上条当麻はおよそ9ヶ月振りのロンドンの街を彷徨っていた。季節は夏、イギリス特有の湿度の高い空気が街を覆っていた。永い夕方が過ぎ去り日は完全に沈みきっていたが、ぼんやりと明るい空が人の住む世界に帰ってきたことを否応無しに実感させる。世界を巻き込んだ戦争が終結し既に半年以上が経っていた。当初は終わりの見えない戦争かと思われたが、黒幕である右方のフィアンマが上条当麻に敗北したことにより、ロシア側陣営はあっさりと瓦解した。戦争は学園都市及びイギリス清教側の勝利ということで一応の終結を見たが、元々一枚岩ではなかったロシア陣営はフィアンマというトップを失うことにより更に統率を失い、正式な戦争の終結後も各地で紛争が勃発していた。これらの紛争を沈静化するために上条当麻は半年以上もの間、世界各地を奔走することとなったのだ。抵抗勢力の鎮圧には主にイギリスの騎士や魔術師がかりだされ、そこに上条、そして戦争終結後、打ち止めと共にイギリス清教に身を寄せることとなった学園都市最強の超能力者、一方通行が同行することとなった。上条当麻は戦争終結間際、右方のフィアンマと対峙しその能力を覚醒させ、フィアンマを撃破した。『それが異能の力であるならば神の奇跡でも打ち消すことができる』そう謳われた右手の“幻想殺し”はおぞましいほどの変貌を遂げ、上条当麻は“世界最強の能力者”となった。『何人たりとも傷一つ付けることすら叶わない』その能力を身に宿したゆえに、上条当麻、一方通行の二人は再び戦場へと足を踏み入れることとなった。戦争終結から半年が経ち、部隊はようやく抵抗勢力の鎮圧を終え、この日、本拠地であるロンドンの聖ジョージ聖堂に帰還することになっていた。戦争終結後、様々な事情により学園都市に帰ることができずイギリス清教にかくまわれることとなった御坂美琴、打ち止め、浜面仕上、滝壺理后ら元学園都市の住人、インデックスとその護衛のためにロンドンに残った神裂火織、ステイル・マグヌス、そして上条当麻と面識のあるアニェーゼ、ルチア、アンジェレネ、オルソラ、シェリー、レッサー、天草十字凄教の五和や建宮らの面々は、上条と一方通行が帰ってくるという情報を聞きつけ、二人を出迎えようと聖ジョージ聖堂に集まっていた。しかし、いつまで経っても二人が帰ってくる気配はなかった。聖堂の大扉を開け彼らの前に姿を現すのは騎士や魔術師の人間ばかりであった。一同が集まり早くも十時間以上が経ち、そろそろ日付も変わろうかというとき、大扉の外からコツコツと聞き覚えがある音が聞こえ、重々しい音をたてながらゆっくりと扉が開いた。全員が扉に注目する中そこに現れたのは、イギリス清教の真っ黒なローブに身を包み、対照的な真っ白な肌と、燃えるような赤い目をした痩身の少年、一方通行であった。元々僅かしか一方通行と面識を持たない面々が、半年振りに再会した一方通行に声をかけあぐねていると、その中から小さな影が飛び出し、怪訝そうな顔をしている一方通行に飛びついた。「おかえりなさい!ってミサカはミサカは………グスッ…グスン…」一方通行の腰の辺りに体当たりをしてそのまま抱きついた打ち止めは、半年振りの再会がよほど嬉しかったのだろう、そのまま肩を震わせて泣き出した。一方通行は杖を持っていない右手で、ぶっきらぼうに、しかし誰が見てもわかるほど優しく、打ち止めの頭を撫で受け入れた。その光景に一同は思わず頬を緩めるが、すぐにいやな予感が頭をよぎり、表情を硬くする。その場にいる全員が抱いたその予感を代表するように、インデックスが口を開いた。「あっ、あの……とーまは…?」一方通行は打ち止めに視線を落としたまま、顔を上げずにそれに答えた。「アイツは……」一同が息を呑む。「もう帰ッてこねェかも知れねェ…」***同じ頃、上条はロンドン市内の、大きな川のほとりを歩いていた。すでに深夜と言ってよい時間であったが、僅かに残った街の光がゆらゆらと水面に反射しあたりを暗く照らしていた。半年前、初めてロンドンに来たときにも見た光景であったが、今は何もかもが違って見える。上条は川べりの手すりにもたれかかり、空を仰ぎ目を閉じた。今から8ヶ月前、見渡す限り雪に覆われたロシアの大地の上で、上条は御坂と思わぬ再会を果たした。はじめはこのような危険地帯にのこのこと足を踏み入れるその行動に驚きと憤りを隠せなかった。