とある世界の残酷歌劇 > 幕間 > 08


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――――――――――――――――――――







「…………、へぇ?」

廊下を悠然と歩いていた垣根は、ふっと顔を上げ小さく感嘆の声を漏らした。

「何よ。いきなり変な声上げて」

そんな彼に訝しげな表情を向ける麦野。
垣根は右の人差し指を立て、つい、と宙に円を描くように回してみせた。

「いや何。オマエんとこの、だよな。中々やるじゃねぇか」

「はぁ?」

眉を顰める麦野に垣根は少しだけ迷ってから、

「……百聞は一見にしかず、ってか。少し体験学習してみようか」

そう言って、麦野の眉がさらに顰められた直後。



――――――――――!!



大音量の不協和音が麦野の耳朶を叩いた。

「な――っあ――ぐ――っ!」

突如として現れた音。
まるで脳を内側から掻き毟られるような不快感を伴う音がそこら中に木霊していた。
黒板を爪で引っかく、あの不快極まりない音を何万倍も濃縮したような音。
神経を震わせ脊髄を抉り思考さえも蹂躙するようなその音に麦野は堪らず頭を押さえその場にしゃがみ込んだ。

そして、また突然に音が消える。

「…………何よこれ」

不快感の余韻に吐き気と頭痛を覚えながら顔を上げると、垣根が嫌に癇に障る笑みを浮かべて麦野を見下ろしていた。



「大丈夫か? 悪い悪い。そこまでモロに食らうとは思わなくてよ」

軽薄な笑顔で麦野の手を取り抱き起こす垣根は相変わらずの口調でそんな言葉を吐いた。
               キャパシティダウン
「対能力者用音響装置……『演算破壊』っていうんだが。
 用はあれ、モスキート音の能力者限定版の超強力な奴。
 仕組みはよく分からねぇが特殊な音波を出して演算を疎外する装置……のプロトタイプだ。
 以前こいつの試作機がちらっとスキルアウトの間で出回ってな。少し事件になったんだが」

そこで麦野は思い出す。
数ヶ月前、いつもは路地裏をこそこそと這い回っているような無能力者たちが妙に粋がって麦野に絡んできたことがあった。

彼女の性格上そんな事をしてはただでは済まない。
麦野は個人的な時間外労働として一つ二つそういう組織を潰し、その際にこれを一度目にしている。
もっとも、装置は使われる前に使い物にならなくされたのだが。

「木原印のキチ装置か……」

「なんだ、知ってんじゃん」

肩を竦める垣根に苛立ちを覚えながら麦野は彼の手を振り払い、顔に掛かった長い髪を後ろに撥ねる。

「どうなってんだろうな、これ。AIM拡散力場から干渉してるんだろうが、仕組みが全く分からねぇ。
 無能力者っつっても能力開発を受けている以上、何かしらの超微量な演算領域は持っているはずなんだが。
 どうして俺らには効いてアイツらには効かないんだろうな?」



「アンタ平気な顔してるじゃない」
        まっとう
「俺にこういう常識的なモンが効くと思うか?
 ま、種明かしすると結局は単なる音だからな。俺の周りだけ逆位相の音波をぶつけて相殺してる」

事も無げにそんな事を言ってみせる垣根に麦野は薄ら寒いものを覚える。
彼も能力者である以上、この音(今は聞こえないが相変わらず鳴り響いているのだろう)を聞けば先程の麦野と同じようになってしまうのだろう。

だとすれば。彼は音を聞くよりも先にその存在を認識し、即座に相殺する手段を構築し実行した事になる。

「第二位――『未元物質』」

小さく、まるで呪詛の言葉のように呟く。

その声は麦野以外には聞こえるはずもないのだが、果たして垣根は聞こえているのだろうか。
麦野に向ける背からは分からなかった。

「さて、と」

誰にともなく呟き垣根は右手を胸の前に上げる。
その指にはいつの間にか――白い鳥の羽毛のようなものが抓まれていた。

無論これがただの羽毛であるはずがない。
どころか見た目こそありふれた造形だがこの世のあらゆる存在からかけ離れた存在だった。
彼の能力『未元物質』によって創造された既存の物理法則から外れた異質の存在。世界の常識を狂わせる猛毒。

