上条「まきますか?まきませんか?」(7)


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白井の言う"感じのいい店"は、美琴から見ても、高評価を下せる場所であった。

 外見はどこか古ぼけた洋風の小さな店だったが、内装の方はというと派手すぎず地味すぎず、ちょうど英国のバーのような控えめな洒落っ気を持っている。

 にも関わらず暗い感じがしないのは、調度品がほどよく明るい色で揃えられ、ランプ(のような電灯)が温かみのある光を落としていたからだろう。

 昼時にも関わらず、それほど広くない店内には彼女たちしか客の姿はない。店主兼コック兼ウェイターである初老の男性も、気を利かせてなのか、それとも元々そういうタイプであるのか、注文を全て出してからはカウンターの奥に引っ込んでいた。

「それで、お姉さま」

 紅茶で満たされたティーカップを口元から下ろしながら、白井は正面に座る美琴を見た。

 二人がけの丸い木製テーブルには、もう食べ終わった皿は残っておらず、あるのは自家製らしいクッキーが一山と、それぞれの紅茶だけである。

「ん? なに?」と、美琴。浮かんでいるのは明るい微笑みだ。

 茶葉も上質、煎れ方も上手い。近場であれば常連になったかもしれない味に、美琴の機嫌もよいようだった。

「いえ、この後はいかがしますの? もしもどこかのショップに寄ると言うのでしたら、わたくしがお送りいたしますが」

 敬愛する(白井の場合はそれ以上の)相手が上機嫌であれば、自然とこちらの感情も上向こうというもの。我知らず笑みを零しながら、白井はそう提案した。

 ここに来る道中、ゲコ太グッズがなんとか言っていたような気がする手提げバックは、いまも美琴の足元に置かれている。

 趣味に対する感想はともかく、白井としては美琴の手助けになれることは問題はない。というか、むしろ歓迎すべきことでもある。



「そうねぇ。それもいいんだけど」

「あ、こちらのことでしたらお気になさらないでくださいまし。集合時間までは十分にゆとりがありますので」

 時刻はまだ夕刻にもなっていない。集合時間はまだまだ先だ。

「あー、でもごめん黒子。ちょっと遠慮しとく」

 しかし美琴は少し申し訳なさそうに首を横に振った。

「……何かご用時がありますの?」

 軽く眉根を詰める白井。

 まさかあの類人猿と……などという考えが頭をよぎるが、それにしては口調にも表情にも『それ』らしさがない。大体の場合、どこか口ごもるか、(口惜しいが)可愛らしくモジモジとしているというのに。

「ううん、というか、私の都合がね」

 美琴の方も白井の思考を察したのだろう。口元に微苦笑を浮かべた。

「この後、依頼があった研究施設の方に顔を出さないといけないのよ。まぁ大した用事じゃないらしいんだけど、出来れば立ち会ってほしいって」

「そ、そうなんですの」

 美琴に限らず、高レベル能力者というのは、とかく研究協力の依頼が多い。かく言う白井も、学園都市では珍しい部類に入る空間移動系能力者であるため、実験協力は結構な頻度である。

 もっとも、風紀委員の仕事があるため、その大部分は断っているのであるが。

 白井でもその有様なので、美琴となるとその頻度はさらに多い。レベル5は能力的に軍と対等に遣り合えるという物理的な攻撃力かそれに類似する『威力』も条件だが、それと同等に、能力特性が稀有ということも条件のひとつだ。

 比較的有り触れた能力である電撃使いであっても『超電磁砲』の出力や応用力は他の類似能力と比肩するものではないのである。
「うん。そこに行く途中でショップを探そうと思ってるからね。今日のところは歩いて行くわ」

「そう、ですの」と、白井。

 やんわりとは言え、申し出を断られたのは、それなりに寂しい。別に美琴に悪意も含むところもないのであろうが、それとこれとは別な乙女心なのである。それが純か不純かは置いておいて。

 そんな白井の様子に、美琴の笑みは微苦笑から本当の苦笑に移行する。

「でさ、黒子」

「は、はい?」

「……もしかしたら今日、実験で遅くなるかもしれないから、もし仕事が終わってたら、電話するから迎えに来てもらっていい? あ、もちろん、深夜になりそうなら、ホテルとるし」

 そんときは寮監をごまかすのをお願いするわ、とも言葉を追加。

「はぁ、それは構いませんが……でもなぜそのようなことに? 実験協力とはいえ、深夜に行われるんですの?」

 基本的に能力者は学生である。風紀委員でも夜間出動は特例扱いであるのに、実験協力まで夜間というのは珍しい。それにそういう事情があるなら、きちんと申請すれば寮監も否とは言わないはずであった。
「……」

 白井の瞳が、心配そうな色を帯びる。

 だが美琴は、違う違う、と首を振った。

「空気中の伝導率の違いを計測するから、夜にかけて行いたいんだってさ。申請の方は、たんに手続きのミスよ」

「ミス、ですの?」

「そ。今日から連休じゃない。いつもの週末の癖で、外泊申請の締め切り早いの、忘れてたのよね」

「……まぁ、そういうことでしたら」

 まだどこか不承不承という感じだが、白井が頷いた。

「ごめんね黒子」

「い、いえそんな、頭なんか下げないでくださいまし! わたくし、困ってしまいますの!」

 わたわたと手を振る白井。

 敬愛する相手に頭を下げられては、そう言うしかない。

「……」

 だから、気がつかなかった。

 白井にも見えたであろう、頭を上げる直前の美琴の表情が、迎えをお願いするだけにしては、やけに強い罪悪感に彩られていたことに。

 

 

 

 