しかしその後御坂の真意を知り、行動をともにしていくうちに、その一途な思いや献身的な振る舞いに徐々に上条の心は御坂に惹かれていった。最終決戦の前夜、上条は御坂から告白を受けた。「私は…、アンタが…当麻のことが……好き……」上条は記憶を失いまだ数ヶ月しか経っていないこともあり、恋愛感情というものがよくわからなかった。それにインデックスを救うと誓った戦いの最中に、他の女性からの好意を受け入れるのはどうかという思いもあった。しかし、御坂から告白を受けたことは純粋に嬉しかった。だから「すまない、今は御坂の想いに応えることはできない。でも…この戦争が終わって全てを片付けられたら……、そのときはおれの返事を聞いてくれないか……」御坂の告白に対して上条はこう答えた。「何のフラグよ」と御坂は笑うと、約束だからね、と当麻の額を指でつつくしぐさをしてその場をあとにした。フィアンマとの戦闘の中で覚醒した上条の能力は、“消滅”であった。幻想殺しのように、異能の力だけを打ち消すのではなく、それが有形物であろうと無形物であろうと、はたまた“心”のような存在が目に見えないものであっても、上条が認識できる全てのものを自由に消し去る能力。超能力のように演算がいるわけでもなく、魔術のように魔翌力が必要となるわけでもない。心の中で「消す」と念じるだけで、対象は心の中で思い描いた通りに姿を消す。『ものを消し去ることにより自由に世界を作り変える能力』、そんな馬鹿げた力が上条の新しい能力であった。戦闘の最中に産声を上げたその能力は、上条の激情に呼応し暴走した。暴走した能力は、上条の周囲にいた全ての人間―――上条と相対していたフィアンマ、その背後にいたロシア成教の魔術師、そして唯一上条の近くにいた味方―――御坂美琴の異能をこの世から消し去った。魔術を失ったフィアンマは最早敵ではなく、駆けつけた味方によってあっさりと拘束された。その後数日と経たずに終戦の条約が締結され、戦争は終わりをむかえた。しかし、上条と御坂が交わした約束が果たされることはなかった。戦争が終わり一週間が経った日、イギリス清教から上条と一方通行に、戦争の後始末に協力して欲しいという打診があった。相手は世界中に散らばる魔術を用いたテロ組織であり、かなりの危険が伴うということはわかっていたが、上条は二つ返事でこれを承諾した。いつまた暴走するかわからない能力を抱えたまま、この場に留まりたくないという気持ちもあった。御坂をはじめとした学園都市の住人を保護することをその報酬としてもらうことで、少しでも贖罪したいという気持ちもあった。しかし本当のところ、上条はこれ以上御坂のそばにいることに耐えられなかったのだ。学園都市230万人の頂点に立つ7人のレベル5、そこに至るまでに費やした膨大な努力、そして御坂を支えるレベル5としての矜持。それらを一瞬にして奪い去ってしまった自分が、どの面を提げて御坂に会えるのか。三日後、戦争が終わってから十日間一度も御坂と顔を合わせることなく、上条は再び戦場へと戻っていった。「それで…上条当麻が戻ってこないのはどういうことなんでしょうか」一同は聖堂から程近い場所にある女子寮の食堂に場所を移し、今度は神裂が一方通行に尋ねた。一方通行の前には簡単な食事が置かれているが、手を付ける気配はない。久しぶりの再開に安心したのか、それとも泣きつかれたのか、打ち止めが膝の上に覆いかぶさりすやすやと寝息をたてている。一方通行はあとから出されたコーヒーのみを少しすすると静かに口を開いた。「ここから先は…、楽しい話じゃねェぞ」***ロンドンを発ち2ヶ月が経った日、上条は既に幾つ目かわからない魔術結社の拠点を潰していた。イギリス清教の鎮圧部隊は200名ほどで構成され、騎士、魔術師と比べてもずば抜けた力をもつ上条と一方通行を核に二つに分けられ行動することになった。上条はその中で危険な戦闘を一手に引き受け、他の隊員には情報収集、補給、戦闘のバックアップなどにまわってもらっていた。被害を最小限にとどめるため。上条はそう嘯いていたが、上条を良く知らないほかの隊員から見ても、その行為はひどく自傷的なものに見えた。敵対勢力の抵抗は日々激しさを増していた。その日も各所でテロ行為を行っていた過激派魔術結社の本拠地を突き止め、隙を見計らって上条が単身強襲をかけたが、その抵抗はすさまじいものであった。