――初めてのキスは甘いチョコレートの味がした
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「…………うぅぅ」広場の雑踏の中、私はベンチに腰掛けてさっきから一人で唸っていた。祝日の賑わいは普段なら何か気分をウキウキとさせてくれるものだけど、今の私には逆効果でしかない。周囲のざわめきはいらつく私の神経を逆撫でするだけだった。学園都市を挙げてのお祭りの熱気も、秋風と衣替えと一緒にどこへやらいってしまったようだ。風はやや冷たく秋めいていて、もう一週間もすればきっと寒いと感じてしまうだろう。日本の四季の移り変わりは早い。どうせならもうちょっと堪能させてくれてもいいものなのに、最近は猛暑の夏と極寒の冬の間のちょこーっとだけしか春と秋がない気がする。気合を入れて吟味した秋物は下手をすると一回しか着る機会がないかもしれない。元から着る場面なんてほとんどないけどさ、せっかくなんだしもうちょっと待ってくれてもいいじゃない、ねえ冬将軍。などと思考をあらぬ方向へ逃避させているのは理由がある。他でもない、私が今こうして休日の繁華街に一人でいる理由だ。待ち合わせ。私は人を待っている。このなんともいえない気分の原因もそれだ。携帯をいじったりして気分を紛らわせているけれどカチカチと押す指は意味を持たないものだ。私自身何がしたいという目的を持っていないのだから仕方ない。時折アドレス帳を開いてメールでもしようとするけれど、少し考えてやっぱりやめるのだ。
「はぁ……」待ち合わせの相手はもう二十分も時間に遅れている。元から覚悟していた事ではあるけれど、案の定というかなんというか、期待を裏切ってくれない。先に来て待っているくらいの気概を見せてくれてもいいのに。ちなみに私は待ち合わせの十五分前にはこの場所に着いていた。つまり三十分以上こうして待ちぼうけているのだ。肌に感じる空気は夏の色を失い、やや肌寒くもある。あまり露出の多い服ではないが待ち合わせを路上に指定したのは失敗だったかもしれない。喫茶店で有線から流れる音楽を耳にお茶でも楽しんでいた方が幾らか気分も紛れただろう。何より周囲の目を気にしなくて済む。先ほどから何人か、チャラチャラした雰囲気の男が値踏みするような目で見てくるが、私の放つ剣呑な気配を察してか幸いにも声をかけてくるような無謀な輩はいない。これで私服でなかったら今頃確実に私の周りには何人かの屍が転がっていただろう。ブランド物は確かにステイタスだが、こういう場所で見せるのはバカどもへの撒き餌でしかない。さすがに私もそれくらいは学習している。第一いつもの制服では見栄えが悪い。その方が無難ではあるけれど、やっぱりそれなりに気合を入れなければ。気になって私は自分の服装を見直す。先日、というか昨日、知り合いの高校生のお姉さんにわざわざ付き合ってもらって吟味したものだ。不本意だが、私が一人で買い物に行くと気に入った物を片っ端から買ってしまって結局どれをどう合わせるかとか困ってしまうし、その上どうしてだか周囲のウケは悪い。 その点彼女は落ち着いた雰囲気のいかにもな『お姉さん』で、その上私の知り合いには珍しく彼氏持ち、らしい。こういう事を相談できる数少ない、というか唯一といっていいほどの人材だ。そんな感じで一も二もなく泣きついたのだが(服装に関して考えが至ったのが約束を取り付けてから、つまり昨日の事だった)彼女は快く承諾してくれて、仕事もあるのにわざわざ適当な理由をでっち上げてまで付き合ってくれたのだ。彼女の仕事、風紀委員の同僚には私の友人やルームメイトがいるのであまりおおっぴらに言えなかったのだが、そこは上手い事やってくれたようだ。先輩様々だった。今度何かお礼をしなくちゃ。
と、そんな彼女のコーディネートだからそこについては不安ではないのだが、やっぱり自分に似合っているのかとか心配になってしまう。私は立ち上がり、すぐ目の前の店のディスプレイを覗く振りをして大きなガラスに自分の体を映す。曇り一つ無いガラス板には見慣れない服の上に乗った見慣れた顔が映っていた。柔らかいライトイエローのブラウスの上からブラウンのチュニック。それに落ち着いた雰囲気のタータンチェックのプリーツミニ。他の人の手によるコーディネートだからか、いつもの自分とはどこか違って見えた。服の一つでこうまで変わってしまうのだからやっぱりコーディネートって重要なんだなぁと改めて実感する。めったにしないメイク(といっても色つきリップくらいの気付かれない程度のものだ)もしちゃって、少し背伸びをしすぎてる感じもしないでもないけど、たまにはいいわよね。ガラスに映る女の子はまるで自分ではないみたいだ。自分でも可愛い格好とは思う。でも似合っているかと訊かれると返事に困る。第一アイツがそう思ってくれるか――。(……うわ……うわー、うわー!)意識してようやく、私はさっきから悶々としている明確な原因を見つけた。要するに私はこの格好をはたしてアイツが可愛いと思ってくれるかという、ただその一点が不安で堪らないのだ。もし気合を入れまくった服に引かれたらどうしようとか思ってしまうと。(帰りたい……っ!)念のために告白すると、呼び出したのは私だ。アイツから誘いがあるなんて事は天地がひっくり返ってもありえない。言ってて悲しくなるけど。
そんな感じにもやもやを抱えて一人でぎゃわーってやってると周囲の目が自然と私に向けられる。唐突に我に返ってそれを自覚し、誤魔化すように私はショーケースの中を作り笑いで眺める。今になって気付いたけれどジュエリーショップだった。当然のようにそこにはネックレスやらペンダントやらがきらきらとしていて、その中には言うまでもなく指輪が一番目立つ位置に配置されている。美しくカットされた宝石が意匠を凝らした台の上に据えられていて、その輝きに一瞬目を奪われるのだが。少しだけデザインと大きさの違うリングが仲睦まじく寄り添い合っています。はい。そうです。ペアリングです。どう見ても結婚指輪です。普段ならなんて事はない(と思う)ただの鉱石と金属のオブジェも今の私には混乱を助長させるだけでしかない。いやいや落ち着け私。結婚とか考えるにはちょっと飛躍しすぎじゃない?っていうか私まだ中学生だし、そもそも付き合ってもないし、それ以前にアイツの事なんか別に――。そこで『アイツ』と思ってしまうあたり確実にまいってしまっているのだけれど、私がそんな単純な事に気付くはずもないのはご承知の通りだった。ま、そんな些細な事はどうでもいい。私は照れと乙女チックな理想(救いようのない部類の妄想)とからくる花恥ずかしい否定の間で自問自答を繰り返しながらも視線を指輪から外せずにいた。どんなに否定しようが私も女の子で、恥ずかしながら例外なくロマンチックな甘い恋愛とかそういうものにどうしようもない憧憬と羨望を抱いている。そういう意味で結婚指輪というのは、あれやこれや、とても人には言えないような感じの妄想を掻き立てるには恰好のアイテムだった。ガラスに映る顔はいい具合に赤くなっちゃってるのだけどテンパってる私が気付くはずがない。通りに背を向けていて本当によかった。秋の涼しい風が火照った顔に気持ちいい。見上げれば澄み切った空は高く、美しい蒼がそこに佇んでいた。しかし相変わらず私の心中はそれとは対照的に大荒れだ。もう何が原因でどうすればいいのか、そんな簡単な事も分からないほどに混乱している。落ち着こう。そう思って私は目を閉じ軽く俯く。深呼吸を繰り返しているとなんとか平常心を取り戻す事に成功した。気持ちの切り替え完了。うん、よし。目を開ける。ガラスに映った私の背後に、アイツの姿があった。
「っっっ――!!」せっかく取り戻した平静は紙切れのように吹っ飛んでいった。
思わず声を出さなかっただけマシなのかもしれない。いや、声を出すのも忘れてしまうほど私は驚いていたのだ。その証拠にガラスに映った私の口は打ち揚げられた魚のようにぱくぱくと開閉を繰り返している。他方、私の待ち合わせの相手であるあのバカは、私から少し離れた場所できょろきょろと辺りを見回している。心なしか焦っているような感じだ。まるでそこにいるはずの人物がいなくて慌てているような。私はオーバーヒートした頭のまま、ばっと振り返る。そこにはやっぱり見覚えのあるツンツンした髪の見るからにバカっぽいのがいて、私が見たものは鏡に映った幻などではない事を物語っていた。……私を探しているのだろうか。見れば額には季節外れの汗が浮いていて、肩は荒く上下している。きっと全力疾走だったのだろう。待ち合わせの時間に遅刻した事はさておき、ああまで私のために焦ってくれているのなら……少し、嬉しい。そんな心中に浮かんだ小さな感情に私は気付かぬまま、でも機嫌は一発で直ってしまって、足早に駆け寄ろうとして――。目が合っ――――逸らされた。
「………………は?」確かにアイツは私を見て、目が合った。なのにアイツは、そのまま視線を別の方に向けてしまった。顔色一つ変えず、まるで私を無視するように――。あれ。なんか前にも同じような事があったような。まあいいや。私は若干俯き気味になりながら歩みを進める。右手に持ったバッグを軽く振りながら、近付いていく。まだ気付かないのかアイツは私と正反対の方を向いている。私は自分が今どんな顔をしているのか分からなかったけれど、周囲の雑踏がなんとなく距離を取っているようにも思える。さり気なく鼻歌なんか歌っちゃったりして、でもアイツは気付きやしなかった。えーっと……これはもう、ぶち殺し確定ね。「――せーのっ」助走を付けて、足取りも軽やかに、振り返った間抜け面に向けて全力でダイブする。「無視すんなやこらーっ!!」衆目の前だという事も忘れて、私は全力でアイツの腰に華麗に乙女タックルを決めた。ちなみにこの時、私はいつもと違う慣れない私服姿で。つまりお馴染みのスカートの下でガードしてる短パンがないのをすっかり忘れていた。……うん。考えない事にしよう。なんか頭の上で蛙の潰れるような声が聞こえた気がしたけど気にしない。がっちりと脇をホールドして……って、あれ?「こ……のぉっ!」ちくしょう、堪えられた。二度目は通じないか。バカのくせに学習しやがって。べりべりと私を引っぺがしてアイツは、私の両肩をしっかりと掴んだままなんかものすごーく嫌そうな顔をこっちに向けてきた。
「いきなり何しやがんだビリビリ中学生っ!」あ、またそんな呼び方するの。ふーん。……なんて落ち着いた感じにあしらう事もできず、私は反射的に口を開く。「ビリビリってアンタいつになったら私の名前覚えるのよ! そして無視すんな! アンタ前も同じような事を……!」「え?」私の言葉のどこにそんな間抜け顔をする要素があるのだろうか。アイツは鳩が豆鉄砲食らったような顔で私を見る。じっと。至近距離で。目と目が合い、視線を意識して私は思わず顔が真っ赤になってしまった。目の前にあるのは別にどうって事もないバカ面のはずなのに、どうしてだか私の顔は自動的に火照っていった。ついでに両肩に置かれた手を意識してしまう。さっきまではなんともなかったはずなのに、アイツの両手から伝わる温度に私の体温は上昇し続ける。「なっ、ななな、何して……!」オーバーフローした私の思考はまともな判断をできぬままうろたえるしかなかった。けれどアイツはそんな私にまったく気付く様子もなく、妙に真剣な眼差しで私をじっと見詰める。まるで睨むようにも見えるその表情に思わずどきっとするが、それをきっかけとするようにアイツは視線をゆっくりと下に、私の胸元の方に向ける。……ってどこ見てんのよー!?反射的に口を開きかけるが、アイツが声を発する方がそれより一瞬早かった。「……ああ、なるほど」何がなるほどだ。そんなに私の胸が納得いったのか。アンタは私の胸に何を期待していたんだ。そりゃあ確かに……、って自分でも納得しかけて落ち込みかけてどうする。その感情のベクトルをアイツに向ける怒りに変換。強く拳を握り締める。衝動が漏れ出して肩がぷるぷると震える。
でもアイツは私の様子になんか一切気を配る事なく言葉を続けた。「すまん。いつもと違う格好だから分からなかった」……ああ、なるほど、ね。つまりアイツは必死にうちの制服を探していた訳だ。確かにあれは無駄に目立つし、なんかオーラっぽいものを周囲にばら撒いてるらしい。私は着慣れてるせいかよく分かんないんだけど。要するに目印にするにはちょうどいいのだ。なんか釈然としない部分もあるけど今日のところは私を無視したことについては許してあげる事にした。けど、それとこれとは別だ。「……アンタ、もっと他に言う事ないの」そう言う私は、我ながら可愛くない顔だと思う。じと目でアイツを睨むように見ながら私はいかにもな仏頂面で押し殺すように言った。私の言葉にアイツはしばらく頭の上に疑問符を浮かべていたが、やがて納得したような表情を一瞬浮かべ、そしてすぐにどこか気拙そうな顔で顔を逸らせた。慌てたように肩に置いていた手を離し、それから何やら口をもごもごと動かした後、いつもと少し違う声色で私にこう言った。「あーその……似合ってんじゃあないっすかねぇ……」……もしかして照れてるんだろうか。だとしたら少し可愛くもある。コイツの照れた表情なんてそうそう見れるものでもないだろうし、私は思わず悪戯っぽい笑みを浮かべてしげしげと覗き込んでしまう。それがアイツの気恥ずかしさを助長させるのか、誤魔化すような憮然とした表情でそっぽを向いてしまった。
「な、なんだよ」「ううん。べっつにー?」私はいつになく浮かれた気持ちで、後ろにステップを踏むように少し離れる。うん、やっぱり悪くない。使い古された古典的な慣用句だが実際に言われてみればそんな事は関係ない。彼女の見立てに狂いはなかったようだ。この朴念仁からこんな台詞を引き出したのだから。ちなみにそんなアイツはどんな格好をしているかというと――おいコラ。アンタはどうして休日なのに学ランなんですか?「あー……実は今日補習でな……」案の定だった。あまりに捻りのない回答。もはやお約束。予定調和ともいえるだろう。ああ、なんという事でしょう。祝日までこのバカの相手をしなければならない担当教師が不憫でならない。「これでもっ! 午後まであったのを勘弁してもらって急いで来たんだぞ! 先生に土下座して!」「アンタ、それ自分で言ってて悲しくならないの?」「うるせーチクショー!」呆れ返ってしまっている私にアイツは慌てて言い訳じみた事を捲くし立てるのだけど、なんだかその様子がおかしくって、つい笑ってしまった。そんなみっともない真似をしてまで、私との約束に間に合わせようとしてくれたのだ。そしてきっと、学校からここまで全力で走ってきてくれたのだろう。一刻も早くと。涼しげな秋空の下だというのに汗びっしょりになりながら、私に会いに来てくれたのだ。もしかしたらそれは単なる私の一人合点かもしれない。けれどそんな事は関係ない。アイツは結果として、そして事実として確かに走ってきてくれた。それはなぜか。私と約束していたからだ。一方的に呼びつけたにもかかわらず。
