「あー冷えるなあ、さすがに屋上は」「そうだね。でも。人が少なめだから」昼休みのチャイムが鳴ってすぐ。クラスメイト達は誰も上条たちを追いかけてこなかった。姫神のものと思わしき茶巾袋にちょうど二人ぶん位の弁当が入っていそうなのを見れば、追求する気も失せてしまったのだろう。「女子の連中に何か言われたか?」「……うん。仲のいい子達は控えめにだけど。おめでとうって」控えめだったのは、同じクラスにいるもう一人の上条を好きだった女の子に遠慮したからだ。姫神はそれを暗に上条に伝えたが、そういう複雑なことは伝わらなかった。「そうか。ま、大騒ぎされると色々面倒だしな」「当麻君は。あんまりみんなに知られたくない?」「そういうわけじゃないって。ただ、休み時間に追い掛け回されたりすると、秋沙とこうやって昼飯を食べたりは出来なくなっちまうだろ?」「そうだね。それは。嫌だね」「だろ? でさ、どういう風に座ればいいんだ? こう、対面になるようにすればいいのか?」「ううん。壁に二人でもたれて、並んで食べたい」「わかった。けどこれじゃあ、秋沙の顔を見て食べれないな」「だからだよ。食べてるところを見られるのは。恥ずかしいし」「いやでも教室で弁当食べてる秋沙を見たこと、何度もあるぞ?」「それはいいの。……お付き合いしてる当麻君に見られると。恥ずかしいだけだから」「秋沙の食べ方は綺麗だから、別に恥ずかしがることはないと思うけどな」「恥ずかしいよ。それと。並びたい理由はもう一つある」「ん?」とすんと二人で壁際に腰掛ける。膝上に置いた茶巾袋の口を緩めるより先に、姫神が体を傾けて、隣にいる上条の肩に頭を乗せた。「対面に座っちゃうと。こういうこと。出来ないよね?」「……だな」上条は他意なく姫神との間に開けていた距離をぐっと詰めて、体の側面を姫神とぴったりくっつけた。そして姫神の腰に手を回した。「このままじゃ。お昼ごはんを食べられないね」「飽きるまでやってから、食べ始めればいいんじゃないか?」「駄目だよ。そんなことしたら。お昼ご飯食べる時間がなくなるから」「秋沙」「当麻君」お互いに用事がないのを分かった上で、何の意味もなく名前を呼び合う。目線を合わせると、柔らかく微笑む恋人の顔と、その瞳の中で笑う自分の顔が見えた。「時間もなくなるし、弁当食べようぜ」「うん。あんまり。美味しくないかもしれないけど」「その心配はしてない」「しておいて欲しい。期待以下で失望されるのが。一番辛いから」ややためらう仕草を見せながら、姫神が弁当箱を取り出した。蓋を止めるバンドを外して中を開くと、一段目のご飯は綺麗な鮭弁だった。自分がこれを作ると、多分白米を詰めた上から鮭の切り身をドン、だと思う。だが姫神は鮭の身を丁寧にほぐして骨を取って、ご飯の上に満遍なく散らしていた。中央には彩りにほうれん草が乗せてあって、いかにも美しい。二段目のおかずもとにかく綺麗だった。まずブロッコリーのおかか和え。色がまったく褪せていない。玉子焼きも上条が作れば不ぞろいになったり箱のサイズにあわないものを強引にブチ込むが、姫神お手製のそれは優しい黄色で形もまとまっている。その隣にあるカップに入ってるのは、大豆とひじきの煮物だろうか。荒く豆が潰してあるのが上条家とは流儀が違った。豆粒が躍り出たりしない分、合理的かもしれない。たこさんウインナーはどうも開き方がいびつで不慣れな感じがするが、そりゃあ自分用の弁当でわざわざウインナーの整形なんてしない。慣れてないけど、多分自分以外の人に出すものだからと、頑張ったのだろうと思う。一家の主夫、上条当麻として評価した姫神の弁当は。「完璧だ……」その一言に尽きた。姫神は少し笑ったが、不安のほうが大きいのか晴れやかな顔にはならなかった。「お弁当は見た目より味だから。口に合わなかったら。ごめんね」「いやいや、これどう見ても美味そうだろ。じゃ、遠慮なくいただくな」「うん。召し上がれ」「いただきます」上条はブロッコリーをつまんで、口に入れた。