とある世界の残酷歌劇 > 序幕 > 2

「とある世界の残酷歌劇/序幕/2」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

とある世界の残酷歌劇/序幕/2」(2011/02/21 (月) 17:56:12) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

差し込む夕日に顔を照らされ、まどろみから目を覚ます。 南向きの窓に面したビルの屋上、設置された風力発電機の羽に反射されて、本来見えないはずの陽光がちかちかと明滅する。 まるで光信号のようにも見えるそれに、うっすらと開いた目の前に手を翳した。 「あれ、超起きちゃいましたか」 声に、指の間から見遣ると、ちょうどカーテンを閉じようと窓際に寄った少女の姿が目に留まる。 「……おはよう、きぬはた」 「はい、おはようございます」 少女に微笑み返し、滝壺理后はゆっくりと体を起こす。 いつものように安物の、黒い半袖シャツには皺が寄っているが全く気にする様子もない。 上着代わりのブラウスは足元でくしゃくしゃになっていた。 ん、と伸びをして、呆とした目で辺りを見回す。 広い、高層マンションの一室だ。 シンプルながらも金のかかった造りの、ちょっとした富裕層向けのファミリーサイズのマンション。 そこを学園都市の非公式暗部組織『アイテム』はここのところの根城にしていた。 本来居間として使用されるべきであろう一番大きな部屋の、中央に鎮座したソファに滝壺は寝ていた。 大きな窓からは学園都市のビル群が一望でき、夜景もなかなかだと評判の物件だ。 地上五十二階、最上階に位置するこの部屋からの展望はさぞかし素晴らしいものなのだろうが、滝壺をはじめとした全員がわりとどうでもいいらしく、 夜間は普通にカーテンを閉める。それをもったいないとぼやいていたのは誰だっけ。 「おはようさん、眠り姫。目覚めのコーヒーはいかがですかね?」 「…………ありがとう」 柔らかく笑んで、滝壺は緩やかに湯気の昇るマグカップを受け取る。 抱えるようにして両手で持ち、少し口をつけてから、あつ、と舌を出した。 ふうふうと息を吹きかけて懸命に冷まそうとしていると、隣に座った少年が「可愛いな」と笑った。 「…………」 無言でむくれ顔を向けてやると彼は苦笑して、 「なんだよ滝壺。可愛い顔のオンパレードか? まさか俺を悶え殺そうって魂胆じゃねえだろうな」 そう言って、浜面仕上は滝壺の髪をくしゃりと撫でた。 無骨だが、大きく、暖かい手だと滝壺は思う。 こうして彼が優しく撫でてくれるだけで滝壺は陽だまりにいるような柔らかな幸福感に包まれる。 だから自然と口元が微笑んでしまうのは仕方ないと滝壺は自身に言い訳する。 そして、それを見つけた浜面が余計に撫で回してくるのだから始末に終えない。 けれどその一方で、これでいいのかと滝壺は自問する。 この暗部の闇にあって、この幸せを得ていていいのかと。 自分が彼をどろどろとしたコールタールのような、底の見えない汚泥の中に引きずり込んでいるのではないのか。 彼には自分と違う、こんな最悪な世界以外にあるべき場所があるのではないか。 それでもなお、滝壺は自分に言い訳する。 学園都市の闇。 そこは一度墜ちてしまえば抜け出せない底なし沼だ。 浜面仕上という、なんの後ろ盾もないただの無能力者の少年にはもがく事すらままならない。 ……そう考えて改めて自分は嫌な女だと実感する。 無理心中もいいところだ。所詮、彼の優しさに甘えているだけ。 きっとどうしようもなくなって、一緒に死んでくれと頼んだとき彼はなんのためらいもなく頷くだろう。 そう遠くない未来、その時は来る。 終わりは始めから覚悟しているし、自分が死んだところでこの街は何一つ変わらないだろう。 けれど彼は自分のために死のうとするだろう。 どんなに強大な相手であっても。 