ザクザクと音を立てながら、広場の先へと進む。切り立った高台の端にある、少し高めの柵の向こうには絶景が広がっている。地上にきらめく星。光の海。いや湖か。ハイウェイを途切れ目なく車のライトが縫っていく。遠くに見える真っ暗な縁は、恐らく学園都市と外との境界だろう。「姫神はここ、来たことあるか?」「お昼になら。一人で歩いたことがあるよ」「夜は初めてか」「うん。だって。ここはデートスポットでしょ? 一人で夜はちょっと危ないし」「今日は俺達以外はいないみたいだな」「そうだね。当麻君は夜のここに来たことあるの?」「ああ。ついこないだ、クラスのとある男子がここで告白するって情報が流れてさ。偵察しに来た」「本当は告白されたのは当麻君……とかじゃないよね?」「んなわけあるかって」柵の前に、到着する。眺めが良い綺麗な場所で、人がいなくて。大切なことを大切な人に言うために、うってつけの場所だった。そして逆に言えば、もう、大切なことを言う他はない、そういう『逃げ』のない場所だった。今から当麻君に。告白されるんだ。期待が、どうしようもなく姫神から落ち着きを奪う。そして不安が、どうしようもなく心を軋ませる。きっと、好きだと言ってもらえる気がする。そんな予感がある。ごめんなさいとか、さようならを言うのにこんな場所を用意する必要はないからだ。今から振ろうとする相手に、綺麗だなってきっと言わないと思うからだ。でも、確信なんてあるわけがない。それが、苦しい。「金も掛からないし、すげえ穴場だなここ。なんていうか、予想以上に雰囲気良くてちょっと俺自身がここに見合ってないなー、とか」「そんなことないよ」「いやまあでも、服もいつもどおりの着古しだし、靴もかなりくたびれてるし、もうちょっと気合を入れればよかったかな、ってさ」そんなことは、気にしないのに。急にそんなことを気にしだした上条に、少しだけ苛立ちを感じた。上条にしてみれば、どう切り出していいかがわからなくて、戸惑っているだけなのだが。「秋沙」意を決した上条の瞳が、まっすぐに姫神を捉えた。緊張に視線を外したくなって、姫神は必死にそれを我慢した。鼓動がもうどうしようもないくらい早い。上条の、唇が動いた。「夕方に、さ。秋沙の口から俺のことを好きだとか、そういう言葉が出てきたと思うんだけど。……俺の、聞き間違いとかじゃ、ないんだよな?」「……うん。私は当麻君のことが。好き」言って、しまった。ついに言ってしまった。どさくさにまぎれてじゃなくて、こんなにも告白のためにあつらえられた場所で、思い人だけにそれを告げてしまった。「そうか。聞き間違いじゃ、ないんだな」上条が笑った。ほっとしたような、そんな表情。しかし、直後に申し訳なさそうな顔をして、ツンツン頭をガリガリやった。「俺が次は、答えを返す番だよな」「……うん」上条の表情は姫神を一喜一憂させる。目の前の憂い顔は、良くない。自分を不安にさせる。「その、ごめんな」「えっ―――――?」姫神の心臓が、止まった。「今までさ、秋沙にそんな風に想ってもらえてるなんて、考えたこともなくてさ」上条が言葉を区切る。言いにくいことなのか、視線をさまよわせた。姫神は足が震えそうだった。「だから正直に言っちまうと、姫神のことをはっきりと意識したのは、今日が初めてだったんだ。だから秋沙のこと、すごく気になってるけど。けど、好きだって言葉を、使っていいって自信が持てないんだ」霧は晴れない。言い意味でも悪い意味でも。当麻君は何を言っているのだろう。言葉の意味を、姫神は上手く飲み込めなかった。「秋沙と手を繋ぐと嬉しくなるし、一緒にいて楽しかった。今ここで、秋沙のことを抱きしめたいって、思ってる。けどさ、お前のことを意識してまだ一日も経ってない俺がそんなこと思っちまうのってどうなんだろうな?」少しずつ、脳裏に上条の言葉の意味が浸透してくる。たぶん、自分のした最悪の予想とは、趣きが異なるらしい。「……当麻君は。私のこと。嫌い?」「んなわけあるか。もしそうだったらこんなことするわけないだろ」「私よりも気になる女の子は?」怖かった。その質問をするのは。でも聞かないと先に進めない。