「はあ、疲れた」「そういう愚痴は私とも別れてからにしろ」「すみません。正直な感想が出ました」「……上条。やけに私の扱いがぞんざいになってきたな」「それを先輩が言いますか」首が苦しくて蝶ネクタイを外そうとして、自分でつけ直せないからためらう。すると後ろからそっと、雲川が外してくれた。仕事を終えた手が、上条の背中を撫でた。「悪かったな。でも、お前を不愉快にさせたいわけじゃない、けど。私は愛情表現が、たぶん素直じゃないんだ」顔の見えないところでそんな風に吐露された雲川の言葉が、やけに素直でドキリとした。どうしていいかわからなくて、傍にあった小さな冷蔵庫の中身を取り出して、封を開けた。「何も答えてくれないんだな」「先輩。酔ってますか?」「ああ。酔っている。そういうことに、しておこう」上条は三分の一ほど飲んだミネラルウォータの瓶を雲川に渡した。栓抜きで口を開けたそれは、多分隣の棚にある洒落たグラスで飲むものなんだろう。行儀の悪い自分と雲川は、気にせず瓶に直接口をつけた。瀟洒なドレスに身を包み、いつもよりずっと綺麗に髪を梳き纏めた雲川が、そんなことを微塵も気にしない動作で水をラッパ飲みする。その少しの品のなさが、やけに艶っぽかった。「いいソファですね」「別にそうでもないと思うけど」黒い革で出来たシックなソファは、見かけより柔らかい座り心地だ。二人してどかりとそこに腰掛け、安息のため息をついた。「酔うと眠くなるんですかね?」「さあ。私だって飲み慣れてはいないけど。でも、そうかもしれないな。眠いのか? か……当麻」「今上条って呼ぼうとしたでしょう。二人っきりなんだからそれでいいじゃないですか」「二人っきりだから、それではつまらないと思うんだけど」「あーはいそうですね」「真面目に取り合え、当麻」「芹亜」回らない頭で、仕返しのつもりでそう呼んでやった。はっと雲川が息を呑んだ音で、自分のしたことに気づいた。自分は誰を、いや誰以外を、下の名前で呼んだ?「……酔ってるんだな。上条」「そうみたいです。すみません、雲川先輩」「ここのソファは背を倒せるんだ。何なら本当に一眠りしようか」僅かにギシリと音を立てて、ソファの背もたれがフラットになった。横長だったソファは、簡易的なベッドになった。『ご休憩』のための個室のソファにこんな機能がある理由が、気になった。「お前の想像通りだよ。パーティなんだからそういうことだってある」「それを知ってるって、先輩は」「勘違いをしているけど。私は、処女だよ。ついでに言えばファーストキスだってまだなんだからな」雲川と二人でそこに倒れこむのが躊躇われたが、靴を脱いで上がれと促された。酒に弱いのはかなり確実みたいで、上条はひたすら眠気を覚えていた。満腹感との相乗効果もあったのかもしれない。簡易ベッドになったそこに倒れこみ、天井の弱めのライトを見つめていると、そっとブランケットが掛けられた。「風邪を引くぞ」「あ……すみません」そして上条の隣に、髪留めを解いた雲川が寝そべった。胸元の丘陵は仰向けになってなお、その豊かさを強調する。場違いな感じもする携帯を雲川がカチカチと弄んだ。「保険で一時間後に目覚ましはかけておいた。まあ、眠らなくともしばらくはこうしていよう」「いいんですか」「それはきっと、お前が自分の胸に問いかけるべき言葉だと思うけど」その言葉に、上条は反論しなかった。もう随分と意識がうつらうつらとしていたからだった。「当麻」「ん……」「完全に眠ってはいない、というところか。ふふ。こんなタイミングでしか言えないけど。私は、お前のことが好きだよ」もぞもぞと上条と同じブランケットに雲川がもぐりこむ音がして、そこで意識が途絶えた。雲川はほとんど酔ってなどいなかったし、別に眠たいわけでもなかった。隣にいる上条を見ると、軽い寝息を立ててあどけない顔をしていた。しばらくは、その寝顔を眺めて過ごした。心のどこかに虚しいものを感じるから、してこなかったのだが。そう考えれば、今の思考自体、酔いの産物なのかもしれない。雲川は、上条の胸元にそっと顔を寄せた。上条の匂い。