上条は街を走っていた。学園都市の道路。学生の利便性第一に創られたこの街は、歩道が広く設定されている。だがそうは言っても今日は連休初日だ。道行く人の数は多く、その方向も点でばらばらである。こんな中を全力疾走すれば、50メートルも進まないうちに誰かに衝突してしまう。そのため、いま上条が駆けているのは、表通りから一本裏手に入ったいわゆる裏路地だ。登校時には各地区に点在している学園に向かうため、ある意味にぎわうこの小さな路地も、いまは上条以外に走るものはいない。表通りから微かに届く有線と宣伝の音。いつもの日常が続くその僅か隣の道で、上条の非日常は刻まれていく。(くそ! 間に合えよこんちくしょう!)整っているとは言いがたい彼の顔に浮かんでいるのは、紛れもない焦りだ。
学生寮からの脱出に予想以上の時間をとられた。彼の脳裏に、この夏に出会った錬金術師との戦いが思い起こされる。いまはもう記憶を失い、顔も名も変わっているだろうその男は、十分に準備された結界の中であれば文字通り何でもできる男だった。あのときと同じ術を―――少なくとも上条には同じにしか思えない―――使うものが、この都市の中にいる。それだけでも焦燥感が募るというのに、今回はさらにやっかいだ。上条の足止めという先手を打たれている。こちらから乗り込み、向こうが受ける側だったときと、明らかに状況が違う。捕獲用の魔術でも仕掛けられていたら、朝、インデックスがエレベーターに乗った時点で、勝負がついている可能性だってあるのだ。
悪いことは重なる。結界が張られたのはおそらく、上条が水銀燈と戦い、廊下に出たその直後。それまでは室内のものに普通に触れている。テーブルサンドイッチが、何よりあの段階では結界は張られていなかった証明である。あの後、上条は部屋の中の物に何も触れることができなかった。ドア自体は開放状態だったので問題なかったが、中にある荷物はすべて『コインの表』だ。(せめて携帯があれば、電話もできるっていうのによ!)歯噛みする上条。床に落ちた家具の破片すら拾えない上条。発見した携帯電話は幸いにも何かの下ではなく、床に落ちていたのだが、その端末には黒い羽がしっかりと突き立っていたのである。携帯電話は壊れ、財布は残骸に埋もれて見つからなかった。小萌の家に電話して安否を確かめることもできないのだ。
すぐに駆けつけようとした上条であったが、それも叶わなかった。エレベーターが使えないのは証明済み。その上、非常階段に通じる扉が、閉じられていたのである。避難通路になるその階段の扉は通常閉じたりしない。設置義務でもあるのかいたずら防止のためなのか、一応設けられているその扉は少なくとも上条が入寮して―――いや『いまの上条』になってからこっち、閉じられているのを見たことがない。誰かが閉めたのかはわからない。魔術師かもしれないし、寮生のだれかが異様な片付け魔で閉じていないのがいやだったのかもしれない。どちらにしても、その段階で上条は脱出の手段を奪われてしまっていた。そんな八方塞の彼を助けたのは、「当麻、少し落ち着くのだわ」上条の耳に、静かな声が響く。真紅だ。魔術師が水銀燈と関係がない―――つまり、真紅も結界適用範囲外であることを指摘したのは、結界がどういうものなのかを把握していない真紅の方だったのだ。エレベーターが危険なのは三沢塾で知っていたので、彼女の手で非常階段の扉ドアノブを開けてもらったのである。
人の多さに危険を感じたことと、左腕に座る真紅の存在が異様に目立つこともあって、裏路地に入ったのは正解だった。学生寮からの全力疾走は止まることなく続いていた。上条の左腕に腰掛けて首に手を回した姿勢の彼女が、彼の顔をじっと見ている。「落ち着いてなんかいられるか! こうしてる間にも、あいつらがやべぇかもしれねーんだ!」全力疾走で荒れた息そのままで言い返す上条。インデックス、小萌、姫神。自分が大事だと思う人が危険に晒されているかもしれない。そう思うと―――八つ当たりだとはわかっているが―――冷静そのものの真紅の声が苛立ちを生んでしまう。だが怒鳴り返された真紅は、「落ち着きなさい、と言っているの」「っ!?」同じ言葉を繰り返し、上条の耳を右手で引っ張った。