上条はその言葉で、御坂や、五和や、インデックスを思い出す。「秋沙に一番……ドキドキしてる」「良かった……」姫神はほっと息をついて、胸元の十字架を軽く握り締めた。やっぱり秋沙は可愛いな、と何度目なのか分からないが、再び上条はそう確認した。「ごめんなって言うのは。ひどいよ」「え?」「振られるのかなって。思った」「い、いや。別にそういうわけじゃなかったんだって」「……悪気がないのは。余計に悪いよ」「ごめん」「死んじゃうかも。って思った」「ごめん」「五和さんとか。気になるのかなって思った」「ごめん。そういうわけじゃ、ないって」「まだ。ちゃんとした答えを。聞いてないよ」上条は黙った。自分の中に降って湧いたような感情。姫神を可愛いと思い、惹かれる感覚。取り扱ってまだ一日だというのが姫神に申し訳なく、もっと時間をかけて確かめるべきことのような気がしていた。――――違う。時間なんて関係ないじゃないか。今の気持ちが勘違いかもなんて、責任逃れもいいところだ。「えっ?」黙って、上条は姫神を抱きしめた。そして、改めて実感する。インデックスとじゃれあうときに感じる気持ちとは全然違う。携帯を替える一件で御坂を抱き寄せたときに感じた気持ちとも違う。姫神を抱きしめると、姫神を可愛いと思う気持ちが滾々(こんこん)と湧いてきて、もっと強く、抱きしめたくなる。「と。当麻君。その。あの」珍しいくらい、姫神が慌てていた。至近距離で目が合うと恥ずかしがって顔を隠した。おずおずと、上条の体にも手が回される。だけどその力は弱く、ためらいがちだ。理由は、上条にも察しがついていた。まだ自分は、決定的な言葉を口にしていない。「俺は今、秋沙のことを世界で一番幸せにしてあげたいって、思ってる」「……うん。幸せにして。ください」抱きしめられた上条の胸の中で。柔らかくて暖かな笑顔を、姫神が顔一杯に浮かべた。感情表現の薄い姫神だから、きっとそれは最上級の感情表現。それを見て上条はたまらないくらい嬉しくなった。そしてその気持ちこそが、姫神のことを好きなんだという気持ちだと、理解した。笑いかけてくれたから好きになったのだろうか。それとも好きだったから笑わせてあげたいと思っていたのか。鳥と卵の水掛け論はどうでもいい。どちらが因果とも分からない、相手を幸せにすることと自分が幸せになることが等価になる現象。そういうものを、好きになるというのだろう。「秋沙。好きだ」「うん。私も。当麻君が好き」自然とその言葉は口から突いて出た。きゅっと、電灯に照らされた影を一つに束ねるように、互いの体をくっつけあう。すこしの時間を置いて、服越しに温かみがじわりじわりと伝わってくる。自分とは違うリズムの心臓の鼓動や、吐息がすぐ傍に感じられる。姫神を抱きしめているのだという実感が、上条を満たした。髪を撫でると、いい香りがした。手を滑らせていくと、最後まで撫でられない。お尻に触れてしまうからだ。腰のギリギリのところまで撫で、時々腰を抱いてさらに姫神を抱き寄せる。どんな顔をしているのだろう、と表情を覗き込もうとすると、むずがるように姫神が顔をそらした。「秋沙?」「だめ……。どうしよう。恥ずかしくて当麻君の顔を見れないよ」「恥ずかしい?」「恥ずかしいって言うか。当麻君の顔を見たら好きすぎてどうしていいかわからなくなるの」可愛すぎる。溢れかえるこの感情を、ただ抱きしめるだけでしか表現できないのがもどかしかった。そしてつい、悪戯心が湧く。「ふ。ふふっ。だめだよ……当麻君。だめ」抱きしめた姫神の首筋に指を這わせてくすぐる。そして顎を捉えたらクイと持ち上げようとする。照れながら姫神はくすぐられる感触に耐え、上条の指から逃げ回る。本気で嫌なら上条の腕を振り解けばいいのにそれをしない。「あっ」「あ……」不意に、上条の攻撃が通じてしまう。二人のどちらにとっても唐突に、姫神の顔(かんばせ)が持ち上がる。焦点がとっさに合わないくらいの傍に、姫神の顔がせまった。そして抱きしめた状態で顔を持ち上げた姿勢は、あまりにキスにうってつけで。二人ともフリーズする他なかった。「ご、ごめん! 調子に乗っちまった」「ううん。