しかし上条の前にはいかなる攻撃も無意味であり、程なくして構成員全員が拘束された。上条は実際の戦闘において、誇張や比喩でなく、文字通りの無敵であった。しかし上条はこの2ヶ月の間に精神を大きくすり減らしていた。言葉もろくに通じない人々に囲まれ、戦闘に明け暮れるという非日常に身を置いていることもその理由であった。昼夜を問わず上条たちに襲い掛かる姿の見えない敵。容赦のない攻撃、巻き込まれる周囲の人々。そのどれもが上条の精神を徐々に蝕んでいたが、なによりも上条は自身の能力を持て余していた。上条が手にした神の如き能力。しかしすぐにこの能力がそんなに都合のいいものではないことに気づかされた。第一に上条が認識できないものは消すことができないということ。例えばテロ組織を消す、と念じたところで、上条がその存在を知らない組織まで消すことはできない。第二に上条の全身に幻想殺しのような力が働いており、その力はオフにすることができないこと。つまり上条はいかなる能力の恩恵も受けることができない。そして最後に、一度消し去ったものは二度と元に戻らないということ――その気になれば敵が何千人いようと、一瞬にして全ての人間を跡形もなく消滅させることができる。しかし上条にはそれができなかった。ありとあらゆる手段を用いて上条らを襲撃する敵対組織に相対し、抗争は予断をゆるさない状況にあったが、上条の信念――誰もが幸せに笑って暮らすことのできる世界をつくる――それが彼をとどまらせた。上条は戦闘に際して極力能力を使用せず、その対象を敵の能力、そして上条たちに向けられる“敵意”のみにとどめた。周囲から見れば十分人道的な、むしろ戦争を知る騎士たちからすれば温すぎる処置とも言えた。しかし上条にとっては耐え切れないほどの罪悪感を生じさせることだった。テロという手段は肯定することができない。しかし敵も、上条たちと同じように彼らなりの大儀を掲げ、命を賭して戦場に足を踏み入れてくる。彼らにとって大切なものを守るため―――かつての上条がそうであったように。上条の能力はそんな信念を、覚悟を、指先一つ動かすことなく奪い去っていった。あまつさえ彼らの生きる術である魔術さえも。決して傷つくことのない能力を身に纏い、中途半端な覚悟で戦場に足を踏み入れたことを上条は後悔した。自分に、彼らの思いを踏みにじる、そんな権利があるのだろうか。上条はこれ以上、信念も能力も失った“人形”を生み出すことに耐え切れず、いつしか、いかなる敵に対してもその能力を用いて攻撃することをやめた。能力を行使するのは敵の霊装のみにとどめ、一時的に戦力を奪った上でその圧倒的な能力を見せ付け、降伏を促す。上条はこの1ヶ月、全ての戦闘でこの方法を貫いた。敵を完全に無力化しない分、バックアップにまわるほかの隊員の危険が増したことを心苦しく思ったが、上条の精神の均衡はぎりぎりのところで保たれていた。上条が所属する隊の大部分は騎士によって構成されていた。残る魔術師も、どうやら全員が日本語を身につけているわけではないらしく、隊員との直接的コミュニケーションは片言の英語に限られていた。そんな中、上条は通訳も兼ねて隊に同行していた一人の壮年の魔術師と親しくなった。黒い髪を肩まで伸ばし、上条より頭一つ身長が高く、口にいつも煙草をくわえ丁寧な日本語をあやつるその男は、口調や髪の色こそ異なるが、どこかかつての友人と似た雰囲気をもっていた。ある日上条は、当時拠点としていたイギリス清教系教会の屋上で一人空を眺めていた。「こんなところで何をしているのですか。」背後から声がかかり振り向くと、そこには例の魔術師がいた。「いや…別に……」「みんなとは一緒に居づらいですか。」「……」上条は他の隊員が自分のやり方に対し不満を持っていることに気づいていた。親しい仲間を傷つけられ、自分もいつ命を落とすかわからない状況で、隊員が上条のやり方に対して不満を持つのは当然である。「おれがやっていることは……、本当に正しいことなんでしょうか……」「……」魔術師は上条の隣にゆっくりと腰をおろす。上条の言葉は二つの意味に聞こえた。一つはこの戦争のこと、もう一つは上条のやり方だ。「……それは、あなたが決めることです。」「……?」上条が怪訝そうな顔をむける。「この世界にいる人間は大抵、決して譲ることのできない、強い信念を心に抱いています。