上条当麻の朝は早い。目覚まし時計を信頼できるような幸福に恵まれない上条にとって、自力で起きることは当然のことである。手早く朝食を摂って身だしなみを整え、大したものの入っていない鞄を手にして扉を開ける。今日の懸案事項は、どんな顔をして姫神に会うか、だった。頭を下げることは出来る。真摯なつもりで言い募ることは出来る。だが、拒否されたら? 取り付く島がなかったら?……俺に出来ることはまあ、許してもらえるまで真剣に謝ること、くらいだよな。朝の空気がかなり肌寒い。気乗りしない足取りで、エントランスへと下りたところで。「あ、秋沙……」「おはよう。当麻君」無表情に、そっと佇む姫神に出くわした。「あ、その。おはよう」「うん」昨日別れ際に見せた激情が、これっぽっちも見えない。だがそれが上条を許したということだと思えないのは、その無表情ゆえだろう。「秋沙」改めて呼びかけると、肩がビクリと震えた。「昨日は、ごめんな」返事はなかった。上条は怯まずに、一晩考えた事を言葉にした。「先輩とはデートをしたわけじゃなかったけど、でも秋沙が嫌な気持ちになるのは、当然だと思う。逆に姫神が誰かとそういうことをしたら、俺も嫌な気持ちになると思うしさ。だから、ごめんな」謝罪の意思が読み取れるよう、しっかりと頭を下げて、そう言った。「……当麻君は。怒ってない?」「え?」許してあげる、または許してあげない、どちらかの答えを待ち構えていた上条には、意外な言葉だった。「私も昨日。言いすぎたなって。心の狭い嫌な女の子だって思われちゃったかなって。嫌われちゃったかなって」「そ、そんなことあるわけないだろ!」「本当に?」不安げに僅かにうつむく姫神。そっと上目遣いに見上げたその表情が、反則的に可愛かった。「本当だって。いやだって、悪いのは俺なんだしさ。秋沙が気にすることなんてないって」「……うん。当麻君は悪いよ」「ごめん」「もうしない?」「しない。約束する」「……信じてあげない」「えっと、じゃあ、どうすればいい?」「信じられるように。ずっと努力して」「分かった。努力する」「ほんとに分かってるのかな。当麻君は」少しづつ、顔が前を向いてきてくれたように思う。拗ねて尖らせたその唇を、上条は申し訳ないと思うより先に可愛いと思った。「でも。嫌われてなくてよかった」「当たり前だろ」「うん。当麻君が他の女の人を見るのは嫌だけど。嫌われるのはもっと嫌だから。」怒ったような、それでいて微笑んだ表情を姫神が見せた。それがいじらしくて、上条はつい、手を姫神の髪に伸ばした。さらさらとした感触を楽しみながら、頭を撫でる。すぐに柔らかくなった姫神の表情を見て、「好きだよ、秋沙」「うん。嬉しい」そう囁きあった。「じゃあ、ひとまず仲直り出来たところで、学校行きますか」「そうだね。……当麻君。持って」「あ、ああ」上条は鞄を渡されて、少し戸惑った。姫神の荷物を持つのは嫌ではないが、意図がつかめなかったからだ。罰ゲームなのだろうかと考えたところで、予想を全く裏切る行為に姫神が出た。「ちょ、ちょっと秋沙。ここエントランス!」「学校でやるのは恥ずかしいから。ここで許してあげる」姫神は正面に立って、開いた両腕を上条の背に回した。二人の距離がゼロになる。朝だからなのか、姫神の匂いがフレッシュに感じられる。その柔らかさが、気持ちいい。……それはいいが、ここは朝のエントランス。思わず辺りを見渡さずに入られなかった。幸い人はいない。「当麻君は。そういう人だって分かってたから。浮気性でどんな女の人でもすぐ落とす人だって」「いやいやいや! 何だよそのひどい評価!」「だから。当麻君の一番になりたい私は。当麻君に一番愛してもらえるようもっと努力する。でも。見返りがなかったら。私もいつか疲れちゃうよ?」わかってほしいと、姫神が目でそう訴えた。それだけで、姫神以外が見えなくなった。姫神が可愛い。見返りなんて、いくらでも与える気だ。それで微笑んでくれるなら。それで幸せになってくれるなら。上条は開いた片腕で、ぎゅっと姫神を抱きしめ返した。「上条ちゃん。