上条は街を走っていた。 学園都市の道路。学生の利便性第一に創られたこの街は、歩道が広く設定されている。 だがそうは言っても今日は連休初日だ。道行く人の数は多く、その方向も点でばらばらである。こんな中を全力疾走すれば、50メートルも進まないうちに誰かに衝突してしまう。 そのため、いま彼が駆けているのは、表通りから一本裏手に入ったいわゆる裏路地である。 登校時には各地区に点在している学園に向かうため、ある意味にぎわうこの小さな路地も、いまは上条以外に走るものはいない。 表通りから微かに届く有線と宣伝の音。いつもの日常が続くその僅か隣の道で、上条の非日常は刻まれていく。(くそ! 間に合えよこんちくしょう!) 整っているとは言いがたい彼の顔に浮かんでいるのは、紛れもない焦りだった。 学生寮からの脱出に予想以上の時間をとられたのが、その焦りの原因である。 彼の脳裏に、この夏に出会った錬金術師との戦いが思い起こされる。 いまはもう記憶を失い、顔も名も変わっているだろうその男は、十分に準備された結界の中であれば文字通り何でもできる男だった。 あのときと同じ術を―――少なくとも上条には同じにしか思えない―――使うものが、この都市の中にいるのだ。 それだけでも焦燥感が募るというのに、今回はさらにやっかいだ。上条の足止めという先手を打たれている。 こちらから乗り込み、向こうが受ける側だったときと、明らかに状況が違う。 捕獲用の魔術でも仕掛けられていたら、朝、インデックスがエレベーターに乗った時点で、勝負がついている可能性だってあった。
悪いことは重なる。 結界が張られたのはおそらく、上条が水銀燈と戦い、廊下に出たその直後。それまでは室内のものに普通に触れている。テーブルサンドイッチが、何よりあの段階では結界は張られていなかった証明である。 あの後、上条は部屋の中の物に何も触れることができなかった。ドア自体は開放状態だったので問題なかったが、中にある荷物はすべて『コインの表』だ。(せめて携帯があれば、電話もできるっていうのによ!) 歯噛みする上条。 床に落ちた家具の破片すら拾えない上条。なんとか発見した携帯電話は不幸にも壊れた家具の下に滑り込んでしまっていたのである。 さらに最悪なことに、固定電話も戦いの影響で壊れてしまっており、財布は残骸に埋もれて見つからなかった。 小萌の家に電話して安否を確かめることもできないのだ。 すぐに駆けつけようとした上条であったが、それも叶わなかった。 エレベーターが使えないのは証明済み。その上、非常階段に通じる扉が、閉じられていたのである。 避難通路になるその階段の扉は通常閉じたりしない。設置義務でもあるのかいたずら防止のためなのか、一応設けられているその扉は少なくとも上条が入寮して―――いや『いまの上条』になってからこっち、閉じられているのを見たことがない。 誰かが閉めたのかはわからない。魔術師かもしれないし、寮生のだれかが異様な片付け魔で閉じていないのがいやだったのかもしれない。 どちらにしても、その段階で上条は脱出の手段を奪われてしまっていた。
そんな八方塞の彼を助けたのは、「当麻、少し落ち着くのだわ」 上条の耳に、静かな声が響く。 真紅だ。 魔術師が水銀燈と関係がない―――つまり、真紅も結界適用範囲外であることを指摘したのは、結界がどういうものなのかを把握していない真紅の方だった。 エレベーターが危険なのは三沢塾で知っていたので、彼女の手で非常階段の扉ドアノブを開けてもらったのである。 人の多さに危険を感じたことと、左腕に座る真紅の存在が異様に目立つこともあって、裏路地に入ったのは正解だった。学生寮からの全力疾走は止まることなく続いていた。 そんな上条の左腕に腰掛けて首に手を回した姿勢の彼女が、彼の顔をじっと見ている。「落ち着いてなんかいられるか! こうしてる間にも、あいつらがやべぇかもしれねーんだ!」 全力疾走で荒れた息そのままで言い返す上条。 インデックス、姫神、小萌。 自分が大事だと思う人が危険に晒されているかもしれない。 そう思うと―――八つ当たりだとはわかっているが―――冷静そのものの真紅の声が苛立ちを生んでしまう。 だが怒鳴り返された真紅は、「落ち着きなさい、と言っているの」「っ!?」 同じ言葉を繰り返し、上条の耳を右手で引っ張った。