いい。」思わず姫神の頬から手を離し、抱きしめた腕を緩める。夜景に照らされた姫神の唇が、艶かしい。上条の視線に気づいたのか、姫神が口元を隠すようにうつむいた。僅かに表情には、躊躇いの色。「ちょっと。まだ怖い」それが何のことかは、察せた。そりゃあ告白してすぐにそれは、早いと思う。普通はどんなもんなのか、上条には自信がなかったが。「いいよ。それより、抱きしめられるのは嫌じゃないか?」「全然。そっちは。もっとして欲しい」再び姫神を抱きしめる。身長差はちょうどいい塩梅だった。抱きしめると、ギリギリ上条の胸の中に納まる。安堵したような、深いため息が聞こえた。「抱きしめあうって。すごいね」「ん?」「すごくあったかくて。安心する」「だな。俺も、懐かしい感覚のような気がしてる」「……当麻君は。よく女の人と抱き合ってるんじゃないの?」「なんか秋沙の中では俺が酷い女たらしになってる気がするんだけど」「だって。事実でしょ?」「どこがだよ」「私が知ってるだけでも。シスターの子に常盤台の子に吹ちゃんに小萌先生」「おいおい待て待てなんかおかしい人選だぞそれ!」「さっきは五和さんって子にも会った。まだいるんでしょ?」「いや、だから知り合いの子が増えたってだけでべつにやましいことは」この際全部白状しろ、という感じで姫神が迫る。やましいかどうかで言えば、姫神に告白するより前の行為はどんなものであってもやましくはないのだが。「じゃあ最近仲良くなった女の人の名前を全部挙げて」「……あの、秋沙さん?」「私。こう見えて結構嫉妬深いから」ただのクラスメイトだった頃からまったく変わっていないはずのその表情が、上条にはなんだか恐ろしく見えた。「話して。女の人の名前と。年と。背格好」「あの、怒りません?」「後で聞かされたら。嫌だよ。今日より前のことは仕方がないから気にしない。けどこれからは。嫌だよ」逃げられない。逃げたら怖いのもあったが、姫神を傷つけるのはもっと嫌だ。「えっと。インデックスは知ってるよな。あとは御坂美琴、さっきの常盤台のと、双子の妹。んで五和。この辺はもういいよな? あとは神裂火織っていう……あいつ十八歳って言ったっけな、黒髪で俺と同じくらいの身長だ。で他には……ミーシャ、あれサーシャって言えば良いのか? 変な服装のロシア人の子だ。それと風斬と、アニェーゼってインデックスと同じくらいの子とオルソラって二十歳くらいのイタリア?人と、アンジェレネとルチアって同じローマ正教のシスターと、あ、白井黒子って常盤台の一年のを忘れてた。ツインテのお姉さまラブが行き過ぎた変態だ。……ええとそんなもんか」上条は極めて正直に、この数ヶ月を思い出して報告する。回想の途中に姫神を見なかったのは正解だったかもしれない。上条が一人数え上げるたびに、その表情が曇っていく。あっという間に不安は具体的な懸念へと成長進化し、もはや全ての敵を征するのが到底無理と理解するにいたり、姫神は諦念という一つの真理を体得していた。上条が見た表情は最後の穏やかな顔だった。「当麻君って詐欺師か何かなの?」「……あの、ものすごい不名誉な評価だと思うんですけどそれ」「まあ。助けてもらった私が。文句を言えることじゃないってことなのかな」はぁと今度のため息は憂鬱を含んでいた。「ねえ当麻君。約束。してほしい」「……えっと、何をだ?」「私以外の女の人と。デートをしないで」そんなことは当たり前だ。それは姫神としたいことだし、姫神以外とはしてはいけないことだ。「しねーよ」「キスとか。それ以上も駄目」「当然だ」「女の子と二人っきりで買い物をすることも駄目」「……まあインデックスは一緒に買い物についてきたりしないしな」「女の子と手を繋ぐのも駄目」「やらないよ。そう言うのは全部、秋沙とすればいいんだろ?」「うん。おんなじことを私も当麻君に約束する」姫神が頭を上条の胸にこすり付ける。「私は当麻君のものだから。だから当麻君も私だけの人でいて欲しい」「約束する」「うん」「好きだ、秋沙」「うん。私も大好き」再確認。毎日やっても飽きないんじゃないかと思うくらい、嬉しい言葉の交換。