とある世界の残酷歌劇 > 幕前 > 05


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ベッドの中、白井は朦朧とした意識のまま未だ眠れずにいた。

時刻は四時過ぎ。
もう未明と言ってもいい時間帯だ。

部屋には白井一人きり。それが問題だった。
ルームメイトである上級生、御坂美琴は昨晩より帰宅していない。

連絡も取れぬまま一日が終わり、寮監から無断外泊の連帯責任と幾らかの清掃活動を言いつけられた。

彼女には稀にある事だ。しかしながら一言くらい連絡をくれてもいいのに、そうすれば多少なりとも言い訳の用意はできたのに……。
などと当初はぼやきながらトイレと食堂の清掃を適当に済ませ、他の寮生に遅れて部屋に戻った。

しかし日付が変わっても何一つ連絡がない事に不安を覚えた白井は何度目かの連絡を試みる。
もはや聞き慣れた音声ガイダンスに従い録音メッセージを残したのだが。

「…………」

暗い室内、もう一つのベッドへと視線を向ける。
いつもはそこに寝ているはずの少女の姿は未だない。

何か事件にでも巻き込まれたのだろうか。
とかく厄介事の多い街だ。彼女の性格からしても面倒な事態に遭遇すれば首を突っ込んでいてもおかしくない。
本人が思っている以上に有名人なのだから自重してくれと度々言っても聞き入れてくれる気配すらない。

先月起こった人工衛星の残骸に紛れた特殊な部品を巡る一連の事件でも彼女は白井を置いて一人で奔走していた。
それを察した白井は彼女とは別に事件を追い、その結果事態は一応の収束を迎えたのだが。

足を引っ張ったという自覚はある。兎にも角にも己の力量、そして思慮が足りなかった。
そこは悔やんでも悔やみきれないところではある。
しかし現在白井の胸中に蟠っている澱は別のものだった。

「……お姉様」

事件の最後、結果的に自分の尻拭いをしたのは御坂と、そしてもう一人。
何度となく彼女の口から話題に上り、街でも度々その姿を垣間見る少年。

そしてあの時、御坂と共に白井の前に現れた人物。
上条当麻という名の男子高校生。彼の存在。



要するにこれは嫉妬なのだと白井は自答する。

御坂の抱えている闇の存在には薄々以上に気付いていた。

彼女との仲は客観的に見ても良好だと思う。先輩後輩、ルームメイトという事実を差し引いても。
ただ、だとしても白井が問うたところでその胸襟を開いてくれるかと考えると二の足を踏む。

夏休みに起こった木山春生という女性科学者を中心とする一連の事件とはまた別格。
あれも複雑で根の深いものだったが、表沙汰に出来るというその点だけで見ても遠く及ばないだろう。
恐らく御坂が関わっているものは学園都市の闇と言っていい。先のそれとは深度が桁違いだ。

そもそも木山を巡る事件も御坂の抱えたものの一端に過ぎない。
あれで氷山の一角。だとすれば海面下にある見えない部分は莫大なものだろう。
いかな『超電磁砲』であろうとも年齢的には中学生。明らかに荷が重過ぎる。
誰かが支えなければ押し潰されてしまうほどに。