まだ終わらないんですか?」「い、いやあ。この式ってどうやって展開するんだったかなー、なんて」「……それ、小萌先生は授業でちゃんと書いたですよ! それも今日の授業で!まさか上条ちゃん。分からないのに板書のメモを取ってなかったんですか?」鋭い叱責が飛ぶ。小萌先生が、いつになくスパルタだった。隣では同じように補習を受ける青髪がいつ自分はしかってもらえるのかとワクワクして待っている。まあ、期待は裏切られるだろう。さっきから小萌先生の叱責は上条にしか飛んでいないのだった。理由はこれまた分かりやすい。……姫神が、自分の席で淡々と補習の問題を解いているからだ。勿論、真面目な姫神は補習を受ける義務などない。ちょっと分からない所があったから、なんて上条に告げた言い訳はどこから見ても不自然で、本音は教室を出るところからガッチリ上条を捕まえて一緒に帰る気満々らしかった。上条は内心そういう姫神のいじらしさが嬉しくて、早く終わらせようという気にもなるのだが、どうやら上条以上に小萌先生が燃えてしまったらしい。「カミやーん。ええなあ。小萌先生に苛められて。しかも小萌先生の後は姫神さんとなんやね」「……姫神に苛められる予定はないぞ」「じゃあ何するん? 何するん?」ぼんやり笑う青髪の背中に、どす黒いオーラが立ち上る。「上条ちゃん! おしゃべりしてる暇はないですよ!」「……」声をかけるのは小萌先生だけだが、教室の遠くからチラリと送られる姫神の一瞥も、上条にプレッシャーを与える要因だった。「小萌先生すみません! ボクもしゃべってました!」「集中しないと駄目ですよ」「はーい! ……もっとカミやんみたいにきつく言ってほしいのに」青髪の切ない呟きは、小萌先生には届かなかった。補習は、与えられたプリントを終えた人間から帰れる形だった。教卓の小萌先生にプリントを持っていくと、目の前で採点して間違いを指摘してくれる。上条は二度ほど突き返されて、ようやく終わりそうだった。「……はい。ちゃんとこれで直りましたね。上条ちゃん、この問題は検算も簡単なんですから、落ち着いて全部確かめれば間違いは避けられるんですよ?」「まあ、それはそうなんですけど、なかなか」「きちんと手続きを踏めば正解できるんですから。そういう部分を疎かにしてはいけないですよ」「はい。それじゃあ、帰ります」「小萌先生。私も。終わった」「あ、姫神ちゃん。すぐ終わらせますね。……これも、これも、これも、はい。姫神ちゃんはちゃんと出来てますね。全問合ってます」「よかった。それじゃ。帰ります」「はいです。狼さんに送られちゃ駄目ですからねーっ?」「……狼が拾い食いしないように、首輪をつけて帰る予定」「あの、姫神さん? 帰り道は狼の散歩でもなさるおつもりで?」「何を言っているの? 当麻君」狼ってのは俺のことなんだろーなー、と上条も察しはつくし、首輪をつけて帰るって言葉の意味も分かるのだが、拾い食いの意味するところがよくわからなかった。いかに貧乏学生の上条とて拾い食いの経験はない。「いい彼女さんやねえ。カミやんの帰りにあわせてくれたんやね」「うるせ。てかお前もとっくに仕上がってるだろ? さっさと帰れよ」「カミやんは信じられへんこというね。最後まで小萌先生に面倒見てもらいたないん?ああ、カミやんは今からデートやもんねーいいねーうらやましいねー」面倒くさい隣のを無視して筆記具やテキストを仕舞い、さっさと上条は鞄を背負って席を後にした。姫神を見ると、向こうも準備を済ませて、友達に挨拶しているらしかった。ふと視線をその周囲にスライドさせると、まばらに座る生徒のほぼ全員が、意味ありげにこちらを見つめていた。「あ、み、みんなお疲れ」「さようなら、また明日お会いしましょうです。上条ちゃん、姫神ちゃん」小萌先生だけがにこやかに手を振ってくれた。「今日は。すぐに帰るの?」「いや、買い物する以外は別に予定はないよ。まあ、インデックスに最近構ってやってないから、どっかで穴埋めしないとまずいなー、とは思ってるけど」インデックスは友人も少なく暇をもてあまし気味なので、定期的に遊んでやらないと不機嫌になって、晩御飯を作ってる間中愚痴を言い続けたり意味もなく噛み付かれたりするので厄介なのだ。