数時間後――――。

 白井と別れた美琴は、駅前のロータリーにいた。

 休日の駅前は、日が傾きかけても人の量は減りそうにない。

 ロータリーに設置されたベンチに腰掛けた美琴は、行き交う私服姿の学生たちを見るとはなしに眺めながら、

「……ごめんね、黒子」

 と、呟いた。

 気まずそうな表情のままで、足元の手提げバックを膝の上に移動させた。 はぁ、とため息をひとつ。それから、手提げバックのファスナーをあけた。

 そこから出てきたのは、ゲコ太関係のパンフレット――――などでは、なかった。

 出てきたのはノートパソコンである。

 A4サイズの、薄型のPC。長い駆動時間と高機能を兼ね備えた、学園都市市販品でも最新モデルだ。

 しかしそれは、既製品とはやや形状が異なっていた。

 美琴が自分のために手を加え、大出力の自分の能力でもトバないように設えた『超電磁砲』用の端末である。

「……」

 それを立ち上げ、キーボードの上に手を置く美琴。そのまま、目を閉じた。

 彼女の表情からは先ほどまでの罪悪感は消え、代わりに年齢らしからぬ、並々ならない決意が浮かび上がっている。

 美琴の両手から放射された電磁波がパソコンを直接操作し、この近辺のネットワークを補正する。その過程で、自らが発信元と特定されないように細工を施した。

 真っ黒のディスプレイに、高速で文字列が流れ始める。それはもはや人の目で追うことは叶わない速度であったが、もしもここに『守護神』と呼ばれるハッカーがいれば、何をしているのかは看破しただろう。


「……」

(ごめんね、黒子)

 心中でもう一度謝罪し、美琴はパソコンに処理を流し続ける。

 何十にもかけられたプロテクトを片っ端から解除し、数分のうちに美琴は目的の位置にたどり着いた。

 通常ならばこの段階でシステム管理者に見つかって、なんらかの対応がとられるに違いない。しかし、今日はそれがなかった。

 目論見どおりだ。

 そしてノートパソコンに、美琴の望む情報が降りてくる。

「……」

 美琴がアクセスしているのは『書庫』ではない。

 『書庫』へのハッキングは、以前に一度痛い目を見ている。実際に痛い目だったのは、サーバを丸ごと潰した相手側だったのかもしれないが、まぁ、目的の情報を得られなかったという意味では、痛い目である。

 だから今日、該当地区の風紀委員が総出するであろうこのタイミングなら、プロテクトは手薄になると踏んだのだ。それが『書庫』以外の場所であれば、なおさらだろう。

 クラック先は『書庫』以外で、おそらく望む情報が存在するであろう場所――――常盤台中学校の全情報を管理する、専用サーバだ。

「……見つけた」

 美琴は閉じていた目を開き、ディスプレイに表示された文字列を睨むように見た。

 

 







『電撃使い襲撃事件』







「……」

 今朝、いきなり学長に呼び出され、注意というか警告を受けたときのことが鮮明に思い起こされる。

 学長の言葉は『超電磁砲』に注意喚起を促すと言うよりもむしろ、この件に首を突っ込むな、という警告の意味合いが強い。

 名門常盤台としてみれば、貴重な超能力者を失うわけにはいかないのだ。

 美琴としても、その言い分は理解できる。私立の学園には、そういうステータスは重要なのだから。

(でも)

 美琴が目を細めた。 

 だからと言って、見逃すわけにはいかない。

 電撃使いだけが狙われるというのであれば、それは間違いなく、自分に対する何かしらのアプローチだ。
「……」

 白井のことを思う。

 彼女がこの件をまったく自分に伝えなかったのは、こういう状況を作り出さないための措置だろう。昼の店で浮かべたあの表情も、こんな結果を予期してのものに違いない。

 過去に一度、いや、二度、『妹達』がらみで美琴は白井に黙って暗躍(言い方はともかく、実際そうだ)している。

 今日、彼女が昼食に自分を誘ったことも、おそらくは――

「……黒子。アンタが逆の立場だったら、きっと同じことをするわよね」

 画面が自動的に情報を表示し、美琴の望むもの――傾向と分析から導き出された『被害予想者』と、風紀委員による秘匿の警護対象者、そして襲撃予想地点を記した地図が表示された。

「……」

 いままでの襲撃時刻は、概ね日が沈んだ後だ。今は夕刻にもまだ間もない。

 だが美琴は立ち上がった。

 年齢らしからぬ、しかし、極めて彼女らしいとも言える、凛々しさを秘めた表情で。

 

 

 

 

 

 

 ガサリ、と脚に当たったビニール袋が、路地裏に軽い音を響かせた。

「あぅ…」

 通常であれば、ビニール袋に脚をかけたところで転ぶ者はいない。

 しかしいま、そこに放置されていた酒やらつまみやらが入った袋は、それなりの障害物になっている。

 だからその彼女は、ふらりと体勢を崩すと、バタリと地面に倒れこんだ。

 もはや手をつく力もない。

 白い肌と長いブロンド、そして高価そうなドレスが、ダイレクトに汚れたアスファルトにたたきつけられた。

 一瞬だけ持ち上がった彼女のスカートが、すぐに重力に囚われ、ふわりと横たわる少女の脚を隠す。半眼だけ開いた瞳に、同様にずれ動いた前髪がかかった。

「……?」

 少女――――雛苺は、自分がなぜ倒れたのかも理解できていないような表情を浮かべた。

 季節的に周囲はそろそろ薄暮から夜に落ちてくる。それでもなお彼女を照らしているのは、周囲をふわふわと飛ぶ、桃色の光球のせいだ。

 もっともその光も、電池が切れる寸前のライトのように、弱弱しいものでしかない。時折、ふっ、と光は暗くなっては高度が落ちようとするが、そのたびになんとか持ち直している始末だ。

