凍りついた血の記憶を呼び起こすとき、母は死を免れて私に微笑むだろう。誰であれ命の所以を知らないばかりか、知ろうとさえしないに違いない。
 かく言う私は何も知らないし、知ることさえ無く、知ろうとさえしないが、それでもこの命の愛しさから免れることが出来ない。たとえその命が鬱陶しい難儀な生であっても、たとえ自分を好きになれない日があったにしても・・・。
 君を愛するように私自身を愛することが出来るなら、すべてが輝いて見えるだろうか?その輝きは真に輝くものとして与えらるだろうか?
(2007.06.04)
 
 通りを過ぎる過積載ダンプの止むに止まれぬ命がけの走行は、道を歩く者たちをも巻き込んで、現代という新奴隷社会を爆走する。大上段に命の大切さを語るものたちの拡声器こそがイカレテいるという深実を見れば、誰であれ新しい奴隷にしか過ぎないことは明らかだというのに…。
 
 Aはいつも泣いている。
 Bが泣くようには泣かないが、四六時中、街を歩きながら泣いている。
 Bは自分の罪深さに、畏怖するに相応しい円錐形の山を仰ぎ見ては泣いている。
 Cは奴隷の暮らしの中で、些細な暮らしにふと射す光の喜びを感じているから、人生を悔いたりせずに感謝を捧げる。

 ママ・・・。そんな声がしたような気がして振り返ってみれば、幼い女の子が手にしているものは、きっと母親の手作り、小さな人形、女の子が強く握り締めている人形の汚れは彼女が更に小さいころのおしゃぶりの証か、黒く汚れ、懐かしさが沁み込んでいて、もはやそれは人形ではなくひとつの魂として女の子に寄り添う心清らかなる妖精のようだ。働く妖精は決して綺麗になど着飾ってはいない。人生の苦悩を引き受けたその姿は相応しい哀しみを沁み込ませながら立ち現れる。
 ママ・・・。それは、優しさを求める深底からの呟きなのだ。
 ママ・・・。私もそう呟いてさえいたらと思わずにはいられない。ママ、私はもう駄目になりました。どうにもこうにも生きているのが難儀です。あなたの元へと思わずにはいられません。でも、もう少しこうしていようと言い聞かせているのです。

 今日、Hさんが言いました。
 「自殺すると、魂はこの世から完全に去らなければならないんです」だから、死んだ後、この世の愛する人たちの傍に寄り添っていることが永遠に出来ないのです、と。
 死は魂の死にあらず。
 肉体は失っても、魂はこの世の愛する人々の傍らでいつまでも存在し続けることが出来るのだとHさんは言いました。それは、Hさんが抱えた大きな悲しみを優しく包み込んで安らかに生きることへの、ある意味付けなのかも知れません。
 いえ、それはきっと真実なのに違いありません。私はその言葉を聞いて、何かホッとしたようです。私の死は淋しいものなのではなく、私の死は愛する者たちへの魂の永遠の寄り添いを得ることを意味するのだと思ったのです。そのためには自ら死を選んではならないのだと…。この世のあらゆる苦しみは終わってしまえば、苦しみなどではなく、神・釈迦の手のひらの上。なすがまま、なされるがままに生きることの深さを愛と共に想起する。

 神の存在など信じない唯物主義者の私でも、知らぬことはいくらでもこの世にはあるのだと思えば、神は存在するかも知れない。それより、実在の仏陀の教えこそが世界のあらゆる神々の教えを優しく包み込む平和の言葉のように思え、身に沁みるものである。
 何を言いたいんだか分からないし、何が伝わるのかもどかしいけれど、要するに「神」という言葉で人間以外の全知全能を想定などせずとも、我等は救われているのだと言いたい。この苦しみの中にあって救われている。救われるとは今を生きることの中にしかない。所与の生をあるがままに、苦しみのままに、幸せのままに生きる。
 幸せな生を送るものも、不幸の只中にいるものも、過ぎてしまえば僅かな命の時間。100億年に比すれば、なんとも瞬間とさえ言えないほどに限りなく短い命の時間なのだと、あらためて知る。そのことを想うことで私は救われる。何を煩うのか・・・。だが、その煩うことは生に与えられた苦しみの事実ではある。痛いし苦しいし悲しいし胸が詰まるのだ。この実際の肉体を通して現れる様々な反応こそが生の証なのだとしたら、引き受けざるを得ないものとして存在するし、決して無くなることのない生そのものの意味なのかも知れない。
 ああ、それにしても人生は痛い。
 あまりに痛い。
 いろんな意味で「痛い」のだった。