「あの子は。昨日の夜遊んであげたんじゃないの?」「ん? いやまあ、時間もそんなになかったしたいしたことはしてないけど」「でも遊んだんだよね」「そりゃそうだけど……姫神?」「姫神じゃない」「ごめん。秋沙」「我侭だって思われたら嫌だけど。当麻君のことを当麻君って呼ぶようになってから。私は一度も当麻君と放課後遊んでない」そういえばそうだった。昨日は、長引いた補習の後に雲川先輩に連れまわされた。自分で言ったことをきっかけに、姫神の機嫌が急激に曇り空な感じになってきた。「じゃ、じゃあ今日はどっかいくか」「当麻君があの子と遊びたいんなら。帰ってもいいよ」「そんな風に言わなくてもいいだろ。秋沙と一緒にいたいからさ、どっか遊びに行こうぜ」「他の女の子にはそんな事言わない?」「言わねーよ」すこしぶっきらぼうに歩き出す上条の腕に、きゅっと姫神が絡まった。恐る恐る表情を覗き込むと、意外と機嫌は悪くなさそうだった。「うん。遊びに。行こう」姫神は上条の歩幅に合わせて歩き始めた。「ここでいいのか?」「うん。ここがいいの。理由は……わかってくれる?」「ん。たぶん」目の前にあるのは、別段珍しくもないファストフードの店だ。ゲーセンだのなんだのより、姫神が行きたいと言ったのはここだった。夏休みのある日。姫神と初めて会ったのが、ここだった。「ほんとに分かってる?」「席は二階の、あそこだろ?」「……良かった。覚えててくれたんだね」「いやあの出会いはそう忘れられるものじゃないと思うんだけど」「そうかな? 当麻君ならもっとドラマティックな女の人との出会いとか、いくらでもあるでしょ?」「ねーよ。そんなもんこの上条さんに限ってあるわけないだろ?」「嘘」「嘘って。第一ドラマティックな出会いってどんなのだ?」店に入って、オーダー待ちの列に並ぶ。「角を曲がったら女の子にぶつかったとか」「ない。どこのアニメですか?」「路地裏で絡まれてる女の子を助けたとか?」「……そういうことは、まあ、たまにやるけど」「ほら」「いやでもありがとうございますって言われてすぐ別れるから、そういうので知り合った女の子なんて一人も覚えてないって」「ふうん」「信用してくれよ」「信用させて欲しい。……他には。死にそうなくらいの目にあった女の子を助けたことは?」「え? えーと」「ほら。当麻君にはそういう女の子がいっぱいいるんだね」さっぱり分からない。姫神とデートして、姫神が行きたいというところに連れて行ってやって。……で、なぜ姫神の機嫌は単調降下していくのか。事故が振ってかかったような気分になりながら、上条は必死に弁解をする。「そういう女の子って、まあ成り行きで助けたことになる女の子は確かに何人かいるけどさ、別にその子達と知り合い以上の関係になったことなんかないんですけど」「でも。そういう女の子たちの中にはきっと。当麻君のことを好きな人がいるよ」「そうかぁ? それでモテるんなら苦労しないと思うんだけどな」「私が当麻君を好きになったきっかけは。それだよ」「秋沙」「私は。おかしな勘繰りをしてるんじゃないよ。私みたいな人が。きっと他にもいるって。それだけ。私の中で当麻君が特別な人になったきっかけは分かりやすいけど。当麻君の中で私が特別な人になれてるのかどうか。ちょっと自信がないよ」上条がそれに言葉を返すより先に、ちょうどオーダーの順番が回ってきた。業務用に貼り付けたスマイルが、早く注文しろと急かしている。適当に二人分の注文をして、二階へと上がった。「あー、空いてないな」「仕方ないね。半分くらいは諦めてたけど。どこに座る?」「……あそこでいいか?」「うん。いいけど」思惑があって、上条はそこを指定した。フロアの中央に立つ柱のせいでテーブルが入り組んだ配置になっている。フロアの片隅にある比較的見えにくい二人席。壁際のほうの席はソファ状で、向かいの席がイスになっている。人目をそれほど気にしないでいいので、カップル御用達の席なのだった。