すこし汗ばんだ匂いなのは、やはりこの場所に緊張したのだろう。恋人の匂いだと思えば、それは嫌な気持ちにならなかった。鼻から抜ける寝息が髪に掛かる。くすぐったい。恋人の吐息だと思えば、それは嫌な気持ちにならなかった。動かされた腕が、軽く胸に触れた。恋人の愛撫だと思えば、それは嫌な気持ちにならなかった。その夢想は、上条が起きるまでの門限つき。上条は学園都市という巨大なチェスボードの上の駒で、自分はゲームのプレイヤーだ。その線引きがしがらみになって、声をかけられなかった。だからもう上条には彼女と呼べる人がいて、自分は数日遅れで、取り戻せもしないのに上条を振り回している。姫神から寝取る気もないのに、そんな素振りを見せて振り回している。客観的に現状を見ようとする自分を無理矢理眠りにつかせて、ただ、この瞬間に心と体を浸す。この瞬間を姫神に伝えれば、どうなるだろう。卑怯な先輩に絡め取られただけの上条を、許すだろうか。それともここまで着いて行ったことに、愛想を尽かすだろうか。「……私は、お前のことが好きだよ」だからこの、個室で寝顔を見られる一時間は大切で、そして空しい。きっと姫神になら、何に頼らずともこんなあどけない寝顔を見せてしまうのだろうに。アンビバレントな心を抱えながらも、雲川はこの時間を大切にしたいと想った。「ん……」唇に柔らかいものを押し当てられた感触で僅かに上条の意識は覚醒した。五感が損なわれているわけではないのだが、不安定な電灯のように意識が瞬くせいで、状況がどうにもきちんと把握できない。おかしいな、と上条は感じてはいた。寝覚めのそう悪いほうでもない。ああ、これって酒のせいなのか? と自問するもなにぶん経験の浅いことで分からない。酩酊感というやつなのか、この途切れ途切れでぼんやりとした現実感は、能力開発のための薬を飲んだときのそれに少し似ていた。規定の投薬量の数倍でも飲めばこんな感じになるだろうか。熱っぽい息が鼻をくすぐる。視界の隅でチラチラと明かりが瞬く。それでようやく、自分に誰かが覆いかぶさっているのが分かった。ねぶるように、唇の上で柔らかい肉が踊る。それがキスであることを察してようやく、上条の心は驚きを覚え始めた。「……んぁ、秋沙?」それは、最も自然な口付けの相手への呼びかけだった。あれこれ何度目のキスだっけ、なんてファーストキスもまだのはずなのに。ひぅ、と僅かに悲しいニュアンスを含んだ息遣いが気になったが、そこでまた意識が飛んだ。さらさらと、長い髪が上条の頬をくすぐる。ああ、秋沙の髪ってやっぱ長いな。頭を撫でてやろうとして、しかしまっすぐ手を伸ばすのが億劫になって垂れた髪をそっと梳いた。それに応じるように手が上条の頬に添えられた。普段の姫神より冷たくて、それが少し気になった。「当麻君」寂しそうな響きが、含まれているような気がした。声もちょっと違う気がしたが、呼びかけが姫神しか使わない、姫神だけのイントネーションだった。誰かが姫神の声色を真似たのだとは思わなかった。呼びかけてくれた想い人の心の隙間を生めてやりたくて、頭に手を伸ばして抱き寄せた。「ん、ちゅ……」再び、口付けが始まる。情熱的な交わりだった。もしかすればかなり深いまどろみの中にいる上条の唇使いは緩慢だったかもしれないが、精一杯、姫神に幸せを分けてあげられるようにと、心を尽くした。「ん、ん、んん」鼻に掛かった甘い声がこぼれる。自分の体が熱くなってくるのが分かる。それでも覚醒しないのは、少しもどかしくもあった。もっと体を触れ合わせたくなって、空いた手を伸ばした。抱きしめたことはあっても、姫神の体を、特に胸をじっくりと触ったことなんてなかった。……すげ、大きくて柔らかい。それが偽りのない感想だった。「あっ」驚きの声が、可愛かった。先輩でもこんな声を出すんだな、と思わせるような……あれ?「秋沙?」答えはなくて、代わりに唇の間に舌が差し込まれた。肌のこすれる音だけだったキスに、ピチャピチャとした水気のある音が混じり始める。この深いキスは接触面積が大きいものかと思いきや、意外とお互いの口腔内が広くて、上手に舌を絡め合わせるのに苦労する。