それを操る垣根の目には世界はどのように写っているのか。
この世界の常識に捕らわれた者からは想像もつかないが――手の内の『未元物質』を見る垣根は笑っていた。

「本来そんな柄でもないだろうに。よく奮闘する。
 そういう奴には――手を貸さない訳にはいかないよなぁ?」

そう嘯いて。

垣根は、ふっと息を吹き付け、そして羽が宙に踊った。






――――――――――――――――――――






一方、二人の大能力者の戦いは泥沼化していた。

「――づァ――ぎっ――がっ」

「か――ふゥ――ぐ――ァっ」

絹旗最愛と黒夜海鳥。

二人の窒素を操る能力者はその場に崩れ落ち床に這い蹲りながら悶えていた。
なまじ強力かつ意図的に改造を施された演算領域を持つ二人に音は本来期待される効果以上のものを発揮していた。

「なン――だよ、っ――こりゃァ――」

黒夜は正体不明の、不快と表現するには余りに凶悪な音に喘ぐように吐いた。

頭痛と吐き気と眩暈と虚脱感。
まるで世界がモノクロキネマになったかのように明滅する錯覚。
目からは涙が零れ全身が総毛立つ。悪性の熱病に侵されたようだった。

そんな見えているのかいないのかも不確かな視界の中、絹旗もまた黒夜と同じように崩れて落ちていた。

「はま、づら――ですか――ぐっ――」

タイミング的にそれ以外ありえないだろう。

既に施設自体は機能していない。
今まで絹旗たちが好き放題暴れていて作動しなかった装置が今さらながら機能したのは彼の手に因るとしか考えられなかった。
対能力者用の装置だ。無能力者――浜面以外にそれを有効活用できる者はいない。

これは唯一効果を発揮しない浜面だけに有利に働く。
     浜 面
ならば無能力者側、絹旗たちの勝ちに直結する戦略兵器だ。

「しかし――これは――っ!」

……辛い。



脳の内側、思考そのものをごりごりと削られるような感覚。
自我と称してもいいかもしれない。元来『自分だけの現実』とはそういうものだ。
人が意識によって存在するのであれば人格という概念そのものを侵すような音に絹旗はなけなしの苦笑を浮かべる。

(超やってくれましたね――)

今やこの能力者のみを攻撃する音は施設全体に鳴り響いている。防衛装置であるならばそう考えて然るべきだ。
だとすれば彼と共にいるはずの滝壺もまたこの音響装置の影響を受けているだろう。

苦肉の策とは思うが、最高の逆転手である事には違いない。
持ち得る能力が強大でそれに頼れば頼るほど弱体化される。
最弱の存在が最強になる。まるでカードゲームの革命だ。

絹旗と黒夜の能力が拮抗している以上、拮抗はそのままに能力は下落し、お互い無能のままにこうして床に這い蹲っている。
あとは浜面が全てを片付けてくれるまで待てばいいだけなのだが――。

絹旗は掻き回される思考の中で疑問を覚えていた。
どうしても腑に落ちない点がある。

黒夜に放った蹴りは正確に彼女に突き刺さり少女の矮躯を撥ね飛ばした。
その時点でこの能力の発揮を阻害する音は発生していない。

だとすれば黒夜はその時点で即死までは行かずとも再起不能なほどのダメージを負っているはずだった。

なのに――。

(黒夜は――ろくにダメージを受けた様子もなかった――)

