第8話 冬の残響(後編)-1


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

飛沫が跳ねる。
水音が響いている。
必死に延ばされた薄汚れたコートの袖から見える掌は、何も無い虚空を掻き続ける。
時刻は間も無く日を跨ごうとしている頃。
場所は路地…普通の路地だ。
周囲には川も水路も無く…本来水音とは無縁である筈の場所だった。

-だけど、その男はそこで溺れている。

ばしゃばしゃと響く水音の合間に混じるのはくぐもった悲鳴だ。
男は何もわからなかった。
何故、通りを歩いていただけで自分が突然溺れているのか。
わからぬままに必死に死の淵から逃れようと足掻いていた。
しかし男に自らに纏わりつき、口腔鼻腔より体内に侵入してくる水を払いうる術は無く。
抵抗の動作は徐々に力を失っていきやがて完全に停止した。
事切れた男の脇に立ち昇った水がゆらりと女性の姿をとる。
そして水妖はまるで哄笑するかのように揺らめいて、大地に流れて消えていった。

-後にはただ、物言わぬ骸となった男だけが残される。

それから僅かな時が流れる。
ふいに、その骸の脇に何者かが立った。
夜の闇の中に街灯に照らし出されてがっしりとした体格のシルエットが浮かび上がる。
しゃがみ込んで男の脈を取り、絶命を確認する。
「……………」
無言のままにその何者かが立ち上がる。
東洋風の装束に身を包んだ背の高い男だ。
赤い髪の毛が揺れる。
表情は険が窺えたが、瞳に憤怒は無く、ただ静かに屍と化した男を見つめている。
そして赤い髪の男は現れた時同様に唐突に姿を消し、
後にはただ静寂だけが残された。

スタンリー女学院の朝。
HR前の教室はいつもの生徒達の明るい雑談の声に包まれている。
彼女達の口に上るのは、往々にして興味のあるファッションの話題であり、憂鬱なその日の授業の話であり、他愛も無いまだ見ぬ白馬の王子様の御伽噺である。
そんな有り触れた、当たり前の朝の風景。
そんな中で、サーラはメイから気になる話を聞いた。
「道路の真ん中に溺死体…?」
訝しげに眉を顰めるサーラに、メイが朝刊を差し出した。
「そうよ、ほら…ここ」
メイの指差す見出しを見るサーラ。
そこには「またも路上に溺死体。先週に続き2人目の犠牲者」と派手に記されている。
サーラは朝刊を受け取って記事に目を通す。
事件は昨晩あったらしい。現場周辺をテリトリーにしていた浮浪者が溺れ死んだ状態で見つかったというものだ。
周辺には溺れ死ぬ程の水がある箇所が無く、また遠方から死体が運ばれてきた形跡も発見されず、捜査は難航しているとの事。
そして一週間前にも今回の現場より200m程しか離れていない場所で深夜に同様の事件があった。
被害者は付近に住む老婦人。旅行帰りだったらしい。
2人の被害者に今の所特に接点は見つからず、警察は無差別猟奇殺人事件という見方もしているとの事。
食い入るように記事を見ているサーラを尻目にメイは
「これってちょっとミステリーよね、不謹慎だけど」
と暢気な感想を口にしていた。
(溺れる…何もない陸上で…)
しかしそんなメイの台詞もサーラの耳には入っていない。
以前にカタリナの事故を調査していた時に勇吹に聞いていた話が思い出される。
(同じ…勇吹の話と…場所は…? ホープタウン7番通り…!)
ガバッと突然サーラが勢い良く顔を上げる。
その勢いに驚いたメイが思わず「うわっ」と仰け反った。
現場はカタリナの店からは徒歩10分圏内である。
(間違いないわ…勇吹を襲ったのと同じ水妖に襲われてこの人たちは殺された…)
サーラは机の下で人知れず静かに拳を握り締めた。