今日は上手く空いていた。「秋沙。そっちじゃなくて、こっちに」「え? でも。当麻君がそっちに座るんじゃ?」ソファ席のほうに上条は座った。そして、椅子に座ろうとする姫神に、自分の横に来るように言った。つまり対面になるよう作られた二人席で、無理矢理片方の座席に二人で収まって、密着しながらハンバーガーにかぶりつく構図だ。姫神が、少し遅れて上条の意図を理解した。「その。本当にこれやるの?」「嫌か?」「だって。誰かに見られたら。恥ずかしいよ」「見られて困る奴がいるのか?」「ここ。吹ちゃんとかも来るお店だし」「別に吹寄に見られたって、いいだろ。俺と秋沙は付き合ってるんだし。……俺だって恥ずかしい思いして言ってるんだ。嫌なら嫌でも、まあ、仕方ないけどさ。こんなことしようって誘ってるの、初めてだし。秋沙だけだ」ほんの一瞬の躊躇い。そして姫神は、えいっとばかりに上条の隣にもぐりこんだ。「嫌か?」姫神がふるふると頭を横に振った。横にある壁と上条の間にすっぽりと収まって、軽く姫神が上条にもたれかかった。「どうしよう。恥ずかしいけど。すごく嬉しい」「まあなんだ。これなら、彼女っぽいだろ?」「うん」「こんなことしたいって思うのも、秋沙にだけだからな。その、秋沙。好きだよ。やべ、正直言って俺も恥ずかしくて、どうにかなりそうだ」「うん。私も当麻君のこと大好きだよ。困らせて。ごめんね」「いいよ。妬いてくれるのも可愛いし」「もう。……でも、可愛いやきもちって難しいよ」「ん?」「やきもちな時って。構って欲しくてすぐ嫌なことを言っちゃうから。私とあの子どっちが大事なんて聞かれて。当麻君だって絶対にしんどいって分かってるんだけど」目でそっと謝った姫神をぐっと抱き寄せる。姫神からも腕が回されて、見えにくいと言いながら人目もある店内で、ぎゅっと抱きしめあった。「当麻君。恥ずかしいけど。じゃあどうぞ」「え? ああ。」姫神がポテトを一本つまんで、上条の口元に持っていった。お互いに緊張でぎこちなくなりながらも、上条は出されたそれを齧った。「ホントのホントの感想を言うとな」「うん」「緊張してていまいち味が分からない」「ふふ。私も当麻君にされたらそうかも」「ほら、食べるか?」「うん。ありがとう」そっと口を開いてポテトを待つ姫神の顔の前で、三秒くらいポテトを止めてやった。「当麻君?」「ご、ごめんごめん。つい」「もう。当麻君の馬鹿」今度は余計なことはせずに、姫神の口に入れた。「美味いか?」「……普通」「まあ、ただのフライドポテトだしな」「たしかに。いつもより味が分からないかも」「このペースで全部食べさせあうと大変なことになるな」「それでもいいよ。ここ。すごく落ち着くから。こうやって当麻君とべたべたしながらおしゃべりできるし」たぶん、夕方まで何をするかがこれで決まった気がする。ハンバーガーが冷めるのはいいが、周りの冷たい視線が刺さりやしないかと上条は少し心配した。「秋沙、飲むか?」「うん。ありがとう」安く済ませるため、ドリンクは二人でひとつ、Lサイズのジンジャーエールを頼んでいた。自分で一口飲んで、そのまま姫神の口元に持っていく。「あは。間接、だね」「あんまり抵抗なくなってきたな」「そうだね。ドキドキしなくなっちゃうのは。ちょっと残念だけど。……っていうか当麻君は。女の人と間接キスなんて気にしないでしょ」「なあ姫神さんや。なんでそんなに俺のことを見境なしみたいに言うんだよ。そりゃ確かに否定できないケースもあるけどさ」上条はこれまで女の子と付き合ったことのない男子高校生だった。ぶっちゃけ、間接キスでもドキドキできた自信はある。そんな甘酸っぱい出来事があったなら覚えていないわけがない。だが、姫神はそんな上条の思いに全く賛同してくれそうもなかった。僅かに唇を尖らせ、文句を言うように僅かに上条の肩を頭で小突いた。「テレビで見たよ。当麻君が間接キスしてるの」「テレビ?」「大覇星祭のとき。当麻君は借り物競争で女の子と手を繋いで走ったよね。ゴールした後手を繋いだ子から貰ったスポーツドリンク。当麻君飲んでた。」