それはあなたも十分理解しているでしょう。」「……」「それらがぶつかり合い、強い方が生き残り、もろければ砕け散る……、ここはそういう世界なのです。問題は正しいか否かではありません、強いか弱いかなのです。」「……」「あなたにも、信念があるのでしょう。」「……はい……」そう答えたが、上条の声は小さかった。確かに、どれだけ他の人間から否定されようと、今のやり方を変えることはできない。誰もが幸せに笑って暮らせる世界をつくる、その信念が上条の心を支えだった。しかし今の自分にそれを唱える資格があるのだろうか。心を奪い去られ、ニコニコと自分に笑顔を向ける魔術師の顔。そして、御坂美琴の顔。それらが心に浮かび、上条の心を揺さぶる。そんな上条の心を見透かしたかのように魔術師が口を開く。「おそらく、あなたの理想は相当に高いのでしょう。そして、現実との差異に苦しんでいる、そんなところでしょう。…私も、かつてはそうでした。」「……今は、何のために戦っているんですか?」魔術師は短くなった煙草を投げ捨てると、新しい煙草を取り出し火をつけた。「私もかつて、高い志を持って魔術師になりました。魔術界の平和、世界の平和、そんなものの一助になれればと思っていました……。しかし私には力がなかった。あまりにも強大な、圧倒的な力を目にし、私の心は砕け散りました。」「それで……、どうしたんですか?」「私には大切な人がいました……。私が挫折したとき、私を励まし、勇気付けてくれました。私は自分の無力さに打ちひしがれ、戦う理由を見失っていましたが、彼女のおかげでもう一度立ち上がることができました……。そして……、こう思ったのです。」「……」「私には、世界を守る力はなかった。だからせめて、大切な人を守ろうと。そのために、生きて死のうと。」「…………」魔術師の言葉は淡々としていたが、乾いた上条の心に深く染み渡った。「あなたには、そんな人がいますか。」「……わかりません……」上条の脳裏に、御坂美琴、インデックスの顔がよぎる。しかし、今の自分に彼女らを守るなどと言う資格はない。魔術師は困ったような顔をして話を続けた。「今は……、必要のないことかもしれませんね。ですがいつか、私の話を思い出していただければと思います。」そう言うと魔術師は腰を上げた。「最後に……、あなたの力は他の誰のものではなくあなた自身のものです。ですから、あなた自身のために使うべきです。あなたが正しいと思うこと、それが正しいことです。だからあなたはもっと自分勝手に、わがままに生きていいのです。 私は、あなたのことを応援していますよ。」魔術師はにこりと笑ってその場を立ち去ろうとした。「あの…!」上条がその背中に向かって声を掛ける。「なんでしょうか。」魔術師が笑顔のまま振り返る。「その……、なんていうか……、ありがとうございました!」魔術師は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔にもどり答えた。「礼には及びませんよ。私にもあなたくらいの息子がいましてね。だから放っておけなかっただけですよ。」「それでも……本当にありがとうございます!おれ馬鹿なんでうまく言えないですけど……、その……、絶対に一緒にロンドンに帰りましょう!」「そのときは息子を紹介しますよ。」魔術師はそう言って悪戯っぽく笑うと、屋内に戻っていった。上条は決意した。今まで自分がやってきたことは決して許されることではない。しかし今だけは前へ進もう。人一倍多く抱え込んでしまった後悔、自責の念、罪悪感、それらを一度心の隅に閉じ込めて。せめてこれ以上何も失わないために。空を見上げると、学園都市では決して見ることのできない、満天の星空が広がっていた。***それは突然の出来事だった。ある日上条と数名の騎士が陣営で待機していると、緊急の連絡が入った。その内容は、昨日拘束し護送中だった捕虜の一団が、どういうわけか突然暴れだし、護衛の騎士や魔術師たちと交戦中とのことだった。ありえない。一同はそう思った。捕虜である魔術師たちには強固な術式が掛けられ、魔術の使用はもちろん、自由に体を動かすことさえできないはずである。外部からの攻撃という可能性も頭をよぎったが、すぐさま打ち消された。護送中は強固な結界が張られ、いかなる魔術であっても外部からの干渉はできないはずだ。