「いてえっ!? 真紅何してっ、いててていってえ千切れる千切れる!」 くい、という可愛らしいレベルではない。耳たぶを引っこ抜こうかというほどの力で引っ張られて、上条は痛みに脚を止めた。 反射的に右手を真紅に伸ばそうとして―――あわててその手を止める。包帯で巻いていても、もし緩んでいて素肌が真紅に触れれば彼女を殺してしまう。 さきほど脱出の際に上条の『幻想殺し』について説明を受けた真紅。 理解力と応用力はインデックス以上に思える彼女は、左手のふさがった彼は自分に抵抗できないことを承知でしているのだ。「いいこと、当麻」 ぱっ、と耳たぶを放し、真紅が上条の顔を覗き込む。「貴方が焦ることで走る速さがあがるのなら、私は止めない。でも、そうではないのでしょう?」「そ、そりゃそうだけどだからって落ち着いてなんか・・・」と、上条。 だが真紅は、いいえ、と首を振った。「自分では気がついていないでしょうけれど、いまの貴方は倒れる寸前よ。生身で水銀燈と戦い、契約した私が力を振るった。その上で、今までずっと走ってきている。このままじゃ先に貴方が倒れてしまうのだわ」「・・・・・・」 上条は荒く息を吐きながらも沈黙を返した。 そんなことはない。 彼はそう思う。もっともっと体力を失った状況で戦ったこともある。 だが真紅の瞳に浮かぶ光が、その反論を喉元で押しとめていた。 自分を真摯に心配してくれる相手の言葉を、大きなお世話だ、と切り捨てられるような人間ではないのだ。 真紅は言葉を続ける。
「お願い当麻。無理を言っているのはわかる。だけど、少しでいいから冷静になってちょうだい。貴方がここで気を失っても、私にはどうすることもできない。私は行き先がわからないし、迂闊に人前に出ればそれどころじゃなくなってしまうのだわ」「・・・・・・」 ここは学園都市だ。精巧な人形も自立駆動する機械も珍しくない。 それでも真紅はそれとは別格だ。彼女が他の誰かに見つかれば、騒ぎにならないわけがなかった。 魔術を理解しないこの都市において、彼女は研究材料として格好の的になるだろう。「・・・・・・」 上条は真紅から目を逸らし、大きく息を吸った。腹に息を呑み、ゆっくりと吐き出す。それを数回繰り返した。 魔術師や能力者との戦いで、いつの間にか身についた腹式呼吸。 バクバクと動く心臓が着実に酸素を全身にめぐらせ、代わりに本当に不要な分の二酸化炭素を排出していった。 荒い呼吸は容易に過呼吸を引き起こすもの。息が切れるような状況ほど、的確な呼吸が大切なのである。「・・・・・・」 そうしてわかるのが、予想以上の自分の疲労だった。 体力と打たれづよさ、回復力には自信がある彼にして、体の芯にねばりつくような疲労を明確に感じる。 予想以上に、疲れていた。
「・・・ごめんなさい」と、その表情を見て取った真紅が言った。「契約は私の力を引き出すために必要な手続きに過ぎない。私が力を振るうと、どうしても、貴方の体力を奪ってしまうのだわ」「そうなのか?」「ええ」 平静だがどこか申し訳なさそうな響きを持つ真紅の声。 だが上条は、そんな彼女にちらり、と笑みを浮かべてみせた。「んなもん、気にすることなんかないさ。必要ならどんどん使ってくれりゃいい」 彼の口調は先ほどよりもずっと落ち着いている。呼吸はまだ乱れているが、荒いわけではない。「でも・・・」「それにさっき、真紅は俺を助けてくれただろ? この程度で文句言ってたら、バチが当たっちまうよ」 ぐっ、と右手を握る。先ほどよりも力が入った。重かった脚も幾分軽くなったようだ。「・・・よし」 それを確認し、上条は顔を巡らせた。 路地の隙間から見える表通りの風景で、現在位置を確認。改めて小萌の家まで距離とルートを再検索する。 やや遠い。だが回復したいまの体力なら、途中数回の呼吸調整でたどり着けない距離ではなかった。 逆に言えば、さっきまでの体調では途中で動けなくなっていた可能性のある距離である。
