とある世界の残酷歌劇 > 幕間 > 03


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「だからテメェは少し人の話を聞けって」

垣根は何度目になるか分からない嘆息を漏らした。

素粒子工学研究所。
第十八学区に存在する、学園都市の中でも高いレベルの機密を持つ研究施設である。

その一角、用途不明のだだっ広い実験区域に垣根はいた。
床は五〇×一〇〇メートルほどか。天井までも二〇メートルはある。
概算だが間違ってはいないだろうと断言できるのは模様だ。
恐らく一メートル間隔だろう、床にも天井にもびっしりと線が敷き詰められている様はさながら鳥篭を連想させられる。

地下を利用して作られたその広々とした空間は使われていなかったのか装置の一つも見られない。
今そこに存在するのは、垣根と、もう一人。

「……」

ぴん、と彼女が放り投げた長方形。
幾何学的な模様が印象的な材質不明のカードが空中にくるくると身を躍らせる。
投げられた勢いにカードは舞い上がるが重力に引かれ速度を失い、上昇と落下の間に一瞬の停滞を生む。

その一瞬、青白い光の帯が生まれ、真正面から直撃し、その作用によって光は千々に砕けてばら撒かれる。
高純度のエネルギーの塊。砕かれた分その量は拡散するがその一つ一つはそれでも十分な破壊力を持っている。

それが垣根目掛けて一斉に飛来した。
狙いも付けずぶっ放す。まるで散弾銃だ。
一筋でも当たれば必殺になりかねないその大軍を前に垣根は。

「問答無用ってどうかと思うぜ?」

ばさり、と白い翼を広げその全てを打ち落とした。



結果など最初から分かっていた。
学園都市への貢献度での格付けとはいえ垣根帝督は序列第二位。       じぶん
まして第三位との間には圧倒的な実力差があるとまで言わしめるのだ。まさか第四位が敵うはずもない。

その証拠にそれなりのカードを切ったつもりが軽くあしらわれた。
彼はその場を一歩たりとも動いていないし、両手をズボンのポケットに突っ込んだままだ。

「そのスカした態度がイラつくんだけど」

ちっ、とこれ見よがしに舌打ちし麦野は苛立ちに眉を歪めながら不快感を露に垣根を見据えた。

「一体なんの用よ、『未元物質』。無駄話するような間でも状況でもないでしょうに」

「そりゃま、そうだがよ」

やれやれと首を振って垣根は両手をポケットから取り出し、右手をジャケットの胸元に入れる。

「っ――!」

思わず身構えるが、彼が取り出したのは何の変哲もないタバコのパッケージだった。
慣れた手付きで一本取り出し口に咥え、それから。

「……あ。悪りぃ。火、持ってねぇ?」

返事の代わりにわりと本気でぶっ放した。

「おーサンキュ。どっかでライター落としちまったみたいでよ」

なのに垣根はその青白い一撃を翼で受け、撒き散らされた余剰分で器用に火を点けた。
ああ、なんだろうコイツ。マジ殺したい。



「ここがどんな事に使うのか知らないけどね。火災報知機とか気にしなくていい訳?」

「あー大丈夫大丈夫。最初に警報とかは全部潰しておいたから」

残念。スプリンクラーでも作動すれば濡れ鼠にできたかもしれないのに。
高い天井にはその手の物は確認できなかったし、万一水が降ってきたとしてもそんな事はありえないだろうが。
分かってはいるけれど麦野は心中で呪わずにはいられなかった。
早々に肺癌で死んでくれないだろうか。できれば今すぐ。

「で、なんの用かって話だよな」

ふーっ、と煙を吐き、垣根はタバコを咥えたまま小さく笑った。

「分かってるだろ。『それ』だよ」

「……」

麦野の手には奇妙な物が携えられていた。

端的に表現するならば金属とガラスでできたグローブ。
『ピンセット』。そう呼ばれる特殊な装置だ。

本来このように個人が持ち運べるような形状をしているはずがないのだが、そこは些細な問題でしかない。
紆余曲折あって『ピンセット』はこの形状に小型化され、どうしてだか麦野が持っている。
それが現状であり、それ以外に説明は要らないだろう。



『超微粒物体干渉吸着式マニピュレーター』

長ったらしい名前だが、その用途が何かはおおよそ見当が付く。

要するに分子以下のサイズの物体の汎用解析デバイスだ。
電子顕微鏡ですら見分けられないような極小物体を捕まえ読み解くための機械。
それは言ってしまえば米粒に書かれた文字を読む虫眼鏡のようなものだ。

「それ、くれねぇ?」

巫山戯た事を言う。
そもそも麦野がどうしてこの場にいるか。彼はそんな想像もできないような愚鈍ではない。
だから全部分かってる上で彼は言っているのだ。

――『黙って寄越せ。さもなくば殺す』、と。

殺されるのはまっぴらだ。彼が本気になれば麦野など秒殺されるだろう。
その程度きちんと理解する頭はある。仮にも第四位。学園都市最高峰の一角だ。
自身の実力を過小評価する気などないが、かといって慢心するほど落ちぶれてもいない。