 淋しいだけです
 死は怖くはないのですが
 きっと
 淋しいのだと思います
 だからもう少し
 生かしておいてください

                    淋しくなんかないのです
                    愛する人の傍らに
                    永遠の居場所が見つかるのですから
                    そっと見守る という
                    なにか真理のようなものが
                    あなたを包んでくれるのです

 たらったらった ん
 たたら ららったらった
 ちりりん ぷぷぷり
 ぴりり ち
 ぴりり ち
 たらったらった ん
 たたら ららったらった
 
 ととりんりん しずかな
 ととりんりん ふかきとこ

 ぷぷり ぷぷり 
 たらったらった ん
 たらったたっら ん

 何か音
    しずかな 染み入るごと
 何か懐かしい
    明るい さびしさ
 小舟に揺られる
 嵐のあとに出来た大きな池の深さを宇宙だと信じた
 新しい居場所
(2007.06.06)

 今日、ママンが死んだ。と書いたのはカミュ
 Aujourd'hui, maman est morte.
 みっつも昔、おっかぁがオッチンだ。
          と書けば田舎のほうかむりした節くれだった指の女のことだ
 田圃が黄金に燃えた九月
 畦を歩く青年
 追いかける叔母
 マーちゃん・・・東京の匂い
 肩に置いた手から女が漂い流れて・・・激しく払いのける
 行くもんかと横を向くと真っ赤な夕陽が揺れる穂波に沈む速さ

   あんたにマーちゃんと呼ばれる筋合いはない

 粉の匂いは大都会の薄汚れた空から降り注ぐ細粒煤煙

 そして何を思ったかその夜 近くの料亭の大浴場へと連れ出され
 おっちんだ女の男が湯船で語るおためごかしな木霊の反響を聞く
 何かが赦されると感じたか おっちんだ女の男よ

    ( そうか、あんたも悲しいのか )
 そう思っただけのことだ マーちゃんと呼ばれた青年の閉じた心

人でなしムルソーの救済のように 輝いて立つことを考えた 全裸で湯を弾き散らす
共有するべき何事もないと誰もが知っていながら 渡る世間の共有事情
(2007.06.07)

 だらりと垂れ下がった首の余った皮を撫で引っ張りながら老人は呟いていた。山手線内回りドアのガラスに額をコツコツとぶつけながら誰に言うともなく小声で話しかけている。
 (ったく、これじゃぁ、あの頃の方がどれだけマシだったか知れない。ばあぁさんは幸せだったかもなぁ、世界がまだマシな頃に逝ったんだ。どんな風に世界が変わったか話してやるさ。あと少し…、あとホンの少しで話してあげられるさ。さすがのオレもそろそろだからな)いつの時代も苦痛を感じて生きている人間はいるものだ。戦争や紛争がない場所で生きているというだけで幸せなのだとは言えない。世界はまるごと不幸なのだ。世界はどこからどこまで悲しみに満ちている。幸せとは優越感なのだとしたら、あらゆる物を金で手に入れることが出来る一握りの詐欺師だけが幸せという言葉を肌身で感じることの出来る種族かも知れない。時代の詐欺師どもがいづれ堕ちる地獄を夢想することでしか今この在りようを自らに納得させることは出来ない。
 人を呪わば穴ふたつ。その夢想と嫉妬は怨みとなる。怨みとなって自らを己の内に開いた闇の底へと堕すことになる。だが、その怨みには深実が塗りこめられているのだ。一握りの人間とは、多数を屁とも思わないからこそ一握りで居続けることが出来る。希望とは詐欺師どもが発明した多数への緩衝装置に違いない。こころ優しいものたちは自らの首に鎖を巻いて一握りの奴らにそのリード線を手渡してしまうのだ。
「どうぞ、私を導いてください」
怨みと従順が綱を引き合うように、自らを引き裂いていくのだ。
闘争するか逃走するしか道はない…。
(2007.06.08)          (常に書き直しつつ続く・・・)