とある世界の残酷歌劇 > 幕前 > 08

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どうにも不幸な星回りに纏わり着かれているような気がしてならない。 昼前に訪れた病院は何やらざわついていた。 病院という施設は元より活気に溢れて然るべき場ではない。 誰も彼もが沈痛な面持ちでとは言わぬが粛々とした一種の静謐さが求められる。 順調に快復する怪我人もいる。 生の希望を抱く不治の病人もいる。 逃れようのない死を抱きながらも己が生きた人生を誇る老人もいる。 そして新たに受けた生の痛みと喜びに泣く赤子もいる。 病院とは死神の家ではない。それは隣人だが彼ほど使命に誠実で真っ当なものもいないだろう。 生物の宿命として人はやがて死ぬ。その摂理から逃れた者など空前絶後、誰一人として存在しない。 だからこそ人は忌避しながらも死に挑み続ける。 言うなれば病院とは彼らに対する最前線基地だ。 死という未来永劫勝てぬ相手に挑むため、医師はメスを刷き針を撃ち病魔に立ち向かう。 敗北は即ち死であり、それは戦場と何ら変わらぬ普遍則として存在し続けている。 奇跡を切望しつつも私情を滅し機械的な判断が要求される。 希望は捨てずとも良いが感情は時として人を暴走させ自滅させる。 そういう意味では戦場に私情は不要だった。 感情は時に奇跡のような物語を生むがそれは万に一つ程度だ。 奇跡とはそう易々と起きぬからの奇跡であり、残る九千九百九十九の状況では感情は単に邪魔物でしかない。 感情の爆発で奇跡が量産されるようであれば世界はもう少し平穏であったか、もしくはもう少し破滅的だっただろう。 それは浜面の墜ちた世界の裏側でも同じ事。 病院が死の家と隣り合わせなのだとすれば彼の知る地獄と似ていても何ら不思議は無い。 だから浜面は妙な違和感を覚えた。 消毒液の鼻を突く独特の臭いがうっすらと漂う廊下を忙しなく行き交う白衣の医師。 階段の踊り場で小声で会話する研修医たち。 受付の看護士の態度もどこかよそよそしかった。 若い看護士の遅々とした処理のお陰で退院手続きに思ったよりも時間を取られてしまった。 気付けば時計は既に午後を示している。 太陽は眩しかったが寒空に映える閃光は何故だか妙に冷たく見えた。 「忘れ物はないよな」 新たに調達した軽自動車の運転席に乗り込み浜面は後部座席の滝壺に再度確認を取る。 「うん。そもそも特に何も持ってきてないし」 彼女の言うとおりだ。 昨日の戦闘で負傷――といっても自傷に近いが――した滝壺は件の病院で緊急手術を受け、昨晩はそのまま病院に泊まる事になった。 たかが一日程度の入院に準備も必要ない。着の身着のままでおおよそは事足りる。 医者の腕が良かったからなのか、それとも怪我自体が軽いものだったのか。 医学知識の無い浜面には判断できなかったが二日目の入院生活は必要なかった。 必要のない患者に遊ばせるベッドはないという事なのだろう。形ばかりの継続入院を問われたが退院を選んだ。 そもそも暗部の人間にとって病院などという公共施設は鬼門だ。 裏社会の存在が表舞台に立つ事自体憚られる。影に隠れ生きるのが本来の形だとすればあそこは随分と居心地が悪い。 鍵を回すと軽い振動と共にエンジンが始動する。 浜面はサイドブレーキを降ろすとバックミラーで後ろに座る滝壺にちらりと視線を遣ってから緩やかに車を発進させた。 「……傷は痛まないか」 「うん。大丈夫だよ。見た目こんなだけど二、三日で包帯取っていいって」 「……そっか」 滝壺の声はいつもと変わらず柔らかなものだ。 けれど彼女の顔を覆う真っ白な包帯が妙に痛々しかった。 彼女の顔面を横一直線に走る包帯。 目隠しをするように巻かれたそれが傷痕を完全に隠している。 彼女の言うように傷はそれほど深いものではないのだろうが、だからこそなおさらに仰々しく、痛ましく思えてしまう。 「まぶたの裏がちょっと切れただけだって。目そのものとか神経とかは無事。  負担を掛けないようにって事だから本当はアイマスクでもいいんだけど」 彼女はきっと浜面を心配させまいとしてくれているのだろう。 けれどその言葉はどこか言い訳のように聞こえてしまって、浜面は余計に顔を顰めてしまうのだった。 彼女からは見えないからとそれを隠そうともしない自分がどうにも嫌で浜面は奥歯を噛む。 「そういえばオマエ、飯まだ食ってないよな。どっか寄るか?」 表情と声が乖離している事を自覚しながら浜面は努めて明るい口調で彼女に尋ねる。 「ううん。いい」 ……まただ。 鏡に映る彼女の顔は半分が隠されているために表情は定かではなかったが、微笑の形に緩められた唇はどこか寂しげだった。 いつもより幾らか狭い軽自動車の内。 小さく仕切られた空間ではお互いの気配は無視できないほどに濃密なものとなっている。 そんな状況だから恐らく彼女は浜面の放つ気配を敏感に察したのだろう。 彼女は気配とか雰囲気とか虫の知らせとか、そういう形の無いものを感じ取る事に長けている。 能力の所為もあるだろう。浜面とてまがりなりにも能力開発を受けている。 彼女が感じ取れるというAIM拡散力場とかいうものを自分も発しているのだとすれば、 顔を見ずともこちらの感情を少なからず窺い知られているだろうという状況にも納得がいく。 第一嘘は下手な方だと自分でも思っている。 滝壺のような聡い少女を相手にペテンに掛けようとすること自体が間違っている。 第三者から見ればさぞ滑稽な様だろう。 お互いがお互いの心中を察しながらも傷を舐めあうが如く笑顔を仮面に形ばかりの談笑に興じている。 