「・・・真紅、しっかり掴まってくれ。ここからなら一気にいけると思う」「わかったのだわ」 真紅がうなずき、上条の首に手を回した。「それと、その」「?」 駆け出すと思ったところで言葉が続き、真紅は上条の方に目を向けた。 彼は横目で彼女を見ながら、「さんきゅ、助かった」「え・・・」 それだけ言って、上条は地面を蹴った。 もう彼は真紅を見ない。前だけを見て、路地を疾走する。「・・・・・・」 再びゆれ始めた視界。 真紅は振り落とされないよう、両手に力を込めながら、「まったく、世話のやけるマスターを持つと苦労するのだわ・・・」 と、言った。「・・・見えた!」 ビルの密集によって迷路のように張り巡らされた路地を疾駆し続け、もういくつかわからないほどの路地角を曲がった先。 頬といわず額といわずに大粒の汗を浮かべた彼の目が、ついに目的地を視界に納めた。 真正面。大通りに面した路地の切れ目。 その大通りの向こう側に、築何十年かわからない二階建てアパートが見えた。 アパートをはじめとする賃貸住宅が並ぶ、この住宅街。人口のほとんどを学生に占められているこの都市において、大人といえば教師と研究者がほとんどで、それ以外には商店デパートの従業員と言った所だ。 家族と同居している学生は、せいぜいそれらの家族である場合のみでほとんど皆無である。ここはそんな比率的に圧倒的少数である大人たちの一角だった。 昼時ということもあって、商店街と異なり往来はほとんどない。 これなら上条の左腕に腰掛けた真紅も、そう目撃されることもあるまい。仮に見えたとしても、せいぜい学生が何かの悪乗りをしていると思われるだけだろう。「すまんっ、このままっ、行くぞっ!」 機関銃のように呼吸を繰り返しながら―――もう腹式呼吸をするだけの体力もない―――上条が真紅に告げる。「ええ」 対する真紅は必要最低限の返事だけを返した。 上条の言う目的地の場所はわからない。だが彼の視線と表情から、もうそれが程近いのだろうということが伺えた。そこまでわかれば十分だ。
真紅は上条を見る。 いくら冷静さを取り戻し、幾たびか呼吸調整をしたとは言っても、彼は人間だ。連続して動き続ければ疲労の蓄積は早くなり、回復は遅くなる。 顔色は赤をとっくに通り越して青くなっている。迂闊に話しかければ、この男は律儀に質問に答えようとするだろう。これ以上負担はかけたくなかった。(インデックス、姫神、小萌先生、頼む無事でいてくれ!) 三人の無事を強く祈りながら、大通りに飛び出す。 歩道を行く幾人かの主婦らしき人影が、赤色の人形を抱えて路地から出てきた少年を見て、ぎょっとした顔を浮かべた。 それを視界の端に収めながらも、上条は無視。走る勢いそのままに、車のいない車道をつっきるためにガードレールを跳び越えた。 平日の朝であってもラッシュとは無縁の車道を一息に走りぬけ、上条はアパートの敷地内に入った。 小萌の部屋はアパートの二階だ。 長方形型のアパートの角にへばりつくように設置された、鉄製の外階段。 一直線にそれに向かい、今にも崩れ落ちそうな階段を二段飛ばしで駆け上がる。 踏みしめるごとにギシギシと音が鳴り、それが4回響いたところで階段が終わった。(―――っ!) 外階段から続く外廊下。洗濯機が並ぶその廊下の先に顔を向けた上条が息を呑んだ。 ドアの開けっ放しになった部屋がある―――小萌の部屋だ。 ドアは小さく揺れている。つい先ほど開け、そのまま放りだしたかのように。
(ちっくしょう!) かっ、と頭に血が昇るのを感じ、全身に力が入った。「当麻?」 それを感じとった真紅が上条の顔を見た。 犬歯をむき出し、歯噛みする上条。その形相で事態を悟ったのか、真紅の表情にも緊張が走った。 そこに――― びゅうっ、と一陣の風が吹いた。 大通り向こうのビル。その隙間から来る、ビル風だ。「っ!」 上条の見ている前で、風に吹かれたドアが動きはじめる。一度完全に開き、反対側の壁に当たって、今度は収まるべき枠組みの方に戻り始めた。 もしもいま、このアパートに結界が張ってあったら、ドアが閉まった段階で開けることができなくなる。 学生寮では真紅が効果範囲外だったが、今回もそうだと言う保証はない。「―――っ!」 もつれる脚を無理やり動かし、ボロボロの鉄筋の廊下を踏み抜こうかと言う勢いで走り出す。
だが。(ちょっと待てこのやろうっ!) 駄目だ。上条がドアの前に立つより、ドアが閉まってしまう方が早い。 このままのスピードでは、文字通り、あと一歩間に合わない。「扉が!」 真紅が叫ぶ。 結界の何たるかは知らずとも、どういうものかの察知はついていた。 あの扉が閉まれば、やっかいなことになる。 ホーリエに命じようと真紅は左手を持ち上げ、「・・・っ!」 その腕が凍りついたように止まった。 もう限界に近い上条の体にこれ以上の負担をかければ、それこそ命がどうなるか。 迷いが真紅の心を縛り、それ以上彼女は動けない。「このっ、ふざけんっなぁっ!」 しかし上条は一瞬たりとも迷わなかった。 彼は右足を一歩として踏み出す代わりに、体を限界まで捻って蹴りを放った。 ドアは動いている。結界内では、『コインの裏側』から『コインの表側』に影響を与えることはできない。 だが、今現在動いているものに触れることができれば、三沢塾で経験したように『引っ張られる』こともある。 うまくいけば中に入ることができるかもしれない。