吹き飛んだ黒夜は多少の苦痛を見せたものの即座に立ち上がったのだった。



それがどうしても解せない。

何らかのからくりがあるのだろう。
けれど今の絹旗にはそれを推理するだけの余裕はなかった。

そして、考えに耽れるような暇もなかった。

ごっ――! と空気が悲鳴を上げ不可視の力が絹旗の体を弾き飛ばした。

「っが――はァ――っ!」

まるでサッカーボールにでもなったような気分だ。
抵抗すらままならず絹旗は廊下の壁に激突する。

なけなしの演算領域を確保し辛うじて『窒素装甲』で防御したものの無双の防御力は普段の一割も発揮されない。

衝撃を若干和らげた程度とはいえこの状況下でまともに能力を発揮させた絹旗は驚嘆に値するが、
だからといって実質的にはその事は何の意味もなさない。

大能力者、『暗闇の五月計画』の落とし子だとしても絹旗最愛は中学生の少女だ。
見た目には小学生に間違われるほどの矮躯。彼女の精神性はさておき肉体的には外見通りでしかない。
『窒素装甲』の鉄壁さ故に隠されているが年齢に相応しない肉体はその通りに脆弱だった。

多少の痛みには耐えられる。そこは精神的な問題だ。
だが体は別だった。たった一撃であっても全身を突き抜けた衝撃は彼女の体を蹂躙する。

その上でこの音。
演算領域を食い荒らされ精神的に疲弊していた絹旗にはこの痛みは致命的だった。



「――――あ」

視界がぼやけて見えるのは朦朧とした意識の所為か、それとも涙を浮かべているのか。

意識が薄れる。
白か黒かも分からない場所に落ちていくような感覚の中、絹旗の脳裏に走馬灯のように色々なものが浮かんでは消える。

『アイテム』の皆の顔が過ぎる。
麦野、フレンダ、滝壺、そして――。

「――――っ」

消えかかった意識を意思の力だけで強引に叩き起こした。

浜面。彼の顔が浮かんだ途端にどうしてだか無性に腹が立った。

彼がここまで活躍しているのに、果たして自分はここで寝こけてしまっていいのか。
たとえ絹旗が何もせずとも全てが上手く行くとして、だからといって何もせずにいて良いのか。

――いや、上手く行くはずもない。今、自分はどうなっている。

虚ろな視線を投げればそこには黒夜海鳥が立ち上がっている。
彼女もまた絹旗と同じように通常の何分の一も力を発揮できていないだろう。
けれど今受けた攻撃は彼女の能力に因るもの以外にあり得ない。

そして彼女は立ち上がっている。

だとしたら絹旗もまた。

(私は――まだ立てる――!)

軋む体を奮わせ、絹旗は立ち上がる。
全身に力は入らず意識もあやふやだ。
そんな状態でも絹旗は立ち上がらずにはいられない。

敵はまだ目の前にいて、守るべき者も帰るべき場所もある。
それがどれだけ最悪でも、絹旗にとっては最愛そのものだ。

そして何より――――。

(浜面だけに――超いい格好させて堪るもンですか――!)

たとえ端役だったとして。

この舞台、この場。
彼女の世界の主人公は、他ならぬ彼女自身なのだ。



「――ハッ」

堪らなく不快な音の海の中、黒夜の嘲笑が耳に響く。

彼女の顔にもまた苦悶が色濃く影を落としている。意識も朦朧としているはずだ。
だというのに黒夜はそれすら他人事のように悪性の笑みを浮かべる。

「どォしたンだよ、絹旗ちゃンよォ――随分とお疲れみたいじゃン」

「そっちこそ――超大人しくお寝ンねしといたらどうなンですか」

苦痛は続く。
演算領域は相変わらず侵食され続け思考もままならぬものの、その状態での自身の運用に徐々に慣れつつある
その適応性もまた驚嘆すべき埒外のものではある。黒夜も、絹旗も。