(……あれ?)何かすっごい嫌な感じが背筋を過ぎったような。そう。私が今日の事を言ったのは紛れもなくつい昨日の事で、さらに言うなら電話で簡潔に要件だけ告げると(一方的に訳も説明せず呼びつけて)返事も聞かず切ってしまったのだ。その後、携帯電話はしばらく電磁波の影響か圏外になっていて、今日出かける時分になってようやく文句のメールに気付いた。私は少しの迷いもなく速やかに見なかったことにした。どちらにせよアイツは補習の真っ最中だったのだから連絡はつかなかったのだろうから大丈夫。まったく問題ない。……、……。「あ、あれ。どうしたんですかいきなり落ち込んじゃって?」「なんでもない……ちょっと自己嫌悪に陥ってるだけ……」まあ……いっか。アイツも気にしてないみたいだし。そんな事より、と苦笑いしてアイツは肩をすくめる。「オマエ飯食ったか? 俺もう腹減って死にそうなんだけどさ」
そうか。学校からそのまま来てくれたんだっけ。そりゃあご飯食べるヒマもないわよね。よくよく考えてみれば私も昼食を食べていない事に気付いた。そう意識した途端に耐え難い虚無感が私の内側から苛み始めた(意訳:おなかすいた)。思えば朝も簡単に済ませてしまっていた。私の頭の中はその日の午後の予定でいっぱいで(今まさにこの状況の事だ)ろくに食事が喉を通らなかったというのもある。ルームメイトの下級生に酷く心配されたのだけどあの子の過剰なまでの反応はいつもの事なので適当にあしらうのも慣れたものだった。それがあまりにいつもの事だったからか、私は無意識に処理してしまって彼女の言にまったく耳を貸さなかったのだ。「それに……」と、目の動きだけで辺りを見回しアイツは若干声を抑えて、口の横に右手を立て私に囁く。「そろそろ周りの視線が痛いんだけど……」そう言われてようやく私は周囲の雑踏の様子に気付いた。辺りの人々は何やら生暖かい眼差しを私たちに向けていた。時折殺意の込められたものも混じっている気がするのは気のせいだろうか。ともあれ、好奇の視線が一斉にこちらに向けられていた。……うん。次の瞬間、私はアイツの手を引っ張ってその場から逃げ出した。
とりあえず目に留まったどこにもあるファーストフード店の自動ドアをくぐり、飛び込んできた私たちに目を白黒させている店員に適当に注文した後、学生たちでごった返す店内でどうにか空いているボックス席を見つけて腰を下ろし、そこでようやく一息ついた。焦ったぁ……確かに私も人目をはばからないというか、直情的に行動した部分はあるけどさ。まさかあそこまで注目の的になるなんて思わないじゃない。「あのー……」声の方を向けば、アイツが苦笑いを浮かべながら席の横で突っ立ったまま私を見下ろしていた。やっと一息、というところで空気も読まず話しかけてきたアイツに思わずいらっときてしまう。だが私のそんな感情の機微にアイツが気付くはずもない。「何よ」我ながらつっけんどんな態度で睨み返した。それに対してアイツは何か反応するような事もなく、表情は変わらぬままばつが悪そうにこんな事を言った。「そろそろ、手を離してくれませんかね」「……へ?」一瞬アイツが何を言っているのか分からなかった。私はぽかーんとアイツの顔を見た後、ゆっくりと視線を下ろして……そこではじめて、自分の左手がアイツの右手をぎゅっと握っている事に気付いた、「……うわあああっ!?」思わず素っ頓狂な声を上げて私は手を振り解く。勢い余って両手をまるで万歳をするように上げ、席の奥にずざざざっ! と自分の体を押し込んだ。
顔が真っ赤になっているのにも気付かず、私は混乱した頭でようやく理解した。待ち合わせの場所からアイツを引っ張って逃げたときから今までずっと手を繋いだままだったのだ。よくよく思い返せば注文の際アルバイトっぽい店員のお姉さんが得も言えぬ苦笑を浮かべっぱなしだったような気もする。愛想の悪い店員だなとか心の隅で思ってた私がバカのようだった。「ポテトうめー。冷めると途端に不味くなるのになー」そんな私の心中など知る由もないアイツはさっさと席に着いてフライドポテトをぱくついていた。おい待て。それは私のだ。「ちょっとアンタ何勝手に食べてんのよ!」「少しくらい別にいいじゃねえか。ケチ」「け、ケチ……!? アンタそんなに食べたいなら自分で頼みなさいよ!」「百円のだけで済ませようとしてる俺の財政状況分かってて言ってますかねえっ」「知らないわよそんなの!」そんな他愛もないいつもの応酬。お陰で私の頭からはつい一瞬前まで考えていた事は吹っ飛んでしまった。見ればアイツの前に並ぶのはおなじみの百円シリーズばかりだった。もちろん飲み物はおかわり自由のコーヒー。あ、チョコパイ復活したんだ。「なーんか見てて悲しくなるわねー」「同情するならポテトくれ!」「まだ言うか……」そこまで言うなら頼みなさいよ、ほんと。中学生にタカるとかアンタ悲しくならないの。
私はちびちびとポテトを齧りながら、向かいの席のアイツをぼーっと眺めていた。半ばやけくそ気味に安っぽいパンズのハンバーガーをばくつく姿に少しだけがっかりして、そして不思議な事にどこか安心していた。いつもどおりだった。馬鹿馬鹿しいほどに、いっそ清々しいほどにいつもどおりだった。昨日から私はそわそわしっぱなしで、ルームメイトの胡乱な目付きと皮肉めいた言葉にも上の空だった。待っている間もずっと髪型とか服装とかが気になって仕方なかった。柄にもなく私は張り切っていたのだ。夏の寮祭でもどこかめんどくさいと思っていた私が、どうしようもないほどに。浮かれていたと言ってもいい。私は期待と不安とが綯い交ぜになった煩悶を抱えていた。どうしてかって? 言うまでもないだろう。なのにアイツはそんな私の乙女心などお構いなしに、朴念仁というのも生易しい無遠慮であけすけな態度でいるのだ。傍若無人と言ってもいい。まるで私を何とも思っていないような態度と、私なんかよりよっぽどガキっぽい、無邪気な顔。いつもとまったく変わらない。休日だっていうのに学ランだし、こんな量産型ファーストフード店で安物のハンバーガーだ。私の苦悩など知る由もないのは仕方ないが、それにしたってもう少しやり様はあるだろうに。そう。アイツはいつだってそうだ。「……なんだよ、そんなに俺の顔が可笑しいですか」「うん。っていうか、なんか無性にムカつく」「人の顔の造形まで文句言わないでくれますかねえ!?」などとムキになる辺り本当に年上なんだろうかと思う。変わらないのだ。どんな状況だろうがアイツはいつものアイツだった。恥ずかしい思いをしてまで先輩に頼んで協力してもらった服には気付いてくれないし、騒々しくごった返したおなじみ全国チェーンのハンバーガーショップだ。それが腹立たしく、けれど同時に私はどこか安心していた。一人であれやこれやと考えていた自分が馬鹿らしかった。確かに言いたい事は山ほどあるのだけれど、ある意味私はこの状況を期待していたのかもしれない。いつものアイツは、いつものように私を扱ってくれている。いくら上辺を着飾ろうとも中身は決して変わらない。どんなに立派なラベルを貼り付けようが根本の部分は何一つ変わらないのだ。アイツはきっとバカだからそんなものには気付かずに、真っ直ぐに中身を見てくれるのだ。
「それで?」アイツはもしゃもしょと中身が零れないよう慎重にチョコパイを齧りながらどこか諦めたような表情で私に訊いてきた。「いきなり呼び出してくれちゃった理由はなんですかね」来たよ、来ましたよ。やっぱり来るわよね。忘れててくれないかなーとか甘い期待を抱いていたけどそうは問屋が卸さない。当然だろう。私は何も説明せず、どころか返事も聞かず一方的に呼び出したのだから。私は表情に出さないように気をつけながら、いかにも何でもない風を装って答える。「深い意味なんてないわよ。あえて言うならせっかくの休みに一人で暇そうにしてる奴への慈善事業?」嘘。「ほら、私ってば優等生だし。たまにはこうしてボランティアに精を出してるわけよ」もっと言い様があるだろうに、私の口から出てきたのは意図していない辛辣なものだった。元々本当の事を言う気はないけれど、それにしたって他にマシな台詞があるだろうに。ほら、その証拠にアイツは嫌そーな顔してる。「俺の相手って町内清掃とかのレベルなのか……確かに恵まれちゃいないが……」何か思うところがあるのか、意外にもアイツは怒らずになぜかダメージを受けていた。はあ……と溜め息をつき、アイツは紙コップに入ったコーヒーを熱いからかちびちびと飲みながらこう続けた。
「ま、それならそれでいいんだ。またなんか厄介な事が起きたとかそういう事じゃないんだな」……驚いた。アイツは理不尽な呼び出しに腹を立てるどころか、私に何か起こったのではないかと心配していたのだ。心配されるような事は、ある。現に私は何度かアイツの言う『厄介な事』に巻き込まれたり口を挟んだりしているのだ。そして何度か……アイツはそれに対して割って入っている。その事は他でもない私が一番知っている。アイツはそういう奴だし、これからもそうだろう。けれど誰よりもそれを望んでなんかいない。だからこそ一番にその状況を危惧したのだ。確かに電話した時、私は切羽詰った感じで一方的にまくしたてていたような気がしないでもないけど、それにしたってお人好しにもほどがある。なんたって本気で、愚直なまでにまっすぐに私を心配してくれたんだから。私を。「……」私は急に気恥ずかしくなって、キャラメルラテに口をつけて誤魔化した。エビフィレオセット、七九〇円ナリ。注文するときにアイツが横で珍獣でも見るような目をしていた気がするけど、いいじゃない別に。何頼もうが私の自由よね。コーヒーの苦味とミルクとカラメルの甘味が舌先を焼く。どこか柔らかい気がする液体。嚥下するとほの甘い温もりが喉を通り過ぎ胸を暖かくした。ほう、と息を吐く。うん、ちょっと落ち着いた。「感謝しなさいよね。私が直々に相手してあげるんだから」「はいはい……」「何よその反応! もっと嬉しそうにしなさいよ!」「わ、わーい! やったぁー!」いかにもわざとらしい仕草でやけくそ気味に万歳する。そりゃそうだ。アイツは今日補習で学校に行かなきゃならなかったのに、私が理由もなく呼び出したお陰で出なきゃいけない補習を放り出して先生に土下座して全力ダッシュするはめになったんだから。 それと、いらない心配をかけてしまった。どう考えても私のわがままに振り回されてるようにしか見えない。
だが、はたして私にそれに見合った理由があるのだろうか。そう聞かれて頷ける自信はない。しかし悪いとは思えど、私にとっては他の何よりも重要な理由がある。それがどんなものなのかは……またすぐに明らかになるだろう。もうバレバレな気もするけど当人はまったくもって気付くはずもないから大丈夫。「……ほら」妙に長いフライドポテトの詰まった紙ケースの口をアイツに向ける。一瞬きょとんとした顔を私に見せ、アイツは少し躊躇うように尋ね返した。「いいのか?」「いいわよ。食べたいんでしょ。私そんなに食べれないもの」それじゃ遠慮なく、とアイツは取って付けたような理由に何の疑いもなくポテトに手を伸ばす。ほんと、単純。でもどうしようもなく安っぽいけれど、この程度の気遣いをする程度には私はアイツに申し訳ないと思っているのだ。
「それで、どうするんだ」店を出て開口一番、アイツはそんな事を言ってきた。「……へ?」「だからさ、どうすんだよ。どこ行くかって聞いてんの」そう訊かれて私は実のところ何も考えていない事に気付いた。よくよく思えば私の目的は漠然としすぎていて、具体的にどうすればいいのかなんて何一つ分からないのだ。こうしてアイツを呼び出す事に成功した時点で私の目的は半ば達成されている。そこから先はわりとどうだってよかった。だからといって何も考えていないというのはお粗末すぎるけれど。「えっ……とぉ……」「まさかオマエ何も考えてないんじゃないだろうな」ぎくっ。図星を突かれ私の動きが一瞬止まる。顔もたぶん引きつっているだろう。アイツはそんな私の顔を見て悟ったのか、また溜め息を一つついてめんどくさそうに頭をがしがしと掻いた。「ま、まあぶらぶら歩いてるだけでもいいじゃない。それだけでも退屈なんてしないでしょ。それとも何? 相手が私じゃ不満とでも言うの?」「そりゃそうだけどよ……、……まあいいか」ふとアイツを見ると、何やら似合わぬ小難しい顔をしていて、それからふと表情を和らげ「仕方ないなあ」とでも言うように私に向かって緩く笑んで言うのだった。「そうだな。オマエとなら、退屈しそうにない」