白井はその役こそ己のものだと自負している。

けれど本当にそれに踏み込んでいいものか。
誰よりも敬愛する少女のためだ。闇に飛び込む事に躊躇はないが。

もしも拒絶されてしまったら――。

そんな事はないと否定する。が、ほんの微かに確信には及ばない。
疑心暗鬼に近いそれを自覚してしまえば最後の最後で踏み出せずにいた。

そう躊躇っていた挙句があの事件。結果はとんだ醜態だった。
二度とあんな無様な真似は見せられないと固く誓ったが、だからこそなおの事に足が竦んでしまう。

果たして自分は御坂の抱える闇へ飛び込むに足る人物だろうか。

でも。

「……あの方は……そうではないんですのね」

自分の他にそこに立つ者はないと思っていたのに。
彼の存在が重く圧し掛かる。



今思えば、彼は自分よりもずっと前から彼女のそれに深く関わっていた気がした。
いや、もしかすると最初から。彼は『闇』そのものに関係しているのではないか。

考え出せば切りがない。
一度心の中に生まれた黒点はじわじわと染みを広げ思考を侵してゆく。

嫉妬せずにはいられない。もしも自分が彼の立場だったら。
言っても詮無いことだと分かっていても思わずにはいられない。

白井の思考は現実と仮定と幻想の間をぐるぐると巡り続ける。
睡魔がどろりと足を引き、ともすればバターのように溶けてしまいそう。
夢うつつの中で白井は漫然とした想いを抱えながらも、結局何もできずにいた。

そうして数時間。ようやく睡魔が彼女を眠りの淵に誘いかけた時だった。

小さな電子音が聞こえた。

頭まですっぽりと被った柔らかな布団の中、白井愛用の極小携帯電話が着信を告げる。
最低音量に設定して待機していた事が功を奏した。
バイブレーション設定だったら感覚の消えかけた体では反応しなかったかもしれない。
甲高い人工音は、白井の耳に冷や水を注ぐように突き刺さった。

ディスプレイ部に表示された発信者名は――『御坂美琴』。
白井の意識は瞬時に覚醒した。

そしてやや震える指先を抑え素早く耳に装着し手馴れた操作で通話ボタンを――押そうとして直前で静止する。

果たしてこの電話の相手は本当に彼女なのだろうか――?
そんな予感が白井の意識の底からゆらりと首をもたげた。

いや、そんなはずはない、と自分を叱咤する。
けれど悪い予感は完全には拭い去れない。
どこか不安を抱えながらも――結局、電話を取るしかないのだった。

ぷつ――と小さな音の後、回線が繋がった。

「も……もしもし……?」

小声で定型文を口にする。
そして返ってきた声は。

『あ、黒子ー? ごめんねー、寝てたー?』

聞き慣れた御坂美琴のものだった。



その声に白井は安堵する。愚にも付かぬ下らない予感は外れた。
そもそも彼女以外があえて自分に電話を掛けてくるなどあり得ない。

白井は彼女の闇には関わっていないのだから――。

「――――」

また嫌な事を考える自分にいい加減腹が立ってくる。
そんな事で一々愚痴を吐く面倒な女であるつもりは毛頭ない。
意図的に思考を封じ、けれど電話の相手に悟られぬよう気を付けながら白井は小声で答える。

「いえ。けれどわたくしの事はお気になさらず。それよりもお姉様、こんな時間までどこに行ってらしたんですの?
 寮監様がお冠でしたのよ。それならそうと先に言ってくださればいいのに。わたくし粛々と掃除に勤しむ破目になりましたの」

『あー、ごめんごめん。ちょっとそっちまで頭回らなくてー』

電話越しの彼女の声に白井は眉を顰める。
彼女は比較的『逃げ』の上手い人物だ。要領が良いと言ってもいい。
常盤台というある種規律に縛られた学舎に在席しながらも他の生徒から見れば奔放と言わざるを得ない。
度々注意される事こそあれ、けれど明確に罰せられる事もなかった。
超能力者というその地位を鑑みても、彼女の知名度と常盤台というブランドの間に相殺される。
彼女は些か気侭過ぎるきらいがあるが、それでも未だその姿勢が重罰に処さられた事はない。

だから頭が回らないというその言葉は普段ならあり得ない事だった。
度々の無断外泊の尻拭いは自分がやってきた。その白井だからこそ彼女の今日の始末は不自然に感じる。

無断外泊の言い訳をルームメイトに頼む事を忘れる程度には頭が回らないほどの非常事態が起こっている。

ごくり、と無意識に空唾を飲み込む。
もしかすると今この瞬間こそが突破口かもしれなかった。

「……お姉様」

『何?』

「わたくし、お姉様の代わりに罰を受けましたの。額に汗しながら掃除をしてましたのよ。
 ですからお姉様が今日、何をしていたのか。知る権利があると思うのですがいかがでしょう?」