時々犬歯に当たって痛い。……不意に理解する。ああ、だから相手の舌を吸えばいいのか。螺旋を描くように相手の舌に自分の舌を絡め、自分の口の中へと引き込む。そして息が漏れないように上手く口を封じて、きゅっと舌を吸い上げた。「ん!? ん、ん、ん、ん!」可愛い声が聞こえる。声の持ち主のことは、もう上条は気にならなかった。苦しいのか逃げる素振りを見せたので、背中を抱いて捕まえた。それだけで腰が砕けて、相手の体重の全てが上条に預けられた。少し苦しかったが、嫌な気はしなかった。胸板に押し当てられた相手の胸元が、びっくりするほど柔らかい。両手をぎゅっと体に回して、撫ぜ回した。「あっ、ふぁ……」不規則な吐息が上条の耳をくすぐる。時々声が漏れそうになっているのを必死に押さえているようで、つい、甲高い声を上げさせたくなる。「あっ……それ、は」豊かなヒップのラインを撫で上げる。そして同時に、スカートの裾を捲くっていく。すぐに、お尻に触れている感触が、布一枚分ダイレクトになった。見えないけど、恐らく下着が晒されているのだろう。おかしな気分だった。かなり目が覚めて、意識が途切れることがなくなったはずなのに、まだどこか夢を見ているような、ぼうっとした感じがする。お尻を撫でる手を止めて、背中に手を差し込んだ。僅かに汗ばんだ肌に、直接手が触れる。その感触が気持ちよかった。「はぁ……あ、だ、だめだ、って……」ブラのホックに触れたところで、抗うように身をよじり始めた。それが嗜虐心をそそった。抱き寄せながら口付けて無理矢理繋ぎとめて、上条は背中をまさぐった。女の子のブラを外してあげた経験なんてない。だからどういう構造をしているか、ぼんやりとしか分からない。「ん、あぅ、あっ!」上条の腕を振り払おうとしているのか、やんわりとした力でつかまれる。体をよじって上条の指先から逃げようとする。それでも、上条の体の上から退こうとはせず、女らしい匂いをさせた体を上条の体に擦り付ける。耳を噛んでやると、少し大人しくなった。くちゅりと、ひときわ湿っぽい音が口元からこぼれた。上条の口の中に絡まった二人分の唾液を、覆いかぶさった上から吸い上げて、飲み込んだ音だった。求めてくれることが、嬉しい。「秋沙」自分でもちょっと驚きを覚えるくらい、優しい声が出た気がする。姫神もびっくりしたのか、はっと息を呑んだらしかった。「……どうかしたのか?」どうしてか、姫神が口付けを辞めた。いやいやと言うように、上条の鎖骨辺りにおでこをぶつけて、首を横に振った。仕草が可愛くて、頭を撫でる。ばらけた髪を束ねるように集めた。腰まであるはずの姫神の髪が、やけに短く感じられた。「ちが、う」「え?」「芹亜。私の名前は、芹亜」「芹亜?」姫神の名前は、そんなんだっけか?聞きなれない名前が、頭に引っかかった。「今くらい。ちゃんと私を見てくれたって、いいじゃないか」「え?」思いをぶつけるように、口付けが再開された。上条の理性を蹂躙しかねない熱情。上条が何かを言うのをふさぐかのような勢いに戸惑いながら、働かない頭で寝ぼけた思考を必死に纏める。芹亜という名は、たしか雲川先輩の下の名前のはずだ。息を求めて唇が離れた瞬間に、じわりと這い寄る違和感に背中を押されて、誰何した。「なあ、秋沙?」「えっ?」その呼びかけで、二人の間にあった何かに、亀裂が入る音がした。硬直の時間が、僅かにあった。上条が戸惑っていると、しばらくして体が軽くなった。秋沙と上条が呼びかけたその相手は、隣に崩れ落ちた。ここでようやく、上条は自分が視覚をほとんど封じていたことに気がついた。薄明かりでろくに確保できなかった視界を、目を開いて手に入れる。肩が震えている。黒髪が広がって、表情は分からなかった。ドレスは、さっきまでの雲川が着ていたそのままだ。太もものきわどいところまで露になっているし、胸元もブラのカップまで見えている。急速に、現実感が取り戻されていく。「先輩?」「……い、まだけでも。芹、亜で、よかったのに」信じられない響きだった。気だるげで偉そうな雲川芹亜という人の声が、泣き声になるとこんな風になるのか。