それは諸刃の刃どころか、あまりにも無謀な賭けだ。もしも挟まれれば、まるで卵のように上条の足は押しつぶされてしまうだろう。 だが―――だがそれでも、僅かでも開いてさえいれば。 もしこの中に、いままさに攫われようとするインデックスたちがいたら。
「あ、ドアが開いてるんだよ」 ひょい、とその部屋の中から、見覚えのありすぎる白装束が顔を出した。
「はあっ!?」 上条が自分の目を疑い、「へっ?」 白装束―――インデックスが上条の方を見た。「閉まってなかったんだよ閉めないといけないんだよ」とでも言うように平和な顔を向ける白装束の左手には、ちょうど当麻が真紅を抱えているように、スフィンクスが納まっている。 彼女はそのスフィンクスが出て行かないようにドアをきちんと閉めようとしたのだろう。右手はしっかりとドアノブを握っていた。 そして不幸にも、インデックスはドアをそのまま閉めるのではなく、勢いをつけようとして少しだけ前に押し出していたようだ。 上条の狙い通りなら、ドアの側面―――鍵等の機構がある部分に当たるはずだった爪先は、必然的に、僅かに開いたドアの内側に突き刺さった。 バァン、と盛大な音とともに、ドアが蹴り開けられ、「うひゃあっ!?」 インデックスの可愛らしくも間抜けな悲鳴があがる。 彼女にしてみれば、閉めようとしていたドアがいきなり開いたのだ。それも閉める勢いをつけるため、僅かに押し出したまさにそのタイミングで。 驚かないわけがない。 人間の反射行動として強くドアノブを握ってしまうインデックス。それが災いし、白い少女は大きく前につんのめった。
一方、上条は疲労していた。水銀燈と戦い、真紅が能力を発揮したことで体力を使い、その上の全力疾走。いくら途中で多少の休憩を挟もうとも、体力はともかく筋力はそんな短期間では回復しない。 そこに、全体重をかけた蹴り。 脚がもつれ、蹴り足を制御することなど、できるわけがなかった。 重力の作用に引かれ落ちた上条の足が、鉄製廊下をダァン!と踏みしめた。 ビリビリと廊下どころかアパート全体が揺れ、小萌の部屋の天井からパラパラとなにやら砂のようなものが落ちる。 そして、「わっ、わっ、わっ」 前につんのめったインデックスの脚が、「ひゃあっ!?」 上条の靴におもいっきり引っかかった。 某牛丼超人のように前に倒れこみ、瞬間的に空中に浮く形になったインデックス。上条の蹴りにより慣性力を得たドアは、まだ開く方向に動いていた。 そのままドアに引っ張られるようにして、インデックスは空を舞う。 さらに不幸なことに、驚いた彼女は、ドアノブから手を離してしまっていた。「あ・・・」と、上条の口から声とも吐息ともとれない音が漏れる。
異様なほどスローモーションで見える状況の中で、インデックスと上条の目が、確かに視線を交差させ―――「――――――」「――――――」 ―――それでお別れだ。 シスターの体が描いた華麗な放物線は、上昇最高点でちょうど外廊下の手すりを跳び越え、そのまま下降に転じる。 廊下の手すりの向こうには、約5メートルほど下方に地面があるのみだ。 野生の勘で危機を感じ取ったのか、スフィンクスは手すりを跳び越えるまさにその瞬間に、インデックスの腕から脱出した。 そして今こそ、白い少女は上条の視界からフェードアウトしていく。
後日、それを室内から見ていた姫神は、「びっくりした。人が空を飛ぶのなんか初めて見た。綺麗だった」 と、述懐したという。
そんな風に、インデックスがアパート二階から強制紐なしバンジージャンプをしていたころ。「・・・うーん、ちょっと買いすぎちゃいましたか」 見た目十二歳趣味嗜好完璧大人な女教師小萌先生は商店街を歩いていた。 両手に左右ひとつずつ提げられたスーパーの買い物袋の中身は、左は缶ジュースやらウーロン茶のペットボトルが数本。右は各種ビールと、煙草が1カートンというもの。 重い。(むすじめちゃんがいてくれたら楽だったのかもしれませんけど、どこかに出掛けちゃってるんですよねー) 座標移動、という学園都市でもかなり珍しい能力を持つ現同居人の顔を思い浮かべる小萌。 その同居人は、今朝から出掛けてしまっている。正確には小萌が起きたときにはもう姿はなく、『ちょっとでかけてくる』との書き置きだけ残っていたのだ。 本当に用事があったのか、それとも食べ物処分パーティーを嫌がったのかは、小萌にはわからない。(出来ればシスターちゃんと姫神ちゃんを紹介したかったんですけど) 精神的に多少他人と距離を置く傾向にある少女のことを思う。(まぁ、それはまた今度にしましょうか) 小萌は心配に属する思考を中断し、前を向いた。