姫神を撫でる腕に、すこし力を込めた。「シスターの子には。なるべく早く報告しないとね」「……あ、ああ。まあそのうち言わないとな」「なるべくはやく」上条の言葉を姫神がやんわりと訂正した。「あの子はまだ色気より食い気みたいだけど。でももう女の子だよ」「……」もしあの子が自分の気持ちを自覚して、伝えずにはいられないくらい膨らませてしまったら。その想像はしたくない。だから早めに摘み取る。上条の可愛い妹分というポジションに固定する。姫神は別にインデックスを嫌ってなどいない。ただ、譲るつもりのない椅子があるだけだ。「当麻君とお付き合いするなら。ちゃんとあの子にも報告しないと」「わかった」姫神は上条にそっと笑いかけた。「長居すると冷えてくるな。秋沙、寒くないか?」「当麻君とくっついてると寒くないよ。……と言いたいところだけど。さすがに足が寒いのはどうしようもないね」「じゃあ、もう帰るか?」この高台に来て、二十分くらいだろうか。もとから夜景以外に見えるべきものがあるわけでもないし、ブランコで遊ぶ年でもない。寒くなければいつまでだってここでじゃれあっていたいのだが、そろそろ厳しい季節だった。「あとちょっとだけ」「ん。わかった。……で何分ぐらいだ?」「一時間くらい?」「それ、かなり寒いんじゃないか?」「そうだね。でも。帰っちゃうとこんなことできなくなる」「だなあ」こんな時間に女子寮に上条が入るのはあまりに剣呑だし、その逆はインデックスがいるせいで無意味だ。二人っきりで触れ合える場所は、寒い場所ばかりだ。柵にもたれかかった背中が寒い。だけど、全幅の信頼を寄せるように預けてくれた姫神の重みが嬉しい。触れ合っている体の前面は大丈夫だろう。せめて届く、背中と頭を撫でる。「寒いところにいるのは残念だね。あったかいところでこうされたら。寝ちゃうかも」「気持ちいいか?」「すっごく。安心する」きゅっと上条のジャケットを握るその手に、庇護欲をそそられる。「明日。当麻君はお昼どうするの?」「あー、弁当を作るにも晩飯の残りとかないからなあ」「じゃあ。作ってきても。迷惑じゃない?」「……マジ?」それは嬉しい。物凄く嬉しい。そして同時にかなり恥ずかしい。うまく立ち回らないとクラスメイト中に晒されることになる。上条の懸念を理解しているのだろう。姫神がクスリと笑った。「おおっぴらなのは恥ずかしいから。屋上とかで二人で食べよう?」「まあ屋上にもそこそこ人はいるけどさ。まあ教室よりはずっといいか」「やめたほうがいい?」「いや、なんだ。恥ずかしいんだけど、それ以上に食べたい。秋沙の料理」「うん。……明日までには無理だけど。もうちょっと恥ずかしくないものを作れるように勉強しておくね」「秋沙の腕はもう充分だろ」「そんなことないよ」そんな、どうでも良いようなことを喋りながら空を見上げる。地上の光がさえぎるから大きな星しか見えないが、建物に切り取られない星空はひたすら広い。胸の中に好きな女の子の体温を感じながら見上げるそれは、普段と全く鮮やかさが違っていた。結局、それから一時間近くじゃれあった。ふと気づいて時計を見たときには、飲み屋とファミレス以外の外食店が閉まる時間帯だった。女の子が外を歩いていい時間も、いい加減に終わりだった。帰りの道すがらはあっという間だった。行きの沈黙が嘘のように会話が続いて、時間を感じさせなかった。明日からは、もっと楽しい日が待っている。それは間違いのないことなのに。今日というこれからもずっと記憶に残るような、大切な一日が終わってしまうことが、寂しかった。「それじゃあ、また明日、だな」「うん……」女子寮のエントランス。見送るほどの距離でもないが、名残惜しくて上条はそこまでついていった。ここまで来ても、まだ姫神は歯切れが悪かった。「いい加減思いきらなきゃだめだよね。明日。また会おうね」「ああ。というか嫌でも学校には行かざるを得ないしな」「サボリ魔のお前が言えたことじゃないと思うけど」不意に、後ろから声が掛かった。肩より下まで伸ばした黒髪をカチューシャで上げた女性。まっすぐで僅かに濡れたような艶のある髪は、姫神とコンセプトが近い。