だがそこには矛盾が生じる。
垣根の立場、そして実力であれば麦野は邪魔者でしかなく、そして殺害に躊躇はないはずだ。

なのに何故彼は麦野に話し掛けている。
無理に奪えば『ピンセット』を破壊される恐れがあるから?
それはない。そう断言できる程度に実力差がある。

かといって麦野が『ピンセット』をむざむざ渡すはずもない事くらい分かっているだろう。
立場と、何よりその性格。そこにその選択肢は存在しない。

つまり垣根が気に掛けている事は、もっと別のところだ。
ならばそこに――交渉の余地がある。



「『ピンセット』……だっけ。これをなんに使おうってんのよ」

会話の基点となる部位はそこ。
彼の欲している超科学の産物。欲しいのなら奪えばいい。ここはそういう世界だ。
金銭での売買など手段の一つでしかない。最も分かりやすく手間が省けるという理由以外には存在しない。
納得の上での取引。それは個人間であろうと国家間であろうと変わらない。相応の対価をやるから寄越せという交渉だ。
日頃使い慣れているからこそ麻痺しているが――コンビニで飴玉を買うのですら取引だ。
何せ相手は金額を提示している。これが欲しいならそれを寄越せ。納得できなければ買わずばよい。

だからこそ二番手に存在するであろう手段を取らないのが疑問だった。
即ち、強盗。暴力を振るい奪う略奪行為。
目の前に相手がいる以上掠め取るのは論外だ。
もっとも、それすら奪うという行為に他ならないのだが。

垣根は麦野に対し暴力に訴え奪い取る事ができる。これは大前提だ。
それほどまでに圧倒的な力量差がある。宝石に張り付く蟻を払い落とす事に何の躊躇いがあろう。

ならば答えは見えてくる。
垣根の『要求』はこの機械仕掛けの手袋ではない。



だが垣根は瞬時に答えない。

「んー……」

逡巡する。仕草こそ軽薄だがその眼光は値踏みするように麦野を見ている。

問いは自由。ただし答えるかは別だ。
回答は相手に交渉材料を与える事になる。同時に値段の宣言、商品の宣伝。セールスポイントの提示だ。
蟻を相手に禅問答をする者などいない。言い淀んだ時点で交渉に応じるという事に他ならない。

垣根は数秒の思考の間、学園都市で、もとい世界でも有数の頭脳をフル回転させてカードを選ぶ。
このターン、切る札は何が最も効果的か、プレイヤーの勝利の布石とするには何が最効率か。

そして垣根の切った札は――。

「あ、そっか」

至極簡単な答えだった。

「麦野よぉ。オマエさ」

にぃ、と垣根はまるで悪戯でも思いついた悪童のような笑みを麦野に見せ。

「俺と手ぇ組まね?」

更なる要求提示というとんでもない事をした。



「なっ……!」

暴挙にも暴挙だった。質問に対して一切答えてない。
どころか、垣根は『ピンセット』だけでは飽き足らず麦野まで寄越せと言ってきた。

本来それは麦野のカードだ。
交渉とは交換、損得勘定を押し付け合い納得のいく場所で手打ちにする。
百の値のものが欲しい。ならば代金として百二十を寄越せ。そういう交渉もある。お互いに得をしなければ交渉とは成り得ない。
それは互いに相手の上を行こうとする競走だ。自分だけ損をしたい者などいるだろうか。

「……アンタと? 手を組む? 馬鹿言ってんじゃないわよふざけてんのか」

なのに垣根はルールを無視し、麦野が百二十を要求するよりも前にさらに要求を追加した。
要求は麦野自身。百どころじゃない。千や二千では効かない。場合によっては万にも億にも、いやそもそも値段など付けられない。

だがこれは交渉。
欲しいならば奪えばいい。その手を取らないという事は翻せば。

「そんな事して私になんの得があるってのよ」

麦野の利もあるという事だ。



垣根も麦野も、言葉の裏にあるものには気付いている。

だからこそ垣根は麦野の問いを誘い、麦野はそれに乗った。
麦野沈利という、『ピンセット』などとは比べ物にならない要求。
その価値は他の誰より麦野自身が一番知っている。
価値観は人それぞれだろう。だがよりによって麦野本人。その主観価値は最高ともいえる。

ならばこそ、その対価は文字通り値千金だ。

そして今度こそ垣根が麦野に利を提示する番だった。

「なんつーか、俺にも目的っつーか夢っつーか野望っつーか、あるんだがよ」

タバコの煙を吸い、肺で転がし、吐き出す。

「今日、かな。今日だろうな。俺はそれのために間違いなく大暴れする。本気も本気、俺は間違いなく全力を出す。
 余り自分を持ち上げるのは好きじゃないんだが、ソイツは街の中に馬鹿でかいハリケーンがいきなり出るようなもんだ。
 ま、被害は確実に出るだろうな。そんなの気にしてたら全力なんか出せねぇし」

垣根はそんな余りに悪魔的な事を平然と言う。
やると言ったらやるだろう。そういう男だし、その通りにできる力量もある。

いうなれば自然災害。
地震、雷、火事、山風、大波、豪雪、疫病、飛蝗。
人の力ではどうしようもない、現れたらただ通り過ぎるのを待つしかできないもの。
逃げたり身を守る事はできても対抗する事はできない。文字通り天に石を打つようなものだ。



