学園都市第七学区・常盤台中学学生寮。 石造り三階建ての、洋館と見間違う風のその建物も、今日はどこか浮ついた雰囲気に満ちていた。 連休初日ということに加え、昼前ということもあり、寮の中に人影はまばらである。 大覇星祭が終了して数日。後片付けも終わった最初の休みとあれば、普段なら鬼と呼ばれる寮監により引き締められている空気も、緩むというものだろう。
「はー」 と、白井黒子は若干の疲れが残ったため息を吐いた。 年齢にそぐわない、やけに面積が少なく透過率の高い下着をつけただけの彼女。 シャワー直後であるため若干湿り気を帯びた髪を気にしながら、柔らかいスプリングのベッドに後ろ手に手をついて腰掛けていた。「・・・少し、寝不足ですわね。まったく、十分な睡眠は乙女に必要不可欠だというのに」 そう言う白井の顔には、確かに疲労が見える。 昨夜、風紀委員の仕事で急遽呼び出され、明け方まで仕事をこなしていたせいだ。 眠い。「初春はきっとまだ夢の中でしょうね」 ともに仕事をしていた同僚のことを考え、つい苦笑が漏れる。早朝、別れたときに頭の花飾りが若干萎れていたのがやけに印象に残っていた。 これで今日も夕刻から仕事があるのだから、連休というものの意義を問いたくなってもくる。「まぁでも」 一転、にへら、と白井の頬が緩んだ。 目を覚ましたのはいまから2時間ほど前の、ちょうど9時になろうかという時刻。その時にはもう何処かに出掛けたのか、同室である御坂美琴の姿はなかった。(お姉様の温もりと残り香を堪能できたのはまさに僥倖でした) ウヒヒヒヒ、と、よだれでも垂らしそうな顔で笑う。
深夜に呼び出しを受けた自分に気を遣ってくれたのだろう。白井が目を覚ましたところ、普段はきちんと畳まれて整頓されるはずの美琴のベッドが、そのままになっていたのである。 そこに潜り込まない道理はない。(・・・シャワーを浴びて、お姉様の香りを手放さなければならなかったのは失敗でしたけど) つい本能の赴くままにダイビングしたため、理性復活後に入浴すべきか香りを残すべきか大いに迷ったものだ。 とはいえさすがにそこは乙女心。仕事明けに学内設置の簡易シャワーを浴びただけで今日を一日闊歩するのは、流石に躊躇われたのである。「それにしても、」 ぽん、と自分が座るベッドを軽く叩き、思う。 美琴は何処に出掛けたのだろう。 普段であれば、休日だから買い物にでも、と考えるところである。 立ち読みが趣味という美琴であるので、そう言われても不自然ではないのだが。(・・・例の一件がお耳に入っていたとしたら、わからないですわね) 例の一件―――それは、昨夜呼び出しを受けた事件のこと。
電撃使い襲撃事件。 それはそのように呼称されていた。 どんなものかはもう、呼称名そのままである。 学園都市内の電撃使いが、次々に襲撃されているのだ。 事件の起こりは、正確にはわからない。だが初春がまとめた情報によると、大覇星祭開催と同じくらいに、第一の事件はもう起こっていたとのこと。 当初はただの競技内の怪我か、もしくはそれに端を発する小競り合いと思われていたらしい。 しかしそれらをひとつひとつ調べていくと、その異常さは浮き彫りになっていった。 電撃使いだけが狙われていること。 その中でもレベル3の女性だけ、ということ。 被害者は建物の中でだけ発見されること。 にも関わらず、まったく人目につくことがないということ。 意識を取り戻した被害者は、襲撃された記憶を失っていること。 そして何よりも特殊で異常なのが、
(・・・被害者は、能力が使えなくなっていること)
白井が、すう、と目を細めた。 実際には能力がなくなったのではない。 計測上、襲撃される前と数値はまったく変わらない。しかしある程度以上の力を発現しようとすると、突然『力が抜ける』らしい。 具体的にどんなものなのか、被害者の証言だけであるのではっきりしないが、症状はみんな同じなのである。(なのに、精神感応能力も念写系能力でも詳細不明、か) それだけ特徴的な事件であるにも関わらず、事件概要はほとんど不明。 探査系能力で何があったかをしろうとしても、まったく読み取れず、念写もできないのだという。目撃者もおらず、周囲の監視カメラはなぜかその時間だけ動作不良を起こして砂嵐という有様だ。 能力損失という結果から考えて、犯人は精神系の能力だとは思われた。だが、戦闘向きの電撃使いを相手取って優位になれる能力者など、数えるほど、というか一人しかいない。(でも第5位はアリバイも完璧ですし、そもそもそんなことには興味がないはず)「・・・・・・」 はぁ、と白井は先ほどとは異なる思いの混ざったため息をついた。 とりあえず現状、このことは外部に漏れてはいない。 能力者が狙われている、という程度のことはこの学園都市では普通である。というか、ほとんどが能力者なのだから噂にすら上らない。
