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 二十代半ばの女性が寝ゲロを垂れている光景というのは、中々見られるものではないと思う。更に言えば見なくてすむなら一生見ないでおきたかったし、見るべきものでもないし、見せるべきものでもないんじゃないか。饐えた臭いに堪え、作業用の手袋を外し、その汚れた頬に触れるとほんのり温かい。例の同窓会で酔い潰れたのだろう。そのままぺちぺちと頬を叩き、声をかける。
「起きろ」
「……ちいとばかり愛想を振りまくとか、それなりに子供らしい演技をするとかしたらどうじゃ?」
「見た目は子供でも頭脳は大人っスからねえ……」
 変身を解かなかったのは、僕はこの福岡市にいないことになっているからだ。三重野に「ああ、その日程じゃ無理。用事があってさー、残念だなー」的なメールを完全に他人行儀な敬語で送っていたために、顔を突き合わせるのは若干気まずいのである。そうでなければ、これ絶好の恋愛フラグなのに……。や~の! こ~ゆ~のを自業自得っていうんですのね。ペルシャ、また一つお勉強しちゃいましたの~!
「こんなところで寝てると据え膳食われちゃうぞ、目を覚ませ」
「下品じゃのう……」
「そういう業界にいたもんで。ひどいもんスよ、野郎ばっかりの世界は下ネタに歯止めがかからないんだから。まさに葵新伍(青い信号)は止まらない、みたいな」
「魔法少女のイメージをぶち壊すでない!」
「いやー、最近は毒舌で無愛想な美少女がハヤリらしいスよ。で、時々デレデレするのがツボらしいっス」
「違う……間違っているぞ……。魔法少女は子供たちに夢と希望を与えるべく存在するのであって、決して成人男子の胸をキュンと言わせるために存在するのではないのじゃ!」
「オレも最近の仮面ライダーのイケメン路線についてけないんで言わんとするところはわかりますけど……」
 などと全く価値のない会話をしていると、三重野が小さく唸った。「ふりゅさいなあ~」とろれつの回らない舌で呟き、反対側に寝返りを打つ。長い髪がゲロにまみれる光景に「冗談じゃないぞ」と心中で毒づきながら、両手で三重野の上体を強引に起こした。びちゃっと手が汚物で濡れたのだが、皮肉なことに工事現場の汚い簡易便所で何度も用を済ませた経験が、僕を少しは逞しくしていたらしい。
「いいから起きろ。家まで送るから」
「う~ゆぅ~……揺すんなぁで……気ぼちわりゅい……」
「住所は? しばらく寝てていいからどの辺なのか教えろ」
「チュー……? あははっ、なぁに~、このコぉ~。お姉さんに一目惚れしちゃったのぉ~?」
「……もういい、寝てろ」
 ダメだ。完全に話が通じない。嘆息し、横から三重野を抱き上げる。
「どうするつもりじゃ……?」
「仕方ないからオレんちに連れていきますよ。ここに放っていくわけにもいきませんし」
「……然様か」
 こけしが低い声で呟き、くるりと背を向けた。それから家に帰り着くまでの間、一言も口を利こうとはしなかった。妖精の声は人間には聞こえないそうだから、僕が独り言を喋っているように見えないよう、彼女は彼女なりに気を使ってくれたのだろう。


 三重野は、あれから何度か吐いた。女の汗は甘い匂いがする、とかいう表現をどの小説で読んだのだったか。残念ながら、腕の中の三重野からは酒と吐瀉物とが入り混じった何とも形容しがたい異臭が漂っているのだが。僕の小さな首にかじりついて酒臭い息を吹きかけながら、酔っ払いが愚痴を垂れ流す。気のせいか、徒歩での家路が妙に遠い。
「だからぁー、道子も由紀もわかってないわけよぉー。聞いてるのぉー?」
「聞いてるよ」
「仕事を辞める時のショックってゆうかぁー、敗北感ってゆーのぉ? あたしの気持ち、わかってくれんとよぉ。変な同情するってゆぅかぁー」
「ああ、同情が妙にわざとらしく聞こえたりするよな」
「わかってるじゃぁーん、えらい。お姉さんは嬉しい!」
「ま、こっちも被害妄想気味になってるんだろうけど……ん? 仕事、辞めたの?」
