まるで俺の悩みを既に知っているような笑顔だった。
やれやれ、と俺は思った。結局のところこの先生に隠し事なんて出来やしないのだろう。
俺は目次が捲き込まれ、そして今飲み込まれつつある問題について、魔術のことは避けながらもほぼすべてを吐き出した。


説明には実に一時間近くを費やした。俺はその間にジュースを三杯飲み、先生はビールを二缶空けた。

「あなたずいぶん奇妙なことに捲き込まれているのね」と先生はため息をついて言った。
「はい」

「なんてことないじゃない。放っておいて大丈夫よ。あなた、記憶術は落第ね」
俺は思わずつばを飲んだ。先生はビールをひと口飲んで言った。
「いい?人間の脳には元々140年分の記憶が出来る容量があるの。だから1年ごとに記憶を消す必要は無いし、そもそもそういった『思い出』っていうのは脳の中で無限に蓄積されるものなのよ。百科事典棒のようにね」

「百科事典棒?」と俺は言った。聞いたことがない。


「百科事典棒っていうのはどこかの科学者が考えた理論の遊びよ。百科事典を楊子一本に刻みこめるっていう説のことね。どうするかわかる?」
「わかりません」

「簡単なの。まず百科事典の文章を全部数字に置き換えるの。Aは01、Bは02、ってね。そしてそれを並べた一番前に少数点を置くの。」

俺は頭の中で大量の数字を並べた。0.4268721569…。

「そうするとすごく長い少数点以下の数字が並ぶわね?次にその数字にぴったり相応した楊子のポイントに刻み目を入れるの。0.5000…なら半分、0.3333…なら前から三分の一。わかる?」

僕は半分より少し下に刻み目を入れ、黙って頷いた。

「そうすればどんなに大量の情報でもひとつのポイントに刻み込めてしまうの。もちろん、これは理論上のことで現実には難しいけど、頭の中ではそれが行われているのよ。」
イデアとしてね、と先生は言って、ビールを飲んだ。
なるほど、実に分かりやすい説明だ。

                                        つづく

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最終更新:2011年02月24日 17:26
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