木山先生が悩んでいる。 しきりにため息を吐きアンニュイ至極。 どうしたのかと訊いてみるが「ああ大したことではないんだが…」 と僕を心配させたくないのか、それとも単に言いづらいことなのか、気の無い返事。 僕は何となく落ち着かず、やきもきして日々を過ごしていた。 その日木山先生は外出した。「いってくる」 木山先生はにこりと微笑んでそう言うと、家を出た。その笑みは無理に作ったように見えて、どこか痛々しかった。 いってらっしゃいと見送りながら、何故か僕は、木山先生がもう二度と帰ってこないような気がした。 木山先生が家を出て少し経った頃、雨が降った。天気予報は外れた。 木山先生は今日は車ではなく電車で移動する。そのため今頃は、徒歩で駅に向かっている最中だろう。 時計を確認する。歩みの遅い木山先生のことだ。今から駅に向かって走れば、十分追いつける。 僕は傘を持って家を出た。 駅に向かう道中で木山先生に追いつくと踏んでいたのだが、どこかで追い越してしまったのか、僕は一人で駅に達してしまった。 仕方ない。どうせ帰りにも傘は必要だろうから、そのまま駅で木山先生を待つことにした。 傘を差しながら僕はぼうっと木山先生を待つ。目の前には駅のホームを臨む。 はっとした。ホーム内に佇む木山先生の姿を見つけた。木山先生は既に駅に到着していたのだ。 声をかけようとして思いとどまる。どうやって傘を渡そう。 適当な切符を買ってホーム内まで届けに行こうか。ここから木山先生に向けて投げてしまおうか。 しかし僕はそのどれも実行しなかった。 木山先生の隣には一人の男性がいた。他人の乗客だと思っていたのだが、よく見ると談笑している。 電車がくるぞとアナウンスが鳴った。 その時、男性が木山先生の肩をひいた。木山先生は少し驚いた顔をしながらも、抗えず、彼の胸の中に抱かれる。 停車する電車が、二人がキスをする瞬間を隠した。 それから僕はどうやって家に帰ったのかわからない。気づくとびしょぬれで、どこかで落としたのか傘も無くなっていた。 その日木山先生は帰らなかった。
木山先生との出会いはよく覚えている。それは僕が彼女に一目ぼれをした瞬間でもあるからだ。 暑い日だった。僕は自動販売機の前でコーラを飲んでいて、そこに木山先生が声をかけてきたのだ。「道に迷ったのだが……」 僕は思わず飲んでいたコーラを落としてしまった。木山先生はブラウスを脱いで手に持ち、下着姿だった。 零したコーラは木山先生のスカートを濡らし、木山先生はスカートまで脱いだ。「水着姿と変わらないのだから、別にいいだろう」 と木山先生はあっけらかんと言ったのだ。 木山先生の艶やかな姿を目の当たりにしつつも、不思議と僕はその時興奮しなかった。ただ綺麗だと思った。 翌朝、起床すると既に木山先生は帰ってきていて、リビングでコーヒーを飲んでいた。 僕に気づくと、「君も飲むかい」と微笑む。 僕には色々聞きたいことがある。あの男の人は誰ですかとか、昨日はどこに行っていたのですかとか。 でもそもそも僕にそんなことを聞く権利はないのだ。「どうした元気が無いな」 僕の気など知らないで木山先生は機嫌が良く、それはあの男のおかげなのだろう。 胸のそこがどろどろと溶け出していくような感覚が僕を襲った。 木山先生が淹れてくれたコーヒーを啜りながら、僕は木山先生のもとから去ることを決意した。
ふらふらと街を歩けば、僕の居場所はどこにも無い気がした。 雑踏と喧騒が遠く聞こえる。意識がはっきりせず、じんじんと疼く火傷のような痛みが全身にある。 わかっていたことではあるだろう。木山先生は最初から僕のことなど相手にしていない。 そうは思うけど……。 その場にうずくまってしまいそうになって、立ち止まった。 すると声をかけられた。「どうも」 振り返ると、佐天涙子が暢気な顔で手を小さく振っている。「さっきから呼んでたのに、何で無視するんですか」 全然気がつかなかった。半ば気絶しているような状態だったのかもしれない。 女性にふられただけで凄まじいな、と自分で苦笑した。「なに笑っているんですか? 気色悪いですよ」「うるさいな。あっちいけよ」「しょんぼりしちゃって。ひょっとして、木山先生に振られたんですか?」 笑って誤魔化したつもりだったのだが余りにも的確に図星を突かれたので うへへへと笑いながら号泣するという奇異な表情を晒してしまった。