「あっはは、そぉでぇーす! あんなに憧れてた看護婦なのに、辞めて親の家に帰ってきちゃったぁー」
「看護師だったんだ」
「辞めちゃったんだけどねぇー」
「ふうん……」
 親元に帰ってきて、近所でバイトを探してたらたまたま通っていた高校の近くに古本屋があったということだろう。「家には帰らない」とごねやがった辺り、親に引け目を感じているのかもしれない。ともあれ六年ぶりの再会にはそういう経緯があったわけだと一人で納得していると、三重野がぷうっと赤い頬を膨らませる。
「なぁにぃ、感じ悪ーい。辞めた理由とか聞けばぁ~?」
「聞いてどうする。少なくともボクは思い出したくないけど、君は違うの?」
「……つまんないのぉ。そ~ゆ~悟ったような言い方チョーむかつくぅ」
 わかったぞ‥‥‥! この人がみせた奇妙な行動――謎はすべて解けた!! つまり三重野は、こういう風に同窓会で旧友に絡んだ結果、大荒れして一人でぶっ倒れていたということなんだろう。やれやれ、酒癖が悪いとは知らなかった。高校時代にも秘密の飲み会というのがないわけではなかったが、僕は「面倒くせェ」といつもブッチしていたわけで。
「てゆうかさぁ~、同窓会も集まり悪くてさぁ~」
「そりゃそうだ、日が悪い」
「好きだったっていうか、ちょっと気になる男子がいてね? もしかしたらって少しは期待してたのに、やっぱ来ないし。道子とカワムーは相変わらずラブラブだから余計にむかつくしぃ」
「へえ、まだ続いてるんだ」
 卓球部部長の河村の平べったくて白い顔と清水の日焼けした逞しい顔を思い出し、宗方コーチばりに「ガキのときにほんもののあいてにめぐりあってしまうこともある!」とボケようかと思いつつも踏みとどまる。何に反応したのか前方を飛んでいたこけしが振り返り、なんとも形容しがたい表情を見せて再びそっぽを向いた。


「でね~、うちらの高校って結構レベル高いわけよぉ。えっへへ、自慢になっちゃったぁ~?」
「自慢してくれていいよ……それで君の気が晴れるなら」
「……引っ掛かる言い方ぁ。かわいくな~い~!」
 確かに私立聖南学院はそこそこ偏差値の高い学校ではあったが、校風が比較的自由なために遊んでばかりで成績を落とす人間が少なくなく、僕がまさにそのクチだった。それは学力別に分けられたクラス――通称“凡クラ”で一緒だった三重野も同様なわけで、彼女の表現には多少の語弊がある。過去を美化するという行為は、今の三重野にとって良いこととは思えないのだが……。
「それでみんなケッコーいぃ~とこに就職しててさぁ~」
「余計に自分が惨めな気持ちになった?」
「そ~ゆ~ことよぉ。あっはは、あんたはぁ、人の気持ちがわかる子や! きっと立派な大人になる!」
「……それはどうだろう」
 現に、僕は四ヶ月間の失業手当交付も終え、貯金を食い潰しているだけのプー太郎だ。実はフリーターの三重野よりタチが悪い。思わず苦笑いを浮かべると、首にこめられた力がぐっと強まる。同時に、あれだけ騒いでいた酔っ払いが沈黙した。顔を覗き込もうとしたら押し殺した嗚咽が聞こえ、ヘタレな僕は反射的に視線を前方に引き戻した。絞り出される声が耳に痛い。
「うちはっ……ちゃんとした大人になれんかったんよ……!」
「……かもな」
 気の利いた台詞の一つも言えれば良かったのだが、彼女の泣き顔すら直視できない僕がそんなウルトラCを披露できるはずもない。予期せぬ事態に困惑しつつ、かけるべき言葉を探す。積み重ねた努力、誰かの信頼、受けた恩義……それら全てを裏切るという行為は、それなりに重い。多分、彼女も僕と同じ壁に突き当たっているのだ。
「でも、これからなればいいんじゃないの? その、一人前の大人ってやつに」
「……」
「ボクは他人を貶めることでしか自分を保てない人間を知ってるけど……」
 兼城新太郎。早々に営業職としての資質を見限られ、事務職に回された建材屋時代の同期の姿を思い浮かべる。彼のプライドが妙に高いことには研修期間から気づいていたが、安月給の事務職に回されてからそれが悪い方向に転換した。いつも、誰かのせいにする。へし折れた心は積極的に事務仕事を覚えようとはせず、ヘマをしては「自分は悪くない」と陰で愚痴る。いつも、溜息ばかりついていた。