 もう力尽きる寸前というのは、誰の目にも明らかだった。

 

「ぅ…うぅ…?」

 路地裏。その、わずかに入り組んだ先。

 たまたま設置されていたカーブミラーから湧き出るように現れた雛苺だったが、それが彼女の限界だった。小萌から奪った力は逃走時に使い切り、残されたゼンマイはあと僅か。

 もはや立ち上がることも、這いずり回ることも叶わない。それどころか、思考能力すら消えかけている。

 それでも彼女は死ぬことはない。彼女は人ではなく、人形なのだ。

 訪れるのは眠りか、あるいは破壊だけである。

「……」

 徐々に、雛苺の瞼が閉じられていく。それに応ずるようにして、ベリーベルが高度と光量を落とし、彼女の背中に降り立って――否、落下していった。

「……」

 そしていまこそ、雛苺が両の目を閉じようとした、そのときだ。
ザッ、と擦過音が響いた。



 音は、パンプスか何かの裏が、アスファルトの砂を踏みしめた音。

 方向は雛苺の頭部側、『鞄』のある方向からだ。そして『鞄』は路地の最奥に鎮座している。

「…?」

 誰かが、いる。

 その事実を、雛苺はどういうことなのか認識できない。もうそれだけの思考力は残されていない。

 それでも薔薇乙女の持つ、極限まで人間に近い本能が、彼女の顔を持ち上げさせた。主の意思を反映させたのか、ベリーベルがほんの僅かだけ光を取り戻し、路地奥を照らし出す。

「……」

 茶色のパンプス、白い靴下。細い脚と、チェック模様のスカート。

 ベージュのブレザーに、胸元には赤いリボン。

 誰かが、立っている。

 そしてその誰かを、雛苺は知っていた。

「…お…ねぇ…ちゃ…」

 と、途切れ途切れの声で雛苺が言った。
「……」

 人影は、その声に、一度だけ首を振った。あたかも、やれやれ、と言うような風情の仕草に、茶色のショートヘアーが花を模したヘアピンとともに、パサリと揺れる。

 それから人影は、一歩、脚を踏み出した。

 人影の左手に下げた学生鞄。それにくくりつけられた蛙のストラップが、ベリーベルの光に照らされ、妙な色を持って薄暗闇の中に浮かび上がっていた。

「……」

 人影は雛苺を助けようとしない。しゃがみこむこともなく、見下ろす姿勢のまま、微かに動く桃の少女を見下ろしていた。

 やがて。

「……」

 人影の空いた右手がゆっくりと持ち上がった。人差し指だけを伸ばした右手の先端は、迷いなく雛苺に向けられる。

 パチパチと空気が弾ける音。人影のショートヘアが余波を受けて持ち上がり、前髪から小さな電撃が漏れ零れた。

 全身から生み出された紫電は流れて右手に集中し、パチパチと音をたてて溜まっていく。そんな右手の親指に乗っているのは、どこかのゲームセンターで手に入れたコインか何かだろうか。
「……?」



 ―――!



 もはやそれがなんなのか、雛苺にはわからない。

 主よりも危険を察知しているベリーベルは、しかしもはや浮き上がる力もなかった。

「……」

 人影の口元が、ニヤリ、と笑みを形作る。

 指先で紫電が、ジジ、とやけに静かな音をたてた。

 数秒。

 ドン! と音が響き、路地中が、一瞬だけ青白く染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

その路地の、直上十数メートル。

 そこに音もなく滞空しているモノがある。



 ―――……





 赤い光を極限まで抑えた光球。

 微動だにすることなく、それは浮いていた。

 ……まるでその光景を、確認しているかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時刻がそろそろ午後10時を告げようとするころになると、道を歩く人影の量はかなり少なくなっている。

 学園都市において、夜は時計ではなく、規則に支配されているのだ。

 太陽が傾いて水平線に沈んだ後が夜のはじまりというよりは、門限を過ぎてからが学生にとっての『夜』である。学校によっては門限以降の外出を一切禁じているところが存在している以上、そうなるのも自然なことなのかもしれない。

 それに馴染まない者はすべからく、スキルアウトと呼ばれていた。

 とはいえ学校ごとに門限には差があり、それなりに遅くなっても問題のない者も、少なくはなかった。

「ふー」

 ジーンズのポケットに手を突っ込み、上条は大きく息を吐き出した。

 彼もそんな『少なくない』学生の一人である。

 彼の在籍する学校の校風は、彼の担任が目指すように、生徒の自主性を重んずるというものだ。流石にもう後一時間もすればまずいが、今はまだ大丈夫な時間帯であった。

 そんな彼がいまいるのは、学生寮からほど近い公園だ。

 親子連れというものが極端に少ない学園都市においてどれほどの意味合いがあるのかよくわからないが、砂場にアスレチック等、とりあえず一とおりの施設は揃っており、木立もきっちりと刈り整えられている。結構な頻度で手入れをされているのだろう。

 そんな無駄遣いといわれても納得できそうな公園であるが、いまは上条しか人影はなかった。

「……」

 上条はひとしきり周囲を見回した後、何気ない仕草で空を見上げた。

 夕方くらいまで快晴だった空は、今は夜と薄い雲にその青さを奪い去られている。

「……明日は曇りだって言ってたっけなぁ」

 部屋を出る直前にインデックスがつけたテレビ――――アニメを見るためのものだが――――を思い出しながら、上条は呟いた。
デパートでの戦いの後。

 上条たちは救急車を呼び、小萌を病院に搬送した。

 いつも世話になる蛙によく似た容貌の医者によれば、小萌の昏睡の原因は極度の疲労であるとのことだった。

 幸いにも命に別状があるほどではなかったが、数日の入院を要するという診察である。病状に至るまでの説明は不要。こちらが言いにくそうな仕草を見せた途端「まぁいいけどね」と深くは聞いてこなかったのである。