何かを考えるより先に、手が勝手に動いた。こんな風に弱弱しくなった女の子を、上条は放っておけなかった。だが、その手は強引に振り払われた。「莫迦……」「先輩、今、俺」雲川が顔を上げた。目じりに浮かべた光が、上条を捉えた。ぐいと再び、押し倒された。先ほどまで絡めあっていたであろう、姫神ではない、雲川の唇。三センチ先にそれを突きつけられて、上条は再び戸惑う。雲川の匂いに混じって、かすかにあの薬の匂いがした気がした。「卑怯なことをしても、幸せにはなれないんだな。上条」「……先輩」「芹亜って、呼んでほしい」「……芹亜」「うん。嬉しいよ、当麻。おやすみ」再びくちゅりという音を立てて、キスをされた。雲川の唾液が流れ込む。それを嚥下するとすぐに、再び泥のような眠りが上条の意識を窒息させた。――――そんな夢を、上条は見た。覚醒すれば砂で作ったお城みたいに、消えてしまう夢を。ピリリリ、という人の注意を喚起する音で、目が覚めた。秋沙とキスをして、それに先輩ともキス……いや、秋沙? それよりここ、そうだパーティで休憩してて。訳の分からない思考に振り回される。体を起こすと、まだぼうっとしていた。「ようやく目が覚めたのか」「……芹、雲川先輩」「なんだ、私の名前を呼んでくれるのか? 姫神にはもう飽きたのか」「いえ、そんな……え?」思わず、まじまじと雲川を眺めた。ドレスには着乱れたところなんてないし、髪だって整っている。自分の脳内で、ぼんやりしながらも強烈な印象を持っている出来事が、まるで目の前の雲川と合わない。「まだ姫神に寝顔を見せたことはないだろう? 上条」「はあ……そうですけど」「なかなか可愛かったぞ」「じろじろ見てたんですか」「ああ。私はそんなに眠くはなかったからな。それにしてもよく寝ていたな。ところで、どんな夢を見ていたんだ? 一度抱きしめられかけて、身の危険を感じたんだけど?」「へっ?」「まあ、こんな場所に連れ込んだ私が無防備だという指摘があれば全くその通りだけど。お前はもっと狼じゃなくて羊だと信じていたんだがな」「……」こんな、平然としていられないようなことが夢うつつにあった気がしている。姫神に後ろめたい思いをしないといけないような、そういうことがあったような。だが雲川の態度はそんな感じには見えなくて、あれは夢だったのかと上条は自分を納得させた。「まだ寝ぼけているのか? キレが悪いけど」「う。酒飲ませといて先輩がそれ言いますか」「そうそう。さっさとそうやって回復してくれ。どうせすぐにホールに戻らないといけないんだそろそろデザートが振舞われる時間帯だし、それが終われば閉会の挨拶だからな」「へいへい。……水、ありますか」「ああ」雲川が水の入ったボトルに口をつけて一口あおり、それを上条に渡した。「どうした? さっきお前は気にしなかったけど」「いや、あの」「上条。あまり意識しないでくれ。……脈があるのかと思うと、望みを捨てきれなくなるのが人間というものだけど」「脈って。そういうきわどいことを言うの止めたほうがいいですよ」「そうかな。それが、精一杯の私の気持ちだと思ってほしいのにな。今ここでした事だって」その一言で心臓が止まりそうになった。たぶん雲川が言っているのは、この部屋で二人して居眠りしたこと、それだけだ。上条の脳裏にフラッシュバックしたひと時の夢のことでは、決してないだろう。「思いは言葉にしないと、ちゃんと伝わらないものみたいですよ」「さすがはあまり人懐っこいほうではない姫神を射止めた男だな。言う事に説得力がある」「それ皮肉で言ってるでしょう」「確認を取るほどのことじゃないけど」身だしなみを整えて、二人で廊下へと続く扉をくぐった。会場に戻ると、もう宴もたけなわの空気だった。宣言どおりに雲川はデザート類を食べ、そうこうしている間にお決まりの閉会の挨拶があった。この会の意味も何を祝うのかも分かっていない上条は、周りが拍手するのにつられて拍手をして、それでパーティは幕切れとなったらしかった。「ふう、帰るか上条」「ええ。