それを自覚して垣根は発言している。
学園都市に七人いる超能力者。その全員が自覚している事だ。
他に比類なき能力を全開にすれば天災にも匹敵する。

二人は知らないだろうが、一月近く前に高位能力者同士の戦闘が起こっている。
結標淡希。空間移動系能力者の最高峰『座標移動』。恐らくは最も七人に近い大能力者の一人。
彼女は九月十四日、あの日一人の少女を殺害する事に全力を振り絞った。

最大射程八〇〇メートル強。
最大重量四五二〇キログラム。

その全力の一撃がどうなったかはここではさして問題ではない。
これは物差しだ。分かりやすいように基準を設けているだけに過ぎない。

結標淡希ですらその程度。

所詮彼女は大能力者。
『大』という冠字を持とうともそれは能力者の枠に収まっている。

すなわち、その力。
『超』能力者は比較にならない。

一騎当千など生易しい。それは千に相当しようとも一騎には違わず、一騎で戦局を覆そうなど蛮勇にも程がある。

だが彼ら彼女らは万軍に匹敵する。
万の兵ですらない。有史以来英雄と呼ばれる武人は幾人も登場したが、彼らをして遠く及ばない。

万軍――万の群に相当する個。

それはもはや人とは呼べない。荒れ狂う神風そのものだ。



その中でもさらに、他の追随を許さない能力者が二人。
垣根帝督はその片割れだ。

万軍に匹敵する麦野にしても彼には敵わない。天災どころか天変地異だ。
そんなものが本気で動けばどうなるか。答えは明白。泣き叫ぶか呆然とするしかない。
天が落ちてきたとして、大風ごときに何ができよう。

「だから、さ」

タバコを咥え再び吸い込む。
勿体を付けているともとれるが間はこと交渉の場では武器になる。
言ってみれば場の空気を、流れを操る行為。
雰囲気と呼ばれる曖昧なものは心理戦においてことさらに重要だ。

ふーっ、と長く煙を吐き。
垣根はようやく要求への対価を提示する。

「味方に付けよ」

彼の言っている事は先ほどと変わらない。
だがそこに含まれる意味は明らかに違っている。

『竜巻に巻き込まれたくなかったら共に吹き荒れる風になれ』

そう言っているのだ。



麦野は正直なところ落胆していた。
彼女自身に匹敵する対価が何かと期待しれいれば。

対価どころではない。これは脅迫だ。
巻き込まれたくなかったらという文句は暴力そのものだ。それはもはや交渉ではない。
強盗。いや、この場合自分が天秤に掛けられているのだから強姦と言った方が正しいか。

しかし。

「お断りよふざけんな。私を舐めんのも大概にしろ」

確かに麦野では垣根に対抗できないだろう。
だが、だからといって大人しく巻き込まれ吹き散らされてやる道理もない。
麦野とて超能力者。正面切って相手取る事は無理にしても余波から自分の身を守る事くらいできる

「んなもん知るか。勝手に暴れて勝手に死ね」

それにこれはプライドの問題だ。
交渉の余地はない――どちらから見ても、だが――としても頷く首は自分のものだ。

手折られる花にも相手を選ぶ権利くらいあるだろう。
麦野沈利は黙って犯されるほど安い女でもない。
たとえ無理に手を伸ばしてきたところで棘の一つくらいは覚悟してもらわねば。



だだっ広い空白の空間。
二人の超能力者が対峙しているそこは気化爆薬でも溢れているような気配で満ちていた。。

麦野は既に臨戦態勢だ。攻撃こそ仕掛けないもののいつでも迎え撃てる。
こちらから手を出したところで先ほどのように軽くあしらわれるのは目に見えている。
垣根が本気を出せば麦野など赤子の手を捻るよりも容易く組み伏せられるだろう。

だがここは地下。そして密室。
逃げ場などないように見えるが、同時に室外の事は把握できないという事だ。
それこそが麦野の付け入る隙だった。

麦野も垣根も一匹狼ではない。チームを組んで行動している。

麦野沈利率いる『アイテム』。
垣根帝督率いる『スクール』。

他の面子の行方は知れないが、早々に尻尾を巻いて逃げるという事もむざむざ死体を晒しているという事もあるまい。
全力の超能力者は天災にも匹敵すると称したが、裏を返せば本気を出さなければ精々が一騎当千。個人レベルにまで戦力は落ちる。
全力を出せば周りはただでは済まない。暗部組織という裏方である以上あまり派手には立ち回れない。
だからこそチームで行動しているのだが。

頭上、地上には彼女らがまだいるはずだ。
撤退命令など出していない。それは垣根も、『スクール』も同じだろう。

ここで本気を出せば確実に巻き込む。

元より桁違いの能力者だ。二人が正面から激突すればこの施設など神細工よりも容易く吹き飛ぶだろう。

だからこそ垣根は本気を出せない。
もっとも、仲間意識などという人間らしい感情が災害にあるならの話だが。



垣根が自身にリミッターを科しているのであれば麦野にも抵抗できる。
無論そうだったとしても格の差は如実に現れるだろうが瞬殺されるような事もあるまい。

その上麦野の能力『原子崩し』の特性、真骨頂は高々威力の砲撃。
あらゆる防御、障壁を食い破る高熱量の一撃だ。
垣根だからこそそれを受ける事ができるだけで、垣根以外には破壊しか生まない。
たとえば真上にぶっ放せば地上まで易々貫通し得るだろう。

