寮よりの手前のバス停で降りて、買い物をする。ぽろっとこぼした上条のリクエストで、姫神は肉じゃがを作ってくれることになった。どう考えてもその日中に同居人に鍋の底まで平らげられてしまうのが悲しい。「ちょっと晩御飯遅くなっちゃいそうだね」「いつもよりは、そうだな。遅いってほどじゃないけど、インデックスが怒ってそうだ」とっぷり日の暮れた道を、三人分の食材を手にして歩く。同棲でもしていればこんなことは日常になるだろう。つい、そういうシチュエーションを想像してしまう。「大学行ったら、同棲とかするか?」「えっ……えぇっ?」「いや、ごめん。先の話をしすぎた。忘れてくれ」「えっと。さすがに急でびっくりしちゃった。でも。ずっと当麻君と一緒にいられるのっていいね。同棲するとお互いにドキドキすることがなくなるから実は良くないって説もあるけど」「あー、それは確かにあるなぁ」「……あの子の事?」「うん、まあ。それほど長いこと一緒にいるわけじゃないけど、毎日一緒だとさ。詰まんないことで喧嘩もするし、嫌なところも見えてくるだろ?掃除しないとか料理作らないとか服を俺のと一緒に洗濯すると文句言うとか」「やっぱり好きな人のところには通うのが良いのかな」「……秋沙がうちに来てご飯作ってくれるって、ものすごい嬉しいんだぞ?」「ふふ。あんまり大したことは出来ないけど。気持ちはちゃんとこめて作るからね」エントランスをくぐって、エレベータの扉を開く。きっと出会い頭にお腹すいたと文句が飛んでくるのは間違いない。代わり映えのしない自分と二人だけの夕食じゃなくて、今日は秋沙がいるからインデックスも喜ぶだろうと、上条は気楽に考えた。今日は私と当麻君と三人。あの子はそれをどう思うだろうと、姫神は良くないケースも想定して覚悟を決めた。かすかな加速度を足に感じて、勢いよくエレベータは登る。夏には上条を待ちくたびれて玄関先で待っていることも良くあったが、近頃はめっきり冷えてきてそんな光景も見なくなった。エレベータから出て、上条は部屋のドアの鍵を開けた。「ただいま」「お帰りーとうま。ごはん、ごはん、ごはん!」「ああ、うん。すぐ作るから」玄関からはインデックスの姿は見えない。ベッドの上でごろごろしているのだろうか。控えめに、うしろから姫神が声をかけた。「お邪魔。します」「あれとうま。誰か女の人の声がしたんだけど」「うん。ご飯。作りに来たから」「えっ? ……あいさ? どうしたの?」インデックスが不思議そうに顔を覗かせた。嬉しそうとも警戒しているとも見えないその態度に、人知れず姫神は体を硬くした。「あいさのごっはん、あいさのごっはん」普段上条が料理をしているときなんてほとんど興味を持たないくせに、インデックスは少し離れたところから姫神の包丁の動きを目で追っていた。上条はその隣で茹でた卵の殻を剥いている。「とうま。ちゃんと白身を傷つけないように剥いてほしいんだよ!」「難しいんだよ。文句言うんなら自分で剥け。俺より下手なくせに」「そんなことないもん!」「ふふ。いつもこんな調子なの?」喧嘩っぽい口調で言い合う二人を、姫神はほっとした気持ちで見ていた。あの子とにらみ合うようなことになっては、食事どころではない。そういう心配はしなくてすみそうだった。それに、二人の会話はなんだか兄と妹というか、子供っぽい感じがして、それも安心材料だった。「ん、秋沙。剥き終わった」「ありがと。当麻君。鍋に入れてくれる?」「了解っと」上条は予想以上にきちんと料理をするようだ。ないならみりんと料理酒を自分の部屋から取ってくる気だったが、その必要もなかった。甘めの味付けがインデックスの好みだということで、砂糖と味醂が多めの、こっくりとした味付けにした。隣のコンロでさっと青菜を湯にくぐらせて、辛子和えを作る。鍋一杯の肉じゃがとこれがあれば夕食としてそれなりのものだろう。「あいさ、まだ?」「煮物はすぐには出来ないよ。食べるのはあと一時間くらいしてからかな?」「えーっ! お腹すいた」「もう」甘えてくれるインデックスを少し可愛いと感じてクスリとなる。――その油断がいけなかったのか。「そういえばあいさ。とうまのこと、下の名前で呼んでるんだね」「えっ?」「とうまも、あいさって呼んだ」「ああ、えっとそれはだなインデックス」むー、とインデックスに睨まれる。直接睨まれている上条の隣で姫神もたじろいでいた。「あいさに変なことしたんじゃだめなんだよ! とうま!」「へへへへへへ変なことってなんだよ?!」「そ。そうだよ。変なことなんて。別に」つい数時間前に姫神の胸を吸っていたのは誰だったか、思い出して上条も姫神も真っ赤になった。「飯炊けたぞー」「うん。肉じゃがはまだ冷めてないから。このまま出すね」インデックスはもうテーブルの前に座って、完全にスタンバイしていた。姫神が鍋を持っていくと、インデックスが恭しくテーブルに鍋敷きを置いた。かぱりと姫神が蓋を開ける。醤油と味醂で似た牛肉とジャガイモのいい匂いが、ふわっと広がる。「うわぁぁぁぁぁぁ……」インデックスは目をキラキラ輝かせてもう待てそうにもない、という表情をしていた。……なので、上条は自分と姫神の分のご飯をよそってから、最後にインデックスに茶碗を渡す。「それじゃあ。召し上がれ」「うん!! いただきます!」はぐはぐはぐはぐはぐはぐ!こっちの様子を見てもいない。上条はいつもどおりのインデックスにため息をついた。向かい合わせに座った姫神に、ありがとな、と伝える。ううん。と首を横に振る姫神と、どこか、子供を持った夫婦みたいな気持ちを味わった。「それじゃ、俺も頂きます」「頂きます。当麻君の口に合えばいいな」「絶対に大丈夫なんだよ。とうまのご飯の100倍美味しいから」「作ってもらってばっかりのお前に言われたかねーよ」「ふふ。喜んでもらえてよかった」「あいさ! これからは毎日来てくれるの?!」「えっ?」驚く姫神を見つめたのは一瞬だった。あっというまに目線を再び肉じゃがに戻して、もりもりと口に運んでいく。「毎日。来てもいいのかな?」「え? なんで?」「お邪魔じゃないかなって」「そんなことないよ! とうまは全然遊んでくれないし、あいさがいてくれたら嬉しいもん」「そっか」ほっとしたように、姫神が薄く笑う。上条としても、三人で食事を取れるのは嬉しいし、丸く収まったみたいで良かった、と安堵した。「おかわり!」「へいへい。入れてやるから皿貸せ」「お肉っお肉っ」「全員平等にだ。お前に肉を全部献上することは断じてありえない」「わたし全部なんて言ってないもん!」「全部食いかねない勢いだろーが!」「ふふ」上条家の食卓は、いつもこんな感じなんだろうか。姫神も、自分で作った肉じゃがに手をつけた。「ごちそうさま」「ごちそうさま、あいさ」「うん。おそまつさまでした」上条家にある最大の鍋は5リットル。肉も400グラムあったしジャガイモは全部で14個も入れたのに、目の前の鍋はもうさっと洗えばもう綺麗になる状態だった。すっからかんとも言う。「はぁ、コレだけあっても明日の分はないんだもんなぁ」「もしかして。あったらあった分だけ食べられちゃうの?」「そうなんだよ! ったく、底なしって言うかこんだけ食べてよく太らないよな」「ちゃんと成長に使ってるから平気なんだもん!」「成長ねえ」どこが、というような話はしない。もうそれはすでにやって、すでに噛み付かれたことがある。「さて、んじゃ洗い物してくるわ」「あ。手伝うよ」「いいって。ほとんど作ってもらってたんだし、片づけくらいはするから。それよりインデックスのお守りを頼む」「とうま! 私はべつに遊んでもらえないくらいで怒ったりしないもん!」「いや毎日怒ってるだろ……」鍋と三人分の食器を台所に運ぶ。リビングではインデックスが姫神をベッドサイドに連れて行って、二人でテレビを見始めていた。