「さすが、って言っとくべきなのかなァ『同窓生』」

「あなたに褒められたって、超嬉しくないですよ」

「囀るねェ」

「それ、あなたがでしょォに。黒夜、海鳥」

「いいから寝とけよ。死ンだ方がマシだろ。よく言ってたじゃない」

「いつの話ですかそれ」

……嫌な過去を持ち出す。

「私の人生、あなたみたいな超つまらないザコ相手にゲームオーバーになるなンてシナリオにないンですよ」

「じゃァ私が書き換えてやるよ。アンタはここで終わっとけ」



二人は常に五分。
まるで鏡合わせ。いや天秤か。

先程攻撃してきたのが黒夜ならば、それを防御したのも絹旗だ。
お互いは常に拮抗しあっている。

その均衡が崩れる時があるならば――。



ふっ、と。唐突に。

あれほど自己主張していた音が消え去った。



「――――!」

「――――!」

瞬時に立ち眩みのような感覚を伴いながら思考と演算領域が回復する。
それは酩酊に近い。けれど過つような軟い『自分だけの現実』を持ってはいない。

同時に行動を起こせるとすればイニシアチブは攻撃に特化した黒夜にこそある。
絶好の機会。しかし黒夜は即座に動こうとはしなかった。

……いや、そうは見えないだけで動いている。

ただ絹旗はそれに気付かない。

黒夜の攻撃がないのだとすれば絹旗にとっては好機でしかないはずのその瞬間。
絹旗はほんの少しだけ、なけなしの思考を他に向けてしまった。
数分の一秒にも満たないほどの時間、注意が逸れる。

この音が消えたという事は――。



(浜面――――!)






――――――――――――――――――――







天井のスピーカーから降り注ぐ音。
激しい頭痛に滝壺は思わず頭を押さえ、脱力しその場にへたり込んだ。

「っ――ぁ――!」

猛烈な吐き気と脱力感。そして意識の混濁。
人の脳は作業机に比喩される事が多いが、だとすればこの音は机の上でタップダンスでも踊られている気分だ。
作業の邪魔になるとか生易しいものではない。作業をする机そのものの上で暴れられては何も出来やしない。

浜面のスイッチを押した事によって施設の対能力者用防衛装置である音響兵器が発動した。
大音量で放たれる音波は滝壺の鼓膜から進入し脳を揺さぶる。

視界が明滅する。世界がぐねぐねと波打ちひっくり返っているような感覚。
平衡感覚すら狂っていて、天井に向かって落ちてしまいそうな気さえする。

だが。

そんな激しい苦痛の中で滝壺は笑っていた。

とん、と。
優しく肩を叩かれ、涙が零れた。

(はまづら――――)

滲んだ白黒写真のような視界の中、駆ける浜面の背が見えた。



浜面もまた、放たれる大音量に顔をしかめていた。

けれど浜面は滝壺と違い、単に不快なだけだ。
無能力者である浜面にはこの音の持つ真の効果は発揮されない。

本来これは無能力者――正確には能力者である学生を管理する立場である大人――のための暴徒鎮圧兵器だ。
そのため無能力者である浜面には単にうるさいだけの音に過ぎない。

浜面は音の海の中を走る。

視線の先には――査楽。

彼もまたスピーカーの放つ音により脳と思考を掻き回され苦悶の表情を浮かべている。

「な――づぁ――!」

冷や汗と涙を流し頭を押さえ膝を折って震えている。
今までの威勢が嘘のようだった。だからといって手心を加えたりはしないが。

少しでも躊躇えばその分だけ滝壺への負担が増える。
先ほどのは演技にしても疲労は確実にあるだろう。
それに、少なくとも肉体的にはか弱い少女だ。浜面に暴力趣味はない。

その上――元々が体晶のお陰で壊れかけの体だ。
この音が何かとんでもない副作用を産む可能性だってある。

だから浜面は。

「――逝っとけ」

速度と体重を乗せた回し蹴りを、蹲る査楽の頭に微塵の容赦も手加減もなく、全力で叩き込んだ。



「っが――――!」

まるでゴミのように吹き飛ぶ査楽。
床を転がり椅子を薙ぎ倒し机に突っ込みようやく動きが止まる。

ふーっ……ふーっ……

スピーカーから放たれる不快な音の中で荒い息がやけに耳に響く。
それは間違いなく自分の吐息だった。

全力で、殺す気でいた。
サッカーボールを蹴るのとは訳が違う。
明確な殺意を持って、首をへし折るつもりで頭を蹴り飛ばした。

なのに査楽はまだ生きていた。

蹲ったままもぞもぞと動いている。
苦しげな呻き声を上げているものの、まだ生きている。

少なくとも意識くらいは刈り取っていてもおかしくないはずだった。
だが査楽は、先ほどの絹旗の一撃を食らっても平気な顔をしていた。
何故だか査楽は妙に打たれ強い。そんな感じがする。