万に一つも勝ち目がなくても。 有象無象の塵芥ように扱われ、なんの理由も証明もなく散ったとして。 それを理解してもなお、彼は矜持を抱いて死ぬだろう。 その姿はとても切なく悲しくて。 同時に、狂おしいほど愛おしい。 ……最低だ。滝壺は顔を顰め、顔を伏せた。 「どうした?」 心配そうに覗き込んでくる浜面。 熱はないかと額にかかった髪をかきあげてくる手を優しく退け、首を振った。 「ううん、なんでもない」 そう答え、滝壺は目を閉じて浜面の肩に体を預ける。 服越しに伝わってくる体温が暖かで、滝壺はどうしようもなく安らかな気持ちになる。 (どうでもいいや) 今日の滝壺は甘えんぼだなと笑う浜面にむくれてやる。 今はこの温いものに浸っていればいい。 そのうち嫌でも最悪な気分になるのだから。 「……あのー。非情に言い辛いんですが、人前でいちゃいちゃするの超やめてもらえませんか。すっげー目の毒なんですけど」 声に振り返ると、絹旗最愛が物凄い形相でこちらを見ていた。 眉を寄せ、なんというか……物凄い嫌そうな顔で。道で偶然犬の糞に集るハエの大群を見つけてしまった時のような。 なにやら赤くなってあ、とかう、とか呻く浜面に、少し悪戯心が湧いて抱きついてやった。 そうすると余計に慌てるのがどうしようもなく可愛くて、頬にキスした。 「うわー。なんですかそれ、私に対する超当て付けですか……ってその『ふふん』って顔はなんですか!  超勝ち組の顔しやがってちくしょう!」 「絹旗も混ざる?」 「冗談。超ごめんで……」 「だーめ。浜面はあげないよ」 ぬがあああ、と両手をばたばたさせる絹旗とうろたえる浜面を交互に見て、滝壺はくすくすと笑った。 「はぁ……なんか今日は超滝壺さんのペースな気がします。  ラブラブフィールド展開しないでくださいよ。部屋から超出て行きたくなりますから」 「らっ、ラブラブフィールドってなんだよその肌がむずがゆくなるような名前はっ!?」 「はまづら私とらぶらぶするの、いや?」 マジ勘弁してくださいー、と絹旗は諦めて諸手を挙げた。 「この練乳にガムシロップぶちこんだような空気をどうにかしてください、ほんと。  おい浜面ー、私にもコーヒー。超ブラックで」 へいへい、と文句も垂れずに腰を上げる浜面の裾を一瞬掴もうとして、すんでのところで止めた。 空を掻いた指が所在なさげにふらついたあと、そっとマグカップに添えられる。 そんな様子を見て絹旗は目を細めてふう、と息をついた。 「インスタントでいいよな。っつーか豆なんてないんだけど」 「超構いませんよー。超あったかいものが飲みたいだけですから。最近めっきり冷え込みますからねえ」 そう言う絹旗は明らかにサイズの合わないオレンジ色のだぼついた男物のフルジップパーカーをワンピースのように着込み、その下からはデニム地のショートパンツが見える。 足もタイツできっちりガードされているあたり防寒対策は万全のようだ。 「寒いか? エアコンのリモコンその辺にあるだろ」 「いーえ。超ぬくぬくですよ。寒かったら滝壺さんに抱きついて暖を取りますし」 寒いのは苦手なのだろうか、と首を傾げる。 「まだこの程度の寒さなら大丈夫ですよー。もう少ししたらセーターとかで超もこもこしますけど」 「もこもこ……」 それはこちらから抱きつきたいかもしれない、と滝壺は夢想する。 ふわふわでもこもこ。羊のぬいぐるみに抱きついているような感覚だろうか。 思わず頬がゆるんで絹旗に怪訝な顔を向けられたが気にしない。 元々サイズの小さい絹旗だ。抱き心地はいいだろう。 ぬいぐるみを抱かないと眠れないという人の気持ちがよく分かる。たしかにあれは最高に気持ちがいい。 そこまで考えて我に返った。 つ、と視線を向けた先、部屋の隅。 パソコンデスクのわきにちょこんと座ったうさぎのぬいぐるみを見遣る。 淡いピンクの、大きなボタンが目になった、けれどお世辞にもあまり可愛いとは言えないものだ。 