その柔らかな笑顔に思わずどきりとする。何よ。こういうときばっかり年上ぶっちゃってさ。さっきポテトがどうのと騒いでいたのを私は忘れていない。それでも時たま見せるこういう表情や仕草に私はその度に動揺してしまう。きっとアイツには年上とか年下とか、そういう面倒なものは何の意味も成さないのだろう。でもやっぱり私はどうにも意識してしまう。その事がアイツとの認識のギャップを生み出しているのだろうけど。ああもう。さっきからずっとペースを乱されっぱなしだ。アイツの一挙手一投足のことごとくが私の心をかき乱す。仕草の一つ、表情の変化、発する一言が全て私をコントロールしているような錯覚。でもどんなに動揺してもアイツはそんな事にはこれっぽっちも気付かないのだろうけど。現にアイツは、真っ赤になった顔をばたばたと手を大仰に動かす事で必死にごまかそうとしている私に不思議そうな顔を向けている。実に察しが悪い。「んじゃぶらぶらしますか。今日は天気もいいし、たまにはいいだろ。こういう日も」その言葉にまた私はどきりとする。『こういう日』。本来あるべき『日常の一コマ』を私は知らない。もちろん私だって友達とお喋りに興じたり買い物に一喜一憂したり、多分年相応の青春の謳歌ってやつをしている。それはアイツも同じだろう。でも私とアイツと、二人が揃うと途端に日常なんて言葉はまるで化学反応を起こしたように消え失せてしまう。一度、いや二度ばかりそんな感じになりそうになった事はあったけれど、その時もやっぱり途中で邪魔が入った。それもお邪魔虫と呼ぶには可愛いにもほどがある凶悪な奴だ。最終的に剣呑な事件にならなかった例がない。だから、だろうか。そう。私はアイツとそのセーシュンのオーカって奴をやりたかったのだ。他愛もないお喋りをして、目的もなく街をぶらぶらと歩いて、しょーもない事に騒いで。そんな事をしてみたかったのだ。もちろんそれも建て前の一つでしかないのだけど。つまりアイツを呼び出す事に成功し、こうして一緒に歩いてる時点で私の目的は半ば達成されつつあった。後はお邪魔虫が来ないことを願うばかりだ。
「あ、そうだ」私は目の前の景色にある事を思い出し、くるりとアイツの方へと向き直った。「ちょっと見てきたいところがあるんだ」その言葉にアイツは肩をすくめ。「おう。どこでもいいぜ。どうせ俺の行く場所なんてオマエには面白くもないだろうし、オマエが行きたい場所の方が俺としてもありがたい」そんな事をおどけた調子で言うのだ。……ま、最初から期待なんかしてないけどね。アイツにそんな器用な真似ができるとは思わないし。別に、全然、まったく、これっぽっちも、期待してなかったから。うん。ごめんなさい嘘です少しだけ期待してました。ごめんなさい結構、ううん実はかなりしてました。「んで行きたいとこって?」相変わらずアイツは分かってるのか分かってないのか、多分まったく分かってない様子で訊いてきた。まあここで察しろというのも酷な話だ。特にアイツにとっては。私はにまっと悪戯っぽく笑い、すぐさま踵を返すとそのまま何も言わず前方に見える信号の方に向かって軽やかに駆け出した。「あ、おい!?」背後にアイツの慌てたような声が聞こえるが足を止めない。そのまま交差点を右に。曲がる時に横目でちらりと見ると、慌ててアイツが追いかけてきていた。うんうん。目的地は角を曲がってすぐ、二件目だ。こじんまりとした書店を過ぎ、そこで私は足を止める。そして。「きゃあああああっ」思わず悲鳴を上げた。あ、うん。白昼の往来だしそれなりに抑えてはいるわよ? でも出ちゃうものは仕方ないじゃない。「どうしたっ!?」慌てたアイツの声が聞こえた気がするけど私にはもうそちらに気を向けられるほどの余裕はなかった。どうしてかって? 目の前の凶悪極まりない代物から視線を逸らすなんてできっこなかったのだ。
「……何やってんだオマエ」
呆れたような声。そりゃそうだろう。私は店内を一望できる大きな窓に半ば張り付くように両手を押し付け中を凝視していたのだから。しゃがみ込んで。目尻も口元もだらしなく垂れ下がったまま、私はゆるゆるの顔で店内のそれを見詰めていた。店内。そう、店の中。大きめの柵の中に毛布とかと一緒になって転がっていたのは。つぶらな瞳をこちらに向けるにゃんこたちだったのだ……っ!!ここは私のお気に入りスポットの一つ。小さな通りに面したペットショップだ。何が素晴らしいかってここのショーウィンドウ、学園都市の最先端技術を大いに無駄遣いした電磁波とかカットしまくり仕様の特殊合成樹脂!常時発散されまくってる電磁波のお陰で動物に嫌われまくりな私としては壁越しとはいえ至近距離で心行くまでにゃんこを愛でる事ができる貴重なポイントなのだっ!!そんなこちらの苦難とか煩悶とかその他もろもろ色んな感情とかを知る由もない子猫たち(多分生後二ヶ月くらい)は澄み切った宝石のようなピュアな瞳を向けて私と視線を交わす。 ちょっぴり小首を傾げちゃったりしてああもう!媚びてる? ふざけんなこんな可愛い生き物がそんな邪な感情持ち合わせてるわけないでしょ!私の目の前すぐのところにいるとりわけ小さな三毛の子猫(六週間くらいかな?)は青い瞳で私を見詰めたまま、おぼつかない足取りでふらふらとこちらに近付いてきたかと思うと、私と彼女の間に立ち塞がる邪悪な見えない壁にモロに頭から突っ込んだ。窓に触れていた手に、こつん、と小さな振動が伝わる。彼女はそのままこてん、と仰向けにひっくり返り、何が起こったのか分かっていないような不思議そうな目で私を見上げてきた。あ、やばい。クリティカル。「何これ……すっごく可愛いんだけど……!」どうしてこの地球上にこんな可愛い生物が存在しているのか、不思議でならない。ビバ大自然の神秘! 生命の歴史!猫可愛がりとはよく言ったものだ。いやむしろそれが当然なのかもしれない。猫=可愛いは全人類共通の文化であり最大の至宝よね。猫を捨てたりまして虐待するような奴なんて死刑でいいわよ。徳川のバカ殿も猫崇めなさいよ。
「なんだよ、ったく。一体どうしたのかと思ったら」そんなやる気のない声が頭上から降り注ぐ。見上げればアイツが呆れたような顔でしゃがみ込んだ私を見下ろしていた。「何よ、文句あるの。どこでもいいって言ったのはアンタじゃない」むっとして思わずそんな言葉を返してしまう。いいじゃない。猫好きなんだから。だがアイツはそんな私に向かって、どうしてだか優しい笑みを向けこんな事を言いやがったのだった。「いや、オマエも女の子なんだなーと思ってさ」その表情と言葉に、私の中の何かのメーターが一瞬で振り切れた。あれ、漫画とかでよくある奴。「ぽんっ」って感じの。「あああアンタいきなりななな何言ってんのよ……!」思わずぎゅっとバッグを胸の前で抱き締め私は顔が真っ赤になってるのも気付かぬままアイツを上目遣いに……って私は何回真っ赤になってるのよ。いくらなんでもペース早すぎない? そういうのはここぞというときに取っておくものじゃないのかしら。大安売りにもほどがあるわよ。勝手になっちゃうんだから仕方ないんだけどさ。アイツはそんなこっちの心境を知るはずもなく、ショーウィンドウに右手を突き中を覗き込んでいる。「おー、ちっこいなー、可愛いなー」うん。アイツも例外なく猫は好きみたいだ。優しげな、慈しむようなその視線は私の方を向いていないのに思わずまたどきりとする。一体どれだけ私にこういう反応をさせれば気が済むのか。絶対無意識にやってるから何も言えないんだけどさ。
「あ、アンタも猫、好きなの……?」恐る恐るといった様子で私は尋ねる。私の声にアイツは視線を店内に向けたまま、どこかおざなりに返した。「おー。まあ好きか嫌いかで言えば好きだなー。うちにも一匹いるし」「ほんとっ!?」思わず大きな声を出してしまった。アイツは少し驚いた様子で私を見ると、少し戸惑うような表情で続けた。「お、おう。オスの三毛が一匹。でもあんまり言わないでくれよ? 寮なんだから」あ、そっか。普通はペット禁止よね。ってオスの三毛? 物凄いレアじゃないの。猫の毛色のうち、三毛だと決定するO遺伝子とo遺伝子はX染色体上に存在する。他にも色々と面倒な遺伝学上の要素があるのだけど、最低限三毛になるためにはO遺伝子を持つX染色体とo遺伝子を持つX染色体がなければいけない。そのためオス(つまりXY染色体の、一つしかX染色体を持たない個体)はO遺伝子とo遺伝子のどちらかしか持たず、三毛にはなりえない。しかし稀にクラインフェルター症候群という染色体異常などを原因としてオスの三毛猫が生まれる可能性がある。ちなみにこれでオスの三毛猫が生まれる確率は三万分の一くらいらしい。一八四万分の七である私が言えるものでもないけれど、それくらいに希少な存在なのだ。どうして私がこんな事知ってるかって? ちょっと勉強したのよ、遺伝学。猫大好きな私も寡聞にしてオスの三毛猫にはお目にかかったことがない。偶然意外では生まれないのだから当然とも言えるけど、やっぱり見てみたくなるのがサガって奴だ。
「ねえ――」今度見に行っても……と言おうとしてすんでの所で止めた。言うまでもなくその猫はアイツの部屋にいるのだから、つまりそれはアイツの部屋に行っていいかという質問にも同義だ。さすがにそれはまだちょっと……というのも一つの理由だが、私にはもっと根本的な問題がある。「どうした?」「ううん……なんでもない」俯くようにアイツから視線を逸らせ再び店内へ向ける。私は猫に嫌がられる。一八四万分の七だからこそなお救いようがないほどに。今こうして間近で子猫を観賞できるのも間にある透明な板のお陰だ。まさか一枚数百万もする局所的にしか使用されないこの透明素材がアイツの部屋にあるはずがない。私が猫をアップで見られるのは画面の中か、この見えない壁越しだけだ。嫌がる猫をむりやり抱き上げればできなくはないけど、そこまでしたくはない。「なあ。中入らねえの?」そんな私の抱える葛藤に気付くはずもなく、アイツは素晴らしいタイミングでそんな事を訊いてくる。空気が読めないにもほどがある。けどそれをアイツに言ったって仕方ない。この気持ちは私みたいな能力者にしか分からないのだから。私は緩く首を横に振り、「いい」と小さく呟くように言った。
手を伸ばす。指先が透明な壁に触れた。指紋が付いちゃうな、と思いつつ軽く指先で掻くように冷たく硬い感触をなぞった。「これね、ガラスじゃないの。電磁波とか遮断する特殊な素材でできててさ……。私ってばほら、こういう能力じゃない。体から常に無意識に微弱な電磁波発してて、それをこの子たちが嫌がるの」だから、と。それに続く言葉は言えなかったけど。いくら察しの悪いアイツでもきっと伝わっただろう。透明な壁のむこうにいる子猫はきょとんとした無邪気な顔で私を見上げてくる。けれど私はその視線に応える事ができなかった。得体の知れない罪悪感が私の目を逸らさせる。純粋無垢なその美しい瞳が、どうしてだか私を責めているように思えて仕方なかったのだ。私がこの子たちに何かしたわけではない。だから私がこの子たちに感じるものは錯覚でしかない。けど、檻の中で何も知らずに人間のエゴによって売買される彼女らを私はあの子達に重ねてしまう。なぜならあの子達も――。それ以上考えたくなかった。私は立ち上がり、アイツに向き直って精一杯の作り笑いを見せた。「うん。そろそろ――」他の場所へ。私にはこれ以上あの子たちの無垢な視線に耐えられる気がしなかった。そう言おうとした私の口は、しかし思わぬ事態により続く言葉を失ってしまう。ぎゅっ、と。アイツが私の手を握ってきた。
突然の事に私の思考は完全に停止してしまった。人間テンパると本当にフリーズしてしまうのだ。いつものように可愛らしく悲鳴を上げる事はおろか声の一つ、身動き一つの反応すらできなかった。どうしてそんな顔ができるのか、アイツはなぜかとても優しげな表情で私に微笑んでいた。何よ、アンタも今日はちょっとやりすぎなんじゃないかしら。普段はそんな事絶対にないのに今日に限ってアイツはいつも以上に私にそんな顔を見せている。「行こう」アイツは短くそう言って、そして私を引っ張って歩き始めたのだ。「え? ちょっと」この時になってようやく私は声を発することができた。アイツの意図も掴めぬまま私はなすがままにアイツの後についていく事になり、そして。あろう事かアイツはペットショップの自動ドアの前に立ち、こちらを振り返った。その意味が分からないほど私は愚かではない。店内に入ろうというのだ。「アンタ、聞いてなかったの? 私は……」「大丈夫」私の言葉を一言で切って捨て、アイツは頷いた。
それはまるで暗闇を怖がる幼子を宥めるような、優しげで、そしてどうしてだか無条件に信頼できるものだった。「なんで」とか「でも」とかそんな些細などうでもいい疑問を封殺するような暖かな声色。私にはむしろ、どうしてそういう響きが紡げるのか不思議でならなかった。私はきっと躊躇うような、怯えるような顔をしている。それでもその内の幾許かはアイツの言葉で和らげられたのだろう。戸惑いの方が大きいかもしれない。だからだろうか、アイツは。「大丈夫だよ」もう一度繰り返す。今度ははっきりと、力強く。視線を逸らす事なくまっすぐに私を見てそう言った。「……」繋いだ手は暖かい。思えば何度かこうして手を繋いだ事はあるけれど(大抵の場合不可抗力だが)、アイツから握ってくれたのは初めてではないのだろうか。そう、いつだって私からなのだ。私たちの関係のベクトルは常に『私→アイツ』で、アイツはいつもどこか受動的だった。何かとんでもない事が起きてしまってアイツが後先考えずに飛び込んでいく事はあってもアイツから何か起こした例がない。だから、だろうか。何の根拠もないのに。「――うん」特別な何かが起こるような気がして、私は頷いてしまったのだ。
私の答えに満足げに笑い、アイツは空いた左手でドアの開閉パネルを押した。小さなモーター音と共にドアが横滑りに開く。そして私はアイツに手を引かれ、店の中に初めて足を踏み入れた。ふわりと風。空調によって適温に調整された暖かい空気に乗ってかすかな獣臭が鼻腔に届く。この臭いを嗅いだのはいつ以来だろう。もしかしたら……そう、ずっと昔、この街にくる前かもしれない。不思議と不快には思わなかった。むしろ懐かしいとさえ思えてしまう。店員の声。けれど私の耳には届いていなかった。「……」今、私の眼下には小さな生き物がいて、つぶらな瞳でこちらを見上げている。先ほど私が窓越しに見ていたあの三毛の子猫だ。私たちの動きを追ってきたのだろうか。海をそのまま閉じ込めたような美しい青を湛えた瞳をじっと私に向けていた。どうしてそんな顔をしてるの、と私に問いかけるように。言葉を失ったままの私を見てアイツは小さく、ふ、と息を吐き視線を店の奥へと投げる。「あのー」こちらに柔和な笑みを向けている店員のおにーさんにアイツは声をかけ、とんでもない事を言いやがった。「触ってもいいですか?」その言葉が一瞬何を意味しているのか分からなかった。驚いて私が振り向くのとアイツがこちらに向き直るのとは同時だった。視線が合う。手を繋いだままの、ともすれば吐息さえ感じられるような至近距離。思わずたじろぎそうになるが、アイツはやっぱりそんな事はまったく気にせず、まるで自分の事のように嬉しそうに私に言うのだった。「いいってさ」……え?触るって、この子を? 私が?