だが、昨日。 ついに常盤台中学の生徒で、しかもレベル3以外の―――レベル4が初の被害にあったのだ。 被害場所は、常盤台中学の体育館。 大能力者の事実上の能力損失と校内への侵入。いずれも一級のスキャンダルである。面子と対面を気にする名門らしく、発見者への箝口令と風紀委員の招集は迅速だった。 辛うじての救いは被害者が戦闘向きの能力ではなく、電子機械にアクセスする等で力を発揮するタイプだった、ということだろう。常盤台学園上層部は、被害者が本来の力を出せる環境ではなかった、と失態に理由付けをしているはずだ。 だがもし。 この事件に御坂美琴が巻き込まれ、万が一にでも能力損失などということになれば。「・・・・・・」 美琴はこの学園都市第三位の超能力者だ。はっきり言ってまともにやりあっていいような存在ではない。このことは学園都市に住む者なら誰でも知っている。 彼女の矢面に立って畏れないのは、同じレベル5か、美琴が言うところの『あの馬鹿』くらいのものだろう。「・・・・・・」 だがそれでも、白井は心配だった。 下手人がどんな能力でどんな者なのかはっきりしないことも理由のひとつだが、それ以上に、御坂美琴の人柄をよく知るがゆえ。 この都市で電撃使いの代名詞と言えば、間違いなく美琴だ。 事件を知る人間は、こう思うに違いない。
一連の事件は超電磁砲を打倒するためのデモンストレーションだ、と。
この事件の『詳しいこと』を美琴が知れば、彼女は必ず解決しようとするに違いない。それも、誰に何も告げず、独力で。「・・・・・・」 白井は己の両手を、ぎゅっ、と握りしめた。 ほんの10日ほど前に負った大怪我は、ようやく回復したというところだ。あまり激しく動くことは出来ないし、件の医者にも止められている。 それでも。 もし美琴が独りで戦おうとするのなら、白井は全力でそれを追うだろう。たとえそれがどんなに苦痛を伴っても。 風紀委員としてではなく、彼女自身の思いとしてそれを決意した白井が、もう一度コブシに力を入れた。 ―――と。 キー・・・と小さな音をたてて、部屋のドアが開いた。ゆっくりと、そろそろと、中にいる者に遠慮するような開け方である。 この部屋にノックなしで、しかもいま、そんな風に開けようとするのは一人しかいない。「お姉様?」「あら黒子。起きてたの?」 声をかけると一気にドアが開き、予想通りの相手―――美琴が、コンビニ袋を片手に部屋に入ってきた。 白井は頷きながら、「はい、30分ほど前に」 と、言った。 普通に嘘だがそんな様子は微塵も見せない。
「そう。・・・でも珍しいわね、風紀委員が深夜に呼ばれるなんて。そんな面倒事だったの?」 対する美琴はその言葉を疑う風もなく、自分のベッドにコンビニ袋を置いた。 そして白井に背を向け、何やらゴソゴソと探っている。「ええ、どうも常盤台の校舎で暴れた者がいるようでして。そのせいで朝方まで調査が行われたんですの」と、白井は予め用意された『事件内容』を言った。 ただでさえ人の口に戸はたてられないものだ。ついでに、学舎の園と言えば都市の中でも閉鎖的な場所である。どうしたって事件は噂になってしまう。 ならば初めからある程度情報を渡してしまえばいい。それも、多少の事実が混ざった状態で。 そうすることで少しでも真実を遠ざける。あるいは霞ませようとしているのだ。 この『事件内容』を作ったのは常盤台中学の上層に違いないが、美琴をこの事件から遠ざけておきたい白井としても都合のいいものだった。 もちろん、美琴を騙すような形になることに罪悪感がないわけではないが。「・・・ふーん、また無茶をしたのね。下手すれば転校ものだってのに」「ええ。中々に大胆だと思いますわ。とはいえまだ下手人は捕まりませんでしたので、今夜からしばらく夜間パトロールが入りますの」「それもまた大変ねぇ・・・って、あれ? そういえば布団、畳んでくれたの?」「あ、はい。わたくしを起こさないようにしてくださったのでしょう? ですから」「そんなのよかったのに。でもありがと」「い、いいえ、そんな当然のことですの」 香りを堪能できましたし、などとは当然言わない。というか、言えない。「じゃあお礼代わりに、はいこれ」 そんな白井の内心を知るわけもない美琴が、振り向かないまま、ひょい、と何かを放り投げてきた。 見てもいないのに正確に飛んだそれを、白井は胸の前でキャッチ。すると手の平に冷たい感触。
「なんですの?」 軽く首をかしげながら手元を見た白井の、その目が大きく見開かれた。「こ、これは・・・!」 わなわなと震える彼女の手の中には、小さな褐色の瓶。俗に言う栄養ドリンクというやつだ。 今日も一日元気でファイト、アリビタンCである。「どうせまた朝まででしょう? 気休めだけど飲んどきなさい」 ちょっと温くなったけどね、と美琴は言葉を追加。「・・・・・・」「でも珍しいわね。深夜に呼び出されるだけじゃなくて、夜からパトロールだなんて。そういうのは警備員がするもんでしょうに」「・・・・・・」「・・・? 黒子?」 まったく返事をしない白井に、美琴が不思議そうに振り返った。 そんな彼女が見たのは、
カシュ と炭酸の抜ける音すら飲み干そうと言うかのように、おもいっきり反り返って栄養剤を飲む白井の首筋だった。 コクコク、などというかわいらしい音など微塵も似合わない、表現するならズゾゾゾゾ、とでも聞こえてきそうな見事な一気飲み。 一瞬で小ビンから液体がなくなり、それだけでは飽き足らず、舌まで入れてビン内部をなめ回している。「・・・・・・」 あまりの飲み方に絶句している美琴の目の前で、白井はひとしきりビンの中を舐めてから、カクン、と首を戻した。 夢見心地のような、うっとりとした瞳が美琴を捉らえる。 大好物を見つけた獣のような―――いや、御坂美琴を見つけた白井黒子の目だ。もうそれ以外の表現は不可能で、それ以上の表現はない。「っっっ」 美琴の背筋を、かつてない怖気が駆け上がった。