「いてえっ!? 真紅何してっ、いててていってえ千切れる千切れる!」くい、という可愛らしいレベルではない。耳たぶを引っこ抜こうかというほどの力で引っ張られて、上条は痛みに脚を止めた。反射的に右手を真紅に伸ばそうとして―――あわててその手を止める。包帯で巻いていても、もし緩んでいて素肌が真紅に触れれば彼女を殺してしまう。さきほど脱出の際に上条の『幻想殺し』について説明を受けた真紅だ。理解力と応用力はインデックス以上に思える彼女は、左手のふさがった彼は自分に抵抗できないことを承知でしているのだ。「いいこと、当麻」ぱっ、と耳たぶを放し、真紅が上条の顔を覗き込む。「貴方が焦ることで走る速さがあがるのなら、私は止めない。でも、そうではないのでしょう?」「そ、そりゃそうだけどだからって落ち着いてなんか・・・」と、上条。だが真紅は、いいえ、と首を振った。
「自分では気がついていないでしょうけれど、いまの貴方は倒れる寸前よ。生身で水銀燈と戦い、契約した私が力を振るった。その上で、今までずっと走ってきている。このままじゃ先に貴方が倒れてしまうのだわ」「・・・・・・」上条は荒く息を吐きながらも沈黙を返した。そんなことはない。彼はそう思う。もっともっと体力を失った状況で戦ったこともある。だが真紅の瞳に浮かぶ光が、その反論を喉元で押しとめていた。自分を真摯に心配してくれる相手の言葉を、大きなお世話だ、と切り捨てられるような人間ではないのだ。真紅は言葉を続ける。「お願い当麻。無理を言っているのはわかる。だけど、少しでいいから冷静になってちょうだい。貴方がここで気を失っても、私にはどうすることもできない。私には行き先がわからないし、迂闊に人前に出ればそれどころじゃなくなってしまうのだわ」
ここは学園都市だ。精巧な人形も自立駆動する機械も珍しくない。それでも真紅はそれとは別格だ。彼女が他の誰かに見つかれば、騒ぎにならないわけがなかった。魔術を理解しないこの都市において、彼女は研究材料として格好の的になるだろう。「・・・・・・」上条は真紅から目を逸らし、大きく息を吸った。腹に息を呑み、ゆっくりと吐き出す。それを数回繰り返した。いままで魔術師や能力者との戦いで、いつの間にか身についた腹式呼吸だ。バクバクと動く心臓が着実に酸素を全身にめぐらせ、代わりに本当に不要な分の二酸化炭素を排出していった。荒い呼吸は容易に過呼吸を引き起こす。息が切れるような状況ほど、的確な呼吸が大切なのである。そうしてわかるのが、予想以上の自分の疲労だった。上条は体力と打たれづよさ、回復力には自信がある。その彼にして、体の芯にねばりつくような疲労を明確に感じた。
「ごめんなさい当麻」と、その表情を見て取った真紅が言った。「・・・契約は私の力を引き出すために必要な手続きに過ぎないのだわ。私が力を振るうには、どうしても、貴方の体力を奪ってしまう」「そうなのか?」「ええ」平静だがどこか申し訳なさそうな響きを持つ声の真紅。だが上条は、そんな彼女にちらり、と笑みを浮かべてみせた。「んなもん、気にするこたぁないさ。必要ならどんどん使ってくれりゃいい」彼の口調は先ほどよりもずっと落ち着いている。呼吸はまだ乱れているが、荒いわけではない。「でも・・・」「それにさっき、真紅は俺を助けてくれただろ? この程度で文句言ってたら、バチが当たっちまうよ」ぐっ、と右手を握る上条。先ほどよりも力が入る。重かった脚も、幾分軽くなったようだ。