それでも彼女の前ではピエロのように振舞わずにはいられなかった。 その好意がお互いを傷つけ合っていると分かっていながらも、傷つけ合う行為を止められない。 昨日の一件を境に一人が消えた。 それぞれが個性的な『アイテム』の中でも一際異彩を放つ外国人の少女。 彼女の柔らかな金髪を浜面はあの研究所に入る背を最後に見ていない。 やけに嫌な沈黙が車内を支配する。 重苦しく立ち込める気配は澱のように重く息苦しく感じてしまう。 「……ねえ、はまづら」 「んー?」 窒息しそうな密室でそれを無視し浜面は意識して惚けた口調で返す。 きっと彼女は浜面の無駄な努力さえも分かっているだろう。 けれど口にはしない。 彼女も浜面と同じく形ばかりの平穏を装っているに過ぎないが、それでもこれは必要な事だろうと浜面は思う。 「むぎのは?」 「『スクール』の超能力者、えーと……垣根っていったか。アイツとどっか行った」 「きぬはたは?」 「昨日の事後処理で忙しいみたいだよ。あれだけ派手に殺してるからな。  いくらバックが凄いっていっても今度ばかりは揉み消しに手間取ってるみたいだ」 「……そう」 残る一人。 彼女の所在を尋ねはせず滝壺は再び沈黙する。 聡いという事は何も利点だけではない。 当人にしても周囲にしても次第に煩わしく思えてきてしまう。要らぬ事まで察してしまう。その結果がこの猿芝居だ。 観客もなく当の本人たちもとっくに気付いていて、騙す必要なんて欠片もないのに下らない演技を続ける。 つまりこれは確認作業だ。 覆しようのない失敗を自戒させるための自傷行為。 身体に傷痕を深く深く刻み付け、悼みを風化させないために痛みを得ようとしている。 「……フレンダは?」 絞り出すようにようやく発せられたその声は気のせいだろうか、少し震えているように思えた。 気付かぬ振りをして浜面は愚鈍で純朴で残酷な少年を演じる。 演技ではなく本心から最低の下種だと心中で吐き捨てながら、浜面は彼女を傷付けるための一言を紡ぐ。 「連絡が取れない」 「………………そう」 彼女は一体どんな顔をしているのだろう。 鏡越しの白い布に覆われた少女の表情は愚鈍な浜面には判断しようもなかった。 眼前の信号が赤に変わり、浜面は停車するためにブレーキを踏む。 「……はまづら」 「んー?」 緩やかに減速すると共に身体が慣性の法則に従い前へ引かれるような感触を覚える。 車が完全に停止するのを待って滝壺は小さく唇を開いた。 「行きたいところ、できた」 「どこ?」 「ホテル」 ……停車した後でよかったと思う。 浜面は努めて平静を装いながら冗談めかした薄い笑いと共に背後の少女に言葉を投げる。 「この辺にはないから第三学区まで行く事になるぞ?  あ、言ってなかったっけ。あっちのアジトはもう引き払って第六学区に場所移してんだ。  まあ確かにああいうところの飯は美味いと思うけど……」 「そうじゃないよ」 「……」 分かっている。彼女の言葉が何を指しているのかも、浜面に望んでいる事も。 けれどもしかしたら何かの間違いじゃないのかと思ってしまって、浜面は思わず逃げ道を示してしまった。 きっと聡い彼女ならその意図を汲んでくれるだろうと思って。 そうしたらきっといつものように白けたような視線を――その両目は包帯に覆われてしまっているのだが。 「嫌だったらいいよ。はまづらが嫌がる事を無理にして貰おうとは思わないから」 でも――と彼女は小さく続け、それ以上は口に出さなかった。 「……嫌じゃ……ない……けど」 溺死しそうなほどの空気に喘ぐように押し出した声。 けれどその続きを浜面は口に出来なかった。 彼女の気持ちは痛いほど理解できる。 嫌だったら、というその言葉の意味も十分に分かってしまう。 きっと自分は必要以上に彼女の事を知りすぎてしまったのだろう。 何も知らぬ愚者のままでいられればどれほど楽だっただろうと思う。 けれど過去は変わらず、時間を巻き戻す事は誰にも出来やしない。 「はまづら――」 きっとこういう現実を不幸と人は言うのだろう。 黙って気付かぬ振りをして下手な芝居を続けていれば何事もなかった事にできただろうに。 余りに悲しく、そして余りに愛しい少女はきっとそんな芝居が打てるほど器用ではなく、自分もまた同じだろう。 「好き」 少女の囁いた愛の言葉は、けれどどこか呪いの言葉にも聞こえた。 「……ごめんね。こういうの、凄く卑怯だと思うけど」 つまり自分は賢しいのだと滝壺は自嘲する。 この場、この状況、このタイミング……最悪の状況で最悪の言葉を彼に送る。 きっと優しすぎる彼は拒絶なんて出来ないから。その優しさに付け込んでしまう自分がどうしようもなく醜悪な生き物に思える。 「でも私は、はまづらに抱いて欲しい」 逃げ道を用意しているようでそれは形骸ばかりのものでしかない。 こう言ってしまえば彼は頷くしかないのだと確信している。 「……ごめん」 言葉の裏に隠された真意も彼はきっと理解している。 十二分に理解しているからこそ優しすぎる彼は逃げられない。 「ごめんなさい。でも私は……はまづらの事、好きになっちゃったから」 それでも弱すぎる自分は優しい彼を籠絡して逃げる事しか出来ないのだ。 いずれこの言葉が彼を破滅させるだろうと分かっていながらも言わずにはいられない。 元から滝壺理后という生き物はそういう存在で、誰かを救うとかそういう高尚な事は出来るはずもなかった。 そういう最初から最後まで打算と計略で埋め尽くされた愛の言葉は――ああ――なんて最悪なものだろう。 