姫神が固唾を呑んでそれを見守る。じゅわ、と口の中に旨みが広がった。鰹節と醤油の組み合わせかと思いきや、実はブロッコリーの煮びたしだったらしい。出汁の優しい味わいと硬めに茹でてザクザクとした歯ごたえを残すブロッコリーの食感の組み合わせがいい。コメントするより先に、ご飯に箸を伸ばした。「どう。かな?」「なんか普通で悪いんだけど……めちゃくちゃ美味い」「本当? お世辞は。別にいらないよ」「お世辞なんかじゃないって。ホントに美味いから」「うん。……美味しくないのがあったら無理しないでいいから」「そんなに心配することないと思うけどな」それほど多かったわけではないので、上条はあっという間に弁当を平らげた。一品一品が非常に丁寧に作られているのがわかる出来だった。「ごちそうさまでした。美味しかったです。ありがとな、秋沙」「お粗末さまでした。良かった。食べてもらえて」自分も少し遅れて食べ終えた姫神が、弁当箱を仕舞いなおした。ふと視線に気づく。上条が、ちょっと不思議な感じの目をこちらに向けていた。僅かに首をかしげて意図を伝える。「あ、いや。なんかさ、いいなって思って」「いい?」「一人の女の子と付き合って、こうやって二人っきりで弁当食ったりするのって、なんか新鮮でさ」「うん。私にとってもそうだよ」「嬉しくなるな」「嬉しくなるね」上条が頭を姫神の肩に預けた。隣の彼氏の重み。ちょっと支えるのが大変だけど、それもまた嬉しかった。なんとなくその仕草の意図が分かった気がしたので、膝の上の弁当箱を退けて、ぽんぽんと軽く太ももを叩いてみた。ピクリと、上条が反応した。「……秋沙」「したい?」「したいって、その」「膝枕」「う。したいっちゃそりゃものすごくしたいけど、一応周りにも人いるし」「私は。あんまり気にしないよ。当麻君こそ見られたら困る女の人がいるの?」「何言ってるんだよ。そんなのいないって。……ほんとにお邪魔しても?」「いいよ。でも。気持ち良いものかどうかは知らない」「秋沙の膝枕だから大丈夫だ」「もう」上条はおずおずと姫神のスカートへと向かってダイブした。学校の方針もあってここの女子生徒のスカートはそこそこ長い。なるべく膝よりのほうに頭を持っていって、そっと置いてみた。「あったかい。あと秋沙の匂いがする」「もう。恥ずかしいから言わないで欲しい」上を見上げると、秋晴れの空と照れた表情の姫神の顔が映る。そこに姫神の手がかざされた。「気持ちいい。かな?」「ん。授業サボって寝ても良いくらいには気持ち良い」「そういうのはよくないよ」そう言いながら、姫神は撫でるのをやめなかった。「当麻君。放課後。どうする?」「あー……。知ってるだろ? さっき小萌先生に呼び出されたの」「あ。そうだったね」「秋沙は補習ないだろ?」「うん。別に私は。成績は悪くないから」「俺だって真面目に授業に出さえすれば大丈夫なんだって」「……学業がおろそかになるくらい。あちこちに首を突っ込むのは良くないよ」「いやいや、上条さんは決して首を突っ込んでるわけじゃなくってですね、トラブルのほうからこっちにやってくるのですよ」「なんでもいいけど。怪我をしたら。いやだよ」「……ん。なるべく、秋沙に心配かけないようにするよ」ふう、と姫神がため息をついた。「あの子も毎度毎度心配してるんだろうね」「毎回噛み付かれてるよ」「え?」「あいつ怒ると噛みつく癖があるんだよ。頭のてっぺんとかでもお構い無しに」「ほっぺたとか。唇は?」上条の髪を梳く手を止めて、拗ねた顔でそんなことを聞いてきた。あやすような意味を込めて、撫でてくれる腕に軽く触れる。「唇とか、そういうのはないって。ほっぺたは……」「あるの?」「……事故で、一度だけ」「これからは。事故でも起こしたら許せないかも」「うん、まあ。気をつける」そこで不意に、姫神が撫でるのを辞めて腕を取った。持ち上げて、軽く袖をまくる。上条が疑問を込めた視線を投げかけると、手首をぐっと握られた。「手首。やっぱり太いね」「そりゃ、秋沙よりはな」「噛みついてもいい?」