だが彼女が迎撃の準備を整えるよりも一瞬だけ早く、「お姉様からお誘いいただけるなんて! 黒子、至上の喜びですの!」 シュン、と白井の姿が掻き消えた。 空中に取り残された小ビンがベッドに落ちると同時に、背後から抱きつかれる美琴。 細い白井の右手指が、美琴のブラウスの裾に滑り込んだ。「ちょ、ばっ、は、離しなさいこら! 誰が誘ってっ、わっ、さ、誘ってなんかないったら!」「お姉様! お姉様がわたくしのことをそんなに想ってくださるなんて! 黒子は! 黒子はあぁ!」」「ふにゃっ!? や、こらやめなさい黒子! やめっ、ひゃあっ!? あ、あんたどこ触ってんのよ!」「さあお姉様! 今夜はしっぽりねっとりぐっちょりわたくしと! ご期待にはすべて必ずおこたえいたしますの!」「今夜っていままだ朝じゃないっ、って、ブラをずらすな手を差し込むなぁ!」「ご遠慮なさらないでください! わたくしのほとばしる想い(パトス)と、お姉様の愛情と欲情が詰まった栄養剤があればっ、不肖わたくし24時間以上でもっ」 そして白井の左手が、スカートから覗く美琴のもを撫で上げ―――「いっ、」 美琴のこめかみに、ぴききっ、と怒りの青筋が浮かんだ。そして、「いい加減にっ、しろーーー!」 バリバリバリィッ! と、空気を引き裂くような音が、室内に響き渡った。
「と、ところでお姉様」 30分後。 白井は不機嫌そうにベッドに腰掛ける美琴におそるおそる、と言った調子で話し掛けた。 電撃により面白いことになった髪は、もう一度シャワーを浴びることでなんとか元に戻っている。「なによ」 返ってくる美琴の声は、冷たいもの。 白井は美琴の前髪がいまだパチパチと言っていることに頬を引き攣らせながら、「もしよろしければ、昼食、ご一緒にいかがでしょうか。この間、雰囲気の良い店を見つけまして・・・」 と、言った。「あんた今夜パトロールでしょ。まだ寝ておきなさいよ」 だが美琴は組んだ腕を解かない。「いえ、あの、パトロールにしても夜間ですし、集合も暗くなってからですので・・・」「昨日夜中に誰かさんがゴソゴソしてたし、ついでにさっきの電撃で疲れたから、私いまから昼寝したいんだけど」「そ、そんなことおっしゃらないでくださいまし。さっきのことでしたら、わたしくも反省しておりますので・・・」 普段なら多少のことは数言の応酬で終わるのだが、流石にブラをずらしたり短パンの裾から指を侵入させたのはまずかったのだろう。 たいそうご立腹なご様子である。「お、お姉様」「・・・・・・」 ちらり、と白井を見る美琴。(ぎくっ、と白井) そしてとある少年からビリビリと呼ばれている彼女は、「とりあえず髪、早く乾かしなさい。風邪ひくわよ」 そう言って、はぁ、と深いため息をついた。
小萌が雛苺という少女とともに歩き始めて約20分。 二人は商店街を抜け、どちらかというと学生で賑わう方向に歩を進めていた。 食事時も半ばを過ぎようかという時間帯になり、道を行き交う人の姿も増えている。 そんな雑踏の中を、小萌は雛苺とはぐれないようにだけ注意しながら、(ちょ、ちょっと視線が痛いのです) と、内心で汗をかいた。 学園都市の人間は、その進みすぎた技術や特殊な環境からややずれた者が多いが、それでも一般的な視点を失っているわけではない。 なんというかもう、目立ち方がすごかった。 小萌自身はそう目立つ風貌ではない。 もちろん年齢比で言えば大いに首をかしげられる体躯であるが、彼女単体としてみれば、不本意ながらも一応一般的な小学生に見えるのだ。 だが、雛苺は違う。 学園都市は留学生もいるし、妙なファッションをしている者も多い。能力の余波や実験のせいで髪の色や瞳の色が変化した者だって存在する。 しかし金髪で長髪でひらひらのドレスな雛苺の風貌は、目を引くことこの上ないものだった。
「それで、ヒナは花丸ハンバーグが好きになったのよ」 小萌の顔を見上げて話し続ける雛苺は、幸いそう言った周りの視線に気がついていない。小萌に話をするのが楽しくて仕方ないと言った様子だ。まだそういうことに違和感を覚える歳ではないのだろう。「そうですかー。それはおいしそうですねー。小萌先生も食べてみたいですよー」と、小萌。 自分のことを一生懸命に話す雛苺に逐一返事をしながらも、彼女は小さな雛苺の様子をしっかりと見る。 幼女にしてはそれなりに長い距離を歩いている。いまは雛苺に疲労の色はないが、相手は小学生未満である。いつ体調が変わるかわからない。 そして何より、このくらいの年齢の子供は、周囲の雰囲気の影響をたやすく受けてしまう。気づいていないいまはいいが、彼女に向けられる雰囲気はあまりよいものではないのである。 小萌としては目的地までバスなりなんなりを使いたいところなのだが、いかんせんその目的地がわからないのだから使いようがなかった。 さらに彼女の懸念事項として、(・・・困りましたねー。どうやってシスターちゃんたちに連絡しましょうか) 近場に出てくるからと、携帯電話を持ってこなかったのは失敗だった。 自分の家の電話番号がわからないわけがないが、科学万能のこの都市には公衆電話というのは極端に少ないのである。(もしかしたら心配をかけてるかもしれません。シスターちゃんはともかく、姫神ちゃんは一緒に暮らしてましたし) この夏休み明けで学生寮の方に移ったが、姫神はしばらく小萌の家に居候をしていた過去がある。当然商店街に行って帰る所要時間も承知の上だ。 ついでに好みの酒やタバコの銘柄も知っているはずなので、もし探しにきていて路地に置いてきた荷物を発見したとしたら、なにか事件に遭ったと考えるかもしれない。 一度、なんとか連絡を入れるべきか。
