第10話 神都の花嫁 -3

「緑の家」とは、エストニア森林王国の暗部とも言えるある実験機関の呼び名である。
そこでは王国の一部の古老達を中心として、人工的に強力な精霊使いを生み出す実験が続けられてきた。
ジュピター王の治世となり、彼の反対により緑の家は一部規模を縮小されはしたものの、彼を持ってしても廃止する事は叶わず、実験は近代まで続いた。
みる茶はそこで生まれた。
選び抜かれた優秀な遺伝子を配合し、両親を知らずしてこの世に生を受けた。
そして自分達の予測を遥かに超える力を持って生まれてきたみる茶に、彼を産み出した研究者達は恐怖した。
力の大部分を封印され、簡単な実験データを取られ続ける日々。
生きながら死んでいるような無為な毎日は200年近くも続いた。
…そんな彼を哀れと思ってか、1人の研究者がみる茶に一冊の本を渡した。
それは外の世界について記された書物だった。
その時、初めてみる茶は自分のいる施設の外に広い世界が存在している事を知った。

ゆらりとみる茶が手を横に大きく払った。
「極光烈閃弾(フェイルノート)」
周囲の無数の極光精霊がその動きに反応し、一斉に光の矢と化してジュデッカに襲い掛かった。
「チッ…!!!」
雨の様に降り注ぐ七色の光の矢の中をジュデッカが走る。
その内数体の極光精霊は彼女をかすめ、その肌を灼き裂いていった。

外の世界を見てみたい。
それがいつしかみる茶の願いとなった。
来る日も来る日も、窓の無い部屋から外を想う。
そしてある時、緑の家に彼の願いを聞き届ける為にその男…メギドはやってきた。
メギドの手によって、「緑の家」は地上から消失し…そしてみる茶は自由を手に入れた。
…それは、今から15年ほど前の出来事である。

迫り来る無数の光弾をかわしながら、集中したジュデッカが自分の周囲に風精を呼び出した。
「風精展開…『精霊加速』」
淡い緑の輝きに包まれるジュデッカ。
神速を得る為の風を彼女がその身に纏う。
「…させないよ!」
みる茶が叫ぶと右掌をジュデッカへ向けて突き出した。
ジュデッカの呼び出した風精が消失し、彼女を覆っていた輝きが消える。
精霊加速を封じられ、ジュデッカは膝を曲げて体勢を低く落すと、
「だろうな」
そう言って笑い、地を蹴った。
「…!!!!!」
その速度はみる茶の予測を遥かに超えていた。
加速無しにはありえない速度。
一瞬にして懐に入られたみる茶が、それでも身を引いてジュデッカの一撃に備える。
「シッッ!!!」
鈍い音を立てて、突進から間髪入れずに繰り出されたジュデッカの右拳がみる茶の頬を捉えた。
メキッと肉に拳がめり込む鈍い音が響き渡る。
「ぐふッッ!!!」
口腔から血を噴いてみる茶がぐらりとよろめく。
「迂闊だなお前!!! 私の身体に何が棲んでるか…お前知ってるはずなのになぁ!!!」
みる茶が奥歯を噛む。
フェイクだ。破られるとわかっていて風精を呼んで精霊加速を破らせたのも全て計算ずくの事だったのだ。
ジュデッカは外からの風精の加護による風に乗って加速するのではなく、内側から鮮血精霊によって肉体を強化する事で加速した。
「ご自慢のキラキラは詰められれば無力だろう!! 覚悟するのは自分の方だったな!!」
そしてまだ体勢を立て直しきれないみる茶に向かって、ジュデッカは再度拳を引いて襲い掛かった。