滝壺はこのぬいぐるみがお気に入りだった。 だが、それは滝壺のものではない。 「――――――」 滝壺はぬいぐるみを見る目を細める。 微笑みではなく、物憂げな顔を浮かべ。 このうさぎの主は今頃何をしているのだろう。 数日前、表向きは何もなかった事にされた日。 あの大混乱の中で忽然と姿を消した金髪の少女の行方を滝壺は知らない。 死んでいてもおかしくない。 いや――彼女はもう、戻ってこないだろう。 『アイテム』はそういう世界にいるし、そういう状況にいる。 否、そういう世界、状況そのものだ。 この煌びやかな学園都市にある、どうしようもない闇。 その具現が自分たちであり、それは地獄の悪鬼そのものだ。 けれど――身勝手にも程があるが――滝壺はそれでも彼女が生きて、笑っていてくれる事を願う。 あの場違いに無邪気な少女は今どんな顔をしているのだろうか。 ――そっと背中から抱き寄せられた。 二の腕の上から抱き締められ、胸の上で交差する腕に滝壺は指を重ねた。 「大丈夫だよ、はまづら」 ちらりと二人を見た絹旗は、何も言わず目を伏せた。 「私はここにいるから。消えたりしないから。ずっとはまづらのそばにいるから」 あの時、彼女が言っていたものは手に入った。 けれど果たして、彼女自身はそれを手に入れる事ができたのだろうか。 ―――――――――――――――――――― その頃。 もう一人の『アイテム』構成員、リーダーの麦野沈利は他の三人のいるセーフハウスから少し離れたところにいた。 珍しく髪を上げ、後ろで括りポニーテールにした麦野はベッドに寝転びながら携帯電話の画面を不機嫌そうな目で睨んでいた。 画面にはメール。絹旗の送ったものだ。 内容は麦野の読みが嫌な形で当たっていた事を告げるものと、今後の指示を仰ぐものだった。 「………………」 かちかちと爪がボタンを叩く音が響く。 『とりあえず合流するまで待機するように』と記したメールを打つ。 そうして送信ボタンを押そうとしたとき、背後の物音に麦野は振り返った。 「……おう、誰かと思ったぞ」 初めて見る垣根帝督の驚いた顔に、麦野は半目に笑んで返した。 「何? そんなに美人だった?」 「単に物珍しかっただけだ。なんだよ眼鏡なんかかけて。視力悪かったのか」 「そこは嘘でも頷いておくものよ」 嘆息する麦野。眼鏡越しの冷めた視線に垣根は肩をすくめた。 「オマエに世辞を言ったところで俺には一文の得にもならねぇだろ」 「なるわよ。私の機嫌がよくなる」 「ぬかせ。しかしどうしたんだよそれ。さっきまでかけてなかったろ」 「普段はコンタクト。でもほら、ずれちゃうし――」 そこで麦野は言葉を止める。ぎし、とベッドが軋んだ。携帯電話を持つ右手を取られる。 「………………」 左手でシーツを手繰り、麦野は手を握る垣根を薄く睨む。 眼鏡越しに見える垣根の顔は、腹立たしいほどの薄っぺらい笑みだった。 「何よ。ムカつく顔見せるんじゃないわよ」 「オマエさ、コンタクト外してたって事はよ。何、俺の顔そんなに見たくねぇの?」 「当たり前じゃない。誰が好き好んで」 「好き、だろ?」 「――――冗談じゃないわ」 そう、鼻で笑うように呟くと同時に口を塞がれた。 麦野は目を瞑る。唇をちろ、と舐められ、啄ばまれた。 思わず喘ぐように息を漏らすとそこに舌が割って入った。 ぞろりと、口内を舐められる感触に然も知れぬ感覚に襲われる。 唾液を吸われる濡れた音に眉を顰める。 羞恥ゆえにではなく、それを誘おうとする垣根のわざとらしい態度にだ。 「――――つ」 だから舌を噛んでやった。 ぴくりと垣根の体が震えるのを感じる。 が、唇を離そうとはしなかった。 それどころかより強く、唇を重ねてくる。 掴まれた腕を振り解こうと抵抗する。 振りをする。まったく反吐が出る。 所詮、こんなものは児戯に等しい。 台本通りの猿芝居でしかない。 何よりたちが悪いのは、それを承知でやってるのだから余計に始末に負えない。 