「あっ、カナミンの曲だ!」「カナミン?」「あいさは見てないの? 超起動少女(マジカルパワード)カナミン」「私は見てない。これ好きなの?」「うん! あ……でも」何かを思い出したらしく、勢いよく好きと応えた声が、急にしおれた。「ちょっとこないだの回は嫌だったな」「ふうん。時期的に最終回まではあと二、三話くらいかな」「えっ? カナミン、終わっちゃうの?」「それはアニメだから。いつかは終わるものだけど」水道の音のせいで上条からは二人の会話ははっきりとは聞き取れないが、仲良く話しているようだった。食べてすぐの食器は汚れも落としやすいし、何よりご飯粒一つ残っていないので、洗いものはさっと済んでしまった。タオルで手を拭いて、上条も二人に合流すべくリビングへ向かう。上条は、インデックスと姫神が二人並んだ、その姫神側の方に腰掛けた。インデックスが少し訝しげな表情をしたことに、上条は気づかなかった。別に自分から番組を変える気もなくて、カナミンのオープニングテーマを流す番組をそのまま眺める。「ねーねー秋沙。今日はいつまでいるの?」「えっと。明日に差支えがなければ。何時でもいいんだけど」「じゃあゲームしよう! 最近これ、よくやってるんだ」「あ。うん。いいけど……」インデックスが傍らに置いたボードゲームを広げようとする。「こっちのゲームでもいいし、テレビ使うほうのゲームでも良いよ。あいさはどれがいい?」「えっと」もうゲームをするんだといわんばかりに、インデックスがあれこれと用意をする。その勢いに飲まれたせいで、姫神は言う機会を逸してしまう。だが、今日ここに来た目的は、インデックスとゲームをすることではない。吹寄が少し、姫神から距離を置いてしまったように。常盤台中学の女の子が、全く縁のなかった自分に隔意ある視線を向けるようになってしまったように。もしインデックスに、自分と上条のことを言ってしまったら、これまで通りには接してもらえないかもしれない。そう多いとはいえない友達の一人だし、納得はしていなくても、インデックスが上条と離れがたい関係にあるのは知っている。上条の取り合いになって、いがみ合うことになるのは避けたかった。だがそれ以上に、『恋人』を取り合うことは、絶対に避ける気だった。そっと手を、上条に絡めた。驚いた雰囲気が腕から伝わる。インデックスの前で睦みあうことに、上条がどんな顔をするのか、確かめた。「秋沙」大好きな恋人の声には、戸惑いとためらいの響き。チリチリとそれだけで燃え上がる何かがあった。大切なのは私でしょ。あの子に知られたって構わないでしょ。「ちゃんと。言わないと」言いたいことは別だった。私のことが好きなんだ、って、あの子の前で言って欲しい。あの子に姫神秋沙は俺の彼女だと明言して欲しい。私とあの子の立場をちゃんと区別して欲しい。自分が一番嫉妬している相手はインデックスなのだと、姫神は自覚していた。だって、こんなにも毎日、上条の傍にいる女の子がいたら。そしてその子が可愛くて、健気な、いい子なら。大好きな上条当麻という人が、なびいてしまうかもしれないから。「あっ、とうま! ……あいさに何してるの」「へ? え、いやこれは、その、腕組んでるん、だけど」「次はどこに触る気なの?」「次ってなんだよ」「あいさも気をつけて。とうまは油断したらすぐえっちなことするんだから!」「ひ、人聞きの悪い」「当麻君」思わず放しかけた腕を、姫神が手繰り寄せた。切ない目が上条を見つめる。それだけで罪悪感が心をざわめかせた。「とうま……あいさも、どうかしたの? さっきから思ってたけど、今日はなんか二人とも変だよ」「変か。なあインデックス、その、どうしてそう見える?」「えっと、よくわかんないけど、とうまがえっちなことをしてもあいさが怒らないし。それにとうまが女の人と腕組んでるってそれだけで変かも」「うん。自分で言うのもなんだけど、変だな」「だから私はそう言ってるんだよ」ぎゅ、と上条の腕を姫神がきつく抱きこむ。姫神はもうインデックスのほうを見ていなかった。インデックスはそれで、今日姫神がこの家に着てからずっと薄く感じていた、なんともいえない疎外感、それをはっきり悟った。上条と自分の二人の家にいながら、いつもの空気と違う。お客様がいるからではない。自分と上条と姫神、三人がいて自分だけが「独り」なのだと感じる。部屋の距離感がおかしくなって、急に上条が遠く見えるような感じをインデックスは覚えた。「なあインデックス。報告が、あるんだけどさ」「えっ?」ドキリと、心臓がテンポを急に変える。上条との間に何度か遭遇した、ちょっと幸せで恥ずかしくなるような、あのドキドキとは違う。むしろ嫌な夢から覚めた直後の、まだあれが夢だったと認識するより前の圧迫感に近い。姫神が自分のほうを見ないのが嫌だった。仲良くした人にそっぽを向けられる、その理由が知りたい。……いや、知りたくない。理由を知ってはいけないような、そんな気がする。「俺と秋沙のことなんだけど」今更、今になってようやく、上条が姫神のことを秋沙と呼ぶことが気に障りだした。当麻君、なんて呼び方もおかしいのだ。上条が姫神のことを好きなのも、姫神が上条のことを好きなのも知っていたが、それでも今までは互いに苗字で呼び合ってきたのに。自分の目の前で、二人がそっと見詰め合ったのが分かった。上条が優しい目で姫神を見つめたのが分かる。いたわるような、安心させるような微笑。……それを見て自分の心の中に処理しきれないような怒りが湧いたのが分かった。「インデックス、聞いてくれ。ついこの間のことなんだけど。……その、伝えるのが遅れて悪い。俺と秋沙は――」呼吸を上手く出来ない。体が急にこわばってしまった。そんな自分を意に介さず、上条が言葉を続ける。「今、付き合ってるんだ」「……え?」科学の話をしたときのような。インデックスが初めに返した言葉は、自分が知らない単語を聞いたときの、その態度だった。「付き合う、って?」「え?」聞き返したいのは、むしろ上条だった。インデックスを日本語の分からない少女のように扱ったことなど一度もない。科学的な知識はさておいて、こういう普通のことに疎い面など見たことがなかった。「いやだから、秋沙が俺の彼女になるって話で」「あいさがとうまの、彼女?」「そうだよ……インデックス?」「なに?」「なにじゃねえよ」上条はどうもよく分かってないように見えるインデックスに、ついつっけんどんになる。知り合いに彼女が出来たなんて話をするのは照れくさいのだ。それに、ずっと一緒に住んできた相手、それも女の子に報告するのは、どこか後ろめたかった。「付き合うっていうのは。抱きしめあったりキスしたりする関係ってことだよ」誰に目を合わせるでもなく、取り立てて特別でもない説明を、姫神が呟く。それは上条とインデックスを、ハッとさせるような一言だった。「だ、だめだよ! そんなの」「どうして?」「だってとうまは……えっちなんだもん!」「エッチだったら。どうして駄目なの?」「だってとうまはすぐ出合った女の人と仲良くなるし、あっちこっちでそういう人増やすし」「そうなの? 当麻君」「え?」急に話を振られて上条は戸惑う。ちらと上条を一瞥して、姫神の視線はインデックスに向かった。「あちこちで知り合った女の人と。キスをしたの?」「そんなことねえよ。秋沙とだけだ」「えっ……?」「ありがとう。当麻君」困惑を浮かべたインデックスの顔から、瞬間、沢山の感情が剥落した。「当麻君は。私と他の女の人は別だって想ってくれてる。私は当麻君の彼女なの」「でもっ……駄目だもん」「どうして? あなたは。当麻君の何?」「とうまは私の大切な人だもん!!」「私が聞いてるのはあなたが当麻君の何なのかだよ」「そんなの……! とうまに聞いてみればいいよ!」