本来ならば祝福されるべき睦言もこれでは悪魔の言葉と何ら変わりない。 他がどれだけ嘘に塗れていても。 その想いの形がどれほど歪んでいても。 たった一つ胸に得た気持ちだけは正直にいたいと――愚かしくもそう願わずにはいられなかった。 やけに長く感じる沈黙の後、信号が青に替わり、車は静かに発進する。 そして浜面は押し殺したような声で小さく言った。 「……後悔するぞ」 きっとそう言うと思っていた。 この地獄に生きるには優しすぎる少年は最後まで自分を慮ってくれるのに。 「ううん――しないよ」 出来る事なら後悔させて欲しいと思う。 それでもきっと、後悔なんて出来るはずがなかった。 ―――――――――――――――――――― 学園都市は学生のための街だ。 理想はこの手の法で取り締まらなければいけないような施設は存在してはいけないだろう。 けれど人口の大部分を占める若者にはどうしても必要になる。 ある種の必要悪。風紀が乱れる原因にもなるが恋愛感情を取り締まる事は出来ない。 少なくともこの日本という国家において自由恋愛は尊いものだとされている。 基本的人権の一つ――と称してもいいだろうか。個々の感情は尊重されるべきものであって弾圧されるものではない。 第七学区は元々浜面のテリトリーだ。 街の事は隅から隅まで――とはいかないが、こういうきな臭い事が起こり得る場所は粗方把握している。 売買春が行われるには恰好の場。事実としてそれは存在していた。 性は商品として極上のものであり、需要は後を絶たない。欲望を溜め込み鬱屈している学生が相手であればなおさらだ。 ただ、浜面の属していたコミュニティは無頼者の集団ではあったが、そのリーダーである駒場が嫌ったためにそういう性を伴う物事には関与していない。 どちらかといえば彼は純朴だったのだろう。あの顔で、と亡き友人の顔を思い出して浜面は苦笑しそうになった。 彼らはそれらを弾圧する側だった。 法を無視する相手には同じく法に縛られない彼らが必要であり、そういう意味では彼らも必要悪だったといえる。 他のグループに睨みを効かせ、抑制するための見せしめ行為だった。 自分達の縄張りで従わない者には容赦しない。だから徹底的に潰した。 浜面も何度かその現場に踏み込んだ事がある。……が客として利用するのは初めてだった。 浜面の仲間に女性がいなかった訳ではない。 ただ仲間関係はそれ以上でもそれ以下でもなく、共存するためにお互いを利用しあっていたと言った方が正しい。 『したければすればいい』程度でしかなかった性の認識は一種の理想だった。 中には恋愛感情に発展する者らもいたが――それは兎も角として少なくとも浜面には今まで恋人はいたためしがなかった。 だからだろうか。 明晰夢のような妙に非現実的な感覚を伴いながら浜面は滝壺の手を引いてエントランスを歩く。 無人の狭いホールを横切る。 突き当りにはエレベーターがあり、その横にはインターホンのような係員の呼び出しと、 カタログじみた部屋の写真のパネル、それらに対応する小さなボタンがついている。 パネルが点灯していれば空室、暗くなっていれば使用中。 別に説明書きがあった訳ではないが漠然と理解できる。 九割方点灯しているのは平日の昼だからだろう。 利用客の大半――それなりに真面目な大学生連中は講義に出たりサボって街で遊んでいたりする時間帯だ。 真昼間から事に及ぼうとする者はあまりいない。思いがけず知り合いに出くわして気拙い思いをする……なんて事態には遭遇せずに済みそうだ。 小さく書かれた料金は部屋によってまちまちだが特に気にせず、内装が比較的落ち着いたものを選んでボタンを押す。 パネル裏の照明が消えると同時に、かたん、と小さな音を立てて下の窓に鍵が排出される。 要するにこれは部屋の自動販売機だ。ただし料金は後払い。 背を折って鍵を掴む。 安っぽいプラスチックのホルダーがついたそれがやけに軽く感じられた。 267 名前:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします[saga] 投稿日:2011/06/19(日) 03:59:13.95 ID:Dui+n6xso [7/8] エレベーターのボタンを押すとすぐに扉が開いた。 「……」 無言で滝壺の手を引くと彼女も無言でそれに従う。 キーホルダーに書かれた部屋番号を確かめ目的の階のボタンを押す。 静かに扉が閉まり、それからがくんと揺れてエレベーターは上昇を始めた。 想定していたものよりも大きく感じてしまったのは緊張しているからだろうか。自分ではそんな実感なんてないのに。 覚られぬよう横目で滝壺の顔を見る。 包帯の巻かれた彼女の顔は少し俯き気味で、やはりその表情を窺い知る事は出来なかった。 ただ――手を握る力が先程よりも心なしか強く感じる。 彼女も緊張しているのだろうか。 触れ合う手と手の間に汗の気配を感じる。 纏わり付くような感触は何故か不快に思えなかった。 ぽーん――と玩具のような軽い音を立ててエレベーターが到着を知らせる。 最後に小さく揺れ、扉が開く。 無人の廊下。人の気配はなく、しんと静まり返っている。 一歩踏み出し、安っぽい絨毯の上を跳ねた足音がやけに大きく響いた。 滝壺の手を引き途方もなく長く感じる廊下を歩く。 一歩ごとにくぐもった響きの足音が耳の中に反響して眩暈すら感じる。 現実味を伴わない感覚に漂うように思考を停止させたまま歩き……鍵の示す部屋の前で立ち止まる。 滝壺を引く手とは逆の手に握られた鍵。 鈍い色を返すそれに少しの間視線を落として――。 「…………」 鍵穴に挿し込み、捻る。 がちゃり、と返す音は重く、なのに抵抗は思ったよりも軽かった。 [[前へ>とある世界の残酷歌劇/幕前/07]]        [[次へ>とある世界の残酷歌劇/幕前/09]]