誰かが自力で拘束を打ち破ったのか。全員の頭に最悪の予想が浮かぶ。それを可能にするほどの強力な魔術師がいるとしたら、いくらイギリス清教の誇る魔術師、騎士であっても無事では済まないだろう。連絡を受けた次の瞬間、上条は陣営を飛び出していた。魔術的効力を一切享受することのできない上条は、最後に現場に到着した。上条の予感は、正しかった。場所は東欧の片田舎だった。両側を畑に囲まれた農道の真ん中に、幾重にも術式を張り巡らされているはずの護送用馬車が打ち捨てられていた。既に日は沈み、あたりは闇に包まれつつあった。いたるところに倒れ臥す人影が見えたが、どれ一つとして物音を立てる気配がない。上条は乱れた呼吸を整えることも忘れ、ふらふらとその間を歩いていく。暗闇の中、ぼんやりと確認できる顔はどれも見知ったものばかりであった。しかし依然として辺りは、闇よりも暗い死の静寂に包まれていた。積み重なった死体の山が視界に入る。その一番上に、見慣れた、見間違うはずもない、黒い長髪の男が倒れていた。「う゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!」辺りに、人間のものとは思えない絶叫がこだました。その様子を馬車の陰から見つめる一団がいた。逃げそびれた非戦闘員の捕虜であり、その数は30人近い。彼らは突如現れた人影から身を隠し、じっと様子を窺っていた。その男はふらふらと歩き回ると突如動きを止め、獣のように咆哮しその場に蹲った。叫び声は徐々に弱くなり、いつしかそれは嗚咽へと変わっていった。両手を地に着き、うずくまる男の背中が突然ぼんやりと光りだした。その光は一気に強さを増したかと思うと、次の瞬間、一つの形を成した。誰もが一度は絵本の中で見たことのある、竜の翼の様な形を。あたりを禍々しい気が支配する。上条の運命を大きく捻じ曲げた、あの日のように。状況が全く飲み込めない捕虜たちは、恐怖に身を震わせていた。その中の一人、十歳くらいの少女が、恐怖に耐え切れず短い悲鳴をあげた。あわてて口に手をやるが既に遅かった。男はゆっくりと顔を上げる。赤く光る双眸がこちらを見ていた。わずかにバランスを保っていた上条の精神は、この日音もなく崩れ去った。***その日から上条は一切感情を表に出さなくなった。以前のように敵に手心を加えることもなくなった。上条は敵対する者全ての命を奪い去った。能力を使うことなく、自らの手で、一つ一つ己の心に刻みこむように。隊員の半分以上を失った上条の部隊は、人員の補充を受け元の人数に戻った。新たにやってきた隊員は皆あまりの苛烈さに背筋を凍らせた。僅かに残った上条を知る隊員は、あまりの変わりように言葉を失っていた。各地で抵抗を続けていたテロ組織は急激に力を失い、結果的に当初の予定よりも一年以上早く部隊は撤収することとなった。上条は一方通行らと合流し、軍の飛行機でイギリスに帰ってきたが、ロンドン市内に入ったところで突如姿を消した。***「しばらくアイツを探したが、結局アイツは見つからなかッた。それで俺だけノコノコと帰ッて来たッてわけだ。」一方通行は長い話を終え、すっかり冷たくなったコーヒーに口をつけた。その場にいた全員が、言葉を失っていた。一方通行の話は、一同が知る上条のイメージとかけ離れていた。しかし一方で、否定しがたい強烈な真実味を帯びていた。鼻をすする音がする。顔を上げると、五和がポロポロと大粒の涙をながしていた。「なぜ…あの人が……」五和の言う通りだった。誰よりも優しく、強く、困っている人がいれば自分の身を投げ出してでも助けずにはいられない。そんな少年になぜかくも苛烈な運命が架せられたのか。気づけば全員が涙を流していた。年少のアンジェレネやインデックスは声を上げ泣いていた。それを優しく抱きとめる神裂やオルソラの目からも涙が溢れていた。滝壺と打ち止めは上条と深い付き合いがあるわけではなかった。しかし上条は、出発の直前、能力の弊害に苦しむ彼女らの前に現れ、二人の病を能力ごと消し去ってくれた。御坂の能力を図らずも消し去ってしまった直後で、強いトラウマを抱えていた。それでも去り際に「元気でな」と力強く笑ってくれた。半年前に一度会ったきりのあの少年のことを想い、滝壺は涙を堪えることができなかった。「最後にアイツは……」一方通行が口を開く。