動揺する私にアイツはもう一言だけ付け足す。「手、離すなよ」その言葉の意味を理解して私はようやくアイツが手を繋いできた意味を知った。そう。アイツはどうしてだか私の能力がまったく通じず、なぜだか分からないけど根こそぎ無力化させてしまうという理不尽な能力を持っている。それを今、私に向かって使っているのだ。今の私はなんの異能も持たない極々普通の少女になってしまっていて、それはつまり――今、私の体から電磁波は出ていない。そりゃあアイツが特別な意味もなく私の手を握る事なんてあるはずがないと分かってはいたけど、ちょっぴり寂しい。でもそれ以上に嬉しかった。アイツは手を繋ぐだけという単純な動作で軽々と私の苦悩を吹き飛ばしてみせた。私が壁越しでなくとも子猫を見られるように。触れるように。他でもない私のために。触れられる。手を伸ばせばいい。それだけだ。なのに私はどうしてか硬直してしまっていて身動きがとれずにいた。けれどアイツはそんな私の様子に気を配るはずもなく、しゃがみ込んで低い柵の上から手を伸ばし子猫の頭を指先で掻いた。彼女は気持ちよさそうに目を細め少しだけ口を開く。真っ赤な口内に小さいけれど鋭い牙が見えた。「おおう、愛い奴め」猫を飼っているというのだからこういうのはお手の物なのかもしれない。慣れた感じに指先で子猫をくすぐるアイツの表情に私は目を奪われる。少し嫉妬もしていたのかもしれない。子猫相手にバカバカしいと思うかもしれないけど。私はその笑顔を自分に向けて欲しいと思ってしまっていた。その感情の名を私はまだ知らない。心中で渦巻くモヤモヤとした気配。でももう少しで答えが出そうな気がした。
「どうした?」立ち尽くしたままの私を不思議に思ったのかアイツはこちらに顔を向けそんな言葉をかけてきた。相変わらず左手の指は子猫と戯れているけれど。私はようやくはっとなって、それからゆっくりと、恐る恐るしゃがみ込んだ。「……」でも私の差し出した手はかすかに震えていた。自分でもまだどこか信じられなかったのだ。このまま指先が触れてしまえばその瞬間繊細なガラス細工のように砕けてしまうのではないか。そんな錯覚すら覚えていた。今までのは壮大なドッキリみたいなもので、私がまんまと引っかかるのを今か今かと待ちわびているような。それがたちの悪い妄想だという事は自覚しているけれど、それでもやっぱり最後の最後で私は生温い幻想が壊れてしまう事が恐ろしかった。あと数センチ。ほんの少し手を伸ばせば触れられるというのに、まるで見えない壁に阻まれているようにそれ以上近付く事ができなかった。そんな私の思いをよそに。ざらりと、彼女の舌が私の指を舐めた。
「――――」暖かく、湿った、ざらりとした感触。本当に小さな舌が指先に触れた。私の躊躇とか葛藤とかそんな面倒な事を全部突き抜けて、彼女の方から私に触れてきた。言い表しようのない喜びが溢れる。ともすれば涙が溢れてしまいそうだった。指先を子猫に舐められたという、本当に、たったそれだけの事なのに私はかつてないほどに感動していた。自分でもどうしてそんな事になってしまったのか分からないけど、ただただ心が打ち震えていた。そんな事さえも彼女には関係ないのか、まったく気にせぬ素振りで私の右手に体を摺り寄せてくる。ふわふわとした毛並みが擦り付けられ、くすぐったい感触が手をなぞった。ぴくりと指先が小さく跳ねた。それに反応するように彼女は、どんな感情を伴っているのか、じっと動きを止め私の手を見詰める。隣のアイツからも同じように私に向けられた視線を感じながら私はゆっくりと手を動かし――恐る恐る彼女の頭をなでた。その時の私の感情は言葉では形容し難い。いや、自分でもよく分かっていなかったのだ。どこか呆然と、無感情な調子で私の指は毛並みをなぞる。滑らかで心地よい感触。生き物の発する温もり。そして――小さく伝わってくる、鼓動。こうしてようやく私は確かな実感と共にぬいぐるみみたいな小さな存在が生き物だと確信した。「――あったかい」思わずそう声に出してしまった。「そうか。うん。……よかったな」――もしかしたらアイツはとんでもなく無欲な人間なのかもしれない。いや、ある意味ではとても貪欲なのかもしれない。ただそれは自分ではなく他者によるもので……誰かのためにならアイツはキセキみたいな事を簡単に起こしてしまう。そんな気さえした。小さく呟く私を見てアイツは顔を綻ばせ、目を細めた彼女が小さく鳴いた。私は彼女をゆっくりとなでながら気持ち良さそうに目を細める姿から視線を逸らせずにいた。でも。彼女には悪いけど意識は全然違う方を向いていて。私はさっきからずっと隣にある優しげな微笑みと手に伝わってくる温もりにどきどきしっぱなしなのだった。
さて。そんな感じでどっかふわふわした調子のまま、特に目的もなく街をぶらついていた。私たちはどこかぎこちなく、離すタイミングを失い手を繋いだままだった。手は触れ合っているというのに微妙な距離をお互いに置いたまま並んで歩く。視線も合わせられぬまま当たり障りのない会話を繰り返していた。天気の話題とか。気拙さのせいか、ときおり会話のキャッチボールが途切れてしまう時間がある。そうなると左手に伝わる体温とか、ほんの小さな指の動きとか、僅かに浮かぶ汗のしっとりとした感触とかが否応にも意識させられてしまって、そのたびにどこか温いくすぐったさが増していくのだ。形だけのぶつ切れな会話を繰り返しながら視線は遣り場に困ってさまよっている。なにぶん学生の街だ。待ち往く人たちも若者が大半だ。中でも目に付くのは――どうしてもカップルだった。改めて意識するとやっぱりカップルが多い。もちろん友人同士やクラスメイトなのか部活やサークル仲間なのか男女混合の集団も多いが、男女が仲睦まじく歩いている姿がそこかしこにあった。それに今日はあちらこちらでイベントもあるのだろう。パンフレットらしきものを二人で覗き合ってたり、そんなのがやたらと目に付く。どうしてカップルだって分かるかって? そりゃあ男女の二人組が――。はた、と足が止まる。「ど、どうした?」アイツも立ち止まり振り返る。ぎこちない表情のまま尋ねるが、私はそれにちゃんと答えられなかった。「な、なんでもない」この台詞が出る時は得てしてなんでもないはずがないのだが、そこには触れないのがエチケットって奴だ。私は半ばアイツを引っ張るようにして再び歩き始める。手を繋いだまま。どうしてカップルだって分かるかって、そりゃあ男女の二人組が手を繋いでたらどう見てもカップルだろう。ただその理論でいけば今の私たちもカップルに見えてしまうわけで。
(恋人に……見えるのかな……)すれ違う人たちの視線が怖くて私は頬を染めた顔を俯かせたまま足早に歩みを進める。客観的に見れば私たちはどう見てもカップルなわけだが、その事を考えるのがどうにも恥ずかしくて、でも意識せずにはいられないまま足を動かす。目的地なんてないのに何を急いでいるのだろう。「おい、ちょっと?」アイツの声にはっとなって歩くスピードを緩めた。振り返ると当然ながらそこにはアイツの顔があって、でも直視できずに私は少し視線を逸らせてしまう。「なあ、あれ」そう言って指差したのは通りに面した雑貨屋だった。小ぢんまりとした、キャラ物の文房具やらをメインに取り扱ってる奴だ。軒先に貼られた派手なポスターが一際目を引く。『ラヴリーミトンフェア』という大きな文字の横に、これまたでかでかとカエルのマスコットキャラクターのイラストが描かれている。即座に方向転換した。背後で笑いを堪えている気配がした。いいじゃん。好きなんだから。人の好みにまで口出ししないでよ。「いや、分っかりやすいなーってさ。っくく」そんな声を黙殺してまっすぐ店内に入った。手を引っ張りながら。
からんからん、とクラシカルなドアベルが鳴る。見た目に違わず店内は狭く、所狭しと置かれた棚に色とりどりのキャラクターグッズがひしめき合っていた。入ってすぐ目に入るのはなるほど、フェアと言うに違わずラヴリーミトンのグッズが前面に押し出されている。中でも特にゲコ太が多い。ヒゲを生やしたダンディなカエルのマスコットだ。ノートだとかシャーペンだとかの文房具や携帯ストラップ、はては大きなクッションまである。やばい、欲しい。(でもさすがに大きすぎるわよね……これを抱えて一緒に歩くのはちょっと……)うん、今度、できれば明日あたりにでも買いにこようと思い、はたと気付く。どうして私は躊躇った。なぜ『また今度』なんて考えた。どうして今度ならよくて、今はいけないんだ。そんなの決まってる。実にシンプルな答えだ。「なんだこれでけえ! そして高けえ!」と騒いでるバカがいるからだ。これを抱えて一緒に歩くのは気が引ける。どうして? 相手がアイツじゃなかったら構わなかっただろうに。そう。私はまったく救いようのないことに。この時になってようやく自分の置かれている状況を自覚した。(もしかしてこれって……デート……よね……)とんでもない事に私は今の今までその単語を完全に失念していた。うん、おめかしして、待ち合わせして、そわそわしながら待ってて、遅れてきた相手に怒って、でも嬉しくて、一緒にご飯食べて、あまつさえ手を繋いじゃったりして。どこからどう見てもデートだった。「うわああああっ!!」「いきなりどうしたっ!?」
どうしたもこうしたもない。今になってようやくこの現状がデートだと自覚した事で私の頭はパンク寸前だった。散々今まで現実逃避してきた反動だからか、抑圧されていた意識が突沸してもう大爆発してしまった。恥ずかしいとかそういうレベルの問題じゃない。何がひどいって、今まで無自覚にデートをしていて、あまつさえそれをどこか楽しんですらいたのだ。全然嫌じゃなくて、それはもう本当に私はアイツとデートがしたかったとどこか望んでいた事に他ならない。さらに言えば未だに私の左手はアイツの右手を握ったままだ。それを認めたくなくて、でも認めざるをえなくて、認めたら負けだなーとか思いつつ認めてしまいたい自分と目を瞑り耳を塞ぎたい自分が葛藤していてああもう――!「……ふにゃー」ぶしゅううう、と空気が抜けるエフェクトをまといつつ私はほおずきのように顔を真っ赤にしてふらふらとよろめく。どう見ても変な人だ。そんな事すら考える余裕もないんだけど。「おい……!?」突然の私の奇行に驚いたアイツが慌てて手を引っ張る。支えようとしてくれたのだろう。そのまま左手を差し出し――。瞬間的に両手を跳ね上げ全力で後ずさって何とか回避した。ああっなんで手を離しちゃうのよ、ってか折角のチャンスなのにもう色々おバカー!?「大丈夫! 大丈夫だから!!」「お、おう……!」お互いに錯乱していたのだろう。力強く頷きあって、その後「何やってんだ私は」と急に素面に戻ってしまう。お陰で表面上はどうにか落ち着くことができたのだけど。(顔が……見れない……っ!)頬の紅潮はどうしようもなく、心臓もばくんばくんと鳴り響いている。落ち着け私。深呼吸しろ。素数を数えるんだ。頭の中で必死に「落ち着け、落ち着け」と繰り返してしまっているあたりまったく落ち着けてないのだけど、体裁を保つために白々しくワゴンの中を物色する。「あ。これかわいいなー」とか棒読みで適当に言ってるけど当然ながら自分が何を手に取っているのかまったく分かっていない。ポーズだけでも大事。
「オマエそれ、この前貰っただろ」アイツが私の手元に胡乱げな視線を向ける。何の事かと見てみれば、カエルのマスコットの携帯ストラップだった。先日、私はとあるキャンペーンの景品として同じようなマスコットのストラップを貰った。ちなみにその時アイツと一緒だったので、その事はアイツももちろん知っている。というか、おそろいのストラップが私の携帯にもアイツの携帯にも付いている。はずだ。「違うわよ。ほら、これピョン子。全然違うじゃない」「あ、ほんとだ」そうアイツは私の手元をしげしげと――って顔! 顔近い!「……何してんだオマエ」反射的に距離を取る私に呆れたように言うアイツ。何よ。私ばっかり意識して、バカみたいじゃない。さっきからオーバーリアクションばかり繰り返して、これじゃあまるで道化だ。あいにくと芸人になるつもりなんてさらさらないのだけど、アイツの言動はいちいち私を刺激して、どうにも体が勝手に動いてしまう。端から見れば随分と滑稽な事だろう。でも当の私は至極真面目にやってるんだ。「それ、買うのか?」そう言って私の手元を視線で示す。そこにはストラップがぎゅっと握られたままだった。
「あー、うん……そうね……」少し考えて、それからふとした悪戯心が浮かんだ。私の表情に何やら不穏なものを感じたのだろう。アイツの顔が若干引きつる。「ねえ」私は最高級の、もう投売り同然特売セールな現品限り特別ご奉仕の笑顔をアイツに向けて、とびっきりの美声で言ってやった。「ゲコ太が一人で寂しそうなの。だから、ね、買って♪」「……オマエ、そんなに俺の財布を圧迫したいか」うん。なんとなくその返事は想像付いてた。私とは対照的にアイツは凄い嫌そーな顔をしてる。(……あれ)なんとなく想像付いてたのに。どうしてだか私の心には何か小さなトゲが刺さったような違和感……というか、言葉では表せないような妙な気配があった。よくよく注意しなければ分からないしこりのような、そんな小さなわだかまり。その正体が何かと一瞬考えて。
――ああ。そうか。私は、他でもないアイツに買ってもらいたかったんだ。別にこのストラップでなくてもいい。何だって構わない。私が本当に欲しいのは、アイツからプレゼントされたというその事だ。実に単純明快な解答。簡単すぎて他の言い方ができないほどのシンプルな答え。つまり私は――。アイツの事が、好きなんだ。
「………………」しこりが取れた。ばらばらだったピースが全て綺麗にはまったような爽快感。今まで引っかかっていたものが全部、手品のように消え失せてしまった。何て事はない。自覚症状がなかっただけでとっくの昔に私は恋の病に罹患してしまっていたのだ。実にあっけなく、それこそ劇的な動機などなく、日常の一コマでそれを悟ってしまった。あまりに突然に。こんなので連ドラでも作ろうものなら視聴率は最低だろう。それほどまでに一大イベントとも言えるものが突然に訪れた。もうちょっとドラマチックに、ロマンチックに起きてもよかっただろうに。でも私が欲しかったのは、本当はそんなものじゃなくて。こういう平々凡々な一山いくらで叩き売られているような何の面白みもない世界だったのかもしれない。「どう、した?」私が急に冷めたように見えたのだろうか。いや、確かに私は醒めていたのだけど。アイツが恐る恐るのように少し上ずった声を私にかけてくる。……少しくらい、ううん、もうちょっとくらいはワガママになってもいいわよね。さっきとは違ってごく自然なままの表情と声色で、私は何の加工もなしの顔と言葉をアイツに向ける。「ダメ……かな……」