その日、帰宅したサーラは件の事件について勇吹と話をした。
勇吹は出かけておらず、居間で寛いでおりそこにはリューも一緒にいた。
「はー…なるほどね。てっきり事件の調査に関係した妨害だと思ってたけど、何だ通り魔だった訳か。…でも、しっかり倒したつもりだったんだけど、また出てきたっていう事は仕損じてたのね」
悔しそうに口をへの字に結ぶ勇吹。
そんな勇吹の言葉にサーラは静かに首を横に振る。
「ううん。こんな場所に水妖(ニンフ)は自然発生しないわ。呼んで使役してる術者がいるんだと思う。召喚主にしてみたらマナと契約の準備さえあればニンフはいくらでも出して来れるから…」
むう、と難しい顔をして勇吹が腕を組んだ。
「…大元を叩かない限りはいたちごっこになるのね」
サーラが肯く。
リューはそんな両者のやり取りを聞いているのかいないのか、無言で本を読んでいる。
そんなリューの方を、ちらりと勇吹が窺う。
「…どうした」
そちらを見ずとも注視されている気配を感じるのか、本の文面に視線を落としたままリューが口を開いた。
「や、あのね…何かリューからないのかなって。この前も水妖の事気にしてたよね?」
勇吹が言う。
確かに先日の一件でステファン社長を襲撃して戻った勇吹に、リューは水妖の事を尋ねた。
「今の所は何も話す事はない」
リューの返事は短かった。普段の調子でその言葉は無感情で簡潔だ。
サーラと勇吹が顔を見合わせる。
言葉にはしないが2人とも考えている事は同じだった。
リューは「今は」と言った。それは必要があってその時になれば何か話してくれるという事だ。
「じゃあ、とにかく私達でもこの件を調べてみましょう」
サーラがそう言って椅子を立った。
「そうね。…まあ無差別通り魔じゃ現場近くを巡回してみるしかないのかな~」
勇吹も立ち上がって、んー、と大きく伸びをした。

そして翌日の夕刻。
カタリナ・エーベルスは今日も車椅子に座って自分のアンティークショップ「眠り羊」で店番をしている。
先日、突然彼女には国からの障害者支援金として大金が振り込まれた。
その額を考えて思わずカタリナはふぅ、と吐息を漏らす。
あまりにも大金なのでその使い道にまで上手く思考が回っていないのだ。
そもそもが彼女は1人で暮していけるだけのお金は資産と店の売り上げから出していける。
そんな彼女が、突然降って湧いた資産の使い道として思いつく事と言えば…。
(…結婚式を、少し豪華にできるかしら…)
婚約者の顔を思い浮かべてカタリナの表情が綻んだ。
騎士レックス・へリング…自身の支えである婚約者。彼女の生き甲斐…生きる意味でもある。
今月もそろそろ彼からの手紙が届くはずだ。
先月までの手紙をもう一度読み直そうと、カウンターの脇に置かれた手紙の束に彼女が手を伸ばしたその時、店のドアベルがからんからんと鳴った。
「いらっしゃいませ」
カタリナが笑顔で応対する。
入ってきた赤い髪の背の高い男は
「…邪魔をする」
と短く挨拶した。
客の容姿を見て、一瞬カタリナが呆気に取られる。
何ともこの店を訪れるにしては風変わりな男だった。
引き締まった身体つきの東洋風の衣装の男。
それはクリストファー・リューであった。
リューは店内に並んだ売り物を眺める前に、カタリナの前に立った。
「協会の者だ。先日は同僚が世話になった」
そう言ってリューは軽く会釈した。それは嘘だ。リューは協会に所属する身ではない。
共闘者と見ればそう名乗る事も完全に間違いではないが、少なくともリューは自身が嘘を付いている自覚を持って発言している。
「あ…」
カタリナの脳裏に先日店を訪れた女性の姿が思い浮かぶ。
イブキと名乗った彼女も、そう言えば目の前の彼と同じ東洋の衣装を身に纏っていた。
「では…」
カタリナが居住まいを正す。また自分に何か話を聞きに来たのかと思ったのだ。
そんなカタリナを、片手を上げてリューがやんわりと制した。
「いや、畏まらなくていい。今日はただ客としてここへ来た。先日ここを訪れた同僚から話を聞いてな。…かねてより古い家具に興味があった」
それも嘘。
普段の彼の口調よりも気持ち穏やかな調子でリューはそう説明する。
それでカタリナも安心したのか、ほっとした様に微笑んだ。
「そうでしたか…ゆっくりご覧になって下さいね」
ああ、とリューは肯いて店内の家具に視線を送った。