 だがいま上条の顔を曇らせているのは、小萌を巻き込み、あまつさえ入院までさせてしまったことだけではなかった。



「雛苺は、あんなことをする娘じゃないのだわ」



 真紅が言った言葉が思い起こされる。

 どういう配慮なのか、何も言わずとも個室で手配された小萌の病室で、真紅はその美麗な顔に迷いと哀しみを浮かべて、そう言ったのだ。

 詳しいことは彼女は語らなかった。

 『前回』、真紅は雛苺と戦い、勝利したこと。

 『前回』、真紅は共に在れる未来のために、雛苺のローザミスティカを奪わなかったこと。

 『前回』、それでも別の姉妹に狙われた雛苺は、真紅の願いのために、己のローザミスティカを託したこと。

 そして何より『前回』、短い期間だが共に暮らした日々は、創られてから戦いあうことしかなかった真紅にとって、本当に楽しく、目指した理想の一部であったということ。

 一方、雛苺の復活と壊れてしまったかのような変化については、真紅にもわからないとのことだった。
 
 ただ、雛苺から託されたローザミスティカが己の中に無いことから、彼女が復活したことに疑いはなく、そしておそらく、彼女の言っていた『お姉ちゃん』なる人物が復活に関与しているのだろう、とも。

 その辺りのことは、雛苺を追いかけたホーリエが帰還すれば、ある程度情報が手に入るのかもしれなかったが、残念ながらいまだ紅色の人工精霊は戻ってきていなかった。
「・・・・・・」

 『前回』の日々を語る彼女は懐かしくも楽しい思い出を語るようで、それがゆえに、現状を省みるにはむしろ哀しげな表情であったと、そんな感想を上条は抱いたものだ。

 その真紅はいま、上条の部屋にいる。

 水銀燈との戦闘でボロボロになっていた上条の部屋をなんだかよくわからない魔術で修復した影響なのか、それともそれ以上の説明をしたくなかったのか。

 午後9時になった途端、

「眠りの時間なのだわ」

 と、それまでのシリアスで哀しそうな雰囲気を吹っ飛ばして鞄に入ってしまったのである。

 結局、真紅からの説明でわかったことは、真紅自身にもいまの状況が不可解なものだ、ということだけであった。

(…どういうことなんだろうな、まったく)

 そんな風に思う。

 インデックスすらほとんど知らない薔薇乙女のことだ。その当人である真紅に理解できないことが上条にわかるはずもなかった。

「ま、どっちにしても、できることは決まってるんだけどな」

 自分のスタンスは決まっている。

 信じ、護ること。たとえ出会って一日も経過していなくとも、上条にとって真紅はもう護るべき対象の一人だった。それは同時に、彼女が護ろうとするものも、上条が護るべきものであるということ。

 たとえ裏切られても、呆れられても、きっと今までそれでやってきて、きっと、これからもそうしていくに違いないのだから。

 苦笑を浮かべ、上条は右手を握りこんだ。

 そこに――――

「上条くん。」

 背後から、声。

「姫神?」

 聞き慣れた声ということ以上に、元々ここに呼び出した相手の声に、上条は振り返った。

 肩越しの視線の先には案の定。

 姫神秋沙という名の、長い黒髪の少女が立っていた。

 

 

 

 

 

ドアを抜け、人が5人は通れそうな暗い通路を歩いてたどり着いた室内は、薄闇に包まれていた。

 埃と淀んだ空気に満ちた部屋に入った足音は、ふたつ。

 片方は薄闇の中でなお美しいオッドアイを持つ、蒼星石。

 もう片方は陰鬱な雰囲気とは相反するような、明るい白と青のセーラー服だ。

 学生用というよりも船員に近いその服をまとった少女は、ほとんど調度品のない部屋を横切り、窓際に置かれた椅子に腰掛けた。

「……間に合わない、わね」

 言いながら脚を組むセーラー服。ショートカットの前髪から覗く切れ長の目は、冷静なように見えて、悔しげな光を湛えている。

「何がですか?」

 セーラー服とか対照的に、ドアを入ったところで脚をとめた蒼星石が問うた。

「人形造りよ。どうやっても、やっぱり明日まではかかる。悔しいけれど今夜は予定通りに行くわ」

「……どういう意味ですか?」と、蒼星石。

 こたえは返ってきたが、内容のすべてが把握しきれない。

 人形造り、というところから考えて、あの『結界』で使うための人形を作っているようだが。

「……」

 二度目の質問に、セーラー服はこたえない。返答代わりに舌打ちをして脚を組み替えた。

 質問が煩わしいというよりも、返答内容自体が気に食わない、という感じである。
「……」

 これ以上は問うまい。

 そう判断し、口を閉じる蒼星石。

 しかし、

「……ねぇ、蒼星石」

「は、はい、なんですか?」

 そう思ったら向こうから話しかけて来た。思わず吃音がでてしまう。

 セーラー服は蒼星石らしからぬ返事に軽く眉をあげるが、特に気にしなかったらしい。そのまま、言葉を続けた。

「……貴女がいままで奪った記憶は、解放しない限りは持ち主に戻らないのよね?」

「ええ」

「そう」

 それだけ確認して満足したのか、薄い微笑を浮かべるセーラー服。

「……」

 蒼星石はセーラー服の命令で、この能力を使ってきた。

 奪ったのは主に能力使用にまつわる記憶と、その使用にかかる意思だ。それらを奪われた者は能力の大半を使えなくなってしまう。

 体が覚えていることでもあるので、発動までは可能だが、積極的に用いるべき知識と意思がなければ、全力を出せないのは道理である。

「……」

 一方、こちらは何を考えているのか。
 
 セーラー服は沈黙したまま蒼星石を横目で見て、それから天井に視線を移した。

 シミやひび割れが多く残る天井は、あたかも蒼星石が切り取ったあとの記憶を想像させる。

 一度かけた部分はもう直らない。たとえ上から修復しても、それは元通りであるとは言えないだろう。
(……じゃあ彼女から能力だけでなく、御坂美琴の記憶も奪ってしまえばいいわね)