カーラが足を止めて後ろから付いて来ているエウロペアを振り返った。
2人がいま居る場所は式典広場だ。
本来数万人を迎えることのできる広大な広場。
下層へ行けば民を戦闘へ巻き込む。
4層で皇宮近くで開けた場所といって、カーラの思い付いたのがここだった。
両者がその中央で向き合う。
…これから、殺し合いになる2人。
「何故、真竜ともあろう者が教団に与している?」
問いかけるカーラに対して、エウロペアは目を閉じると小さく嘆息した。
「別に与しているわけではない。取るに足らん小さな義理はあるがな」
エウロペアがゆっくりと目を開く。
金色の瞳にカーラの姿が映る。
地上を駆ける野兎を見る猛禽の眼で、サバンナで野鹿を見る獅子の眼で…エウロペアがカーラを見る。
「私はただ、暇つぶしの相手を探しているだけだ。願わくばお前が少しは私の渇きを癒してくれるだけの腕を持っていればよいのだがな…」
「そうか」
短く呟いてカーラが長剣を鞘から抜き放った。
僅かに反った刀身が陽光を弾いて輝く。
そしてカーラは長剣を身体の左側に構えた
「では凡愚の身ではあるが、死力を尽くす事にしよう」
その一言を言い終えるのと同時に、カーラはエウロペアへ向けて踏み込んだ。
繰り出される鋭い斬撃の数々を紙一重でエウロペアがかわしていく。
確かに、常人を遥かに超える領域にある剣の腕だ。
しかし、それは自分の身に届く程ではない。
(この程度だったか…)
嵐の様な剣撃の中を涼しい顔で回避し続けながら、エウロペアは少なからず内心に失望感を持った。
(些か買い被りが過ぎたようだ。…やむを得ぬ。殺して終わりにしよう)
そう思ったエウロペアが攻勢に転じようとしたその時、彼女の二の腕が切り裂かれて鮮血が飛沫いた。
「…何…?」
不可解な出来事に、そして腕に走った痛みにエウロペアが眉を顰めた。
…斬撃は全て回避している。
それなのに、何故自分は傷付く…?
次いで、反対の腕の肘付近にも傷口が開く。
そこへ至って、エウロペアは真実を認識する。
(まさか…私に見えていない斬撃があるのか…!)
そして次の瞬間、カーラの放つ全ての斬撃はエウロペアの認識の外へと消失した。
それまで、緩急織り交ぜて攻撃を続けていたカーラが、全ての攻撃を急へと変じた瞬間。
エウロペアの目で、そして感覚で追い切れなくなった剣閃は彼女をガードの上から切り裂いていく。
「ぬおォォッッ!!! …こんな、馬鹿な…!!!!!」
防御を固めながらエウロペアが身を引く。
鮮血が舞い散る。
自らの吹き上げた血の中をエウロペアが下がる。
咆哮して唇を噛む。防御を固めて退く等、彼女にとって初めての経験である。
「ほんの…戯れのつもりであったが…!!!」
ギラリとエウロペアの目が輝いた。
退く足が止まる。
その喉を握り潰さんと、赤竜の手がカーラの喉へ伸びる。
「私が来て正解であったわ!!! …ヴェルパールやビスマルクの青二才どもではお前の相手は務まるまいよ!!!!」
ピタリと攻撃を止め、鋭くバックステップでカーラが身をかわす。
彼女の喉笛へ喰らい付く筈だったエウロペアの手が空を切る。
些かの呼吸の乱れも無く、静止したカーラは再び先程と同じ構えを取った。
傷だらけの両手をだらりと下げて、エウロペアが大きく息を吐いた。
「本当に…変わった奴だ」
呆れた様にも、賞賛している様にも聞こえる声音でエウロペアが言う。
「仮面で素顔を隠して、尚且つまごう事無き剣の達人とはな…。この国の皇妃とは私の知る他の人間の国の妃とは随分と異なるものだ」
「…皇妃?」
カーラがエウロペアの言葉に反応した。
仮面の奥で彼女がどの様な表情を浮かべたのかはわからなかったが。
そのカーラを見てエウロペアが唇の端を上げる。
「そうだろう? 私にはわかる。あの姫からはお前の血の気配がする」
「………………」
カーラは無言だった。
言葉は無く、ただ仮面の奥で目を閉じた。
彼女が目を閉じていた時間はほんの僅かな間だけであったが、その間に脳裏を駆け巡っていった情景があった。

『いいか、本来ならとうに死んでいる筈のお前が生かされている理由は唯1つ』
薄暗い部屋に響いたのは冷たい声。
感情の無い、まるで物に対している時の様な視線が自分を射抜いている。
それは父の声、父の姿。
…否、本来は父になる筈だった人物。
『お前は、あれの影だ。あれの為に生きてあれの為に死ね! その為に生かしてあるのだ!!』
幼い自分は深く頭を下げて了承の意を示した。
彼は、生まれてきた自分に人格を認めなかった。
だから彼は父ではなかったし、自分はその娘にはなれなかった。
幼い自分の背には巨大な呪印の紋様が刻まれ、まだその紋様からは生々しく血が滴っていた。
『その背の呪印がお前とあれを繋いでいる。この先、あれの身に降り掛かる外傷は全てお前が引き受けるのだ』
それは呪詛。
自分と『彼女』の繋がり。
彼女が受けたのが致命傷であれ、その傷は自分へと刻まれ彼女は無傷で済む。
…これは、そういったモノ。
そしてこの印だけが、今現在自分が存命してもいいという理由だった。