『あー……でもなー。黒子、言ったら絶対怒りそうだからなー』

そうやってまた誤魔化す。気付かぬはずがないだろうに。
こうした遠回しな言い方では毎回のようにはぐらかされてしまうのか。
そう思って、いっそ単刀直入に切り込もうかと思案するが――。

『ま、いいか』

「っ……」

思いの外あっさりと彼女は引き下がった。
もしかすると今日の一件はただ連絡を入れ忘れただけなのか……?
そう思うが即座に否定する。あり得ない。……だがしかし。

意識ははっきりしているとはいえ白井の思考は眠気によって十分な機能を発揮できない。
結局、御坂の言葉まで答えを得られなかった。

『あのね――デートしてたの』

「………………は?」

それは白井の予想の遥か上を行く、考えもしなかった展開だった。

デート。Date。逢引。逢瀬。密会。

それは要するに。

「……でぇ、っ!? ……、デートってお姉様……!」

思わず大声を出しそうになって、慌てて声を潜めてマイクに囁き叫ぶ。
要するに、何だ。自分は彼女と、そして彼の、あの彼との逢引のせいで理不尽な罰を受けていたというのか。

「しかも朝帰りだなんてどういう事ですの……!」

『黒子のえっちー。アンタの思ってるような事はしてないわよー』

恥ずかしそうに答える彼女の声は電話越しに聞いても分かるほど、恋する乙女のものだった。



「とにかくまぁ……そういう事ですのね? お相手はあの方で、晴れてお付き合いなされると」

『うん。そういう事になった、の……かな? ごめん、まだあんまり実感なくて』

「それはそれは……、……よかったですわね。おめでとうございます」

自分でも予想外の言葉がするりと口から出てきた。
それは御坂も同じだったようで。

『あれ? 怒らないの?』

などとどこか間の抜けた声を出すのだった。

溜め息を吐き、眉を押さえた。
彼を散々気が利かないだの何だのと喚き散らしていたくせにこういう事に関しては酷く鈍感だ。

「はぁ……今のお姉様を相手に怒れるはずがないでしょうに。
 黒子の大事な大事なお姉様を取られて嫉妬しないでもないですけれど」

これほど幸せそうな彼女に祝福以外の言葉が送れるだろうか。
それに他でもない、彼女が好きになった相手だ。
誰よりも彼女を信頼する自分だからこそそれに適う相手なのだろうと無理に納得する事にした。

「わたくし、そんなに安っぽい女じゃありませんから。お姉様が幸せならそれでいいんですの」

『幸せ……かぁ……』

白井の言葉を反芻するように御坂は小さく繰り返し。

『……よく分かんないや』

恥ずかしそうにそう返すのだった。



「はいはい、ご馳走様ですのー。それで? お姉様今どちらに?」

『あ、寮の前』

「……つまりお姉様。門限破りどころかほぼ無断外泊の挙句、わたくしに連絡の一つも寄越さず、
 あまつさえ寝ているかもしれないわたくしを叩き起こして、その上締め出されているから迎えに来いと」

嫌味の一つでも言ってやらないと気が済まない。これくらい言っても罰は当たらないはずだ。
ベッドから抜け出しパジャマの上からガウンに袖を通す。外は寒いだろう。早く迎えに行ってやらねば。