「・・・よし」それを確認し、上条は前を見る。路地の隙間から見える表通りの風景で、現在位置を確認。改めて小萌の家まで距離とルートを再検索した。やや遠い。だが回復したいまの体力なら、途中数回の呼吸調整でたどり着けない距離ではなかった。逆に言えば、さっきまでの体調では途中で動けなくなっていた可能性のある距離だ。「真紅、しっかり掴まってくれ。ここからなら一気にいけると思う」「わかったのだわ」真紅がうなずき、上条の首に手を回した。「・・・真紅」「?」駆け出すと思ったところで名前を呼ばれて、真紅は上条の方に目を向けた。
彼は横目で彼女を見ながら、「さんきゅ、助かった」「え・・・」それだけ言って、上条は地面を蹴った。もう彼は真紅を見ない。前だけを見て、路地を疾走する。「・・・・・・」再びゆれ始めた視界。真紅は振り落とされないよう、両手に力を込めながら、「まったく、世話のやけるマスターを持つと苦労するのだわ・・・」と、言った。
「・・・見えた!」ビルの密集によって迷路のように張り巡らされた路地を疾駆し続け、もういくつかわからないほどの路地角を曲がった先。頬といわず額といわずに大粒の汗を浮かべた彼の目が、ついに目的地を視界に納めた。真正面。大通りに面した路地の切れ目。その大通りの向こう側に、築何十年かわからない二階建てアパートが見えた。アパートをはじめとする賃貸住宅が並ぶ、この住宅街。人口のほとんどを学生に占められているこの都市において、大人といえば教師と研究者がほとんどで、それ以外には商店デパートの従業員と言った所だ。家族と同居している学生は、せいぜいそれらの家族である場合のみでほとんど皆無である。ここはそんな比率的に圧倒的少数である大人たちの一角だった。
昼時ということもあって、商店街と異なり往来はほとんどない。これなら上条の左腕に腰掛けた真紅も、そう目撃されることもあるまい。仮に見えたとしても、せいぜい学生が何かの悪乗りをしていると思われるだけだろう。「すまんっ、このままっ、行くぞっ!」機関銃のように呼吸を繰り返しながら―――もう腹式呼吸をするだけの体力もない―――上条が真紅に告げる。「ええ」対する真紅は必要最低限の返事だけを返した。上条の言う目的地の場所はわからない。だが彼の視線と表情から、もうそれが程近いのだろうということが伺えた。そこまでわかれば十分だ。真紅は上条を見る。いくら冷静さを取り戻し、幾たびか呼吸調整をしたとは言っても、彼は人間だ。連続して動き続ければ疲労の蓄積は早くなり、回復は遅くなる。顔色は赤をとっくに通り越して青くなっている。迂闊に話しかければ、この男は律儀に質問に答えようとするだろう。これ以上負担はかけたくなかった。
(インデックス、姫神、小萌先生、頼む無事でいてくれ!)三人の無事を強く祈りながら、大通りに飛び出す上条。歩道を行く幾人かの主婦らしき人影が、赤色の人形を抱えて路地から出てきた少年を見て、ぎょっとした顔を浮かべる。それを視界の端に収めながらも、上条は無視。走る勢いそのままに、車のいない車道をつっきるためにガードレールを跳び越えた。平日の朝であってもラッシュとは無縁の車道を一息に走りぬけ、上条はアパートの敷地内に入った。小萌の部屋はアパートの二階だと、インデックスから聞いていた。視線を巡らし、階段を探す。
それはすぐに見つかった。長方形型のアパートの角にへばりつくように、鉄製の外階段が設置されていた。一直線にそれに向かい、今にも崩れ落ちそうな階段を二段飛ばしで駆け上がる。一歩踏みしめるごとにギシギシと音が鳴り、それが4回響いたところで階段が終わった。(―――っ!)外階段から続く外廊下。洗濯機が並ぶその廊下の先に顔を向けた上条が息を呑んだ。ドアの開けっ放しになった部屋がある―――小萌の部屋だ。ドアは小さく揺れている。つい先ほど開け、そのまま放りだしたかのように。