いつもと変わらぬ商店街が、いつもより若干多くの人混みで賑わっている。 今日は朝からインデックスと、前の同居人である姫神との三人で様々な食材をやっつける作業に勤しんでいたのだが、その途中で飲み物が切れてしまったのだ。 いくら食べ物が美味しかろうと、飲み物がぬるい水道水ではそれも半減と言うもの。 そんな理由で、小萌は軽い運動も兼ねて、商店街まで脚を伸ばしたのである。 インデックスも姫神も自分が買いにいく、と言っていたのだが、(シスターちゃんに任せたら迎えにいく手間が増えるだけですしー、姫神ちゃんは何を買ってくるのかわかりませんからねー) はふー、とため息をついた。 その吐息はすでに若干の酒精が混じっているが、それを咎める者はいない。この界隈で、小萌は有名人なのだ。当然、見た目どおりの理由でだが。 小萌は両手にかかる飲み物の重さを安心の代償と考えることにして、いつも『趣味』で使う路地に入ろうと、手近なビルの角をひょいと曲がった。 普段から家出少女を探して歩く身だ。ビルの乱立で複雑化した路地の中でも、彼女は完璧に把握している。どこが危険でどこがそうでないかのさじ加減はよくわかっていた。(今日は連休初日ですからねー。もしかしたらその辺りにいるかもしれませんし) 家までの近道を選択しながらも、一応周囲を気にしながら歩く小萌。
インデックスが連れ去られていても、姫神や小萌がいたら。 残された彼女らが、怪我でもしていたら。 上条にはわかっている。結界が張られていたら、その怪我をした彼女たちにすら触れることができない。 だがたとえそうだとしても、上条には外から見ているだけしかできない自分など、認められない。 そして。 放物線を描いて戸枠に戻るドアの側面。そこに上条の靴が届く―――その直前。
その様は客観的に見たら、初めてのお買い物で迷子になった少女、という風情。間違っても家出少女を保護しようとしている教師には見えない。 夏休みの間に学生寮に移った姫神に代わって転がり込んだのが結なのだが。 そんな妙と言えば妙、教師らしいといえばそうも言える『趣味』に勤しんでいた小萌が脚を止めたのは、ちょうど次に角を曲がれば大通りと彼女のアパートが見えてくる、というところだった。 ぽてぽてと歩いていた小萌は、自分の呼吸を細く緩やかにして、右手側の細い細い路地の方に耳を傾けた。「・・・・・・」 ビルの間の隙間が細すぎるため、昼にも関わらずかなり薄暗い路地。 高い音をたてて吹く隙間風に混ざって、「ン・・・スン・・・ゥェ・・・」 聞こえた。 小さな、ほんとうに小さな泣き声。 それは、小萌が『そういう声』がしないかどうか注意していたゆえに聞こえたと言っていいほど、か細いものだ。 彼女の表情が一瞬にして教師のそれになる。そしてそっとその場に買い物袋を置くと、じっ、と路地に目をやった。「・・・・・・」 しばらくそうしていると、目が慣れてきて、路地の奥がうすぼんやりと見えるようになってきた。「グス、スン、ウエェン・・・」 それと同期するように、風にまぎれてはっきりしなかった声が、幾分はっきりと聞こえてくる。「誰かいますかー? どうしたんですかー?」 そう声をかけながら、小萌は路地の中に脚を踏み入れた。 小柄すぎる小萌にして、ギリギリの狭さ。そして、「ひうっ!?」 幼さのある声が、驚きを乗せて耳に響いた。
(あらら、どうも迷子っぽいですね) その予測を裏付けるように、少しだけ進んだ奥に浮かび上がった人影は、小萌よりもなお小さい。 何か箱のようなものの傍で、両手を顔に当てて蹲っていた。 襟元までだが軽くウェーブした髪に、薄暗闇でもわかるひらひらとした服。間違いなく女の子だろう。 もう少し近くに寄ろうと踏み出した小萌の足が、ざっ、と音をたて、「っ!」 ビクッ、と震える少女。「あ、ごめんなさい、驚かしちゃいましたね。大丈夫ですよー怖くないですよー」 そう言いながら、小萌はひょい、としゃがみこんだ。相手と目線を合わせたのは、上から見下ろして不安がらせないための措置である。 