 軽トラを廃車にする大惨事を引き起こした僕が本社事務への転属という異例の厚遇を拒んだのは、彼のそういう姿を見ていて「自分もああなるのではないか?」と不安に感じたことが影響していないでもない。そうなりたくは、なかった。そうなった自分を、誰よりも自分が許せないだろうと思った。
「君は違うと思う。今は自分を許せなくても、きっといつか、前に進める日が来ると思う」
「……ん」
 何事かを言い掛け、三重野が黙る。「子供のくせに」とでも言おうとしたのだろうが、「それが……大人のやることかあっ!」と自制するだけの理性は残っていたらしい。今にして思えば、この時点で酔いはかなり醒めていたのだろうから、強引に彼女の家まで送ってしまえば良かった。……そんな判断もできなかったってことは、僕は自分で思う以上に舞い上がっていたのだろう。何とも情けない話だ。


 沈黙は金、雄弁は銀という諺がある。現代日本では一般に「男は黙って背中で語るもの」という意味で用いられるが、実際にこの言葉が古代ギリシアで生まれた時には銀の方が価値が高かったらしい。つまり本来は「へいへい、そこのシャイ☆ボ~イ、もじもじしないでガンガン自己主張しよー・ぜ」という意味なのだそうだ。うひょう、白人らしいエピソード。
 ……まあどちらにせよ、黙って泣かれても延々と愚痴られても対応に困ることには変わりなかったって話なんだが。ようやく家に辿り着き、泣き疲れて眠りについたゲロまみれの女を、断腸の思いで布団に寝かしつける。替えのシーツも布団カバーもないぞというか、本体にまで浸透したら一巻の終わり。デン……ジ・エンドであろう。おかしいな、異性が自分の部屋で寝泊まりするのって心が弾むもんだと思ってたのに。
「……で、どうするつもりなのじゃ?」
「どうするも何も起きたら帰ってもらいますよ」
 すっかり汚れた自前の赤いマフラーと手袋を洗濯機の中にぶっ込み、三重野が眠っているのを確認してから変身を解除する。変身前に着ていたシャツも汚れていたのでこれも脱いでいると、こけし人形がぺしっと背中を叩いた。
「にゃ、にゃ、にゃっ、にゃにしてるにょなー!」
「へ? ……誤解っスよ! この状況でヤっちゃったら人間として最低でしょ!」
「ヤっ……!? おまえが最低な男じゃにゃい保証なんてどこにもないにゃ!」
「すぐに変身し直しますから髪くらい洗わせてくださいよ……頭がゲロまみれで気持ち悪いんス」
 予想はしていたが、脳味噌と理性が欠落した人形のこけしには何を言っても無駄だった。やむなく台所の流し台に頭を突っ込み、無防備な蹴りたい背中をぺしぺし打たれながら水を流してざっと洗う。食器用の洗剤を使うことも考えたが、さすがに頭皮とかに悪影響が出そうでやめた。髪は長い友達ですから大事にしますよ、うちの家系にはハゲが多いことですし気を使っています。
「ふう……ナムコクロスカプコン」
 何の意味もない掛け声で再びロリっ娘への変身を済ませ、振り返ると妖精に戻ったこけしがミニマムな顔を真っ赤にして僕を睨んでいた。考えてみれば、彼女は――その外見通りの精神年齢ならという前提はあるが――まだ子供なのだ。僕の発言などはエロオヤジのセクハラ以外の何物でもなかったのだろう。
「……コホン、問い直すぞ。これからどうするつもりじゃ、そこなおなごが目を覚ますまでの間」
「隣で寝る……というのは抵抗があるんで押し入れで寝ようかなと」
「貴様な……慌てふためいて下劣な本など押し込んだのをもう忘れてしもうたのか? あのおなごとて礼の一つも言おうと貴様を捜すくらいのことはするじゃろうに」
「あ……そう言えばそうっスね。慌ててたんで素で忘れてた」
 僕の名誉のために付け加えておくと、同級生である三重野にこの部屋の主が荻野正規その人だと看破させ得るものの全てを押し込んだわけです。エロ本はあくまでもそのついでですよ。本当ですよ。僕はキラじゃないんだ、信じてくれよ!