空間移動能力の応用なのか、それとも別の何かなのか。
それは浜面には判断が付かなかったが。

「………………」

浜面は無言のままつかつかと歩き、少し離れた場所に転がっていた鋸を拾い上げた。
重い。引き切るための充分な質量がそこにはあった。

「さすがに」

刃が室内灯の光を反射して鈍く輝く。

「首を落とせば死ぬだろ」

無表情のまま、冷たい殺意と共に柄を握る手に力を込める。
感覚を確かめるように、ひゅっ、と一度宙を切り払って浜面は査楽に歩み寄る。



「――――っは」

浜面の足が止まる。

査楽は笑っていた。
何がそんなに可笑しいのか。何がそんなに滑稽なのか。
査楽は能力を封じる騒音の中、嘲るように笑っていた。

「は、ははは、はははははは――」

笑い、査楽は身動ぎする。
右手を口元に。漏れる笑いを押し込むように当て――、

ごくり、と喉が鳴った。

僅かに数秒。
しかしようやく気付いた時にはもう遅かった。

査楽の左手には何かが握られていた。
小さなプラスチックのケース。
見ようによっては文房具屋で売られているシャーペンの芯のケースのような――、

浜面は己の迂闊さを、一瞬でも躊躇した事を後悔した。

「し――まっ――!」

その形状をしたものを浜面は見ている。
他でもない、背後にいるはずの滝壺が持っていたものと同じ、



――能力体結晶の粉末が入れられたケース。



小さく査楽の体が跳ねるのと、浜面が走り鋸を振り下ろすのとは同時だった。

ひゅうっ、と風を斬り振り下ろされた鋸の刃は、しかし査楽の首を捕らえる事はなかった。

首筋に食い込む寸前、査楽の体が虚空に掻き消える。
鋸は固い床に当たり、浜面の手に痛みと嫌な振動を与える。

「ちっ――!」

舌打ちしながら振り返りもせず真後ろに向かって蹴りを放つ。
無理な体勢からの緊急の一撃。だがそれも空振った。

左足を軸に回転するように振り返る。

果たしてそこには査楽がいた。
ただしそれは浜面から数メートル離れた場所。
虚空に現れたのか、墜落し机の上に頭から突っ込むところだった。

(体晶で暴走させてこの状況でも能力を――っ!)

がしゃっ、と机の上にあったファイルやケースを撒き散らしながら査楽は机の上に突っ伏す。

「がっ……!」

査楽は衝撃に呻き声を上げる。
再び浜面は痺れる手で鋸を握り直し、査楽に向かおうとするが。

(――――――!!)

直感的に何かを察する。
それが何かを考える前に浜面は真横に飛んだ。
着地など考えない、強引な回避行動。考えている暇はなかった。



視界の外、直前まで浜面がいた空間に何かが現れ、重力に引かれ落下した。

ぱさっ、と乾いた音。
査楽が撒き散らしたファイルだった。

空間移動能力によって移動すれば、問答無用で出現座標の空間を押し割る。
ただの薄っぺらな紙切れだろうとダイヤモンドを切断する。
そういう意味ではあらゆる物体が絶対切断の威力を持つ。