「それマジでふられてるじゃないですか!」 マンゴージュースを撒き散らしながら、佐天涙子は声を上げて驚愕した。 どういう話の流れでそうなったのかよくわからないが、僕と佐天涙子は近くの喫茶店に移動しており、 僕はことの顛末を佐天涙子に根掘り葉掘り聞かれるという事態に陥っていた。 あまりにもはっきり物をいう佐天涙子に若干苛立つ。「木山先生には何も言わなかったんですか」「言わないよ。そもそも言える権利がない……」「ちっちゃいなー! 男としてやばいですよそれ。 まああんまりしつこい男も嫌われますけど、あんまり理屈っぽいのもちょっとねぇ」「お前にどう思われようとかどうでもいいんだよ!」「それちょっと傷つくなー」 佐天涙子はむくれた顔を見せると、コップの中の氷をストローで突いた。「それで、部屋を出てきたと」「そう。もう帰れない。二度と会えない」「弱いなー」「……傷心の男を相手によくもそこまで言えるもんだ」「でもどうするんですか。家無き子じゃないですか」「どうしようもない。ホームレスだよ」「うわ引くわー」「その語尾伸ばす口調やめろむかつくわ!」 それじゃあ、と佐天涙子はストローを咥えると、上目遣いで僕を見る。「私のところきますか?」「あっ、それは助かるわ」「軽っ!! もっとこう…何か無いんですか? 男と女が、とか!」「女も何も君中学一年生じゃないか」「まあそうですけど…。でもまあ、さすがに二人きりじゃないですよ。ルームメイトと一緒に暮らしているんですよ」「そうなんだ良かった安心した」「あんたが安心するなや!」
さっそく、佐天涙子が住まうマンションに連れて行って貰った。「ちょっと散らかってますがまあ野宿よりは良いですよね」「ゴキブリは簡便な」「出ねえよ! 花も恥らう乙女の部屋だバーロー」「それじゃおじゃまします」「躊躇せいや! もっとこう…女の子の部屋に入るドキドキ感とかそわそわ感とか、 そういうイベントちゃんと踏んでいけや!」「ゴキブリでたらどうしよう…」「そういうことじゃねーよ!!」 少し散らかっているとは言ったものの、佐天涙子の部屋は小奇麗に整頓されていた。 しかし他人の部屋というのは、最初入ったとき、自分の居場所を見つけるのが少し難しい。 立ち往生していたら、佐天涙子はやかんに火をかけながら言う。「まあ適当に寛いでください。お茶ぐらいは淹れてあげますよ」 勉強机があったので、椅子を引き、そこに腰掛けた。 何気なく台所で作業する佐天涙子の後姿を眺めていたら、ふいに振り返った。 そして神妙な顔でこんなことを言う。「さっきの話の続きなんですけど 好きな人に気になることがあって、それを訊くか訊かないかは、理屈じゃないと思いますよ。 権利がどうとかそういうくだらないことじゃなくて、大切なのは……」 佐天涙子は自分の胸をとん、と叩いた。「心ですよ」「全然上手いこと言えてないよ」「別に受け狙ってねぇえええんだよ!!!」 ところで、と僕は話題を変えた。気になることがある。「ルームメイトの友人の姿が見えないけど」「ああ、友達はジャッジメントをやってるんですよ。多分夕方には帰ると思います。 さすがに友達がいなければ、あんたみたいな変態家に呼んでいませんから、そこは勘違いしないでくださいね」「はぁ?」「はぁああああああああああああああああああああああ????????」 その時、部屋に携帯の着信音が響いた。佐天涙子のものらしい。彼女はポケットから振動する 携帯電話を取り出すと、慣れた様子で耳に当てた。「もしもし。……うん。……うん。……えぇっ!!」 突然、佐天涙子は奇声を発した。そして、みるみる端青ざめ始める。様子がおかしい。 通話を終えて携帯を畳んだタイミングで、僕は「どうした?」と声をかけた。 佐天涙子は震えた声で、「友達、今日は別の友達の家に泊まるそうです……」と言った。
時は流れて夜である。 その時分、佐天涙子の部屋にはバリケードが設営された。 ダンボールを天井付近まで積み重ねて造られたそれは、佐天涙子のベッドの周りを固く閉じるように設置される。 さらに佐天涙子は枕元に携帯を置き、何があっても瞬時に助けを求められるような状態を作った。 よくもまあここまで、と半ば呆れていたら、ダンボールの向こうから佐天涙子の声が聞こえてきた。「絶対近寄らないでくださいね。ダンボールに触るのも無し」「気をつけるよ」 僕は適当に返事をしながら、床に寝転がった。 カーテンから差し込む月明かりが少し眩しい。また布団も毛布もないため、 寝苦しいことこの上ないが、贅沢はいえないだろう。 ぼうっと天井を見上げていたらバリケードの向こうから「あの」と声が聞こえた。「これからどうするんですか?」 もう寝ていることにして、無視した。その話は酷くめんどうだったし、いちいち蒸し返す 佐天涙子に苛立ってもいた。 佐天涙子は構わず続ける。「まさか諦めたりしないですよね? あんなに熱烈アプローチしてて」 佐天涙子の声色は、何故か緊張して強張っているように聞こえた。「諦める、とか言わないでくださいよ。……ドキドキして、眠れなくなりますから」 以降佐天涙子は喋らなくなり、僕もゆっくりと、寝入った。