それから暫くの間、リューは店内を周り、見かけたいくつかの家具についてカタリナに質問をした。
リューの古物の年代と材質の見立ては正確であり、その事は専門家であるカタリナも舌を巻くと同時に、先刻の古い家具に興味があると言ったリューの言葉に偽りがないものと彼女を安心させた。
会話が一段落してふっと止まり、その時にリューはカウンターの脇に置かれた手紙の束に視線を留めた。
「…国外の婚約者からの手紙だったか」
リューが言うと、カタリナがはい、と肯く。
「大変だな」
労わる様に目を閉じて静かにリューが言う。
そんな彼にカタリナが微笑む。
「ずっと離れ離れなわけじゃありませんから…」
「名と所属を聞いてもいいか?」
問われてカタリナが首を縦に振る。
「レックス…レックス・へリングです。リトロギアの第三方面部隊に配属されています」
ほう、とリューが意外そうに眉をわずかに上げた。
「それは偶然だ。関係部隊に知人がいる。今度連絡を取った時に婚約者殿の様子も尋ねておこう」
「…本当ですか! ありがとうございます」
顔を輝かせてカタリナが頭を下げる。
そしてリューは懐から懐中時計を取り出した。
「随分と長居してしまったな。また後日改めるとする」
そう言うとリューはいくつかの小物を購入し、会計を済ませた。
店を出るリューを見送って、カタリナはそう言えば彼の名を聞きそびれてしまったと思った。

店を出てリューが通りを歩く。
時刻は宵の口に差し掛かろうとしている。
周囲は既に夜の闇に覆われている。
早足で進むリューは人込みを避けた。
誰もいない路地へと入る。帰路では無い道。しかし今日彼にはもうこれ以上寄るべき場所は無い。
そこへ足を踏み入れると、今度は殊更にゆっくりと歩く。
何かを待つように。
…何かを確かめるように。
そんな彼の前方にゆらりと立ち昇る影があった。
…水音が聞こえる。湿った匂いがする。
地面から湧き上がって立ち上がり女性の姿を取る水。その数は3。
リューは特に感慨も無く、自身の眼前で形を成す水妖を見ている。
驚愕はない。リューにはこの帰り道、水妖の襲撃がある事が予見できていたからだ。
「お前達が彷徨い出てくるには、些か時刻が早いのではないか」
静かにリューが言う。
水妖は答えない。そしてリューも返事がある事を期待してはいない。
ただ揺らめく透明のボディから感じ取れるのは…確かな殺意。
リューは、いくつかの自身の仮説が正しかったと実証できた事を感じ取る。
一瞬だけ、水妖を見て細めたリューの視線に様々な感情の入り混じった複雑な色が浮かんだ。
しかし彼はすぐそれを冷たい光の下に消して、そして対敵を滅却する為に拳を握り地を蹴った。

飛沫が跳ねる。
水音が響いている。
必死に延ばされた薄汚れたコートの袖から見える掌は、何も無い虚空を掻き続ける。
時刻は間も無く日を跨ごうとしている頃。
場所は路地…普通の路地だ。
周囲には川も水路も無く…本来水音とは無縁である筈の場所だった。

-だけど、その男はそこで溺れている。

ばしゃばしゃと響く水音の合間に混じるのはくぐもった悲鳴だ。
男は何もわからなかった。
何故、通りを歩いていただけで自分が突然溺れているのか。
わからぬままに必死に死の淵から逃れようと足掻いていた。
しかし男に自らに纏わりつき、口腔鼻腔より体内に侵入してくる水を払いうる術は無く。
抵抗の動作は徐々に力を失っていきやがて完全に停止した。
事切れた男の脇に立ち昇った水がゆらりと女性の姿をとる。
そして水妖はまるで哄笑するかのように揺らめいて、大地に流れて消えていった。

-後にはただ、物言わぬ骸となった男だけが残される。

それから僅かな時が流れる。
ふいに、その骸の脇に何者かが立った。
夜の闇の中に街灯に照らし出されてがっしりとした体格のシルエットが浮かび上がる。
しゃがみ込んで男の脈を取り、絶命を確認する。
「……………」
無言のままにその何者かが立ち上がる。
東洋風の装束に身を包んだ背の高い男だ。
赤い髪の毛が揺れる。
表情は険が窺えたが、瞳に憤怒は無く、ただ静かに屍と化した男を見つめている。
そして赤い髪の男は現れた時同様に唐突に姿を消し、
後にはただ静寂だけが残された。