どうにも不幸な星回りに纏わり着かれているような気がしてならない。 昼前に訪れた病院は何やらざわついていた。 病院という施設は元より活気に溢れて然るべき場ではない。 誰も彼もが沈痛な面持ちでとは言わぬが粛々とした一種の静謐さが求められる。 順調に快復する怪我人もいる。 生の希望を抱く不治の病人もいる。 逃れようのない死を抱きながらも己が生きた人生を誇る老人もいる。 そして新たに受けた生の痛みと喜びに泣く赤子もいる。 病院とは死神の家ではない。それは隣人だが彼ほど使命に誠実で真っ当なものもいないだろう。 生物の宿命として人はやがて死ぬ。その摂理から逃れた者など空前絶後、誰一人として存在しない。 だからこそ人は忌避しながらも死に挑み続ける。 言うなれば病院とは彼らに対する最前線基地だ。 死という未来永劫勝てぬ相手に挑むため、医師はメスを刷き針を撃ち病魔に立ち向かう。 敗北は即ち死であり、それは戦場と何ら変わらぬ普遍則として存在し続けている。 奇跡を切望しつつも私情を滅し機械的な判断が要求される。 希望は捨てずとも良いが感情は時として人を暴走させ自滅させる。 そういう意味では戦場に私情は不要だった。 感情は時に奇跡のような物語を生むがそれは万に一つ程度だ。 奇跡とはそう易々と起きぬからの奇跡であり、残る九千九百九十九の状況では感情は単に邪魔物でしかない。 感情の爆発で奇跡が量産されるようであれば世界はもう少し平穏であったか、もしくはもう少し破滅的だっただろう。 それは浜面の墜ちた世界の裏側でも同じ事。 病院が死の家と隣り合わせなのだとすれば彼の知る地獄と似ていても何ら不思議は無い。 だから浜面は妙な違和感を覚えた。 消毒液の鼻を突く独特の臭いがうっすらと漂う廊下を忙しなく行き交う白衣の医師。 階段の踊り場で小声で会話する研修医たち。 受付の看護士の態度もどこかよそよそしかった。 若い看護士の遅々とした処理のお陰で退院手続きに思ったよりも時間を取られてしまった。 気付けば時計は既に午後を示している。 太陽は眩しかったが寒空に映える閃光は何故だか妙に冷たく見えた。 「忘れ物はないよな」 新たに調達した軽自動車の運転席に乗り込み浜面は後部座席の滝壺に再度確認を取る。 「うん。そもそも特に何も持ってきてないし」 彼女の言うとおりだ。 昨日の戦闘で負傷――といっても自傷に近いが――した滝壺は件の病院で緊急手術を受け、昨晩はそのまま病院に泊まる事になった。 たかが一日程度の入院に準備も必要ない。着の身着のままでおおよそは事足りる。 医者の腕が良かったからなのか、それとも怪我自体が軽いものだったのか。 医学知識の無い浜面には判断できなかったが二日目の入院生活は必要なかった。 必要のない患者に遊ばせるベッドはないという事なのだろう。形ばかりの継続入院を問われたが退院を選んだ。 そもそも暗部の人間にとって病院などという公共施設は鬼門だ。 裏社会の存在が表舞台に立つ事自体憚られる。影に隠れ生きるのが本来の形だとすればあそこは随分と居心地が悪い。 鍵を回すと軽い振動と共にエンジンが始動する。 浜面はサイドブレーキを降ろすとバックミラーで後ろに座る滝壺にちらりと視線を遣ってから緩やかに車を発進させた。 「……傷は痛まないか」 「うん。大丈夫だよ。見た目こんなだけど二、三日で包帯取っていいって」 「……そっか」 滝壺の声はいつもと変わらず柔らかなものだ。 けれど彼女の顔を覆う真っ白な包帯が妙に痛々しかった。 彼女の顔面を横一直線に走る包帯。 目隠しをするように巻かれたそれが傷痕を完全に隠している。 彼女の言うように傷はそれほど深いものではないのだろうが、だからこそなおさらに仰々しく、痛ましく思えてしまう。 「まぶたの裏がちょっと切れただけだって。目そのものとか神経とかは無事。  負担を掛けないようにって事だから本当はアイマスクでもいいんだけど」 彼女はきっと浜面を心配させまいとしてくれているのだろう。 けれどその言葉はどこか言い訳のように聞こえてしまって、浜面は余計に顔を顰めてしまうのだった。 彼女からは見えないからとそれを隠そうともしない自分がどうにも嫌で浜面は奥歯を噛む。 「そういえばオマエ、飯まだ食ってないよな。どっか寄るか?」 表情と声が乖離している事を自覚しながら浜面は努めて明るい口調で彼女に尋ねる。 「ううん。いい」 ……まただ。 鏡に映る彼女の顔は半分が隠されているために表情は定かではなかったが、微笑の形に緩められた唇はどこか寂しげだった。 いつもより幾らか狭い軽自動車の内。 小さく仕切られた空間ではお互いの気配は無視できないほどに濃密なものとなっている。 そんな状況だから恐らく彼女は浜面の放つ気配を敏感に察したのだろう。 彼女は気配とか雰囲気とか虫の知らせとか、そういう形の無いものを感じ取る事に長けている。 能力の所為もあるだろう。浜面とてまがりなりにも能力開発を受けている。 彼女が感じ取れるというAIM拡散力場とかいうものを自分も発しているのだとすれば、 顔を見ずともこちらの感情を少なからず窺い知られているだろうという状況にも納得がいく。 第一嘘は下手な方だと自分でも思っている。 滝壺のような聡い少女を相手にペテンに掛けようとすること自体が間違っている。 第三者から見ればさぞ滑稽な様だろう。 