疲れました」「お前は食べていただけだけど」「こんな場所に来るのが疲れるんですよ」場所取りまで計算していたのか、雲川はほとんど一番乗りで会場を後にした。エントランスで行きと同じリムジンがすぐに現れて、スムーズに上条たちは帰路に着いた。「で、着替えるのか?」「へ? そりゃそうでしょう。服は返さないと」「返すも何も、それは経費で買ったお前の服だよ。着て帰っても構わないけど」「正直言って持ってても着ないですよ」「そうだな。私とまたデートするときは同じ服を着てもらうのは嫌だしな」「デートって。……それで、俺の制服とかはどこですか」雲川の立つ位置が、さっきより近い気がしてそればかりが気になった。二人っきりの車内で、腕がはっきりと触れ合うくらい接近していて、姫神しか入ってこないような、恋人の距離に雲川がいた。「この袋の中身だな。ちゃんと洗っておいてやったけど」「そりゃどうも。で、また着替えをジロジロ見るんですか?」「つまらないぞ上条。もっと恥じらいを覚えろ」一瞬、嗜虐的な笑みを浮かべた雲川が上条の首元に手を伸ばした。蝶ネクタイが外される。今日は何度も雲川に着け外しをしてもらった。「出来の悪い弟みたいだな」「ほっといてください」「それとも、甲斐甲斐しく夫の着替えを手伝う妻に見えるか?」蝶ネクタイを外したその手が首筋、胸元にかけてぷつりぷつりとボタンを外していく。良くないことだった。今日は一体何度、雲川にドキリとしただろう。そんな気持ちは、姫神にしか抱いちゃいけないのに。「雲川先輩、自分で出来ますから」「うん、知ってるけど」「こんなことしてくれなくていいです」「私は、したいからしてるんだけど?」「したい? どうしてですか」「恋人のいるお前に、私はそれを言えないよ」「え――」それは、どういう意味だろう。曖昧な笑みを浮かべて、雲川はそれ以上を語らなかった。そして上条のジャケットやベスト、シャツのボタンを外して上着を脱ぐのを手伝うと、あとはそっと身を引いて上条の着替えを待った。面白がりもせず。「あの、着替え終わりましたけど」「そうか」行きとは違う素っ気のなさに戸惑いながらも、上条はいつものTシャツの上から学ランを着た状態に戻った。雲川が、脱いだ上条の服を畳み始めた。「あ、俺やりますって」「うん。手伝いくらいはさせてくれ」「手伝いって。何も肌着から畳まなくても」肌の上から直接着たカッターシャツ。雲川が畳んでいるのはそれだった。緊張してかいた汗を吸っていて、一番他人が触りたくない服だろうと思う。雲川が綺麗に畳んだそれを持ち上げて、匂いを嗅いだ。「思い人が眠った布団の匂いをかぐヤツが主人公の小説が確かあったな」「変態ですよそれ」「少し汗っぽい匂いがするけど」「解説しないで下さい! 汗吸ったシャツなんだから当然でしょうが!」「当麻の、匂い」「こんなタイミングで名前で呼ぶなバカ先輩」「お前が要らないんなら持って帰ろうかな」「先輩ホントにそれやったらドン引きですよ」「代わりに私の下着をやろうか? 今ここで脱いで」「い、いやそんなのいらないですから!」「本当にか? 今、言葉に詰まったけど」「そんなお誘いきたら誰だってどもるくらいするに決まってんだろ!」おなかを押さえるようにしながら雲川がクスクスと笑う。そっとシャツを横において、ズボンを畳み始めた。それ以上をやらせるのは悪いので、上条は急いで他の服を畳む。「今日は楽しかったよ、上条」「そうですか」「本当にだよ」「……俺は疲れました」「明日からはまた、こんな距離で話すことは出来ないんだな」それは、そうだ。自分は恋人の姫神とクラスメイトだから、きっと学校では雲川先輩とはこんなことにならない。それを少し寂しく感じた自分を、自省した。不意に、雲川が上条の首元に腕を回し、胸に顔をうずめた。「寮に着くまで、こうさせてくれ」懇願の響きを持ったそれを、上条はたぶんやんわり断るべきだったのに。リムジンは静かに学園都市の道を走っていった。リムジンが寮から少し離れたところについてすぐ、上条は車内から追い出された。着替えるためだと言ってはいたが、素っ気無く追い出されたことに少し寂しさを覚えていた。