その目は御坂を見ていた。「この話を終えたあとアイツは俺にこう言いやがッた。『今ならお前の気持ちがわかる。絶対的な力を求めて、実験に参加したお前の気持ちが』と。」俯いていた御坂の肩がピクリと動いた。その表情は誰も見ることができない。突然立ち上がると、彼女は踵を返し、走って部屋を出て行った。上条は全てを一方通行に話した。その表情からは何も読み取ることは出来なかったが、淡々と自分のことを語る様はまるで自分を嘲り、見下し、責めてくれと言っているかのようだった。上条が抱える苦悩は、かつて一方通行が抱えていたものと同じだった。強力な能力がもたらす災厄、最強ゆえの孤独、そして耐え難い無力感。上条はかつて自分を救い出してくれた。しかし自分にはその力がない。だから託した。全てを話し、それでも上条を信じる者に。冷めて不味くなったコーヒーを飲みながら、一方通行は自分の無力を呪った。***どうしてこんなことになったのだろう。ふとそんな考えが脳裏をよぎったが、上条はすぐにそれを否定する。誰のせいでもない、自分が招いたことなのだ。自分の甘さが、自分の弱さが。ロンドンに残る仲間の顔が頭に浮かぶ。こんな自分が今更彼らの前に顔を出せるのか。何千人もの命を奪い去ったこんな自分が。上条は自分の能力を呪った。奪うばかりで何も守ることの出来なかった能力。激情にまかせて罪の無い命を奪い去った能力。自ら死ぬことすら許さない能力。そして、御坂の力を消し立った能力。自分にみんなと一緒に居る資格はない。幸せになる資格など無い。わかっていた。それでも未練がましくロンドンまで来てしまった自分にため息が漏れる。度し難い。空を見上げたままゆっくりと目を開く。その瞳には、何も映らなかった。「よーカミやん、久しぶりだにゃー。」突然背後から声がかかった。振り向かずともわかる、級友の声だった。「ロシアでの話は聞いてるぜよ。ずいぶんと派手にやったみたいだにゃー。」半年前と変わらない、彼らしい軽口だった。しかし上条はなんの反応も示さなかった。こちらを振り向くことさえしない。その様子をみて土御門はやれやれとため息をつくと、そのまま上条の背中に向かって続けた。「カミやんのことだから、全て自分のせいだとか考えているんだろうが。」「……」「別にカミやんがしたことはこの世界じゃ珍しくもなんともないことだ。俺だって人くらい殺している。必要悪の教会の連中だって例外じゃあない。」土御門の言葉は上条の耳に届いていた。何を言っているのかも理解できた。だがそれだけだった。でたらめな数字の羅列のように、上条の頭には何一つ入っていかなかった。土御門もそのことはわかっているようだった。少し間を置くと、めったに見せない真面目な表情で口を開いた。「それで―――」「……」「超電磁砲との約束はどうするんだ。」その言葉に、わずかに上条の背中が反応したように見えた。上条の頭の中はもう何ヶ月も濃い霧がかかったようだった。しかし土御門の言葉を聞いた瞬間、わずかに自分が動揺したことに気づく。半年振りに耳にした、優しく、懐かしい、そして一番聞きたくない響きだった。「久しぶりに会ったというのに、相変わらず君は辛気臭い空気を撒き散らしているんだね。見ているこちらまで陰鬱な気分になってくるよ。」土御門の背後から別の声がかかった。2メートルを超える長身と、肩まで伸びた赤い髪の神父。ステイル・マグヌスだった。相変わらず上条は振り向く素振りすら見せない。しかし上条は久しぶりに聞くその声に、何ともいえない不安を覚えていた。「君の話はあらかた聞かせてもらったよ。まあ正直どうでもいい話だったけどね。インデックスを泣かせたことは許せないけど、僕自身は君がどうなろうと知ったことじゃあない。」「……」「君に同情しないこともないよ。君の力を平気で使いこなせる人間なんて数えるほどしかいないだろうさ。君の行いに対して何か言おうなんていう気もさらさらない。ただ――」「……」「ただ、彼の言葉は、君にとってその程度のものだったのかい。僕の――」上条の不安は確信に変った。「父親の言葉は――」今度こそ上条の背中は明確な反応を見せた。黒い髪をした、長身で長髪の魔術師。初めて彼に会ったときに上条が感じたものは間違っていなかった。上条の精神を支配している黒い感情が一段と大きくなり、上条の胸を締め付ける。