舌を、舐める。 薄っすらと歯の痕の残る肉を埋めるように、唾液で濡れたそれで刷り込むように愛撫する。 粘液質な、淫猥な音が耳朶を叩くが他に聞くような相手もなし、気にする事はない。 熱病に浮かされたような鼻息が人中にかかる。 それははたしてどちらのものなのか。 火照った頭ではそんな判断はできないし、そもそも最初からどろどろの溶けたチョコレートのような、 精神も肉体もないまぜになった状態なのだから最初から疑問すら浮かばない。 唇を離され、あ、と小さく声を漏らす。 頬に添えられた右手、親指が濡れた口周りをなぞる。 目を開くと、そこには予想通りの表情をした垣根が麦野の顔を覗きこんでいた。 「残念?」 「……何が」 「キス」 かつ、と垣根の爪がフレームに当たり乾いた音を立てる。 「これ、邪魔」 眼鏡を奪われ、投げ捨てられた。 からん、と乾いた音が響く。 「……ちょっと」 「この距離なら見えるだろう?」 「見たくもない面がね」 だから、目を瞑った。 唇が、頬から下がるように、首をなぞり、鎖骨を――強く吸われる。 最悪、と小さく呟き、麦野は目を閉じたまま天井を仰ぎ、そのまま背からベッドに倒れこんだ。 ベッドのスプリングが軋む。 まぶたの向こうから照らす室内灯が何かに翳り、闇が暗くなった。 ………………けれど、それきりなんの動きもない垣根に麦野はいぶかしみ目を開く。 はたして垣根はこちらを見ていなかった。 じっと、どこか呆然としたような顔で視線はやや下を、麦野の脇の辺りを向いている。 「……、……どうしたの」 問いかけ、視線を追う。 ――同時、ぐ、と手を引かれた。 「づ――っ」 無理な動きによる手首の鈍痛に顔を顰め、麦野は垣根を睨みつける。 「ちょっと、アンタいきなり何を――」 抗議の文句は途中で止まる。 引き寄せられた麦野の右手。 その中にある携帯電話のディスプレイを垣根は凝視し。 「――――ははっ」 笑った。 可笑しそうに、もしくは、つまらなそうに。 鼻で笑うように小さく声に出し。 「なんだよ。結局、アイツだけじゃまだ足りねぇって言うのか」 くそっ、と。 垣根の呟きはどこか嘆きのようにも聞こえて、麦野にはその顔が今にも泣き出しそうな様に思えた。 まったくそんな気配はないのに、なぜだかそう思えてしまったのだ。 だからと言うように。 「そんな顔するんじゃないわよ。情けない」 麦野は垣根の頬にキスをした。 珍しく間の抜けた、きょとんとした顔をする垣根に麦野は言ってやる。 「私を口説いたのはアンタよ。そのアンタがそんな顔するんじゃないわよ。  もっと堂々と、胸を張ってなさい。――そうじゃなければ私はなんなのよ。  アンタの口車に乗って踊らされただけの道化になるつもりなんかないわよ」 嘆息し、麦野は憂いたような、けれどどこか優しげな嘲笑を浮かべる。 「――――――」 そして垣根は頷き。 「悪いな麦野。――続きはまた今度」 「ええ、分かってるわ。分かってるからそこを退きなさい馬鹿。ぶっ飛ばすわよ」 右足を浮かせ膝で蹴り上げるように垣根の胸板を押し退け、麦野は体を起こす。 携帯電話を脇に置き、額に張り付いた髪を指で梳き、ふ、と息を吐いた。 「結構、残念だったりする?」 「まさか」 嘲笑して、肩を竦めた。 「シャワー浴びてくるわ」 「おう。なんなら一緒に入ってやろうか」 遠慮しとくわ、と背を向けたまま手をひらひらと振り、シーツをそのまま半ば引きずるようにしてベッドから立ち上がる。 「麦野。オマエやっぱり、いい女だな」 そう言って麦野の額に口付けた。 は、と麦野は嗤う。 「今頃気付いたの? アンタ今まで私をなんだと思ってたのよ。  目、おかしいんじゃないの。眼科行けば?  腕のいい医者知ってるけど、紹介してあげようか」 「………………」 その言葉に垣根は何か言いたげに唇を少し動かし、それから逡巡して、ベッドから降りて立ち上がり、床に落ちていた麦野の眼鏡を拾い上げ。 「……似合う?」 「返せ」 [[前へ>とある世界の残酷歌劇/序幕/1]]  [[次へ>とある世界の残酷歌劇/序幕/3]]