その夜木山先生の夢を見た。僕の夢の中で彼女は裸であり、細かい描写は割愛するが、とんでもない淫夢だった。 カーテンを照らしていた月明かりが朝日に変わる頃、僕は自然に目が覚めた。 夢の余韻に浸りぼうっとする。次第に意識がはっきりし始め、同時にみるみる青ざめてしまった。 慌ててパンツを確認する。大丈夫だった。 ふと、バリケードが崩れていることに気づいた。ベッドがあらわになっている。佐天涙子はいない。 代わりに、ベッドには木山先生が腰掛けていた。目が合う。 まだ夢を見ているようだった。「朝から元気なことだな」 木山先生は僕のモーニンググローリーによって膨らんだ股間を見て言った。 少し、不機嫌なようにみえる。まあそんな木山先生もいい。 僕は先ほどの夢でそうしたように、おもむろに木山先生を押し倒した。 木山先生は驚いた面持ちで僕を見上げた。「何のつもりだ」 木山先生はやっぱり、少し不機嫌だ。 でもこれは夢なんだから構わない。夢の中なのだから、好きなことを言える。「木山先生、僕だけをみて欲しいのよさ……。ずっと、いつまでもそうしてほしいのよさ……」 木山先生ははっとした顔をしすると、顔を赤らめた。そして僕から顔を逸らしてしまう。 彼女に抵抗する気配は無いが、肩は少し震えていた。 僕は、木山先生に覆いかぶさった。 その時、後頭部を殴られた。はっきりとした痛みだった。 混乱状態で振り向くと、鬼のような形相をした佐天涙子が僕を睨んでいる。「人のベッドの上で何してんですかあんたは!」 訳がわからず、僕はもう一度木山先生を見た。 赤面し、困惑した顔で僕を見上げる彼女と目が合った。「寝ぼけているのか……?」 驚きすぎて、呼吸が止まるかと思った。
とりあえず正座、と佐天涙子は床を示した。 僕は言う通りにしながら、「ど、どうして木山先生がここに」と当然の疑問を呈す。 佐天涙子は腰に手をあてて、呆れたように僕を見下ろすと、実に簡潔な答えを返した。「朝方、連絡があったんですよ。あの阿呆を知らないかって。木山先生はあんたのことを探していたんですよ」 僕は恐る恐る木山先生を見やった。木山先生はまだ赤い顔をしていて、僕と目が合うと顔を逸らした。 だけど木山先生は、明後日の方向を見ながら、怒ったように言った。「突然いなくなったりするなんて、迷惑な男だな君は。何を考えているんだ」「何をって…」 僕は口ごもりながら先刻の事態を思い返した。 木山先生は僕に押し倒されたというのに、抵抗しなかった。 もし佐天涙子がいなければ、もし僕がこれは夢だと勘違いしたままだったら……。 いやそれよりも僕は、もっととんでもないことを口走ってしまっている。 何も言わない僕に、木山先生は一つため息を吐いた。「とりあえず帰ろうか」 そう言いながらベッドから立ち上がり、佐天涙子に向き直る。「君、すまなかったね」「いえ別にそんな」 そして木山先生は僕の手を引いた。「ほら、帰ろう」 だけど僕はその手を振り払う。「すみません、無理です……」「それはどういうことだ」「だっておかしいでしょう」「何が」「付き合っている男性がいるのに、僕が近くにいては……」 木山先生は短く悲鳴をあげるように、息を呑んだ。「どうしてそれを……」 僕はゆっくり立ち上がって、玄関に歩んだ。もうこんなところにいられない。 木山先生が僕の手を掴む。振り返ると、呆然とした顔の木山先生と目が合う。この中で一番、彼女が驚いていた。 僕はまたその手を振り払い、部屋を飛び出した。
あてもなく街中を歩きまわり、次第に夜になる。 歩きつかれた。路肩によって座ると、本物のホームレスのようだと苦笑する。 これからどうしたらいいのか考えた。行く当てはない。頼る知り合いもいない。 木山先生と知り合う前のことを思い出す。 僕は孤独だった。誰も僕を見ないし気にかけない。透明人間のようなそんな奴だった。 僕はそれでいいと思っていた。独りでも何も問題は無かった。困ることも無い。 夜によく眠れなかった。夜中突然目覚めたりする。窓からの月明かりが酷く寂しく見えた。 そんな時どうしてか、僕は泣いていた。 今、そんな気分だ。 腰掛けていた路肩に、そのまま寝転がった。コンクリートが硬くて、骨があたると痛い。 構わず目を閉じる。寝てしまおう。 手を振り払ったときに見た木山先生の顔が、脳裏に張り付いている。 僕は木山先生と一緒にいてはいけない。それは間違いない。木山先生だってそう思うだろう。 だというのに何故、あんな悲しそうな顔をするんだ。