「私が…皇姫様の母親、か」
仮面の奥でカーラは瞳を開いた。
その口元が微笑を浮かべる。
悲しい微笑みだった。
「畏れ多い事だ。…その認識は誤りであると言っておこう、真竜よ」
「何だと?」
訝しげにエウロペアが眉を顰めた。
「皇姫様の母親は、死んだカレン皇妃に他ならぬ。私などであるはずがない」
静かに、しかりはっきりと言うカーラ。
…確かに偽りを言っているようには見えない。
そしてエウロペアは自らの感じた『同じ血』が流れているという事実のもう1つの可能性に気が付いた。
「そうか…お前は…」
左手を腰に当ててエウロペアがカーラを見る。
「皇妃の…」
「そこまでだ」
カーラが前で出る。
その手の長剣が煌めく。
無数の斬撃が空間を埋め尽くす。
またも手傷を負いながらエウロペアが下がる。
退きながら、赤竜は笑った。
「なるほどな。…お前にとっては愉快な話ではなかったか。下衆の勘繰りであったな…許すがいい」
(…!?)
カーラが僅かに息を飲んだ。
先程とまるで同じ攻防。
だが先刻とは異なり、今驚愕しているのは自分。
先程までエウロペアを翻弄していた筈の自身の斬撃が、急に彼女を掠める事が出来なくなった。
「堪能したぞ。…だが、『もうその速度は覚えた』」
全ての剣閃が虚しく虚空を薙ぐ中で、カーラを見る赤竜が冷たく笑った。
下がりつつ回避しながら、エウロペアが右手を上げる。
その指先に小さな赤い光が灯る。
「『竜の爪』(ドラゴンクロウ)」
空を疾る5本の赤い光の帯が、カーラの身体を無残に刺し貫いてその背へと抜けていった。
「…っ!!!!」
ごほっとカーラが血の塊を吐く。
「…お前の名は我が記憶に留めておこう。さらばだ、カーラ・キリウス」
血の海に沈むカーラを見下ろして、静かにエウロペアは目を閉じた。


…一気に畳み掛ける。
そう決めたジュデッカが再びみる茶に襲い掛かる。
精霊加速に等しい速度の脚力強化と、一撃で大岩を砕く筋力強化。
鮮血精霊による肉体強化でジュデッカは一時的に超人となっていた。
数発の拳を受けて下がりながら、みる茶が瞳を細めてジュデッカを見る。
「確かに…近付かれるとオーロラエレメンタルは無力なんだけどさ」
その視線が殺意を込めて輝く。
「けど、エレメンタルマスターの力がそれだけだと思ってもらったら困るんだよね」
そしてみる茶は攻撃を放った。
ジュデッカは自分へと向けて「何か」が放たれた事だけは認識できた。
「…『風輪刃』(ヴェガ・ルタ)」
それは半径10cm程の極薄の輪の形状をした風の刃だった。
透明にして神速のその一撃。
回避しきるのは困難と見たジュデッカが防御を固める。
だが、彼女がそう思って身体に力を入れた時には、既に彼女の右腕は肘のやや下から切断されてなくなっていた。
「……がッッ……!!!」
絶叫を喉の奥に押し殺して、ジュデッカが右腕の切断面を押さえた。
吹き出る血が瞬く間に彼女の足元に赤く溜まる。
その遥か後方に、吹き飛んでいた彼女の右腕がどさっと落下する。
「シルフを集めて、風の刃にしただけの簡単な精霊魔術なんだけどさ…」
ザッ、と足元の芝生を鳴らしてみる茶がジュデッカの前に立った。
彼は人差し指を立てている。その指の周囲にしゅるしゅると風が巻いている。
「…!!!」
片膝を折っているジュデッカが上を見上げる。
激痛に眩む視界にみる茶を映して彼女がギリギリと歯を鳴らす。
「この小さな輪に、どのくらいのシルフが集まってるか…わかるかな? ジュデッカ」
みる茶が問う。
ジュデッカは答えない。
「…まあ、15万くらいだよ。圧縮してあるから一体一体はとても目で見える大きさじゃないけどね」
そして彼女の返答を待たずにそう言うと、みる茶が小さく肩を竦めて見せた。

最終更新:2011年06月15日 20:22