お互いがお互いの心中を察しながらも傷を舐めあうが如く笑顔を仮面に形ばかりの談笑に興じている。 それでも彼女の前ではピエロのように振舞わずにはいられなかった。 その好意がお互いを傷つけ合っていると分かっていながらも、傷つけ合う行為を止められない。 昨日の一件を境に一人が消えた。 それぞれが個性的な『アイテム』の中でも一際異彩を放つ外国人の少女。 彼女の柔らかな金髪を浜面はあの研究所に入る背を最後に見ていない。 やけに嫌な沈黙が車内を支配する。 重苦しく立ち込める気配は澱のように重く息苦しく感じてしまう。 「……ねえ、はまづら」 「んー?」 窒息しそうな密室でそれを無視し浜面は意識して惚けた口調で返す。 きっと彼女は浜面の無駄な努力さえも分かっているだろう。 けれど口にはしない。 彼女も浜面と同じく形ばかりの平穏を装っているに過ぎないが、それでもこれは必要な事だろうと浜面は思う。 「むぎのは?」 「『スクール』の超能力者、えーと……垣根っていったか。アイツとどっか行った」 「きぬはたは?」 「昨日の事後処理で忙しいみたいだよ。あれだけ派手に殺してるからな。  いくらバックが凄いっていっても今度ばかりは揉み消しに手間取ってるみたいだ」 「……そう」 残る一人。 彼女の所在を尋ねはせず滝壺は再び沈黙する。 聡いという事は何も利点だけではない。 当人にしても周囲にしても次第に煩わしく思えてきてしまう。要らぬ事まで察してしまう。その結果がこの猿芝居だ。 観客もなく当の本人たちもとっくに気付いていて、騙す必要なんて欠片もないのに下らない演技を続ける。 つまりこれは確認作業だ。 覆しようのない失敗を自戒させるための自傷行為。 身体に傷痕を深く深く刻み付け、悼みを風化させないために痛みを得ようとしている。 「……フレンダは?」 絞り出すようにようやく発せられたその声は気のせいだろうか、少し震えているように思えた。 気付かぬ振りをして浜面は愚鈍で純朴で残酷な少年を演じる。 演技ではなく本心から最低の下種だと心中で吐き捨てながら、浜面は彼女を傷付けるための一言を紡ぐ。 「連絡が取れない」 「………………そう」 彼女は一体どんな顔をしているのだろう。 鏡越しの白い布に覆われた少女の表情は愚鈍な浜面には判断しようもなかった。 眼前の信号が赤に変わり、浜面は停車するためにブレーキを踏む。 「……はまづら」 「んー?」 緩やかに減速すると共に身体が慣性の法則に従い前へ引かれるような感触を覚える。 車が完全に停止するのを待って滝壺は小さく唇を開いた。 「行きたいところ、できた」 「どこ?」 「ホテル」 ……停車した後でよかったと思う。 浜面は努めて平静を装いながら冗談めかした薄い笑いと共に背後の少女に言葉を投げる。 「この辺にはないから第三学区まで行く事になるぞ?  あ、言ってなかったっけ。あっちのアジトはもう引き払って第六学区に場所移してんだ。  まあ確かにああいうところの飯は美味いと思うけど……」 「そうじゃないよ」 「……」 分かっている。彼女の言葉が何を指しているのかも、浜面に望んでいる事も。 けれどもしかしたら何かの間違いじゃないのかと思ってしまって、浜面は思わず逃げ道を示してしまった。 きっと聡い彼女ならその意図を汲んでくれるだろうと思って。 そうしたらきっといつものように白けたような視線を――その両目は包帯に覆われてしまっているのだが。 「嫌だったらいいよ。はまづらが嫌がる事を無理にして貰おうとは思わないから」 でも――と彼女は小さく続け、それ以上は口に出さなかった。 「……嫌じゃ……ない……けど」 溺死しそうなほどの空気に喘ぐように押し出した声。 けれどその続きを浜面は口に出来なかった。 彼女の気持ちは痛いほど理解できる。 嫌だったら、というその言葉の意味も十分に分かってしまう。 きっと自分は必要以上に彼女の事を知りすぎてしまったのだろう。 何も知らぬ愚者のままでいられればどれほど楽だっただろうと思う。 けれど過去は変わらず、時間を巻き戻す事は誰にも出来やしない。 「はまづら――」 きっとこういう現実を不幸と人は言うのだろう。 黙って気付かぬ振りをして下手な芝居を続けていれば何事もなかった事にできただろうに。 余りに悲しく、そして余りに愛しい少女はきっとそんな芝居が打てるほど器用ではなく、自分もまた同じだろう。 「好き」 少女の囁いた愛の言葉は、けれどどこか呪いの言葉にも聞こえた。 「……ごめんね。こういうの、凄く卑怯だと思うけど」 つまり自分は賢しいのだと滝壺は自嘲する。 この場、この状況、このタイミング……最悪の状況で最悪の言葉を彼に送る。 きっと優しすぎる彼は拒絶なんて出来ないから。その優しさに付け込んでしまう自分がどうしようもなく醜悪な生き物に思える。 「でも私は、はまづらに抱いて欲しい」 逃げ道を用意しているようでそれは形骸ばかりのものでしかない。 こう言ってしまえば彼は頷くしかないのだと確信している。 「……ごめん」 言葉の裏に隠された真意も彼はきっと理解している。 十二分に理解しているからこそ優しすぎる彼は逃げられない。 「ごめんなさい。でも私は……はまづらの事、好きになっちゃったから」 それでも弱すぎる自分は優しい彼を籠絡して逃げる事しか出来ないのだ。 いずれこの言葉が彼を破滅させるだろうと分かっていながらも言わずにはいられない。 元から滝壺理后という生き物はそういう存在で、誰かを救うとかそういう高尚な事は出来るはずもなかった。 そういう最初から最後まで打算と計略で埋め尽くされた愛の言葉は――ああ――なんて最悪なものだろう。 