基礎素材071118

化学
I.   プロローグ

化学とは物を構成している物質の組成、構造、性質、物質間の相互作用、さまざまな形態のエネルギーを物質にくわえたり、物質からとりさったりしたときの影響などについて研究する学問。有史以来人間は化学変化を観察し、その原因がなんであるのかをつきとめようと考えをめぐらしてきた。これらの観察と原因追究の歴史をふりかえることによって、化学を近代科学へとみちびいた発想や概念、しだいに発達してきた道筋をたどることができる。

II.   古代の技術と哲学

これまでにわかっているところでは、化学的操作はメソポタミア、エジプト、および中国の職工たちによってはじめておこなわれた。これらの国々の鍛冶(かじ)屋は、ときどき純粋な形で天然に産出する金や銅などの天然金属を利用して仕事をしていたが、彼らはやがて、金属の鉱石(おもに金属の酸化物や硫化物)を木材や石炭で加熱してとかし、これらの鉱石から金属をとりだす方法を発見した。

銅、青銅、そして鉄の利用が盛んになってくると、これらの金属に名前がつけられた。その名称は、考古学者たちによって、それぞれその金属がつかわれた時代をあらわす名称にも利用されてきた。原始的な化学技術は、さまざまな種類の布に染料を定着させる方法を発見した染色工たち、あるいは、うわぐすりをかける方法や、のちにはガラスの製法を発見した陶工(→ 陶磁器)たちの文化の中にもあらわれた。

これらの職工たちの多くは、寺院や宮殿にやとわれ、僧侶や貴族たちのためにぜいたく品を製作していた。寺院では僧侶たちが、身近な世界で目にした変化の原因をつきとめようとした。彼らの理論には魔法がふくまれていることも多かったが、しかし彼らはまた、天文学的、数学的、宇宙論的な考えをも発展させ、これによって、現在では化学変化と考えられるある種の変化の原因を説明しようとした。

III.   ギリシャの自然哲学

これらの考えを科学的に検討しようとした最初の文化は、ギリシャ文化であった。前約600年のタレスの時代から、ギリシャの哲学者たちは、物理的な世界の現象を神話によって説明しようとはせず、論理的に追究しようとしてきた。

タレス自身は、すべての物質の根源は水であるとし、水がかたまれば土になり、気化すれば空気になると考えた。彼の後継者たちは、この理論を発展させ、土、水、空気、火の4つの元素が世界を構成していると考えた。

デモクリトスは、これらの元素は、真空中を運動するひじょうに小さな原子からなっていると考えた。ほかの人々、とくにアリストテレスは、元素は連続した物体を形成し、真空は存在しないと信じた。ギリシャ人の間では原子論は、急速にその基盤をうしなうことになったが、しかし完全にわすれさられてしまったわけではなかった。それはルネサンスの時代に復活し、近代原子論の基礎になった(→ 原子)。

1.   アリストテレス

アリストテレスは、ギリシャの哲学者で最大の影響力をもち、彼の考えは、前323年の彼の死後2000年近くも科学の世界を支配した。彼は自然界には熱、冷、湿、乾の4つの性質が存在すると信じた。

4つの元素は、これらの性質が2つずつくみあわさって形成されると考えた。たとえば、火は熱く乾燥したもの、水は冷たくしめったもの、空気は熱くしめったもの、そして土は冷たく乾燥したものであった。このように、これらの性質がいろいろな割合でむすびついてできた元素によって地球上の物質が形成されているのである。元素にふくまれるそれぞれの性質の量を変化させることができるので、ある元素を別の元素にかえることができる。したがって、元素でできている物質を変化させること、たとえば鉛を金にかえることもできると考えられた。

IV.   錬金術の出現と衰退

アリストテレスの理論は、実践にたずさわっていた職工たち、とくに、前300年以後古代世界の知的文化の中心となった、エジプトのアレクサンドリアの職工たちにうけいれられた。彼らは、土の中の金属は、より完全なものになろうとして、徐々に変化し、最終的には金になるものと考えた。

彼らは、これと同じ過程を仕事場で人工的により急速におこなえば、ありふれた金属を金にかえることができると、考えた。100年ごろには、この考えは、金属工だけでなく哲学者の心をもとらえ、この変質の方法について多くの著作が書かれた。そしてこの変化の術は、錬金術といわれるようになった。だれも金をつくりだすことには成功しなかったが、金属をより完全なものにしようとする研究の中で、多くの化学反応が発見された。

ほぼこれと同じころ、おそらくはこれとは独立に、中国にも似たような錬金術が出現した。中国の錬金術の目的もやはり金をつくりだすことであったが、しかしそれは、金の金銭的な価値のためではなかった。中国人たちにとって金は、これを飲む人の寿命をのばし、あるいは不死をもたらしてくれる薬であった。エジプト人と同じように、中国人もまたまちがった理論から実践的な化学知識を獲得したのである。

1.   ギリシャ思想の伝播

ローマ帝国の衰退後、ギリシャの著作は、西ヨーロッパでは公然と研究されることは少なくなり、東地中海地域でさえも、ほとんど無視された。しかし6世紀になると、ネストリウス派というシリア語をつかうキリスト教の一派が、小アジア地域全体に影響力をもつようになった。彼らは、メソポタミアのエデッサに大学を設立し、ギリシャの哲学や医学に関する多くの著作をシリア語に翻訳し、学者の間で利用された。

7世紀および8世紀には、アラビアの征服者たちが、小アジア、北アフリカ、スペインの多くの地域にイスラム文化を普及させた。バグダッドのカリフたちは、科学や学問の積極的な後援者となった。シリア語に翻訳されたギリシャの著作が、ふたたびアラビア語に翻訳された。こうして、ギリシャの学問が紹介されるようになると、錬金術の思想や実践がふたたび盛んになった。→ アラビア科学

1.A.   アラビアの錬金術師

アラビアの錬金術師たちは、東の中国とも接触し、完全な金属としてのギリシャの金の概念とともに、医薬としての金の概念をもうけいれた。特別の試薬である「賢者の石」が変化を促進すると考えられ、これをみつけだすことが錬金術師たちの目的となった。

富だけでなく健康をも手にいれることができるかもしれないということで、錬金術師たちの化学過程についての研究意欲は、さらに刺激されることになった。錬金術師が活動した結果、化学薬品や化学装置の研究は、着実に進展した。苛性アルカリ(→ アルカリ金属)やアンモニウム塩(→ アンモニア)などの重要な薬品が発見され、蒸留の装置が着実に進歩した。より定量的な方法が必要だということの認識も、いくつかのアラビア語の処方箋(しょほうせん)にあらわれており、そこには、使用すべき薬品の量についての特別な指示があたえられていた。

2.   中世後期

大きな知的復興が11世紀の西ヨーロッパではじまった。これは、ひとつにはシチリアおよびスペインにおけるアラビアの学者と西洋の学者との文化交流によって、刺激されたものであった。翻訳者のための学校が設立され、彼らの翻訳によってアラビアの哲学・科学思想がヨーロッパの学者にもたらされた。シリア語およびアラビア語を経由してつたえられたギリシャ化学の知識が、こうしてラテン語でヨーロッパの全域にひろめられていったのである。もっとも熱心によまれた写本は、錬金術に関するものであった。

2.A.   ヨーロッパの錬金術

これらの写本には2つのタイプがある。そのひとつは、ほとんど純粋に実践に関するもので、もうひとつは、物質の性質に関する理論を錬金術の問題に応用しようとするものである。実践的な問題としてもっとも議論されたのは蒸留であった。

ガラスの製法が、ベネツィアを中心にひじょうに発展したことで、アラビア人たちよりもすぐれた蒸留装置ができるようになり、これをつかってより揮発性の高い蒸留生成物を濃縮できるようになった。このようにしてえられた重要な生成物には、アルコールや、硝酸、王水、硫酸、塩酸などの鉱酸がある。これらの強力な薬品をつかって、多くの新しい反応をおこさせることが可能となった。

中国での硝酸塩の発見や火薬の製造もアラビア人を通じてヨーロッパにつたえられた。はじめ中国人は、火薬を花火に使用していたが、ヨーロッパでは、たちまち戦争の主要手段となった。

アラビア人によってつたえられた2番目のタイプの錬金術の写本は、理論に関するものであった。これらの著作の多くは、神秘的な性質をもったもので、化学の発展にはほとんど寄与していないが、中には、変化を自然科学的なことばで説明しようとしたものもあった。

アラビア人の物質理論はアリストテレスの考えにもとづいていたが、より特殊化されたものであった。このことは、とくに金属の組成に関する彼らの考え方に顕著にあらわれている。彼らは、金属は硫黄と水銀でできていると信じていた。ただしこの2つの要素は、彼らがよく知っている物質としての硫黄や水銀ではなく、金属に流動性をあたえる水銀の「原理」と、物質を燃焼させまた金属を腐食させる硫黄の「原理」であった。化学反応は、物質にふくまれるこれらの原理の量の変化として説明された。

3.   ルネサンス

13世紀から14世紀にかけて、あらゆる分野の科学思想に対するアリストテレスの影響力が弱くなった。物質のふるまいを実際に観察することによって、アリストテレスの比較的単純な説明に疑問がなげかけられた。このような疑問は、1450年ごろ活字による印刷術が発明されてから急速にひろがった。1500年以降、技術に関する著作と同様、印刷による錬金術の著作の数がますます増大した。この増大した知識の成果は、16世紀にはっきりとあらわれる。

3.A.   定量的方法の出現

この時代にあらわれた書物で大きな影響力をもっていたのが、採鉱および冶金の実践書であった。これらの著作では、有用金属の含有量をしらべるための鉱石の試金(→ 分析試験)に多くのページがあたえられた。この作業には、天秤(てんびん)の利用と、定量的な方法を開発することが必要であった(→ 化学分析)。他の分野、とくに医学の研究者たちは、より高度な精密さの必要性に気づきはじめていた。医師(彼らのうちのある者は錬金術師でもあった)は、投与する薬の正確な重量や体積を知る必要があった。彼らは薬を調合する際に天秤をつかった計量法を利用したのである。

3.B.   医化学の基礎

この方法は、風変わりなスイス生まれの医師ホーエンハイム(→ パラケルスス)によって開拓され、精力的にひろめられた。彼は鉱山地域にそだち、金属とその化合物の性質についての知識を修得し、これらの物質が、当時の医師たちが利用していた薬草よりもすぐれていると信じた。彼はその人生の大半を、当時の医学の権威たちとのはげしい闘いについやし、その過程で、薬理学のさきがけとしての医化学の基礎をきずいた。彼とその後継者たちは、多くの新しい化合物や化学反応を発見した。