『ううん。来ないで』

「――」

はた、と防寒の準備をする手が止まる。
それは余りに直接的な拒絶の言葉だった。

『私もう寮には戻らないから』

「っ……お姉様、それはどういう……!」

『文字通りの意味よ。もう私は、そっちには帰れないから』

「――――!」

その言葉だけで白井はおおよその事を察した。
珍しく一言もない無断外泊。一向に取れない連絡。
深夜だというのにメールで起きているのか確認もせず直接通話を投げた。

そして彼――上条当麻の存在。

帰れない、と彼女の言う『そっち』とは何を指すのか。

『ね、黒子。正直に、そのままの意味で答えて』

優しげな、ともすれば不思議な事にそのまま消えてしまうような錯覚すらする声色で御坂は尋ねる。
奇しくも白井が何度となく心の中で繰り返してきたものと同じ言葉を。

『アンタ、私のために死ねる?』



御坂の言葉に白井は一瞬、思考が停止した。
体の動きも全て、呼吸も、ともすれば心臓の鼓動すら止まったよう。

意識の空白に彼女の声が流れ込む。

『アンタにこんな事言っちゃ駄目なんだって分かってるんだけどね』

それは毒のように麻薬のように白井の意識へと浸透してゆく。

どこか自嘲のように聞こえるそれは彼女なりの決意の表れれなのだろうか。
引き返す事は能わず、それは破滅への道をただ転がり続けるしかないようで。
先に待ち構えている奈落の淵へただひたすらに。

他ならぬ彼女の事は自分が一番良く知っている。
どんな絶望が待ち受けようとも彼女は決して立ち止まる事はない。
闇夜を切り裂き誰よりも鮮烈に輝く雷光こそ彼女の象徴。
一直線に駆け抜けるそれは誰にも止められない。

「お姉様――わたくしは――」

ならば、と白井は思う。

力不足は重々承知だ。彼女に肩を並べる事が出来るのはそれこそ彼くらいだろう。
悔しいがそれは認めざるを得ない。それを否定する事は彼女を否定する事にもなるのだから。

なればこそ、自分には自分なりの役割がある。

「わたくしは死ぬつもりなどありませんが、けれどお姉様を死なせなどしません」

クライマックスを引き受けるのは彼女と、そして彼だとして。
そこに至る道に集る有象無象などに邪魔立てする権利などない。

「――ありがとうございます、お姉様」

感謝の言葉を白井は告げる。

「黒子を頼って下さってありがとうございます」

せめてその往く道を切り開くのが己の役割だ。
白井の自称する露払いとは彼女のためにこそある。
彼女を待ち構える困難を討ち払い、その往く道を誰であれ邪魔などさせない。



『黒子――』

「知りませんでした? 黒子はいつだってお姉様の味方なんですのよ」

決断は勢いよく背中を後押ししてくれる。
くすくすと笑いながらも手早く着ているものを脱ぎ捨て、いつもの着慣れた制服に袖を通す。

そして腿には慣れ親しんだ自分の相方。鈍色に輝く鉄矢のベルト。
彼女のそれのように愛を囁いてはくれないがその冷たい感触は気を引き締めてくれる。
自分にはこういう相手が似合いなのだろう。

「わたくしはいつだってお姉様のお傍にいたいと思ってましたの」

それからお気に入りのリボンを手に取り、髪を二つに結わえる。

必要なものは最小限。
財布だけをポケットに押し込み、カーテンの隙間から外、寮の横を走る道に着地点を確認。

「ですからお姉様、黒子は今きっと、幸せですの」

隣には立てないけれど。
共にいてほしいと彼女は言ってくれた。

それ以上を望むなどできはしなかった。
自分にはこれで十分。十分すぎるほど報われた。

きっとこの気持ちだけは彼にだって負けはしないから。
だからこの役だけは譲れない。

「そう黒子は思うのです」

少し泣いてしまいそうだけど。
電話越しでよかった、と白井は声には出さず呟いた。



もしかするとこの部屋に帰る事は二度とないかもしれない。
郷愁の念に駆られながらも白井は即座にその思いを切って捨て、必要な演算式を組み上げる。
彼女の持つ異能の才、『空間移動』の翼を広げ、彼女の待つ夜の街へと――。