本来ならば祝福されるべき睦言もこれでは悪魔の言葉と何ら変わりない。 他がどれだけ嘘に塗れていても。 その想いの形がどれほど歪んでいても。 たった一つ胸に得た気持ちだけは正直にいたいと――愚かしくもそう願わずにはいられなかった。 やけに長く感じる沈黙の後、信号が青に替わり、車は静かに発進する。 そして浜面は押し殺したような声で小さく言った。 「……後悔するぞ」 きっとそう言うと思っていた。 この地獄に生きるには優しすぎる少年は最後まで自分を慮ってくれるのに。 「ううん――しないよ」 出来る事なら後悔させて欲しいと思う。 それでもきっと、後悔なんて出来るはずがなかった。 ―――――――――――――――――――― 学園都市は学生のための街だ。 理想はこの手の法で取り締まらなければいけないような施設は存在してはいけないだろう。 けれど人口の大部分を占める若者にはどうしても必要になる。 ある種の必要悪。風紀が乱れる原因にもなるが恋愛感情を取り締まる事は出来ない。 少なくともこの日本という国家において自由恋愛は尊いものだとされている。 基本的人権の一つ――と称してもいいだろうか。個々の感情は尊重されるべきものであって弾圧されるものではない。 第七学区は元々浜面のテリトリーだ。 街の事は隅から隅まで――とはいかないが、こういうきな臭い事が起こり得る場所は粗方把握している。 売買春が行われるには恰好の場。事実としてそれは存在していた。 性は商品として極上のものであり、需要は後を絶たない。欲望を溜め込み鬱屈している学生が相手であればなおさらだ。 ただ、浜面の属していたコミュニティは無頼者の集団ではあったが、そのリーダーである駒場が嫌ったためにそういう性を伴う物事には関与していない。 どちらかといえば彼は純朴だったのだろう。あの顔で、と亡き友人の顔を思い出して浜面は苦笑しそうになった。 彼らはそれらを弾圧する側だった。 法を無視する相手には同じく法に縛られない彼らが必要であり、そういう意味では彼らも必要悪だったといえる。 他のグループに睨みを効かせ、抑制するための見せしめ行為だった。 自分達の縄張りで従わない者には容赦しない。だから徹底的に潰した。 浜面も何度かその現場に踏み込んだ事がある。……が客として利用するのは初めてだった。 浜面の仲間に女性がいなかった訳ではない。 ただ仲間関係はそれ以上でもそれ以下でもなく、共存するためにお互いを利用しあっていたと言った方が正しい。 『したければすればいい』程度でしかなかった性の認識は一種の理想だった。 中には恋愛感情に発展する者らもいたが――それは兎も角として少なくとも浜面には今まで恋人はいたためしがなかった。 だからだろうか。 明晰夢のような妙に非現実的な感覚を伴いながら浜面は滝壺の手を引いてエントランスを歩く。 無人の狭いホールを横切る。 突き当りにはエレベーターがあり、その横にはインターホンのような係員の呼び出しと、 カタログじみた部屋の写真のパネル、それらに対応する小さなボタンがついている。 パネルが点灯していれば空室、暗くなっていれば使用中。 別に説明書きがあった訳ではないが漠然と理解できる。 九割方点灯しているのは平日の昼だからだろう。 利用客の大半――それなりに真面目な大学生連中は講義に出たりサボって街で遊んでいたりする時間帯だ。 真昼間から事に及ぼうとする者はあまりいない。思いがけず知り合いに出くわして気拙い思いをする……なんて事態には遭遇せずに済みそうだ。 小さく書かれた料金は部屋によってまちまちだが特に気にせず、内装が比較的落ち着いたものを選んでボタンを押す。 パネル裏の照明が消えると同時に、かたん、と小さな音を立てて下の窓に鍵が排出される。 要するにこれは部屋の自動販売機だ。ただし料金は後払い。 背を折って鍵を掴む。 安っぽいプラスチックのホルダーがついたそれがやけに軽く感じられた。 267 名前:VIPにかわりましてNIPPERがお送りします[saga] 投稿日:2011/06/19(日) 03:59:13.95 ID:Dui+n6xso [7/8] エレベーターのボタンを押すとすぐに扉が開いた。 「……」 無言で滝壺の手を引くと彼女も無言でそれに従う。 キーホルダーに書かれた部屋番号を確かめ目的の階のボタンを押す。 静かに扉が閉まり、それからがくんと揺れてエレベーターは上昇を始めた。 想定していたものよりも大きく感じてしまったのは緊張しているからだろうか。自分ではそんな実感なんてないのに。 覚られぬよう横目で滝壺の顔を見る。 包帯の巻かれた彼女の顔は少し俯き気味で、やはりその表情を窺い知る事は出来なかった。 ただ――手を握る力が先程よりも心なしか強く感じる。 彼女も緊張しているのだろうか。 触れ合う手と手の間に汗の気配を感じる。 纏わり付くような感触は何故か不快に思えなかった。 ぽーん――と玩具のような軽い音を立ててエレベーターが到着を知らせる。 最後に小さく揺れ、扉が開く。 無人の廊下。人の気配はなく、しんと静まり返っている。 一歩踏み出し、安っぽい絨毯の上を跳ねた足音がやけに大きく響いた。 滝壺の手を引き途方もなく長く感じる廊下を歩く。 一歩ごとにくぐもった響きの足音が耳の中に反響して眩暈すら感じる。 現実味を伴わない感覚に漂うように思考を停止させたまま歩き……鍵の示す部屋の前で立ち止まる。 滝壺を引く手とは逆の手に握られた鍵。 鈍い色を返すそれに少しの間視線を落として――。 「…………」 鍵穴に挿し込み、捻る。 