病室の窓を染める武蔵野の空は茜色。流した血の色、涙は絶望の味。包帯に巻かれた右手首は感覚を失ったまま動かない。皮膚は乾いてカサカサと衣擦れの哀しさで鳴いている。目は茜の空の向こう側の一点を見つめている。
 なぜ?と問わねばならないこの身を恥じながら、この先を生きることに決めなければならなかった。愛しい者たちを遺して逝こうとした私の行為は平穏で静かな暮らしへの裏切りであった。
 病んだ心であった。孤独であった。愛しい者と暮らしていても心は漆黒の井戸の中に放り込まれたまま脱出できないでいた。
 愛しい子よ。愛しい妻よ。私はあなたたちを初めて裏切り、これから先にはもっと絶望的な裏切りを謀るのに違いない。茜の空は流された血の色であり、これから流される涙の色なのに違いない。
 あのとき、私はそう予感し、実際そうなった。
 死に至る病、絶望、と言うとき、その精神の瀕死状態、どん底のことであるか。それは違うのだと思う。誰が言っていたか忘れたが、絶望とは己が他者として存在することを発見し、そのことを受け入れ難く感ずる恐怖状態のことなのだ、と。己が一者として統合されておらず、多数の顔を持つ多者性として現れる事態を知るに至った時に爆発しそうな衝撃を覚え、己を恐怖することから始まる状態。
 ジキルとハイドは物語りの中にあるのではなく、この自己の中にあるのだと発見することの恐怖。この状態が自己を除いた他者の中にも存在しているのだろうと推測することの正しさをもまた発見しなければならなくなったことへの悲しみは尋常ではない。
 私は自分の顔を想い描くことが出来なくなるだけではなく、他者の顔も描くことが不可能になるのだ。人はいつも関係性の中で顔を変えるのだと知ることの悲しみは私の思考中枢を支配し、それがすべての関係性の認識への窓なのだと知る。このことは青春の終わりの始まりの話なのかも知れないし、その時期をやり過ごす知恵を本来、人は持っているのだろう。その知恵を持たない者が絶望への階段を降りて、漆黒の無限井戸の中へと降りていくことになる。

 愛してる・・・嘘じゃない、愛してるのに私はそのことを信じられないでいるんだ。君を好きで好きでどうしようもないのに、いつも分厚い透明なアクリルの筒の中で生きている。