ただ胸元の凶暴さはまるで違う。その気だるげな雰囲気と相まって、エロい感じのする人だ。名は雲川芹亜。上条たちの先輩に当たる人だった。「お前は基本的にいつも不幸な人間だったと記憶してるけど。今は不幸なの?」「今は別に不幸なことはないですけど」「ああ、私が不幸の種か。転校生ともう懇意なのか。相変わらず手は早いな」「何ですか人聞きの悪い」隣で姫神の機嫌が加速度的に悪くなっていくのが分かる。今日という日の余韻を楽しむ瞬間に、雲川が割り込んだからだ。「お前は不幸不幸と言いながら女運だけはやたらと良いけど。なぜそういう例外があるんだろうな」「女運って。どう考えてもそんなもんはないでしょう」「なら隣の彼女はどう説明付ける気だ? まあ興味は尽きないけど。馬に蹴られないうちに退散することにしよう。じゃあな」エレベータに乗り込んで、雲川は二人の前を後にする。扉の閉まり際に、上条が必死になって弁明する声が聞こえた。「……当麻君。私は。あの人のことは聞いてない」「い、いや。あの人とはここ最近の付き合いじゃないし、魔術とか超能力が絡んだ知り合いじゃなかったから」ふっと笑って、確認するように独り言を呟く。「上条が言い寄られるのは、運というよりは気質なんだろうな。不幸があっても自分で未来を切り開いていける前向きさというのは将来性がある。確かに私も伴侶に求めたい気質だけど。しかし女難の相は悪運の類だろう。吸血殺しもこれから苦労するだろうな」散歩の帰りに思わぬ楽しみがあって、ちょっと満足げな雲川だった。「ただいまー」自室のドアを開ける。おかえりー、というインデックスの声がなかった。不審に思いながら居間まで進むと、ベッドサイドで膝を抱えてうずくまっていた。机の上には食器が散乱している。先ほどの出掛けに上条が作っていった食事だ。「食べたものは片付けろって言ってるだろ。……っていうか、お前どうしたんだよ?」「とうま」ベッドの上のシーツがぐしゃぐしゃだ。そこで泣きはらしたのだろうか。目が腫れていた。なにか良くないことでも起こったのだろうかと、鞄を放り出して慌ててインデックスに駆け寄る。「体の調子でも悪いのか?」「ううん」ふるふると、乱れた髪を横に振る。落ち着けるように、軽く頭を撫でながらそれを整えてやる。「とうま……。とうまは、どこにもいかないよね?」「え?」ドキリ、とする。姫神とのことを言われたのかと思ったからだ。「どこにも、って何だよ。急にどうしたんだ?」「一人でいたら、怖くなってきて……っ。私もとうまがいなくなっちゃったらどうしようって!」ぎゅっと、インデックスにしがみつかれた。まだ残り火があったのか、ぐすぐすと泣き始めた。そんなインデックスをどうにかしてやりたくて、上条はぎゅっと抱き返した。「な、インデックス。落ち着いて話してくれないと、何が何だかわかんねーよ」「さっきっ。カナミン見てたら……カナミンがお兄さんをとられちゃったの」「……はい?」「ずっとずっと憧れのお兄さんだったのに! すっごく優しくて、頼れる人だったのに。『僕には好きな人がいるんだ』って、絶対それはカナミンのことだと思ってたのに!!」「あー」青髪ピアスの言葉を思い出した。たしかこの超機動少女(マジカルパワード)カナミンというアニメは、最終話近くで小さな女の子達にとって地雷とも言うべき話が存在するのだとか。ずっと主人公の憧れだった「お兄さん」が、同年代の女の人と結婚してしまうエピソード。たぶん、インデックスが言っているのはそれだろう。確かに地雷を踏んでインデックスはひどく傷ついていた。「カナミンだってすっごくお兄さんのこと好きだったのに。どうして振り向いてくれなかったのかな」「さあ、なんでだろうな」「カナミンは年下で、お兄さんよりは子供だったかもしれないけど。でも、すっごく頑張ってアピールしてたのに」「そうか」「カナミンと違ってお兄さんには特別な力なんてなかったのに、カナミンが危ないときには助けてくれたんだよ?カナミンはそれが嬉しくて、すっごくドキドキしてたのに」「それでお前、ずっと泣いてたのか」「うん……。だって、こんなのカナミンが可哀想なんだよ! 