彼は、金属の組成についての従来の「硫黄-水銀説」を修正し、第3の成分として、すべての物質の基礎となる要素である「塩」をくわえた。木がもえるとき「もえるのは硫黄であり、気化するのは水銀であり、灰になるのは塩である」ととなえた。「硫黄-水銀説」についていえば、これらは「原理」であり物質ではなかった。

彼の可燃性硫黄についての主張は、のちの化学の発展にとって重要なものであった。パラケルススの跡をついだ医化学者たちは、彼のあらけずりな考えのいくつかを修正し、彼および彼らの化学治療薬の調合に関する処方を集大成した。そして16世紀末にアンドレアス・リバビウスが「アルケミア」を出版した。これは、医化学の知識を体系化したもので、最初の化学教科書であるとされている。

3.C.   気体の存在

17世紀の前半には、わずかな人々が、化学反応の実験的研究をはじめたが、これは、化学反応がほかの分野の役にたつということからではなく、あくまでも自分たちのためにおこなったものであった。化学の研究に専念するために医師としての実践活動から身をひいたジャン・バプティスタ・ファン・ヘルモントは、ある一定の量の砂を過剰のアルカリとともに融解すると水ガラスが生成され、この水ガラスを酸で処理すると、もとと同じ量の砂(二酸化ケイ素)が生じることをしめすための重要な実験をおこない、そのときに天秤を使用した。こうして質量保存の法則の基礎がきずかれたのである。

ヘルモントはまた、多くの反応で空気のような流体が放出されることをしめし、これを気体と名づけた。特有の物理的性質をそなえた、新たな種類に属する物質が存在することがしめされたのである。

3.D.   原子論の復活

アリストテレスによって存在しえないとされていた真空をつくりだす方法が、16世紀に実験科学者たちによって発見された。これは、原子が「空虚」の中を運動すると仮定したデモクリトスの古代理論への関心をよびおこした。

フランスの哲学者であり数学者であったルネ・デカルトとその弟子たちは、観測される現象は微粒子の大きさ、形、および運動によって、すべて説明されるとする機械的物質観を発展させた。この時代の自然哲学者や医化学者のほとんどは、気体は化学的性質をもたないと考えていたので、彼らの関心は気体の物理的ふるまいに集中した。

ここに気体分子運動論の発展がはじまった。この分野で特筆されるのが、「空気の弾性」を研究し、気体の圧力と体積との間の反比例の関係を一般化して、のちにボイルの法則として知られるようになる式をみちびきだしたイギリスの物理学者で化学者のロバート・ボイルの実験であった(→ 気体)。

V.   フロギストン説と実験

自然哲学者たちが、数学的法則についての思索をおこなういっぽうで、実験室で研究していた初期の化学者たちは、化学の理論を化学反応を説明するために利用しようとつとめていた。

医化学者たちは、硫黄とパラケルススの理論に、特別の関心をよせた。17世紀の後半になると、ドイツの医者、経済学者、化学者であったヨハン・ベアキム・ベッヒャーが、この原理に関する化学体系をうちたてた。彼は、有機物が燃えると燃焼物質から揮発性の物質が放出されるようだとしるしている。彼の弟子であったゲオルク・エルンスト・シュタールが、これを、その後ほぼ1世紀にわたって化学界に生きのこる理論の中核にまでしあげた。

1.   物質の循環

シュタールは、物質がもえると可燃性の要素が空気中にでていくと仮定した。この要素はギリシャ語の炎にちなんでフロギストンとよばれた。金属がさびるのも、燃焼と似た現象で、やはりフロギストンがうしなわれる。植物は、空気中からフロギストンを吸収するため、フロギストンにとんでいる。金属灰(金属酸化物)を木炭とともに加熱すると金属灰がフロギストンをとりもどす。このことから、金属灰は元素であり、金属は、化合物であると考えられた。

この理論は、現代の酸化・還元(→ 化学反応)の概念とほとんど正反対の関係になっている。しかしこの理論には、向きが逆ではあるものの、物質の循環という考えがふくまれており、観測された現象のうちのあるものは、この理論で説明することができる。しかし、当時の化学文献についての最近の研究によると、18世紀末にフランスの裕福なアマチュア化学者アントワーヌ・ローラン・ラボワジェによって批判されるまで、フロギストン説の化学者に対する影響は、ほんのわずかなものでしかなかったようである。

2.   18世紀

これとほぼ同じころおこなわれたもうひとつの観測が、化学の理解に進展をもたらした。化学薬品の研究がすすむにともなって、化学者たちは、ある物質がほかの物質とくらべて、ある化学薬品とよりたやすく結合する、つまりより大きな親和力をもっているということに気づいた。さまざまな化学薬品に対する、相対的な親和力について、詳細な表が作成された。この表を利用することによって、実験室で実験をおこなう前に、多くの化学反応についての予測ができるようになった。

これらの発展によって、18世紀には新しい金属や化合物、化学反応が発見された。定性分析法および定量分析法の開発がはじまり、分析化学が誕生した。それでもなお、気体が物理的性質しかもっていないと考えられているかぎり、化学の全体像を認識することはできなかった。

2.A.   気体の化学的研究

イギリスの生理学者ステファン・ヘールズが、さまざまな固体をとじた系の中で熱したときに、発生する気体をあつめ、その体積を測定するための水上捕集法を開発して以来、気体の化学的研究は、重要になった。この水上捕集装置は、空気のまじっていない気体をあつめて研究するのにかかせないものとなった。気体の研究は急速に進展し、さまざまな気体の理解は新しい段階をむかえた。

化学における気体の役割を最初に理解したのはイギリスのジョセフ・ブラックで、彼は炭酸マグネシウムおよび炭酸カルシウムの反応に関する研究を、1756年にエディンバラで出版した。これらの化合物を熱すると気体が放出され、あとに苦土(酸化マグネシウム)や生石灰(炭酸マグネシウム)がのこる。あとにのこった物質は、アルカリ(炭酸ナトリウム。→ 酸と塩基)と反応してもとの塩が生成される。

こうして気体の炭酸ガス(ブラックはこの気体を「固定空気」とよんだ)が化学反応に関与している(彼は「固定された」と表現した)ことが発見された。気体は、化学反応に関与しないという考え方はうちすてられ、その後、新しく発見された多くの気体はそれぞれ別個の物質であると認識されるようになった。

2.B.   脱フロギストン空気

この10年後、イギリスの物理学者ヘンリー・キャベンディシュが「可燃性気体」(水素)を単離した。また彼は、気体を捕集するための液体として、水のかわりに水銀を利用し、水にとける気体をあつめることを可能にした。イギリスの化学者で神学者のジョセフ・プリーストリーはこの方法を改良して1ダースに近い新たな気体を発見し、その研究をおこなった。

プリーストリーのもっとも重要な発見は酸素の発見であった。彼はすぐ、この気体が空気にふくまれる成分であり、これが燃焼をおこし、また動物の呼吸を可能にしているものであると気づいた。

しかし彼は、この気体中で可燃性物質がよりはげしくもえ、金属がより容易に金属灰になるのは、この気体がフロギストンをもっていないからだと説明した。つまり、この気体は、すでに部分的にフロギストンによってみたされている通常の空気よりも容易に、可燃性物質や金属中にふくまれているフロギストンをうけとることができると考えた。彼は、この新しい気体を、「脱フロギストン空気」と名づけ、その生涯をとじるまでフロギストン説を擁護した。

2.C.   酸素

この時期に化学は、フランス、とくにラボワジェの研究室で急速に発展していた。彼は、金属を空気中で熱するとフロギストンがうしなわれるのだとすると、なぜこのときに重量がふえるのかという問題になやまされていた。

1774年、プリーストリーはフランスをおとずれ、彼が脱フロギストン空気を発見したことをラボワジェにはなした。ラボワジェは、ただちにこの物質の重要性をみぬき、近代化学の確立につながる化学革命への道がひらかれたのである。彼は、この気体に対して酸を形成するものという意味で酸素という名称をもちいた。

3.   近代化学の誕生

ラボワジェは一連のすぐれた実験によって、空気には20%の酸素がふくまれており、燃焼とは、可燃性物質が酸素と結合することによっておこる現象であることをしめした。炭素をもやすと固定空気(二酸化炭素)が生成される。したがってフロギストンは存在しない。

フロギストン説はまもなく、空気中の酸素が可燃性物質の成分と結合してその成分元素の酸化物を形成するという考え方にとってかわられた。ラボワジェは、彼の研究に定量的な裏付けをあたえるために天秤を使用した。彼は、元素を化学的な方法によって分解することができない物質と定義し、質量保存の法則を確立した。

彼は、古い化学の命名体系(いぜんとして錬金術的な慣用がおこなわれていた)を、今日もちいられている合理的な化学命名法にかえた。彼はまた、最初の化学雑誌の創刊に力をつくした。フランス革命の際1794年に、彼が元徴税請負人であったことから、ギロチンで処刑されたのち、同僚たちが彼の研究をひきつぎ近代化学を確立した。そのわずかのち、スウェーデンの化学者ヤコブ・ベルセリウスが、元素名の頭文字あるいは元素名中の文字の組み合わせによる原子の記号化を提案した。

VI.   19世紀および20世紀

19世紀の初頭までには、分析化学の精度が向上し、化学者たちは、簡単な化合物には、一定不変の量の成分元素がふくまれていることを明らかにできるまでになった。しかし、場合によっては、これと同じ元素の間でも2種類以上の化合物が生成されることがある。

フランスの化学者、物理学者ジョセフ・ゲイ・リュサックは、たがいに反応する気体の体積は、小さな整数比をなすということをしめした(このことは、のちに原子であることが証明される不連続な粒子の相互作用の存在を暗示している)。これらの事実の説明にもっとも貢献したのが、イギリスの科学者ジョン・ドルトンが1803年に発表した化学原子論であった。

ドルトンは、2種類の元素が結合してできる化合物には、それぞれの元素の原子が1個ずつふくまれていると仮定した。彼の体系にしたがえば、水の化学式はHOとあらわされた。彼は、水素の原子量を恣意的に1とし、酸素の相対的な原子量を計算した。この原理をほかの化合物にも適用して、ほかの元素の原子量を計算し、当時すでに知られていたすべての元素の相対的な原子量表を作成した。

彼の理論には多くの誤りがふくまれていたが、その考え方はただしく、各原子の質量に定量的な値をあたえることができた。

1.   分子理論

ドルトンの理論の最大の弱点は、倍数比例の法則を説明できず、原子と分子を区別することができなかったことである。そのため、彼は、水の化学式として可能なHOとH2O2のちがいを説明できなかっただけでなく、彼が仮定したHOの化学式であらわされる水の蒸気密度が、化学式Oであらわされる酸素の密度よりも小さいのはなぜかということを説明できなかった。