 セーラー服の口元が、笑みの形に歪んだ。

 脳裏に昼間に目にした御坂美琴と白井黒子の姿が思い起こされる。

「……」

 彼女らの間に横たわる親しげな空気と、笑顔。

 口ではあれこれ言っていたが、お互いがお互いを大事に思っているであろうことは、一目瞭然だった。

 特に白井黒子から御坂美琴に向けられる想いは、ただの尊敬を超えている。

 御坂美琴が白井黒子に向ける笑顔も、同年代の他の友人たちとは一線を画すほどの親密さがあった。

「……」

 セーラー服の胸に、どす黒い感情が湧き上がる。

 悪魔のように黒く、地獄のように熱く、しかし接吻とは程遠いその感情は、嫉妬と言う名前がついていた。



 ……いつからだろう。



 いつのころからか、もうわからない。

 気がつけば虜になっていた。気がつけば、御坂美琴のことばかりを考えるようになっていた。

 まったく関係がなく、本当に接点などない。

 雑誌で見たのか、それとも街中で見かけたのか、それすらもわからない内に、いつの間にかセーラー服の中で御坂美琴は、彼女の中心ともいえる存在として認識されていたのである。

 レベル5。

 学園都市第3位。

 『超電磁砲』

 名門常盤台中学のトップにして、派閥に与さず、しかし孤高とは程遠い存在。

 そんな彼女の異名や噂を聞くだけで、心が疼いたものだ。他人から彼女への賞賛や妬みを聞くたびに、そんな口で彼女を語るな、と強く思ったものだ。
「……」

 きゅっ、とセーラー服は唇を噛む。

 出来れば彼女の隣に並び立ちたかった。出来れば彼女と笑みを交わせる存在になりたかった。それこそ、昼間に見た白井黒子のように。

 だが無能力者である自分では、彼女の傍に立つことなど恐れ多くてとてもできない。たとえ御坂美琴がそれを許しても、自分自身が耐え切れないだろう。

 自分が立てない以上、他の誰が立つのも嫌だ。

 学園都市の序列はともかく、電撃使いというくくりにおいて、彼女と双璧をなす存在など、認めたくはない。

 誰も立たせたくない。

 ならば電撃使いを消せばいい。

 そうすれば御坂美琴は『超電磁砲』ではなく『電撃使い』として最大級の賛辞を受けることになる。自分だけでなく誰もが彼女を見上げる存在になるだろう。

「……」

 セーラー服は想像する。強能力者以上が力を失い、彼女だけが『電撃使い』の賛辞を受けることになった姿を。

 無能力者や低能力者、異能力者等から絶対の尊敬を受ける彼女を夢想したセーラー服の口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。

「……」

 セーラー服は己の右手を見た。

 無能力の自分では、とても高レベル能力者を倒すことなど叶わない。

 魔術を知ったのは、本当に幸運だったと思う。御伽噺やおまじないのレベルではない、奇跡を起こせる魔術を。

 魔術と薔薇乙女。この二つがあれば、十分に高レベルでも戦うことが可能だった。事実、彼女たちはすでに10人を超える強能力、大能力者を叩き潰しているのだ。

 能力者しかいないこの都市において、自分たちを補足するのは、不可能に近いだろう。己が望みが成就するまでには時間がかかるが――――決して、無理ではないのだ。

 そんな暗い欲望を夢想するセーラー服の耳に、

「……でも」
 
 と、蒼星石の声が入ってきた。
「?」

 セーラー服が再び蒼の方を見る。

 蒼星石はやや迷うように視線を泳がせてから、

「翠星石が介入したら、記憶が戻るかもしれません」

 と、言った。どうも先ほどの問いかけの続きらしい。

「……」

 セーラー服の両目が不快そうに細められ、その唇からは、ふっ、とため息が吐き出された。

「翠星石、ね。あの娘、いったいどこに行ってしまったのかしら。貴女の方にあれからコンタクトは……まぁ、貴女なら、接触があったら私に言うわよね」

「……」

 蒼星石は沈黙を返すが、それは肯定の意味である。

「能力を使った形跡はない?」

「……はい。もし彼女が夢の扉を開いたりすれば、僕にも察知できますから」

「そう。でもまぁ、もうそろそろ最初に巻いたネジも尽きるころでしょうし、能力なんて使ったらそこで終了。……障害らしい障害にはならないわね」

 契約者でも見つければわからないけど、とも呟く。しかし彼女の口調と表情は、そんなことはありえない、と語っていた。

 ここは能力者の街だ。迂闊に魔術と接触をすれば、能力者の身体がただではすまない。それに科学に対する信仰に塗れたこの都市で、翠星石の話をまともに取り合う者もいないだろう。