年下だからって、まだ子供だからって、あんなの……っ。カナミンだって好きだったんだからああぁぁぁぁ」」ぶり返したのか、うわぁぁぁとインデックスが胸の中で泣いた。情操教育にはいい番組だなあ、なんて場違いな思考が湧いてくる。それは上条にとっての現実逃避だった。インデックスの背中を撫でてやること五分。高ぶった感情を沈めるのにそれだけ掛かった。「……落ち着いたか?」「うん。ごめんね、とうま」「いいよ、気にすんな」「とうまはどこにも、行かないよね?」言葉に詰まった。自分はついさっきまで、どこでなにをしたのか。返せるのは、意図的に曲解を含めた答えだけ。「俺の家はここしかないし、お前がここにいればそりゃ俺は帰ってくるさ」「うん……」柔らかく笑うインデックスの、そのあどけなさが痛かった。「それで、最後カナミンはどうしたんだ?」「え?」「ずっと落ち込んでて、おしまいか?」「ううん。……お兄さんに、笑っておめでとう、って」「そうか」「私には出来ないよ、あんな風に笑うことなんて」その一言は、重たかった。お兄さんは、どういう気持ちでカナミンに「それ」を告げたのだろう。上条はその日、インデックスに告げることは出来なかった。こっそりとやりとりする姫神とのメールが、やけに後ろめたかった。パジャマの裾をぎゅっと握り締めて画面を凝視する打ち止めを、洗い物をしながら黄泉川は眺める。芳川はベランダで星を見ながらコーヒーを飲んでいる。寒いところで飲むコーヒーが好きだなんていっていたが、あのアニメを見るのがいささか辛かったのだろう。子供向けのクセに、思い人を取られる時の心情をやけにリアルに描いていた。別に芳川は過去を思い出したとか、そういうわけではないだろう。だがアニメのキャラに感情移入できるほど若くもなくて、しかし恋愛ごとから遠ざかるにはいささか若すぎた。なんとなく居心地が悪かったのだろう。同年代の自分も同じことを感じていたが、手に泡をくっつけて皿をゴシゴシやりながら、10歳程度の少女がアニメを見ているのを眺めていると、野暮ったい母親めいた気持ちが湧いてくるのだった。「はぁー、ってミサカはミサカはクライマックスを見終わった後のため息をついてみたり」「ん、終わったか。ニュースに変えてくれ」「もう! 黄泉川は余韻を楽しむってことをわかってない!ってミサカはミサカは主張してみる!」「ずいぶんとハマってたじゃんよ。こないだはアニメで泣くほど子供じゃないとか言ってたのに」「な、泣いてなんかないんだもん!何度も言うけどミサカは培養器から途中で放り出されたからこんな姿をしてるけど、精神年齢はちゃんと14歳のものなんだからってミサカはミサカは懇切丁寧に説明してみる」蛇口をひねる。一つ一つ食器から泡を洗い落として、水切り籠に入れていく。真後ろにある食器洗浄器が新米兵のまま泣いていた。「話を聞いてよーってミサカはミサカはソファの上で腕を振り回してみる!あ、芳川だ。そんなに外にいて寒くないの?」「まだそこまで冷える季節じゃないわよ。で、アニメはもう終わった?」「うん。あの子は大切な人をとられちゃったけどねってミサカはミサカは報告してみたり」「そう。……それにしてもこのアニメの対象年齢っていくつなのかしらね。あまり強い感情を引き起こすアニメは子供には良くないって意見もあると思うけど」「日本のアニメが海外で問題視される理由の一つじゃん。喫煙なんかは絵の修正で何とかなるけど、ストーリーの根幹にかかわる部分はどうしようもないよな」打ち止めが画面を見て寂しそうな顔をしているのに気づいた。もしここに彼がいたら、悪態をつきながら一緒にアニメでも見ていただろうか。そんなことを考えていると、打ち止めがこちらを見た。「――む。なんか余計な心配されてる気がする、ってミサカはミサカは警戒してみる」「会えなくて、寂しい?」芳川がそっと頭を撫でた。最近自分も芳川も何気なく母性を発揮してしまう局面が多くて困る。「大丈夫だよ、ってミサカはミサカはほんのちょっとだけ強がってみたり。あの人はきっとモテないから大丈夫。最後にはちゃんと私の胸に帰ってくるんだから。ってミサカはミサカはカナミンとは違うところを見せ付けてみる!」