この問題に対する解答は、1811年、イタリアの物理学者アメデオ・アボガドロによってみいだされた。彼は、同一温度、同一圧力のもとで、同じ体積をもつ気体には同じ数の粒子がふくまれ、分子と原子とはことなる、という考えを提示した。酸素が水素と結合するとき、酸素原子2個(現代のわれわれの言葉でいえば「分子」)がわかれ、それぞれの酸素原子が2つの水素原子と結合するのであり、水の分子式はH2O、酸素および水素の分子式はそれぞれO2、H2であらわされる、としたのである。

1.A.   アボガドロの再評価

残念なことに、アボガドロの考えは、約50年間無視され、この間、化学者たちの計算に大きな混乱が生じたのである。アボガドロの仮説がイタリアの化学者スタニスラオ・カニッツァーロによって再評価されたのは1860年になってからのことであった。

この時代にはすでに、元素の原子量を比較するための基準として、ドルトンのように水素の原子量1を採用するよりも、酸素の原子量16を採用したほうが都合がよいことに、化学者たちは気づいていた。当時、酸素の分子量32が一般に使用されており、これにグラムをつけて酸素のグラム分子量、あるいは単に酸素1モルとよんでいた。化学計算はこれによって標準化され、化学式の書き方が確定したのである。

1.B.   ベルセリウスの理論

古くからあった化学親和力の性質についての問題は、いぜんとして未解決のままであった。一時は、新しくおこった電気化学の分野で解決されるのではないかと思われた。1800年に考案されたボルタ電池は、最初の本格的な電池であり、化学者たちはこの新しい道具を利用してナトリウムやカリウムといった金属を発見した。

ベルセリウスには、正と負の電気力が元素をむすびつけているのではないか、と思われた。はじめのうちは、彼の理論は、化学者たちにうけいれられた。しかし、さらに多くの新しい化合物が合成され、その反応の研究がすすむにつれて、電気力は反応に関与していないのではないか、と考えられるようになり(非極性化合物)、化学親和力の問題はしばらく棚上げされた。

2.   化学の新分野

19世紀の化学におけるもっともいちじるしい発展は、有機化学の分野にみられた。原子が実際にどのように結合しているのかということについて、概念をあたえてくれる構造理論は、非数学的な独特な論理にもとづいていた。これによって、とくにドイツの化学工業の発端となった数多くの重要な染料、医薬、爆薬(→ 爆発物)をはじめとする多くの新しい化合物の性質の予測とその製造が可能になった。

これと同時に、このほかの化学の新しい分野も出現していた。当時の物理学の発展に刺激されて、ある化学者たちは、数学的な手法を化学に応用する道をさぐった。反応速度の研究は、工業にとっても純粋科学にとっても、重要な分子運動論の発展をもたらした。

2.A.   物理化学の形成

熱が原子レベルでの運動によるものであるということが認識された結果、熱が特定の物質(「カロリック(熱素)」とよばれた)であるという従来の考えが放棄され、化学熱力学がはじまった(→ 熱力学)。電気化学の研究もつづけられ、スウェーデンの化学者スバンテ・アウグスト・アレニウスは、塩が溶液中で電離して電荷をはこぶイオンを生成する(→ イオン化)、という説を提唱した。

元素や化合物の発光スペクトルと吸収スペクトルの研究は、化学者、物理学者のどちらにも、重要なものとなった(→ 分光学:スペクトル)。さらに、コロイド化学(コロイド)や光化学の基礎的な研究もはじまった。19世紀末までには、これらの研究がむすびつけられ物理化学として知られる分野が形成された。

2.B.   周期律の発見

無機化学も組織化することが必要であった。新発見元素の数がふえてきたが、その反応を秩序だてて整理する分類方法が開発されていなかった。ロシアの化学者ディミトリー・イワノビッチ・メンデレーエフが1869年に、ドイツの化学者ユリウス・ロタール・マイヤーが70年に、それぞれ独立に発見した周期律によって、この混乱はとりのぞかれ、周期表のどの位置にくる元素が新しく発見されるか、あるいはその元素の性質がどんなものであるか、ということを予測することができるようになった(→ 元素:周期律)。

2.C.   核化学の形成

19世紀末には、物理学と同様、化学にももはや新しく開拓すべき分野はのこされていないといえる状態にまで到達したと思われた。しかしこの考えは、放射能の発見によって完全にくつがえされた。ラジウムなどの新元素の単離や、同位体とよばれる新しい範疇(はんちゅう)に属する物質の分離、超ウラン元素の合成や単離に、化学的な方法がもちいられた。物理学者によってみちびきだされた原子構造に関する理論によって、古くからの化学親和力の問題が解決され、極性化合物と非極性化合物の関係が説明された。→ 核化学:キュリー夫妻

2.D.   生化学の基礎

このほかに、20世紀の化学のおもな発展としては、生化学の基礎がきずかれたことがあげられる。これは、体液の簡単な分析からはじまったが、その後、もっとも複雑な細胞成分の性質や機能を決定する方法が急速に発展した。

20世紀半ばには、生化学者は遺伝子暗号を解読し、あらゆる生命の根源である遺伝子の機能を説明した。この分野は巨大な分野に成長し、その研究は、分子生物学という新しい科学の1分野を生みだした。→ 遺伝学:核酸

3.   化学の最近の研究

現在の化学研究の最先端は、バイオテクノロジーと材料科学における最近の発展によって特徴づけられている。バイオテクノロジーの分野では、精緻な分析機器が利用できるようになり、ヒトのゲノムの配列についての国際的な研究がはじまった。この計画が成功すれば、分子生物学や医学の分野は、これまでとはまったくちがった性格のものとなるであろう。

物理学、化学、工学が学際的にむすびついた材料科学の分野では、先端材料や素子の設計ができるようになってきている。最近の例としては、77K(-196°C)で電気抵抗がなくなるセラミック化合物の高温超伝導体の発見がある。試料表面の像を原子レベルの解像度でとらえる走査型トンネル電子顕微鏡(→ 電子顕微鏡)が発明されたことにより、材料表面特性の研究がすすんでいる。→ 顕微鏡:超伝導

在来分野の化学的な研究に関しても、新しいより強力な分析手段の登場により、化学物質や反応についてのこれまでにはなかった詳細なデータがえられるようになった。たとえば、レーザー技術のおかげで、フェムト秒(10-15秒、つまり10億分の1のさらに100万分の1秒)のレベルで気相化学反応の瞬間的な状況を把握できるようになった。

また、グラファイト(黒鉛)電極をつかってつくられたすす(煤)から、フラーレンとよぶサッカーボールのような形をしたC60の化学式をもつ、まったく新しい形態の炭素が単離された。この物質の構造や化学的性質は、現在利用できる各種の分析技術を駆使して驚異的な早さで解明された。この物質のアルカリ金属塩のあるものは、超伝導性(→ 超伝導)をもっているということさえわかっている。

4.   化学工業

化学工業の成長と専門化学者の養成の関係については、興味深い歴史がある。約150年前までは、化学者は専門的な訓練をうけていなかった。化学は、ある問題に興味をいだいた人々の研究によって、発展してきたのであるが、これらの人々は、新たな研究者をそだてようという組織だった努力はいっさいしなかった。医者や裕福なアマチュアが助手をやとって研究することもよくあったが、このうちのほんのわずかな人が雇主の研究をひきついだにすぎなかった。

4.A.   化学教育

しかし19世紀初頭に、このような無計画な化学教育体制に、変化がおこった。研究活動について長い伝統をもつドイツで、多くの地方大学が設立されたのである。ドイツの化学者ユストゥス・リービッヒがギーセン大学に創設した化学教室は、実験を通じて教育をおこなう、はじめての研究室として、ひじょうに成功をおさめ、世界じゅうから生徒をあつめた。まもなくドイツのほかの大学もこれにならうようになった。

化学工業が新しい発見を活用しはじめたまさにその時代に、わかい化学者の大きな一団がこのような訓練をうけていた。この新発見の活用は、産業革命の時代にはじまった。たとえば、炭酸ナトリウムの製造法であるルブラン法は、最初の大規模生産プロセスのひとつであるが、1791年にフランスで開発され、1823年初めにイギリスで商業化されたものである。そのような成長産業の研究室では、訓練された化学の学生を雇用し、また大学の教授を顧問にすることができた。

この大学と化学工業との関係は、両者に利益をもたらした。また、19世紀末にかけての有機化学工業の急速な発展は、ドイツの染料・医薬トラストを生み、これによってドイツは第1次世界大戦にいたるまで、これらの分野で科学的優位性を保持した。第1次世界大戦後、ドイツの体制は、世界じゅうの工業国に導入され、化学と化学工業はさらにいっそう急速に発展した。

より最近のいくつかの工業開発のうちでは、酵素反応プロセスの利用が増大している(→ 酵素)。これは、おもに低コストで高い生産性をあげることができるからである。現在の産業界では、遺伝子を変換した微生物を利用した工業的製造法の研究がおこなわれている(→ 遺伝子工学)。

5.   化学と社会

化学は、人間の生活に対して、ひじょうに大きな影響力をもっている。初期のころは、化学技術は、自然界に存在する有用な物質を単離し、その新しい利用法をみつけだすために活用された。19世紀になると、天然に産出するものよりもすぐれた性質をもつ、まったく新しい物質を合成したり、あるいは天然のものよりも安価に製造するための技術が開発されるようになった。合成化合物がより複雑なものになるとともに、貴重な用途をもつまったく新しい物質があらわれた。プラスチックや新繊維が開発され、また新しい医薬によって多くの病気が克服された。同時に、これまではまったく別の科学であったものが、たがいに連結しはじめている。これまで物理学者、生物学者、地質学者はそれぞれの独自の技術をそれぞれの手法で開発してきたが、各科学ともそれぞれの手法にしたがって、物質とその変化を研究しているのだということが明らかとなった。化学は、これらの各科学の基礎となっている。これらの科学の間に誕生した地球科学や生化学といった分野は、その生みの親であるそれぞれの個別科学に刺激をあたえた。

5.A.   環境問題への取り組み

近年の科学の発展はめざましい。しかし、責任がともなわなければ、この発展からえられるものはない。放射線の被曝をうけた人に癌を発生させ、その子孫に突然変異をおこす可能性がある放射性物質は、その危険性がもっとも明白な例である。また、かつては無害であると考えられた殺虫剤や、製造工程における副産物の、植物や動物の細胞中への蓄積がしばしば有害な作用をもつことが明らかとなった。これらの危険な物質は大量に生産され、ひろくまきちらされており、これらの物質を無害化する手段を開発することは、今や化学者に課せられた務めとなっている。これは、科学者が解決しなければならないもっとも重要な課題のひとつである。→ 環境問題