その真意を測りかねているのだろうか。アイツは狼狽するような顔と仕草を見せ、そのまましばらくの間沈黙が続いた。「……」ふ、と息を吐く。どこか達観したような諦念が私の胸にあった。なんか、うん、まあいいや。それは投げ遣りなものではなく、仕方ないと漠然と理解して私は手に持ったストラップをワゴンに戻そうとして――。「あ」横からさっと伸びた手によって私の持っていたストラップは奪われてしまった。慌ててそちらを振り向けば気の早いアイツはすでにレジに向かって歩き出していた。「いいの……?」学ランの背中に問いかける。アイツは私のほうを振り向かないまま足を止め、少しだけ躊躇するような素振りを見せた後。「……たまにはな」ぼそりと、そんな事を呟いた。それ以上お互いに言葉を交わす事はなく、私はレジに向かうアイツの背中を呆然と見送っていた。
棒立ちのまま時間が流れる。数秒だったのかもしれないし、数時間もの間だったかもしれない。実際のところは数十秒程度だったのだろうけど、私の時間感覚はすっかりおかしくなってしまっていて、永遠なのか須臾なのかすら区別が付かなかった。ともかくいくらかの時間の後、仏頂面で戻ってきたアイツは私の胸に小さな紙袋を押し付けた。受け取った手には紙の感触と、中にある小さなプラスチックの硬さ。それを無意識のうちに指でなぞり、すると自然と私の目尻は下がっていった。ともすれば涙が零れそうな気配さえする。「――ありがと」僅かに俯き、ぎゅっと胸の中で紙袋を抱き締め、自然とその言葉が私の口から紡がれる。ああ。本当に他愛もないことなのに。何百円かの安っぽい量産品だというのに。それは黄金の塊よりも何万倍も価値のあるものに思えた。ふと視線を感じて私は顔を上げる。交錯するのもつかの間、アイツは酷くばつの悪そうな顔をしてそっぽを向いてしまった。まったく。本当に似合わない。でもこれくらいがちょうどいいのだ。下手に飾らずに、不器用に不格好にやればいい。だから、その横顔、頬の辺りが心なしか赤くなっているのが私の気のせいでなければいいのだけど。
再び休日の雑踏の中。私たちは並んで歩いている。先ほどまでと違って手は繋いでないけれど心なしかお互いの距離はその時よりも少ない気がする。アイツはそれに気付いているのだろうか。体温や吐息さえ感じられそうな距離。肩を並べて、というにちょうどいい。でも手は繋いでいない。少し間違えば触れてしまいそうだけど、どうしてだかそんな事はなかった。それはやっぱりお互いに意識しているからだろう。正直に告白すれば偶然を装って何度か試しているのだけど。でもその度にアイツは急に辺りのものを指差したり突然の話題の切り替えなんかをしてきてさり気なくかわされてしまう。こういうとこだけ妙に勘がいいんだから。まったく。気分はやけにすっきりしていて、なんだかこの青空のようだ。空は突き抜けるような蒼で、秋晴れというに相応しい。何とかと秋の空、という言葉があるけれど、少なくとも今日いっぱいは晴れそうだ。せっかくのこんな日に雨に降られちゃ堪らない。いつになく上機嫌な私(どうしてかは押しなべて説明する必要もないだろう)とは正反対にアイツはどこかよそよそしい。私が何か話題を振っても返事はどうにも上の空だし、そのくせ何か考え事をしているとか私を避けているという風でもない。困っているというか戸惑っているというか、そんな感じだ。それは私の態度にだろうか。なんだかあっけなく吹っ切れてしまった私は一時間前までとは何かが決定的に違っていた。表面的にはあまり変化はないのだろうけれど、何というか……素直だった。それはアイツに向けてという意味ではない。他でもない、私自身に対してだ。自分の心に、感情に素直だった。当然といえば当然だろう。私が自分に言い訳していたものは感情にしろ行動にしろ全てアイツへ向けるものだった。そのベクトルがどういう性質のものなのか自分でも分からずに、だからずっともやもやしたまま私は今日を過ごしていた。いや、それはもっと前から……私が自覚もなしにアイツに恋心を抱いた時からだろう。
感情は成長する。それはまるで雪ダルマだ。一度転がりだした小さなココロのカケラは何もせずとも少しずつ膨れ上がっていく。溶けて消えてしまうこともあるだろう。でも私の場合、幸か不幸かそんな事はなかった。新雪は常に降り続け、行く先には常に新しい淡雪が積もっていた。そうして自分でも気付かぬままどんどん大きくなっていく雪玉は、いつしかとても大きなものになっていた。私はいつの頃からかアイツを好きになってしまっていた。自覚症状こそ出なかったものの傍目には明らかだったのかもしれない。たちの悪い事に恋の病というものは本人にこそ一番分かり辛いものだ。何より私とアイツの出会いは最悪なシチュエーションでのものだったし、漫画のようにお気楽な学園生活の中で生まれたものではない。何かにつけて私たちは剣呑な場面でアイツと出会っていたのだから。こと私とアイツの周りに限って言えば、それを恋だと指摘してくれるような親切で意地の悪い共通の友人なんてものも存在しない。精々私の後輩がいいとこだろうけど、あの子がそんな事をするはずもないし。どころかあの手この手で妨害してくるだろう事は火を見るよりも明らかだ。それはそれで自覚するにはいい材料なのかもしれないけれど。今までの私はその感情がどういう性質のものなのか理解できず(直感的には分かっていたのだろうけれど)お陰でそれを否定せざるをえなかった。だってそれは未知の感情だ。心の中に生まれたそれはまるで怪物。理解できないからこそ恐ろしい。でもよく言うあれ、幽霊の正体見たり何とやら、だ。タネが割れてしまえば分かってしまえば何て事はない、何の変哲もないよくある答えだった。
恋に恋する事なんてなかったけれど、私だって女の子だ。恋愛劇が嫌いなはずもない。周りからは似合わないと言われるけれどコンビニで漫画雑誌を立ち読みしたりもする。そういう少年少女向けの雑誌には大抵いくつか恋愛ものが連載されているのだ。だって私くらいの年齢はどうしたってそういう話が好きなのだから。しかし創作と現実の間には大きな差がある。百聞は一見に如かず。どれだけ上手く説明したって体験には遠くおよばない。それが心の機微ならなおさらだ。感情なんてどれだけ説明したって分からない。だから私はこの感情の名前が恋だとついぞ気が付かなかったのだ。けれど今は違う。私はすでに悟ってしまった。自覚したその感情に混乱したりはしなかった。だってそれは今まで散々やってきたのだ。今さら騒ぐ必要もないだろう。むしろ安心したといってもいいくらいだ。待ってる間ずっと落ち着かなかったのも。遅刻に腹を立てたのも。顔を見て嬉しかったのも。照れた顔が意外に可愛いと感じたのも。手を繋ぎたいと思ったのも。それを恥ずかしいと思ったのも。全部一つの想いのせいだった。好きだから。愛しいから。触れたい。知りたい。声が聞きたい。笑顔を見たい。そんな欲求が清水のように湧き出てくる。暴力的な衝動じゃない。優しく暖かい気持ちだ。私の心はさっきまであんなに暴れていたのに、今は気味が悪いほど静かだ。なのに以前にも増して強い感情を抱いていた。
「――」ふと会話が途切れた。それがどうしてかはこの際あまり重要じゃない。さっきまでならお互いにばつの悪そうな顔を浮かべて視線を逸らしてしまっていたのだけど。「……」私はじっとアイツの横顔を見詰めてしまう。視線に何やら思うところがあるのか、アイツは少し嫌そうな……というか戸惑うような表情で私にぶっきらぼうな感じに言うのだった。「……なんだよ」「んー?」そしてするりと、こんな言葉が私の口から出た。「アンタって結構、可愛い顔してるわよね」「ばっ――!?」アイツは驚いた顔を私に向ける。心なしか赤くなっているようにも見える。「オマエ、男に向かって『可愛い』は禁句だぞ!?」「思ったとおりの事を言ったまでよ」平然とそう返してやるとアイツは言葉に詰まったようで。何かもごもごと言いかけるのだけど結局はそっぽを向いてしまった。だからそういうところが可愛いんだって。
「……あ」そのアイツの横顔のむこう、いい物を見つけた。私はここぞとばかりにアイツの手を取って、有無を言わさず引っ張った。「ほら、あそこ!」突然の事に戸惑うようなアイツの顔。私は構わず振り返った格好のまま前方を指差してみせた。「クレープ、あそこ美味しいんだ」私の示す先には見覚えのあるピンクのケータリングカー。何度か友達と一緒に食べた事があるクレープの移動販売車だ。珍しい事に今日はいつもと違う場所にいた。そういえばここでもストラップを貰ったっけ。引っ張られるアイツはあまり乗り気ではないらしい。少し嫌そうな顔をして。「オマエ、さっき昼飯食っただろ」それとこれとは別だ。確かに昼食は食べたけれどいくらか時間も経っているし、結構歩いた。何よりよく言うあれだ。「ほら、甘いものは別腹って」「……太るぞ」ぼそっと呟かれた言葉を私は聞き逃さない。美しい弧を描いて私の脚はまるで踊るように旋回しバカの太ももに叩き込まれた。
「ぐっ……おおぉ……」「甘いもの嫌い?」と言いつつ私はそれはないと確信していた。さっきチョコパイ食べてたもん。「いや、嫌いじゃないけどさ……」「けど?」「……高いんだよ」小さく呟いたのは実にアイツらしい理由だった。甲斐性のカケラもありやしない。まったく、ああ本当に仕方ない。「いいわよ、私がおごってあげる」「別にそこまで……」「今日付き合ってくれたお礼。それだけじゃ不満なら、さっきのストラップのお礼も」多分こういう手管に弱いだろうと踏んでの言葉だ。ここまで言われて断れるほどアイツは押しが強くないはず。何せ私のあの一方的すぎる呼び出しにのこのこと現れるくらいなのだから。そして思ったとおり、アイツは空いた左手を挙げて降参を示した。「分かった、了解。そう言うなら断る方が悪い」そんな事を言いつつメニューを見てアイツが指したのはチョコバナナ。絶対値段見て決めたなコイツ。一番安いのじゃあまりに露骨だからっていうのまで見えてくる。でもまあ、そんなつまらない事にこだわるのもアイツらしいと言えないこともないんだけど。
マナーがよろしくないと自覚しつつ歩きながら食べる。出るゴミは包み紙程度だ。その辺にいくらでもあるコンビニのゴミ箱にでも捨てればいい。ゴミ清掃ロボットに向けて投げつけるのはどこぞの夢の国みたいでなんかヤダ。「どう?」「んむ……甘い」アイツは口の端に付いたチョコクリームを舌でぺろりと舐め取り頷く。辛かったら詐欺だ。ちなみに私が頼んだのは苺ミルフィーユスペシャル。生イチゴにイチゴジャム、ストロベリーアイスとイチゴづくしの一品だ。とろけるような甘さと爽やかな酸味とがマッチした一種の芸術品。秋空の下でアイス入りはちょっと寒かったけど、それはそれでオツなものよね。なんだか食べるのがもったいなくて、でもアイスはほっとくと溶けちゃうなとか思いながらちびちびと啄ばんでいると横からの視線を感じて顔を上げた。「……食べる?」ぼーっと間抜け面を向けるアイツに私は手に持ったクレープを差し出す。するとなんだか困ったような顔をして、それから少し迷った後、アイツは「それじゃ……」と遠慮気味にかぶりついた。そうしてから気付く。間接キス……ってもう気にしても遅いけど。
「どう?」「……甘い」「アンタそれ以外に言えないの?」少し呆れてしまって、でもそれがどうにも可愛く思えてしまう。私はアイツが口を付けたところに努めて意識しないようにしながら噛み付く。なるほど、確かに甘かった。なあ、と呼ばれてアイツの方を見る。私の口はクレープを咥えたままだ。慌てて咀嚼して飲み込んだ。「もぐ……なに?」尋ねるとアイツは何だか困ったような躊躇するような顔で少し視線をさまよわせた後、目を逸らしたまま右手のそれを差し出してきた。「あー、その……食べるか?」一瞬動きが止まりそうになった。なるほど、確かにこれは……うん。驚愕と困惑と、それから期待と少しの役得。そんなものが頭の中をぐるぐると回る。そして結局、私は小さく頷いてアイツの持つクレープを小さくかじった。「どうだ?」「……甘い」そうは言うのだけど、実際のところ私には味なんてろくに分かっちゃいなかった。
当て所なく街をぶらつく。でもそれでいい。目的なんてなくたっていいじゃない。おしゃれなお店に入らなくてもいい。綺麗な夜景なんて必要ない。ゲーセンとかカラオケとかで騒がなくたって何の問題もない。本当のところ、究極的にはそれ以外に何一つ必要ない。デートってのは要するに口実だ。現に私がいい例で、本人がそうと自覚しなくてもデートになりうる。今まさにこの状況。重要なのは私の隣にアイツがいるという事実だ。日は既に傾きかけ、どこか寒々しい気配が頬をなでる風に感じられ始めていた。まだ夕方と呼ぶには早いけれど、じき暗くなる。そんな時間帯。でも休日の街はその程度のことで活気は失われない。どこもかしこも人が溢れているようで、まるでお祭り騒ぎだった。いや、何かイベントがあるんだっけ?そんな雑踏で埋もれた視界の端を。見覚えのある不自然な感じに跳ねた髪の毛を生やしたぶかぶかの白いシャツと、それを追いかける頭に花瓶を乗せたようなセーラー服が掠めた気がした。「どうした?」「……なんでもないよっ」全力で見なかった事にした。うん、今日ばかりは邪魔されたくない。どこか遠いところで幸せになってもらおう。
ひゅう、と一際強い風が一陣吹き抜けた。季節はずれとも思える冬の匂いのする冷たい風。ついこの前まで暑かったあの夏の気配は一体どこへ行ってしまっ――。「へくちっ」気力を振り絞って精一杯可愛らしくくしゃみをした。取り繕うのも大事だ。何より乙女ポイントが下がってしまう。私まだ十四歳だもの。でも堪えられなかった時点で私の負けなのかもしれない。お人よしのアイツが反応しないわけがないのだ。「おいおい、そろそろ寒くなってきたのにそんな格好してるから。センセーに見つかって怒られても知らないぞ? オマエ、ただでさえ有名人なんだから」アイツの言葉に少しだけいらっとする。普段着慣れない私服姿なのは外でもない、アイツがいるからだ。未だに可愛いとは言ってくれないけど、それにしたって他に言い方はあるじゃない。でもすぐに私の苛立ちは納まってしまう。アイツの言葉は私を心配してくれたものだ。こんな時に嫌味を言えるほど器用ともきざったらしいとも思えない。だから私は茶化すように返した。「しーらない。たまにはいいでしょ?」