この少女と彼は、不思議な関係だった。割れ鍋と綴じ蓋のような、夫婦らしいところを見せることもあるし、時には父娘のような、あるいは兄妹のような、そんな雰囲気になることもあった。――どこで何をしてるかあたしたちは把握できてないけど、打ち止めを泣かすんじゃないよ。そんな感傷に少しだけ浸って。黄泉川はテレビのチャンネルをニュースに変えた。打ち止めに怒られながら。「――って感じでさ。ごめん。昨日は話せなかった」「……そう。たしかに。ちょっと言い出しにくいね」「ごめん」「ううん。日を改めて。またちゃんと報告しようね」「ああ」通学路。エントランスで待ち合わせをして、他の学生達と共に学校へ向かう。手は繋がない。朝っぱらからそういうことをやると冷やかしも激しいのだ。手にはすこし可愛らしい柄の巾着。鞄に入りきらなくなった二人分の弁当を、今日はここに入れてきた。自分の弁当だし、上条はそれを自分で持つと提案した。「あー……とりあえずあの二人にはこっちから言わないとなぁ」「……それと、吹ちゃんにも」憂鬱なことだった。青髪と土御門はこちらから説明しなかった場合嫌になるほど質問攻めにされるのが目に見えている。吹寄には、話すべき理由がある。街路樹はそろそろ色褪せ始めて、黄色に近い葉もちらほらと見かけた。遠くには、昨日の公園が見えていた。「当麻君?」「昨日、あそこにいたんだなって」「うん……」髪を揺らしながら、幸せそうに姫神が微笑んだ。それが嬉しくて、上条も笑い返した。「おはよう。二人でいるってことは、そういうことでいいの?」後ろから声が掛かる。振り向くと吹寄がいた。「吹ちゃん」「はよーっす。……顔色悪いな、吹寄」「え? そう?」「なんつーか、目に隈ができてる感じがする」「まあ、寝てないからね。いろいろやることがあって」「無理すんなよ」「うん。ありがと」角がなさ過ぎて、やりにくかった。どうも本格的に吹寄は不調らしい。「で。昨日あれからどうしたの?」「吹寄。……その、まあなんだ。お前の予想通りだ」「……」「姫神と、付き合うことになった」「そう」少し話すと、吹寄はさっさと前を歩いていってしまった。あまり姫神は話すことが出来なかった。たぶん、あからさまにならない程度に避けられていた。嫌われたのとは違う気がするが、仕方ないことだろう。少し時間を置いたら、疎ましがられても自分から話しかけに行こうと姫神は決めた。校門をくぐった辺りで、『運転手のいない自動車』の怪談の元になった車に追い抜かれた。中に乗っているのは『学園都市の技術によって大人になれなくなった人』と噂されている人だ。「おやおや姫神ちゃん。今日は上条ちゃんと一緒に登校してるんですねー」「あ、おはようございます」「おはよう。小萌先生」「今日はいい一日になりそうですねー?」小萌先生が姫神に訳アリな笑みを向けた。姫神はその意図を理解しているらしかった。微妙なことではあるが、姫神と上条の距離は、ただの友達よりも少しだけ近い。姫神の気持ちを知る小萌先生にとって、それはとても嬉しくなることだったのだ。「姫神ちゃんは今日も頑張ってるです。上条ちゃんも人の気持ちをちゃんと分かるようになるべきですよ」「……はい?」「小萌先生」姫神は、現状が小萌先生の予想を上回っていることが少し、嬉しかった。きっとこの先生は、姫神が頑張ってこの距離まで詰めているのだと、そう考えているのだろう。それを訂正するのは、嬉しかった。上条の腕をそっと握る。「違うよ」「えっ? あ、ももももしかして! 姫神ちゃん?」「当麻君」「な、なんだ?」担任の目の前で、昨日告白したばっかりの彼女と腕を組むのはさすがに恥ずかしい。どうせ噂でものの数日中には知られるのだろうから、あとでこっそり知っておいて欲しかった。「小萌先生にも。ちゃんと報告したい」「……姫神は、恥ずかしくないのかよ」「私が当麻君のことを好きだったのは。もうずっと前にばれてたことだから」そういえば姫神は月詠家に居候していた時期もあるのだ。考えれば自然なことなのかもしれない。上条にだって小萌先生は並々ならぬ恩がある人だ。