「はい?」姫神は最後まで諒解を取り付けなかった。そっと口を開いて手首の辺りの骨がゴツゴツしたところに軽く歯を立てる。せいぜいがハンバーグを頬張る時の開き具合程度だったから、インデックスみたいにがぶりとはいかない。そのまま数秒間。姫神の歯の硬い感触と、僅かに感じるぬるりとした感触と、熱い吐息がゾクゾクする。「秋沙?」その言葉でハッとしたかのように、噛み付きが止んだ。姫神が顔を赤らめ、そっぽを向いていた。勿論膝枕の状態から見上げているのでそれでも表情は丸見えだ。照れているようで、すこし拗ねているような、そんな表情だった。「えっと」「……あの子がしたのなら。私もする」「え?」「なんでもない。ちょっと焼きもちを焼いただけ。嫌だった?」「嫌、って事はないさ。むしろドキドキした」「私もすごくドキドキした」甘噛みは、恋人同士なら意味合いがずいぶんと変わってくる。インデックスとのやり取りでは感じないような緊張感が、そこにはあった。姫神も、それを感じていたのだろう。「当麻君のを咥えるには。結構口が大きくないと駄目かも」ぽつりと、そんな表裏ない感想がこぼれた。「う、あ、はは。そうか。」「……?」「な、なんでもないって」「……!?」自分の言った言葉の迂遠な意味に気づいたらしい。ぽん、と顔が赤くはじけた。「私べつに変な意味じゃ」「だ、大丈夫! 分かってる!」「当麻君のえっち」「否定は出来ないけどさ」「お付き合いしてすぐなのに」「ごめん。……あれ、付き合いが長ければ、ありって事?」「もう! 知らない」つかんでいた上条の腕を少し乱暴に姫神は突き返した。軽く拗ねた感じの姫神に声をかけるのが少しためらわれて、ケータイを取り出して時刻を見た。「もう、いい時間だな」「えっ? 嘘」「嘘じゃないって。ほら」「あ……。嫌だな。楽しい時間って。あっという間だね」「だな。放課後、一緒に帰ろうと思ったらかなり待たせることになると思う」「それは良いんだけど。でも。お付き合いしてる彼氏が出来たからって友達付き合いが悪くなるのはちょっと」「じゃあ、秋沙は友達と帰るか?」「うん。ごめんね当麻君。それでいいかな?」「むしろ補習を受ける羽目になった俺が悪いんだしさ。さて、それじゃ戻りますか」校舎の中までと屋上へいたる階段の短い間だけ、二人は手を繋いだ。放課後。小萌先生にこってり絞られて、ようやく開放された。完全下校時刻という制度がこの時だけは有難い。「にしても、どんだけ頑張ったって上条さんに超能力なんて使えるはずがないのですよっと」得体の知れない右手のせいだというのは分かりきっていることだ。頑張りすぎて軽い頭痛のする脳みそを揺らしながら、上条は階段を下りた。姫神は先に帰ったので、帰りは一人。小萌先生が今日はいつもに増して頑張ったのは、姫神と無関係ではないだろう。ちょっと気味が悪いくらいにこやかに授業中に微笑みかけられた。「当分は先生からも言われるのか。……あれ、なんだあのでかい車」階段を折りきって公道に出たところ。そこに黒塗りのリムジンが止まっていた。常盤台クラスのお嬢様学校なら、似つかわしいかもしれない。どこにでもある弱小高校には、明らかに不似合いだった。係わり合いにならないで済むよう、なるべく車から離れて歩く。無意識に車がバックするときのランプが光ったりしないか気をつけながら歩ける辺りが不幸慣れの証だった。「奇遇だな、上条」不幸は常に予想外のところから飛んでくる。今回は後部座席の、少し開いた窓の隙間からだった。「奇遇なんですか? 先輩」「まあ実を言うとお前を待ってたんだけど」「……そうですか、それじゃあまた」「連れないな。家まで送ってやるぞ?」「いやいいです。自分で帰れますから」「こないだ連れまわしたのをまだ根に持ってるのか? まあ随分笑わせてもらったけど」「え?」こないだ?その言葉に上条はドキリとした。夏休みに入ってからは、そんな覚えはない。「なんだ、忘れたのか? 