スタンリー女学院の朝。
HR前の教室はいつもの生徒達の明るい雑談の声に包まれている。
彼女達の口に上るのは、往々にして興味のあるファッションの話題であり、憂鬱なその日の授業の話であり、他愛も無いまだ見ぬ白馬の王子様の御伽噺である。
そんな有り触れた、当たり前の朝の風景。
そんな中で、サーラはメイから気になる話を聞いた。
「道路の真ん中に溺死体…?」
訝しげに眉を顰めるサーラに、メイが朝刊を差し出した。
「そうよ、ほら…ここ」
メイの指差す見出しを見るサーラ。
そこには「またも路上に溺死体。先週に続き2人目の犠牲者」と派手に記されている。
サーラは朝刊を受け取って記事に目を通す。
事件は昨晩あったらしい。現場周辺をテリトリーにしていた浮浪者が溺れ死んだ状態で見つかったというものだ。
周辺には溺れ死ぬ程の水がある箇所が無く、また遠方から死体が運ばれてきた形跡も発見されず、捜査は難航しているとの事。
そして一週間前にも今回の現場より200m程しか離れていない場所で深夜に同様の事件があった。
被害者は付近に住む老婦人。旅行帰りだったらしい。
2人の被害者に今の所特に接点は見つからず、警察は無差別猟奇殺人事件という見方もしているとの事。
食い入るように記事を見ているサーラを尻目にメイは
「これってちょっとミステリーよね、不謹慎だけど」
と暢気な感想を口にしていた。
(溺れる…何もない陸上で…)
しかしそんなメイの台詞もサーラの耳には入っていない。
以前にカタリナの事故を調査していた時に勇吹に聞いていた話が思い出される。
(同じ…勇吹の話と…場所は…? ホープタウン7番通り…!)
ガバッと突然サーラが勢い良く顔を上げる。
その勢いに驚いたメイが思わず「うわっ」と仰け反った。
現場はカタリナの店からは徒歩10分圏内である。
(間違いないわ…勇吹を襲ったのと同じ水妖に襲われてこの人たちは殺された…)
サーラは机の下で人知れず静かに拳を握り締めた。

その日、帰宅したサーラは件の事件について勇吹と話をした。
勇吹は出かけておらず、居間で寛いでおりそこにはリューも一緒にいた。
「はー…なるほどね。てっきり事件の調査に関係した妨害だと思ってたけど、何だ通り魔だった訳か。…でも、しっかり倒したつもりだったんだけど、また出てきたっていう事は仕損じてたのね」
悔しそうに口をへの字に結ぶ勇吹。
そんな勇吹の言葉にサーラは静かに首を横に振る。
「ううん。こんな場所に水妖(ニンフ)は自然発生しないわ。呼んで使役してる術者がいるんだと思う。召喚主にしてみたらマナと契約の準備さえあればニンフはいくらでも出して来れるから…」
むう、と難しい顔をして勇吹が腕を組んだ。
「…大元を叩かない限りはいたちごっこになるのね」
サーラが肯く。
リューはそんな両者のやり取りを聞いているのかいないのか、無言で本を読んでいる。
そんなリューの方を、ちらりと勇吹が窺う。
「…どうした」
そちらを見ずとも注視されている気配を感じるのか、本の文面に視線を落としたままリューが口を開いた。
「や、あのね…何かリューからないのかなって。この前も水妖の事気にしてたよね?」
勇吹が言う。
確かに先日の一件でステファン社長を襲撃して戻った勇吹に、リューは水妖の事を尋ねた。
「今の所は何も話す事はない」
リューの返事は短かった。普段の調子でその言葉は無感情で簡潔だ。
サーラと勇吹が顔を見合わせる。
言葉にはしないが2人とも考えている事は同じだった。
リューは「今は」と言った。それは必要があってその時になれば何か話してくれるという事だ。
「じゃあ、とにかく私達でもこの件を調べてみましょう」
サーラがそう言って椅子を立った。
「そうね。…まあ無差別通り魔じゃ現場近くを巡回してみるしかないのかな~」
勇吹も立ち上がって、んー、と大きく伸びをした。