一転して、混乱と、敵意と言ってもいいような何かをインデックスは浮かべる。「いや、そりゃ嫌いならこの家に置いたりなんてしないけど」「私は、当麻の何なの?」「……何って、まあ、同居人、だろ」恋人では、なかった。大切な人ではあっただろうと、上条は思う。でもそれでもやはりインデックスは上条にとって、彼女ではなかった。自分の大切な、たった一人の女の子。その名はもう姫神秋沙と決まっているのだ。「とうまは、私のこと嫌いなの?」「んなわけあるか」「じゃあ、あいさと比べて、私のこと」「比べるのはおかしいよ。私は当麻君の彼女で、あなたは違うから」全ての議論を姫神が遮った。反論の余地のない、バッサリとした断定だった。上条も、そしてインデックスも、何もそれに言い返せなかった。インデックスがキッと自分を睨みつけたのに、姫神は気づいた。自分は取り繕っている気でいるが、あるかないか分からない仮面の下で、自分もインデックスと同じ表情をしている自覚があった。だから、なんとなく次の一言も分かった。「出てって」「え……?」驚きに呆然としたのは上条の声。視線は絶対に逸らさない。まっすぐインデックスを射抜く。姫神を突き放すように、もう一度インデックスが叫んだ。「あいさは出て行って!!!!」「インデックス!!」姫神とインデックス、二人ともがその怒声にびくり、となった。こんな風に上条に怒られたことはインデックスは一度もなかった。だから、怖かった。そして、反射的に覚えたその感情が緩和するにつれて、別の感情が、じわじわと心を蝕んだ。事情なんてどうでも良くて、突きつけられたのは自分だけが怒られたという事実。「そんな言い方はないだろ。誰だろうが、ウチに上げといて出て行けってのは、それは言っていいようなことじゃないだろ」「なんで。とうまは私だけ怒るの?」「なんでって、出て行けって言ったのお前じゃないか」「あいさだって私と言い合いしたのに!」「それとこれとは話が違うだろ?」「私、ずっと一緒にとうまはいてくれるって思ってたのに! なのに……!」表し方の分からない想いが、絶えかねたようにぽろりと目じりからこぼれる。「とうまはどうしてあいさの肩を持つの?」「だから別にそんなつもりないって言ってるだろ!?」「とうまのうそつき!」「意味わかんねぇよ」噛み付いてきたりなんて、インデックスはしなかった。憎しみというよりは裏切られたような、傷ついたような顔。ただの二人の喧嘩なら、上条はもっとインデックスを気遣えたのかもしれない。今はただ、インデックスの感情論に不快感を覚えることしか出来なかった。「……私。帰るね」「あ、秋沙」「ここにいても。こじれるだけになっちゃうから」「……ごめんな。せっかく、晩飯まで作ってもらったのにさ」「ううん。気にしないで。それじゃ、お邪魔しました」他人行儀に、それでも挨拶をした姫神とは対象に、インデックスは目をあわせようともしなかった。姫神のことも好いていただけに、裏切られたという思いは強かった。上条が腰を上げてインデックスと姫神を見た。姫神を送っていくか、それともインデックスをなだめるか。姫神はそれなりに平静だ。二人の女の子の様子で判断すれば、インデックスの面倒を見るべきかもしれない。「インデックス。秋沙を送ってくるから」「あ……」「すぐ帰ってくる」上条は、『身内』より『彼女』を選んだ。愛情の多寡ではなく、それは日本的な価値観の発露だった。だが二人の女の子は、そんな風には受け取れない。一方は優越感を感じたことに後ろめたさを覚えて、もう一方は捨てられたような気持ちを、いっそう強く覚えた。「やっぱり。こうなっちゃった」「秋沙?」「半分くらいは覚悟してたんだけど。これはもう嫌われちゃったかもしれないね」「その、ごめんな。あとで言っておくから」「止めといたほうがいいと思う」「え?」「大好きな人が他の女を選んだせいで傷ついてるのに。その人からさらに叱られたりしたら。どうしようもないくらい傷つくよ。私があの子の気持ちを語るのはおこがましいけど。それは分かる」エレベータを降りて、エントランスに出る。そもそもマンションの外に出ないから送るほどの事もない。ここで別れればいいかと思った上条の手を、姫神が引く。まだそこまで遅い時間ではない。女子棟のほうへと、上条はついていった。「秋沙はあいつに怒ってないか?」「うん。怒られる理由はあるけど怒る理由はないから」「問題はやっぱインデックスか。仲直り、してくれるといいけどさ」「うん……」「やっぱり、三人の時にも仲良くいられるのがいいしな」「……」「秋沙?」階段を上る足をぱたりと止めた。「3人で恋人同士はできないよ」「え?」「あの子は当麻君の何でいたいのかな? ただの同居人でいいのかな?」「……」「もしそれで満足できないんだったら。3人でっていうのは。ありえないよ」インデックスは、自分のことをどう見ているのだろう。さんざん悪口を言われるが、それは愛情の裏返しだと思える。ときどき女らしい態度にドキリとさせられることはあるが、向こうが意識しているわけじゃなくて、年頃の上条が過剰に気にしているだけだと思う。……今までそう思ってきた。だが姫神の口ぶりは、そうではないのだと言っている。部屋に帰って、どんな顔をすれば良いのか上条には分からなかった。「うちに上がる?」「……いや、一応早く帰ってやろうとは、思うし」「そっか」「ごめん」「気にしないで。私もそのほうがいいと思うから。……でも当麻君」何かを欲しがる目。今日は沢山愛し合った。だから言われなくても分かる。カチャ、とドアのノブに姫神が手をついた音がする。姫神を扉に押し付けるようにしながら、上条は姫神の唇を深く吸った。「おやすみ秋沙。愛してる」「うん。当麻君もお休み。大好きだよ」姫神を送ってすぐにきびすを返し、自宅のドアを開ける。出しかけたゲームや上条の鞄がリビングに居座っていて、さっきの雰囲気を残していた。「ただいま」ベッドの上で体育座りになってインデックスは俯いている。くしゃりと頭を撫でて、上条は部屋の片づけを始めた。せめて、周りだけでもいつもどおりを取り繕ってやれるように。……風呂の湯を沸かしはじめたところで、ようやくインデックスが口を開いた。「私。出て行かなくてもいいのかな……?」「え? 出て行くって」「だって。私はもう、ここにいちゃいけないのかなって」「なんでだよ」予想以上に悪い方向に考えすぎているインデックスが心配で、上条はベッドに腰掛けた。もう一度、頭を撫でてやる。「とうまに。嫌われちゃったもん」「その嫌ってるはずの上条さんは今お前の頭を撫でてるんだけどな」「ねえとうま」「ん?」「わたし。とうまの何なのかな」それは上条に向けての疑問というよりも、自分がその答えを持っていないことへのやるせなさのようだった。答えるべきか、悩む。ただの同居人だとは答えづらかった。それは確かに上条にとっても正しい答えではないのだ。ただのルームメイトとは違う、恋人とも違う、兄妹とも違う、そういうカテゴリに当てはめにくい、世界でも自分達二人だけかもしれない、不思議な関係だった。「お前はなんだと思うんだ?」「わかんないよ。とうまにとって私はどういう存在なのか。とうまが教えてよ」「……お前といると、楽しいよ」二人とも、カーペットに穴でもあけるようにじっと一点を見つめる。部屋が明るいのが少し、鬱陶しかった。「私も、とうまと一緒にいると楽しいよ。遊んでもらえると嬉しいよ」「……それが答えじゃ、だめなのか?」「だって、答えじゃないもん。私はとうまにとってこういう人ですって、言葉にしたいんだよ」だが、答えは出ない。簡単に答えが出ないからずっとそんなことは頭の片隅にやって、ただ、楽しくやってきた。「明日からも、ここにいていい?」「当たり前だろ?」「とうまの傍にいても、いい?」