私の胸を鷲づかみにしておきながらその態度というのは許しがたいけど」「い、いやべつに……」雲川のは上条の手のサイズで鷲づかみに出来るか怪しいくらいの大きさだ。そんなことを、上条はやらかしたのだろうか。「責任を感じているのなら乗れ。今日もパーティのエスコート役を調達し忘れた。……断るなら、あの転校生にこないだの話を丁寧に説明してやるけど?」「そ、それは困ります! 分かりましたよ! 付き合えばいいんでしょう?!」「なんだ、姫神を捨てて私と付き合う気なのか? それならもう少し男振りを上げて欲しいんだけど」「そういう意味じゃないです!」どんな話を姫神に吹き込まれるのか、分かったものではない。この人は嘘も平気で言う人だ。泣く泣く上条は、リムジンに近づいた。運転手をしていた壮年の男性が降りてきて、扉を開いた。軽くお礼を言って乗り込もうとしたところで、中の雲川の服装にようやく目が行った。「……かなり本気の服装じゃないですか」「そうだけど? 面倒だがパーティだから仕方ない」「俺、制服ですよ?」「大丈夫だ、問題ないけど。お前のサイズに合わせたタキシードをきちんと用意してある」良いから乗れといわんばかりに、手を雲川に引かれた。「せ、先輩危ないです……って! ちょ、うわわわわっ!!」「……こんなベタな誘いでもお前は引っかかるんだな」とにかく、柔らかい。三人が悠々と座れる広い後部座席シート。その真ん中に座った雲川の胸元へと上条はダイブした。明らかに雲川はそれを誘い、そして冗談みたいに非常事態が発生した。「なんか、謝って損した気分です。つーかこのままついていっても不幸にしかならないような」「食事代は全額負担だし、お前は大型のペットを買っていると風の噂に聞いたからな。ちゃんと土産もつけてやろう」「……ちょっとラッキーって思った自分が情けない」「ラッキー以外の何者だというんだ。お前は私の胸に今日も顔をうずめた訳だけど?」「先輩。あんまりそういうこと、やらないほうが良いですよ」「相手も時と場合も選んでいるけど。実を言うと、私はお前以外の男に胸を触れさせたことなどないよ」「え?」思わせぶりな意図を感じて上条は言葉に詰まる。「お前ほど面白い人間は、今のところ片手で数えられる程度しか知らないからな。遊びの対価にこの程度は悪くないと思うけど」ぐっと、雲川が胸を押し上げるように腕を組んだ。胸元の大きく開いたベージュのドレスは、抜群のスタイルをもつ雲川が着ると破滅的なまでに男の視線を釘付けにする。上条もその魔力に抗うことは出来なかった。「ふふ。彼女に今のお前は見せられんな」「う」「捨てられんように一途でいることだな」「ええ、まあ。忠告ありがとうございます」「さてそれじゃあ、ここにタキシードがあるんだけど」「はあ」「着替えろ」「……まさかここで、ですか?」「お前はそんなみっともない姿で私を会場にエスコートする気なのか?」「いやでも」「広さは充分だろう。お前の家より広いんじゃないか? それに、私はお前の下着姿が晒されても特に気にしないけど」「俺が恥ずかしいんですよ! それと車内よりはいくらなんでもうちのほうが広いです!」「ほう、恥ずかしがるのか? それなら、見てやってもいいかと思えてきたんだけど」「ああもう、先輩アンタぜったい面白がってるだろ!」「だからそう言っているだろう。ほら、私に恥をかかすな。さっさと着替えろ」雲川はこれっぽっちも容赦がなかった。そろそろと、制服を脱ぐ。隣のニヤニヤとした視線が絡みつくのが分かった。制服の下には肌着代わりのTシャツを着込んでいる。さすがにそれを脱ぐのは躊躇われるのだが、脱がずに許してはもらえなさそうだ。腹からシャツをめくり上げて、少し強引に頭から引き抜いた。「……ふむ。悪くないな」「趣味が悪いですよ。性格もですけど」「そんなことを言われると、もっと嬲りたくなるけど?」「くそ、最悪だ」「バッグの中のカメラを取り出しても良いんだぞ?」「ちょ、それは洒落にならねぇって!」口喧嘩でとても勝てる相手ではない。上条はさっさとシャツに袖を通した。