「・・・・・・」 少し考えてから、しかし小萌は小さくため息をついた。(・・・仕方ありませんねー。こんな人混みの中で他に気をとられてはぐれてしまうわけにもいかないのです) それでも、いまは我が手を握る少女の方が優先だ。 いま雛苺とはぐれてしまえば、話がさらにややこしくなる。 迷子を保護者に引き渡そうとしたせいでさらに迷子を作っては、本末転倒どころの騒ぎではない。 そう思い、小萌が雛苺と繋ぐ手の力を少しだけ強くしたところで、「ついたのー」 と、雛苺が脚を止めた。「え、わっ、わっ」 まるっきり思考に没頭していたため、不意のストップにバランスが崩れた。 とっ、とっ、と数歩よろけ、空いている片方の手をバタバタとゆらす小萌。「うゆ? こもえ、だいじょうぶ?」「あ、はい、大丈夫ですよー。いきなり止まったので、ちょっと驚いちゃいました」「ご、ごめんなさいなの」「いえいえ、ヒナちゃんが気にすることはないのです。それよりここは・・・って」 小萌は正面にある建物を見て、目を丸くした。
「え、えーと・・・ここ、ですかー?」 彼女は驚いた様子で、目の前の建物を見上げる。 まぁそれも無理はない。 そこは確かに建物としては目立つが、正直、待ち合わせに向くような場所とは思えないところだったのだから。「そうなの。ここにベリーベルがいるのよ」 だが、雛苺はにっこりと笑う。 はやく行こう、とでも言うように、くいくいと小萌の手を引っ張っていた。「そ、そうなんですかー」 なんでわざわざこんなところで待ち合わせを。 そう言いたげな小萌の視線の先にある建物は、休みということでセールでもしているのか、街中よりもずっと人でごった返していた。 学園都市でも有名な大規模百貨店。 総合デパートである。
「それでとうま? こっちのこの女の子は、どこのだれなの?」 そう言って、インデックスは上条に不機嫌っぽい視線を向けた。 彼女の青い瞳に浮かぶのは、もはや言わずもがなの色。 『今度は一体全体どんな事件を解決してどこの女の子と仲良くなったの? しかも私に内緒で』 そんな幻聴が聞こえてきそうなほど、インデックスの瞳は剣呑な光を帯びていた。「え、えっと」 なんとなく、助けを求める意味を込めて横を向く上条。 しかし、「どこの。誰なの?」 隣に座って歯形の消毒をしてくれている姫神からもまったく同じ色の視線が注ぎ込まれていることに気づいて、背中に嫌な感じの汗が浮いただけだった。 万事休すだ。 うかつなことを言えば、再びインデックスの歯か、あるいは姫神の魔法のステッキ(スタンガン)が我が身に舞い降りることになってしまう。
「それはだな、その、」 なんとかうまい言い回しを。 そんなことを考えながら、上条は左手でごまかすように頬を掻いた。 薬指にはまった、薔薇を模した指輪が蛍光灯を照り返してキラリと光る。「・・・・・・」「・・・・・・。」「別に助けたわけじゃなくて、ちょっとした事情が・・・って、いてえっ!? ひひひひ姫神! 沁みる! 沁みてる! っていうかピンセットの先がぐりぐり傷口にねじ込まれてます!」「・・・ごめんなさい。すこし。手元が狂った」 まったく謝意のこもっていない口調で謝りながら、姫神はピンセットを歯型から離した。「手元って、どこに何したらさっきみたいな狂いかたを・・・」 涙目で問いかける。 姫神の口元から、ちっ、と小さく舌打ちが聞こえた気がしたのは、果たして気のせいだろうか。 だがそれを上条が追求するよりも先に、「とうま?」 カキン、と歯をかみ締める音が響き、あわててインデックスに向き直った。「い、インデックスさん、これ以上の噛み付きは命に関わると上条さんは思うのですよ・・・わかった! いまから説明するからガチガチ噛み合わせないで!」 再び襲いくる咀嚼の恐怖に後退り(でも姫神に腕をつかまれてる)ながら、座りなおす上条。 白いシスターと和装の黒髪の視線が、同時に集まった。「・・・その、だな」 二人の顔を視界に納めながら、上条は目の向けどころを探して天井を向いた。 真紅のことを、どう説明したものか。(アリスゲームのこととか、話せないよなぁ・・・) もしも話せば、まず間違いなく二人は首を突っ込んでくるに違いない。そうなれば高確率で危険な目に遭ってしまう。 学生寮で『インデックスたちが危ない』と勘違いしたときから大いに慌てていたので、その辺りのことを完璧に忘れていたのである。 真紅自身に直接的な害悪などないと信じているが、彼女を取り巻く環境がそうではない。実際、ついさっき死にかけたところだ。 上条としては、自分は仕方ないにしても、知り合いには可能な限りトラブルから離れておいてほしかった。 それはインデックスはもちろんであるし、姫神だってそうだ。当然いまは買い物に出掛けていて不在の小萌だって同じである。 ぶっちゃけ自分以外は誰が巻き込まれてもいやなのだ。
「えー・・・とりあえずこちらは、真紅さんと言いまして」 とはいえ黙っていたらまたもや血の惨劇が繰り返されてしまう。上条はとりあえず、与えても問題ないと思われる情報を開示することにした。「うん」と、頷くインデックス。「・・・・・・。」 姫神もそれに追随し、頷いた。「で、えーっと・・・」「うん」「・・・・・・。」「えーと・・・」「・・・・・・」「・・・・・・。」「・・・・・・」 開示してもいい情報、終了。(こ、これ以上どう言えばいいってんだ!?) 内心で頭を抱える上条。 そもそも彼自身が、あまり真紅のことを知らないのである。