差し込む夕日に顔を照らされ、まどろみから目を覚ます。 南向きの窓に面したビルの屋上、設置された風力発電機の羽に反射されて、本来見えないはずの陽光がちかちかと明滅する。 まるで光信号のようにも見えるそれに、うっすらと開いた目の前に手を翳した。 「あれ、超起きちゃいましたか」 声に、指の間から見遣ると、ちょうどカーテンを閉じようと窓際に寄った少女の姿が目に留まる。 「……おはよう、きぬはた」 「はい、おはようございます」 少女に微笑み返し、滝壺理后はゆっくりと体を起こす。 いつものように安物の、黒い半袖シャツには皺が寄っているが全く気にする様子もない。 上着代わりのブラウスは足元でくしゃくしゃになっていた。 ん、と伸びをして、呆とした目で辺りを見回す。 広い、高層マンションの一室だ。 シンプルながらも金のかかった造りの、ちょっとした富裕層向けのファミリーサイズのマンション。 そこを学園都市の非公式暗部組織『アイテム』はここのところの根城にしていた。 本来居間として使用されるべきであろう一番大きな部屋の、中央に鎮座したソファに滝壺は寝ていた。 大きな窓からは学園都市のビル群が一望でき、夜景もなかなかだと評判の物件だ。 地上五十二階、最上階に位置するこの部屋からの展望はさぞかし素晴らしいものなのだろうが、滝壺をはじめとした全員がわりとどうでもいいらしく、 夜間は普通にカーテンを閉める。それをもったいないとぼやいていたのは誰だっけ。 「おはようさん、眠り姫。目覚めのコーヒーはいかがですかね?」 「…………ありがとう」 柔らかく笑んで、滝壺は緩やかに湯気の昇るマグカップを受け取る。 抱えるようにして両手で持ち、少し口をつけてから、あつ、と舌を出した。 ふうふうと息を吹きかけて懸命に冷まそうとしていると、隣に座った少年が「可愛いな」と笑った。 「…………」 無言でむくれ顔を向けてやると彼は苦笑して、 「なんだよ滝壺。可愛い顔のオンパレードか? まさか俺を悶え殺そうって魂胆じゃねえだろうな」 そう言って、浜面仕上は滝壺の髪をくしゃりと撫でた。 無骨だが、大きく、暖かい手だと滝壺は思う。 こうして彼が優しく撫でてくれるだけで滝壺は陽だまりにいるような柔らかな幸福感に包まれる。 だから自然と口元が微笑んでしまうのは仕方ないと滝壺は自身に言い訳する。 そして、それを見つけた浜面が余計に撫で回してくるのだから始末に終えない。 けれどその一方で、これでいいのかと滝壺は自問する。 この暗部の闇にあって、この幸せを得ていていいのかと。 自分が彼をどろどろとしたコールタールのような、底の見えない汚泥の中に引きずり込んでいるのではないのか。 彼には自分と違う、こんな最悪な世界以外にあるべき場所があるのではないか。 それでもなお、滝壺は自分に言い訳する。 学園都市の闇。 そこは一度墜ちてしまえば抜け出せない底なし沼だ。 浜面仕上という、なんの後ろ盾もないただの無能力者の少年にはもがく事すらままならない。 ……そう考えて改めて自分は嫌な女だと実感する。 無理心中もいいところだ。所詮、彼の優しさに甘えているだけ。 きっとどうしようもなくなって、一緒に死んでくれと頼んだとき彼はなんのためらいもなく頷くだろう。 そう遠くない未来、その時は来る。 終わりは始めから覚悟しているし、自分が死んだところでこの街は何一つ変わらないだろう。 けれど彼は自分のために死のうとするだろう。 どんなに強大な相手であっても。 万に一つも勝ち目がなくても。 有象無象の塵芥ように扱われ、なんの理由も証明もなく散ったとして。 それを理解してもなお、彼は矜持を抱いて死ぬだろう。 その姿はとても切なく悲しくて。 同時に、狂おしいほど愛おしい。 ……最低だ。滝壺は顔を顰め、顔を伏せた。 