「聞かなくても良いって。お前が出て行きたいって言うまで追い出したりしねーから、ウジウジなやんだりなんかせずにずっと笑ってれば良いんだよ。お前は」「とうま。とうま……っ」ふぁさりと衣擦れの音がして、インデックスが上条にすがりついた。急なその動きにあわせられなくて、上条はインデックスを抱えてベッドに倒れこむ。首に腕が回されて、上条の胸の上にインデックスが鼻をこすりつけた。かける言葉が上条にはなくて、インデックスは上条のシャツに涙を染み込ませるだけだった。上条はプールで抱いた姫神の感触を思い出して、後ろめたい思いを感じながらインデックスの髪を撫でる。姫神の匂いがしない上条のシャツに、インデックスは沢山のものを刻み付けた。「……落ち着いたか?」「まだだもん」インデックスの嗚咽が収まってしばらく。風呂の湯が入ったお知らせが鳴った。「でも風呂沸いたから、さっさと入ってくれないと」「うん。あともうちょっとしたら入る」インデックスは上条の胸に耳を押し当てていた。上条の心臓の音を聞いて、安心しているらしかった。不意にインデックスが顔を上げる。いつになく間近で、二人は見詰め合う。「私は。とうまが大好き」「お、おう。ありがとな」「……お風呂に入ってくるね」「ああ……」インデックスのことが、いつも以上によく分からなかった。部屋の隅の引き出し、インデックスの専用になったそこからパジャマを取り出し、上条に見えないように下着をパジャマに包んで隠して、風呂場に向かった。ピリリ、と上条の携帯にメールが届く。ぴたりとインデックスは一瞬立ち止まって、振り返らずに洗面所へと入っていった。ポケットから取り出して覗いた画面には、姫神からではなくて土御門からの他愛もないメール。返事も面倒でそのまま閉じて、テーブルの上に置いた。にぎやかしにテレビの電源を入れる。インデックスが服を脱いで風呂に入る音を聞かないためのマナーだった。そうやって、殊更に意識してしまうようなことは避けてきた。いつまでも、今までみたいな関係でいられたらいい。それが偽らざる上条の願いであり、そんな幻想はもう終わりなのだと、心のどこかで感じていた。ぼんやり天井を眺めていると、インデックスが風呂から上がってきた。入れ違いに上条も入って、さっさとお湯を抜いてしまう。言葉も少なに、いつもより早い時間に寝てしまうことにした。「ねえとうま」「ん?」「今日も、お風呂で寝るの?」「そりゃそのつもりだけど」「……ここ、とうまの家なのに。私がベッドで寝たら変だよね」「い、いや。それなりに理由があってこうなってるわけでさ」「……そうだね。ごめんね」「なんだよいきなり。別にいいって」「うん。それじゃおやすみとうま」「ああ、おやすみ」突然にそんなことを言い出したインデックスの真意がつかめなかった。首をかしげながら風呂場に向かって、電気を消して、……あまり寝付けずに、長い夜を過ごすことになった。「とうま、朝だよ」「ん……」コツコツと風呂場の扉を叩く音がする。インデックスも上条も寝起きはいいほうで、どちらがどちらを起こすというほどのこともない。「起きた? とうま」「んー。起きた」扉をガラリと開けて、洗面所に出る。顔を洗ったところで、ふと匂いに気づいた。香ばしいというか、焦げるところまで若干いってるんじゃないかというようなトーストの匂い。「あれ、インデックス」「おはよう、とうま」「おはよう。トースト焼いてるみたいだけど、どうしたんだ?」「……とうま、ごめんね。ちょっと焦げちゃった」「いや、煙が出てないし致命的じゃないのは分かるからいい。自分の分を焼いたのか?」お腹すいたと文句を言うのが普段なのに。インデックスが手にした皿は二つ。上条の分も焼いてあるのだった。「とうまは朝はいつもバタバタだから。私がやってあげたらとうまは喜んでくれるかな、って」「あ、ああ。そりゃもちろん助かる。すげー助かる」「そっか。よかった」ほっとしたようにインデックスが笑う。戸惑いはあるが、なんだか幸せな朝の光景だった。飲み物と手でちぎるだけの簡単な野菜とハムも用意してあった。インデックスが自分で出来る精一杯だったのだろう。朝食としてはもう充分だった。「朝ごはん、これで大丈夫かな?」「完璧だ。じゃ、頂きます」「うん。私もいただきます」いつもより5分早く、朝食を済ませる。その少しの差で朝はずいぶんゆとりを感じる。ここからは普段なら洗い物をしてゴミをまとめて着替えるところだ。だが今日は、食べ終わった後率先してインデックスが動いてくれた。さっと着替えて、洗い物をするインデックスの隣でゴミ袋の口を縛っていく。「すげぇ……いつもの登校時間まであと10分もあるじゃねーか。ありがとな、インデックス」「うん。とうまが喜んでくれてよかった」「にしても、急にどうしたんだ?」「頑張ろうって思ったんだよ」「え?」「とうまにもっと、褒めて欲しいから」引っかかるものは、ないでもない。なにせ昨日の今日だ。褒めて、というインデックスの頭を条件反射で撫でた。眩しそうなその表情は、素直に可愛いと思う。「もう行っちゃうの?」「急ぐ必要はないけど、別にすることもないしな」「わかった。とうま……」突然、インデックスがきゅっと上条に抱きついた。なんだか今日は突然に新婚夫婦にでもなってしまったみたいで落ち着かない。彼女が他にいるから、それはなおさら落ち着かない。「お、おいインデックス。もう行くからさ」「うん。なるべく早く、帰ってきてね」「う、わ、わかった」インデックスがハンガーにかかった上条の学ランを手にとって、さっと広げてくれた。そのまま、上条が着るのを手伝った。前のボタンを止めている間に、鞄を抱いて待ってくれている。「いってらっしゃい、とうま」「ん。行ってくる」玄関まで見送ってくれるインデックスの顔が曇っているのが、やけに罪悪感を感じさせるのだった。エレベータを降りれば、きっと姫神が待っているはずだった。「当麻君。今日は放課後、どうするの?」「秋沙は行きたいトコあるか? ……昨日と同じとか」「駄目。あんなの毎日したらおかしくなっちゃうよ」「おかしくなっちゃう秋沙を俺は毎日でも見たいけどな」「もう……」「だって昨日の秋沙はあんなに可愛い顔で」「駄目! 当麻君ここ街中なのに……。恥ずかしいよ」時間に余裕のある通学路を姫神と二人で歩く。放課後の予定を話し合いながらも、どこか上条はそれにのめり込めなかった。「当麻君。……今日は忙しい?」「え? なんで?」「何かを気にしているみたいだし」「あー」ガリガリと頭をかく。姫神は上条がいつもどおりでないことに気づいているらしかった。「早く帰ってきて、ってインデックスの奴に言われてさ。まあ、いつものことだから気にしなくても良いんだけど」「……」「悪い。朝から秋沙に話すようなことじゃなかったな」「ううん。あの子は。どんな感じ?」「いつもどおり、とは行かないけど、昨日よりは落ち着いたと思う」聞きたいのは、インデックスが上条をどう見ているのか。もう、諦めてくれたのか。だが姫神はそれ以上を聞けなかった。露骨な嫉妬を上条に見せるのを躊躇った。仮にインデックスが足掻いたとして、自分の『勝ち』は揺るがないだろう。上条が恋人だと見ていてくれるのは自分だけだから。そういう理屈で、姫神は不安を心の中に閉じ込めた。その日、放課後は結局どこにも行かずに二人で寮まで帰った。「おかえり、とうま」「ただいま」扉を開けるとすぐ、パタパタと足音を鳴らしてインデックスが迎えてくれた。今まではリビングに寝そべったままが普通だったので、戸惑った。そっと上条の手を握って、手にした鞄を預かる。それを胸に抱く仕草に、ドキッとした。「な、なんだよ。急にこんなことしてさ」「とうまが喜んでくれるかなって。まいかが教えてくれたの」「舞夏が?」「うん。