「……インデックスにこれ食わせて、あとは宿題か」通常授業の分に加えて補習まであるのだ。睡眠時間が不足するくらいは頑張らないといけないだろう。重たい折り箱と憂鬱な気持ちを抱えながらエントランスを上条はくぐった。「あ。当麻君……」「秋沙?」ラフな格好の姫神が、驚いた目で上条を見つめた。郵便受けでもチェックしたのか、ゴミを捨てに降りたのか、そういう感じだった。「今。帰ってきたの?」「あ、ああ」「……一応聞いておくけど。危ないことに首を突っ込んだとかじゃないよね?」「ちがうって」会えたことに嬉しそうな顔をしてすぐ、心配げに表情を変えて上条の傍に近づいた。まるで上条を信用していないかのごとく、服が破れたり焦げたりしてないかを調べるように、姫神は上条の周りを一周した。「汚れてはないね」「……だろ?」後ろめたい。上条の内心はその言葉一色で染められている。上条が荒事に首を突っ込んだんでないらしいことを理解した姫神が、ほっと顔を緩ませる。それに釣られて、上条も僅かに微笑んだ。だがよく見ると、姫神の笑みが、いつもよりくっきりとしていて、妙な感じがした。「どうして。制服をクリーニングに出したの?」「え?」「当麻君は。よく腕をまくるから肘にしわがあるのに。さっき着なおしたばっかりみたいに綺麗だよ」「……えっと」「靴もちゃんときれいにしたんだね。自分で穿き潰した普通のスニーカーって言ってる靴なのに。すごく丁寧に擦り切れを直してある」「……あの」「当麻君」怒りを笑みに隠したような表情が、くしゃっと崩れて悲しそうな色を帯びた。「どうして。胸元にこんなに長い髪の毛がついてるの? クリーニングした服なのに」黙っているほうが悪く取られかねないくらい、ひどい状況証拠がそろっていた。何も悪いことをしたつもりはないはずなのに、夕方から今までの出来事を姫神に話すのが躊躇われた。姫神が、つまんだ髪を払い落とした。「雲川って女の人?」「え、な」なんで、と聞こうとして、自分が語るに落ちたことに気づいた。「やっぱり。……当麻君の。顔に書いてあるよ。当麻君は私のこと彼女だなんて思ってないのかもしれないけど。それでもすぐにわかったよ。あの人と遊んでたんだって」遊ぶ、という言葉に揶揄が込められていた。上条に嫌味を言っているようで、自虐的でもある言葉だった。「彼女と思ってないとか、そんなことないって」「だったらどうして? 当麻君に好きって言ったときに。約束したよね?」姫神秋沙以外の女の人とデートをしないこと。自分は当然のことだと思って、その約束を契った。雲川としたのは、デートではなかった。だから約束を反故にはしていない。だが、後ろめたさのない、潔白な身かというと、やっぱり後ろめたかった。つい数分前に胸元にすがり付いていた雲川の重みが、まだ腕の中に残っていた。「ごめん」「謝るっていうことは。私に言えないようなことをしたの?」「そんなことはないって」「じゃあどうして謝るの?」「えっと、秋沙以外とはデートしないって約束した身でさ、夕方に女の人と会うのは良くない、からさ。一応言っとくけどデートではなかったんだけど」「何をしたの?」髪を弄りながら、上条と目を合わせずに姫神が詰問する。気がつくと二人の距離が少し遠かった。「パーティのエスコート役が必要だからって無理矢理連れて行かれて、知らない人だらけの会場で、挨拶して回ってる先輩の横でずっと立ってた」「それだけ?」「……基本的には」「当麻君」髪を弄ぶ癖は苛々とした気持ちの表れなのだろうか。チラとこちらを見た目がちっとも笑っていなかった。「隠し事してるの。わかるよ。私なんかには言う必要もないと思ってるのかもしれないけど」「……ごめん」「謝られても。どうしようもないよ。何をしたの?」「ちょっと酒を飲まされて。少し介抱してもらった」「介抱って?」「いや、その……。蝶ネクタイ外してもらったり」「ふうん。お洒落な服を着てたんだね」チクチクというかもうちょっと太い針で責められている感じだった。「どうして黙るの?」「どうして、って」なんと返せばよかったんだろうか。「私は当麻君の。何なのかな? お付き合いしてるって。