そう、たまには、だ。うちの学校は校則が厳しい事で有名で、休日の外出にも制服の着用を義務付けるほどの超が付くお嬢様学校。バカバカしい、時代錯誤だとも思うが守らないと長いお説教と面倒極まりない反省文と苦行じみた罰則があるので破る子はそうそういない。まあ今の私みたいに極々稀に、こっそりとやってる子はいないでもないようだけど、無菌室で純粋培養された生粋のお嬢様方はお行儀がいいのでほとんどが遵守している。 だから私みたいなのが目立つのだけど、こうして雑踏の中に紛れてしまえばそうそう気付かれない。アイツが私に気付かなかったように、いくら有名人だからといってもいつもと違う格好をしてれば意外にばれないものなのだ。大抵の人には私は制服とセットで認識されてるだろうし。それにこれは……デートなのだから。私だって女の子だ。そういうときにこそおしゃれをしたいと思うし、何よりこれは私以外の人の手も入ったものだ。そういう意味でも私はこの服を着ていたいと思う。結局のところそんなものも建て前なのだけど。ようするに私はアイツの前でなけなしのおしゃれの口実が欲しいだけなのだ。そんな私の思惑にアイツは気付くはずもないのだけど、それと行動とは別問題だ。「仕方ねえなぁ……」アイツは何か少し考えた後、そう言ってばさりと――着ていた学ランを後ろから私に被せた。「え――」予想外の出来事に私はとっさに反応できなかった。固まる……と、そういう表現がまさしく正鵠を得ていた。あまりの事に私は歩いていた足を止めその場に棒立ちになってしまう。アイツはそのまま数歩前に行き、私が立ち止まっているからなのか振り返り――でも目は逸らしたままぶっきらぼうに言った。「俺のせいで風邪ひいたーって言われても困るからな。それ着てろよ」本人に確認を取るまでもない。だって見ただけで分かるじゃない。声も少し上ずっちゃってるし。
「……ちょっと格好つけすぎじゃない?」そう、キザったらしいにもほどがある。こんなの漫画でしか見た事ない。ベタで、チープで、その上まったく似合わない。でも、ね。私はそれが嬉しくて仕方ないんだ。「オマエに言われたくねーよ」少し声を荒げて一瞬私を見るのだけどやっぱりすぐに目を逸らす。そんな風に照れるアイツの横顔がどうにも可愛くて、私はついついからかってしまうのだ。「ん? 何々? いつもと違う私にちょっとドキっとしちゃった?」「うっせーよバカ」……バカって言ったなこのやろー。「あれー? もしかしてアンタ、照れてんの?」ニヤニヤと笑みが浮かんでしまうのを自覚しながらアイツの前に回り顔を覗き込んでやる。口元を手で隠すようにしていて表情ははっきりとは分からないのだけど、それだけじゃ耳が真っ赤なのは隠せてなかった。
「うっせーよ! ちくしょう、返せよ!」伸ばされた手をひらりとかわして、それからちょっともったいなかったかなと正反対の事を頭の隅で考える。「やだよーだ」とん、と軽やかに着地し舌を出してやった。普段やるにはそうとう勇気のいる仕草だけどアイツに対抗するにはこれくらいでちょうどいい。肩にかけただけの学ランからは、ほんの少し汗の匂い。でも不思議と嫌じゃない。なんだか……うん、男の子の匂いだ。それに直前までアイツが着ていたからだろう、私のものではない暖かな温もりがまだ残っている。(うーん……さすがにこれはちょっと、自分でもどうかと思うけどさ。浮かされすぎじゃない?)自分でもあまりに乙女チックな妄想だとは思う。でも――まるでアイツに優しく抱き締められているような、そんな気さえして。「くそ、せっかくジェントルな事してみれば……不幸だ……」「……えへへ」その上いつものようにそんな事を呟くアイツが何だかとても愛しくて、私はついつい破顔してしまうのだった。
その時、私の耳にかすかな音色が届いた。「……?」きょろきょろと辺りを見回してみる。辺りは相変わらず人混みで溢れざわめいている。でもそんな中を確かに音は私の耳に届いていた。音楽だ。通りに面した店舗から聞こえてくるものではない。どころかスピーカーを介したものじゃない……生きている音だ。「あっ……」見つけた――。「ん?」不思議そうな顔を向けてくるアイツに目配せして、私は音のする方にゆっくりと歩いていった。音はギターと、そして歌声だった。雑踏に紛れるようにして、道の片隅の花壇に腰掛けギターを爪弾いている女性がいた。たまに駅前や地下街なんかで見かけるあれだろうか。ストリートパフォーマンス的なやつ。でもその人の前には足を止める人もなく、だからといってそれを気にしているようでもない。単に弾きたいから、歌いたいからそこにいるような、そんな気がした。まるで世界から切り取られたよう。そこだけが映画のワンシーンみたいだった。……だからだろうか。私は彼女の邪魔にならないように少し遠巻きに足を止めその歌声を聴いていた。
アコースティックギターの音色に合わせて澄んだ歌声が響く。歌は英詩だった。友達に向ける歌。私はここにいるよ、あなたのそばにいる、苦しい時は名前を呼んで、寂しくないよ――そんな歌だ。でも私には少し違う意味に聞こえた。歌の中の『私』が私に被る。まるで私の思いを代弁しているように聞こえた。そして同時に――歌が私を勇気付けてくれているようにも思えた。辺りは相変わらず人が多く賑やかだ。でも私たちの立つほんの数メートル程度でしかない部分はそれらから切り離された別の場所に思えてしまう。スポットライトでも当てられているような感覚。私たち二人だけがまるで世界の中心だった。どこにでもあるような量産型の恋愛漫画。オリジナリティもなければひねりもない。小粋なセリフの一つもない。でもきっとその主人公は私だ。これは私だけの物語。そう。アイツの前では、私はただの――恋する少女。特別な力なんて必要ない。重要なのは私の胸にある確かな想い。ただそれだけでいい。だって恋する女の子はいつだって、恋物語の主人公なのだから。はにかんだ笑みを向けてやるとアイツはそっぽを向いてしまう。うん、今はそれでいい。だけどお願い。わがままだとは思うけど、聞いてくれないかな。今日はもう少しだけ私に付き合ってちょうだい。
陽の色と共に街の色が変わりつつある。青空を写していたビルの窓ガラスは反射する光をだんだんとオレンジに変化させていった。時間のグラデーション。単なる大気の起こす光の変化だとは分かっていても柔らかな光はどこか幻想的で、同時に哀愁を誘う。それはまだ小さかった頃。夕日はお別れの合図だった。暗くなる前に帰らなければいけない。それがどうにも許せなくて、沈む太陽を恨むなんて事もあった。お天道様からしてもいい迷惑だ。でも、また明日会えるとは分かっていても名残惜しいのには変わりない。いっそこのまま時間が止まってしまえばいいのに。そう思った事もあった。でも時間は止まらない。その流れは不可逆な一方通行。たとえ神様にだってどうにもできないものだろう。「――で」アイツの声に私は足を止め、振り返った。ざあ、と風が吹き河原に生える背の低い草が啼いた。目の前を流れる川はビルの壁面と同じ色をしている。あと少しもすれば鮮やかなオレンジ色にきらめくだろう。遠くでモノレールが橋を通過する時の重々しいくぐもった音が聞こえてくる。「なんなんだ、こんなとこに連れてきて」そう言うアイツはやっぱりちょっと寒そうで、でも私は借りた上着を返す気なんてさらさらなかった。「そうね……」私は一瞬、アイツにどんな顔をすればいいのか迷って――結局、苦笑してしまった。「あえて言うなら、いい加減に決着をつけようかなってトコかしら」自分でもこれは苦笑するしかないって思う。要するに私はらしくない感傷に浸っているのだ。
小さく光が舞い、ぱちん、と空気が爆ぜる。「私がアンタを呼び出した意味、分かってる?」そう、これこそが私の目的。アイツを呼び出した理由。デートなんてのは後付け設定でしかなくて、私は最初からこうする事しか考えてなかった。「ここなら周りに迷惑かかんないし、いいでしょ」思えば初めて会ったあの時から私はアイツに惹かれていたのかもしれない。あの日、あんなバカみたいな状況にいきなり割り込んできて、そのままずかずかと踏み込んできたアイツ。事あるごとに私の前に現れ、その度に私の心を引っ掻き回していったアイツ。私がバカやりそうになったあの瞬間、私の前に現れて説教してくれやがったアイツ。平手とか生易しいものじゃないのを甘んじて受け止めてまで諭してくれたアイツ。それ普通は立場が逆じゃないってのに泣いてる私に笑ってくれたアイツ。あの最悪に徒手空拳で真っ向から啖呵を切って、その上とんでもない事に殴り飛ばしやがったアイツ。多分、最初から。でもあえて言うなら、あの日。あの時の私はきっと悲劇のヒロイン病に酔っていて、勝手に自分に都合のいいストーリーを描いていた。「私一人が犠牲になれば」とか「これ以外に方法がない」とか勝手に決め付けて、それが正解とも上手く行くとも限らないのに。とても傲慢。私は自分の筋書き通りに事が進んでくれると思い込んでいて、他の全ての人たちの意思をないがしろにしていた。そのまま死んでいたらさぞや清々しかっただろう。自己陶酔に塗れたままに私が主人公の物語は悲劇的に幕を閉じる。『全米が泣いた』とか煽り文句をつければ完璧だ。そんな自分に酔った私を叩き起こしてくれたのはアイツだった。
まるで子供騙しなお話のヒーロー。お陰でそれは悲劇じゃなくなってしまった。主人公は私じゃなくてアイツ。それにご都合主義ならアイツの方が何枚も上手だった。なんたって文字通りの最強を素手で殴り飛ばしてしまったのだから。アイツのお陰で私の晴れ舞台はぶち壊し。主役の座まで持っていかれてしまった。それについては今となってとやかく言うつもりはない。だって冷静に考えてみればどう考えたってバカは私だし。ま、何が言いたいかっていうとですね。あんなかっこいいヒーローに、ヒロインが恋に落ちないはずがないのよ。本当にベタな展開。王道パターン。ありきたりすぎてもはや当然。常識。公式でもいい。でも私は――それでいいと思うんだ。どんなに下らなくても。どんなに不格好でも。面白くも何ともなくても。私はアイツが好きだから。その一言以外に重要なものはない。超能力だとか、名門お嬢様学校だとか。そんなラベルは関係ない。アイツはそんなもの気にしないし、何よりそんな下らないものはこの場において必要ない。虚勢も虚栄もアイツの前では必要ない。この瞬間になって初めて私はその事を悟った。そう。何も難しい事を考えず、素直にいればいいのだ。でも、最後の最後にもう一回だけ。本音を隠させて。「――勝負よっ!」
やっぱりこういう展開じゃないと締まらない。私とアイツの関係は、結局のところ犬猿の仲って奴。私がこうしていちいち食ってかかってるだけなんだけどさ。その時のアイツの顔は本当、笑っちゃうくらい間抜けで。その後の台詞も容易に想像できてしまった。「あーもう! 今日はずっと平和な雰囲気だったのにどうしていきなりそうなるんですかー!?」仕方ないじゃない。私は最初から、このつもりだったんだし。迷惑だよね。理不尽だよね。不条理だよね。面倒な女だって自分でも分かってる。自分でもバカだと思う。だけど私にはこれ以外に上手いやり方が思いつかない。でね、アイツはやっぱりこう言うんだけど。「不幸だー!」私はきっとこの瞬間、幸せだった。私だけを見て、私だけを考えてほしい。そう思ってしまうなら、その手段はさておきこういう場面は私の願いに合致している。アイツには悪いけどさ。「いいじゃない。今日一日私に付き合ってくれたんだから、もう一個くらいわがまま聞いてよ」そう、これは私のわがまま。自分本位なただのじゃれあい。アイツは言うとおり私に付き合わされているだけだ。そしてその結末は予定調和だと分かっている。だってアイツはヒーローで、古今東西ヒーローが負けるはずないのだ。
「勝負してくれないと、これ返さないからね」私はアイツに借りた上着の裾をひらひらと示す。理由付けには弱すぎるとは思うけど、きっと名目くらいにはなる。だから。「はあ……たまには平和な日常が送れると思ったんだけどなあ……」だから、お願い。「分かったよ。それで気が済むってんなら――」これが私のわがまま。悪いけど、ね、お願い。付き合ってよ。バカな小娘の下らない妄想なんてぶち壊して。頭を一発殴って目を覚ましてやってよ、ヒーロー。「――相手になってやる」そして、そう帰ってくるのも計算済み。アイツが嫌と言わない事を確信していた。私は全部打算の上でこの状況を引き出した。本当、最低だ。でも私はこういうやり方しかできないんだ。ごめんね。アイツの一番不幸なとこは。「いつでもいいぜ、かかってきな」こんな私に好かれちゃったって事よね。
「言われなくても――」ばちん、と空気が悲鳴を上げた。先ほどよりも大きな、眩い閃光が生まれる。私の周りを白い光の帯が舞う。それは私の想いの塊だ。身を焦がすほどのしびれるような想いの具現。「私はこの時を――待ってたんだから――っ!」叫び、それを思い切り打ち込んだ。じゃれあいには過ぎる力の塊。でもそれはいつもの事で。ガラスが砕けるような甲高い音と共に、私の放った雷の槍は打ち砕かれる。余波に土煙が舞い上がりアイツの姿を一瞬覆い隠すが風にすぐ流されてしまう。その中から再び現れたアイツは案の定というか何というか、やっぱり無傷だった。「やっぱり効かない、か……」右手を前に突き出すようにして雷撃を受け止めたアイツの視線は私を向いている。半ば睨みつけるような目。やだな、そんな顔しないでよ。もっともそうさせたのは私だし、アンタのそういう愚直なところも好きだけど。「それなら……」意識を集中させて磁界を操る。これは使い慣れてないけどそんな事で何か失敗するとかそういう事はない。これでも優等生だ。小手先の技術も必要。何より単調な攻撃はアイツにまったく通用しない。ざあっ、と砂埃が舞い上がる。風はあるけれどあまりに不自然な現象。当然だ。それは私の手によるもので、自然現象なんかじゃ断じてない。それにこれはただの砂埃じゃない。
「……は? 何?」呟くアイツの目の前で舞い上がった砂鉄は私の手元に集まり一直線に棒状を形作る。「ちょっ……! オマエ、得物使うのはずるいんじゃない!?」慌てたような声を上げるアイツに誇示するように、形成した砂鉄の剣を右横に一度振り私は言う。「能力で作ったものだもん」磁場を操る能力は、砂鉄を操る能力と言い変えれなくもない。詭弁に近いけど間違っちゃいないでしょ。舞い上げられた砂鉄に巻き込まれたのか、宙を踊っていた木の葉が一枚ひらりと降りてくる。引き寄せられるように私の持つ砂鉄の剣の上に舞い降り、そのままちりちりと小さな音を立てて二つに裂かれた。「げっ」アイツが息を呑む声が聞こえた。「砂鉄が振動してチェーンソーみたいになってるから」私はそのまま砂鉄の剣を両手で握るように横に構え、駆け出した。「触れるとちょーっと血が出たりするかもねっ!」
「って、どう考えてもそれじゃ済まないと思うんですけどっ!?」うん、私もそう思う。でもどうせ効かないじゃん。中学生の足でもこの距離は即座に詰められる。剣道なんてやってないし、どうにも不格好で単調な大振りで砂鉄の剣を振り回す。でもその点アイツは多少ケンカに慣れているのか、面食らいながらもきっちり避けてくれる。華麗に、とはいかないけどさ。転げるように逃げるアイツを追いかけるのは多少爽快でもある。でもこれは別にアイツを虐めてるわけでもやつあたりしてるわけでもないし、私はさらに次の一手を打つ。「ちょこまか逃げ回ったって……」砂鉄の剣を振り上げその形を変化させる。ぐねりと直線が歪み捻じ曲がる。イメージは鞭。それも私の思いのままに動く意志を持った蛇だ。「コイツにはこんな事もできるんだからあっ!」気合い一閃、掴んだ端を振り払い、その先端を打ち込むように伸ばした。高速で唸る砂鉄の鞭は私の意志どおり背を向け距離を取ろうと走るアイツに向かって一直線に襲いかかる。「剣が伸び――!」気配を察したのか振り返ったアイツの驚く顔が見えた。タイミングは完璧。この一撃はあの体勢ではどうやっても避けられない。