スーツの下に着るフォーマルなシャツを肌の上から直接着るのには少し抵抗があった。そして次は。「……」「お願いですから視線を外してはいただけませんか、位は言えないのか?」「言ったらどうするんですか?」「さあ。言い方によっては聞いてやってもいいと思ってるけど」「ちなみに、俺が普通の言い方でお願いしたら?」「肌理を矯(た)めつ眇(すが)めつ出来る距離で堪能してやる」「ああもう、勝手にしろこのバカ先輩」上条は自棄になって、ベルトをカチャカチャと外してズボンをずり下げた。「ひっ。か、上条。私はそんな覚悟、できてない、けど」「なんで被害者みたいな声上げるんですか!」「お前はどう思っているか知らないが、私は……処女なんだ。そんな乱暴なのは、いやだ、けど」恥をかいてるのはコッチだチクショウと呟きながら、上条は必死にタキシードの下を身に着ける。「ふう。とりあえず難関は乗り切った」「つまらんな」「先輩を楽しませるためにやってるんじゃないです」「じゃあどうして、パーティに付き合ってくれたんだ」「脅したじゃないですか」「そうだったかな?」「そうでしたよ!」言いたいことを山ほど抱えながら、袖口を留めようとする。だが、ボタンとは別に立体的な留め金みたいなのがついていて、何がなんだかよくわからない。「カフスも知らんのか?」「え、いや、そういえばメイド学校の子が」「こうやってつけるんだ」クスリと笑って、雲川が上条の手首に触れた。「腕をこのままに」「あ、はい」袖にあいたボタン孔をあわせて、カフスを通す。雲川の、少しかがんで谷間のよく見える胸元にドキリとした。上手く出来たのか、人を食ったような笑みの中に満足げな色を浮かべて、雲川が離れた。「うん。お前にはあんまり華美なのは似合わないと思ったからな。我ながら、いいチョイスだった」「まあ分かってますけど。カッコつけても仕方ないことくらい」「何を言う。お前は優男じゃない、というだけだよ。お洒落は誰にだって必要だ。何人の客が、お前のカフスと私のイヤリングの意匠が同じことに気づくかな?」「えっ?」よく見ると、髪に隠れたイヤリングがあった。イヤリングは宝石を咥えているから別物に見えたが、上条のカフスと確かに類似性があった。「これ、絶対誰も気づかないんじゃ」「そうかもな。それでいいけど」「はあ」「深遠な意味は、深遠なままだからいいんだ。ほら、さっさと着替えろ。もうじき着くぞ」ニヤリと笑った雲川が、蝶ネクタイに手を伸ばした。じっとしていろ、と告げて上条の首筋に腕を回した。「あっ!」雲川が突然、声を上げた。シートに普通に座った上条と違い、少し体を浮かしていたせいでカーブの遠心力に振り回されたようだった。ぽふりと、上条の胸元に雲川が覆いかぶさった。柔らかい。とにかく柔らかい。「ちょ、あの」「ふ、ふふふふふふ。あはは」「先輩?」「本当に、お前といると退屈しないよ。今のはどこが不幸なんだ?」上条の胸板で双球を潰しながら上目遣いで雲川が覗き込んでくる。雲川は重たくなどないが、なぜか息が出来なかった。「あの、先輩。この姿勢は……」「うん? エスコート役なのだからこれくらいは役得だけど?」「い、いいから早くネクタイつけてください」「ふふ。わかったよ」くすくすと笑う雲川の息が耳にくすぐったい。思ったより器用に他人の蝶ネクタイをしめて、雲川がそっと体を離した。「あとはそのベストとジャケットを着れば終わりだな。ふう、楽しかった」その言葉に悪態の一つでもついてやろうと思ったのに、なぜか言い返せなかった。リムジンがスピードを落とし、大きな建物の前のロータリーへと入っていった。居心地が、とにかく悪い。ホールの片隅でそっと奏でられるカルテットの弦楽と、さざめくような談笑。パーティというものを楽しむ人たちの高尚さが庶民の上条には辛かった。「……で、どうすりゃいいんですか」上条の腕には、軽く雲川の手が絡められている。エスコート役の典型的な所作だった。何をしていいか分からない上条にしてみればひたすら憂鬱だった。あと何時間やるんだコレ。