退路がなければ作ればいい。麦野にはそれが可能だ。
観測できない以上誰かを巻き込む可能性は否めないが、確率としては高いともいえない。
当たったら、まあ運が悪かったと思って諦めてもらおう。文句はないだろうし。
死人に口無し。いい言葉だ。

「……っ」

吐き気がする。麦野は表には出さないものの自分の思考に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

仲間意識など持ち合わせていないのはどっちだ。
表面上は愛だの友情だのと美辞麗句を並べておいて邪魔になったら掌を返す。
巻き込むはずがない。確率的には低い。何より彼女らは麦野の能力がどんなものなのか分かっているから適当に回避してくれるだろう。
相手の信頼を言い訳に自身を正当化。そもそも信頼など得られるはずもないのは見ての通りだ。
その上最後には運頼み。祈るだけなら誰にだってできる。神様なんて信じちゃいないが。

(当てない。当たるもんか。私がそんな下らないミスをするはずがない――!)

人混みの中、目隠しをして銃を撃って知り合いに当たる確率はどれくらいのものか。

だが撃たずば自分が、そして彼女らが――。




「――――あ」

気付く。

垣根帝督。第二位。『未元物質』。

彼の言葉の真意に。

「テ――メ――」

なんだこれは。最悪にもほどがある。
視界が真っ赤になるような錯覚。
全身から汗が噴きそうなほど緊張しているのにどうしてだか震えそうだ。

垣根は何も力ずくで奪おうとは言っていない。

交渉。取り引き。暴力を伴わない平和的な解決方法。
だがこれは一体何だ。殴られ無理矢理犯された方がどれだけマシだ。

麦野には今、目の前の男が悪魔か何かのようにしか見えない。

悪魔が公平な取り引きなどしようはずもない。

そういうものは大概において自ら魂を差し出させる弁舌にこそ長けているのだ。




確かに対価は値千金だ。麦野沈利に付ける値段に相応しい。
人に値を付けるなど言語道断だがこれなら確かに釣り合おう。

確かにこれは交渉だ。強奪でも脅迫でも陵辱でもない。
伸るも反るも麦野次第。選択権はあくまで麦野にある。

ただしそれが真っ当なものでないのは言うまでもなく。

用は人質交渉。
対価は『アイテム』。

垣根の全力を前にすれば麦野とて自分を守るのが精一杯で。
彼女でさえそれなのだから、他の面子がどうなるかは言うまでもない。

確実に巻き込まれ、確実に死ぬ。
それを止める術を麦野は持たない。災害を前に実力行使は不可能だ。
そして逃げる事もできない。彼女らは鎖に繋がれ囚われている。
無力と責められるはずもない。天災は何もかも平等に蹂躙する。
たまたま彼女たちの傍でそれが起こる。運悪く。
だから精々無事を祈ることしかできないが。

祈りは聞き届けられる。何故ならこれは交渉だ。
けれど人外に祈る場合、古今東西対価の相場は決まっている。

そういう場合は得てして人身御供をするものなのだ。

コイツは無理矢理犯すどころか。
自分で服を脱ぎ股を開けと言っている。

こんな取り引きを持ち出す輩を悪魔と言わず何と言う。



「俺だって何もオマエとやり合いたくないさ。争い事は好きじゃない。これでも平和主義だぜ? 仲良しこよしが一番だろう」

白々しい台詞に寒気すら覚える。
確かに荒事を望まぬ性質なのかもしれないが、それは暴力をカードとして提示した時点で破綻している。

どれだけ取り繕おうと、実際暴力を伴わないとしてもその手段を提示した時点で平和とは言えない。
言うなればかの大国。現状地上で最も虐殺に特化した大量破壊兵器を最も多く所持するあの国が唱える平和だ。
武力の前に皆平等に平伏すべし。それが平和だっていうなら平和の象徴は鳩ではなく鷹であるべきだ。

圧力。
相手を束縛し押さえ込もうとする力が暴力でないはずがない。

「オマエだって嫌だろ?」

(同意を求めんなっ……!)

返事などしてやる義理もないが挑発するような物言いに思わず心中で叫ぶ。
駄目だ。コイツとは最初から会話が成立しない。前提条件からして間違えている。
この僅かばかりの言葉の応酬で理解した事は、目の前にいる男が最低最悪な野郎だって事だけだ。
自分にも同じ事が言えるだろうがコイツに限っては別格だ。
垣根はどうしたって最終的に暴力に訴えるしかない。そういう種類の生き物だ。

麦野だって聖人君子なんていうつもりはない。
殺しなんて数え切れないほどこなしてきたし、今さら懺悔しようなんて気にもならない。
情け容赦などせず、時には味方であろうと利用する。その行動理念は体に染み付いている。
実際つい数瞬前に考えていた手は味方を巻き込む可能性のあるものだ。