「……っ!!」上条は何も言えなかった。しかしステイルは上条の心を読んだかのように答えた。「ああ、君が父の最期について何か責任を感じているというならそれは間違いだと言っておこう。彼は僕よりもずっと強い魔術師だった。もし彼の死が君のせいだと思っているなら、それは彼に対する侮辱でしかないよ。」(でも……、それでも……)「父は全部知っていたんだろう。自分が死ぬこと。君がこうなること。全てわかっていて君にあの話をしたんだよ。」ステイルはポケットから煙草を取り出しくわえると、静かに火をつけた。「君は一年前のことを覚えているかい。君がインデックスと初めて会ったときのことだ。」「……」「僕はインデックスを守りたかった。僕の力が足りないばかりに彼女の思い出を守ることが出来なかった。彼女の命を守るために彼女を傷つけもした。再び彼女の記憶を奪い去ろうともした。そして、全てが過ちだったということを知った……」「……」「あのときほど自分を呪ったことはない。今まで一体何をやっていたのかと。そして自分を責めた。自分にはあの子のそばにいる資格はない、と。」「……」「でも、僕の信念は何一つ変らない。彼女が僕をどう思おうと。全てを忘れてしまったとしても……」「……」「僕は、彼女のために、生きて死ぬ。」上条は最後まで一言も発することはなかった。しかし長い間自分の頭にかかっていた霧が取り払われていくのを感じていた。同時によみがえる血塗られた記憶と、抑えきれないほどに膨らんだ負の感情。数ヶ月間閉じ込めたれていた感情と思考が目まぐるしく脳内を駆け巡る。上条はあふれ出る何かをこらえながら、ゆっくりと振り返ろうとした。その瞬間、ステイルが口を開いた。「おっと、新しいお客さんみたいだ。」上条が振り向くと、そこには御坂美琴が立っていた。***御坂は何かに導かれるように、ロンドンの夜道を走っていた。目的はもちろん上条当麻だった。どこにいるのかはわからなかったが、必ず会えるという予感があった。会ってどうするのか。言いたいことは沢山あった。上条がいなかった半年間のこと。労いの言葉。感謝の言葉。労わりの言葉。そして、失った能力のこと。それらは一方通行の最後の言葉によって雲散してしまっていた。それでも、アイツに何か一言いってやりたい。狭い路地から川辺に出ると、そこには懐かしいツンツン頭が見えた。速度を緩め、息を整えながらゆっくりと上条に近づく。建物の影から何か声が聞こえたような気がしたが、今は影も形も見えない。なんて声を掛ければいいのか思いつかない。御坂が逡巡していると、ツンツン頭がゆっくりとこちらを振り向いた。その瞬間御坂の頭は真っ白になった。半年振りに見る上条はだいぶ変っていた。身長がずいぶん伸びたようで、体格も一回り大きくなっていた。イギリス清教のローブを纏い、まるで魔術師のような格好をしている。しかしそんなことは御坂の目には映っていなかった。振り向いた上条の、吸い込まれそうなほど深く、絶望に満ちた瞳。こけた頬と、大きなくま。彼の周りに立ち込める、暗く禍々しい空気。御坂の目は一瞬でそれらに奪われた。そのどれもが一方通行の話が真実であることを物語っていた。御坂は声を発することができなかった。かける言葉は考えていなかった。それでも言いたいことは沢山あった。しかし今となってはそのどれもが意味をなさないように思える。自分はこの少年になにができるのか。答えが出る前に身体が動いていた。上条も言葉を失っていた。一番会いたくて、一番会いたくない相手。言うべきことは沢山あった。謝罪の言葉。この半年のこと。そして、果たされていない、あの日の約束のこと。一方で胸の中の黒い感情が上条を押しつぶそうとする。自分が御坂にかけていい言葉などあるのか。目を瞑り、すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちを必死で抑える。突然何か温かいものが胸にぶつかる感触があり、目を落とす。そこには自分の胸に顔を埋め、抱きつく御坂の姿があった。思わず上条に抱きついた御坂だが、自分の行動に驚きはしなかった。静かに鼓動する心臓の音が聞こえる。彼がかすかに震えているのがわかる。「俺は……」頭の上から声が聞こえた。半年振りに聞くその声は、弱く、掠れて、およそ彼の声とは思えなかった。「俺は…………っ」必死で搾り出した声。