(ちっくしょう!)かっ、と頭に血が昇るのを感じる。全身に力が入った。「当麻?」それを感じとった真紅が上条の顔を見た。犬歯をむき出し、歯噛みする上条。その形相で事態を悟ったのか、真紅の表情にも緊張が走った。そこに―――びゅうっ、と一陣の風が吹いた。大通り向こうのビル。その隙間から来る、ビル風だ。
「っ!」上条の見ている前で、風に吹かれたドアが動きはじめる。一度完全に開き、反対側の壁に当たって、今度は収まるべき枠組みの方に戻り始めた。もしもいま、このアパートに結界が張ってあったら、ドアが閉まった段階で開けることができなくなる。学生寮では真紅が効果範囲外だったが、今回もそうだと言う保証はない。「―――っ!」もつれる脚を無理やり動かし、ボロボロの鉄筋の廊下を踏み抜こうかと言う勢いで走り出す。だが。(ちょっと待てこのやろうっ!)駄目だ。上条がドアの前に立つより、ドアが閉まってしまう方が早い。このままのスピードでは、文字通り一歩だけ間に合わない。
「扉が!」真紅が叫ぶ。結界の何たるかは知らずとも、どういうものかの察知はついていた。あの扉が閉まれば、やっかいなことになる。真紅は左手を持ち上げ、ホーリエに命じようとして、「・・・っ!」その腕が、凍りついたように止まった。上条だ。もう限界に近い彼の体にこれ以上の負担をかければ、それこそ命がどうなるかわからない。迷いが真紅の心を縛り、それ以上彼女は動けない。
「このっ、ふざけんっなぁっ!」しかし上条は一瞬たりとも迷わなかった。彼は右足を一歩として踏み出す代わりに、体を限界まで捻って蹴りを放った。ドアは動いている。結界内ではほかのものに影響を与えることはできない。だが、今現在動いているものに触れることができれば、三沢塾で経験したように『引っ張られる』こともある。うまくいけば中に入ることができるかもしれない。それは諸刃の刃どころか、あまりにも無謀な賭けだ。もしも挟まれれば、まるで卵のように上条の足は押しつぶされてしまうだろう。だが―――だがそれでも、僅かでも開いてさえいれば。
もしこの中に、いままさに攫われようとするインデックスたちがいたら。インデックスが連れ去られていても、小萌が、姫神がいたら。残された彼女たちが、怪我でもしていたら。上条にはわかっている。結界が張られていたら、その怪我をした彼女たちにすら触れることができない。そうだとしても、上条には外から見ているだけしかできない自分など、認められない。そして。放物線を描いて戸枠に戻るドアの側面。そこに上条の靴が突き刺さる―――その直前。
「あ、ドアが開いてる」ひょい、とその部屋の中から、見覚えのありすぎる白装束が顔を出した。
「はあっ!?」上条が自分の目を疑い、「へっ?」白装束―――インデックスが上条の方を見た。「ちゃんと閉まってなかったんだよ閉めないといけないんだよ」とでも言うように平和な顔を向ける白装束の左手には、ちょうど当麻が真紅を抱えているように、スフィンクスが納まっている。彼女はそのスフィンクスが出て行かないようにドアをきちんと閉めようとしたのだろう。彼女の右手は内側から、まさにいま上条の靴が突き刺さろうとしているドアのドアノブを握っていた。不幸にも、インデックスはドアをそのまま閉めるのではなく、勢いをつけようとして少しだけ前に押し出していたようだ。上条の狙い通りなら、ドアの側面―――鍵等の機構がある部分に突き刺さるはずだった彼の右足は、タイミングよく、僅かに開いたドアの内側に突き刺さった。