麦野沈利は目的のためなら手段を選ばない――ように見えるが、それは正しく間違っている。

本来、麦野は誰一人として殺すつもりがないのだから。



例えばここで地上に向かって『原子崩し』を放つとして。
それを彼女らに当てるつもりはない。
                、 、 、 、、、 、、 、
いや、正しく表現するなら外すつもりしかない。

万に一つの可能性があったとしても絶対に当てない。
語弊はあるが――そう信じている。

だからこそ麦野沈利に対し『アイテム』はアキレス腱たり得る。
麦野にとっての『アイテム』は掛け替えのない存在だ。
騙し、利用する事はあっても裏切る事などありえない。

端から見ればそうは思えないだろう。
しかし麦野は確固とした理念としてそれを信奉している。
麦野にとって『アイテム』は唯一無二の――。

とまれ、この場において麦野の想いなどさして重要ではない。
それは麦野にとって当然の事実。今さら、少なくともこの場面で物思いに耽る理由もない。
だが疑問がある。

どうして垣根がそれを知っている?




「だからさ、言ってるじゃねぇか」

ぎくり、と体が軋む。
まるでこちらの思考を読んでいるかのようなそのタイミングに麦野はうろたえずにはいられなかった。
対し垣根は麦野の様子など気にする風もなくタバコを吹かせている。

その様子はまるで最初から麦野の返事など考えていないか。
それとも彼は最初から麦野の思考も予測していたようで。

「俺は別にオマエとドンパチやろうなんざ思ってねぇって」

確かにこれでは抵抗すら許されない。
麦野には従順に首肯する事しか許されていない。
逃げ道など元より存在せず、出会った瞬間、いやもっと前から勝敗は決していた。

最初から詰まされていた――!

全て彼の手の上で踊らされていただけ。
それも当然。最初から最後まで残らず分かった上で相手を嘲り戯れる。悪魔とはそういう存在だ。

打つ手なし。投了する以外に選択肢は存在しない。
だからせめて麦野は持ち時間を最大限消費する事だけを考えて手を止めるしかないのだが。

かといって帰ってくるのは勝利宣言以外の何物でもないのだが。



「なんつーかよぉ。オマエ、似てるんだわ。俺と」

「……アンタと? 私が? 冗談にしても笑えないわね」

「そう邪険にするなよ。別に同族嫌悪なんて言おうとは思っちゃねぇんだから」

苦笑して垣根は細められた目を麦野に向ける。
顔は笑っているが目は笑っていない。
そこに込められた感情は――哀れみだ。

(ふざけんのも大概にしろ……っ!)

侮蔑や嘲笑ならまだ我慢できただろう。だがよりによって憐憫。蔑まれるより性質が悪い。
麦野には垣根に哀れみの視線を向けられる覚えなどない。

確かに麦野は決して幸福とはいえない。
悪意と殺意が荒れ狂う学園都市の暗部に席を持つ彼女だ。お世辞にも幸せなどと誰が言えよう。

麦野とて何も好きで殺し殺されの世界にいる訳ではない。
この国のその他大勢の同年代は青春を謳歌しているだろう。
元より学園都市というこの街では特に顕著だ。何せ学生、若者のためにこそ存在する場所なのだから。

けれど麦野の場合少しばかり違っていた。
必死に生きていた。強くなろうとした。
この街では実力が物を言う。どう取り繕おうと現実は容赦なくその事実を突きつけてくる。
運もある。周囲の環境もある。その上で麦野は確かにその地位を得ていた。

だがその中で何故麦野沈利は『第四位』という座にあり、暗部に身を窶しているのか。
あえて言うならばそう、彼女は少しばかり不幸だった。

同族と垣根は言うが、だからこそ哀れまれる筋合いなどない。
それを言うなら垣根こそ。麦野よりも上位に格付けされる垣根こそ比較にならぬほどの地獄に身を浸しているに違いないのだから。




「あー……オマエさ。何か勘違いしてねぇか?」

垣根は辟易するようにタバコを咥えたまま髪を掻く。

「だからさっきから言ってるだろ。俺はオマエと事を構える気なんてまったくないんだよ」

……どういう意味だ?

麦野の思考が停止する。

だって余りに巫山戯た話だ。
ここまで入念に選択肢を潰し、麦野の行動を封じておきながら。

「だから俺はオマエに『手を組まないか』って言ってるんだ」

垣根は麦野を格下になど見ていない。
利用するでも従わせるでもなく、協力しようと言っているのだ。
損得勘定の上の協定ではない。現実、有無を言わさず従える事もできるのだから。
なればこそ垣根が協力と強調し同意を求めるからには。

そこには単純に『麦野の手助けとなりたい』という理由しか存在しない。

最初から垣根は麦野たちを害そうとなど一片たりとも思っていない。




しばらくの間麦野は言葉を失ってしまった。

垣根の言葉は俄かには信じがたく、いっそ荒唐無稽にすら思える。
何か裏があると勘繰るのは当然だろう。暗部とはそういう世界だ。絶対に何かある。
……だが結局、麦野は垣根の真意を測りかねていた。