がちゃり、と返す音は重く、なのに抵抗は思ったよりも軽かった。 扉を開けると室内は明るかった。鍵を開ける事で勝手に点灯する仕組みなのだろう。 滝壺の手を引き中に入る。 後ろ手に戸を閉めると自動で鍵が掛かる音がした。 「靴、脱げるか?」 「うん」 彼女の履いていたのは靴紐のない柔らかそうな素材で出来たものだった。 もう随分と長い間使っているのだろう。あちこちに小さな傷が付いている。 が――大切に扱っているのだろう。相応の痛みはあるもののそこに愛着があるようにも感じる。 お気に入りの服や鞄。愛用している眼鏡、腕時計。あるいは戦場に住む者にとっての銃剣の類だろうか。 代わりは幾らでもあるのに長年使い続けてしまって自分の一部となってしまったようなもの。 きっとこの靴は浜面よりもずっと長い間彼女と共に過ごし、彼女の行く道を共に歩いてきたものだ。 それを滝壺は優しく踵で踏み、足を引き抜くようにして脱ぐ。 「……こっち。少しだけ高くなってるから」 手を引き、部屋の奥へと誘う。 部屋の中は普通のホテルと然程変わりない。 もしくは昨日までアジトにしていた個室サロンか。大型テレビの下のラックに各種ゲーム機が収められているあたりそちらに近い。 調度品のグレードは格段に劣るが、この場所の用途から鑑みれば大して意味はないだろう。 ソファの前のガラステーブルの上には、サービスだろう、チョコレートやキャンディが少しばかり入った菓子鉢。 そして――サロンと違う点があるとすれば、無駄に大きなベッドと、枕元に添えられた小さな棚の上で妙な存在感を放つティッシュボックス。 嫌でも視線が行くのは、つまりこの部屋の意味はそこに集約するからだろう。 極端に言ってしまえば他は何も必要ない。ベッドだけあれば事足りる。 それをどうしてだろうか、悲しいと浜面は思う。 ソファにしろテレビにしろ、安っぽい菓子にしろ、それらの付属品はこのホテルの経営側からのサービスだ。 恋人達の楽しい一時を、二人きりで愛し合う空間を提供する。それがこの施設の主たる意味だ。 けれど――果たして浜面は囁くべき愛を持ち合わせているのだろうか。 言葉だけなら誰だって、幾らでも吐ける。 好きだ、愛してる、誰よりも君が大切だなどと美辞麗句を並べてやればいい。 日本語は一つの本質に向けて多種多様な表現をする事に秀でている。 浜面の粗末な知識であっても十や二十程度は思い付くだろう。 しかし感情の伴わないそれは、結局のところただの空言でしかないのだ。 だから浜面は思う。 今この場にあるべき愛とは存在するのかと。 「滝――」 振り返り彼女の名を半ばまで呼びかける。 けれど最後まで呼ぶ事はなかった。 「あっ――」 振り返った浜面の胸に滝壺がぶつかる。 視力を失っている彼女は浜面が立ち止まり振り返った事に気付かない。 たったそれだけの事なのに彼女は対応できない。浜面が手を引かなければ歩く事さえ満足に出来ないだろう。 「あ、……悪い」 「……」 思わず抱き止め、そのまま暫くお互い無言だった。 腕の中に感じる彼女の温度と、胸に当たる柔らかさが妙に現実離れしていた。 こうした状況――女性と抱き合う経験など彼の人生においてそう何度もある事ではない。もしかしたらあったのかもしれないが忘れてしまった。 だからだろうか。鼻腔をくすぐる彼女の匂いが酷く蠱惑的なものに思えて立ち眩みのような錯覚を得る。 「……えっと……はまづら」 滝壺は右手をやや上に伸ばし彼女を緩く抱きしめる浜面の腕に触れる。 そして手にほんの少しだけ力を込める。 俯き気味の顔は元より包帯に覆われているが、浜面の視線からはその表情を窺い知る事はできない。 ただ彼女の声色は拒絶するものではない。 だからきっと彼女は少しだけ困ったように恥ずかしそうな微笑を浮かべているのだろうと思う。 「あの……私、その……汗臭いと思うから」 身体は拭いてもらったんだけど、と彼女は蚊の鳴くような声で付け加える。 昨日からの彼女の境遇を考えてみれば当然だった。シャワーを浴びる暇もなかっただろう。 しかし浜面は思う。 「でもさ、オマエ、目が見えないだろ」 「……うん」 「それじゃ危なすぎる」 全くの暗黒に生きられるなら人は光を求めたりはしない。 そもそも人が外界を認識する入力器官は視覚に集中している。 聴覚や触覚もそれなりの働きをしてくれはするが視覚には及ばない。 人には蝙蝠のような耳もなければ蛇のような特殊な感覚もない。 滝壺の場合はそれに似た特殊な感覚を持っているのかもしれないが――少なくとも無生物に通用するようなものではないだろう。 彼女がAIM拡散力場を認識する事ができるとしても、対人、それも能力開発を受けた者に限られる。 それも十全ではないだろう。体晶を使っている状態ならまだしも今の彼女は至近距離の浜面の動きにさえ咄嗟に対処できない。 そんな彼女をただでさえ滑りやすい風呂場に遣る事などできるはずもなかった。 「……はまづら」 なのに彼女は、少し躊躇うような気配を感じさせながら小さく。 「………………一緒に入る?」 「――――ッ」 視界が何か血のような色に染まった気がした。 「え――――きゃ」 有無を言わさず彼女の膝裏に手を回し横抱きにする。 随分と軽いと思う。路地裏での喧嘩に慣れた身体は彼女を易々と抱き上げられた。 「は、はまづら……っ」 滝壺の慌てたような声を黙殺し、彼女の代わりに部屋を見渡し突っ切る。 そのまま一直線に――ベッドへと向かう。 「っ……!」 柔らかな布の上に滝壺の身体を横たえる。 思わず乱暴に、放り出すように彼女を降ろしてから、しまったと顔を顰めた。 