男の人を落とすテクだって」ぶは、と上条は噴き出した。アイツ誰に何を教えやがるんだ。「落とすってお前意味分かってるのか?」「好きになってもらうって意味でしょ?」きょとんとした瞳でそう返された。間違ってはいない。そして昨日までのインデックスなら、やっぱり意味を分かってないのかと決め付けるところだったが、なんとなく、今朝からインデックスは違って見えるのだった。「まあ、そうだけど……インデックス。これから買い物行くけど、来るか?」夕食の準備をせねばならない。帰り際に買い物を済ませても良かったのだが、献立を考えるのが面倒な日には、インデックスをスーパーに連れて行くと早く決まって便利なのだった。当然、行く、という返事を予想していた上条だったが、「あ、その。とうま、今日はね」インデックスは何か見せたげな顔をして、台所に向かった。コンロの上の小さな鍋の蓋を、ぱかりとあける。つられて台所に入ると味醂と出汁のいい匂いがした。「高野豆腐?」「うん。あのね、まいかに教えてもらって作ったの」椎茸と乱切りのにんじんと、高野豆腐の炊きあわせだった。さすがにインデックスの独力ではないのが分かる。舞夏に感謝すべき出来だった。「すげぇ! 朝もだけど晩飯も作ってくれたのか!」「うん! えへへ。味見はして、そんなに変じゃないと思ったから、夜は私が作ったのでいいかな……?」「味は大丈夫なんだな?」「むー、とうま、失礼なんだよ。ほら味見!」味を含めるために冷ましている途中の、ほろぬくい高野豆腐を一切れ菜ばしで摘んで、上条に差し出した。口をあけてそれを受け入れる。「――――うまい」「何点くらい?」「いやこれは……ぶっちゃけ俺が作るより美味い。満点でいいだろ」「ほんと!? とうま、あのね、あのね、これだけじゃご飯にならないから、ほうれん草のごまマヨネーズ和えっていうのを作ったの。あとはお味噌汁も教えてもらったから、ご飯の前にそれも用意するね」「お、おう」「あの、でもね。あんまりお肉が入ってないからちょっと物足りないかもって」「いやいいよ。これだけ有れば充分だって。……すごいじゃないか、インデックス」「とうまに喜んでもらえたらいいなぁって」「スゲー嬉しい。マジ嬉しい」インデックス専属の家政夫として働いてはや数ヶ月。ようやくインデックスも家事を覚る気になってくれたらしい。とてもそれは喜ばしいことだった。「とうま。食べてもらう前だけど……撫でて欲しいな」子犬みたいにはしゃいで喜ぶインデックスが可愛くて、言われるままにグリグリ撫でてやった。ちょっと乱暴なその仕草に目を眩しそうにしながら、インデックスは上条に抱きついた。「インデックスが晩飯作ってくれたとなると、今日は夜まで結構余裕あるな」「うんっ! だから、遊ぼうよとうま」「んー、けど宿題やらなきゃいけないし」「えー……つまんない」「俺も宿題なんてつまんねーよ」上条は思案する。別に宿題は今でも寝る前でもいい。ただし寝る前はやる気が極端に低い。一方インデックスは褒めてもらえたのが嬉しいのか、今からもう遊ぶ気全開、という感じだった。「宿題って……すぐ終わる?」「一時間はかかるかなぁ」「そっか……晩御飯終わったあとのほうが長く遊べるよね」「だな」「じゃあ、今は我慢する」また、違和感。駄々を捏ねることにかけては子供並みのインデックスが、あっさり引き下がった。インデックスとの距離が分からない。これくらいなら言ってもいいとか、許されるという線引きの部分がぼやけてしまっている。きっとそれが理由で、インデックスも引いてしまうのだろう。踏み込みすぎれば、嫌われるから。上条もどこまで追いすがっていいのかわからなかった。踏み込みすぎれば、傷つけてしまいそうで。「お茶、淹れてあげるね」「……おう。ありがとな。ってかそれも舞夏に習ったのか?」「ちがうもん。お茶は前から淹れられたもん」軽口はいい。互いの距離を測るいいジャブになる。きっと両方にとってそれは有り難い会話だった。薄っぺらい鞄からプリントとシャープペンシルを取り出して、宿題に取り掛かる。古文の再々々々テストの復習問題だった。もう何度目なのか記憶も曖昧なくらいだ。しばらくにらめっこをしているとケトルからお湯を注ぐコポコポという音が聞こえた。「はい、とうま」「サンキュ」「ねえ」「ん?」「ぎゅって、してていい?」インデックスが返事を聞くより前に、上条の背中にぺたりと張り付いた。もうかなり冷え込む季節だ。インデックスの温かみが、嬉しかった。「明日も、頑張ってご飯作るね」「いいのか?」「うん。掃除も、頑張って覚えるから今度教えて」「……ん」「部屋の片付けも洗濯も頑張るから」机に置いた腕の下から、インデックスの腕が胴に回される。ちょっとシャツが背中に引っ張られる。インデックスが服を噛んだのだろう。「だから、明日も早く帰ってきてね」「……」用事がなければ、そうしてやりたいと思う。ちゃんと家のことをしてくれる人への礼儀として。ただ、上条は今は、自分の都合を優先したい理由がある。会いたい人がいるのだった。「とうま?」「悪いインデックス。明日は、用事がある」「……どんな、用事?」「まあその、放課後にさ。秋沙と、ちょっと喋って帰ろうかって」「……やだよ」「やだって、その、一応俺と秋沙は」「嫌なものは嫌なの!」一層きつく、抱きしめられた。インデックスの好意に絡め取られるような、息苦しい感じがした。「私だって。とうまとお話したいんだから! ずっと、家で一人ぼっちは寂しいんだよ?とうまが帰ってきてくれるのってすごく嬉しいんだよ? 私、毎日待ってるのに」「そりゃ……その、ごめん」「まいかとだって時々しか遊べないし、それに」ぎゅ、と上条のシャツをきつくインデックスが握り締めた。続きは、一応知っていた。当の本人に聞いたことだから。――――あの子は。きっと私に裏切られたって。思ってるんだろうね。「あいさとはもう、遊べないもん」裏切られた寂しさと失意、それに嫉妬と、怒り。誰の方向を向けたら良いのかもよく分からないぐちゃぐちゃの感情が、ぽつんと口からこぼれた。「遊べないって、秋沙はそんなつもりはないって言ってたぞ」「そんなつもり? ……知らないよ。あいさの考えてることなんてもうわかんないもん」「そんな言い方ないだろ? 秋沙だって、別にお前を裏切るとか、そんなつもりじゃ」「じゃあ何で? 放課後はずっととうまは私といてくれたのに、あいさは盗っちゃったじゃない!」「いや、俺は別に誰にも盗られた覚えはないけど……」「でもとうまはずっと私といてくれた! 毎日私と遊んでくれたのに!」上条は、インデックスを少し強引に引き離した。そして、お互いに正面を向く。感情的で、敵意さえこもったような視線が、上条を見据えた。それは上条にとっては理不尽な視線に見えたし、実際、理不尽ではあっただろう。「とうま。明日も私といっしょにいよう? 料理も上手じゃないけど、一杯頑張るから。とうまに喜んでもらえるためだったら、何でも頑張るから」「じゃあ明後日は良いのか?」「えっ?」「明後日なら、俺は秋沙と遊んでもいいのか?」「……やだ、よ」「じゃあ明々後日なら? その次は?」「やだ」「つまり俺は、もう秋沙に会っちゃいけないってことか?」ジクジクと、心のどこかが痛みだす。嫌な奴だなと自分で自覚が上条にはある。インデックスという女の子は、自分にとって何なのだろう。それは、インデックスだけではない、上条にとっても考えなければいけない命題だった。姫神秋沙は、恋人である。この数日で、どんどんと、姫神の可愛らしさに気づいて、惚れて、もっと知りたいという気持ちに駆られている。きっと姫神が他の男と仲良くすれば馬鹿みたいに嫉妬する自信がある。……そしてきっと、自分はインデックスが他の男と仲良くしても、同じような気持ちを抱くに決まっているのだ。そんな欲張りは許されない。