「なに、お前が人脈を持っていて私の元に誰かを紹介してくれる、なんてのは期待していないからな。お前は飾りだから、ちょっと挨拶を済ませたらあとは料理でも貪っていろ。私にも泥を塗られるほどの顔の広さはないものでね、いくら無作法をしても構わないけど」「……言われるまでもなく腹だけは満たして帰る気でしたけど」「そうするといい。ああ、お前が持ち前の女運と不運で面白い展開を引っ張ってきてくれるのを、実は期待している」「俺はお断りです。目立たないように壁際で食ってますよ」「ふふ。まあ、とりあえずはついてきてもらうけど。ほら、あちらへ私をエスコートしろ」「先輩が俺をエスコートしたほうが早いじゃないですか」「私が男性にエスコートされたいと思ってはいけないのか?それと……ねえ当麻。先輩なんて名前の呼び方は寂しいのだけど?」耳元で、雲川の声が急に甘えた響きを伴った。その拍子に胸が僅かに押し付けられ、いい匂いがした。「な、なんですかいきなり」「こんな場所に学校の後輩を連れてきたって思われるのは嫌なのだけど。先輩って呼び名をやめて、芹亜と呼んでほしい」それは、ちょっとマズい提案だった。姫神以外を名前で呼ぶのは、姫神との約束に反する。……外人さんの知り合いは下の名前で呼んでいるのだが。「雲川さん、とかじゃ駄目ですか」「つまらない」「問題がないみたいですしじゃあ雲川さんで」「つまらない、と言った」「いいじゃないですか雲川さん」「なんで頑ななんだ」「姫神以外の女の人を、下の名前で呼ぶのってよくないと思うんですよ」「そうか」あっさりと、雲川が引き下がった。「恋人ごっこを満喫するのが駄目だというなら、姫神からお前を寝取るほうの遊びをやるだけだけど」なんて、言葉を口にした。冗談めいた態度と口調が、本当に冗談であることを上条は願った。「まったく。不愉快だわ」エスコート役の同僚がパーティが始まって早々、どこかに姿をくらましたためだった。理事の息子だかなんだかの化けの皮をかぶった同僚がいないと、声をかけてくる男が増えて鬱陶しい。あの優男の顔を見るのも愉快ではないが、下心丸出しの顔を向けてくる豚よりはマシだ。結標はため息をついて、手にしたグラスの炭酸水をあおった。「すみませんね、知り合いの顔が見えたもので」不意に隣から、二十代の後半くらいと思わしき男性に声をかけられた。「ああ、驚かないで下さい。海原です、というと本名ではないのでおかしな気分ですが」「便利な能力ね」「ええ。開始早々に酔っ払ってしまった客がいて助かりましたよ。おかげで素早く顔を『貸して』もらえました」「それで仕事に支障はないの?」「……素性の調べが足りない人間に化けていますからね、不測の事態はあり得ます」「使えないわね」「返す言葉もありません。ですがこの仕事は座標移動の貴女がメイン。私は助手ですから」海原光貴としてであれば、数人いる護衛対象の一人、雲川芹亜と楽に接触できたのだが。隣に『彼』がいる状況ではそれは難しかった。ついでに言えば何故隣に御坂美琴以外の女性がいるのかと一言くらい言ってやりたいのだが、それも叶わない。「にしても、統括理事会の一員のブレインともあろう人が、まさか『幻想殺し』をつれまわすなんてね。魔除けの護符代わりなのか、それとも政治的な意図のあるカードなのか。彼も随分と苦労をする」「あのツンツン頭は有名人なの?」「一部の業界では。ご存知ありませんでしたか?」「ええ。特に興味にある男じゃないし」「そうでしょうね」「……随分と含みのあるに聞こえるのだけど?」「売り言葉に買い言葉はやめておきますよ。さて、顔くらいは覚えてもらわないと動きにくいので、ちょっと護衛対象を口説いてきます」「似合っているわ。その顔の軽薄さに」「僕もそう思います」『魅力たっぷり』なんて感じに作ったスマイルを結標に向けてから、海原と名乗る同僚は歩き出した。「はー、やっと終わった。腹いっぱいメシ食わないと割に合わないな」なぜか雲川に擦り寄ってくるお偉いさん達が多くて困った。