『――でもね、黒子』

――ぶつっ、と一瞬、耳に装着した携帯電話の回線が切れノイズが混ざる。

視界が瞬時に転換し、見慣れた寮の自室から閑静な夜の町並みへと切り替わる。
数センチの落下の衝撃を殺し着地。

そして顔を上げれば――そこには彼女が独り、立っていた。

自分と同じ制服の上から黒の学ランを羽織り、耳には携帯電話を押し当てたまま。
表れた白井に御坂は優しく微笑んだ。

そんな彼女に笑顔を返そうとして。

「アンタ、ちょっと勘違いしてる気がするんだけどさ」

どうしてだかできなかった。

おかしいな、と白井は思う。ここで笑顔を返せぬほど無愛想なつもりはない。
けれどどうしてだか躊躇われる。その理由は分からない。
でもあえて言うなら――こんな事は言いたくないけれど――。

まるでそこに立っているのが御坂美琴ではないような気がして――。

普段の彼女なら白井の些細な変化に気付いただろう。
しかし彼女はそんな事には一切頓着せず、笑顔のまま、白井にその言葉を告げた。

「――アンタさ、私のために人が殺せる?」

そんな、彼女の口から決して出るはずのないモノに白井の表情は凍り付いた。



何もかもがおかしかった。

全てが何かずれていて、騙し絵を見ている気分。
帰りが遅いのも。連絡がこないのも。夜中に突然掛かってくる電話も。
だというのに嬉しそうに恋人の事を話す彼女も。もう帰れないというその言葉も。

そもそも御坂美琴という自分の敬愛する少女は冗談だって誰かに死んでくれなどと言うはずがない。
それも笑顔で平然と告げるなど、絶対にあり得ない。

ならば――目の前の彼女はいったい誰だ――?

御坂美琴。何よりも直感がそう告げている。なのに頭の中の嫌な気配を消せずにいる。
否定と肯定、相反する二つが交差し鬩ぎ合う。お互いが正しいと主張して譲らない。
何故だか白井はそのどちらもが正しいと理解していた。そんな事は決してあり得ないのに。

まるで悪夢の中にいるよう。
彼女を待っている間にいつしか寝てしまったのか。

「ほら、やっぱり」

向けられた笑顔は変わらず、その端に僅かに寂しそうな色を浮かべて御坂は目を細めた。
失望と、諦念と、そして哀愁。それからほんの少しの安堵。

それはやっぱり白井の敬愛して已まない『お姉様』のもので。

「アンタはそういうのできないでしょ」

その言葉が起爆剤となった。

「――――お姉様っ!」

どうして、と思う。

彼女は紛れもなく御坂美琴で、なのに彼女はそれを本気で言っている。
矛盾した事実。けれどこれは間違いなく現実だった。

だとすれば信じるべきはどこにあるか。決まっている。
自分の信じる御坂美琴とはいったい何者なのか。

「お姉様は、そんな事できないでしょう……? 殺さずに済む方法こそを考えるような、そんな方でしょう……!?」



そう言う白井に彼女はまた、どこか悲しげな笑みを向けるのだった。

「黒子、アンタちょっと私を買い被り過ぎよ?」

「いいえ……! わたくしの知るお姉様はそういう方ですの……!」

ですから、と白井は願う。どうか、と白井は祈る。
こんな悪夢みたいな会話は終わりにしていつもの楽しい話をしましょうと白井は声に出せぬまま叫んだ。

「……そっか」

言葉に出来ぬ思いを感じ取ったのか、御坂は目を伏せ、提げたクーラーボックスの肩紐の位置を直した。

そして御坂は、白井を見て。
白井の知るいつもの笑顔を浮かべた。

「変な事言ってごめんね、黒子」

「お姉様……!」

「――――でもね」

……え?