知っていることから危険そうなことを除くとなると、それこそ出会いからここに来た理由まで全部シークレットだ。 真紅のことを詳しく説明するなら、どうしてもアリスゲームのことを話さなければならない。そして上条がその争いに『契約者』という形で巻き込まれているということも。 さらに言えば、ローゼンは錬金術師でもあるらしい。おそらく、禁書目録としての知識の中にその名前はあるに違いなかった。 いまここで適当にごまかしても、ふとした拍子にインデックスにはバレるかもしれない。 嘘をついて隠した挙句、バレる。 今度こそ上条は美味しいお肉にされてしまうだろう。(・・・真紅には家で待ってもらえばよかったかもなぁ) そんな風に思わないでもなかった。 はっきり言えば『コインの結界』の件と真紅とはまるっきり関係がない。 双方ともに上条が関係しているとはいえ、真紅を護ることとインデックスたちを護ることは別問題だ。 それに真紅を『コインの結界』の事件に巻き込むとなれば、ただでさえアリスゲームがあるのに、余計なやっかいごとを追加することにだってなる。「・・・・・・」 ちらり、と真紅を見る上条。 件の真紅は、湯飲みで紅茶を飲みながらも、無言を貫いている。真意はわからないが、とりあえずは様子見を選択したらしい。
真紅は、聡明である。 『コインの結界』が自分の範疇ではないことも、もちろん気づいていただろう。 それなのに何も言わずここまでついてきてくれたことは、上条としてはもちろん嬉しい。 だがそれが結果的にインデックスたちを巻き込む要素になってしまっているのは皮肉であった。「・・・・・・」と、沈黙する上条。 頭の中でうまい言い訳を考えているが、こういうときに回る頭を持っていれば、補習の回数はずっと少ないだろう。 やな感じの沈黙が小萌の部屋に満ち、いい加減インデックスが痺れを切らすだろうなぁ、と上条が思い始めたころ。 大きく湯飲みを傾けて紅茶を飲み干してから、ふう、とため息をつく真紅。 そして、「・・・当麻、もう諦めましょう」 と、言った。
「え?」
聞き返す上条に、赤い彼女は静かな瞳を向ける。「貴方のことだから"アリスゲーム"に彼女たちを巻き込みたくない、うまくごまかしたい・・・そんな風に思っているのでしょう?」「う・・・」 そのものずばりを言い当てられた。「・・・・・・」「・・・・・・。」 巻き込みたくない、という言葉に反応したのか、インデックスと姫神の視線がさらに厳しくなる。 真紅はそんな二人の表情をちらりと見て、続けた。「・・・でも見る限り、こっちのシスターさんもそちらの巫女さんも、そういう誤魔化しは求めていないように見えるのだわ」「で、でもよ「それに」 上条の言葉を真紅が遮る。そしてインデックスと姫神を交互に見てから、「下手な説明じゃ絶対に納得しないって顔をしているわ。適当に誤魔化してしまえば、逆に探ってくるかもしれない。きちんと説明して危険を知ってもらった方が、かえって安全なはずよ」 それだけ言って、真紅は上条に静かな表情を向けた。 貴方だってそうでしょう? 無言が、そう言ってくる。
「・・・・・・」 上条はゆっくりと真紅から視線をはずし、まず、隣にいる姫神に目を向けた。「・・・・・・。」 黒い瞳がまっすぐにこっちを見つめてきている。 浮かぶ表情こそ乏しいものの、その繊手は、ごまかしを許さないとでも言うようにしっかりと上条の上着の裾を握っていた。 続けてインデックスに。「・・・・・・」 日本人とは異なる青い瞳。しかしそこにある『色』は、姫神とまったく同種のものだ。「・・・・・・」 青と黒の視線に当てられ、上条は再び天井を見上げた。今回ばかりは、真紅の言うとおりらしい。彼女たちを諦めさせる説明が、上条には思いつけない。 上条は諦めたようにため息をひとつ。「・・・真紅、すまん、頼んでいいか?」 と言い、「ええ、わかったのだわ、当麻」 と、真紅が頷いた。
白井の言う『雰囲気のよい店』は学舎の園にあるのではなかった。 バスに乗って数十分。第七学区の端ーーー第四学区にほど近い位置とのことだ。「よっと」 トン、と美琴は軽い足取りでバスから降り、白井も見た目どおりの軽やかさでそれに続く。するとすぐに、プシュ、とドアが閉まった。 二人を降ろしただけでバスはあっけなく出発進行。 バスの行き先は次が第四学区で、休日の今日はむしろそっちに行く人間のほうが多いのだ。 燃料はガソリンではないが、音がないと感じが出ない、静かすぎて危険だ、という意見から電子的に奏でられる排気音を響かせて、バスは去っていった。
「でも黒子。なんでそんなところにある店を知ってるのよ」 カードを入れた財布をポケットにしまいながら、美琴はそう問うた。 美琴と同様にカードをしまいこんでいた白井が、ツインテールの右側の先端を手で払いながら顔をあげる。「ついこの間のことですが、この辺りで仕事がありましたの。そのときについでに昼食をとることになりまして」 風紀委員の仕事は、基本的に放課後にはないが、あくまで基本的な話だ。例外などいくらでもある。昨夜もそうであるし、今夜もだ。 だから現場付近で食事を取ることも多い。もちろん制服で腕章までしているので、あまりハメをはずしたところに入るのは不可能であったが。「・・・こんなところまで? 風紀委員って管轄とかなかったっけ?」 周囲をぐるりと見回してから、不思議そうにというよりは少し訝しげに白井を見る美琴。 この辺りは商店や施設がなく、学生寮からもやや離れた、閑散とした区域である。 薄利多売というわけにはいかない個人経営の店が営業するにはあまり向かない区域だろう。 設けられたバス停もそれなりにおざなりで、ベンチに雨避け用の屋根と言った程度のものだった。 この後輩はほんの少し前に、かなりの無茶をしているのだ。それも自分のことに関する事件で。