そして翌日の夕刻。
カタリナ・エーベルスは今日も車椅子に座って自分のアンティークショップ「眠り羊」で店番をしている。
先日、突然彼女には国からの障害者支援金として大金が振り込まれた。
その額を考えて思わずカタリナはふぅ、と吐息を漏らす。
あまりにも大金なのでその使い道にまで上手く思考が回っていないのだ。
そもそもが彼女は1人で暮していけるだけのお金は資産と店の売り上げから出していける。
そんな彼女が、突然降って湧いた資産の使い道として思いつく事と言えば…。
(…結婚式を、少し豪華にできるかしら…)
婚約者の顔を思い浮かべてカタリナの表情が綻んだ。
騎士レックス・へリング…自身の支えである婚約者。彼女の生き甲斐…生きる意味でもある。
今月もそろそろ彼からの手紙が届くはずだ。
先月までの手紙をもう一度読み直そうと、カウンターの脇に置かれた手紙の束に彼女が手を伸ばしたその時、店のドアベルがからんからんと鳴った。
「いらっしゃいませ」
カタリナが笑顔で応対する。
入ってきた赤い髪の背の高い男は
「…邪魔をする」
と短く挨拶した。
客の容姿を見て、一瞬カタリナが呆気に取られる。
何ともこの店を訪れるにしては風変わりな男だった。
引き締まった身体つきの東洋風の衣装の男。
それはクリストファー・リューであった。
リューは店内に並んだ売り物を眺める前に、カタリナの前に立った。
「協会の者だ。先日は同僚が世話になった」
そう言ってリューは軽く会釈した。それは嘘だ。リューは協会に所属する身ではない。
共闘者と見ればそう名乗る事も完全に間違いではないが、少なくともリューは自身が嘘を付いている自覚を持って発言している。
「あ…」
カタリナの脳裏に先日店を訪れた女性の姿が思い浮かぶ。
イブキと名乗った彼女も、そう言えば目の前の彼と同じ東洋の衣装を身に纏っていた。
「では…」
カタリナが居住まいを正す。また自分に何か話を聞きに来たのかと思ったのだ。
そんなカタリナを、片手を上げてリューがやんわりと制した。
「いや、畏まらなくていい。今日はただ客としてここへ来た。先日ここを訪れた同僚から話を聞いてな。…かねてより古い家具に興味があった」
それも嘘。
普段の彼の口調よりも気持ち穏やかな調子でリューはそう説明する。
それでカタリナも安心したのか、ほっとした様に微笑んだ。
「そうでしたか…ゆっくりご覧になって下さいね」
ああ、とリューは肯いて店内の家具に視線を送った。

それから暫くの間、リューは店内を周り、見かけたいくつかの家具についてカタリナに質問をした。
リューの古物の年代と材質の見立ては正確であり、その事は専門家であるカタリナも舌を巻くと同時に、先刻の古い家具に興味があると言ったリューの言葉に偽りがないものと彼女を安心させた。
会話が一段落してふっと止まり、その時にリューはカウンターの脇に置かれた手紙の束に視線を留めた。
「…国外の婚約者からの手紙だったか」
リューが言うと、カタリナがはい、と肯く。
「大変だな」
労わる様に目を閉じて静かにリューが言う。
そんな彼にカタリナが微笑む。
「ずっと離れ離れなわけじゃありませんから…」
「名と所属を聞いてもいいか?」
問われてカタリナが首を縦に振る。
「レックス…レックス・へリングです。リトロギアの第三方面部隊に配属されています」
ほう、とリューが意外そうに眉をわずかに上げた。
「それは偶然だ。関係部隊に知人がいる。今度連絡を取った時に婚約者殿の様子も尋ねておこう」
「…本当ですか! ありがとうございます」
顔を輝かせてカタリナが頭を下げる。
そしてリューは懐から懐中時計を取り出した。
「随分と長居してしまったな。また後日改めるとする」
そう言うとリューはいくつかの小物を購入し、会計を済ませた。
店を出るリューを見送って、カタリナはそう言えば彼の名を聞きそびれてしまったと思った。