  
物理学
I.   プロローグ

宇宙を構成する基本的な要素と、それらの間にはたらく力の法則を明らかにし、これらの力によってつくりだされる現象を研究対象とする科学。近代物理学では、この3つの領域をつなげる方法論がとられ、対称性の法則やエネルギー、運動量、電荷、パリティの保存則などが論じられている。

II.   物理学の範囲

物理学はほかの科学の分野と密接に関係するだけでなく、それらと重なる領域をもっている。たとえば、化学では原子が相互作用によって分子を形成することをあつかうが、これは物理学の領域と重なる。

近代の地質学は大部分が地球の物理についての研究であり、地球物理学という言葉がつくられている。天文学は星や宇宙空間の物理学ということができる(→ 天体物理学)。

生体系も基本粒子からできていることに変わりはなく、生物物理学や生化学の研究においても、物理学であつかわれる粒子と同じ法則にしたがう粒子をあつかっている。

近代物理学では、微視的(ミクロ)な研究方法が重視され、粒子間の相互作用に焦点があてられるが、粒子系を全体としてあつかう巨視的(マクロ)な方法ももちいられる。巨視的な方法論は、物理学を工学に応用するときにとりわけ重要となる。

たとえば、熱力学は19世紀に発達した物理学の一分野であるが、系全体の性質をわかりやすくとらえたり、測定したりするので、現在でも有用なものとなっており、化学工学や機械工学の基礎をなしている。気体の温度、圧力、体積といった熱力学の概念は、個々の原子や分子には意味がない。粒子を大きな系でみたときに重要となる。

この微視的な方法と巨視的な方法との橋渡しをする物理学の分野が存在する。それが統計力学であり、圧力や温度が原子や分子の運動とどのように関係しているかを、統計の原理や手法によって明らかにする(→ 統計学)。

1.   現代の物理学

物理学が独立の学問になったのは19世紀にはいってからにすぎない。そのころに物理学の概念が確立し、物理学者という研究者も明確な立場をもつようになった。それまでは物理学を研究するのは数学者であったり、哲学者や化学者、生物学者、工学者であったり、なんと政治指導者や芸術家であったりした。

今日では物理学の領域はとても広くなったので、現代の物理学者は自分の関心を1つか2つの分野にかぎらざるをえなくなっている。また、1つ新しく基礎的なことが発見されると、そこに新しい分野が開け、新しい技術者や応用科学者があつまる。

たとえば電気や磁気の発見が、今日の電気技術や通信技術の研究分野をつくってきた。20世紀初めに解明された物質の性質から、エレクトロニクスの分野が形成されてきた。まだ50年の歴史があるにすぎない核物理学のいろいろな発見は、現在、応用原子力工学者の手にひきわたされ、核エネルギーの利用が研究されている。

III.   物理学の初期の歴史

物理的な現象をとらえる考え方は古代からあったが、はっきりとした学問として物理学が姿をあらわすのは19世紀になってからである。

1.   古代

バビロン、エジプト、メソアメリカ(中南米)では惑星の運動を観察し、食を予言していた。しかし、惑星の運動を支配する体系を発見することはできなかった。ギリシャ文明も新しいものを発見することはなかった。プラトンやアリストテレスの実験を軽んじた哲学でおわってしまったのである。

1.A.   ギリシャの物理学

しかし、ギリシャ文明の科学の中心となっていたエジプトのアレクサンドリアでは、わずかに進歩があった。ギリシャの数学者・発明家アルキメデスがてこやねじなどの実用的な器具を設計し、固体を液体につけることによって密度を測定することなどがおこなわれた。また、地球と太陽や月との距離を測定したサモスの天文学者アリスタルコス、地球の円周を決定し星の一覧表を作成した数学者・天文学者・地理学者エラトステネス、分点の歳差運動(→ 黄道)を発見した天文学者ヒッパルコス、地球が運動の中心であり、太陽、月、星が地球の周りをまわっているというプトレマイオス体系をきずいた天文学者・数学者・地理学者プトレマイオスなどがいた。

2.   中世

中世には古典的なギリシャ時代の理論が維持されただけで、物理学などの科学にほとんど進歩はなかった。アラブではイブン・ルシュドやイブン・アンナフィースなどの学者があらわれ、ヨーロッパでは13世紀から大学が建設されたが、物理学のような実験的研究は発展しなかった。たとえば、イタリアのスコラ派哲学者トマス・アクィナスは、プラトンやアリストテレスの理論が、聖書と矛盾していないことをしめそうと努力しただけであった。

だが、イギリスのスコラ派哲学者・科学者ベーコンは数少ない例外であって、科学的な知識の基礎として実験的方法を主張し、天文学、化学、光学、機械設計に関していくつかを実行してみせた。

3.   16世紀と17世紀

ルネサンスのあとに近代科学の時代が到来した。16世紀と17世紀の初めに、以下の4人が天体の運動についておこなった研究は、その前触れとなるものであった。ポーランドの自然哲学者コペルニクスは、惑星が太陽の周りをまわるという太陽中心説を唱道した。のちにコペルニクス体系とよばれ、プトレマイオスの天動説にとってかわる理論であったが、コペルニクスは惑星軌道が円であると信じていたので、体系の内容は、複雑なものになった。

デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは天動説を信じ、高い精度で一連の天体観察をおこなってそれを立証しようとした。しかしそのデータを活用したのは、助手のドイツの天文学者ケプラーであり、プトレマイオス体系をくつがえすとともにコペルニクスの太陽中心説を改良する3法則を確立することになった(→ ケプラーの法則)。そしてガリレイは、望遠鏡が発明されたことを聞いて自分でも望遠鏡をつくり、1609年から金星の位置を観察しつづけて地動説の正しさを確認した。ガリレイは月のあばた、木星の4つの衛星、太陽の黒点、銀河にある多くの星を発見した。

彼の関心は天文学にとどまらず、斜面や改良した水時計をもちいた実験で、重さのちがう物体も、アリストテレスの見解とちがって同じ速さでおちること、しかも速さの増加の割合は落下時間がたってもかわらないことを明らかにした。ガリレオの天文学上の発見や力学における業績は、17世紀のイギリスの数学者・物理学者ニュートンの研究に大きな影響をあたえた。

IV.   ニュートンと力学

ニュートンは23歳であった1665年を皮切りに力学の原理を確立し、重力の法則を定式化し、白色光を7色に分離し、光の伝播(でんぱ)についての理論をたて、微積分法(→ 微積分)を開発した。ニュートンの功績はきわめて広範囲の自然現象におよんでおり、ケプラーの惑星の運動法則もガリレイの落下物体に関する発見も記述できる、運動の法則と重力の法則をうちだした。そして彗星の出現を予言し、潮の満干(→ 潮汐)への月の影響を説明し、分点の歳差運動も説明してみせたのである。

1.   力学の発展

それ以後の物理学の発展は、ニュートンの運動の法則(→ 力学)、とくに、物体を加速するのに必要な力は質量と加速度との積であるという第2法則に負うところがひじょうに大きい。この簡単な法則は、もうひとつの重要な面をもっていた。つまり、物体はすべて本性として慣性を支配する慣性質量をもっており、それが運動に影響をあたえるということである。

2.   重力

ニュートンのもっとも大きな貢献は、重力をわかりやすく説明したことである。現在、科学者たちは自然界に重力以外に3つの力を知っているにすぎない。電磁気的な力、原子核内で陽子と中性子を結合している強い相互作用、ある種の素粒子間にはたらく弱い相互作用の3つである。

この自然界に存在する力という概念の理解は、重力の法則からはじまった。すべての粒子は重力質量とよばれる性質をもっている。重力質量によって、2つの物体はたがいにひきあう力をおよぼし、その力の大きさはそれぞれの重力質量の積に正比例し、2つの物体の距離の2乗に反比例する。

この重力が、太陽の周りの惑星の運動や地球の重力場を支配し、さらには星の一生の最終段階である重力崩壊の原因であると考えられている。→ ブラックホール:星

2.A.   重力質量と慣性質量

2物体間にはたらく力のひとつである重力質量は、物体が外力に反応して運動するときの性質をきめる慣性質量(→ 慣性)と、実質的に同じである。この同等性は、現在では実験的に1012分の1の精度で、その比が同じになることがたしかめられている。つまり、もしある物体の重量質量がもうひとつの物体の2倍であれば、慣性質量も2倍になる。

重力質量と慣性質量が同等であるということの重要性は、アインシュタインが相対性理論を確立したときに明らかになった。相対性理論では、重力場と加速されている座標系との間の区別をすることは不可能であるとされる。

2.B.   重力の大きさ

重力による力は、素粒子を考えると、自然界の4つの力の中でもっとも弱い。たとえば2つの陽子の間にはたらく引力は、同じ距離の陽子の間にはたらく静電力の1036分の1の大きさにすぎない。その静電力は、原子核内の強い相互作用よりはるかに小さい。巨視的な世界で重力が支配的である理由は2つある。ひとつは、巨視的な世界は1種類の質量しか知られていないので、1種類の重力による引力しか存在しないためである。地球のような大きな物体を構成している無数の素粒子にはたらく引力は、質量が加算されるとともに力も加算される。その結果、大きな力となる。もうひとつは重力は長距離にわたって作用するためである。2物体の距離の2乗に反比例して減衰するにすぎない。

これに反して、電磁的な力の源となる素粒子の電荷には、正と負と中性がある。反対符号の粒子のみがひきあい、同符号の粒子は反発しあう。したがって大きな複合体は電気的に中性となり、力がはたらきにくいものとなる。また、原子核の強い相互作用も弱い相互作用も、きわめて短距離の場合にはたらく力で、粒子間の距離が1兆分の1cm以上の大きさではほとんど作用しない。

重力はひじょうに弱い力なので、ひじょうに質量の大きな物体でないと観測しにくい。歴史的にも天体の運動をとおしてしか重力の法則は気づかれなかった。実験としては1771年になって、イギリスの物理学者・化学者キャベンディシュが大きな鉛の球をねじり振り子につけ、これがほかの物体におよぼす引力を測定したのが最初である。

2.C.   ニュートン力学

ニュートン以後の2世紀の間、力学についてくわしく検討がされ、方程式があらためられ、複雑な系に応用されたが、新しい概念が加えられることはなかった。

ニュートンは粒子のようにふるまう点に質量が集中している場合のみをあつかったが、スイスの数学者オイラーは、はじめて大きさのある剛体についての運動方程式を定式化した。

