ええ、分かってますわ。わたしが捨てられたということは充分承知ですの。あれから長い月日でしたわね、あなた。息子の勇希も可愛いお嫁さんを貰いましてね、今ではとても幸せそうですよ。亜紀さん、とても料理が上手でね、あたしなんてもう負けちゃいます。だって、お料理学校の先生をしているくらいですもの。ときどき勇希のマンションに行ってはご馳走になってますのよ。この前なんか、あれは何て言うのでしょうね。大きなお魚を丸ごと一匹、いろんなお野菜と一緒に焼き煮にしたようなお料理・・・、なんでしたかしらね。あなたとまだ暮らしていたころ一度だけ食べたことがあるはずですの。覚えてませんか、ほら、伊豆下田の白亜のホテルでしたわ。最後にあなたと愛し合ったホテルでしたから、忘れるはずもありませんわ。あら、あなたはお忘れになって?いやだわ、そうよね。あなたらしいわね。あなたにとって愛は無数ですものね、あら、あたしったら。愛は無償のシェアでしたわね。皮肉なんかではありませんことよ。いえ、責めてなんかもいませんわ。どうしてあなたを責めることがありましょうか、あなたは心の赴くままに過ごすのが人生のありようだと仰ってましたものね、若いときから。心の指し示す通りにお生きになっただけですものね。正直に堂々と真っ直ぐ生きて来られましたのよね。ですから責めようなどが、どの重箱の隅にございましょうか。あなたがどれほどに愛を追求なさってこられたか、大変な人生でしたわね。ご苦労さまですわ。愛に生きるというのは、さぞや苦しいことばかり多く報いの幸など骨粉ほどもないくらい少なかったことでしょうね。お察ししますわ。そう思うと笑いが止まりませんわ。ふふふ。そうそう、お魚料理の話でしたわね。もっとお聞きになる?それとももう聞きたくはないかしら?ふふ、そうでしょうね。あなたはご自分の気儘のために勇希もわたしも捨てたのですから。お話ししませんわ、これ以上。もったいないですものね、この幸せをあなたに分けて差し上げる義理はどこにもないですわ。あなたは禍いの箱をお空けになった。そして箱に残った幸いはわたしたちの物ですわ。ふふふふ。勇希ったら、ほんとあなたに似ずボンヤリしてましたから、結婚も随分と遅れてしまいましたけれど、かえってそれが良かったのかしらね。亜紀さんもそれほど早い結婚ではなかったのですよ。でもね、どうしてあんなに可愛くて、気立てのいい優しい娘さんが残っていてくれたのかと、ほんと嬉しゅうございますわ。なにより勇希を愛してくださってますもの。もちろん勇希だってそうですわ。亜紀さんを気遣い常に言葉をかける良き夫ぶりですわ。あなたとは大違いです。それにしても、透子さんがわたしに電話を下さったのはよろしゅうございましたわね。お陰でこうしてふたりきりでいられますものね。これからはあなたのすべてがわたしのものですわ。あなたにとっては願ったことではないでしょうけれど、これが人生というものですわ。駄目よ、もう逃がしませんわ。わたしが最後に愛し合ったお人ですもの、決して。

 山が好きでしたわね、あなた。でも今はこうして目の前には海ですわ。観念なさいね。やっと捕まえたのですもの、今度はわたしの言うとおりにさせていただきますわ。二度と見失うことのないように、わたしがこれからのすべてを、あなたのすべてを頂きます。はなしゃぁしないのよ、決して。あら?ふふふ。
 可笑しかったわ、あんなに笑ったのは久しぶりよ。たぶん始めてじゃないかしら。あなたと出会った二十歳の時から今日までで、あんなに腹の底から笑ったことは一度も無かった。気儘で好き勝手なあなたと暮らし続けるのは本当に苦しかった。それでも愛されていると思えている間は幸せだった。おかしくなったのは、あの女が現れてからよ。そうよね、どうなの、まさか気儘がいいなどと言っていたアンタがただのフヌケになるなんて思いもしなかったんだよ。殺したかった。実際殺してやろうと考えたんだよ。酔って、勇希とわたしの所へ帰ってきた夜には、いつも紐を手にしたんだよ。泣きながら紐を両手に握りながら、まんじりともしない夜を何度越えたか知れない。隣でスヤスヤと寝息を立てている勇希の顔を見ては、いつも思いとどまっていたんだよ、分かるかい?あたしの気持ちが、アンタに・・。お前以外に愛を捧げることが出来る女はいない。そう言ったのよね。忘れたなんて言えるわけない。だって、アンタの口癖だったんだからね。他人が聞いたらこそばゆい言葉でも、アタイにとっちゃ嬉しい言葉だった。どんなに夜遅く帰ってきても、どれほど親子ふたりが放っておかれても、夕食が何日も無駄になっても、下着が突然に変わっていても、知らぬ間に貯金が引き出されていても・・・。
 それでもアンタを玄関に迎えに出て、上着を受け取るときの微かな残り香が毎日違っている間は許せたわ。でも、あの下田のホテルで大きな魚料理を食べた日を境にアンタの身体からは・・・。ふざけた男よ、殺しておけば良かった。あはははははははは。
 透子さん、言ってたわ。もうどうでもいいのよ、あたし。もっと自分を大事に生きるべきだったわ、って。あはははははははははははは。あのやつれた顔をした透子さんを見て、彼女を許したわ。同じ釜の飯よねぇ、許せるのが不思議だったけど、それは透子さんのやつれぶりが、長い時間をかけて作り上げられた絶望なのだと分かったからよ。絶望って哲学の言葉じゃなかったのね。臭いと同じね。動物の死臭よ。
 アンタが炎の中で起き上がったときはビックリしたわ、本当に。心臓が止まるかと思った。あんな恐ろしいことが起こるなんて、まるで奇跡だったわ。アタイ、一瞬恐怖で引きつったわ。そして狂うんじゃないかと思うほどに、笑うしか無かった。笑っているうちに、なぜだか胸が熱くなって来て、信じられないことだけど、ああ、あたしは今幸せなんだわ、と感じていたのよ。人生最高の幸せ、至上の悦びを感じたのよ。
 あらまあ、音も無いわ。ほとんどが煙りになってしまった残りがコレなのね。骨がまともに残らないなんて有り得て?可笑しいわ、笑えるわ、愉快だわ、堪らないわ。こんな幸せがアタイにも訪れるなんて、神仏に感謝するわ、一生。
アンタの好きな槍ヶ岳は遠いわ。ここは黒々とした潮の流れる北の海なの。ゴメンね、アンタ。ふふふ。
 この箱の隅に残る粉の一振りだって山に撒いてなんかあげないの。
だって、捨てるのはアンタじゃなくて、ア・タ・シ・なんだよ!