そりゃあ先輩は綺麗だけど、声かけてくるのが40代以上って。ぶっちゃけ先輩も困ってたんだろうな。……もしかして、あの人ああ見えてものすごい年上好みなのか?そんなことを内心で思いながら、スモークサーモンやら鶏肉の煮込み料理など、値段が高いか手間隙が掛かっているか、そういう感じのする料理を皿に盛っていく。ジュースを配るウエイトレスからオレンジジュースを貰って、辺りを見渡す。「あの辺でいいか。人少ないし」料理から程近い位置。ぽつんと同年代くらいの女の人が立っているのは気になるが、こちらも一人身だ。目線が一瞬絡んで、上条は少し違和感を感じた。敵意というほどでもないが、どことなく視線に自分を値踏みするような意図を感じたのだ。ドン、と背中に衝撃。話が盛り上がっていたグループの一人が、ぶつかったらしかった。「あっ、すまない!」「へっ?」両手がふさがった上条は、なすすべなく前のめりに倒れていった。結標は冷静に、対象物の位置を測る。品のない乗せ方で料理が山盛りになった皿と、幸いにグラスから飛び散ってはいないジュース、そしてこちらに向かって倒れてくる例のツンツン頭。結標に接触してこようとするきっかけは偶然のようにしか見えなかったが、もちろんそうとは限らない。それに、不可抗力であっても自分に触れようとする男を避けない手などない。まあ自分ではなく、相手が避けるのだが。軽いものから順に。皿とジュースは丁寧に位置と角度を気遣って離れたテーブルに置いた。誰だか知らないけど。貴方が突っ込むのは私じゃなくて、隣の壁で充分よ。1メートルほど、結標はその男を横に『座標移動』させようとして――――むにゅりと、柔らかい感触がした。肌の露出の少ないドレスだから分からなかったのだが、どうも、この感触はブラを隔てていないような。サラシでも巻いているだけなのか、なんというかやけにダイレクトな感じのする手触りだった。「ひっ」「ごごごごめんげほぶ!」目の前の気の強そうな女の子は、顔を真っ赤に染めて、驚いたような傷ついたような顔をした。……かと思いきや、一瞬で獰猛な睨み顔になって、懐にあった懐中電灯みたいな棒で上条の腹を思いっきり殴り飛ばした。「おいおい。人の連れにそういう露骨な手出しをしないでほしいなあ。というか君にも美人の連れがいるじゃないか。この子は見かけどおりの気の強さだからね、殺されても知らないよ?」20代半ばくらいの軽薄そうな男が、その女の子の傍に寄り添って肩に手をかけた。忌々しそうにその手を振り払う仕草は、とても仲良さげには見えない。「ほんとすみません」上条は自分に非があるので謝った。殴られてから謝るとちょっとやるせなかった。そしてよく見ると、目の前の少女にはなんとなく会ったことのあるような気がした。「何かしら?」「あ、いやなんでも」「……」「その、どっかで会ったことがあったような?」「ないわね」睨まれる。だから自分でもためらったのだが、ナンパの前口上としても陳腐すぎた。「あ、そうだ! たしか御坂妹に呼び出されて白井を助けに行ったときの!なんかボッコボコにされて屋上に引っかかってたから救急車呼んだんだっけ」「なっ!」その一言で、結標はようやく知った。あの時、座標移動で白井を押し潰すはずだった大質量がなぜ誰も殺さなかったか。そして今、なぜ目の前の男が自分の能力に従わず、突っ込んできたのか。「……そう、私も貴方と無関係ではなかったということね」「みたいだな。ま、元気そうで良かった」「おかげでパーティに出られるくらいにはね」ふと見ると、隣の男が困った顔をしていた。傍には雲川が立っていた。「また、別の女性に声をかけているの?」「人聞きの悪い」「貴方には私というものがあるはずなんだけど」「はあ」むすっとした表情を露骨に作った雲川がそんな風に愚痴を言った。この会場で賓客たちと柔らかい口調と表情で談笑する雲川は、普段とは別人といってよかった。今も物憂げな顔立ちと危険すぎる肢体に幼い感じのする嫉妬を載せて、いつもと違う破壊力を秘めていた。「おっと。