「アンタ……何考えてるのよ」

だからこんな愚問も仕方ないといえた。

「何ってそのままの意味なんだがねぇ」

麦野の言葉に苦笑し、垣根は短くなったタバコをそのままぽとりと落とす。
                               オマエ
「何もおかしな事は言っちゃねぇよ。率直に言って『第四位』と『アイテム』の存在は大きなアドバンテージになる。
 俺の目的からは外れてねぇし、オマエの協力も欲しい。お互いの利益は一致してる。
 そもそも正直俺だってオマエらと仲良くできるならそれに越した事はねぇんだよ。組織とか抜きにしてさ」

麦野から視線を外しタバコを踏み消す。
既に火は消えているのだろうが垣根は何か手遊びするように靴裏で吸殻を転がし、どこか独白めいた言葉を続ける。

「そりゃケンカ売ってくる奴には容赦しないぜ? でもわざわざこっちからケンカ売ろうとは思わねぇよ。
 悪意を向けるってのはそれなりに疲れるんだ。なんでそんな事喜んでやらなくちゃならねぇんだよ。マゾか俺は。
 そんな事嬉々としてやるのはアレイスターくらいだ。俺は奴のクソ下らねぇ策に使われるってのが気に入らねぇってのに……」

後半は完全に独り言になっていたが、そこでようやく我に帰ったのか垣根は、はっと視線を上げる。

「まぁ……なんだ。俺としては無駄な諍い起こしたくねぇってのが本音って事だ」

どこかばつの悪そうにそう締め、垣根は麦野に苦笑を向けた。



「……アンタさ」

押し殺したような声。麦野の握り締めた両手は小さく震えていた。

「まさかそれ……マジで言ってんの?」

「ああ」

即答。一瞬の思考もなく垣根は答えた。

その反応でもう十分だ。
垣根は間違いなく本気で言っているだろう。そこに嘘も偽りも、欠片も存在していない。
その理由はさておき垣根は真実そう思っているのだろう。

おめでたいにも程がある。
ここは殺し殺されが日常の暗部。地獄と同義の世界。
咽ぶ空気は血と硝煙の臭いしかせず、足を踏み出すには死体を踏みつけなければならない。
そんな世界で――よりにもよって垣根は、矛盾にも程がある、愚にも付かない理想を唱えている。


.、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、、
だめだこれは。認めてはいけない。



「――ふざけてんじゃねえぞ垣根ええっ!!」



暗部にあってはならない、夢想家の戯言のような理想。
だからこそ麦野はそれを認められない。

「テメエは『アイテム』が何か知ってるだろぉが!」

誰にも悪意を向けたくないという垣根の理想は麦野に対しては致死毒でしかない。

何故なら麦野は、そして『アイテム』は。

「『アイテム』の役割は他組織に対する抑制と粛清、裏切り者の抹殺だ!」

そう、『アイテム』の存在意義。そして彼女ら全員の『生かされている理由』。
彼女たちは粛清部隊。飼い主である学園都市に歯向かう駄犬を食い殺すための内に向く牙。
いわば秘密警察。裏切り者には死を。垣根たち『スクール』とは違う理念で作られた組織。
少女部隊という暗部組織でありながら最も目立つ構成になっているのは偶然ではない。

『スクール』には垣根。『グループ』には一方通行。
だが『アイテム』には二名の超能力者がいる。
『原子崩し』こと麦野沈利とフレンダこと『心理掌握』。
序列はさておき暗部に身を置く超能力者の内の半数を擁する『アイテム』は他組織への抑止力だ。

「そんな私らが他と手を組める訳ねえだろ! 
 利用するなら勝手にしろ! 敵対するなら歓迎だ! けどテメエの提案は――!」

彼女たちには裏切りが許されない。絶対に造反してはいけない。
だからこそ誰にでも肩入れは許されない。例え誰であれ公平に食い殺さなければならない。

そして彼女たちが飼い主に従順な忠犬であるために首輪が用意されていないはずがないのだ。



体晶――薬品と称すには語弊があるが、そう呼ばれる『アイテム』に必要不可欠なものがある。
構成員の一人、滝壺理后の能力を発動させるために必須となるその粉末体は『アイテム』の要だ。

滝壺はいわば『アイテム』の『目』だ。
相手がどこに逃げようと必ず追い詰める猟犬の目と鼻。彼女の存在があって初めて『アイテム』は機能する。
滝壺を目とするならば麦野と絹旗は牙と爪。直接の攻撃力を持つのはこの二人。
圧倒的な攻撃力と鉄壁性を持つ二人だが、目も鼻も利かなくなればどうなるかは説明せずとも分かるだろう。

麦野の砲は連射性と速射性に難があり、その火力ゆえに精密な照準が要求される。
絹旗は物理火力には鉄壁を誇るが、弱点が多すぎ搦手には無力だ。

学園都市から支給される体晶を奪われ滝壺が機能しなくなれば『アイテム』は張子の虎も同然だ。
いくら強力な力を持とうと所詮は少女。盲の獣を詰めるのは容易い。

体晶は学園都市における秘中の秘。成分を解析しようとしても手も足も出ないほどの謎の塊だ。
対価としてそれなりに奔放に行動する事が許されているが、それは従順の報酬でしかない。