それが功を奏したのか、少女がそろそろと顔を上げた。「グス・・・だぁれ・・・?」 予想通り。ずいぶんと、幼い声だった。「わたしですかー? わたしはねー、先生ですよー」「先生・・・?」「そうですー。小萌先生って言いますー。よろしくですお嬢ちゃんー」「う、うぃ」 小萌の方が路地入り口側にいるせいで、こっちの顔がよく見えないのだろう。どこかビクビクとした口調で返事をする少女。 なるべく刺激しないよう、無駄だとはわかっているが小萌はにこりと笑顔を浮かべる。「でー、小萌先生はー、お嬢ちゃんに教えてほしいことがあるんですー。いいですかー?」「う・・・? なぁに・・・?」 反応があり、小萌は内心で手を打った。ここまでくれば、とりあえずは大丈夫だろう。後は、ゆっくりゆっくりと聞きたいことを言えるように誘導してやればいい。
「お嬢ちゃんのお名前ですー。小萌先生、お嬢ちゃんのお名前が知りたいですよー」「うゆ・・・名前・・・」 少女はある程度警戒を解いたのか、目元に当てていた両手のうち片方を、胸元に下ろした。「そうですー。お嬢ちゃんとっても可愛いですからねー。小萌先生はお嬢ちゃんのお名前も聞いてみたいのですよー。きっと可愛らしいんでしょうねー」「うぃ・・・」 ぐすっ、と涙を引き上げる音。続いてゴシゴシと少女は目元を擦った。「名前・・・」「はい、名前ですー」「ヒナは・・・ヒナの名前は・・・」「はい、ヒナちゃんのお名前はー」「ヒナは・・・雛苺・・・」 ひくっ、としゃっくりに似た音が響き、少女が顔を上げる。「ヒナの名前は・・・雛苺なの」 薄暗闇の中。 涙で濡れた少女の翡翠の瞳に、小萌の姿が映し出された。
「どうぞ」 コトリ、と小さな音をたててテーブルの上に、小さめのカップが置かれた。「あ、ありがとうなのだわ」 若干戸惑い気味に礼を言いながら、真紅は取っ手のない、俗に『湯飲み』と称されるそのカップを小さな両手で包んだ。 彼女がらしくなく居心地悪そうにしているのは、目の前にいる和装の少女の、文節ごとに切るような話し言葉のせいでも、湯のみの中に紅茶が満たされているというアンバランスさによるものでもない。 部屋の出入り口であるドアの内側玄関部分で起こっている凄惨な状況が原因だった。「あの・・・」 と、遠慮がちに口を開く真紅。 だが彼女が続きの言葉を言う前に、「姫神秋沙」 と、真向かいに腰掛けた和装の少女が言った。「え?」「私の名前。姫神秋沙」「あ、わ、私は真紅なのだわ」「そう。わかった」「・・・・・・」 それで会話が終了してしまう。 真紅が目覚めて2番目に話をした人間は、これまた彼女の姿かたちになんの疑問も持っていないようで、驚いた様子もあれこれと聞いてくることもない。 真紅にしてみれば説明する手間が省けて助かるのだが、逆にこうもリアクションがないと、それはそれで落ち着かなかった。(・・・この時代ではこれが普通の対応なのかしら) そんな風に思わないでもない。 だが、このまま黙っているわけにもいかなかった。
「それでその、秋沙」 意を決して、真正面に座りなおした姫神に話しかける。「なに」「その・・・彼女、そろそろとめた方がいいと思うのだけれど・・・」 玄関付近に視線を向けながら、真紅が言う。 だが姫神は、ちらり、とそちらの方に目をやってから、「問題ない。むしろ。彼にはいい薬」 それだけ言って、自分用に淹れた湯のみ(紅茶入り)を傾けた。「・・・・・・」 真紅の手の中の湯飲みは温かかったが、にべもない彼女の言葉と視線に寒気を覚えざる得ない。 どこか引きつった表情を浮かべながら、真紅は視界の端ギリギリに見えるその『惨状』から、完全に目をそむけた。 白い猛獣が、人の形をした肉を咀嚼している。「・・・・・・」 もうかなりの時間、この『惨状』は続いていた。 真紅の持つ紅茶は、香りでわかるほど丁寧に淹れられたもの。 『惨状』の開始と同時に、姫神が淹れ始めたところをとっても、経過時間は20分以上は硬かった。