もしかしてこの女性とはかなり親しいのかな?」「ええ。ですから軽薄な声をかけるのはやめていただきたいのですけど」にこやかに雲川がその軟派な青年にノーを突きつける。これは失礼と言って青年が上条を見た。その視線に、なぜだがやけに強い隔意を感じる。「実は君の事は少し知っていてね」「はあ」「君は、常盤台の女の子と付き合ったりしては、いなかったかな?」「常盤台の? 勘違いされるとしたら御坂か白井か……」「勘違いということは、付き合ってはいない、と?」「え、ええまあ」「ふうん。そうか」ふんふんと頷く。コイツもしかして御坂か白井に気があるのか?20代もそこそこの、この人が? それって。「ロリコンね」「おおい。随分な言い様じゃないか結標君」「そんな見た目で中学生と付き合いたいって言うのを、ロリコンと言って何が悪いのよ」結標という少女は冷たい目で青年を見下した。上条はロリコンという意見に完全に同意する気分だった。中学生くらいの女の子を自分も匿っていることは完全に棚に上げていた。「それで、当麻。あなたはこちらの女性に気があるの?」「は? いや、単にこれは事故で」「事故で何をしたの?」「……つい、胸元に飛び込んでしまいまして」「ふうん。恋人を、そんなに泣かせたいの?」「そんなつもりじゃ」「貴女も、事故だという認識で間違いない?」「ええ」「彼に気はないのね?」「ええ。人の恋人をけなして悪いけれど、私は彼に興味はないわ」「そう。それじゃあ、もっと気をつけて彼に首輪をつけておくわ」「え、あの」こちらに興味を失ったらしい結標と、にこやかに手を振る青年を置いて、上条は雲川に腕をつかまれて会場の別の隅へと引っ張られていった。「ふふ。一体この会場の何人が、お前と私の仲を信じるだろうな?」「やめてくださいよ。その、姫神に悪いですから」「なら私の面子を潰してでもここで振りほどくといい」「本当にやりますよ?」「……いやだ」「え?」「私はお前と腕を組みたいんだけど。嫌か?」「い、嫌って訳じゃ」そうやって雲川にはぐらかされてる隙に次から次へと雲川に声をかける客が現れて、パーティの間中ずっと、上条は言い寄ってくる男避けの弾幕としていいようにこき使われた。「ふう、ルーティンワークはこれで終了だな。あとは面倒だから壁際でお前と睦みあっているつもりなんだけど」「なんかもう、それでいいです」業務用スマイルを貼り付けて雲川に付き合うこと一時間。詳しいことは聞けなかったが、雲川が学園都市のお偉いさん方と面識があるらしいことはよく分かった。性質の悪いことに、偉い人たちは学生である上条と雲川に何のためらいもなくアルコールを勧めてくる。勿論酒を楽しむというほどのきついのではなく、ジュースみたいなカクテルばかりだったが、助けになってほしい雲川自身が面白がって上条に勧めてきたせいですでにどこか足元が覚束なかった。「ずいぶんと弱っているな」「俺もよくわかってなかったですけど、酒には弱いみたいです」「外から見ても分からんけど」「正直言って、気をつけないとふらついて酔ってるのがばれそうで困ります」「別に他人にばれてもこの場じゃ困らんけど」「なんか恥ずかしいじゃないですか。未成年なのに酒を飲んでフラフラしてるって」「そうだな」「他人事ですね」「そのとおりだと突き放すことも出来るけど。でも、連れてきた責任は確かにあるな。……それじゃあ、休憩するか」雲川が給仕をしていた女性を呼び止める。二、三言話すと、給仕係が頷いてインカムでどこかに連絡を取った。「休憩って」「長いパーティだからな。人ごみが嫌いで寛げない人のための休憩用個室があるんだよ。水を飲んで酔いを醒ますくらいの時間を休憩に当てるのもいいじゃないか。私も疲れた」渋いスーツに身を包んだ年配の男性がこちらに来た。部屋を案内してくれるらしい。その男性と雲川に先導されて、隅の視線を集めにくいところから上条はホールを出た。
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