なぜ、顔(Ⅱ)なのか、顔(Ⅰ)はどこにあるのかと問いたくなってくるが、それは「何処か」としか言いようがない。だって、このエントリーは『顔』の焼き直しなのだから…。

 私には顔がある。しかし目の位置も鼻の形も頬の膨らみもぼやけてあるべきところから失せている。ただの文字と化した顔だけがある。男でもあり女でもある顔がある。考えようによっては、無数の顔があることで、かろうじて現実世界にぶら下がることが出来ているのかも知れない。労働の報酬によってちんけなな部屋を借りることが出来、体重を維持するだけの飯を食うことが出来る。知り合う以前は他人であった相方と共同で暮らしているが、やはり基本はどこか孤独な私だ。しかし、この世にいられるだけで充分に幸せだと言える。たとえ明日命を失うにしても、今ここでこうして文字に何かを託しながら、有り得ないかも知れないもうひとつの顔の輪郭を作り出す作業を繰り返す己を愛しいと思う。
 出来ればしたくない労働の合い間に行われるこうしたすべてのことを考えると、時間はあまりに足りない。書きたいことだらけなのに書く時間が足りない。それを思うと絶望的な作業であるのだが、そうでありながらも限りない自由を感じさせてくれる孤独な作業。
 この作業時間は労働の時間に比べたら少なすぎる時間だからこそ、私は根気よく作業を繰り返せるのだ。この命がどこまでいってもこの己自身の中でしか脈打たないのだとしたら、たとえそれが耳鳴りによって感じ取られる命の鼓動であってもいい。己の中で鳴っている早鐘を聞こうと思う。胃に穴のあく苦しみも、くったくのない笑いも命こそだ。脈打つ血液の流れを感じ取ることが出来るのは、この激しい耳鳴りのお陰だ。もう長い時間つきあってきている脈動する耳鳴りがどんな病を暗示しているのか知る由もないし、知りたいとも思わない。
 今、文字をただダラダラと打ち紡ぐ己の中では、何かしらの想念に溢れている。たぶん、生きたいという想いだ。永遠という"顔"を造り上げるまでは、奇妙な音と振動で脈動し続ける耳鳴りと共に生きていたい。