だから垣根だろうが誰だろうが関係ない。
どれだけ手を差し伸べられようとも、麦野たちにはその手に噛み付く事しか許されないのだ。

「くたばれ腐れオナニスト! 他人巻き込んで見下してんじゃねえよ! テメエに哀れまれる筋合いなんかねえ!
 何が平和主義だ笑わせんな! テメエのそれは偽善ですらねえ、地雷踏ませて遊んでるだけじゃねえか!
 マス掻くならテメエ一人でやってろ! イカ臭せえ手で触んなボケがぁっ!!」



「……でもよぉ」

激昂する麦野とは対照的に垣根は相変わらずの薄い笑みを浮かべたまま。

「それ言っちまえばなおの事だ。悪りぃ、麦野。完璧に手詰まりだ」

そして垣根は、どこか自嘲するように。
せめて言わなければまだ救いがあったものを。

「俺な、アレイスターにケンカ売るんだわ」

「――――!」

学園都市への敵対宣言。明確な宣戦布告。
その一言で彼女たちの最後の砦は崩れた。

麦野は『アイテム』として垣根を見逃す訳にはいかず、しかし垣根に敵う道理もない。一方的に蹂躙されるのは目に見えている。
かといって垣根をこのまま見過ごせば学園都市から粛清される。本来の役割は他者に引き継がれるだろう。

完全な四面楚歌。もはや八方手詰まりだ。
もはや麦野には何一つ手段が残されていない。
残されたのは学園都市の闇に飲まれるだけの選択肢。
どちらを選ぶにしてもその先は奈落だ。



「――だからさ」

だから垣根は提言している。
第三の選択肢を提示している。

「手を組もうぜ」

垣根との結託。
彼は何も考えなしに言っているわけではない。

一見してそうは見えないが垣根は我の強い男だ。自己中心的とも言える。
学園都市の『第二位』。その自尊心がどういうものかは彼自身が最も理解している。
虚栄、欺瞞、劣等感――確かに実力は伴っているが、垣根はそれを肯定している。

『第二位』に甘んじるつもりは毛頭ない。だがそれは垣根にとってのアイデンティティだ。
彼の劣等感を苛むラベルそのものだとしても、彼はその名に誇りを抱いている。
『一位』には敵わない。足りていない。垣根自身はそう思った事など一度もないが確かにその通りだろう。

だがそれは、最高位に届かないとしても。
垣根帝督に冠されたそれは彼を称えるものだ。

不満を持つはずがない。これは栄光の証だ。
金には届かないとしても、銀だからと不服に思う者がいるだろうか。

だからこそ、その信念は曲がらず、彼はより高みを目指す。
その手段が確実に学園都市に敵対する事なのだろう。ならば確実にそうなるだろう。



しかし、ある意味では彼はその名に不相応とも言えた。
今この状況こそがその証左だ。そこに彼の弱さがある。
彼が麦野に接触した理由はそこにある。

優男に見えてその実まさに狡猾。言い方を変えるのであれば――そう、臆病だった。
麦野を挑発するような言動も、布石を打つのも、全て。

彼は明言しているではないか。
誰の悪意も望んでなんかない、と。

「俺がオマエらの味方になる」

女を口説くにもマナーがなってない、と彼は自嘲する。
彼女の全てを奪いながら自分のものになれば与えよう。だがこうするのも愛ゆえにこそ。そう言っているようなものだ。
馬鹿げているにもほどがある。真実そうだとしても誰が信じようか。
袖にされたくないからと計を謀る。そんな愛が許されて堪るか。

だからきっと自分は最低の部類の男だろう。
『第二位』、そのプライドの証が皮肉に思えてくる。

ただ唯一の救いは、そんな思惑でも口にしなければばれないだろう。

それがたとえ彼のアキレス腱になろうとも。

「――俺がオマエらを守る」

強く弱い少年は、彼、不器用なりの信念を貫くだけだった。



「…………何よ、なんだよそれ」

しばらくの沈黙の後。
怒りなのか、悲しみなのか、麦野は感情に顔を歪めながら押し殺したような声を吐いた。

「そんな年にもなってヒーローごっこかよ。さしずめ私は悲劇のヒロインか? 笑わせんな。
 勝手にズリネタにすんのはまだいいにしても下らないオナニーに私を巻き込むんじゃねえよ」

相変わらずの悪口。だが垣根は表情を変えぬままじっと麦野を見詰めていた。

「頼むから他に迷惑かけんなよ。私ら弄んでそんなに楽しいか」

ああ、コイツは本当に悪魔だ。
どれだけ言葉を取り繕おうと言っている事は毒にしかならない。

「なあ、垣根。オマエ何がしたいんだよ。……マジ訳分かんねえ」

そう吐き捨てるのがやっとだった。

麦野は理解している。ここはそんな綺麗事が許されるほど温い世界ではない。
一度落ちたら逃げられぬ屍山血河。吹き荒ぶ風は鉄錆の臭いしかせず、纏わり付く血と汚泥は拭えるはずもない。
そんなのは言うまでもない歴然とした事実。大言壮語にも程がある。