「管轄はありますけれど、わたくしの場合は能力的に管轄飛び越えや救援要請が多いので・・・あ、こっちですの」 美琴の視線の意味を把握しながらも、それに気がつかない振りをして白井は歩き出した。言葉を返すこともできたが、意味がない。 どんな結論になっても白井の行動は変わらないのだから。「・・・・・・」 美琴もそれがわかっているから、聞こえよがしにため息をひとつついただけで追随を始めた。「・・・その店だけど」「はい」「黒子が誘うくらいだから味は大丈夫なんでしょうけど、何風?」 二人の間に漂い始めた微妙な空気を払うように、美琴が言った。 白井は、そうですねぇ、と細い指を顎に当て、少し考える。「創作料理という名目でしたが、基本は和食のようでした。精進料理、というほどでもありませんが、重い料理ではなかったと思います」「ふーん。私はどっちかというとガツンとした方が好みなんだけど」「まぁそこは店長に伺ってみればよろしいのでは? メニューの中にはお姉様がお好きそうなものもあったと思いますし」 そんなことを話しながら、歩を進める二人。 二人の向かう方向は商業密集地―――都市内でも有名な大型百貨店のある―――からは、逆方向だ。人の流れは少ない。 だから雑談に意識を奪われていても、商店街のように誰かとぶつかる心配はない。すれ違ったのは、本格的なドレスを着た西洋生まれらしき幼女と小学生らしき女の子くらいのものである。「・・・だからそれはそうじゃないと思うわよ」「いえ、確かにお姉様の趣味ではないと思いますけれど・・・」 だから話は弾み、話題は食事から、服、化粧品、アクセサリーと、比較的ころころと変わっていった。 もちろんここは学舎の園の外であるのであまり大っぴらなことは話せない。だがそういう話題には事欠かない年代である。 同部屋であるといえど、会話は途切れることなく続いていった。「ところでお姉さま」 それでもふとした拍子に訪れる話題の隙間を埋めるように、白井が軽く首をかしげた。「ん? なによ」と、美琴。 白井は、いえ、と前置きをしてから、「その手に提げているバッグはなんなんですの? 何か御用時が?」 彼女の言うとおり、美琴は右手に小さな手提げバッグを提げていた。
カラーは白やピンクでやけにファンシーで、美琴のセンスがいかんなく発揮されたものである。なにやら薄い長方形のものが入っているように少し膨らんでいるように見えた。 出かけるときは基本的に手ぶらな美琴だ。それを知る白井は、なんとなく違和感を感じる。「ああこれ?」 しかし美琴はかるくバッグを持ち上げると、「パンフレットと、サービス券よ。これ持って指定のチケット販売店に行くと、ゲコ太人形がもらえるのよ」 と言って、にっこりと笑った。「そ、そうですの」 その笑顔には何も言えず、しかし否定することもできないのでなんとか頷く。(この趣味さえなければ、お姉さまも完璧ですのに・・・) 内心で嘆息する白井。常日頃から敬愛しているが、この趣味だけにはついていけない。 手提げバックに視線を落とす美琴を横目に、小さくため息をつき、白井は空を見上げた。 もう秋に近い、青い空。
(ああ、もう秋になってしまいました・・・この夏でお姉さまとの距離をぴったりと縮める算段でしたのに・・・) 自分が大怪我を負った事件で確かに多少近くなったような気がするが、それは白井の望んだ形のようでいて、ちょっと異なるのである。 ちらちらと美琴に視線を向ける白井。美琴は手提げバッグにつけている蛙形の人形の位置が気に入らないのか、指でつついて直そうとしていた。「引き換え期間、9月いっぱいまでなのよね」などと言っているのが聞こえる。「・・・・・・」(・・・そう、そういえば9月ですの。まだどこかに夏の香りがあるような・・・夏の名残のアバンチュール、というフレーズも悪くはないですわね) そんなことを思いながら視線を前に戻せば、まるでその考えを後押ししてくれるかのように、夏の名残のような白いセーラー服姿の少女が歩いてきている。「・・・・・・」 これはもう符号だ。そうに違いない。 白井の脳裏に、一度は消えかけた不埒な考えが浮かび上がった。(待っていてくださいお姉さま。残暑が厳しいうちに、いま一度黒子にチャンスを!) ニヤリと笑う白井。 邪悪な笑みである。 そんなことを考えられているとはつゆ知らずな美琴は、(な、なんかいきなり寒気が・・・) 不意に襲ってきた悪寒に、思わず腕をさするのであった。
・・・・・・・・・
御坂美琴と、白井黒子。 その二人とすれ違ってから、十数歩。「・・・・・・」 セーラー服は、さりげない風を装って背後を振り返った。 肩越しの視線の先には、再び談笑をはじめて歩いている美琴と白井の背中がある。「・・・・・・」 セーラー服はやや背が高く細身で、美琴よりもなお短いショートカットだ。決して男性のようには見えないが、女性に人気が出そうな容姿である。纏う雰囲気も、どちらかというとさっぱりとした印象を相手に与えるものだろう。 だがいま彼女がその瞳に浮かべているのは、そんなイメージからは想像もつかないほど暗く、昏い感情だった。「・・・・・・」 もしいま美琴がその表情を見たのならば、気がついたかもしれない。 もしいま白井が振り返れば、おそらく彼女の浮かべる感情がなんなのか確信しただろう。「・・・・・・」 セーラー服は、徐々に遠ざかって行く二人の―――否、美琴の背中に、コールタールのようなどろりとした視線を注ぎつづける。 それは白井が美琴に向ける、憧れや尊敬、思慕に近く、なおかつそれを凌駕するもの。 すなわち、崇拝だ。