「……じゃあベランダで寝るっス。疲れてるんで徹夜は無理」
「何もそこで寝ることもないじゃろうに」
「だって同じ空間にいると臭いんですよ」
「……貴様に恋人の一人もできぬ理由がなんとのうわかってきた気がする」


「―――…」
 土埃に汚れたコンクリートの上に寝っ転がり、夜空と言うには若干明るくなった空を見上げる。
「ここは……星が見えない…」
 平成20年5月4日の福岡は曇りでした。眠れない。身体は疲れているのに目だけが異様に冴えている。ギンギラギンにさえている、それが俺のやり方。というか、ベランダは寝心地が極端に悪いというだけの話なんだが。
「のう」
「何スか?」
「あのおなごについて、どう思うておるのじゃ」
「どうって……」
 ちらりと横目でガラス越しに眠る三重野を見やる。ちなみに汚れでやや曇りガラス気味なのは仕様ですよ。
「同病、相憐れむってヤツですかね……。オレもあんな風に悩んでた時期はあったんで」
「ふうん……貴様がのう」
「彼女が偏差値の高い高校に通ってたって言ってたの聞いてました?」
「うむ。……多分、貴様が聞き逃した重大な発言も記憶しておるぞ」
「そうなんスか? ま、そこに行き着くまでに小中学校で優等生やってた人間は、大なり小なり『周りの期待に応えたい』って価値観が身に染み付いてるんス。オレだって例外じゃないし、彼女もきっとそうでしょう」
「ン……わからんでもない話じゃが」
「だから、どんなに『人間は一人で生きていける』と突っ張ってみてもこたえるんですよ。親しい人達に心配をかけているだけの状況が辛くて、そんな自分が情けなくて、どんどん気持ちが重くなって……。多分、彼女も同じようなこと考えてるんだろうなって」
「……マサキ」
「はい?」
「今でも、辛いか?」
 いつになく真剣な声に、ちょこんと隣に座っているこけしの姿を見やる。視線は抱えた膝の隙間からあらぬ方へと抜けているが、先端の尖った耳が僕の返答を静かに待っていた。
「今は、やれることがありますから。コッコさんが生きる意味をくれたから、平気ですよ」
「……強いというのかの、そういう姿勢は」
「そうでもないスけどね……へこんでるだけってのは、大人のやることじゃないですから」
 こけしが何かを口にしたような気がしたが、僕の記憶はそこでぷっつりと途絶えている。目が覚めたのは夜だった。三重野は「ありがとう」と置手紙を残して姿を消しており、僕はうっかりコードギアスを見逃した。三重野からメールが届いていたことに気づいたのはその翌日だったが、ここでその内容を語るのは野暮ってものだろう。

 24歳、無職。ついでに彼女いない歴24年のキモオタ。

 そんな僕でも胸を張って生きていていいんだって、自分で自分に言い聞かせたかったために、選んだ道にも意味はあったのだと今は思う――。