だけど。「くっ……!」アイツは回避しなかった。どころか、そのまま体を百八十度転換させて真正面から受けて立つ。そして砂鉄のうねりに合わせるように右手を伸ばし、その掌を砂鉄の突撃に打ち合わせる。またあの甲高い音。同時に鞭は分解されたように飛散して、そのまま私の手元まで一気に崩れ落ちた。能力の干渉を打ち消されて強制的に砂鉄に戻された、そんな感じがする。私の制御下を離れた砂鉄は夕風に乗り煙のように流されてしまう。内心ではかなり焦っていたのだろう。っていうか顔に出てる。なんか「あぶねー」とかそんな声も聞こえた気がするし。不敵な笑みを浮かべてるけどいまいち迫力に欠ける。「し、勝負あったみたいだな」いっそ今この時が永遠に続けばいいとすら思う。でも私は諦められない。負けず嫌いだと言われてもいい。実際ただの悪あがきにしか見えないだろう。分かってるわよそれくらい。だけどこれで終わりって、いくら何でもあんまりじゃない。せめてもう一手くらい打たせてよ。「さあ……それはどうかしらっ!」びり、と私の周りを一瞬雷光が閃く。それに呼応するように風に巻かれ散った砂鉄が再び息を吹き返した。
「オマエ……風に乗った砂鉄まで……!」何を驚いているんだ。私の能力は電流や、そして磁場を操る事で、アイツの目には見えない磁界や電磁波が辺りを取り巻いている。ペースメーカーでも使ってる人がいたら一発なこの場、周囲の金属は全て私の意志のままに動かせると言っても過言ではない。ま、ある程度狙いは絞ってるけど。じゃないと携帯とかダメにしちゃうし。ごうごうと唸りを上げ風を生みながら砂鉄はアイツの上空に舞い上がる。それはまるで巨大な蚊柱。先ほどの一撃とは比べ物にならない砂鉄の奔流だ。正直人に向けるにはあまりに殺傷度が高すぎるけど、でもだからといってアイツにまったく通用しない事くらい分かってる。「こんな事、何度やったって同じ結果じゃねえかっ!」お願いだからそんな事言わないでよ、ねえ。黒い渦が崩れ空気を切り裂いて突撃する。襲い掛かる砂鉄の大軍にアイツは一歩も退かず、真正面から睨みつけて迎え撃つ。構えた右手のタイミングを合わせ、まるで打ち払うように振り抜いた。激突の瞬間またあの音。砂鉄の流れは飛沫を上げるように砕かれ力を失い、ばらばらと舞い落ちてゆく。そして私は、アイツの死角から至近距離に飛び込む。砂鉄は囮、本命はこっちだ。伸ばした手が振り抜かれたアイツの右手を握る。シチュエーションは違うけど今日何度も繰り返した行為。全然ロマンチックじゃないけど、私は思わず少し目を細めてしまう。電撃も砂鉄も通じない。でも接触してゼロ距離で電流を流せば。――でも、それが通用しない事なんて分かってる。
ああ、やっぱり。アイツには敵いっこないんだ。だってアイツは無敵のヒーローで、私程度の小娘にどうにかできる相手じゃない。――だからって、ねえ、いくらなんでもこれはあんまりだ。電流? 流すわけないじゃん。だって手っていうのはこうするためにあるのだから。下手な演技はもうやめよう。私は掴んだ手を引いて、そして。「――つかまえた」そのままアイツを背中から抱き締めた。
ああ。ああ、ああ――。やっと私はこの手の中にアイツを捕まえられた。びっくりした? こんなの台本にないもんね。だってこれは完全に私のアドリブ。自分でもそうしようなんて思ってなくて、でも思わず体が勝手に動いちゃったんだ。だから、ね、許して。「――オマエ」やっぱりアイツは凄い。私なんてもう耐えられないもん。「もしかして……泣いてるのか」……答える代わりに私はアイツを抱き締める腕に力を込めた。
いくらアイツが鈍感だからって分かるだろう。だってアイツを抱き締める腕も、体も、吐息さえも震えている。こんな顔見せられるはずがなくて、私はアイツの背中に顔を埋めた。振り向かないで。きっと私は今、凄い不細工な顔をしている。「なんでオマエが泣くんだよ……」うん、普通分かんないわよね。さっきまで談笑してたと思ったらいきなり勝負を吹っかけてきて、挙句の果て抱きついてきてトドメに泣き出すんだもん。私がアイツと同じ立場だったとしても分かるわけがない。「なんで……どうして……っ!」問いに問いで返すのは反則だと思うけど。私は絞り出すように、震える声でほとんど叫んでいた。「どうして――」今ならまだ間に合う。この一言を言ってしまえば全部が台無しだ。でも私は気付いてしまった。下らないとは言わない。それが何より大切なのは分かるけど、でも。――茶番劇はお終いにしよう。ね?「どうしてまた――同じ手に引っかかるのよ――!」……答える言葉はなかった。
「ほら」声に俯いていた顔を上げると、目の前にアイツの手があった。ぶら下げてるのはレモネード。一体どこに行ったのかと思ったら。何よ、お金ないくせにさ。「それでよかったか?」「……ありがと」両手でそれを受け取る。あったかい。少しかじかんだ手でプルタブを開けて口を付けると甘酸っぱい味が口の中に広がる。ゆっくりと飲み込むと熱が喉を通り過ぎて、それから胸元がほんのりと温かくなった気がした。「少しは落ち着いたか?」そう言うアイツこそ内心穏やかじゃないだろうに。ベンチに座る私の隣に腰を下ろし同じように缶を開ける。ミルクココア。一口飲んで、「あち」と小さく舌を出した。その仕草が何だか妙に子供っぽくて可愛くて、私は思わずくすりと笑ってしまった。「……うん」両手で暖かいレモネードの缶を膝の上に置くように持ち、私は視線を上げる。空はそろそろ赤くなってきている。夕日に照らされた公園は私とアイツの座ったベンチ以外に人影がない。表通りの喧騒も遠く、風に木の葉が揺れるさわさわという音が何だか凄く寂しげだった。
「どうして気付いた?」呟くように投げかけられた問い。私は視線をそのままに同じように返す。「この間の電話。繋がったままだったの」正直に答えた。「あちゃ……そりゃあつまんねーミスしたもんだな」口調は軽く、顔も笑っているけれど、その笑顔がとても悲しそうに見えてしまう。あの時、アイツが誰と会話していたのかは知らない。会話の内容もいまいち理解できなかったし、そもそもなんでアイツがあんな場所にいたのかも分からない。でもたった一つだけ、私にも理解できる事があった。記憶喪失。アイツは過去の記憶を失っている。漫画やドラマの中で、架空の物語の内でしか知らなかったそれがすぐ身近にあった。どうやら実在するらしいって事は知ってたけどにわかには信じがたい事実だった。だってそれはその人の過去を全否定されているようなもので、今まで生きてきた証を失う事と同じだ。両親の顔も知らず、友達の声も分からず、自分の名前すらも覚えていない。喪失の程度はよく分からなかったけど、私は直感的に『全部』を失ったのだと確信していた。それがどれほどのものなのか――私には想像もつかない。何も知らず、何も分からない。唯一味方だろう自分すらも不確かで、そんな状況で一体何を信じていいのか。
「答えたくなかったら答えなくていいわ」隠していた部分に踏み込んでおきながら虫のいい事を言っているという自覚はある。でも私はどうしても聞いておきたかった。一呼吸おいて、私は横に座るアイツを見る。「いつから?」私の問いにアイツは少しだけ考えて、それからゆっくりと悲痛な笑顔を私に向けた。ごめん。ごめんね。そんな顔しないで。「……夏休みの初め。七月末」ああ、やっぱり。多分それくらいだろうなと見当をつけていたのと合致した。ちょうどその頃とある事件が起こっていたのも私は知っている。多分それにもアイツは一枚噛んでるんだろう。普通に考えたらありえないんだろうけど、時期が一致している以上切り離して考えるなんて不可能だった。そういえば私のいる学校の寮でイベントがあったとき、どうしてかアイツがいたっけ。あのとき妙によそよそしかったのは、やっぱり。でも、だとしたら。「じゃあ何。アンタ見覚えもない相手のために体張ったっての?」
あの日、忘れもしない八月二十一日。ほとんど初対面に等しい相手、それも第一印象は最悪だろうに。ああ思い出した。『アイツ』が初めて私と会ったとき、いきなり電撃ぶちかまして、その上自販機に回し蹴りを叩き込んでしまった。恥ずかしいなあ。いくら知らなかったからっていってもあれは何か色々ダメじゃない?そんな最悪な出会いだったにもかかわらず。アイツはボロボロになってまで私を諭してくれて。その上死ぬかもしれないっていうのに――。「――バカ」私はこの期に及んでそんな悪態をつくんだけど、本気でそう思ってなんかいないって事くらいアイツにも分かるはずだ。でもやっぱりちょっと怒ったのか、アイツは私に少し険しい顔を向ける。「バカってオマエ――」「だってそうじゃない。敵うはずもない相手の前に、勝算もなしに飛び出しちゃうんだもん」もっとも、バカっていったら私の方がバカなんだけど。バカの中でも大バカだ。バカに付ける薬はないとかバカは死ななきゃ治らないっていうけど、本当に救いようのないバカだった。でもそんなバカを救ってくれたのは他でもないアイツだ。
神様でも何でもない、どこにでもいそうな少年。人よりちょっと運が悪くて、ちょっと特別な力を持っていて、ちょっと面倒な事を抱えてて、人がよくて、鈍感で、でも妙なところだけ聡くて。そんな、どこにでもいそうな男の子。でも代わりなんていない。私を救ってくれたのはアイツだ。私が好きなのは……アイツなんだ。「なんで会ったばかりの相手のためにそこまでできるのよ……」本当に不思議で仕方なかった。言ってて悲しくなるけれど、それは事実だ。アイツにとって私は特別じゃない。元々がそういう仲でもないし、どちらかというと逆だろう。いいとこケンカ友達。記憶を失ったからといってそれは変わらず、どころかアイツにとっての私は『知らない人』まで墜ちてしまった。他者との関係において一番辛いのは嫌われる事でも憎まれる事でもない。忘れられてしまう事。それは相手との関係の全否定。仲のいい友達でも嫌いな奴でもいい。それにある日突然「誰だっけ」と言われたら。無視どころじゃない。無視っていうのは意識しての無反応だ。でもそれすらもなくて、完全に無かった事にされてしまったら。どんなに言葉をぶつけようとも「知らない」で終わり。感情のベクトルは行き場を失ってしまう。だからアイツは隠していたのだろう。誰も傷つけないために。アイツは優しい嘘をついてみんなが幸せになれる道を選んだ。
でもそれはたった一人が全部の不幸を背負う事と同じだ。知らない。誰だっけ。そう思ってるのは他ならぬアイツ自身。周りみんなが知っているのに自分だけが知らない。それでも知ってる振りをしなければ。失敗は許されない。そうしてしまえば誰かが泣いてしまうから。だからアイツはまったく知らない人たちの中でひたすら自分を演じ続ける。でもそれが本当に自分なのか分からない。誰も指摘してはくれないし、誰かに聞くこともできない。自分が演じてるのは本当に自分なのか。自信はないのに続けなければならない。自分なんだから素のままでいいはず。でも素の自分って何? そもそも自分って何だ……?一歩間違えば発狂してしまいそうなその状況。なのにアイツは間違いなく完璧にこなしていた。その上私まで気にかけてさ。とてもそんな余裕ないはずなのに。「なんでって……だって」なのにアイツは。それがさも当然であるかのように言ってしまった。「オマエ、今にも泣きそうな顔してたじゃん」「――」言葉を失った。アイツ自身は嘘の塊だってのに、アイツの言葉には一片も嘘がなかった。そう。たったそれだけの理由でアイツは誰かのために戦える。アイツはそういう奴だった。きっとそれは記憶を失う前も変わらない、根っこの部分のアイデンティティ。不幸だ不幸だって言うアイツはきっと誰よりも幸福の意味を知っていて、理不尽な不幸のせいで誰かが泣いてしまうのを許せないんだ。
でも、それは。「そんな理由で頑張って……余計に辛くなるだけじゃない」アイツは誰かのために頑張って、必死になって戦って、誰かの不幸を打ち砕くのだろう。誰かさんは不幸ではなくなるだろう。誰かさんは喜ぶだろう。誰かさんはアイツに感謝するだろう。よかったね、誰かさん。でも誰かさんが感謝するのはアイツじゃない。アイツが被っているアイツ自身の仮面に向かってだ。アイツを見ているはずの目は、どれもアイツを見ていない。アイツの被ってる仮面を見ているだけだ。誰かが笑いかけてもそれは仮面に向けられたもので、アイツに向けられたものじゃない。「頑張れば頑張るだけ辛くなるなんて……」どれだけ頑張っても、どれだけ必死になっても、どれだけ傷ついても。アイツは一片たりとも報われない。誰かさんが笑ってくれるならそれでいいとアイツは言うだろう。でもそんなのは悲しすぎるよ。「そんなのあんまりじゃない……!」
それまで必死に頑張ってたのにとうとう涙がこぼれてしまった。泣き顔なんて見せたくなかったのに。でも一度溢れてしまったものは止められない。私は必死に自制心を総動員して叫びたいのを堪えて、でもほとんど叫ぶみたいに言葉をぶつけてしまう。「誰もアンタを見てないじゃない……!」どれだけ辛かったか。どれだけ苦しかったか。吐き出すことすら許されず、ずっと隠し抱えていなければならない。誰も傷つけないために、ずっと嘘をつき続けて。「アンタはそれでいいのかもしれない……!」何も信じられるものがない世界、たった一人ぼっちでずっと戦っていたんだ。誰よりも苦しいはずなのにアイツはずっと笑顔で。その上、私みたいなバカ娘を救ってくれた。傷ついて、ボロボロになって、なのに立ち上がって。そうさせたのは私だって事くらい重々承知している。でも、だからってあんまりだ。アイツは悪い事なんて何一つしてないはずなのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならないんだ。「でも、でもそれじゃあ……!」もしこの世界に神様っていうのが実在したとしたら、ソイツはとんでもなく性悪に違いない。だっていくらみんなのために頑張っても、どれだけ必死になっても。それじゃアイツは絶対に報われない。だって誰一人としてアイツの行いを知ってる人はいないんだから。ああ、なんて悲しい一人芝居――。「いつまで経ってもアンタは救われないじゃない……!」
「……」私はもう言葉を続けられなくなって、俯いて必死に涙を堪えるしかなかった。最悪だ。勝手にわめき散らすだけわめき散らして後は泣いちゃうんだもん。卑怯すぎる。これじゃアイツは何も言えなくなってしまう。いやだ。いやだ。私のせいでアイツが悲しい顔をするのだけはいやだ。怒られたっていい。嫌われたっていい。でも悲しませるのだけは絶対に……!「いやだ……」声が出た。「そんなのいやだ」震えてるし、凄く小さい声だ。「置いてかないで」でも私はまだ声を出せる。言葉を紡げる。顔を上げられる。涙を堪えられる。アイツの顔を見る事だってできる。「突き放さないで」ぐいっと袖で目を擦って、多分真っ赤になってるだろうけど私は真っ直ぐにアイツを見詰める。怖いよ。拒絶されたらって思うと凄く怖い。でもね、これだけは言わないと。「それがアンタの優しさだって事は分かってる。でも私じゃダメなのかな。私じゃアンタの力になれないのかな」まだ私には伝えてない言葉がある。