 結局、自分たちと袂を分かった時点で、翠星石は手詰まりなのである。

「……蒼星石」

「はい、マスター」

 こたえる蒼星石の声は淀みない。それが何かを押し殺しているものかどうかは、セーラー服にはわからない。

 だがセーラー服は、そんなことには興味がなかった。
「今夜は予定通りに動くわ。準備をお願い」

 蒼星石も強いとはいえ、単身で相手にできるのは強能力者の上位までが限界だ。

 人形と結界。それに加えて『偶像の理論』。大能力者と戦うには、どうしても『偶像の理論』を用いた共振効果――――相似の固体、状況は一定条件化では相互に影響を及ぼす現象――――を使う必要がある。

 調べたところによると、白井黒子は大能力者だ。それも、空間移動と言う、学園都市でもかなり希少な能力の持ち主である。

 物理的な攻撃では対処が難しい。相手にするにはどうしても共振効果のための人形が必要で、しかしそれは厳密に用意しなければ意味がない。

 全力で作業をしているが、流石にこの短時間での準備は無理だった。

 一刻も早く御坂美琴から引き剥がしたい。しかし、焦ればすべてが水の泡だ。

「わかりました」

 頷き、蒼星石が部屋を出て行く。

 体重が軽く、廊下を歩いても足音のしないその背中を見送ってから、

「まったく、翠星石にも困ったものね」

 セーラー服は、やれやれ、と肩をすくめた。

 それから、窓の外に視線を向ける。

「ねぇ、貴女もそう思うわよね」

 ニヤリと笑い、

「水銀燈?」

 と、言った。
「……」

 窓の外。

 外開きの窓には、小さいテラスのような出っ張りが設えられている。

 そこに、セーラー服に背を向ける形で腰掛ける、銀と黒の人形の姿があった。

「……ふん」

 ちらり、とセーラー服に視線だけ向ける水銀燈。窓は閉じたままだが、ガラスは薄く、距離は近い。会話するのに障りはなかった。

「気安く話しかけないでもらえるかしら? 生憎と、こっちは馴れ合うつもりはないの」

 鼻で笑うような、かつ、めんどくさそうなその声に、セーラー服は苦笑。

「その割には、私のお願いどおり気配を消してくれたのね」

「お馬鹿さぁん。そうじゃないと蒼星石に気がつかれるじゃない。いまこの場であの娘と戦ってもいいけど……取引を持ち掛けたのは貴女の方でしょう?」

「ええ、そうね」

 そう言って、脚を組み替えるセーラー服。

 そのまま、左手側に視線を向けた。

「……」

 出入り口から言えば右側の、ドアに遮られて光が届かない薄闇の中に、いくつかの人影がある。

 それは一体を除いてほとんどが床に転がっており、中には関節でも砕けたのか、手足があらぬ方向に向いているものもある。

「……」

 転がっているのは、全て人形である。それも、セーラー服自身を模している物だ。

 自分の代わりに魔術のダメージを受けるもの。能力者が魔術を行使すれば必ず受ける反動を、『偶像の理論』により肩代わりしてくれている人形たちの状態を確認して、セーラー服は、まだ大丈夫ね、と呟いた。

 それから彼女は、唯一立った姿勢を保っている人形に目を向ける。

 その一体だけは、セーラー服の姿を模したものではない。
茶色のパンプス、白い靴下。細い脚と、チェック模様のスカート。ベージュのブレザーに、胸元には赤いリボン。



 御坂美琴の生き写しのような、寸分違わぬ人形が、そこに立っていた。



「……貴女が私の指示どおり御坂美琴の相手をすれば、蒼星石のローザミスティカを渡す。……不満はないでしょう?」

 御坂美琴の人形に視線を注ぎながら、セーラー服が言う。

「ふ、ん。指示どおりってところが気に入らないけれど、まぁいいわぁ」

「ええ、お願いね。……絶対に命の危険に晒さない。絶対に顔は傷をつけない。約束よ?」

「……わかってるわぁ」と、水銀燈。

 窓を挟み、なおかつ背中を向けた水銀燈からはセーラー服の表情は見えない。

 しかしセーラー服の声に含まれた一種異様な雰囲気に、不快げに表情を歪めるのを止められなかった。

「……」

「……」

 水銀燈は気がつかない。

 背を向けている上、セーラー服の心酔するものなどに興味がなかったから。

 セーラー服は気がつかない。

 彼女の世界の中心にいる存在を模した人形へ、理想を投影することに夢中だったから。

 薄暗闇の中に立つ御坂美琴の人形。

 動くはずのないその人形の、左手。

 提げられた手提げ鞄に髪の毛が――――少し焼け焦げたブロンドの髪の毛が一筋、確かに絡んでいた。

 

 

 

 

 

 

姫神は小萌の家で別れたときとは違い、巫女装束ではなかった。

 薄手の白いブラウスにデニム地のスカートという、ごくありふれた恰好である。あえて特異点をあげるとすれば、首から下がった十字架――――『吸血殺し』を押さえ込む封印くらいだろう。