「どうした?」 心配そうに覗き込んでくる浜面。 熱はないかと額にかかった髪をかきあげてくる手を優しく退け、首を振った。 「ううん、なんでもない」 そう答え、滝壺は目を閉じて浜面の肩に体を預ける。 服越しに伝わってくる体温が暖かで、滝壺はどうしようもなく安らかな気持ちになる。 (どうでもいいや) 今日の滝壺は甘えんぼだなと笑う浜面にむくれてやる。 今はこの温いものに浸っていればいい。 そのうち嫌でも最悪な気分になるのだから。 「……あのー。非情に言い辛いんですが、人前でいちゃいちゃするの超やめてもらえませんか。すっげー目の毒なんですけど」 声に振り返ると、絹旗最愛が物凄い形相でこちらを見ていた。 眉を寄せ、なんというか……物凄い嫌そうな顔で。道で偶然犬の糞に集るハエの大群を見つけてしまった時のような。 なにやら赤くなってあ、とかう、とか呻く浜面に、少し悪戯心が湧いて抱きついてやった。 そうすると余計に慌てるのがどうしようもなく可愛くて、頬にキスした。 「うわー。なんですかそれ、私に対する超当て付けですか……ってその『ふふん』って顔はなんですか!  超勝ち組の顔しやがってちくしょう!」 「絹旗も混ざる?」 「冗談。超ごめんで……」 「だーめ。浜面はあげないよ」 ぬがあああ、と両手をばたばたさせる絹旗とうろたえる浜面を交互に見て、滝壺はくすくすと笑った。 「はぁ……なんか今日は超滝壺さんのペースな気がします。  ラブラブフィールド展開しないでくださいよ。部屋から超出て行きたくなりますから」 「らっ、ラブラブフィールドってなんだよその肌がむずがゆくなるような名前はっ!?」 「はまづら私とらぶらぶするの、いや?」 マジ勘弁してくださいー、と絹旗は諦めて諸手を挙げた。 「この練乳にガムシロップぶちこんだような空気をどうにかしてください、ほんと。  おい浜面ー、私にもコーヒー。超ブラックで」 へいへい、と文句も垂れずに腰を上げる浜面の裾を一瞬掴もうとして、すんでのところで止めた。 空を掻いた指が所在なさげにふらついたあと、そっとマグカップに添えられる。 そんな様子を見て絹旗は目を細めてふう、と息をついた。 「インスタントでいいよな。っつーか豆なんてないんだけど」 「超構いませんよー。超あったかいものが飲みたいだけですから。最近めっきり冷え込みますからねえ」 そう言う絹旗は明らかにサイズの合わないオレンジ色のだぼついた男物のフルジップパーカーをワンピースのように着込み、その下からはデニム地のショートパンツが見える。 足もタイツできっちりガードされているあたり防寒対策は万全のようだ。 「寒いか? エアコンのリモコンその辺にあるだろ」 「いーえ。超ぬくぬくですよ。寒かったら滝壺さんに抱きついて暖を取りますし」 寒いのは苦手なのだろうか、と首を傾げる。 「まだこの程度の寒さなら大丈夫ですよー。もう少ししたらセーターとかで超もこもこしますけど」 「もこもこ……」 それはこちらから抱きつきたいかもしれない、と滝壺は夢想する。 ふわふわでもこもこ。羊のぬいぐるみに抱きついているような感覚だろうか。 思わず頬がゆるんで絹旗に怪訝な顔を向けられたが気にしない。 元々サイズの小さい絹旗だ。抱き心地はいいだろう。 ぬいぐるみを抱かないと眠れないという人の気持ちがよく分かる。たしかにあれは最高に気持ちがいい。 そこまで考えて我に返った。 つ、と視線を向けた先、部屋の隅。 パソコンデスクのわきにちょこんと座ったうさぎのぬいぐるみを見遣る。 淡いピンクの、大きなボタンが目になった、けれどお世辞にもあまり可愛いとは言えないものだ。 滝壺はこのぬいぐるみがお気に入りだった。 だが、それは滝壺のものではない。 「――――――」 滝壺はぬいぐるみを見る目を細める。 微笑みではなく、物憂げな顔を浮かべ。 このうさぎの主は今頃何をしているのだろう。 数日前、表向きは何もなかった事にされた日。 