「・・・琴が唯一・・・美・・・の他に・・・トロマスターは不要・・・」 ぶつぶつと口の中でなにかを呟き続けるセーラー服。 その表情はうっとりと、狂気と言い換えてもおかしくないような崇拝で彩られていた。 そしてさらに、「お、お姉さまっ! 黒子感激ですのっ!」「だぁーっ! 褒めたのは風紀委員であってアンタ個人じゃないっ!」 なにやら雑談の中で琴線に触れる台詞でもあったらしく、白井が美琴に抱き着くのが見える。 それを遠目に見つめるセーラー服の双眸が、ギラリ、と、狂気を放った。「やっぱり御坂美琴は、孤高であるべきよね・・・」 そう。 偶然なんかではない。 偶然、こんな辺鄙なところで出会うわけがない。 昨夜、常盤台の生徒から蒼星石に『切り取らせた』記憶と感情の中にあった、白井黒子の名前。 超電磁砲の同室であり、大能力者。そして、御坂美琴のもっとも親しい者。「・・・・・・」 セーラー服は右手を持ち上げる。 そこには、すれ違った拍子に抜き取った白井の長い髪が一筋、確かに摘まれていた。
「ローゼン・・・珍しい名前を聞いたんだよ」 真紅の出自と現状を聞いたインデックスは、山盛りに米を盛った丼から顔をあげ、そう言った。 基本的に魔術関係は『知識』として淡々と分析する彼女にしては珍しく、その顔には驚きの表情が乗っている。「なんだ? ローゼンって、そんなにすごいやつなのか?」と、上条。 この場で魔術的知識は持っているのがインデックスだけだ。真紅にしてもローゼンが生みの親というだけで詳しいことを知っているわけではない。インデックスの驚きがいまひとつピンと来ないのである。「うん。たしかにすごい魔術師なんだけど、彼の場合はそれだけじゃないかも」 インデックスは口の中の米を何度か咀嚼し、飲み下してから、続けた。「彼は伝説級の力があるくせにほとんど正体も目的もわからない、不明の魔術師なんだよ」 禁書目録が持つ10万3千冊の知識の中で、ローゼンに関連する項目は皆無と言っていい。 彼が流浪の魔術師であったこと、彼が一切の魔術書を遺さなかったこと、そして唐突に歴史の表舞台から姿を消したこと、等が原因としてあげられる。 そのため彼に関することは、交流のあった僅かな者や、数少ない弟子による伝聞が残るのみだ。それらもほとんど形になってはおらず、彼を語る際は主として同系統の魔術師による研究―――特に東洋の赤い人形師による研究が詳しい―――が使われるほどである。 魔力を弾くはずの素材でゴーレムを作ったり、逆に破壊不能とまで言われていたゴーレムを『人形』という属性を利用して一息に破壊する。人形自身に魔術を使わせる、自己進化をする自動人形の作成する、という離れ業もやってのけている。 一説には極限まで人を模した人形と『偶像の理論』を使い、『命』すらも生み出したと言われていた。
「同系統の魔術師にホムンクルスを作り出したパラケルススっていう人がいたんだけど、能力的には彼と同じか、人形という面ならそれ以上だって言われてるんだよ」「・・・・・・パラケルスス。」 ポツリ、と姫神は呟いた。なにか思い当たる節でもあるのか、眉根を寄せて考え込んでいる風だ。 上条もそっちの名前はどこか聞き覚えがあるような気がした。よく思い出せないが、ゲームかなにかにあっただろうか。 ともあれ、要するにローゼンというのは稀代の魔術師だったようである。「・・・真紅、お前の生みの親って、すごかったんだな」 柿の種を噛み砕きながら、上条は感嘆の息を漏らした。 魔術的なことを知識として持っているインデックスが感情を込めて説明している。それだけで上条は、相当のものなのだな、と感心してしまう。「・・・お父様はお父様、よ。周囲の評価は、便宜上の些細なものなのだわ」 新しく淹れてもらった紅茶をやっぱり湯飲みで飲みながら、真紅はそっけなく返した。だがその頬が僅かに緩んでいるのは、きっと上条の気のせいではない。「それだけじゃないんだよ」 どん、と抱えていたインスタント牛丼の器をテーブルに置くインデックス。大盛りだった中身は、綺麗に空だ。「しんくはさっき、自分のことを薔薇乙女だ、って言ったよね?」「ええ」「それがどうかしたのか?」「本人を目の前にして言うのもちょっと考えちゃうんだけど・・・薔薇乙女って、長い間行方不明の霊装なんだよ。私も見たのは初めてかも」
薔薇乙女。 ローゼンの集大成と言われる7体の人形に関する資料は、さらに少ない。 彼の弟子であったと確認されている人形師が書いた文献とスケッチ、あとは極めて信憑性に乏しい目撃情報があるのみだ。贋作も横行し、実在すら疑われていたほどである。 禁書目録といえども、全世界の霊装をその目で見たわけではない。強力な霊装ほど秘匿性が高く、対抗勢力のものとなれば存在を知らされないことだってざらである。薔薇乙女の名前は知っていても、現物は見たことがなかった。 とはいえ、その知識から考察することは可能だ。 持てる知識と、幾つか現存しているローゼンの製作物の魔術形式から言って、目の前の真紅はまず本物であると、インデックスは判断していた。「でも、これでローゼンの謎のひとつが解けたかも」と、インデックスは丼に白米を盛る。次は親子丼らしい。レトルトのパックを、温めるためだけに用意しているらしい大きなポットに突っ込んだ。「ローゼンの目的って、あらゆる意味で本当に不明だったんだよ。