「どうして――」……ああ。やっぱりアイツはバカだ。ここで、この場面でこんな言葉が出てくるあたり掛け値なしの本物のバカだ。鈍いにもほどがある。そんなの決まってるじゃない。「好きだから」その言葉は思ったよりもすんなりと口から出てくれた。「好きな人の力になりたいって理由じゃダメかな」私はまったく照れたりせずに、むしろ誇らしげにそう言った。私が好きな人は、強くて、優しくて、誰かのために必死になれて、そしてとても悲しい人。「私はアンタに救われたよ」だからこそ私は。「だから今度は、私がアンタの力になりたいの」
アイツの瞳に映る私はどんな顔をしていただろう。アイツはしばらく私の顔を見ていて、ゆっくりと目を瞑り、しばらく何かを考えた後、またゆっくりと目を開いた。アイツはなんだかとても真剣な表情で、でも私にはなぜだかどこか悲痛なものを堪えているように思えた。アイツの瞳は揺れていた。だって今までずっと嘘をつきとおしてきたんだ。騙してきたといってもいい。きっと不安で、怖くて仕方なかったんだと思う。でもやっぱりアイツはアイツだった。「――聞いてくれるか」答える代わりに手を伸ばし、触れたアイツの手は冷たかった。大丈夫。怖いなら私が手を握っていてあげる。不安なら笑いかけてあげる。だから安心して。私が傍にいるよ。「……ああ」優しく握り返してくる。瞳はもう揺れていなかった。アイツは深呼吸を一つして、それからゆっくりと口を開いた。
辺りはすっかり夕日の色に染まり、なんだか世界が燃えているようだった。公園に茂る木々の上から覗くビルの屋上で風力発電のプロペラが回るたび、きらり、きらりと光を反射して輝いていた。左手が持つレモネードの缶はもうすっかり冷めてしまっている。でも反対側、右手の握るアイツの手からは冷たさが消え、人肌の温もりが伝わってくる。しばらくお互いに無言の後、アイツはゆっくりと息を吐いた。まるで今まで心の奥底に溜まっていたものを吐き出すように、深く。アイツは今までずっと隠し続けていた全てを私に洗いざらいぶちまけた。正直なところ鵜呑みにするなんてできるはずもないようなとんでもない内容だったし、多分その十分の一も正しく理解できていない。たった三ヶ月ちょっとの間の出来事なのにアイツの話は違う世界のもののようで、現実味なんてこれっぽっちもなかった。でもきっとそれが真実。「……やっと」小さく呟かれた言葉に思わず私は握る右手に力を込めた。「やっと……言えた……」それは心の底からの言葉だったのだろう。アイツはまるで憑き物が落ちたような顔をしていた。悲しみとか苦しみとか、そんなのが一緒になって複雑な色をしていたけど、それでもどこかすっきりしたような顔だった。「ずっと言いたかった」うん。苦しかったよね。アイツは人がいいから、ずっと嘘をつき続けるなんて凄く苦しかったはずだ。「ずっと謝りたかった」うん。辛かったよね。アイツは人がいいから、ずっとそんな自分を許せないでいたはずだ。でもね。
「いいよ」私は左手に持っていた缶をベンチの上に置き、右手を握るアイツの手に重ねた。「お願い。胸を張って。アンタは何一つ悪い事なんてしてないじゃない」「でも……」でも。アイツは罪悪感から逃れられないだろう。変なところで強情で、頑固なんだから。だけど私は、アイツの力になりたいと、そう思ったから。「もし仮に、嘘をついて隠してきたのが悪い事だって言うなら――」私が。「――私が許すよ」私じゃたかが知れてるけどさ。「何回でも。何度でも」怖い?苦しい?悲しい?痛い?教えて。知りたい。お願い。応えて。
「私は言い続けるよ」ハリネズミは触れてしまえば確かに痛みを伴うだろう。でもね。一人じゃあまりに寂しいよ。それで傷つく事になってもいい。私は全然構わない。だって痛みがあったって、そこには温もりがあるんだから。「――――ありがとう」きっと涙でひどい事になってるだろうけど、私は精一杯の笑顔を向ける。「助けてくれて、ありがとう。アンタが私を悪夢から救ってくれた。私はアンタに救われたんだよ」私もやっと言えたよ。今までずっと言えなかったけど、ずっと言いたかった言葉。
「何回言っても足りないよ」さっきから声が震えて仕方ない。でも言葉が止まらない。「私に恋をさせてくれて、好きな人になってくれて、ありがとう」ねえ、涙が止まらないよ。だってこの気持ちは後から後から溢れてくる。今までずっと言えなかった分が涙になって溢れてくる。「大好き」剥き出しのままの心を私は言葉にする。涙をぼろぼろこぼして、言葉もめちゃくちゃだけど。全然恥ずかしくなんかない。むしろ誇らしかった。「だから、ね、胸を張って」だってこの涙と言葉は、アイツの生きた証なのだから。「私の好きな人は、私が好きになっちゃうくらい凄い人なんだから」
その時のアイツは、なんだか言葉にするのももったいなくて。一瞬呆然として、それから苦しげに眉をひそめて、痛みを堪えるように目をぎゅって瞑って、私の手を握り返す指に痛いほど力が込められて、絞り出すように吐かれた息は震えてて、それからゆっくりと顔を上げて。「――」アイツがその時どんな表情をしていたのか、それは秘密にしておこう。きっとそんなアイツの顔を見る事ができたのは私だけだから。「もう、いいんだよ」私はゆっくりと握っていた両手を離して。腕を伸ばして、アイツの頬に両手を添えて。ぼやけてしまった視界を覆う涙をぎゅっと両目を閉じて追い出して。涙でぐしゃぐしゃだけど、せいいっぱいの笑顔で。「私にはもう、嘘つかなくて、いいよ」そう言って、ぎゅって胸に抱きしめた。「……っ……!」私の両肩を掴む手に、ぎゅうって力が込められる。痛いよ。でも、そんな事よりなんだかずっとずっと嬉しい。なんだか変なの。誰もいない公園で、二人でこうしちゃってさ。泣いてる私がアイツを抱きしめて、アイツもきっと、……。多分めったにない機会だし、何も言わずにもう少しこうしていよう。せめてアイツの気が済むまで。
どれくらいそうしていただろうか。アイツは私の肩を押し体を離し、顔を上げた。「……悪い。服、汚しちまったな」そう苦笑するアイツは、目元がなんだか赤いの以外はいつものアイツだった。「ううん。私も、シャツの背中につけちゃったし」私はいつもどおり笑えているだろうか。「どうしよ。これ、記念にこのまま取っておこうかな」「ちょっ、勘弁してくれよ」わざとらしいやりとりだったけどそれが何だか可笑しくて、二人でくすくす笑ってしまった。「……少しはすっきりした?」「……ん」私の問いにアイツははにかむような笑みを浮かべて小さく頷いた。
それから少しだけ無言のままお互いの顔を見ていた。もう辛そうに見えないのは演技なんかじゃないと思っていいのよね。「辛い時は教えて。苦しい時は頼って」一人で抱え込まれる方が辛いし苦しいよ。「全部私が、いいよ、大丈夫だよって言うから」何度だって私が言うよ。だから安心して。「私じゃダメかな」もしそう言われたら、やっぱりまた泣いちゃうかもしれない。でも言うよ。「そばに、いさせて」それは傲慢だとも思うけど、私はもう少しわがままになるって決めたから。私の言葉にアイツは優しげな顔で見詰め返してくれて、それから何かを言おうと口を動かしかけたんだけど。
「えっと……」どうしてか視線を逸らしてしまった。……おい。待て。え、何。フられるならそれはそれでいいけど、本当はよくないけど、その顔さ、明らかに違うよね?アイツは何だか落ち着かない様子で視線をさまよわせたり手を握ったり広げたり、すっかり冷めてしまった缶を一気に空けてしまったり、仕舞いには立ち上がってちょっと歩いた後、こんな事を言いやがった。「今日は……その……オマエに付き合うって言った、とか……」……えーと。その。ごめん、今からこの空気をぶち壊す。「――このタイミングで言う言葉がそれかあーっ!!」
思わず立ち上がって叫んだ。台無しだー! 今までの何か感動的な展開とか雰囲気とか全部台無しだー!し・か・も!「アンタ今日、そんな事、一度も言ってないから!」「……あれ?」「『アレ?』じゃねえーっ!!」乙女的にアウトな感じに叫んじゃった。その上うっかり少し放電して、立ち上がった時にベンチの上に置いてきたレモネードの缶に小さな雷が落ちて吹っ飛んだ。まだ中身残ってたのに。もったいない。からんからんと乾いた音が二つしたのは驚いたアイツが持っていた缶を思わず落としてしまったからだった。「アンタね! 私がこんだけ言ってて! アンタもあれだけ盛大にぶちまけたのに!どうして微妙に逃げ腰になってくれちゃうんですかーっ!!」あー、ほんと周りに人がいなくてよかった。私は思いっきり大声で文句を言うとすっきりして、何だか怯えたような顔をしているアイツを見て、ふ、と小さく息を吐いた。「あのね、せめてこういう時くらい、はぐらかさずに言ってほしいのよ」格好付けるのもいいけど、もっとストレートに言ってほしい。遠回しな言葉は不安になっちゃうよ。「その……ちょっと面と向かって言うのには恥ずかしすぎるっていうか……」「この期に及んでまだ言うかアンタは」さっき私の胸に顔を埋めて何してた。私だって恥ずかしい事言ってるってのは自覚してるのに。何だかずるい。
はあ……と溜め息を(若干わざとらしく)ついて、仕方ないなとアイツに苦笑した。「じゃあ代わり」と言いつつ、でもやっぱり意地悪してやる事にした。「最後って言ったけど、もう一つわがまま聞いて」アイツが私の言葉をきちんと聞いてくれるように一呼吸置いて、私は言う。こんな事を言うのは物凄く恥ずかしいけど、物凄く怖いけど。「ね」だけど期待の方が大きいなら、本当にそうしてほしいならどうしても言っちゃうじゃない。「キス、して」鏡なんか見なくたって分かる。私の顔は真っ赤だったに違いない。でもこれが余計なものを全部取り払った素直な気持ちだ。だってそうでしょ。好きな人にそうしてほしくないなんて女の子がいるだろうか。ねえ?「ダメならダメって言って。諦めつくし」やっぱりそう言われたら辛いけど。それにもしかしたら泣いちゃうかもしれないけど。でもアイツが私をどう思ってるのか知りたい。そしてできるなら私を抱きしめてほしい。流石のアイツでもここまで言ってしまえば逃げられないだろう。意地が悪い、卑怯とも思うけど、これくらいしたっていいわよね。それを責める気なんてさらさらないけど、今まで私を置いてけぼりにした仕返し。
「……、俺」「ごめん、もう一個」何か言いかけたアイツの言葉を遮って私は言う。自分で言っておきながらちょっと怖くなってしまったのだ。出鼻をくじかれてアイツは少し戸惑うような顔をして、それからちょっと唇を尖らせた。「今度こそ最後じゃなかったのかよ」揚げ足を取るアイツに私は、それが照れ隠しだって分かってるから苦笑する。でもね、これは何も今日初めてじゃない。もっと前から言ってるじゃない。「ずっと、聞きたかった言葉があるの」それはたとえ記憶を失っていたとしても知ってるはずだ。私はあの日、この公園で出あった時にも言っている。今日だってそう。心の中で何度も繰り返した言葉だ。「私には御坂美琴って名前があるの」それは私だけを指す言葉。他の誰でもない、私自身を意味する名前。ずっと、ずっと、そう思ってた。私が自分の恋心に気付くよりもっと前から。だから、ね。お願い。「名前を呼んで」
だってそうでしょう? 大切な人に名前で呼んでほしいって思うのは、別に不思議じゃないでしょ。私の言葉にアイツは何だか面食らったように一瞬固まるんだけど。「……それさ」ちょっと目を逸らしてぼそりと言った。「え?」何だかアイツはちょっと小さめの声で、まるですねているような感じで私に文句を言ってきた。「オマエ『ビリビリじゃない』とか言うけどさ……俺にだって……『アンタ』じゃなくて、上条当麻って名前があるんだよ」……あれ? ちょっと、ちょっと待ってよ?何か今、凄く重要かつ恥ずかしい事に気付いてしまったかもしれない。もしかして、私、今までずっとアイツの名前どころか苗字すら呼んだ事ないんじゃ……。「……」さっきのアイツ以上に私が全部台無しにした気がした。全力で表面上だけは取り繕ってるけど、さすがにこれは言い訳できそうになかった。自分ではあんな事言っといてこれって、私ちょっとあんまりじゃない?でもそれも一瞬の事で、私はアイツの態度の意味に気付いた。すねたように見えるのは、もしかしてそのとおりじゃないのだろうか。アイツも同じなのかな。今の私と同じように申し訳なく思って、でもその言葉の意味に気付いて。同じように呼んでほしいって思ってくれてるの?
「……」一歩、二歩。私はアイツに歩み寄る。だったら……それは答えと取ってもいいんだよね。相手の真意は分からない。勘違いだとか思い上がりだとか、そういうのだったら死にたくなる。でも私はね、この想いだけは嘘をつきたくない。色んな事があった。楽しい事も、辛い事も、いっぱいっぱいあったよ。たった数ヶ月の間なのに今まで生きてきた十数年とは比べ物にならないような大切な時間。アイツに出会って、恋をして。何よりも大切な記憶と人ができた。「当麻――」ああ、やっぱり私はバカだ。名前を呼ぶだけで体が震えそう。それは私が発した声なのにこんなにも愛おしい。私はこれからきっと何度も、何度だって言い続けると思うけど。今は私の想い全部をこの一言に込めて言うよ。「大好き」自然に浮かべられた、今までで最高の笑顔で私は言った。
その言葉に何だか笑ってるような泣いてるような不思議な顔を返してくる。体がばらばらになっちゃいそうなくらい心臓が暴れていた。こんなに大きな音を立ててたら聞こえちゃいそうだ。なぜだか無限に思えるほど長く感じられた瞬間が過ぎ、そして。一歩、こちらに近付いた後。ゆっくりと伸ばされた右手は私の頬を撫でた。「――――――美琴」
ああ……。なんだろう。おかしいな。変なの。まるで全身が感電しちゃったみたい。嬉しすぎて涙が出ちゃいそう。だから私は両手を伸ばして目を閉じた。瞳の中に私の顔が映ると恥ずかしいから。腕に感じる温もりがもっと欲しいと思って抱き寄せた。同時に頭の後ろに当てられた手に優しく抱き寄せられた。背中に回された手にぎゅって抱き締められながら、ちょっとだけ爪先立ちをして。言葉じゃないのにそれで全部伝えられる気がした。
私の初めてのキスは、ちょっとしょっぱかったけれど。ほろ苦く、甘いチョコレートの味がした。Fin.(BGM : <SMILE -You&Me-> by ELISA)
――そんなとてもしあわせなおとぎばなしそこでおわってしまえばよかったのに」
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