「……」「そういえば汗も拭いてもらってたね。あの子こないだゲームセンターで会った常盤台の子だよね」なんでそんなに覚えてるんだよ、という思いは言葉にならなかった。確かに美琴に引っ張りまわされたのは覚えてる。けど、スポーツドリンクなんて貰ったっけか。上条はそのへんの記憶が曖昧だった。それからすぐ学園都市に侵入したオリアナ・トムソンの追跡を始めて――「……」「当麻君?」「……」「もしかして。気を使わせちゃってる。かな?」「いや、だって。あの時。俺は秋沙のこと――」上条はその日、血まみれの姫神をまたいで走り去った。「いいの。あの時当麻君が何をしてたのか。あの子から聞いているから」「だけどあんな大きな傷で」「当麻君もあのお医者さんの腕は知ってるでしょ? 痕も残ってないし。……私のことで。怒ってくれてありがとう」「なんだよそれ」ひときわぎゅっと、姫神が上条に抱きついた。「大切に思ってもらえるのが。嬉しいんだよ」「秋沙があんな目にあうところ、見たくない」「うん。私も二度は嫌だね。……ねえ当麻君。もしあの時。もう私が当麻君の彼女だったら。当麻君はどうしたのかな?」上条は、咄嗟に答えを返せなかった。上条に出来ること、出来ないことは姫神がクラスメイトか彼女かと、何の関係もない。あの時傷ついた姫神をどうにかする力は上条にはなかったし、そして今もない。そして学園都市を守るために、急いで追うべき敵がいるならば。「ごめんね」「なんで謝るんだ?」「天秤に掛けちゃいけないものを。当麻君に比べてもらおうとしちゃったから」上条は何を言葉にしていいかわからなくて、姫神を抱き寄せた。姫神はそれに逆らわなかった。無言で、上条は姫神の髪を梳く。目を優しくつむった姫神の表情を、可愛いと思った。二人はお互いに内心で、この後どうしようかと、悩んでいた。恋人らしく密着して甘い感じはあるのだが、すこししんみりした雰囲気になってしまった。明るい話を振りたくて、頭の中で話のネタを検索していく。「あ……」そこで不意に、見知った第三者の声が二人にかけられた。「このお店でお茶するの久しぶりですねー」「だねー。やっぱりこのシーズンになるとこのグラタンコロッケが食べたくなるんだよね」先に会計を済ませ、初春と佐天は二階へと上がる。大覇星祭の前後は風紀委員の仕事が忙しく、美琴を含め4人で集まる機会がここしばらくなかった。今日は久々に、おしゃべりに花を咲かせる予定の日だったのだ。その中でも、二人が最も期待していたのは。「切り出しは『そういえば、御坂さんって好きな人っていますか?』でいいかな?」「ちょっと唐突過ぎますよ。それ」「じゃあ初春ならどう話を持っていくの?」「そうですね……」初春はきっかけを探して周囲を見回す。今日の一番の目的は、『御坂さんに好きな人が出来たらしい?』という件について、しっかり問い詰めることだ。どうも常盤台学園の理事の孫に見初められているらしい、なんていう初春好みの噂が流れているせいで、この花飾りの少女はあれこれと妄想を書き立てているらしかった。佐天はなんだかその肩書きのチャラさが美琴には合わない気がしていたが、好きな人がいるという噂にはどことなく真実味を感じていた。「あの人たちを引き合いに出す、って言うのはどうですか?」「え、あのカップル? ……うーん、まあいいけど」「あんまり乗り気じゃないですね」「別に案は悪くないんだけど、ああいう人たちってあんまり好きじゃないんだ。ひがんでるつもりはないけどさ、ああいうことすると周りの人の気分は良くないし。ベタベタするのはもっと別のところでやればいいのに、って思っちゃうんだよね」「んー。まあ、そうですねぇ」ツンツン頭の男の人と、サラリとした髪の綺麗な女の人、どちらも高校生らしいカップルが睦みあっていた。佐天の言うとおり直視するのも恥ずかしいし、近寄りたくはない。だが、あんなにも優しげに髪を撫でられる女の人の心境はどんなものだろうと、初春はちょっと気になるところもあるのであった。「あ、もしかして初春はああいうのに憧れてる感じ? もー言ってくれればいいのにっ!」