その顔は、いつもの御坂美琴のもので。
何よりも好きだったその笑顔で。

「私もう、人殺しなんだ」

なのに彼女の口からはそんな冗談みたいな事が平然と告げられた。



「言ったじゃない。もう帰るつもりはないって」

にこにこと、無邪気な笑顔で。
いつもの顔と、いつもの声色で、まるで呪いの言葉を吐くように続ける。

「だからこう聞いてるの。アンタは私のために人を殺せるか、って」

つまり、そういう事なのだ。

彼女は間違いなく御坂美琴で。
けれどそれは白井の知る彼女ではない。
               、 、 、 、 、 、
彼女はどうしようもなくそういうモノで。
大事なところがどうしようもなく壊れてしまっているのだ。

「お姉……様……?」

それが、現実。
どれほど悪夢のようでも紛れもない事実。
    あたま       こころ
けれど理性で理解しても本能がそれを拒んだ。
無駄な足掻きと分かっていてもそれを認められなかった。

白井の思考は停止寸前だった。
何か言わなければと思いつつも何も言えなかった。
そもそも頭が十全に働いていたとして何を言えばいいのか、言葉が思い付かない。

「無理よね。アンタいい子だもん」

「お姉様……っ!」

けれど何か言わなければ、と白井は彼女を示す呼び名を叫ぶ。
何を言えばいいのかは見当も付かない。しかしここで何も言わずにはいられない。
彼女の言っている事が本当だとしてもこれ以上その先に行かせては――。

「黒子。いい子だから、ね、お願い」

御坂は諭すように白井に微笑んだ。

「私を止めたりとか、考えないでね? 私はアンタを殺したくないから」

そんな最悪な言葉が白井の心に深く突き刺さった。



「お願いよ黒子。邪魔しないでね」

何よりも好きだったその笑顔が。
ずっと見ていたいと思っていたその微笑みが。
毒に塗れた刃となって、深く、深く、心を抉る。

――もう無理だ。そう悟った。
白井も、そして彼女も。

これ以上の悪夢には耐えられないし。
このまま彼女を行かせてはいけない。

誰よりも敬愛していた御坂美琴をこれ以上闇に飲ませてはいけない。

けれどそこから引き摺り上げようにも白井の手は細過ぎた。
この時になってようやく己の不甲斐なさを真実悔やんだ。
余りに力不足だった。手を伸ばしても逆に引き込まれてしまう。

人を殺せるかと問われた。
きっと、殺せる。

誰よりも大切な彼女のために。

彼女自身を殺せると。
それほどまでに愛してしまっている事に気付いて泣きそうになる。

どこまでも最悪な世界だった。
幾ら祈っても天には通じず、この街に神などいるはずもない。
けれど愛するからこそ彼女を自分は殺せると、それだけが唯一の救いのようで、ほんの少しだけ嬉しかった。