「ごめんなさい。少し。遅れた」

 と、姫神は軽く頭を下げた。

 バス停からこの公園まではやや距離がある。急いで着たのか、彼女の呼吸は少しだけ早かった。

「いや、大丈夫。俺もいま着いたところだし」

 言いながら苦笑を浮かべる上条。

 公園の時計の針は姫神が指定した時刻よりもまだ早い。時間に間に合わなかったではなく、相手を待たせたことに謝るところが律儀な彼女らしい。

「それよりも、こっちこそごめん姫神。俺が頼んだのに、先に帰っちまって」

 と、上条は申し訳なさそうに頭を掻いた。

 疲労回復と一応の検査で入院と相成った小萌であったが、そこで問題が生じた。

 入院とあればそれなりに用意が必要である。

 疲労であるのでそんなに長期に及ばないだろうが、少なくとも着替えがなければ困ってしまうだろう。

 かと言って上条が小萌の服を探してくるのは、いろいろと問題だった。

 状況が状況なので法的にはなんとか言い逃れができるかもしれないが、きっと大切なものを失ってしまうに違いない。

 そういう諸々の事情と、一旦帰らなくても良いと言う利便性、何より一時的に小萌と同居していたということから、姫神に連絡して様々なものを持ってきてもらったのである。

 上条にしてもインデックスにしても出来ることなら目が覚めるまで側についておきたいところだったが、いかんせん病院には面会時間というものがある。それに見た目はともかく小萌は女性だ。上条としても退去せざるえない。

 荷物を持ち込む姫神のことだけ蛙顔の医者に頼み、先に帰宅した次第であった。

「いいの。事情が事情だし。それに」

 ふと、姫神の顔が見て取れるほどに曇った。

「私は。ついていかなかったから」

 



「・・・・・・」

 
その表情と言葉に、上条は思わず言葉に詰まってしまった。

 姫神を危険な目に遭わせたくないという思いはどうあれ、そして彼女がそれを承諾していたとは言え、置いて行ったのは事実なのだ。

「あ。……ごめんなさい。私」

 彼女の方も、思わず漏れた言葉だったのだろう。

 沈黙と、上条の浮かべていた困り顔に気づき、慌てた様子で頭を下げた。

「いやその…俺の方こそごめん」

 気まずそうに頬を掻きながら、上条も軽く頭を下げた。何に対して謝っているのか自分でもよくわからなかったが。

「……」

「……」

 上条は言葉が続かず、姫神は俯いたまま。

 味の悪い沈黙がおりる。

 いまいる公園が大通りからやや外れた位置にあることと、時間的に人通りが少なくなるということも相俟って、その静けさはやけに強く耳に響いたような気がした。

(え、えーと……)

 少しだけ気の早い虫の音を耳にしながら、上条は所在なさ気に視線をうろうろとさせた。

 なんとなく、声を出すが憚られる。

 こういう雰囲気に慣れないというのもそうだが、話し相手が姫神だから、というのもひとつの原因だった。

 別に姫神が苦手とか話し辛いというわけではない。ただ単に上条の周りの女の子には、こういう時に黙り込むタイプが少ない、というだけの話である。

(……御坂ならたぶん、なんか言いなさいよ、とか言ってくるんだろうけど)

 そんなことを考えてみるが、詮無きことだ。目の前の相手は美琴ではなく姫神なのである。
「……」

 結局どうすればいいのかよくわからず、上条は頬を掻き続けた。

 と、その拍子に、

「いてっ!」

 唐突に頬に痛みが走り、声を上げる上条。

「ど、どうしたのっ?」

 突然の声に驚いたのか、いつもとはややアクセントの異なる口調で、姫神が顔をあげ、問うた。

「あ、いやごめんなんでもないんだ。ちょっと傷を引っ掻いちまっただけで」

 『鳥籠』に蹴り飛ばされたところを、つい引っ掻いたようだ。

 ちらりと指を見るが、特に血がついているわけではない。薄くついた擦り傷に爪が引っ掛かっただけなのだろう。

「……怪我してるの?」

 心配と不安、そして哀しそうな声色と視線で姫神が問う。

「あー、その、うん。ちょっとだけど」

「……」

 上条の返事に、姫神の表情がさらに曇った。

 蹴られた場所がよかったのか、打ち身もなく、擦り傷としても目立たない。おまけに夜闇の中である。彼女が傷に気がつかなかった無理はない。

 だが姫神にしてみれば、彼の負傷に気が付けなかったことそのものがショックだった。

 戦えない自分。

 それならばせめて邪魔にならないように。そして怪我をしたのであれば、手当てくらいは出来るように。

 そう思っていたにも関わらず。

(……私に出来ることなんか。他のみんなに比べて。ずっと少ないのに)

 だが手当てどころか、負傷の有無にも気が付けなかったのである。
「・・・・・・」

 唇を噛む姫神。

 結局自分は、どこまでも役に立てないのかもしれない。

 自分が落ち込めば彼が心配する。それがわかっていても、姫神は自分へのふがいなさに顔をあげることができなかった。

 慌てたのは上条である。まさかこんなに落ち込まれるとは思っていなかった。

「だ、大丈夫大丈夫、こんなのちょっとまともに蹴られただけだからさ。この程度、上条さんは慣れっこです」

「・・・・・・」

 わざとおどけて見せるが、姫神の表情は晴れない。

 上条にしてみれば戦闘で負傷するのは、特別なことではない。むしろこの程度で済んでいるのは、不本意ながら御の字の範疇である。

 いまは外しているが、捻挫した右手に左手と口だけで包帯を巻ける程度には負傷慣れしているのだ。

「……」

「……」

 またもや変な沈黙。

 虫の音が数度響き、いよいよ上条が、

(うあー、ど、どうすりゃいいんだほんとこれー!)