店を出てリューが通りを歩く。
時刻は宵の口に差し掛かろうとしている。
周囲は既に夜の闇に覆われている。
早足で進むリューは人込みを避けた。
誰もいない路地へと入る。帰路では無い道。しかし今日彼にはもうこれ以上寄るべき場所は無い。
そこへ足を踏み入れると、今度は殊更にゆっくりと歩く。
何かを待つように。
…何かを確かめるように。
そんな彼の前方にゆらりと立ち昇る影があった。
…水音が聞こえる。湿った匂いがする。
地面から湧き上がって立ち上がり女性の姿を取る水。その数は3。
リューは特に感慨も無く、自身の眼前で形を成す水妖を見ている。
驚愕はない。リューにはこの帰り道、水妖の襲撃がある事が予見できていたからだ。
「お前達が彷徨い出てくるには、些か時刻が早いのではないか」
静かにリューが言う。
水妖は答えない。そしてリューも返事がある事を期待してはいない。
ただ揺らめく透明のボディから感じ取れるのは…確かな殺意。
リューは、いくつかの自身の仮説が正しかったと実証できた事を感じ取る。
一瞬だけ、水妖を見て細めたリューの視線に様々な感情の入り混じった複雑な色が浮かんだ。
しかし彼はすぐそれを冷たい光の下に消して、そして対敵を滅却する為に拳を握り地を蹴った。

飛沫が跳ねる。
水音が響いている。
必死に延ばされた薄汚れたコートの袖から見える掌は、何も無い虚空を掻き続ける。
時刻は間も無く日を跨ごうとしている頃。
場所は路地…普通の路地だ。
周囲には川も水路も無く…本来水音とは無縁である筈の場所だった。

-だけど、その男はそこで溺れている。

ばしゃばしゃと響く水音の合間に混じるのはくぐもった悲鳴だ。
男は何もわからなかった。
何故、通りを歩いていただけで自分が突然溺れているのか。
わからぬままに必死に死の淵から逃れようと足掻いていた。
しかし男に自らに纏わりつき、口腔鼻腔より体内に侵入してくる水を払いうる術は無く。
抵抗の動作は徐々に力を失っていきやがて完全に停止した。
事切れた男の脇に立ち昇った水がゆらりと女性の姿をとる。
そして水妖はまるで哄笑するかのように揺らめいて、大地に流れて消えていった。

-後にはただ、物言わぬ骸となった男だけが残される。

それから僅かな時が流れる。
ふいに、その骸の脇に何者かが立った。
夜の闇の中に街灯に照らし出されてがっしりとした体格のシルエットが浮かび上がる。
しゃがみ込んで男の脈を取り、絶命を確認する。
「……………」
無言のままにその何者かが立ち上がる。
東洋風の装束に身を包んだ背の高い男だ。
赤い髪の毛が揺れる。
表情は険が窺えたが、瞳に憤怒は無く、ただ静かに屍と化した男を見つめている。
そして赤い髪の男は現れた時同様に唐突に姿を消し、
後にはただ静寂だけが残された。

スタンリー女学院の朝。
HR前の教室はいつもの生徒達の明るい雑談の声に包まれている。
彼女達の口に上るのは、往々にして興味のあるファッションの話題であり、憂鬱なその日の授業の話であり、他愛も無いまだ見ぬ白馬の王子様の御伽噺である。
そんな有り触れた、当たり前の朝の風景。
そんな中で、サーラはメイから気になる話を聞いた。
「道路の真ん中に溺死体…?」
訝しげに眉を顰めるサーラに、メイが朝刊を差し出した。
「そうよ、ほら…ここ」
メイの指差す見出しを見るサーラ。
そこには「またも路上に溺死体。先週に続き2人目の犠牲者」と派手に記されている。
サーラは朝刊を受け取って記事に目を通す。
事件は昨晩あったらしい。現場周辺をテリトリーにしていた浮浪者が溺れ死んだ状態で見つかったというものだ。
周辺には溺れ死ぬ程の水がある箇所が無く、また遠方から死体が運ばれてきた形跡も発見されず、捜査は難航しているとの事。
そして一週間前にも今回の現場より200m程しか離れていない場所で深夜に同様の事件があった。
被害者は付近に住む老婦人。旅行帰りだったらしい。
2人の被害者に今の所特に接点は見つからず、警察は無差別猟奇殺人事件という見方もしているとの事。
食い入るように記事を見ているサーラを尻目にメイは
「これってちょっとミステリーよね、不謹慎だけど」
と暢気な感想を口にしていた。
(溺れる…何もない陸上で…)
しかしそんなメイの台詞もサーラの耳には入っていない。
以前にカタリナの事故を調査していた時に勇吹に聞いていた話が思い出される。
(同じ…勇吹の話と…場所は…? ホープタウン7番通り…!)
ガバッと突然サーラが勢い良く顔を上げる。
その勢いに驚いたメイが思わず「うわっ」と仰け反った。
現場はカタリナの店からは徒歩10分圏内である。
(間違いないわ…勇吹を襲ったのと同じ水妖に襲われてこの人たちは殺された…)
サーラは机の下で人知れず静かに拳を握り締めた。