あの見事な放物線を目撃してから、上条のとった行動は迅速だった。 即座に手摺りから下を覗き込み、シスターが大の字で心持ち平べったくなっているのを確認。 直後、やけに事務的な動きで部屋の中に入って真紅を下ろすと、なぜか巫女装束の姫神に「説明は後でするからお茶を出してやってくれ」と告げた。 その後、玄関ドアの目の前で正座をすると、それはそれは見事な土下座をしたのである。 上条が頭を下げたと同時に、勢いよくドアを開けて入ってきた白色―――いや、土色のシスターは、一応シスターらしくすべてを許すような慈愛の笑みを浮かべていたが、真紅にはそれが悪魔の形相に見えたものだ。 その後の光景は、正直思い出したくない。「で、でも当麻はもう気を失っているのだわ。これ以上はいくら彼でも危険だと思うのだけれど」 思い出したくない。 思い出したくないのだが、目を逸らしつづけるにはあまりにも残虐だ。 勇気をもって発した真紅の言葉だったが、「止めたいならば。あの間に割ってはいるといい。貴女がそうするのを。私は止めようとは思わない」 姫神はにべもない。 『惨状』にはまるで関心がないように、紅茶に口をつけている。
察するに、姫神も上条が心配していた相手の一人だと思うのだが、当の彼女は彼を心配している様子はなかった。 いや、シスタ――――髪や瞳の色から考えて彼女がインデックスだろう―――が落下して、上条が部屋の中に入った当初は、この未来を予測していたのか、薄くであるが心配そうな顔をしていたのだ。 しかし、真紅が上条の首に手を回していたところと、彼がその真紅を丁寧に床に下ろしていたところと、そして彼の左手薬指に薔薇を模した指輪が嵌められているところを目撃してから、やけに雰囲気が厳しい。 もちろんそれは真紅に向いたものではないのだが。「・・・・・・」 真紅はもう一度、上条の方を見た。 噛み付かれ始めてから5分ほどは大声で謝罪の言葉を口にしていたし、それが聞こえなくなってもまだビクビクと小さく痙攣していたように思う。 しかしつい先ほどからそれもなくなり、完全にされるがままだ。痛みのために握り締められていたはずのコブシも、力なく開いてしまっている。 やばそうだ。 やばそう・・・なのだが。(・・・ごめんなさい当麻。私は誇り高き薔薇乙女。お父様に頂いたこの体に歯型をつけるわけにはいかないのだわ) 自分の誇りと意思により護ると誓っていても、流石にあの光景に割ってはいる度胸はない。 真紅は目を閉じると、震える両手で湯飲みを持ち上げ、ゆっくりと口を付けた。
雛苺という少女が泣き止むまで、都合30分が必要だった。「はい、よくできましたねー。いいこいいこ」 いまだぐずっている雛苺の頭を撫でながら、小萌は内心で安堵の吐息を吐いた。 名前を聞き出すところまでは順調だったが、その後が苦労したのである。 どうしてここにいるのか、何をしているのか、親御さんはどこにいるのか。 とりあえず必要な情報を聞き出そうとしたのだが、その度に少女はグスグスと泣き出してしまったのだ。 それをイライラすることなく宥めすかすことができたのは、小萌が根っからの教育者であったからであろう。「・・・ヒナ、いいこ?」「はいー。とってもいいこですよー」「・・・えへへ」 にぱっ、と笑う少女。 まだ瞳は涙に濡れているが、先ほどまでのように不安に彩られてはいない。頭を撫でる小萌の手に幾ばくかの安心感を得ているようだった。
(うんうん、これなら大丈夫そうですね) それだけで苦労が報われたような気持ちになり、小萌も嬉しそうな笑みを浮かべた。 その笑顔のまま、「それで、ヒナちゃん。小萌せんせーに教えてくれますか?」 頭を撫でながら、雛苺と目の高さを合わせる。「う?」 首をかしげ、小萌を見上げる雛苺。「ヒナちゃんは、どうしてこんなところにいたんです?」 どう見ても、雛苺は10歳にもなっていない。どんなに贔屓目に見ても5歳か6歳といったところだろう。 そんな年代の少女が、そもそもこんなところにいること自体が不自然だった。 それに小萌は、伊達にこの界隈で『趣味』をしていない。これだけ目立つ少女がいれば、見覚えくらいはあるはずである。 だが雛苺は小首を傾げ、「ヒナ、言われたのよ」 と、言った。
「言われたの、ですか?」 鸚鵡返しに問う小萌。「うい」 雛苺はこくりと頷き、続ける。「ヒナ、目が覚めて、それで、待ってるように言われたの。それで待ってたら、小萌に会ったのよ。で、で、こもえに会ったから、ヒナはこもえと行かなくちゃいけないの」「う、うーん」 たらりと汗をかく小萌。 雛苺の言うことは、年齢を考えたら仕方ないのかもしれないが、要領を得ない。(目が覚めたらってことは、ここに来るまでは寝ていたってことですよね。でも、待っているように言われてったことは、わざわざここに置いていった事になってしまいます) そんなことをするメリットがどこにあるというのだろうか。というか、こんな小さな娘を(しかも寝ている娘を)こんなところに置いていくなんて、あり得ない神経である。(それに、行かなくちゃいけない、って言いましたか。それじゃどこかで待ち合わせを? でもこんな小さな子に一人で? ・・・なんだかよくわかりませんねー)「・・・ヒナちゃんにここで待っているように言ったのは、ヒナちゃんのお母さんなんですかー?」「ノン」「え、じゃあお父さん?」「ノン」「え、ええーと・・・じゃあ、誰なんですかー?」「人形のおねぇちゃんなのー」「・・・・・・」「お?」 沈黙する小萌に、雛苺は再度首をかしげた。