その声は自分のものでないかのようだった。俺は……俺は一体どうしたいのか。御坂に謝りたい。御坂に許してもらいたい。御坂を抱きしめたい。御坂の背後で宙に浮いている自分の両手を見つめる。自分にその資格は無い。わかっているはずなのに。上条は表情をゆがめる。胸元から御坂の声がした。「私は……、当麻のことが好き……」御坂は震える声で続けた。「あの日の約束……、答えを…聞かせて……」なぜこんなことを言ったのかはわからない。この場の雰囲気にふさわしい言葉とは到底思えない。約束なんてどうでもよかった。答えなんて聞きたくない。髪に温かいものが落ちる。彼の涙だろうか。長い、長い沈黙のあと、ゆっくりと息を吸い込む音が聞こえた。上条は驚いていた。御坂の行動に、そして御坂が発した言葉に。こんな時間にこんな場所にいること。間違いなく一方通行から話を聞いているのだろう。それでも自分のことを好きと言ってくれる。半年前と変らない、優しい声で。上条の心を覆う、厚く、重い、罪の意識。そこから溢れ出る、どうしようもないほどの愛おしさ。上条の頭の中を様々な思いが駆け回る。土御門の言葉。ステイルの言葉。御坂の言葉。そして、あの魔術師が遺した言葉。(「いつか……、私の話を思い出していただければと思います。」)いつかとは今のことなのだろうか。しかし自分は彼とは違う。この身に宿した力。自分に……、できるのだろうか。「上条当麻!」新しい声が聞こえた。顔を上げるとそこには息を荒げた浜面仕上と滝壺理后がいた。浜面は上条に向かって強く言い放った。「お前が…、お前が自分のことをどう思おうと、お前は俺にとってのヒーローだ。」「……」「俺は…、俺には何もない……。あいつらみたいな能力も持ってないし、頭だって悪い。昔の仲間だって救えなかった……。それでも…、それでも滝壺を守りたいって思う俺の心を、お前は間違っているって言うのかよ!」「……」上条はいつの間にか自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。嬉しかった。こんな自分のことを、気にかけてくれる仲間がいる。みんなの優しさに甘えたい。自分を許してほしい。その考えを振り払うかの様に、上条は強く目を閉じる。「とーま!!」聞きなれた、懐かしい声がした。泣きそうな顔をしたインデックスと、彼女に付き添う神裂の姿があった。インデックスがゆっくりと口を開く。「1年前、私が初めてとーまに出会ったとき、私はとーまにこう言ったんだよ。『私と一緒に、地獄の底までついてきてくれる?』って」「……」「とーまは本当に最後まで私について来てくれた。ううん、とーまは私を地獄の底から救い出してくれた。だから……、だから今度はとーまが救われる番なんだよ。」上条はこらえきれなかった。思わず御坂を抱きしめる。細く、小さい体がわずかに震える。両の目から半年分の涙が堰を切ったように流れている。あの日の魔術師の言葉が甦る。(「だからあなたはもっと自分勝手に、わがままに生きていいのです。」)どうして皆、自分の心を見透かしたかのようなことばかり言うのだろうか。大きく息を吸い込む。いいだろう。もう一度立ち上がろう。自分勝手に、思うままに生きてやろう。上条は決意する。あの日のように、前へ進むために。「俺は……」自分でも方便だとわかっている、しかしそれでも構わない。「お前を、御坂を守る。」御坂が、皆が自分を支えてくれると言うのなら、遠慮なくそれにもたれかかろう。「そのために、生きて死のう。」長い沈黙のあとに発せられた彼の言葉。その声は相変わらず掠れて小さかったが、彼女の知る彼の声だった。短いその言葉の裏にはどれほどの思いが隠されているのだろう。でも今はいい。言葉でしか埋められない思いは、後から埋めていけばいい。今は彼が帰ってきたことを喜ぼう。「……当麻」御坂は顔を上げる。そこには涙でくしゃくしゃになった彼の顔があった。瞳が濡れて光っている。彼女が知る、紛れもない、彼の顔だった。「なんだ……?」優しい声に、思わず顔がほころぶ。自分の頬にも涙が伝っていることに気づく。御坂は再び上条の胸に顔を埋める。「…おかえり。」大きく、温かな手が頭を包み込む。「…ただいま。」
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