でも。

『でも』。『だからこそ』。

そんな場所にいる者に僅かでも希望を見せてしまえば縋り付いてしまうのは分かっているだろうに。



分かっている。これは蛇の甘言だ。
たとえどんなに魅力的な誘いだろうと首肯の先に待っているのは破滅だけ。
行き着く先は楽園からの追放以外にない。

けれど麦野には、彼女たちには。
ここ以外に居場所なんてないのに。

「だから言ってんだろ。アレイスターのヤロウをぶっ殺す。アイツは俺の敵だ。
 ここまで言えば納得できるだろ。アイツが相手なら本気じゃねぇと。
 それとも俺を止めるか? 俺の前に立ち塞がるか?
 ああ――でももしかするとソイツの方がいくらかマシなのかね」

自虐めいた笑みを浮かべながら垣根は続ける。

「でもな――俺はオマエと殺し合いなんて、したかねぇんだよ」

かつ、と垣根の靴底が乾いた音を立てた。

垣根の言葉は余りにも矛盾している。
手を組もうと言いながら、麦野はそれに首肯できない。
味方になると言いながら、敵でしかない事を理解している。
殺し合いなんてしたくないと言いながら、戦争を起こそうとしている。



「現状がどうしたって無理なのは目に見えてるだろ。オマエらは飼い殺されて終わりだ。
 たとえ俺がやらなくたって、どうせ『アイツ』がやるだろうさ。その時オマエはどうするんだよ」

垣根の足はゆっくりと、しかし一歩一歩確実に麦野に近付いてくる。
彼の顔からは笑顔が消えていた。真剣な、ともすれば殺意さえ纏っていそうな気配に麦野は思わずたじろぎそうになる。

だが麦野は退けない。逃げられない。
だからといって垣根に攻撃する事もできないでいた。

(――なんだよその顔)

麦野はただその場に立ち尽くし、垣根を見詰め返すしかなかった。
その表情はどこか怯えているようで――。

(オマエ、意外と可愛いじゃねぇか)

場の空気と乖離した思考を頭の隅で呟く。
距離をおいていては見えなかった。近付いてみてようやく分かる。

近付かなければ分からなかった。
それは知らずにいた方が良かったのか、悪かったのか。
ただ一つ分かる事は。

「だったら――」

だったら――笑顔もきっと素敵だろうと。
彼女たちのそんな顔を見てみたいと思ってしまった。

余りに場違いな高望み。身の程を弁えない欲求。
きっとこれが致命的となる。そんな予感がした。
でも、だとしても。

手を伸ばし、麦野の手首を掴み上げ、引き寄せる。

その仕草はまるで彼女を奈落から引き摺り上げるようで。

「――賭けろよ、麦野。俺に賭けろ」



博打を打てと垣根は言う。
学園都市そのものに反旗を翻そうなど妄言にも甚だしいと垣根自身が一番よく分かっている。
だが、だからといって負ける気などないのだ。

どんな手を使ってでも勝ちを掴む。最初からそう決めていた。
だから彼女には悪いと思いつつも彼女を籠絡する事に躊躇いはなかった。

逃げ道を残らず塞ぎ、万策尽きさせ賭けに乗るしかできないように追い込んででも垣根には麦野が必要だった。
説得を成功させる手立てなど欠片も思い浮かばなかったくせにこうして面と向かえばすらすらと出てきた自分に薄ら寒いものさえ覚える。
慙愧の念は絶えないが、それに報いるためにも垣根はより強く信じる。

「俺は勝つ」

勝算なんて欠片もないが、それでも垣根は勝利を疑わなかった。

だからそんな怯えたような顔をしないでくれ、と心の中で呟き。

「受けろよ、麦野。分の悪い賭けだって事は百も承知だ。
 でももう降りれないのは分かってるだろ。コールしろ。俺にレイズさせろよ。
 俺がこの賭けに勝たせてやる。ああ、そうだよ――」

微かに揺れる瞳に向かって垣根は言い放った。

「どれだけ足掻こうと親の総取りだなんて俺は認めねぇ」



二人はその体勢のまましばらく無言で顔を突きつけ合っていた。
辺りはまったくの静寂。防音処理でもしているのだろうか、他の音は何一つ聞こえない。
そもそも地下にあるこの部屋は外部の喧騒など入ってくるはずもないのだが。

そしてぽつりと零すように麦野が口を開いた。

「……アンタさ、なんでよりによって私なの」

その問いに垣根は瞬時に答えられなかった。
何も単一の理由で簡単に済ませられるほど単純ではないのだ。
様々な要素が複雑に絡み合って、その結果最もマシな手段が麦野だっただけだ。

だから何と説明したものかと垣根が少し考え適当な言葉を見つけるよりも麦野が次の台詞を告げる方が早かった。

元より他に選択肢はないのだ。一縷の望みに賭けるしか方法はなく、冴えないやり方であるのは明白だった。
だから答えなど決まっている。それでも素直に垣根の言うままになるなどできやしなかった。

「もしかしてアンタ――私に惚れでもしたの?」

麦野にしてみればせめて少しでも彼を困らせてやろうと、愚にも付かない悪足掻きでしかなかった。
だが垣根はその言葉が全くの予想外だったのか、麦野の想像以上に面食らった様子で。

「…………ハハッ」

何故か垣根は可笑しそうに笑うのだった。



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