あの大混乱の中で忽然と姿を消した金髪の少女の行方を滝壺は知らない。 死んでいてもおかしくない。 いや――彼女はもう、戻ってこないだろう。 『アイテム』はそういう世界にいるし、そういう状況にいる。 否、そういう世界、状況そのものだ。 この煌びやかな学園都市にある、どうしようもない闇。 その具現が自分たちであり、それは地獄の悪鬼そのものだ。 けれど――身勝手にも程があるが――滝壺はそれでも彼女が生きて、笑っていてくれる事を願う。 あの場違いに無邪気な少女は今どんな顔をしているのだろうか。 ――そっと背中から抱き寄せられた。 二の腕の上から抱き締められ、胸の上で交差する腕に滝壺は指を重ねた。 「大丈夫だよ、はまづら」 ちらりと二人を見た絹旗は、何も言わず目を伏せた。 「私はここにいるから。消えたりしないから。ずっとはまづらのそばにいるから」 あの時、彼女が言っていたものは手に入った。 けれど果たして、彼女自身はそれを手に入れる事ができたのだろうか。 ―――――――――――――――――――― その頃。 もう一人の『アイテム』構成員、リーダーの麦野沈利は他の三人のいるセーフハウスから少し離れたところにいた。 珍しく髪を上げ、後ろで括りポニーテールにした麦野はベッドに寝転びながら携帯電話の画面を不機嫌そうな目で睨んでいた。 画面にはメール。絹旗の送ったものだ。 内容は麦野の読みが嫌な形で当たっていた事を告げるものと、今後の指示を仰ぐものだった。 「………………」 かちかちと爪がボタンを叩く音が響く。 『とりあえず合流するまで待機するように』と記したメールを打つ。 そうして送信ボタンを押そうとしたとき、背後の物音に麦野は振り返った。 「……おう、誰かと思ったぞ」 初めて見る垣根帝督の驚いた顔に、麦野は半目に笑んで返した。 「何? そんなに美人だった?」 「単に物珍しかっただけだ。なんだよ眼鏡なんかかけて。視力悪かったのか」 「そこは嘘でも頷いておくものよ」 嘆息する麦野。眼鏡越しの冷めた視線に垣根は肩をすくめた。 「オマエに世辞を言ったところで俺には一文の得にもならねぇだろ」 「なるわよ。私の機嫌がよくなる」 「ぬかせ。しかしどうしたんだよそれ。さっきまでかけてなかったろ」 「普段はコンタクト。でもほら、ずれちゃうし――」 そこで麦野は言葉を止める。ぎし、とベッドが軋んだ。携帯電話を持つ右手を取られる。 「………………」 左手でシーツを手繰り、麦野は手を握る垣根を薄く睨む。 眼鏡越しに見える垣根の顔は、腹立たしいほどの薄っぺらい笑みだった。 「何よ。ムカつく顔見せるんじゃないわよ」 「オマエさ、コンタクト外してたって事はよ。何、俺の顔そんなに見たくねぇの?」 「当たり前じゃない。誰が好き好んで」 「好き、だろ?」 「――――冗談じゃないわ」 そう、鼻で笑うように呟くと同時に口を塞がれた。 麦野は目を瞑る。唇をちろ、と舐められ、啄ばまれた。 思わず喘ぐように息を漏らすとそこに舌が割って入った。 ぞろりと、口内を舐められる感触に然も知れぬ感覚に襲われる。 唾液を吸われる濡れた音に眉を顰める。 羞恥ゆえにではなく、それを誘おうとする垣根のわざとらしい態度にだ。 「――――つ」 だから舌を噛んでやった。 ぴくりと垣根の体が震えるのを感じる。 が、唇を離そうとはしなかった。 それどころかより強く、唇を重ねてくる。 掴まれた腕を振り解こうと抵抗する。 振りをする。まったく反吐が出る。 所詮、こんなものは児戯に等しい。 台本通りの猿芝居でしかない。 何よりたちが悪いのは、それを承知でやってるのだから余計に始末に負えない。 舌を、舐める。 薄っすらと歯の痕の残る肉を埋めるように、唾液で濡れたそれで刷り込むように愛撫する。 粘液質な、淫猥な音が耳朶を叩くが他に聞くような相手もなし、気にする事はない。 熱病に浮かされたような鼻息が人中にかかる。 