誰かを恋人にするということは、その人以外を恋人にしないということだ。インデックスが、少しの沈黙をはさんで、そっと言った。「とうまに……ずうっと私と一緒にいて欲しい。秋沙のところに行っちゃ、やだよ」その言葉に、上条は。「俺は、秋沙が好きだから。秋沙とだって会いたいし、ずっとお前とだけ一緒にいるわけには、いかないんだよ」自戒を込めて、そう返事をした。――――ぼんやりと、インデックスが上条を見つめた。本当に酷い落胆は、服の色落ちみたいなのだとインデックスは思い知った。大切だった色や柄が、くすんでしまうように。とてもとても幸せだったこの数ヶ月が、まるで劇か何かだったかのように。大好きだったこの家の何もかもの色が、褪せて見えた。もう、返す言葉はなかった。それを言われたらおしまいだという言葉を、上条に突きつけられてしまった。何度だって思ったことだ。自分がここにいることは、決して自然なことではないのだと。どうしようもなく幸せで手放せなかっただけで、ここは自分の居場所ではないのだと。すっと、無言でインデックスが立ち上がった。もっと激しく罵られることも、上条は覚悟していた。だがそんなことはなくて。部屋のタンスにインデックスが向かう。細々したものをいくつかポケットにしまった。それは多分、ずっと前からインデックスが持っていたもの。そして、上条が何かの折に贈ってやったほんの少しのプレゼント。その行為が予感させるものが、上条の心をざわめかせる。インデックスの表情が、何かを諦めたような表情で、たまらなく嫌だった。そんな顔をさせてしまうことが。「とうま」インデックスがリビングの、入り口に立つ。儚くも、感謝に満ちた行儀のいい微笑だった。「今まで、すごくお世話になったんだよ。すっごく楽しくて、すっごく幸せだったよ。でも私の居場所じゃ。なくなっちゃった……っ、みたい、だから。バイバイ、とうま。ありっ……が」ありがとうを、インデックスは最後まで言えなかった。ぐしゃぐしゃの泣き顔で、必死に笑おうとして、最後まで失敗した。そして、くるりをきびすを返して、上条の部屋から、出て行った。唐突過ぎた、というのは言い訳だろう。こんな結末を呼び込んだのが他でもない自分の振舞いで、何を言えばよかったのか、それが分からない自分のせいだった。躊躇が生んだその数瞬の差。上条が部屋を出た頃にはもう、エレベータは下に降りきっていて、インデックスの姿は見えなかった。もういないだろうと分かっていながら、上条はエントランスに降りて、軽くあたりを見渡す。学生寮から外に飛び出して、あちこち見て回るが、インデックスの影はなかった。インデックスの行き先に心当たりはそうない。一年間常宿を決めず、ずっとあちこちを転々としていた少女だ。その気になれば、上条もインデックス自身も一度も行った事のない場所まで逃げて、一人で生き延びていくことも出来るだろう。だから、あえてその可能性を無視する。まだ、インデックスが上条やその周囲にいる人々とのつながりを捨てられなくて、上条の知るどこか、誰かのいる場所にいてくれると、そう信じる。出来ることは、インデックスと今まで行った事のある場所を探すことだけだった。食事を取らずに出て行ったからと、スーパーを探す。好きで何度か行った場所だからと、ゲーセンに入る。ついこの間、上条の財布の中身をさんざんにしてくれたケーキ屋を覗く。……時間だけは、失敗でもきちんと取り立てられていった。体力も。「もしもし、土御門か?」「たしかに土御門なのである。どうかしたのかー? 上条当麻」「舞夏か。ちょうどいい。悪いけど頼みがあるんだ」「んー?」「うちにインデックスが帰ってきたら俺に連絡してくれ」「まあ別に良いけど。何があったんだ? あれか、修羅場かー? 修羅場なのかー??」携帯越しに、のんきそうな舞夏の声が響く。割と耳聡いヤツだし、気は利いてるほうだ。茶化してはいるが、何とかしてくれるだろう。最後の言葉には付き合わず、コールオフのボタンを押した。姫神のところには、行かないだろう。風斬はこちらから連絡を取れる相手ではない。白井と御坂のところにいるとは思えないし、電話は掛けづらい。……そうやって考えると、インデックスの世界の狭さが、浮き彫りになる。毎日学校に行って、顔見知りという程度の知り合いなら100人近くはいる上条と、インデックスが生きる世界にはあまりに広さの差が大きい。インデックスが持っている世界の中に、上条のいる場所は、あまりに大きいのかもしれない。どれほど大事でも、ほとんど一番といって良いくらい大きな存在感を閉めている女の子でも、インデックスが上条の世界を占めている割合は、大きくはなかった。心当たりなんて、ここが一番有力だった。親子ほどにも、というと怒られるかもしれないが、小萌先生とインデックスの仲は良かった。緊急時のために登録された担任の番号。それを、呼び出した。「はい。月詠です」「先生。上条です」「あっ、上条ちゃんなのですか!? 今電話しようとしてたところです。シスターちゃんが急に泊めてくれって言い出したんですけど一体これはどういうことなんですか?」「えっと、まあ、言葉どおりの意味だと思います」「喧嘩でもしたんですか?」「はい、まあ。その……姫神がらみで」「あ……」小萌先生の声が、きゅっとしぼんでいくのが分かった。「細かい話は後でします。とりあえず、インデックスをそこに留めておいて貰えますか」「分かりました。それは任せてもらって良いですから」「よろしくです。すぐ俺も先生の家に行きます」幸い小萌先生の家までは、そう遠くない。上条は暗がりの町を駆け足で進んだ。小萌先生は、古めかしい黒電話を切って、部屋の隅に座ってうつむくインデックスに向き合った。「シスターちゃん。上条ちゃんが、もうじき迎えに来ますよ?」「……でも、私はあそこにいちゃいけないから」「なんでですか?」「私は要らない子だもん。とうまが好きなのは、あいさだから」インデックスの隣に、小萌先生は腰掛けた。年は倍ほども違うのに身長はほとんど代わらないインデックスの頭を、ぽんぽんと撫でる。「シスターちゃんは、上条ちゃんのことを好きなんですね」「……うん。大好きだった、けど」「どんな風に好きだったんですか?」「え?」どんなところが、なら言えると思う。意地悪なところもエッチなところも料理がそんなに上手くないところも、全部好きだった。でもどんな風に好きなのかという質問は、どんな風に答えたらいいのだろう。「上条ちゃんとキス、したかったですか? もうしちゃったですか?」「キ、キスって。そんなのしてないもん!」「して欲しかったですか?」「知らない! こもえのばか。とうまとはそんなんじゃ」「だったら、いいじゃないですか」がばりと振り返って腕を振って否定するインデックスに、小萌先生は微笑みかける。「キスしたり、抱きしめあったり、そういう事をしたい好きとは違うんだったら、上条ちゃんにお付き合いしてる女の子がいても、大丈夫ですよ?」「え? ……そんなことない。そんなの、やだ」だから、一緒にはいられないと思うのに。「シスターちゃんは上条ちゃんの家族なのですよ。妹さんですね。お兄ちゃんのことが大好きで、ずっと一緒にいたいって思っていても、兄妹ならキスなんてしないでしょう?」「とうまはだらしないからお兄ちゃんて感じじゃないもん」「そういうお兄ちゃんは世の中に沢山いると思いますけどねー。どうです? 上条ちゃんが家族に思えてきませんか?兄妹はいつか、お互いに好い人を見つけて、別の家庭を作るんですよ。そうやって思えば、姫神ちゃんのことを受け入れてあげられませんか?」姫神、という名前を聞いた瞬間に。インデックスの中でまた、嫌な気持ちがどろりと流れ出た。どうやっても上条と二人で幸せになる姫神を祝ってあげたいという気持ちに、なれないのだ。