フランスのラグランジュやアイルランドのハミルトンなどの数理物理学者は、ニュートンの第2法則をもっと高度な方程式に再定式化した。同じ時期にオイラーや、オランダ生まれのスイスの科学者ベルヌーイなどがニュートン力学を拡張し、流体力学の基礎をきずいた。

3.   電磁気

電磁気現象に関する実験や応用がはじまったのは18世紀の終わりになってからであった。1785年、フランスの物理学者クーロンは実験によって電荷が重力と同じような逆2乗法則によってひきあったり反発しあったりすることを確認した。静電荷が空間に分布しているときの影響を計算する理論は、フランスの数学者ポワソンとドイツの数学者ガウスによって発展させられた。

3.A.   オームの法則

荷電粒子は、符号のちがう荷電粒子から引力をうけて加速されるが、運動する媒体に抵抗があれば、電荷はやがて定速運動におちつく。加速をつづけるためには起電力を加えつづけなければならないが、それはイタリアの物理学者ボルタが1800年に開発した化学電池によって可能になった。

ドイツの物理学者オームは電流と電池から供給される起電力との間には簡単な比例関係があることをみいだした。この比例係数が電気抵抗とよばれ、それは起電力、あるいは電圧を電流で割ったものであるというオームの法則が確立された。オームの法則は基本的な物理法則ではなくて、一定の物質において成立する法則にすぎない。

3.B.   電気と磁気

陽極と陰極の反対符号の磁極からなる磁性の研究は18世紀にはじまったが、クーロンの業績に負うところが大きい。しかし磁気と電気のつながりを最初に明らかにしたのは、デンマークの物理学者・化学者エルステッドの実験であった。電流のながれている電線の近くにおかれた磁石の針が振れることを、1819年に発見したのである。エルステッドの発見を知った1週間後に、フランスの科学者アンペールは電流がながれている2本の電線が磁極のように力をおよぼしあうことを実験でしめした。

1831年にはイギリスの物理学者・化学者ファラデーが、電池に電線をつながなくても、磁石を近くでうごかすか別の電流を近くの電線にながしてその強さをかえると、電線に電流が誘導されることをみいだした(→ 電磁誘導)。このようにして、電気と磁気が密接に関係していることが明らかになった。この関係は、電場あるいは磁場という概念をもちいるともっと明確に表現することができる。

静止した電荷は電場をつくり、電流、つまりうごく電荷は磁場をつくる。また変動する磁場は電場をつくり、変動する電場は磁場をつくる。電場は電荷に対して、電荷の大きさによってのみきまる力をおよぼすが、磁場は電荷が運動しているときにのみ、電荷に力をおよぼす。

3.C.   マクスウェルの方程式

これらの関係は、イギリスの物理学者マクスウェルによって正確な数学の公式にあらわされた。マクスウェルの方程式とよばれるこの式は、ある場所の電荷密度と電流密度と、その場所における電場と磁場の空間変化と時間変化をむすびつけたものである。電荷と電流分布がわかれば、どの場所、どの時間における電場や磁場も、この方程式によって計算することができる。

マクスウェルの方程式の解から、予測していなかった新しい種類の電磁場が予言されることになった。それは、加速されている電荷によってつくられ、電磁波の形をとって光と同じ速さでつたわり、源からの距離の2乗に反比例して減衰する電磁波である。1888年、ドイツの物理学者ヘルツは電気的な方法でこのような電磁波を発生させることに成功した。これは、ラジオ、レーダー、テレビ、その他の通信の基礎となるものであった。→ 電磁放射

電磁波の中における電場や磁場の振る舞いは、ぴんと張られた長い弦が一端をはやい速度で上下にうごかされているときの振る舞いに、きわめてよく似ている。弦のどの部分も、振動源と同じ周期で上下運動をする。しかし源からの距離がちがうと、振動の位相は少しずつちがっており、最大の変位をおこす時間もずれている。弦のすべての点は同じような運動をするが、隣の点と少し時間的におくれた、あるいはすすんだ運動をする。→ 振動:波動

4.   光

光が直進することは古代から知られており、古代ギリシャ人は光が粒子の流れであると考えていた。しかし、光の本性がしっかり理解されるまでには長い年月を要した。光の本性を明らかにする理論は、光の起源、消滅、いろいろな媒体を通過するときの速さや方向の変化などを説明できるものでなければならない。

ひとつの答えは、17世紀にニュートンによって粒子説として提案された。それに対して、イギリスの科学者フックやオランダの天文学者・数学者・物理学者クリスチャン・ホイヘンスは、波動説にもとづいた説明をこころみた。2つの理論の検証は、19世紀初期にイギリスの物理学者・医師トマス・ヤングが干渉の実験をおこなったのが最初である。フランスの物理学者オーギュスタン・フレネルも光の回折による実験をおこない、波動説に有利な結果をえた。

4.A.   光の干渉

干渉を観察するには、光源の前に細いスリットをおき、それよりはなれて2本の平行スリットをおき、この2重のスリットの後ろにスクリーンをおいておく。スリットの像がスクリーンにうつしだされると、明るい帯と暗い帯が等間隔にならんだ像があらわれる。同じ源からでた光が、粒子であれば、2つのスリットを経由してスクリーンに到達したときに場所によってちがう強度をしめすことはないであろうし、まして粒子が相手をうちけして暗い場所をつくることはありえないであろう。しかし、光が波であれば、このような像を生みだすことができる。

4.B.   光速

光の速さを最初に測定したのは、1675年、デンマークの天文学者レーマーである。木星の衛星でみられる食と食の時間間隔に変化がおこるのは、地球と木星との距離が変化しているため、光が地球に到達する時間に差ができるからであると考えたのである。

レーマーの測定結果は、のちにフランスの物理学者フィゾーにより改良された方法による測定結果や、アメリカの物理学者マイケルソンらの測定結果とかなりよく一致している。現在では真空中における光の秒速は正確に29万2792kmであるとされている。→ 光学:スペクトル:真空

4.C.   エーテル説

マクスウェルの電磁理論は、光が電磁波であり、電場と磁場が波のように振動していると考えることによって、光の理解に近づくのに重要な貢献をした。マクスウェルの理論はみえない光の存在を予言し、今日では電磁波は0.01ナノメートル(nm)の波長をもつガンマ線(→ 放射能)から、X線、可視光、マイクロ波、電波、さらに数百キロメートルの波長をもつ長波までのスペクトルをもつものであることが知られている。

また、マクスウェルの方程式は、媒体中の光の速度と、物質の電気的、磁気的性質との関連づけを可能にした。しかしこの方程式は、媒体について正しい理解をあたえるものではなかった。当時は水、音、弾性波などの経験にあわせて、光をつたえる媒体としてエーテルが想定されており、質量のない、真空中もふくめてどこにでも浸透するものが存在すると思われていた。このエーテルを探求することが、19世紀末の科学者たちの関心事であった。

4.D.   マイケルソン=モーリーの実験

地球がエーテルに対してうごいているとすると、地球の運動方向にむかって測定した光の速度と、運動と直角の方向にはかった光の速度にどの程度の差がでるかという疑問を当然にも生みだした。アメリカの物理学者マイケルソンとアメリカの化学者エドワード・モーリーが1887年におこなった、マイケルソン=モーリーの実験は、この疑問の答えをみつけようとする実験であった。

しかし実験の結果、差をまったく検出できなかった。この実験によって物理学は窮地においこまれることになる。そこから脱出することができたのは、1905年のアインシュタインの相対性理論によってであった。

5.   熱力学

19世紀に物理学で大きな比重を占めた分野は熱力学であった。それまでは混乱していた熱と温度の概念を解きほぐし、意味のある定義にまとめなおし、純粋な力学的概念の仕事やエネルギーと、それらがどのような関連をもつかが明らかにされた。→ 熱の伝達

5.A.   熱と温度

熱い物体か冷たい物体にふれたとき、ちがった感覚がよびおこされ、これが温度に対する主観的な概念にむすびついている。物体に熱を加えると、溶解や沸騰がおこっていないかぎり温度が上昇する。

温度のちがう2つの物体を接触させると、一方から他方に熱がながれ、やがて両者の温度が一致して熱平衡が達成される。熱を加えたりのぞいたりしたときに、物体のはっきりした性質が変化する現象を利用して、温度の尺度としてきた。

たとえば圧力が一定にたもたれた液体の柱の長さは、熱を加えると増加する。物体や系の物理的性質と温度との関係を数学的にあらわしたものが状態方程式である。理想気体についての状態方程式は、圧力p、体積V、分子数n、絶対温度Tとすると、pV=nRTとあらわせる。ここでRはすべての理想気体について共通の定数である。イギリスの物理学者・化学者ボイルの名前をとったボイルの法則や、フランスの物理学者・化学者ゲイ・リュサック、シャルルの名前をとったゲイ・リュサックの法則、シャルルの法則のすべてが、この状態方程式の中にふくまれている(→ 気体)。

5.B.   熱素説の否定

19世紀にはいってからも、熱は熱素とよばれる質量のない流体であると考えられていた。熱素説は、温度測定や熱量計について初期にみられた疑問に答えることができたけれども、19世紀初めに明らかになってきた多くの実験結果を説明することはできなかった。

熱と他の形のエネルギーとの正しい関係に気づいたのは、イギリス系アメリカ人の物理学者・政治家ランフォード(ベンジャミン・トンプソン)で、大砲の砲身に穴を開ける作業で発生する熱量が、なされた機械的仕事にほぼ比例することをみいだした。仕事とは、物体にはたらく力と、力をうけながら物体が移動した距離との積のことである。

5.C.   熱力学の第1法則

熱と仕事が同等性をもつことは、ドイツの物理学者ヘルムホルツとイギリスの数学者・物理学者ケルビン(ウィリアム・トムソン)によって、19世紀の半ばまでに明らかにされた。

同等性とは、ある系に仕事を加えることによって、熱を加えたときとまったく同じ効果を生みだすという意味である。たとえば、容器にはいった気体に熱を加えて温度を上昇させるのと同じように、容器の中を羽車でかきまわし、仕事を加えることによっても温度を上昇させることができる。この同等性をしめす熱の仕事当量の値は、イギリスの物理学者ジュールの実験によって1845年に最初に測定された。

5.D.   エネルギー保存則

このように、ある系に熱を加えたり仕事をおこなったりすることが、その系にエネルギーを移動することであるということがわかってきた。したがって、熱や仕事によって加えられたエネルギーの量は、系の内部エネルギーの増加をもたらす。その内部エネルギーが、系の温度を決定するのである。もしも内部エネルギーがかわらないならば、系になされた仕事は系からにげた熱に等しくなければならない。これが熱力学の第1法則であり、エネルギー保存則のひとつの表現である。内部エネルギーの分子的な意味が明らかになるのは、気体運動論が研究されるようになってからである。→ 保存の法則