「へっ? そそ、そんなことは。って佐天さん! 駄目です、人が見てます!」四人席のボックスのソファで、佐天と初春は隣に腰掛けていた。それが間違いだった。佐天の腕がぎゅっと体に回される。まるで遠慮がなくて、佐天の体が密着した。そっと頬に手が添えられる。「可愛いよ。ボクの飾利」「変なこと言わないで下さい佐天さん!」「えーこういうのが良いんじゃないの?」「そんなこと思ってません!」白井と美琴が上ってくるまでのしばらくの間、初春と佐天はフロアの死角でいちゃつくバカップルよりも濃密な時間を過ごした。一度とっちめてやらねばなるまい、と黒子は心に決めていた。ここ数日、美琴の返事がずっと上の空なのだ。一応取り繕う気はあるのか、そう露骨なことはないのだが、いつもと比べて会話のリズムが変にかみ合わないことが多くて、気になっていた。寝つきが悪いのも気になる点だった。黒子より寝つきの早い美琴の寝顔を見てから眠るのがひそかな楽しみだったのに、このごろはどんより曇ったため息が聞こえてくることが多くて、嫌だった。「ここも久しぶりですわね。というかここでよろしかったんですの?」「ん? なんで?」「こないだ話した、地下街にある紅茶セレクトショップのイートインでもよろしかったのに、と思いましたから」「うーん、別にそれでも良かったけど、地下より外が見えるところで食べる気分かなーって」疑心暗鬼のせいなのかもしれないが、こんな会話一つとっても、黒子にはなにか引っかかるのだ。あの店は、かなりいいチョイスだと自負している。美琴の好きなケーキが美味しいと評判の店だし、遊びに行くことの多いゲームセンターからも近い。天気がいい日の続いた後で、今日は曇りだ。べつに外で食べたい気分になどならないと思う。そういう、不確かではあるけれどお姉さまらしくないこと、というのが積み重なって黒子の気になっていた。……原因は多分、あの類人猿。その方面の話を初春がしたがっていたから、今日この店で、お姉さまの真意をはっきりとさせてやるのだと黒子は息まいていた。「さて、それでは私たちも上がりましょうか」「ん」店員からトレイを受け取って、階段を上がる。それほど人は多くないし、このようすならすぐさま追い出されるようなことはないだろう。羽を伸ばしてあれこれおしゃべりできそうだった。「黒子。手拭きの紙とってくるから」「あ、それなら私が」「いいって。あっちで佐天さんたち待ってるから行ってきな」「すみません」黒子は窓際で手を振る佐天たちのほうに歩き出した。他の客、特に柱から程近いところにいるカップルは、目に入らなかった。「あ……」鬱陶しいカップルがいるわねー、と思った直後だった。そこにいるのha、上条当麻と先日のクラスメイトらしき女だった。「よ、よお御坂」「……」上条は気恥ずかしさに思わず辺りを見回した。遠くに白井らしき背中が見えた。残念なことに、ここで姫神とこうしている時間はここで打ち切りになりそうだった。さすがに知り合いが傍にいる状況でこんなことをする度胸はない。隣の姫神に目を向けると、上条の胴に回した腕を解くことなく、美琴に会釈していた。……それにしても、ビリビリが飛んでこない。いつもと様子が違う気がした。何やってんのよ、と言おうとして。上手く唇が動いてくれなかった。そもそも肺がきちんと息を吸ってくれない。いや、それを言えない理由は、体のせいじゃない。何をやっているのかが本当に分かってしまったら、それは――――「あの。悪いんだけど。見られると少し恥ずかしいから」隣の女が、美琴にそんなことを切り出してきた。おずおずと、という雰囲気を出しているのが癇に障った。上条の目の前にいる自分という女が疎ましいのだろう。それなら、失せろと一言、言えばいい。恥ずかしいだのと男の前で取り繕った事を言うその態度が、不愉快だった。「こんな人前で恥ずかしいコトやってる癖によく言うわね」「それを言われると。確かにそうだけど」目の前の女が、簡単に言い負かされた態度を取って戸惑う。気に入らない。それが優越感の裏返しなのは見え見えだった。