このページの縦書き文以下のもの(PRESENILEに既出)を一応載せておくが、考察が甘あま過ぎて本来なら載せてはならない気もする文。 言いたかったのは、症状・病名・シンドローム・などを言葉で定義してしまうことで、そこに自らがどっぷりと浸かってしまい、抜け出すキッカケさえも失いはしないかと考えるから。
 こんなことを言ってしまうのはマズイかも知れないが、病気は病名が考え出された瞬間から病気となる。つまり、医療側が巧妙に作り上げていく体系のようなものかも知れない。
 少数であること、異端であること、他と違い過ぎることを否定的に捉えるのではなく、もっとそれが個の特殊であると認める方が人生は楽しいのではないか、そんな気がする。

 ああ、書けば書くほどにドツボに嵌る気もしてきた・・・
 
                           知  愛  嘆  と  愛  *    
               普     *     る  が  く     さ       
            の  通           こ  不  と     れ       
         愛  で  に           と  毛  き     て       
      そ  は  は  愛           が  の        い       
   あ  も     な  せ           な  観        な       
   な  そ     く  な           い  念        い       
   た  も        い              だ                
   が  普                       と                
   特  通                                        
   別  で                                        
   な  は                                        
   わ  な                                        
   け  い                                        
   じ  の                                        
   ゃ  だ                                        
   な                                           
   い                                           
                                               
                                               
                                               



愛されていない

嘆くとき
愛が不毛の観念だと
知ることがない

 *

 普通に愛せない
  のではなく
   愛は
    そもそも普通ではないのだ
     あなたが特別なわけじゃない


愛され方が捩れていたとお嘆きの貴兄へ。 誰しも捩れているのであって、普通の愛され方などどこにもない。 百人いれば、百通りの愛され方があって、 あるいは、愛され無さ加減があって、 トラウマなどすべての人にあるのだ。 だが、多くの人はトラウマから個的な性格を作るあげている。 それが個性となる。 愛され方が捩れていた、などと親に責任を転嫁するだけでは何も変わらない。 なぜなら愛の受け取り方が間違っていたかも知れないのだから…。 だが、それらを言葉にするのは不毛だろう。 なぜなら、人間はどこからどこまで社会的な存在なのではないか。 蜘蛛の糸が絡んだ人生はその糸の真の源泉を知り得ない。
最終更新:2007年07月05日 18:13