裏切られた、盗られたと、そんな気持ちばかりが吹き出て、姫神が不幸になるのを望むような、そんな気持ちが確かに心の中に折り積もっていくのを感じてしまうのだ。「無理だよ」「どうしてですか?」「だって、だって」その続きが、言葉にならない。自分の中でもそこが曖昧で、だからこんなにも苦しい思いをしているのに、それを上手く整理して、折り合いをつけていくことが出来ない。「もし姫神ちゃんを義理のお姉さんみたいに見れないんだったら、きっとシスターちゃんにとって、上条ちゃんはお兄さんじゃないんですね」「え?」「逃げずに、真剣に考えてください。嫌なら先生には教えてくれなくても良いですから。シスターちゃんは、上条ちゃんにキスをされたいって、思いますか?」「え……ええっ?」はぐらかそうと思って左右に揺らす視線を、ずっと小萌先生が見据えている。学校の先生だからだろうか、小萌先生の無言の要求に、インデックスは抗えなかった。ついさっきまでいて、もう帰れないと思っていたあの部屋を脳裏に描く。時間は深夜。寝ているインデックスが目を開けると、傍には当麻がいて、大好きな優しい笑顔で笑って、頬に手を添えてくれて、そっと、唇を――――……インデックスは、一瞬でそれだけ詳細に夢想した。理由は簡単だった。何度も何度も、そんなことを明かりが消えてから上条のベッドで考えたから。それがもうかなわぬ夢だと知っている。その痛みは、甘い夢のせいでひどく苦い。「やっぱり、そういう気持ちもありますよね。上条ちゃんはかっこいいですから」痛ましい目でインデックスを見つめた小萌先生は、そっとインデックスの頭を抱いた。インデックスの上条を見る目は、上条を恋人として写しているのだ。人の気持ちなんてスッパリと割り切れるものではないから、きっと家族として写している側面もあるだろう。だけど、やっぱり。「シスターちゃんは、上条ちゃんに恋人として愛されたいんですね」「え……?」そんな表現を初めて聞いた、と言う顔を、インデックスはした。幼くて、兄を慕う情と恋心を未分化なままに、上条当麻という人を愛してしまったのだろう。上条がインデックスを愛していれば、インデックスの想いはそのまま恋人への愛に昇華されたのかもしれない。だが現実は、家族愛と恋慕の区別をつけられないうちに、恋い慕う気持ちの部分だけが、否定されてしまった。「キスして欲しいって、抱きしめて欲しいって、自分だけを見て欲しいって、そういう我侭を聞いて欲しいって、思っているんですね。シスターちゃんは」「そんなこと、思ってない……」「じゃあどうして、姫神ちゃんにやきもちを妬くんです?」「知らないよ。だって、本当にわかんないんだよ」もう止めて欲しいと請願するような、そんな響きの混じった答えだった。時間が必要だろう。少なくとも今日、上条と二人っきりの家に帰しても、もっと酷く傷つくだけだと小萌先生は判断した。ピンポーン、と乾電池式の安っぽいベルを指で押す。呼吸はまだ整っていないが、早く、迎えに行ってやりたい気持ちが強かった。「はいはーい。ちょっと待ってください」ガチャリと、木製の扉が開く。勝手も知ったる、中を隅まで見通せる部屋だ。小萌先生に挨拶をするより先に、上条は部屋の中を覗いた。「あ、こら! 上条ちゃん! 女の人の家を覗き込むのはマナー違反なのですよ!」「煙草の吸殻なら気にしませんよ先生」「うっ……そういう意味で言ってるんじゃないんですよ」「インデックス」ビクリと、人型に盛り上がった毛布が震えるのが分かる。そこにインデックスがいることは、間違いなかった。「帰るぞ、インデックス」ふるふると頭が振られたように見える。「上条ちゃん。今日はシスターちゃんはここに泊まりますから」「え?」「もう一人面倒を見ている子が帰ってくれば三人になっちゃいますけど、何とか大丈夫なのですよ。今日は、一日距離を置いて、落ち着いたらまたシスターちゃんと話し合えばいいです」上条を叱るでもなく、小萌先生は優しく笑ってそう提案してくれた。今から連れて帰っても、確かに、こじれるだけかもしれない。そんな予感はないでもない。だが、連れて帰ろうとしないこと自体を、インデックスが何かのメッセージとして受け取るかもしれない。「ほらほら、もうシスターちゃんとの間でそう決めちゃいましたから、今日は帰った帰った、です」強引にそう決め付けてくれることが、今はありがたかった。きっと上条の迷いを分かってくれていたのだろう。「インデックス。お前の忘れてった鍵、持ってきたから。当たり前だけど、いつ帰ってきてもいいんだからな?……今日の晩飯、お前の作ってくれたヤツ全部食べるよ。ちょっと一人で食べるには多いけどさ。せっかくインデックスが、心を込めて作ってくれたもんだからな。それじゃあ、俺は戻るわ」「美味しくなかったら、ごめんね」「美味いさ。毒でも入ってなきゃお前の作ってくれたものは全部食べきれる」その冗談に返事は返してくれなかった。となりで見守っていた小萌先生に上条は挨拶をして、小萌先生のアパートを後にした。「うーん、今日は結標ちゃん帰ってこないみたいなのですよ。待ってても仕方ないのでそろそろ寝ましょうか」「うん」現金なものだ。上条が隣にいなくても、ちゃんとそれに理由があって、そして代わりに優しくしてくれる人がいて、おなか一杯ご飯を食べれば。微笑む余裕が、インデックスにはあった。それは罪悪感を感じることでもあったが。上条に捨てられてしまったことは死にたくなるくらい悲しいことのはずなのに、涙を流す以外のことをしてはいけないはずなのに。「夏にもこういうことがありましたねえ」「こもえ。あっちにも布団あるんだけど」「あれは結標ちゃんのですから。先生は別に構わないですけど、結標ちゃんは自分の布団で知らない女の子が寝てたらどこかにテレポートさせちゃいそうです」「ふうん?」まあ、知らない人の布団を奪って寝るのは落ち着かない。小萌と一緒に寝るほうが、まだ気楽だった。お互いに背丈は小さいので意外といけるのだった。月詠家は、はっきり言って寒い。隙間っ風がひゅうひゅう音を立てたりすることはないのだが、絶対に冷気がどこかから入り込んできている。10月なのに早々と毛布が敷かれていた。「うふふー、それじゃ電気を消すですよー」カチカチと音がして、部屋が真っ暗になる。インデックスのもぐりこんだ布団に、小萌が入り込んだ。「くはぁー、この布団のひんやりした感触が良いですよねえ。だんだん暖まってくるのが先生は好きです」「……この部屋寒すぎてそんな余裕ないんだよ。はやく暖まって欲しい」「上条ちゃんの家のほうがさすがにあったかいでしょうねえ。今頃、上条ちゃんは何をしてるんでしょうね」「……」返事を、インデックスは出来なかった。咄嗟に思い浮かんだのが、上条が姫神と幸せそうに過ごすシーンだったから。一番嫌なことを、一番初めに思い浮かべたから。「考えたくないですか?」「きっと、とうまはあいさと遊んでるもん」「そうですかね?」「そうだよ。だって、とうまはあいさとお付き合いするって、言ってた」「でも今日は上条ちゃんは、シスターちゃんのご飯を食べてるですよ?」「食べてないかも。……だって、美味しくないかもしれないし」「それでも上条ちゃんは食べてると先生は思うです」「なんで?」「上条ちゃんはそういう子ですから」自分の子供を自慢するように、小萌先生は胸を張ってそういった。「それに事情を知ってたら、姫神ちゃんも上条ちゃんと二人で遊んだりはしてないと思います。姫神ちゃんもシスターちゃんの気持ちが分かる、いい子ですから」「あいさは……」「ふぇ?」「じゃああいさは、なんでとうまを盗っちゃったの?」インデックスとて、その表現を正しいと思っているわけではなかった。それでも、そう言いたくなるくらい、ショックだったのだ。