「ならさっさとその破廉恥な抱きつき方止めたら?」「うん。そうだね」「お、おい。御坂。そんな言い方しなくてもいいだろ?そりゃ見てて気持ちのいいもんじゃないかもしれないけど、無視すりゃ済む程度のことじゃねえか」女が体を離した。だけど同時にその女を庇うように、上条が背中に優しく手を触れた。それだけで、自分が悪者のように、酷いことをした人になってしまった。その裁定は理不尽で独善的で……美琴の中で捨て場のない感情が暴れまわった。「アンタは――」ソイツと付き合ってるの、と最後まで言えなかった。確認しないとここを身動きが出来ないくらい気になるのに、確認したとたん何もかもが終わってしまうような不安で、やっぱり身動きが取れなかった。「なんだよ」「……隣の女、の人は」つい先日、付き合っていないと上条の口から聞いた相手だった。付き合っていなかったはずなのだ。つい先日までは。美琴だって上条と付き合ってなんかはいないが、少なくとも隣のこの女と対等なはずだったのだ。「こないだ会ったから一応知ってるだろ? まあ名前は覚えてないか。姫神秋沙って言うんだけど」「そうじゃなくて。その、アンタは……」美琴の物言いはとにかく歯切れが悪かった。毛先を繕ったり、つま先を立てて足でトントンと地面を叩いたり。何が言いたいんだと聞いてやろうとしたところで、ふと気づく。そういや御坂には秋沙と付き合ってないってモロに言ってたもんな。その二三日後にこれじゃあ、確かに気になるな。「御坂。俺と秋沙のことだけど」「えっ?」美琴は、こういうことにかけては反則的に物分かりの悪い上条が、一発で美琴の聞きたいことに思い当たったことに驚いた。そして、秋沙、と下の名前を呼んだことが、希望をぐしゃりと握りつぶすような圧迫感を美琴に与えた。「こないだ御坂とゲーセンであった日があっただろ?あの日さ、秋沙と夜まで遊んで、まあそのなんだ」口の中がカラカラと乾いた感じがした。目の前で、上条がチラリと姫神という女に目配せした。その女は上条の目線に幸せそうな微笑を返して、ごく軽く、自然な仕草で上条の腕を抱いた。……美琴を、一瞥だにしなかった。「こないだから、秋沙と付き合おうってことに、なった」美琴は、返すリアクションをすぐさま練った。なのに糸を失った糸巻きの芯みたいにカラカラと美琴の脳内は空転する。何か。言葉でなくても、態度でもいい。何かを返さなきゃ。「あ……」自分の口から出たのはまるで文脈に沿わない、ただの嗚咽だけだった。突きつけられた事実が、あっという間に美琴を窒息させていく。「? なんだよ御坂。変な顔して」なんでもないわよ、と返したかった。それが出来れば、いつもどおりの世界に戻れるのに。胸の中に出来た喪失感が、現実世界の距離感まで狂わせていく。魚眼レンズで覗いたみたいに上条が遠い。ようやく口をついて出てきた言葉は。どうしようもなく本音であり、だからこそ言うべきではなかったかもしれない。「なんでアンタは、その人を選んだの?」「御坂さん、どうしたんでしょうね」「え?」そういえば少し戻りが遅いなと、黒子は後ろを振り返った。柱の陰で見えにくいところに、美琴は立っている。テーブルに座った誰かと話しているようだった。「知り合いでもいらっしゃったんじゃありませんこと?」「え、でも初春。あそこに座ってたのって」「そういえば、あのカップル……」「知っている人ですの?」「いえ。知らない人なんですけど、高校生のカップルが見るのも恥ずかしい感じの空気を出してたんです」「御坂さん、よく話しかけられますねー……」「ちょっと、様子を見てきますわ」黒子はパッと立ち上がって美琴のほうへ近づいていった。初春と佐天は、四人でカップルを囲むのも気が引けて、そのままボックスで待ち続けることにした。「なんで、って。別になんででもいいじゃねーか。……恥ずかしいだろ」お姉さま、と声をかけるより先に、どこかで聞いたことにある声に黒子の警戒度が跳ね上がった。……が、様子を見るにどうやらあの男が美琴に手を出しているわけではないらしい。隣には高校生らしき長髪の女性が侍っている。