恐る恐る――と滝壺の細く白い指が伸ばされ頬に触れた。 ひやりとした心地よい感触。頬を撫でる指先が体の熱を奪ってゆく。 それはつまり浜面自身が逆上せているという事なのだろう。 滝壺の指の触れる場所から、さぁっと何かが広がるような気分になる。 それは冷静さだろうか……それとも後悔だろうか。 視界を失った彼女は、それだけできっと怖いだろうに。 「……はまづら?」 小さく、少し震えていたけれど、心配するような声で名前を呼んでくれた。 自分が嫌になってくる。こんな自分なのに彼女は労わるような声を掛けてくれる。 彼女の目が見えていなくてよかったと思ってしまう。 自分は今きっと酷い顔をしているだろう。そんなものを滝壺に見せたくはなかった。 頬に当たる彼女の手に自分の手を重ねる。 「――悪い。滝壺」 彼女の手を精一杯優しく握り締めて。 精一杯の優しい声で彼女の名を呼ぶ。 「無理にそういう事、言わなくても大丈夫だから」 「――――――」 手の中の冷たい感触が強張るのが分かった。 その事には気付かぬ振りをして浜面は彼女の手を優しく退ける。 「滝壺」 そして想いも願いも全てを込めて誓うように細い指先に優しく口付けをする。 「心配しなくてもいい」 つまり彼女の行動の半分ほどは演技だったのだろう。 少しでも浜面の気を引き、興奮させようとしてくれたのだろう。 そういう意味では彼女はかなりの役者だった。 ただ――悲しくなるほど似合っていなかった。 キャラじゃない、と。 つまりそういう具合に違和感を無視できない程度には浜面は滝壺理后という少女の事を深く知りすぎていた。 浜面も何も言わず、素直に彼女の思惑通りに動けていれば随分と楽だっただろう。 けれどそうまでして浜面を立てようとする滝壺の演技は見ているだけで涙が出そうなほどに悲しく、震える彼女を無視できるはずなどなかった。 きっと滝壺自身も分かっていただろう。 もしかしたら浜面が気付くだろうという事も承知の上で下手な芝居を打ったのかもしれない。 仮にそうだったなら彼女は自分の事を分不相応なほどに買ってくれていると浜面は自嘲する。 自分は彼女が願っていたほど愚かでもなく。 彼女が思っていたほど賢くもなかった。 「大丈夫だから。滝壺」 ぎし――とベッドが二人分の体重に軋む。 「俺はオマエを抱きたいと思ってるよ」 そうは言うけれど、愛しているなどとは言えるはずもなかった。 「――はまづら」 「滝壺――」 呼んだ名を愛しく思える。 自分を呼ぶ声に泣きそうになる。 悲しいほど不器用な少女をこの上なく愛しく感じる。 だとすれば随分と歪んだ愛だ、と浜面は思う。 きっとお互いの想いは似たようなベクトルだった。 ただ、それは間違いなく相手に向けられているのに報われないものだ。 矛盾した想いが心の内で交錯し、それがそのまま相手へと向けられる。 愛しいと思うのに悲しく思えてしまうのは何故だろうか――そんな事は分かり切っている。 「ごめんなさい――」 滝壺の声は震えていた。 もう演技も必要ないと滝壺は分かっていた。 彼には自分の小賢しい思惑など一から十まで全てお見通しで、それでもなお精緻なガラス細工を扱うように優しく触れてくれる。 それを嬉しいと思ってしまう自分が堪らなく気持ち悪い。だから滝壺は。 「ごめんなさい――私、凄い嫌な子だ――」 謝らなくていい――と言いたいけれど、言ったところで余計に彼女を傷付けるだけだ。 「はまづら――お願い――」 好きだ。愛してる。誰よりも君が大切だ。 そんな言葉を言うつもりはない。 ――言えば彼女を傷付ける。 「私に――優しくしないで――」 浜面の事を好きだと言ってくれた少女の声は泣いているように震えていた。 つまりこんなにも悲しく思えてしまうのはこの歪んだ愛情故に他ならない。 こんな最悪なものを仮にも愛だなんて呼んではいけない。これはもっと汚らしく醜悪な何かだ。 そう思うからこそどんなに強く想い合っていてもその向きは常に一方通行だった。 愛してるなどと言われてはいけないと拒絶しあっているがために決して相手の内に届く事はない。 まるでハリネズミのようだと思う。 相手に触れる事と針で刺される事が同列に存在している矛盾。 抱き締めたいと思うのは傷付けて欲しいと思う事と同じだ。                    あい つまり滝壺は最初から、浜面の針で傷付けて欲しいと願っていた。 一方的で独善的なそれを愛などと呼んではいけない。 そんな気持ち悪いものを抱えている自分は彼に愛される資格などない。 これは単なる自傷行為で自慰行為だ。 そんなものに付き合わされる彼こそ不幸だろう。 嘆きや憤りを覚える事はあっても、まして愛してくれなどと言えるはずもなかった。 そして浜面も、どうしてだかそんな彼女の気持ちが痛いほど理解できた。 滝壺とて決して本心からそれを望んでなどいないはずだ。 けれど上辺だけをなぞる安っぽい愛の言葉は本当の意味で彼女を傷付ける。 彼を誰よりも愛しいと思ってしまうからこそ、愛される資格などないと願うからこそ彼女はそれに耐えられない。 暗闇に怯える幼子のように、滝壺は震える声で懇願する。 「お願いだから――好きになんてならないで――」 だからせめてその言葉を最後まで言わせまいと、浜面は目を閉じ彼女の口を塞ぐ。 小さく柔らかな唇は汗か涙の味がした。 [[前へ>とある世界の残酷歌劇/幕前/07]]        [[次へ>とある世界の残酷歌劇/幕前/09]]

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