「うひゃあっ!?」インデックスの可愛らしくも間抜けな悲鳴があがる。彼女にしてみれば、閉めようとしていたドアが、いきなり開いたのである。それも閉める勢いをつけるため、僅かに押し出したまさにそのタイミングで。人間の反射行動として強くドアノブを握ってしまうインデックス。それが災いし、白い少女は大きく前につんのめった。一方、上条は疲労していた。水銀燈と戦い、真紅が能力を発揮したことで体力を使い、その上の全力疾走。いくら途中で多少の休憩を挟もうとも、体力はともかく筋力はそんな短期間では回復しない。脚がもつれ、正直に言って、いま走っている勢いを殺すこともできそうになかったのだ。ドアを蹴ろうとしたのは間に合わないということももちろんだが、反作用で自分を制動しようと言う意図もあった。通常、開き戸のドアノブは、ドアの外周から僅かに内側にずらして設置されており、その外周とドアノブの間には僅かな隙間がある。上条のつま先はその隙間を上から下に綺麗に滑り、鉄製廊下をダァン!と踏みしめた。
ビリビリと廊下どころかアパート全体が揺れ、小萌の部屋の天井からパラパラとなにやら砂のようなものが落ちる。それだけで事態は終わらない。上条が先ほど学生寮で実感したように、悪いこととは重なるものだ。勢いよく振り下ろされた上条の脚は、元々の蹴り位置の高さもあって彼女には当たらなかったのだが、「ひゃあああっ!?」前につんのめったインデックスの脚が、思いっきり上条の足に引っかかった。某牛丼超人のようにインデックスが前に倒れこみ、僅かに遅れて右左の順に脚が浮く。結果として空中で水平状態になったインデックス。
だが上条の蹴りの慣性力を得たドアは、まだ開く方向に動いている。ドア自体に引っ張られるようにして、インデックスは空を舞う。上条の目には、その光景が異様なほどスローモーションで見えた。インデックスの体が描いた華麗な放物線は、上昇最高点でちょうど外廊下の手すりを跳び越え、そのまま下降に転じる。野生の勘で危機を感じ取ったのか、スフィンクスは手すりを跳び越えるまさにその瞬間にインデックスの腕から脱出した。廊下の手すりの向こうには、約5メートルほど下方に地面があるのみだ。
後日、それを室内から見ていた姫神は、「びっくりした。人が空を飛ぶのなんか。初めて見た。綺麗だった」と、述懐したという。
そんな風に、インデックスがアパート二階から強制紐なしバンジージャンプをしていたころ。見た目十二歳趣味嗜好は三十歳レベルの女教師小萌先生は商店街を歩いていた。彼女の両手には、スーパーの買い物袋が左右でひとつずつ。中身は、左は缶ジュースやらウーロン茶のペットボトル。右は各種ビールと、煙草が1カートン。今日は朝からインデックスと姫神との三人で様々な食材をやっつける作業に勤しんでいたのだが、飲み物が切れてしまったのだ。いくら食べ物が美味しかろうと、飲み物がぬるい水道水ではそれも半減と言うもの。そんな理由で、小萌は軽い運動も兼ねて、商店街まで脚を伸ばしたのである。インデックスも姫神も自分が買いにいく、と言っていたのだが、(シスターちゃんに任せたら迎えにいく手間が増えるだけですしー、姫神ちゃんは何を買ってくるのかわかりませんからねー)はふー、とため息をついた
その吐息はすでに若干の酒精が混じっているが、それを咎める者はいない。この界隈で、小萌は有名人なのだ。当然、見た目どおりの理由でだが。小萌は両手にかかる飲み物の重さを安心の代償と考えることにして、いつも『趣味』で使う路地に入ろうと、手近なビルの角をひょいと曲がった。普段から家出少女を探して歩く身だ。ビルの乱立で複雑化した路地の中でも、彼女は完璧に把握している。どこが危険でどこがそうでないかのさじ加減はよくわかっていた。(今日は連休初日ですからねー。もしかしたらその辺りにいるかもしれませんし)家までの近道を選択しながらも、一応周囲を気にしながら歩く小萌。その様は客観的に見たら、初めてのお買い物で迷子になった少女、という風情。間違っても家出少女を保護しようとしている教師には見えない。そんな妙と言えば妙、教師らしいといえばそうも言える『趣味』に勤しんでいた小萌が脚を止めたのは、ちょうど次に角を曲がれば大通りと彼女のアパートが見えてくる、というところだった。