5.E.   熱力学の第2法則

熱力学の第1法則はエネルギーの保存則であるが、それだけではすべての形の機械的エネルギーや熱エネルギーが交換できるかどうかについてはわからない。エネルギーの全体としての変化は1方向にしか進行しない。これを最初に定式化したのは、フランスの物理学者・軍事技術者ニコラス・カルノーであった。

カルノーは1824年、熱エンジンには熱源となる熱い物体と熱の放出に必要な冷たい物体が必要であることを明らかにした。エンジンが仕事をするとき、熱は熱い物体から冷たい物体に移動しなければならない。逆のことをおこそうとするには、機械的あるいは電気的な仕事が必要となる。したがって、冷蔵庫が連続して運転されるためには、冷凍室から熱をうばうために(ふつうは電気で)仕事を加え、(ふつうは背面にあるひれ状コイルで)熱を周囲に放出しなければならない(→ 冷凍)。カルノーのこの考えがのちに熱力学の第2法則として定義された。

5.F.   エントロピー

ドイツの数理物理学者ルドルフ・クラウジウスは、エントロピーという熱力学的変数を導入して、巨視的な系が平衡状態、つまり完全な内部的無秩序といかに近いかをあらわした。エントロピーをもちいると、熱力学の第2法則は、孤立した熱力学的な系ではたえずエントロピーが増大方向にのみ変化する、とのべることができる。エネルギーの変化は、エントロピーが増大する方向にのみおこるのである。エントロピーが最大に達したとき、系はもはや内部変化をおこさない。

局所的には、外部からの作用によってエントロピーをさげることができる。冷蔵庫などの機械では冷蔵室のエントロピーはさがり、生物体においてもエントロピーはさがっている。しかしこのような局所的なエントロピーの減少は、周囲でのエントロピーの増大をともなってはじめて可能なのである。周囲ではいっそうの無秩序がつくりだされているはずである。

第2法則が普及するにつれて熱力学は新しい進歩をとげ、化学工業、電気工学、空調や低温学などに応用されていった。

6.   気体運動論と統計力学

原子についての近代的な概念は、イギリスの化学者・物理学者ドルトンによって1808年に提案された。物質が気体を構成している状態での分子の存在は、イタリアの物理学者・化学者アボガドロによって11年に仮説としてだされた(→ アボガドロの法則)。しかしアボガドロの仮説は、約50年後に気体運動論が形成され、その基礎として分子の概念がつかわれるまでうけいれられなかった。

気体運動論をそだてたのはマクスウェル、オーストリアの物理学者ボルツマンなどである。気体運動論とは、個々の粒子に力学の法則と振る舞いについての確率的分布を適用し、気体全体の性質を統計的に予測する方法論である。これによって、分子の平均的運動エネルギーが、系の巨視的な熱力学的な量である温度と直接に関係していることが明らかになったのである。

7.   初期の原子、分子理論

ドルトンの原子理論やアボガドロの法則は、化学の発展に大きな影響をおよぼした。そして物理学にとっても重要な意味をもった。

7.A.   アボガドロの法則

アボガドロの法則とは、温度と圧力が一定である気体の同じ体積中には、気体の種類に関係なく同じ数の気体分子がふくまれるというものであり、気体運動論によって容易に証明された。しかしこの気体の数は20世紀にはいるまで明らかにならなかった。

20世紀初めに、アメリカの物理学者ミリカンがアボガドロ定数を正確に決定した。これは、ちょうど分子量の重さになる気体の中にふくまれる分子の数である。

7.B.   原子の大きさ

原子の大きさをはかろうとしてさまざまな試みが19世紀後半におこなわれたが、成功しなかった。のちにX線、アルファ粒子、原子より小さい粒子による散乱をつかった実験によって、原子の大きさについて10-8~10-7cmという値がえられている。しかし、厳密にいうと原子の大きさを定義するのは簡単ではない。ほとんどの原子は球形ではないし、原子は状態によって形をかえるからである。

7.C.   分光学

原子の内部構造の探究をうながし、古典物理学からの脱皮に大きな役割をはたしたのは分光学であった。

7.D.   ヘリウムの発見

1823年、イギリスの天文学者・化学者ハーシェルは、気体状態の物質が放出する光のスペクトル線を分析することによって、化学物質を特定できることを明らかにした。つづいてドイツの化学者ブンゼンと物理学者キルヒホフが、きわめて多くの物質についてスペクトルの一覧表をつくった。

太陽のスペクトル線の中に説明のつかない線があることから、1868年にイギリスの天文学者ロッキャーはヘリウム元素を発見した。しかし、分光学がもっとも大きな貢献をしたのは、いくつかのスペクトル線しかしめさない水素のような単純な元素についての研究であった。→ 化学分析

7.E.   連続スペクトル

気体からの線スペクトルとは対照的に、加熱された固体からのスペクトルは、可視光全域および赤外、紫外に広がる連続スペクトルをもっている。→ 赤外線:紫外線

放出されるエネルギーの総量も、光の波長分布も、固体の温度に強く依存する。たとえば鉄片を加熱すると、最初は赤外線を放射するので放射は目にはみえない。やがて可視光のスペクトルをしめすが、スペクトルのピークが赤から可視光の中央に移動するにしたがって鉄の色は赤から白色に変化する。

19世紀末の物理学の知識でこのような固体の放射特性を説明すると、どのような温度においても放射の量は振動数が高いほど際限なく多くなるという結論になってしまう。これは観測に反するのみならず、有限温度の固体が無限の放射エネルギーを放出するという矛盾がでてきてしまう。こうして、放射理論、ひいては原子理論に新しい理論が必要となった。

8.   古典物理学の崩壊

1880年ころ、ほとんどの物理現象はニュートン力学とマクスウェルの電磁理論と熱力学と、ボルツマンの統計力学で説明できるように思われていた。エーテルの性質や、固体や気体の放射スペクトルの説明など、いくつかの問題が未解決でのこっているだけにみえた。しかし、この未解決の問題はじつは革命の前触れであった。

19世紀の最後の10年間に、物理学者によるおどろくべき発見の数々がもたらされたのである。1895年のドイツのウィルヘルム・レントゲンによるX線の発見、95年のイギリスのJ.J.トムソンによる電子の発見、96年のフランスのベクレルによる放射能の発見、87~89年のドイツのヘルツ、ハルバックス、フィリップ・レーナルトによる光電効果の発見、さらには、マイケルソン=モーリーの実験結果、陰極線の発見が加わって、それまでの物理学ではもはや説明のつかない事実がつきつけられた。

V.   近代物理学

20世紀の最初の30年間にあらわれた物理学の2つの新展開、つまり量子論と相対性理論が、不可解な実験結果に説明をあたえ、新しい発見を生みだし、物理学の理解を今日のものに変革した。

1.   相対性理論

速度uで走っている列車の中をAが前方に速度vで歩いているとする。地面に立っているBに対するAの速度は単純にV = u + vとあらわされる。しかし、もし列車が駅に停車していてAが前方に速度vで歩いていて、観測者Bが反対方向に速度uで歩いていたとすると、このときもAとBの相対速度は前述の場合とまったく同じになる。もう少し一般的にいうと、もし2つの系がたがいに一定の速度でうごいているとすると、ある現象を観測したときどちらの観測者に対しても物理的に同じ現象が観測される。しかしマイケルソン=モーリーの実験では、光の場合この速度の単純な足し合わせを確証することができなかった。

アインシュタインは相対論の中で、どの慣性系でも光の速度は一定であるということをとりいれ、さらに空間と時間に対する直感的な考え方が不完全なものであることをしめし、それらを考えあらためた。理論の結果として、2つの系がたがいに静止しているときそれぞれ同じ時間をきざんでいる時計は、相対運動をおこなっていると異なった時間をきざみ、2つの系がたがいに静止しているとき同じ長さである棒は、相対運動をおこなっていると異なった長さになる。空間と時間はたがいに四次元時空体で密接に関連しあっているのである。

相対論によると、質量とエネルギーは等価なものである、ということと物体の速度は光の速度をこえることはできない、ということがしめされる。ニュートン力学は地球上で運動している典型的な速度の物体の物理現象を記述するのには有用であるが、光速に対して無視できないような速度で運動している物体の物理現象は相対論で記述されなければならない。

質量mとエネルギーEの関係はさらに重要である。これらの関係はE = mc²であらわされ、cが大きいのでこのエネルギーの量は莫大なものとなる。この物質の質量が減少することにより莫大なエネルギーがえられることは、原子力発電所や核兵器、太陽などの核反応で重要である。

1905年に発表されたアインシュタインの論文は特殊相対論として知られていて、それは系がたがいに等速運動をおこなっている場合の理論である。15年に彼は等価原理とよばれる仮説を定式化し一般相対論をつくりあげた。これは系が加速運動をおこなっている場合の理論である。それによると重力は空間と時間の幾何学としてあらわされ、太陽のような重い物体の側をとおりすぎる光線はまげられることをしめし、19年に実際に観測された。一般相対論は特殊相対論ほど確立されていないが、宇宙の構造や進化を知るうえで欠かすことのできないものである。→ 宇宙論

2.   量子論

固体から放出されるスペクトルについての解答は、最初ドイツの物理学者プランクによってなされた。

古典理論によれば、固体を構成する分子の振動は温度に依存する振幅でおこり、あらゆる振動数の振動が可能である。それが電磁波に変換されるときには連続スペクトルをしめすはずであった。

しかしプランクは、分子の振動体は不連続なとびとびのエネルギーをもった塊として電磁波を放出しているという大胆な仮説を提出した。これは今日、量子、電磁波の場合には光子(フォトン)とよばれている概念である(→ 量子論)。

光子はそれぞれ、固有の波長λをもっており、そのエネルギーはE = hfとあらわされる。ここでfは光の振動数である。波長λは振動数とλf = cの関係でむすびついている。hはプランク定数とよばれている普遍的な物理定数であり、振動数をヘルツであらわしたときに、ひじょうに小さな値6.626 × 10-27エルグ秒という値になる。

プランクはこの仮説をもちいて黒体放射の実験結果を説明してみせた(→ 黒体)。またプランクの仮説は、ほぼ1世紀にわたり優勢であった光の波動説に対して、光の粒子説をもちこむものであった。

3.   光電効果

金属表面に電磁放射をあてると、負の電荷をもつ電子が金属表面から放出される。この光電効果の現象で重要なのは次の2点である。(1)放出される個々の光電子のエネルギーは、照射の振動数によってのみきまり、強度には依存しない。(2)電子放射に必要な最低振動数をうわまわっているかぎり、電子放射の割合は照射の強度によってのみきまり、照射の振動数には依存しない。光電子は照射が表面に到達するとすぐに発生する。この現象は、マクスウェルの電磁波理論では説明することができない。