友達だと思っていたのに。「本当に大事で、誰とも分け合えないものがあって、それを同時に二人の人が欲しいと思ってしまったら。きっとどっちかは泥棒さんになっちゃうのですよ。もう一方から見れば。でも遠くからそれを眺めたり、相手の立場からものを見れば、見え方は全然違うのです」「こもえは、あいさは悪くないって言うの?」「姫神ちゃんはずるいことをしたですか?」そんなことは、たぶんない。いっそ卑怯であってくれたなら、もっとインデックスの考えは変わっていただろう。「……して、ないと思う」「それじゃあ、姫神ちゃんは悪いことなんてないですよね」「でも……」「シスターちゃんも、同じことをしたっていいんですよ?」「えっ?」「姫神ちゃんがどうやってお付き合いするようになったのか、詳しいことは先生も知らないです。でもきっと、振られたらどうしようって思いながら、勇気を振り絞って上条ちゃんに好きだって言ったんだと思います。シスターちゃんも、上条ちゃんに好きだから私だけを見て欲しいって、言ってもいいんですよ?」「でも、今日とうまにそう言ったら……だめ、だったもん」「今日、シスターちゃんの話を聞いた限りでは、まだ可能性は有ると思いますよ。家族としてのシスターちゃんのために、恋人の姫神ちゃんとの時間を削ることは出来ないって、上条ちゃんはそういう理屈を言ってたです。そうじゃなくて、姫神ちゃんと別れて私だけを見て欲しいって、そういえば良いです。分かってくれれば、上条ちゃんは、シスターちゃんだけを見てくれますよ?毎日キスしてくれて、抱きしめてくれて、遊んでくれると思いますよ?」なるほど、言ってることは尤もだと思う。姫神と別れて、自分を恋人にしてくれるのなら。……だが、それをお願いする勇気が、湧きそうにもない。姫神から上条を奪う、そして上条と幸せになる。その強い決心が、インデックスの中にはなかった。上条を独占したい気持ちがある一方で、恋人のような濃密な関係じゃなくて、毎日何気なく隣にいてくれる人であって欲しいような、家族でいて欲しい気持ちもある。上条は家族なのか、もっと心ときめく相手なのか。どちらか一方に帰属させてしまうと、自分の実感から離れてしまうのだった。どっちでもいて欲しかった。いままでのままが良かった。「ずうっと、このままが良かったのに」「でも、上条ちゃんも男の子ですから。大好きなたった一人の女の子が、出来て当然なのですよ。……ふふふ。命短し恋せよ乙女、なのですよ。精神的向上心のないお馬鹿さんにはならないで下さいね」「え?」その引用をインデックスは知らなかった。小萌先生は笑うだけで深くは説明しなかった。「ようく考えるですよ。シスターちゃん。もう、選ばなきゃいけないです。正々堂々と姫神ちゃんに宣戦布告してもいいし、上条ちゃんの妹でいても良いです。でも、良いとこどりはもう、できなくなっちゃったのです」話は終わりという風に、小萌先生はインデックスの髪を撫で始めた。撫でるに任せて、インデックスは考える。自分は、上条の何だろう。何でいたいんだろう。さっさと眠ってしまった小萌先生の寝息が僅かに聞こえるその布団で、インデックスはずっと考えた。上条からの、メール返信が帰ってこない。あの子がいるから、返信の頻度が高くないことは、仕方がないかもしれない。人によって返信の量は違うものだし、それだけのことかもしれない。だけど。夕食前に送ったメールが、もう食事も済んで風呂にも入ろうかという時間なのに、まだ帰ってこない。……姫神はインデックスが上条家から出て行ったことを知る由もなかった。「当麻君。何してるんだろう」不安で不安で、たまらない気持ちになる。上条の隣にはインデックスがいるから。切実な思いに絆されて、上条がインデックスになびいてしまうんじゃないかと心配だから。テーブルの上に置いた携帯が、バイブレーションでジリジリと動いた。寝そべっていたベッドの上からパッと跳ね起きて、手に取る。――当麻君だ。「もしもし」「あ、秋沙か」「うん。こんばんは、当麻君」「お、おうこんばんは。なんか電話するの照れくさいな」「そうだね」決して遠く離れた場所にいるわけではないのだが、こうやって遅い時間にも電話でコンタクトをとると、恋人同士になったんだな、なんて感慨が沸いてくるのだった。「それで。どうしたの?」「あ、いや。メール返そうかと思ったんだけど面倒だから電話にしたんだ」「そうなんだ」「今、まずかったか?」「ううん。そんなことないよ。えっと。今は何をしてたの?」恐る恐る姫神は尋ねた。何があったとしても誤魔化されればわからないのだが、インデックスと上条の間に、看過できない何かはなかったかと、つい疑った目で見てしまう。自己嫌悪するような態度だったが、それでも聞かずにはいられなかった。「あー、実はさ、インデックスが」ドキン、と心臓が跳ねる。一番聞くのが名前だった。楽しい話なのか、喧嘩した話なのか、どれであっても無茶苦茶に自分は嫉妬する気がした。「家出、しちまってさ」「えっ?!」「ああ、居場所はもう分かってるんだ。今日は小萌先生の家に泊まるみたいだ」「そう。なんだ」姫神にとってもなじみのある家だった。そして家主の性質を考えると、納得の行く展開だ。「どうして。あの子は家出したの?」「俺が姫神と付き合ったらもう居場所はないから、だってさ」「そっか……」「秋沙はそう思うか?」「え?」「秋沙と付き合っちまったら、俺はあいつを追い出すべきだって、秋沙もそう思うか?」嫌な嫌な、質問だった。本心で思っていることを言ってしまったら、上条は困るだろう。それに嫌われるかもしれない。でも、本音は覆らない思いだから、本音なのだ。姫神は逡巡して、妥協できる精一杯の答えを返した。「あの子が。当麻君の恋人になりたいのなら。あの子と私と当麻君が選びたいほうを選べばいいよ」「え、選びたいほうって」「もしあの子を選んだら。私はすごく当麻君を恨んで。涙が枯れるくらい泣いて。死にたいって思うと思う。でも私をそういう風にしてもいいって思うんだったら。もうどうしようもないよね」「馬鹿。そんなこと考えてない」「良かった……。でもそれじゃ。あの子は傷つけても平気なの?」「それは」上条が言葉に詰まる。それは、つまりインデックスと姫神なら、インデックスを切るという意思表示なのだろう。勝った、と姫神は思った。浅ましいことだと自己嫌悪する心よりも、あの子よりも愛されているのだという優越感のほうが、姫神の心の中で勝っていた。……今この瞬間の喜びが冷めれば、結局は自己嫌悪に陥るのだが。「あの子が。当麻君の可愛い妹分でいるのなら」「え?」「私にとっても妹みたいな、友達みたいな子でいてくれるなら。私はあの子と一緒にいられると思う。当麻君の家にあの子がいても、許せると思う。でもちゃんとそうなってくれなきゃ。今までみたいなあやふやな関係でいられたら。私もきっと疲れちゃうよ」「……」「当麻君は。あの子の事をどう思ってるの?」「そうだな」ため息を、上条がついたのが分かった。「妹、ってところかな。アイツは。一人っ子だから本当の妹がどんなのか知らないけど」それはいまどんな関係なのかという答えではなくて、これからどんな関係でいるつもりなのかという、その意思の表明だった。「それで。いいの?」「いいのかどうかってより、俺とアイツはこういう関係なんだろうさ」「じゃあ。また仲直りしないとね」「そうだな。とりあえず明日、アイツと話をしてくる」「うん」それでこの話は終わりだった。それから15分くらい、他愛もない話をした。この電話で成されたのは、3人の有り方を決める、大事な決定だった。全てはインデックスの、気持ちのありようにかかっていた。
その6へ
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