なのに。

「――お願いよ、黒子」

手をスカートの内側、白井の意のままに感情もなく人を傷付けられる相方に手が触れる直前に聞こえたその言葉に白井は動きを止める。

それこそが致命的だと分かっているのに。
それでも彼女の声に白井は動きを止めてしまった。

「まだそう思えてるから」

その優しげな微笑みが白井にはどうしてなのか泣いているようにしか見えなかったから。

「私にアンタを殺させないで――」



そこが白井の限界だった。

卑怯だ、と白井は思う。
自分にここまで決意をさせておきながらその言い草はあんまりだ。

壊れきっているように見えてその実、最後の最後で御坂は踏み止まってしまっていた。

きっと白井が何かしようとすれば躊躇なく殺害しただろう。
けれどそんなのは嫌だと言える程度には御坂は完全には壊れきれていなかった。

殺したくない、嫌だ、お願いだからと御坂は言う。
そんな彼女をまさか殺せるはずがなかった。

白井は目を瞑り天を仰ぐ。
この世に神などいはしない。
あるのはただ残酷な現実だけ。

だというのに御坂美琴という少女の事を愛おしく思ってしまった。

それが白井の敗因。



ああ――なんて最悪な世界――。



「お姉様――」

「何?」

「もう――帰れませんのね――」

「うん」

「そう――ですか」

嗚呼、と白井は息を吐き目を開いた。
空は暗く、星は見えない。ただただ漆黒の闇が広がっていた。



視線を戻し、白井は再び御坂へと向き直る。

自分の顔は見えないけれど、きっと今、目の前の彼女と同じ顔をしている。
泣いてしまいそうだけれど無理に笑顔を作って、白井は御坂に尋ねた。

「デートは……楽しかったですか」

「うん」

「それはそれは……良かったですわね」

きっともう、その時には戻れない。
毎日毎日飽きるほど繰り返していた日常が余りにも遠い。
失って初めてその輝きに気付くというのは本当だった。
今ならまだ間に合うのだろうけれど、彼女を置いて一人で逃げ帰るなど出来るはずもなかった。

だからせめて、彼女の過ごした最後の日常を確かめるように。
他愛もないお喋りをするように白井は尋ねる。

「釣りにでも行かれたんですの?」

御坂が肩から提げるクーラーボックスに視線を遣り、白井は涙が零れそうになるのを必死で堪える。

「違うよ?」

「じゃあ――」

「あ、これ?」

脇に抱えるクーラーボックスに御坂は視線を向ける。

「――――――」

瞬間、何故だか恐ろしい気配が爪先から一気に這い上がってきた。



「黒子にはちゃんと紹介しておいた方がいいかな――えへへ」

崩れるように微笑む彼女は膝を折りその上にクーラーボックスを大事そうに抱え丁寧に留め金を外す。
それから淵を指でなぞり、ゆっくりと蓋を開く。

――彼女のそれらは決して釣り上げた魚に向けるものではない。

あえて言うならそう――――。





「――――――私の彼氏」





「っ――――!!」

叫びそうになって寸前でなんとか声を殺せた。

その中にひらひらとした布に埋もれるように入っていたそれを見て、白井は己の直感が正しかった事を理解した。

彼女はもうどうしようもないほど壊れていて。
世界はもうどうしようもないくらいに最悪だ。

救いの神など現れる余地すらない。

何せ本来彼女にとってのその役を担うはずだろう少年は――。



「当麻がね、助けてくれたの」

彼女は目を細め箱の中身を見詰め、愛しいその名を呼んだ。

「そしたらね、死んじゃった」

「お姉様――!」

もう限界だった。幾ら何でもあんまりだった。

彼女は相愛になれたその日に彼を奪われ。
彼がその身をとして助けた彼女は他ならぬ彼自身の所為で壊れてしまった。

そしてきっと、その事を彼女は他の誰よりも自覚している。

「お姉様――大丈夫です――」

白井は精一杯、自分でも上手く作れているか分からない笑顔を御坂に向け、震える足でゆっくりと近付く。

――やっぱりわたくし、あなたが大嫌いですの。

白井はもういない少年に心の中で呼び掛ける。

――わたくしが最後まで答えられなかったそれを――命を懸けて守るだなんて事を平気でやってしまうなんて。

けれど素直に凄いと思ってしまう。
彼はきっと何一つ躊躇う事なく死地へ飛び込んだのだろう。
その後どうなるかを考える事すらせず即座に決断して。

白井はゆっくりと膝を折り、御坂の抱えるそれごと彼女を抱き締めた。

「大丈夫です――お姉様はわたくしがお守りしますから」

――本当に最低な人。

彼の背は遠く、もう追いつく事はできない。
そして彼が遺した傷痕は余りに深く、余りに大きかった。

「ですからどうか――泣かないで下さい――」

何があっても。例え両手を血に染めても。
己の血華を散らせようとも。
          おもい                       せいぎ
胸に秘めたその狂気に殉じる事こそがきっと白井にとっての信仰だった。



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