見上げてくる少女の視線は、まるっきり純粋なものだ。わざと小萌を困らせてやろうとか、そういう意図があるようにはまったく見えない。 いやそもそも、この少女は先ほどまでここで泣いていたのだ。不安を覚えていたこの娘がわざわざ嘘を言う可能性など皆無であると言えた。(人形のおねぇちゃん、ですか) この地区のことであれば大抵のことがわかる小萌であるが、流石にこの条件では誰を意味しているのかまではわからない。 おそらく彼女の近しいところにいる、人形をたくさん持っている女性あたりだろう。 だが口ぶりから察するに、血縁としての姉と言う感じではなさそうだ。 そもそも、父母の可能性を否定しているのがよくわからなかった。「・・・・・・」「?」 改めて雛苺に目をやる小萌。 少女は先ほどの怯えたようなものからは考えられないほど柔らかな表情を浮かべている。 普通ならば、然るべき機関に預けるのが、もっとも早い解決策だろう。 やはり個人の力と組織の力の差は大きい。それにこれだけ特徴的な少女だ。捜索願いでも出されていれば、すぐにでも保護者の元に戻れるはずである。 しかし、今回の場合はどうも様子がおかしかった。彼女の話す内容から、保護者らしき人物の影も見えないのである。 そしてそれ以上に―――自分を純粋に信じてくれている雛苺をひょいと別の人間に預けるのは、正直気が引けた。それこそ彼女は、自分が置いていかれたように感じてしまうかもしれない。 この時期の少女にそういう意識を持たせるのは、小萌としては避けたいのである。
(・・・仕方ないですねー。シスターちゃんと姫神ちゃんには電話することにしましょう) ちらりと自分の背後に置いてある買い物袋を見る小萌。自分のアパートはすぐ近くであったが、事態が事態だ。こっちのことを優先させることにする。「じゃあヒナちゃん」「うょ?」「ヒナちゃんは、どこかに行かなくちゃ行けないんですよね?」「そうなの。こもえといっしょに行くのよ」「ん、じゃあ小萌せんせーを、いまからヒナちゃんが言われた場所に連れて行ってくれますか? ヒナちゃんは、それがどこだかわかりますか?」「ノン、でもベリーベルが教えてくれるのよ」「べりーべる?」「うい。ヒナの人工精霊なの」「人口政令? う、うぅーん・・・とりあえず、行き先はわかるんですね? じゃあヒナちゃん、小萌せんせーと一緒に行きましょう」 そう言って、小萌は立ち上がり、雛苺に向けて手を差し出した。「うゆ?」「せんせーとお手手を繋ぎましょうかヒナちゃん。せんせーはどこに行けばいいのかわからないので、迷子にならないようにヒナちゃんが手を繋いでください」「・・・・・・」 雛苺は驚いたような表情を浮かべた後、「えへへー」 にぱっ、と笑い、小萌の手を取った。「じゃあ行くの! こもえ、迷子になっちゃだめなのよ?」「はい、じゃあ小萌せんせーを連れて行ってくださいね?」 歩き出す雛苺。 スキップするような少女の歩調に脚を合わせ、小萌も脚を踏み出した。
・・・・・・・・・ そして、二人が歩き去ってから。 つい先ほどまで、雛苺が蹲っていたその僅か一歩奥。 そこにあるのは大きな鞄。雛苺自身がすっぽり入りそうな、高価そうな鞄だ。 薄暗いため、小萌が気に留めなかったそれの蓋が、 ギィ とひとりでに開いた。 そしてその中から、ふわり、と桃色の光球が浮かび上がる。 光球は周囲の薄暗闇を払うように一度大きく光った後、逆にその光量を落とした。 薄暗い路地の中でさえぼんやりとしか見えなくなった光球。 それは音もなく、しかし弾かれたような勢いで上昇し、陽光の中に身を晒す。 午後真っ只中の光の中、人の目にほとんど映らなくなった光球は、一気に加速してその場から離れ、飛び去った。 その光球が描いた軌跡の下に。 小萌が、一人の少女とともに、歩いている。
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