なんでそこまで『人形』にこだわっていたのか、なんで命まで生み出せたはずの重要な魔術師が急に姿を消したのか。そしてなぜ薔薇乙女が目撃されながらも捕捉できなかったのか・・・それが『究極』を求めていたから、だってわかったのは、魔術史的にもちょっとした事件かも」 そう言って、インデックスは真紅を見た。 『究極』は魔術の最終目標のひとつである。 神という存在を全能の完全なものと定義するなら、究極は物事の流れの最終到達点とでも表現すべきところだろう。例えるなら―――人が究極まで進化すれば神に届くのか、それともやはり人は人でしかないのか。 言ってしまえば、人の到達点を突き詰める部門といえる。神がいなければ創ればいいという『完全なる知性主義』―――黄金練成の原点のひとつだ。 ローゼンがどういう意図で究極の人形を求めていたのかまでは予測にしかならない。だが、神が自分を模して人を作り出したという仮説を鑑みれば、人を模して造られた人形の究極を見ることにも十分な意味があるだろう。 閑話休題。「それで。」 と、それまで黙って話を聞いていた姫神が口を開いた。
三人(というか二人と1体)の顔がいっせいに向けられる。そんな中、姫神は上条の左手にちらりと視線をやってから、言った。「貴女のアリスゲームは。どうすれば終結させることができるの?」 ローザミスティカの奪い合い。アリスゲームと呼ばれる闘いは、薔薇乙女とその契約者によって行われる。 その説明のとおりであるならば、上条はこれからずっと闘い続けなければならない。もちろん命をかけて、だ。「「「・・・・・・」」」 今度は三人の視線が真紅に向く。「・・・それは」 真紅はいったん言葉を切り、少しだけ眉を寄せた。「・・・あまり、いい返事はできないのだわ」「・・・・・・。」「私がこの時代に目覚めたからと言って、他の姉妹の誰が目覚めたのかまではわからない。それに、全員が一度に目覚めるとも限らないの。近くにいるか、探索するか・・・いずれにしてもいまこの場ではっきりとこうすれば終わる、と言えないのだわ」「そう、なのか? でもさっき、水銀燈はお前のことを知ってたじゃないか」「いいえ。水銀燈が本当に私のことを察知していたのなら、あんな風に途中でひいたりはしなかったはず。偶然近くにいて、私の目覚めを察知したのよ」「じゃあ結局。」と、姫神。「上条くんは決着がつくまで。ずっと戦うことになるのね」 と、姫神は上条に目を向ける。
「それは・・・」「・・・・・・」「・・・・・・」 真紅の声が途切れ、重い沈黙が部屋に満ちた。 いままで幾度も上条は戦ってきたが、それにしても概ね『こうすれば決着がつく』という目標が見えていたものだ。今回もすべてのローザミスティカを集める(真紅が望むか否かは別として)という目標はあるが、この時代に全部あるとは限らないーーー終わりが確定されないのは、正直きつい。下手すれば一生ものの話である。「・・・前のときは。どうだったの?」「え?」「前のときの。結末。貴女は何度も戦ってきたんでしょう? 前のときやその前のときは。どんな結果でゲームが終わって。どれくらい時間がかかったの?」「それは・・・」 記憶を掘り起こそうとして、(・・・?) ふと、真紅の脳裏に違和感が沸き上がった。
・・・前回?
眉根を詰める真紅。 不意に表情を凍らせたためか、上条ら三人が疑問符をつけた視線を向けてくる。しかし真紅は自分の中に生まれた違和感に気をとられ、それに気がつかない。(前回・・・前は、ジュンにネジを巻かれて・・・) そうだ。確かに、今回と同じように、ジュンも巻くことを選択して、自分が目覚めたはずだ。(それで、確か・・・) 記憶を掘り返す。 その後は、どうした? どうやってアリスゲームが終わって、どうやって自分はジュンと別れた?「・・・・・・」 膨れ上がる違和感。 だが、真紅がその先に思考を至らせるよりも早く。 唐突に、真紅の腕の袖口からホーリエが飛び出した。
「「「!」」」 全員の目が、いきなり現れた光球に集中する。 飛び出したホーリエは、蛍光灯から下がる紐の周りを、明滅しながらぐるぐると回っている。その様は、まるで焦っているかのような印象を伺わせた。「な、なに!?」「敵。じゃあなさそうだけど。」 インデックスと姫神は驚いたのだろう。やや身構え、その軌跡を目で追った。「ホーリエ!? 突然なんなの!?」 真紅も光球のいきなりの動きに驚いたのか、軽く目を見開いていた。 しかしホーリエは己が主人の言葉になんら反応することなく、まるで何かを探すように室内を円周している。 そして不意に、ホーリエはその円運動を停止した。 まるで目的のものを見つけたかのように急速に方向転換。部屋の片隅に置いてある小さめの箪笥の上で停止した。 そこには小萌が置いたのだろう、小さな置時計と、何かの思い出らしき、写真立て。 飾られているのは卒業写真かなにかなのか、スーツ姿の小萌や見たことのない大人たちの姿があった。 ホーリエは、その写真立ての前で激しく明滅を繰り返す。「真紅!?」 上条が緊張を浮かせた表情で真紅を見た。まさか、と言う焦りが彼の顔には浮かび上がっている。
悪い予感は当たるものだ。 真紅は頷く。 上条の顔を見て、その写真に写る女性が彼の護るべき人物の一人だということを確信して。 ホーリエがこんな風に反応する理由など、ひとつしかない。 小萌の身に、アリスゲームに依る危険が迫っている。
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