その日、帰宅したサーラは件の事件について勇吹と話をした。
勇吹は出かけておらず、居間で寛いでおりそこにはリューも一緒にいた。
「はー…なるほどね。てっきり事件の調査に関係した妨害だと思ってたけど、何だ通り魔だった訳か。…でも、しっかり倒したつもりだったんだけど、また出てきたっていう事は仕損じてたのね」
悔しそうに口をへの字に結ぶ勇吹。
そんな勇吹の言葉にサーラは静かに首を横に振る。
「ううん。こんな場所に水妖(ニンフ)は自然発生しないわ。呼んで使役してる術者がいるんだと思う。召喚主にしてみたらマナと契約の準備さえあればニンフはいくらでも出して来れるから…」
むう、と難しい顔をして勇吹が腕を組んだ。
「…大元を叩かない限りはいたちごっこになるのね」
サーラが肯く。
リューはそんな両者のやり取りを聞いているのかいないのか、無言で本を読んでいる。
そんなリューの方を、ちらりと勇吹が窺う。
「…どうした」
そちらを見ずとも注視されている気配を感じるのか、本の文面に視線を落としたままリューが口を開いた。
「や、あのね…何かリューからないのかなって。この前も水妖の事気にしてたよね?」
勇吹が言う。
確かに先日の一件でステファン社長を襲撃して戻った勇吹に、リューは水妖の事を尋ねた。
「今の所は何も話す事はない」
リューの返事は短かった。普段の調子でその言葉は無感情で簡潔だ。
サーラと勇吹が顔を見合わせる。
言葉にはしないが2人とも考えている事は同じだった。
リューは「今は」と言った。それは必要があってその時になれば何か話してくれるという事だ。
「じゃあ、とにかく私達でもこの件を調べてみましょう」
サーラがそう言って椅子を立った。
「そうね。…まあ無差別通り魔じゃ現場近くを巡回してみるしかないのかな~」
勇吹も立ち上がって、んー、と大きく伸びをした。