明らかにこの二人はカップルだった。「ずっとその人のこと、好きだったの?」美琴の、曇った声がした。その声で黒子はでしゃばるのが躊躇われた。「ずっと、って。何を言わせるんだよ……。秋沙と知り合ったのはそもそも夏休みの真ん中らへんだし、そういう意味じゃ、ずっととは言えないかもな」気恥ずかしいのを誤魔化すように、上条はぶっきら棒にそう言った。夏休みの真ん中といえば、美琴にとって、とても大きな出来事のあった時期だ。自分は一学期から上条を知っていた。目の前の女より長い期間、上条当麻という人間を知り、時折町で出会って関係を深めて、上条の心に、自分という人を刻み付けていっている、そういうつもりだったのに。――盗られた。独善的な価値観だと分かっているから、口にはしない。だが割り切れない思いとは別に、その気持ちは綺麗に割り切れていた。上条の隣にふてぶてしく居座るこの女への、怒り。そこまで考えて、美琴はおかしなことに気づいた。アイツがムカツクなら、アイツに怒れば良いだけなのに。なんで私は、隣のこの人のことに、ムカついてんだろう。――嫉妬。その瞬間、その言葉の意味を、どうしようもなく実感で、美琴は理解した。それはつまり、自分の抱えている気持ちに気づいたという、そういうことでもあった。「私……アンタのこと、好きだったんだ」「えっ?」上条の純粋な驚きの声聞こえた。それで美琴は、今自分が思ったことをそのまま口にしてしまったことに気づいた。「え、あ……嘘。なん、で。私……」言ったことは、隠せない。上条がほうけたような目でこちらを見つめている。隣の女のほうは、見る勇気がもう美琴にはなかった。「御坂」ビクリと、美琴はその呼びかけに怯えた。今はもう、何を言われるのも怖かった。顔を上げない美琴の視界の外で、上条は姫神の腕を解いて、居住まいを正した。「見てのとおりだけど、今俺には、付き合ってる人がいる。こんなこと言うの悪いなって思うけどさ。俺は、御坂お前と――」上条の言葉の、その続きだけは絶対に聞きたくなかった。アイツとの今までの距離が、私は大好きだったんだ。もっと好きになってもらえたら嬉しかった、けど。明日からもう今までみたいな関係ですらいられなくなるのは、絶対にやだ。そんなの、絶対に。もう、これからずっと無視されるのかもしれないけど、それでも、アイツの口から、ごめんって言葉を聴くのは絶対にやだ。友達でもいいなんて嘘、私自身を誤魔化せないかもしれないけど。「言わなくても分かってるわよ! そんな変にかしこまった顔なんてアンタに全然似合ってないのよ!」「……え?」「あーあ、ま、言えてちょっとスッキリしたってトコかな。アンタも店ん中に公害撒き散らすのいい加減にしなさいよ。……って黒子あんたいたの? ほら、初春さんたち待ってるから、さっさと行こう」「ええ。分かりましたわ。お姉さま」まるで名残惜しさを見せずに上条たちに背を向けた美琴の後ろで、黒子がそっと頭を下げた。黒子とて罵ってやりたい言葉は山のように抱えていたが、それより大事なことがある。きっともう涙を隠しきれなくなっている美琴の撤退手伝いを、しんがりとして完璧に勤め上げること。呆然と見つめる上条に、目線だけはきついのをくれてやって、黒子も背を向けた。お姉さまの良さが分からないこんな男に、もう用なんてない。「御坂、さん……」「いやーごめんごめん。ちょっと待たせちゃったね。っく。食べ。よっか」美琴の強がりが崩れていくのに佐天と初春は初め驚いたが、すぐに、朗らかな態度で話し始めた。「気にしないで下さい御坂さん。初春は食べたそうにしてましたけど私はちゃんと御坂さんを待ってましたから!」「ちょっと佐天さん! まだかなーなんて言ったのは佐天さんだったじゃないですか!」「まーまー細かいことは良いじゃない。ほら、食べながら後のこと考えよっ」何も言わず、日常を形作ってくれる友達に、美琴は感謝した。いつ、上条と姫神が出て行ったのか、美琴は気づかなかった。その4へ
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