全てがデータ化された学園都市では浮浪者の存在など許されない。 あちこちにはカメラがあり、学園都市全体は監視されている。 だから木山先生ほどの人なら、その情報を伝って僕を見つけることなど容易いのだろう。 ごつごつしたコンクリートで体中が痛い。気づけば朝になっていた。 起きたとき、掃除ロボットが僕の周りにたかっていた。 カラスにそうされるよりはマシかと考えながら顔をあげると、見覚えのある顔が僕を見下ろしていることに気づいた。 木山先生である。 思わず笑ってしまった。なんと発展しない展開だろう。 しかし僕はほっとしていた。 情けないことに、僕は心のどこかで、木山先生が僕を探しにきてくれることを期待していた。 困ったような笑顔が僕を見下ろしていればよかった。 だけど木山先生は僕を無表情で見下ろしていた。「君はどうしようもない奴だな」 そう言うと木山先生は僕の頬を一度叩き、吐き捨てるように言った。「二度と私の前に現れるな。……これを言いに来たんだ。そ知らぬ顔で『ただいま』などと 家にこられても癪だからな」 そうして木山先生はどこかへ去った。後姿は遠く見えた。 僕は木山先生が探しにきてくれることを期待していた。僕は木山先生が好きだった。心の一部だった。 そんな人を殺したいほど憎くなることがあるなんて、思いもしなかった。 僕は要するに、木山先生がまた僕を受け入れてくれることを望んでいた。 僕だけが必要だと言って欲しかったんだ。母親を心配させたい子供が家出するような感覚だったのだ。 他の男とキスしないで。僕だけを見て欲しい。僕を受け入れて欲しい。僕が傍にいないと生きられないんだって本気で言ってよ。 お願いだから僕を否定しないで。 心の一部なのに腐り落ちた。 こんなに思っているのに、どうして僕にはキスさせてくれないの? なんて身勝手だけど、本気でそう思うんだ。 僕はどうしようもない変態だ。だから木山先生は僕に振り向いてはくれなかった。 だけど僕を否定しないで欲しい。 君が僕を否定するなら、僕は死ぬしかなくなるんだ。 心が落ちていき、僕は立ち上がれない。
僕を迎えにきた佐天涙子はこういう。「木山先生はあなたに信じて貰えなかったのがすごく悲しかったんだと思います」 それってどういうこと?「全部あなたの勘違いですよ。男の人は木山先生が研究所にいたとき知り合った学友で、 男の人は木山先生にアプローチしていたけど、木山先生にその気はなかった。 だからはっきり断るために、あの日、彼に会いにいったんですよ」 でももう遅いよね 佐天涙子は遅いんです、と言った。
僕は木山先生に連絡をとった。先生は「最後に少しだけ話をしよう」って言った。それって電話越しなんだ。 木山先生もずっと不安だったの? 僕に勘違いされるんじゃないかって? でも僕のことを信じてくれていたの? だから平気な顔をしていたの? 僕にその気持ちはわからなかったなぁ。 って、全部そういうことが、あなたにも伝わってしまったんでしょうね。 僕はあなたを拒絶するふりをして、また受け入れてもらいたかったんだ。 そんな僕の糞みたいな考えで全部がもう崩れたんだね。 僕がふりでやった拒絶はあなたをこなごなにしてしまったんだね。今やっとわかったよ。 でももう遅いよね。 僕の馬鹿みたいに高いプライド。『私を信じてくれないなら、もう私たちは無理なんだ』 本気で言っているの? その誤解が解けたならもう、って僕は思うんだけど。『それだけで全部壊れてしまうのには十分なんだよ』 僕はそうは思わない。また一つ一つ組み立てることもできるはずだ。ずっと前から僕たちは一緒だった。『お前だけはって思っていたのは、私も同じだよ』 そうなんだ。初めて知った。 木山先生は涙を含んだ声で『お前は最初から何も私のことをわかっていなかったんだな』と言った。 僕たちはお互いに何も分かち合ってなんかいなかったんだね。きっとずっと前から。 じゃあもう無理だね。 全ては崩れ落ちたみたい。あるいは最初からそうだったみたい。 さよなら木山先生。
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