そういう意味では、きちんと報告すべきなのかもしれない。「小萌先生。まあ、その……姫神と付き合うことに、なりました」パアァァァァァァ、と小萌先生の表情が明るくなった。「本当ですか! わぁぁぁ、おめでとうです姫神ちゃん! 上条ちゃん!はぁー……良かったですねぇぇ姫神ちゃん。ほんと、ほんとに良かったですねー!!」「うん。ありがとう」淡く笑う姫神の視線が優しくて、いとおしかった。それを見つめていると、突然小萌先生の目が厳しくなった。「上条ちゃん!」「な、何ですか?」「姫神ちゃんを泣かせたら先生が承知しないです!上条ちゃんはやんちゃでいろんなところで女の子と仲良くなってくる困ったさんですが、お付き合いする女の子を泣かせるようなことはしないって先生信じてるです」「当たり前です」突如、思い出したように小萌先生の顔が暗くなった。「……シスターちゃんにも、ちゃんと説明するですよ」「はい。姫神にも言われてるんで、なるべく早く」「上条ちゃんは、大人になるんですね」「なんですか突然」「小萌先生?」「誰にもいい顔したりせず、大切な人を一人だけ選ぶってことは、とっても大人なことなんですよ。それはとてもとても、上条ちゃんにとっても、姫神ちゃんにとってもかけがえのない経験なのです。これからずうっと一緒にいられるかは、愛情だけでは測れないものが沢山ありますけど、先生はそれらを二人が乗り越えてくれることをいつでも願ってます。周りの人にも、ちゃんと感謝の気持ちを忘れないでいてくださいね。きっと辛いときには、みんなが助けてくれますから」「はい」これほど小萌先生の説教をきちんと聴いたのは、初めてだったかもしれない。言葉の重みを知って初めて、説教というのは身に染みるのだろう。「さて、じゃあもう時間です。朝礼でまた会いましょう」「はい」「んじゃ、また後で」満足げな小萌先生を見送って、二人は階段を上がった。教室に入ると、意外なことに青髪も土御門もすでに来ていた。土御門は来る日は早い時間に来るので驚くほどではないが、青髪は小萌先生に怒られるためにわざわざ遅刻をする男だ。「おっすカミやん。……姫神さんと連れ添って入ってくるなんて、意味深やなあ」「で、どこまで進展したのかにゃー?」ああ、こいつらは変わらないなあ。上条はそう嘆息した。姫神はクラスに入った時点で自然と分かれ、今は女子と挨拶を交わしていた。こちらが見ているのに気づいたのだろう。目が合った。「あのうカミやん? いま、もしかして姫神さんとアイコンタクト、してた?」「まさか。それはないぜよ。フラグの立て逃げが信条のカミやんに限って」「立て逃げって、人聞きの悪い」「だけど真実だにゃー?」「勝手に言ってろ」自分の机に鞄を置く。この程度の誹謗中傷は日常だから気にはならない。だが、なんだが疑いの目をした青髪ピアスは普段と違った。「カミやんの昨日の顛末、気にならへんの?」「いやー実はさる筋からの情報からでな、あれからカミやんはさらにもう二人の女の子との合計四人でお茶をしたらしいにゃー」「……うわー。デートするって学校を出ても、やっぱりカミやんはカミやんやねえ」さすがに、この二人に付き合っていることを打ち明けるのは恥ずかしい。どうやって切り出していいのかも分からない。……と、ふと気づくと姫神が隣にいた。「姫神さん?」「どうしたんだにゃー?」上条との関係を疑うより前に、昨日さんざん弄ばれた怒りをぶつけられるのかと警戒しているようだった。「別に。上条君に言いたいことがないなら。すぐ立ち去る」「姫神……」良いのかよ? と目で問う。首は縦に振られた。「あー、なんだ。昨日は確か俺がもてるかもてないかって話から、始まったんだよな?」「カミやん」「まさか……」「まあ、結論を言うとだな」隣で姫神が軽く笑い、上条の腕を抱いた。クラス中がその仕草に息を呑む。怒涛の急展開を見せた昨日を振り返る。いろいろとあった。そしてその結末が、今ここにある。上条は軽く呼吸を整えて、姫神が隣にいることの意味を、一言に込めた。「もてた」――――終
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