1905年にアインシュタインは、光は量子、つまり光子の形でのみ吸収され、光子は吸収されるとそのエネルギーE(= hf)を金属の中の電子にあたえて自分は消滅するという仮説をたてた。この単純な仮説にたって、アインシュタインはプランクの量子理論を電磁波の吸収現象に応用し、光の波動と粒子の両面性についてさらに一歩あゆみをすすめた。アインシュタインはこの業績によって21年のノーベル物理学賞を受賞した。

4.   X線

レントゲンによって発見されたひじょうに透過力の強い光線は、波長のきわめて短い電磁波であることがドイツの物理学者マックス・フォン・ラウエらによって解明された。

X線の発生する仕組みが量子効果であることがしめされた。1914年にはイギリスの物理学者ヘンリー・モーズリーがX線分光写真をつかって、ある元素の原子番号、したがって原子の正電荷の数が、周期表におけるその元素の順番と同じであることをしめした(→ 周期律)。

5.   電子物理学

電荷がきわめて小さな粒子によってになわれていることは、すでに19世紀に想像されていた。また電気化学実験によれば、素粒子の電荷は一定不変の量であった。気圧の低い気体をとおしての電気伝導の実験によって、2種類の粒子線が発見された。ひとつは気体放電管の陰極からでる陰極線であり、もうひとつは陽極からでる陽極線である。

イギリスの物理学者J.J.トムソンは1897年、陰極線粒子の電荷qと質量mの比を測定した。99年、レーナルトは光電粒子のqとmの比が、陰極線のものと同じであることをみいだした。アメリカの発明家エジソンは、83年に熱電放射を発見していたが、99年、トムソンはこれも同じqとmの比をもった粒子であることをしめした。

1909年ころ、ミリカンがついに電荷はすべて基礎単位eの整数倍であるという規則をみつけ、eの値を測定して、1.602 × 10-19クーロンであると発表した。測定されたqとmの比から、電子とよばれる電荷の担い手の質量mは、9.110 × 10-31kgであると決定された。

やがてJ.J.トムソンなどによって、陽極線もまたeの正の電荷をもつ粒子であることがしめされた。しかしこれらの粒子は、中性の原子から電子がうばわれたイオンであり、電子よりもはるかに重い質量をもっていた。もっとも小さい水素イオンでも質量は1.673 × 10-27kgであり、電子の質量の1837倍になる(→ イオン:イオン化)。

6.   原子模型

1911年、ニュージーランド生まれのイギリスの物理学者ラザフォードは、新しく発見された放射性原子核をつかって新しい原子モデルを発表した。それまでのトムソンの原子模型は正と負の電荷が均一に分布しているものであるが、放射性原子についてはもはや適用できないことがわかったのである。

ラザフォードに先だって1903年、長岡半太郎は土星の環の研究にヒントをえて、中心の原子核の周りを衛星である電子がまわっているという「土星型原子模型」を東京数学物理学会で発表している。

ラザフォードはアルファ粒子を原子核にあてることによって、重い正の電荷が原子の中心部に集中して存在していることを明らかにし、重い原子核の周りを軽い電子が軌道運動しているという太陽系のような原子模型を提唱した。しかし、マクスウェルの理論にてらせば、このような原子構造は安定ではなく、回転運動する電子は電磁放射によってエネルギーをうしない、軌道はたちまち崩壊してしまうはずであった。

6.A.   ボーアの原子模型

ここでも古典力学からの脱皮が必要だった。それをなしとげたのはデンマークの物理学者ボーアであった。ボーアは、原子の中には電子が安定してまわることのできるとびとびの軌道が存在すると仮定した。この軌道は定常状態とよばれ、軌道電子の角運動量がプランク定数を2pで割った量の整数倍という条件で決定される。このように量子化を力学にまで拡張することによって、ボーアは軌道半径とそれに対応するとびとびのエネルギー準位を計算することができた。

このボーアの原子模型は、ドイツ系アメリカ人の物理学者フランクとドイツの物理学者グスタフ・ヘルツによって1913年に実験的にたしかめられた。ボーアの原子模型はまた、古典力学では説明できなかった水素のスペクトルを正確に説明することもできた。

ボーアの原子模型は拡張され精密化されていったが、まだ、1個以上の電子をもつ原子のスペクトルを説明できなかったし、水素原子の場合にもスペクトル線の強度を説明することはできなかった。

7.   量子力学

ほぼ1924~30年に、原子より小さい粒子に適用できる力学について、まったく新しい方法が発展した。量子力学、あるいは波動力学とよばれる力学で、フランスの物理学者ド・ブロイが24年、電磁波だけではなく物質もまた粒子性と同時に波動性をもつと提唱したことからはじまった。この仮説は27年に電子と結晶の相互作用によって確認された。

ひきつづいて、ドイツの物理学者ハイゼンベルク、ドイツ系イギリスの物理学者ボルン、オーストリアの物理学者シュレーディンガーなどが数学的な定式化をおこない、古典力学ではあつかえなかったさまざまな問題の解明を可能にした。

量子力学の発展にはさらに、粒子固有の角運動量スピンの発見と、それに関連した排他原理の確立、物理量の精密な決定には限界があることをしめした不確定性原理の発見が重要な役割をはたした。また、1928年、イギリスの数理物理学者ディラックは量子力学と相対論を結合した体系をつくり、陽電子の存在を予言した。

ふつう、量子力学は微視的な水準で適用される力学であるが、固体結晶の性質のような巨視的な現象でも、量子力学ぬきには説明できないものもある。

8.   原子核の構成

原子構造の理解は、1896年のベクレルによるウラン鉱の放射能の発見によって促進された(→ ウラン)。それから数年のうちに、放射能にはアルファ線、ベータ線、ガンマ線の3種類があることが明らかになった。98年、フランスの物理学者キュリー夫妻は、ウラン鉱からラジウムとポロニウムという放射性の強い2つの元素を分離し、放射能は特定の元素から発せられることを明らかにした。

1902年ラザフォードとイギリスの物理化学者ソディは、アルファ線やベータ線をだした元素が別の原子にかわることを発見した。この発見により、ラザフォードやボーアの原子模型がつくられるきっかけとなったほか、アルファ線、ベータ線、ガンマ線の放射能はひじょうに重い元素の原子核からでていることも明らかになった。

1919年、ラザフォードは窒素原子にアルファ粒子を衝突させ、水素と酸素をつくりだした。これが人類が最初におこなった原子核の人工的な転換であった。

8.A.   中性子の発見

原子核の正の電荷が、水素原子の原子核を構成している陽子からくることがやがて明らかになるのであるが、質量分析器の発達にともないさまざまな原子核の質量が知られて、電荷をもたない粒子の存在が予測されるようになった。

1932年、イギリスの物理学者チャドウィックは陽子より少し重く、電気的に中性な中性子を発見した。こうして、原子核は陽子と中性子でできていると理解されるようになった。並行して、元素には中性子の数が異なる多くの同位体が存在することが知られるようになった。

正の電荷をもつ複数の陽子が、電気的な強い反発力をうけながらそれにうちかって原子核内で結合しているのは、核力とよばれる強い引力が存在するからである。この力は化学結合に関与する電気的な結合エネルギーにくらべて数百万倍も強力なものである。

また原子核の質量変化をともなう原子核反応は、アインシュタインの方程式E=mc²によって莫大なエネルギーの出入りをともなう。原子核反応の結果、質量が減少するときにそれにみあったエネルギーが放出される。→ 核エネルギー

VI.   1930年以後の物理学の発展

20世紀の最初の30年間における基礎物理学の発展とその後の技術の進歩、とりわけコンピューター、エレクトロニクス、原子核エネルギー(→ 核エネルギー)の応用、高エネルギー粒子加速器(→ 加速器)の進歩によって、この数十年間に物理学は急速な発展をみた。

1.   加速器

ラザフォードら初期の原子核研究者たちは、原子を探究する方法として自然放射性物質からでる高エネルギー放出を利用するしかなかった。人工的に高エネルギー放出をえる方法はイギリスの物理学者コッククロフトとアイルランドの物理学者アーネスト・ウォルトンによって1932年にみいだされた。

彼らは、高圧発電機をつかって陽子を約70万電子ボルト(eV)まで加速し、リチウムに衝突させヘリウムに変換したのである。

1電子ボルトは、電子を1ボルトの電圧で加速させたときのエネルギーであり、1.6 × 10-19ジュールに相当する。現代の加速器は100万電子ボルト(MeV:メガ電子ボルト)、10億電子ボルト(GeV:ギカ電子ボルト)、1兆電子ボルト(TeV:テラ電子ボルト)という大きなエネルギーを発生できる。

1.A.   サイクロトロン

アメリカの物理学者バン・デ・グラーフによって1931年に発明されたバン・デ・グラーフ起電機は、高エネルギーを生みだす最初の装置で、その後、アメリカの物理学者ローレンスらが発明したサイクロトロンによって、陽子が10MeVまで加速されるようになった。

それよりも高いエネルギーは、第2次世界大戦後、アメリカの物理学者エドウィン・マクミランとソ連の物理学者ウラジミール・ベクスレルの考案によるシンクロトロンの開発によってえられるようになった。

→ 加速器

2.   粒子検出器

素粒子の検出や分析は、最初は写真乳剤を感光させる力や蛍光材料をひからせる効果を利用しておこなわれた。イオン化された粒子の飛跡を最初に観察したのはイギリスの物理学者チャールズ・ウィルソンで、霧箱がもちいられた。

霧箱では、通過する粒子によってイオンがつくられ、これに水滴が凝縮して目にみえるものとなる。電場や磁場をかけると粒子の飛跡がまげられ、それが粒子の性質を分析するのに利用された。

1952年、アメリカの物理学者ドナルド・グレーザーは、霧箱よりも進歩した泡箱を発明した。空気ではなくて液体、ふつうは液体水素をもちいて、粒子の飛行によってひきおこされる液体の沸騰を利用したものである。空気よりも液体のほうが密度が高いので、粒子が媒体と相互作用しやすいことがその利点であった。50年代になって放電箱が開発されると、さらに検出性能はあがった。

2.A.   ガイガー・ミュラー計数管

これらとは別の原理の検出器として、放電計数管が20世紀初期に発達した。ドイツの物理学者ハンス・ガイガーが開発の中心となり、のちにドイツ系アメリカの物理学者ウォルター・ミラーによって改良された。今日ガイガー・ミュラー計数管として知られるものである。1947年にはドイツ系アメリカの物理学者ハートムート・カルマンらにより高速で便利なシンチレーション計数管が開発された。