そして翌日の夕刻。
カタリナ・エーベルスは今日も車椅子に座って自分のアンティークショップ「眠り羊」で店番をしている。
先日、突然彼女には国からの障害者支援金として大金が振り込まれた。
その額を考えて思わずカタリナはふぅ、と吐息を漏らす。
あまりにも大金なのでその使い道にまで上手く思考が回っていないのだ。
そもそもが彼女は1人で暮していけるだけのお金は資産と店の売り上げから出していける。
そんな彼女が、突然降って湧いた資産の使い道として思いつく事と言えば…。
(…結婚式を、少し豪華にできるかしら…)
婚約者の顔を思い浮かべてカタリナの表情が綻んだ。
騎士レックス・へリング…自身の支えである婚約者。彼女の生き甲斐…生きる意味でもある。
今月もそろそろ彼からの手紙が届くはずだ。
先月までの手紙をもう一度読み直そうと、カウンターの脇に置かれた手紙の束に彼女が手を伸ばしたその時、店のドアベルがからんからんと鳴った。
「いらっしゃいませ」
カタリナが笑顔で応対する。
入ってきた赤い髪の背の高い男は
「…邪魔をする」
と短く挨拶した。
客の容姿を見て、一瞬カタリナが呆気に取られる。
何ともこの店を訪れるにしては風変わりな男だった。
引き締まった身体つきの東洋風の衣装の男。
それはクリストファー・リューであった。
リューは店内に並んだ売り物を眺める前に、カタリナの前に立った。
「協会の者だ。先日は同僚が世話になった」
そう言ってリューは軽く会釈した。それは嘘だ。リューは協会に所属する身ではない。
共闘者と見ればそう名乗る事も完全に間違いではないが、少なくともリューは自身が嘘を付いている自覚を持って発言している。
「あ…」
カタリナの脳裏に先日店を訪れた女性の姿が思い浮かぶ。
イブキと名乗った彼女も、そう言えば目の前の彼と同じ東洋の衣装を身に纏っていた。
「では…」
カタリナが居住まいを正す。また自分に何か話を聞きに来たのかと思ったのだ。
そんなカタリナを、片手を上げてリューがやんわりと制した。
「いや、畏まらなくていい。今日はただ客としてここへ来た。先日ここを訪れた同僚から話を聞いてな。…かねてより古い家具に興味があった」
それも嘘。
普段の彼の口調よりも気持ち穏やかな調子でリューはそう説明する。
それでカタリナも安心したのか、ほっとした様に微笑んだ。
「そうでしたか…ゆっくりご覧になって下さいね」
ああ、とリューは肯いて店内の家具に視線を送った。

それから暫くの間、リューは店内を周り、見かけたいくつかの家具についてカタリナに質問をした。
リューの古物の年代と材質の見立ては正確であり、その事は専門家であるカタリナも舌を巻くと同時に、先刻の古い家具に興味があると言ったリューの言葉に偽りがないものと彼女を安心させた。
会話が一段落してふっと止まり、その時にリューはカウンターの脇に置かれた手紙の束に視線を留めた。
「…国外の婚約者からの手紙だったか」
リューが言うと、カタリナがはい、と肯く。
「大変だな」
労わる様に目を閉じて静かにリューが言う。
そんな彼にカタリナが微笑む。
「ずっと離れ離れなわけじゃありませんから…」
「名と所属を聞いてもいいか?」
問われてカタリナが首を縦に振る。
「レックス…レックス・へリングです。リトロギアの第三方面部隊に配属されています」
ほう、とリューが意外そうに眉をわずかに上げた。
「それは偶然だ。関係部隊に知人がいる。今度連絡を取った時に婚約者殿の様子も尋ねておこう」
「…本当ですか! ありがとうございます」
顔を輝かせてカタリナが頭を下げる。
そしてリューは懐から懐中時計を取り出した。
「随分と長居してしまったな。また後日改めるとする」
そう言うとリューはいくつかの小物を購入し、会計を済ませた。
店を出るリューを見送って、カタリナはそう言えば彼の名を聞きそびれてしまったと思った。

店を出てリューが通りを歩く。
時刻は宵の口に差し掛かろうとしている。
周囲は既に夜の闇に覆われている。
早足で進むリューは人込みを避けた。
誰もいない路地へと入る。帰路では無い道。しかし今日彼にはもうこれ以上寄るべき場所は無い。
そこへ足を踏み入れると、今度は殊更にゆっくりと歩く。
何かを待つように。
…何かを確かめるように。
そんな彼の前方にゆらりと立ち昇る影があった。
…水音が聞こえる。湿った匂いがする。
地面から湧き上がって立ち上がり女性の姿を取る水。その数は3。
リューは特に感慨も無く、自身の眼前で形を成す水妖を見ている。
驚愕はない。リューにはこの帰り道、水妖の襲撃がある事が予見できていたからだ。
「お前達が彷徨い出てくるには、些か時刻が早いのではないか」
静かにリューが言う。
水妖は答えない。そしてリューも返事がある事を期待してはいない。
ただ揺らめく透明のボディから感じ取れるのは…確かな殺意。
リューは、いくつかの自身の仮説が正しかったと実証できた事を感じ取る。
一瞬だけ、水妖を見て細めたリューの視線に様々な感情の入り混じった複雑な色が浮かんだ。
しかし彼はすぐそれを冷たい光の下に消して、そして対敵を滅却する為に拳を握り地を蹴った。