そんな風に舞い上がってたのは私だけだったのかな」「そんなことないって」「じゃあ、どうしてあの人とこんなことしたの?」「こんなこと、って。その、言い訳がましいかもしれないけどさ。別にデートしたわけじゃなくて」「じゃあどうして。クリーニングまでした当麻君の制服にあの人の髪がついてるの?」「……」姫神にしては珍しいくらい、語気が強かった。「ごめんね。当麻君」「え?」「一方的だって。分かってる。けど」姫神が首を横に振った。そして、上条に背を向けた。「今日は帰るね。あの子が部屋で待ってるんでしょ? 私より、あの子のところへ行ってあげればいいよ」「ちょ、ちょっと待てって」「触らないで」帰ろうとする姫神を止めようとして肩に触れた手を、払いのけられた。上条を拒否する意志の強さに、気おされた。「今日、上条君はあの人を抱きしめたりしたんでしょ? その手で。触られるのは嫌」上条に聞かせるようなため息が、姫神の口から漏れた。「ごめんね。明日には。少しは頭も冷えてると思うから。当麻君も悪いって思うことがあるんだったら。今日の夜はちゃんと反省して」「……わかった」「放課後はあの人と遊んで。今からはあの子となんだね。……私って。何なのかな」その問いの答えは明らかなはずだったのに、一瞬、答えるのを躊躇った。「とうま、遅い。おなかすいたんだよ」お帰りと言うより先に、文句が飛んできた。こういうときのインデックスは少し危険だ。早めに食事を用意しないともう一段階上の危険状態にシフトアップする。まあ、文句より先に噛みついて来ることはなかったので、そこまで機嫌は悪くないのだろう。「悪い悪い。今日は出来合いのを貰ってきてるから、それ食べよう」「えっ? やった! でもなんでとうまがそんな高級そうな匂いの包みを持ってるの?」買ったとは思わなかったらしい。その通りなので否定はしない。だらーっと床に寝そべっていたインデックスが這い寄ってきて、綺麗な紙袋の中身をしきりに気にしている。。「まあ、ちょっとあってさ」「……とうま。服が綺麗になってる」「え?」「まさか、また変なことに巻き込まれて汚したから着替えたとかそういうことじゃないよね」姫神と同じ反応だった。思わず苦笑しようとして、チクリと内心に痛みを覚えた。「インデックスも一応女の子なんだな。そういうところに気づくあたり」「一応ってなんなんだよ! それで、なんで服が綺麗なの?」「学校の先輩に拉致られてパーティに連れて行かれたんだ」「とうまだけずるい!」「だぁっ歯を仕舞え口を閉じろ! だからこうやって食べ物を持って帰ってきただろ」「でもそれ、残り物じゃないの? とうまはもっと良いもの食べたんじゃないの?」「あっちじゃ大して食べてねーよ」「ふーん。まあいいけど。とうま早く準備して」「へいへい」手を洗って、上条は詰め折を広げに台所へ向かった。「とうま」「ん?」「今日、どうかしたの?」「あ? 急になんだよ」「とうまがいろんなことに巻き込まれるのはいつものことだけど、なんだか今日は、落ち込んでるみたいに見えるよ」「……」図星だった。温めた詰め折をテーブルに置く。パーティでは食べられなかった分、上条も腹がすいてはいたのだが、食べる気にならなかった。「秋沙に怒られてさ」「あいさに? なんで?」「まあ、いろいろあって」「……ちゃんと謝ったの?」「ああ。でも許してくれないかもしれない」「そんなことないよ」「え?」「秋沙もとうまのこと、好きだから」その一言に思わずインデックスの顔を見る。自分と姫神の関係に気づいたわけじゃないだろう。だがその裏表なく人を信じている笑みは、上条を勇気付けてくれた。心のどこかでインデックスに後ろ溜めたさを覚えながら。「ありがとな」「わっ。……もうとうま。早く食べたいんだよ」わしゃっとフードの上から髪を撫でると、インデックスは一瞬眩しそうな顔をしてすぐに上条から興味を失った。インデックスは箸を取り上げてすぐさま目の前の洋風の料理に手をつけ始めた。その3へ
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