→ 粒子検出器

3.   宇宙線

1911年ごろ、オーストリア系アメリカの物理学者ヘスは地球大気の外で形成される宇宙放射が、地球の磁場によって形づくられた模様をえがいて到着することを発見した(→ 宇宙線)。

宇宙線は正の電荷をもち、おおむね1~1011GeVのエネルギーをもっている(ちなみに、加速器で人工的につくられるもっとも速い粒子は30GeVでしかない)。地球をまわる軌道に閉じこめられた宇宙線は、バン・アレン帯という放射帯を形成している。バン・アレン帯は1958年にうちあげられた人工衛星での観測により発見された。

3.A.   宇宙線の起源

第1次宇宙線の陽子が大気圏にはいると、窒素や酸素と衝突して多数の2次粒子を発生し、地球にむかって宇宙線シャワーをあびせる。宇宙線の陽子の起源はまだじゅうぶんに明らかになっていない。太陽やほかの星からくるものがあるが、高速の陽子が加速される仕組みはわかっていない。弱い銀河系の電場が、遠距離の飛行の間はたらきつづけて高エネルギーを生みだすという可能性はある。→ 銀河

4.   素粒子

加速器、粒子検出器の開発、宇宙線研究の進歩は、素粒子物理学の急速な発展をもたらした。電子、陽子、中性子、光子につづき新しい粒子の発見があいついだ。

1932年、アメリカの物理学者アンダーソンは、28年にディラックの予言した反電子、つまり陽電子を発見した。宇宙線にふくまれているひじょうに高いエネルギーのガンマ線を重い原子核の近くでとめると、純粋なエネルギーから電子と陽電子との対(ペア)が発生することを発見したのである。陽電子はそのあと別の電子と衝突すると、フォトンを放出して対消滅によって電子とともに消滅する。→ 素粒子

4.A.   ミュー粒子の発見

1935年、日本の物理学者・湯川秀樹は、正電荷をもつ陽子どうしが強く反発しあうにもかかわらず、原子核が強く結合している理由を説明するために、電子と陽子の中間の質量をもつ中間子の仮説を提出した。

1937年、アンダーソンらは2次宇宙線の中に電子の質量の約200倍もある新しい粒子を発見した。今日ではミュー粒子とよばれているが、最初これが湯川理論の原子核を結合している「のり」ではないかと考えられた。

つづいて、やはり2次宇宙線の中に、イギリスの物理学者セシル・パウエルらが電子の270倍の新粒子を発見した。今日、パイ中間子とよばれるこの粒子が、湯川理論の粒子であると判定された。

それ以来、2次宇宙線の研究と大型加速器による実験によって多くの新粒子が発見されてきた。これらの粒子は総称して素粒子とよばれている。

もともと宇宙の構成の基礎をなす粒子として考えられた素粒子が、このように複雑多岐にわたるものとわかった今、素粒子物理学は、素粒子のさらに基本構造を明らかにする必要にせまられている。

素粒子の内部構造に関する理論には、素粒子がクォークからなるという理論がある。クォークは電子の電荷よりも小さい電荷をもつ粒子である。たとえば陽子は3つのクォークからなっている。

この理論は、最初アメリカの物理学者ゲル・マンとジョージ・ツワイクによって提案され、多くの現象を説明することができるが、まだクォークそのものは分離されていない。宇宙の創生期のような極端な条件においてしか、クォークは分離された存在として放出されることはないといわれている。

4.B.   統一場の理論

素粒子間の相互作用、またクォークが存在するとすればクォーク間の相互作用は、困難な研究課題である。これまででもっともすすんでいる理論は、ゲージ理論である。ゲージ理論においては、2種類の粒子間の相互作用は対称によって特徴づけられる。ゲージ理論は原則的にどのような力の場においても適用できる。これは、すべての相互作用、つまり自然界のすべての力がひとつの統一場理論に統合される可能性があることを示唆している。必然的に対称の概念を考えにいれなければならないが、しかし、対称は数学的には優雅であっても、それだけでは背後に存在している本性の理解にはいたらない。現在の物理学の最先端の課題が、そこにある。

5.   原子核物理学

1931年、アメリカの物理学者ハロルド・ユーリーは水素の同位体の重水素を発見し、それから重水をつくった。重水素の原子核である重陽子は、原子核反応をひきおこすための照射用の原子核としてすぐれている。

フランスの物理学者ジョリオ・キュリー夫妻は1933、34年にはじめての人工放射性元素をつくった。これにより、放射性同位体の生産ができるようになり、考古学、生物学、医学、化学などさまざまな科学に応用することが可能となった。

5.A.   核分裂の発見

イタリア生まれのアメリカ人物理学者フェルミらは、ウランに中性子をあててウランよりも重い元素をつくることに成功した。現在では少なくとも12個の超ウラン元素がつくられてきた。

これら一連の研究の初期に、きわめて重要な発見がなされた。あるウランの原子核は、2つの原子核に分裂することがわかったのである。このことは、イレーヌ・ジョリオ・キュリー、ドイツの物理学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマン、オーストリアの物理学者リーゼ・マイトナー、そしてイギリスの物理学者オットー・フリッシュが確認した。

ウランの分裂と同時に、質量がエネルギーに転換され、巨大なエネルギーが放出される。また、いくつかの中性子が放出される。つまり連鎖反応によって核分裂が持続し、エネルギーを放出しつづけることが可能であるということである。

フェルミらは、1942年に連鎖反応をおこすのに成功し、最初の原子炉が運転された。連鎖反応に関する技術は急速に発展し、アメリカの物理学者オッペンハイマーの指揮のもとに45年には最初の原子爆弾が生産された。また、電力をとりだすための発電用原子炉は56年にイギリスで運転が開始され、7800万ワットを供給した。→ 核兵器:核エネルギー

5.B.   核融合

星のエネルギー源の研究によって、原子核物理学はさらに発展した。ドイツ系アメリカ人の物理学者ハンス・ベーテは、星の内部では数百万度の温度で一連の核反応がおこっていることを明らかにした。4つの水素原子核が1つのヘリウム原子核になり、2つの陽電子と巨大なエネルギーが放出される。この核融合の過程は、ハンガリー系アメリカの物理学者エドワード・テラーの指導のもとに、水素爆弾に応用された。水素爆弾開発は1952年に成功したが、核融合に必要な高温は核分裂によってつくりだされた。

現在平和利用の目的で、核融合エネルギーを制御された形でとりだすことに努力がかたむけられている。1993年12月、プリンストン大学のトカマク融合実験炉から、制御された核融合反応によって560万ワットの出力がえられたことが報告された。しかしこの実験装置では、発生したエネルギーよりも運転に要したエネルギーのほうが大きかった。日本でも現在、日本原子力研究開発機構が大型トカマク型核融合実験装置JT60をつかって実験をすすめている。

→ 核エネルギー

6.   固体物理学

量子力学の発展は固体物理学に新しい光をあて、理論と応用の両面において急速な進展をもたらした。固体の多くは、原子が規則的に配列している(→ 結晶)。結晶の配列は、固体を構成する個々の原子や分子の間にはたらく力の種類によってきめられる。

食塩(→ 塩)として知られる塩化ナトリウムのような場合は、イオンの間にはたらく電気的な力がイオン結合を生みだしている。ダイヤモンドの場合は共有結合とよばれる力がはたらいている。

ネオンのような不活性ガスには、ドイツの物理学者ファン・デル・ワールスの名にちなんで名づけられたファン・デル・ワールス力が結合力となる。金属では、個々の原子の束縛から解放された自由電子が、固体のすべての原子に共有されて結合力をつくっている(→ 金属組織学:金属)。

結晶の量子理論は、幅のあるエネルギー帯(エネルギー・バンド)が形成されることを明らかにした。エネルギー帯理論(バンド理論)によって、結晶体のさまざまな性質が説明できるようになった。アメリカの物理学者ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテン、ウィリアム・ショックレーが開発したトランジスターは、バンド理論の成果を代表する例である。

7.   低温学

量子力学はまた、低温学の進歩とあいまって、極低温における新しい現象の解明とその応用に貢献した。20世紀初頭にオランダの物理学者カメルリン・オンネスは極低温の技術を開発し、水銀の超伝導を発見した。水銀は約4K(ケルビン:絶対温度)(→ 温度)で電気抵抗をうしない、電流が永久にながれつづけるのである。超伝導を説明する量子論はBCS理論といい、結晶中における電子対の振る舞いに基礎をおいて展開する。BCS理論は、それを生みだしたアメリカの物理学者ジョン・バーディーン、レオン・クーパー、ジョン・シュリーファーの頭文字をとって命名されたものである。

8.   プラズマ物理学

原子が1つ以上の電子をうばわれてイオン状態になり、それが電子と共存して巨視的には電気的中性をたもっている状態がプラズマである。イオンの発生は、外部からの高速電子による砲撃、レーザーによる照射、気体を超高温に加熱することによってえられる。プラズマ状態についての物理学は、現代物理学のさまざまな分野、たとえば核融合、天体物理学、宇宙物理学などと密接な関係をもちながら、独自の研究分野となっている。

9.   レーザー

レーザーはLight Amplification by Stimulated Emission of Radiation(誘導放出による光の増幅)の頭文字をとった言葉であるが、近年の物理学が生みだした大きな成果のひとつである。1950、60年代に急速に進歩し、アメリカの技術者・発明家ゴードン・グールド、物理学者チャールズ・タウンズ、セオドア・メーマン、アーサー・ショーローが発展に貢献した。50年代にソ連でも、ニコライ・バソフとアレクサンドル・プロホロフが誘導放出の増幅に関する研究論文を発表している。レーザーの利用範囲はきわめて広く、研究分野であれ技術分野であれ、欠くことのできないものとなっている。応用分野は通信、医学、航海、金属学、核融合、金属加工などに広がっている。

10.   天体物理学

特殊設計の大型望遠鏡が建設されるようになり、クエーサーなど新しい天体が発見され、宇宙の構造についてよりくわしい理解がえられるようになった。電磁波をもちいて観測をおこなう電波天文学は、パルサーや宇宙背景放射など、望遠鏡とは別の重要な発見をもたらした。

すべての物質が最初は1つの場所に存在し、150億年前にそれがビッグバンとよばれる爆発をした、この爆発の影響によって宇宙は今も膨張している、とされている。

しかし最近、宇宙では銀河が均一に分布してはいないという謎にみちた事実が明らかになった。巨大な空白の空間が、ひものような形をした銀河の群れと境を接しているのである。この空白の空間やひもの分布模様は、カオス理論でつかわれるような非線形数学(→ 線形と非線形)の解析によって解き明かされるかもしれない。→ 宇宙論:インフレーション理論

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最終更新:2007年11月18日 18:50