それははたしてどちらのものなのか。 火照った頭ではそんな判断はできないし、そもそも最初からどろどろの溶けたチョコレートのような、 精神も肉体もないまぜになった状態なのだから最初から疑問すら浮かばない。 唇を離され、あ、と小さく声を漏らす。 頬に添えられた右手、親指が濡れた口周りをなぞる。 目を開くと、そこには予想通りの表情をした垣根が麦野の顔を覗きこんでいた。 「残念?」 「……何が」 「キス」 かつ、と垣根の爪がフレームに当たり乾いた音を立てる。 「これ、邪魔」 眼鏡を奪われ、投げ捨てられた。 からん、と乾いた音が響く。 「……ちょっと」 「この距離なら見えるだろう?」 「見たくもない面がね」 だから、目を瞑った。 唇が、頬から下がるように、首をなぞり、鎖骨を――強く吸われる。 最悪、と小さく呟き、麦野は目を閉じたまま天井を仰ぎ、そのまま背からベッドに倒れこんだ。 ベッドのスプリングが軋む。 まぶたの向こうから照らす室内灯が何かに翳り、闇が暗くなった。 ………………けれど、それきりなんの動きもない垣根に麦野はいぶかしみ目を開く。 はたして垣根はこちらを見ていなかった。 じっと、どこか呆然としたような顔で視線はやや下を、麦野の脇の辺りを向いている。 「……、……どうしたの」 問いかけ、視線を追う。 ――同時、ぐ、と手を引かれた。 「づ――っ」 無理な動きによる手首の鈍痛に顔を顰め、麦野は垣根を睨みつける。 「ちょっと、アンタいきなり何を――」 抗議の文句は途中で止まる。 引き寄せられた麦野の右手。 その中にある携帯電話のディスプレイを垣根は凝視し。 「――――ははっ」 笑った。 可笑しそうに、もしくは、つまらなそうに。 鼻で笑うように小さく声に出し。 「なんだよ。結局、アイツだけじゃまだ足りねぇって言うのか」 くそっ、と。 垣根の呟きはどこか嘆きのようにも聞こえて、麦野にはその顔が今にも泣き出しそうな様に思えた。 まったくそんな気配はないのに、なぜだかそう思えてしまったのだ。 だからと言うように。 「そんな顔するんじゃないわよ。情けない」 麦野は垣根の頬にキスをした。 珍しく間の抜けた、きょとんとした顔をする垣根に麦野は言ってやる。 「私を口説いたのはアンタよ。そのアンタがそんな顔するんじゃないわよ。  もっと堂々と、胸を張ってなさい。――そうじゃなければ私はなんなのよ。  アンタの口車に乗って踊らされただけの道化になるつもりなんかないわよ」 嘆息し、麦野は憂いたような、けれどどこか優しげな嘲笑を浮かべる。 「――――――」 そして垣根は頷き。 「悪いな麦野。――続きはまた今度」 「ええ、分かってるわ。分かってるからそこを退きなさい馬鹿。ぶっ飛ばすわよ」 右足を浮かせ膝で蹴り上げるように垣根の胸板を押し退け、麦野は体を起こす。 携帯電話を脇に置き、額に張り付いた髪を指で梳き、ふ、と息を吐いた。 「結構、残念だったりする?」 「まさか」 嘲笑して、肩を竦めた。 「シャワー浴びてくるわ」 「おう。なんなら一緒に入ってやろうか」 遠慮しとくわ、と背を向けたまま手をひらひらと振り、シーツをそのまま半ば引きずるようにしてベッドから立ち上がる。 「麦野。オマエやっぱり、いい女だな」 そう言って麦野の額に口付けた。 は、と麦野は嗤う。 「今頃気付いたの? アンタ今まで私をなんだと思ってたのよ。  目、おかしいんじゃないの。眼科行けば?  腕のいい医者知ってるけど、紹介してあげようか」 「………………」 その言葉に垣根は何か言いたげに唇を少し動かし、それから逡巡して、ベッドから降りて立ち上がり、床に落ちていた麦野の眼鏡を拾い上げ。 「……似合う?」 「返せ」 [[前へ>とある世界の残酷歌劇/序幕/1]]  [[次へ>とある世界の残酷歌劇/序幕/3]]

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。