私は自立してなどいない。私は自由ではない。私は喜びに満ちてはいない。私は幸せではない。
私は孤立している。私は囚われている。私は哀しみに溺れている。私は・・・・

私は思っている。
私は考えている。
私は志向している。
私は絶望しそこなっている。
私は助けを必要としているのに助けを求めない。
私は宇宙の絶望と寸分変わらない瞬間に存在している。
私の瞬間という数十年は永遠の長さを保ち続ける時間軸への漸近線として存在している。

 何かが変わればいいと願っているが、自身の根幹は変わらないことを理解している。
 私は私として生れてしまったことを理解出来ないでいるが、確かに私がここに存在しているということだけは、たとえそれが幻であっても、それだけは理解したい欲望に駆られている。

 肉体が消滅することをどうしても体感することが出来ないので、精神が肉体に拘って閉じこもってしまう。
 不安とは経済学的な生存を示す用語であって、決して精神病理学の言葉ではないのだと知っている。経済学的な生存への不安感情というのは、他人を押しのけて生きるための方策を持たない敗者の流す涙のことで、敗者は正しく弱者であり、一握りから振り落とされて彷徨う魂のことだ。

 私を支配できる者は身近にも遠隔的にも現に存在している。私を手配するものは、その手配書に私の名前を書くか書かないかによって笑みをこぼすことが出来る。支配する者はまた支配される者にも増して不安な時を過ごす他ない。なぜなら、手配するものもまた、その手配するという作業を誰かに監視されており、責任を取らされることを覚悟しなければならないのだ。末端で手配を待つものは彷徨することが出来るが、手配を仕事にするものはソコに停滞しなければならないという意味で自由を持たない。

 私は経済的に堕ちてゆくことを許容できないが、それはまた必然としての螺旋降下でもあるから、否が応でも渦中のもだえを我が身に痙攣させねばならない。つまり許容できないと叫ぶことは出来ても許容しなければならない必然の流れの中にいる。死が必然的に私を解放することが出来たところで、私の生にとっては何も価値もないことだ。価値?価値など無意味だと言い放つことで救われることなどない。

 私は何度も自由を得たが、その度に自由を失ってきた。これはどうしたことなのだろうか?自由を得る度に失ってしまう自由の大きさに呆然とする。世界のすべてを許容することが可能になる精神とは、すべての自由を失うことによって得られる諦念と絶望の純粋核になることでしか為しえない精神のことだ。あれやこれやがどうでも良くなる精神。あれかこれかの選択が内面にとってどうでもよくなるやけっぱちの精神そのものになること。“やけのやんぱち”とは純粋精神の核へと降りていこうとすることであって、決して精神の堕落を意味しない。

 “そうしたいならそうすれば”とひとりごちするのは、反転して背中で語ることであり、その視線はすでに永遠に向いていて現実の仔細些細を語る口を封じることである。自由を!と叫ぶことに似ているが、自由を得られることは決して無く、“自由の中にいる”と同義にはならない。第一、自由の中に存在したことなど一度だって誰一人としてあった例はなく、正しく“死”がそれを打ち砕いてきた。

 “自由”ほど人を惑わす言葉を私は他に知らない。自由とは言語上の辻褄合わせ、つまり副詞であって、形容詞でもなければ動詞でもなく名詞でもない。人の思いを修飾する言葉でしかない。そこには実態などない。同じに、“愛”もまた実体のないものを修飾することで、さも実体があるかのごとくに見せかける辻褄合わせとして用いられる言葉でしかない。とは言うものの、言葉が実体を表すことを信じなくてはこの世を生きていくことは不可能だ。仕方ないから、言葉には実体があるかのように思い込むことで初めて実体は私たちの目の前に顕れる。・・・暴論の局地、否、暴論の極致。

 “死”がすべての解決であることは明らかなことのように感じられるが、成長理論はそれを否定する。成長理論?経済の成長、財物の蔵の成長、精神の成長・・・すなわち膨張理論でしかない。宇宙の膨張に合わせて人類も膨張しているに過ぎない。いずれ風船は割れる。宇宙はもはや宇宙たり得ない瞬間が到来する。放っておいても万人に死が訪れるなら、自ら死を選ぶことは人間的な罪なのだろうか?誰に対しての罪なのだろうか?人を殺めることは罪であるというが、兵士が兵士を殺すことは正義なのはどうしたことか。それはどちらかが成長を希求しているからではないのか。人間的な成長ではない。経済と財物の成長の名に於いて。

 何が書きたいのか?死か?絶望か?

 生とは、だらだらと死から逃れようとする不完全で絶望的な逃避でしかないとしたら、その場所では無数の夢と幻を重ね合わせて世界を創るほかない。

 いつ死んだっていいんだ!本当は・・・

 そうだろうか?死とはその根本からして恐怖でしかない。死に赴く過程は許容出来ても、死そのものを受け入れることは恐怖以外のなにものでもない。その恐怖以外ではありえない死を自ら勝ち得た者の勇気と純粋はずば抜けている。だから私は自死した者を記憶し、自死した者の言葉に耳を傾ける。自死は選ばれた者だけが為しえる“自由”への跳躍である。自死。それだけが、装飾的な言葉から実体を為す言葉へと転換した“自由”そのものとなる。