ぽてぽてと歩いていた小萌は、自分の呼吸を細く緩やかにして、右手側の細い細い路地の方に耳を傾けた。ビルの間の隙間が細すぎるため、昼にも関わらずかなり薄暗い路地。高い音をたてて吹く隙間風に混ざって、「ン・・・スン・・・ゥェ・・・」聞こえた。小さな、ほんとうに小さな泣き声。それは、小萌が『そういう声』がしないかどうか注意していたゆえに聞こえたと言っていいほど、か細いものだ。彼女の表情が一瞬にして教師のそれになる。そしてそっとその場に買い物袋を置くと、じっ、と路地に目をやった。「・・・・・・」しばらくそうしていると、目が慣れてきて、路地の奥がうすぼんやりと見えるようになってくる。「グス、スン、ウエェン・・・」それと同期するように、風にまぎれてはっきりしなかった声が、幾分はっきりと聞こえた。
「誰かいますかー? どうしたんですかー?」そう声をかけながら、小萌は路地の中に脚を踏み入れる。小柄すぎる小萌にして、ギリギリの狭さ。そして、「ひうっ!?」幼さのある声が、驚きを乗せて耳に響いた。(あらら、どうも迷子っぽいですね)その予測を裏付けるように、少しだけ進んだ奥に浮かび上がった人影は、小萌よりもなお小さい。何か箱のようなものの傍で、両手を顔に当てて蹲っている。襟元までだが軽くウェーブした髪に、薄暗闇でもわかるひらひらとした服。間違いなく女の子だろう。
もう少し近くに寄ろうと踏み出した小萌の足が、ざっ、と音をたてた。ビクッ、と震える少女。「あ、ごめんなさい、驚かしちゃいましたね。大丈夫ですよー怖くないですよー」そう言いながら、小萌はひょい、としゃがみこんだ。相手と目線を合わせたのは、上から見下ろして不安がらせないための措置である。それが功を奏したのか、少女がそろそろと顔を上げた。「グス・・・だぁれ・・・?」予想通り。ずいぶんと、幼い声だった。「わたしですかー? わたしはねー、先生ですよー」「先生・・・?」「そうですー。小萌先生って言いますー。よろしくですお嬢ちゃんー」「う、うぃ」小萌の方が路地入り口側にいるせいで、こっちの顔がよく見えないのだろう。どこかビクビクとした口調で返事をする少女。なるべく刺激しないよう、無駄だとはわかっているが小萌はにこりと笑顔を浮かべる。
「でー、小萌先生はー、お嬢ちゃんに教えてほしいことがあるんですー。いいですかー?」「う・・・? なぁに・・・?」反応があり、小萌は内心で手を打った。ここまでくれば、とりあえずは大丈夫だろう。後は、ゆっくりゆっくりと聞きたいことを言えるように誘導してやればいい。「お嬢ちゃんのお名前ですー。小萌先生、お嬢ちゃんのお名前が知りたいですよー」とりあえずは名前だ。子供の安心を得るには、きちんと名前を呼んであげる必要がある。きちんと自分のフルネームでなくても問題ない。その娘が言った名前で呼んであげればいいのである。すると、少女はある程度警戒を解いたのか、目元に当てていた両手のうち片方を、胸元に下ろした。「うゆ・・・名前・・・」「そうですー。お嬢ちゃんとっても可愛いですからねー。小萌先生はお嬢ちゃんのお名前も聞いてみたいのですよー。きっと可愛らしいんでしょうねー」「うぃ・・・」ぐすっ、と涙を引き上げる音。続いてゴシゴシと少女は目元を擦った。
「名前・・・」「はい、名前ですー」「ヒナは・・・ヒナの名前は・・・」「はい、ヒナちゃんのお名前はー」「ヒナは・・・雛苺・・・」ひくっ、としゃっくりに似た音が響き、少女が顔を上げる。「ヒナの名前は・・・雛苺なの」薄暗闇の中。涙で濡れた少女の翡翠の瞳に、小萌の姿が映し出された。
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