 などと思い始めたころ。

「……慣れちゃだめ」

 と、不意に姫神が言った。
「え?」

「……」

 聞き返す上条に、無言のまま歩み寄る姫神。長い黒髪がその動きを追い、サラリと揺れる。

 彼女は上条の目の前に立つと、左手を持ち上げて彼の頬に触れた。

 すっ、と姫神の指の腹が、上条の頬を撫でる。

「ひ、姫神?」

 思わぬ接近に、上条の声が上擦った。

 姫神は彼の動揺を気にせず、続ける。

「上条くんは。いつだって無茶をしてる。……いつだって怪我をしてる」

 姫神の身長はインデックスとそう変わらない。年齢的にも同じくらいだろう。

 にも関わらず、白い少女よりもずっとはかない存在であるように思えるのは、彼女が身に纏った雰囲気ゆえか、それとも彼女の過去を断片的にでも知るゆえか。

「いや、そんな無茶は「してる」

 言葉尻を食いつぶし、姫神が言う。見上げてくる彼女の瞳は、こぼれ落ちそうなほど心配を湛えていた。

「……」

 上条には過去の記憶がない。

 この夏休みの途中からが、いまの彼の全てである。そういう意味では、姫神は上条にとって初めてゼロから知り合った存在と言える。

 その姫神の目に無茶をしていると映るのであれば、それは本当にいまの上条が無茶をしているということの証明でもあった。 

「・・・・・・」

 姫神は上条の頬から手を離す。その手はそのまま上条の腕を伝い――――右手に触れた。
「……へ?」

 予想外のことに上条は間抜けな声を出すが、彼女の細い指は何気なく下ろしていただけの上条の右手をとり、離れない。

 手を繋いでいるわけではない。

 ただ指先だけが、絡んでいた。

「あ、あの、姫神さん?」

「……」

 姫神は上条に何も応えないまま、すっ、と視線を逸らした。髪が揺れ、空気が動き、上条の鼻先に、ふわり、と甘い香りが届く。

(こ、これはどういう状況なんでせうか)

 ついぞこういう状況に縁がない(と思い込んでいる)上条。

 夜の公園不意の接近繋がる指先憂いの美少女ほのかに感じる少女の香り。

「……」

 いきなり降って湧いた状況に、心臓がドキドキとタップダンスを踊りはじめた。

「……私は」

 微妙に固まった上条から半歩離れた位置で、姫神が右手を胸元に添えた。

 首から下がる封印の十字架、その鎖に指を絡め、彼女は再び上条を見上げる。

「私は。不安だった」

「え…」

「上条くんが小萌先生を助けに行ってから。連絡が来るまで。ずっと私は不安だった」

 チャラ、と鎖が鳴く。

 反射的に音の方を見てしまう上条。その視線が、

「!」

 見上げてくる姫神のそれと、重なった。

「……」

 蒸し暑さもまだ残る季節だ。至近距離で見る姫神の頬は気温のせいかやけに紅い。それに加えてうっすらと浮いた汗は、妙に彼女の肌を艶めかせていた。
「あっ、と…」

「……」

 姫神は何も言わず、そしてそれ以上踏み込むことなく。

 しかしゆっくりと、鎖が絡んだ右手を持ち上げる。

 チャリ、と、再び鎖が鳴いた。

 長い後ろ髪が鎖の輪にかかり、一度だけ持ち上がり、ふわり、と先ほどよりも大きく、髪の軌跡が夜の中に閃いた。

「お、おい姫神、お前それを外したら・・・…」

「大丈夫。いまは。貴方の右手に触れているから」

 再び上条の声を遮り、姫神は首から外した十字架を見る――――彼から、視線を逸らす。

 だから、はなさないでほしい。

 そこだけは言葉に出さず、幻想殺しを、否、彼の手を握る自分の左手に、少しだけ力をこめた。

「……」

 見上げてくる彼女の瞳は、上条の頬に僅かについた擦り傷に向いている。先の言葉どおりの、不安の灯った瞳が。

「……」

 それを見た上条が、僅かに息を呑んだ。元々口数の少ない彼女の瞳は、逆にそれがゆえにたった一つのことを雄弁に物語る。

 そして彼女がどんな言葉を求めているのかは、流石に上条も理解できた。

「……」

 上条は一度目を閉じる。そして、

「大丈夫だ」

 幻想殺しで――――いや、己自身の右手で、しっかりと小さくに震える姫神の手を握り返した。

 

 

 

「……」

「俺は絶対にいなくなったりなんかしない。絶対に帰ってくる」

「……」

「何があっても、どんなことになっても、絶対に姫神たちのところに帰ってくるさ」

「……」

 姫神『たち』

 その言葉に、胸の奥が僅かに痛む。

(……でもきっとこれが彼の本心で。一番強い約束)

 それ以上を望んではいけない。少なくとも、今は。

 だから姫神はもう一度彼の右手を握り返した。

「約束。してくれる?」

「ああ、約束する。姫神たちに会えなくなるのは、俺も嫌だから」

 即座に、迷いなく頷く上条。

 そうだろう。彼はいまのように問えば、絶対にそんな風に返答するはず。

 それが嬉しくて、そしてやっぱり『たち』でしかないことが悔しくて、姫神はさらに言葉を繋げた。
「……大覇星祭のときみたいに、破ったりしない?」

「うっ!」

 痛いところを突かれた上条の真剣だった表情が、明確に引きつる。

「……」

「い、いやえーと、あのときはその」

「……ナイトパレード……楽しみにしてたのに」

「がふっ!」

 空いた左手で胸を押さえる上条。おちゃらけているようだが、それなりに真剣にダメージを受けているようだ。

 しどろもどろになりながら「でも聞いてくれ姫神! 俺も絶対その約束護るつもりだったんだけど、その」とか言い訳を始めた上条を見ながら、姫神は笑顔を浮かべた。

 いまだ視線を彷徨わせながら「あー」とか「うー」とか言っている上条だが、彼はこの数秒後に言葉を無くして沈黙することになる。

 それは今日の昼から今に至るまで、彼女が上条の前で初めて浮かべた笑みであり――――

「ふふっ」

 ――――上条が見た中で、一番綺麗な、彼女の笑顔だった。 

 

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