刃物だろうと銃器だろうと、ただの書類ファイルだろうと等しく空間を割断する。
一瞬でも体勢を整えたりと思考する時間を作っていれば死んでいた。

「ぐうっ……!」

無理な回避の所為で肩をしたたかに打ちつけた。
床を転がり、肩の痛みを無視して立ち上がる。
視線を査楽に向ければ、そこには。

「――――――」

あまりの異様な光景に浜面は絶句した。

査楽の周りを、まるで土星の輪のように物体が浮遊していた。

椅子。ファイル。ペン。鋏。パソコン。小さな置時計。メディアディスクとそのケース。
プラスチックのケースは蓋を開け中身をばらまきながら浮かんでいる。

それらが輪を描き、机の上に突っ伏したままの査楽の周囲を旋回している。

ときおり明滅するようにそれらの像がぶれ、次の瞬間リング軌道上の別の場所に現れる。
それでもリングを形成する集団から外れた鋏が、乾いた音と共に床の上に突き立つように出現する。
刃ではなく握り手を下に。V字に刃を突き出して。

重力と空間を無視したある種幻想的な光景。
そのあまりの異様さに浜面は動けずにいた。

査楽を乗せていた机がふっと消えリングの一団に加わり、それに伴い査楽がさらに落下する。
胸を打ち付け肺の中身を吐き出した査楽の頭上、彼の意思は関係ないと言わんばかりにリングは緩やかに回転し続ける。



近付けない。

暴走した査楽の能力は、他者の背後という制限を失い空間を捻じ曲げながら物体を浮遊させている。
彼の能力の対象となる限界範囲――最も気をつけるべきは作用点の射程だが――が分からない以上近付けるはずがない。

下手に近付けば浜面もまた暴走した能力に取り込まれ、あのリングの一員に加えられるだろう。
運が悪ければ床か、あるいは天井か、それとも机の中あたりにでもあの鋏のように突き刺さる事になる。

拳銃でもあれば別だろうが、手に持つ鋸は投げ付けても対した威力にはならないだろう。

だとすれば、手詰まり。
勝率すら見えない以上一か八かの賭けすらできない。

「はは、はははは、はははははははははは――」

査楽の哄笑は止まらない。

能力を暴走状態にする体晶と、能力の演算を阻害する騒音。
両者に蝕まれる彼の脳の中はいったいどんな状態になっているのか。
科学者でも能力者でもない浜面には到底分かるはずがなかった。

「くっ……!」

惚けている場合ではない。

そもそもの勝利条件を履き違えてはならない。
査楽の殺害は勝ちに直結する要素の一つだが、絶対条件ではない。

最も優先されるのは滝壺の生存。彼女を可能な限り無傷で生還させなければいけない。
査楽の生死など結局のところはどうでもいいのだ。

この際、直接的な脅威でないのなら査楽は捨て置けばいい。
第一滝壺に長時間この音を聞かせ続けるのは心苦しいのだ。



査楽は放置する。

そして滝壺を抱いて施設から脱出する。途中で絹旗も拾っていく。
麦野とフレンダについては分からないが、この音の影響下にあっても即座に死ぬような事はないだろう。
現在位置が不明な二人を探すのに時間をかけるよりも戦闘能力の低い滝壺を戦場から引き離す方が優先だ。
非力な彼女はアイテムの他の三人がいるからこそ戦場にいられるのだ。

施設は既に制圧している。能力を持たない者、例えば職員などがいたとしてもまともに動けるはいないはずだ。
一度二人を安全な場所まで退避させてから、再度突入するか、それとも――

査楽から距離を取りながら浜面は迂回して苦しげにこちらを見ている滝壺へと近付く。

「は、はは、ひっ、っくはは」

既に査楽の声は、笑声というよりは喉と横隔膜の痙攣と称した方がいいようなものとなっていた。

「くっ、はは、へけ、ひはは、ぎっ、かは」

そんな、本人もどうしてそんな声を出しているのか分からないだろう状態で。

「――は」

ぐりん、と首だけを異様な方向に向け跳ね上がった手を伸ばし。

その先には。

「あ――――、」

滝壺が。

「止め――――」

査楽の周囲をリング状に舞う机や椅子、文具たちが一斉に掻き消え放たれた。








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