早○田の食客 ◆3zWaseda2A氏による文藝春秋2009年7月号書き起こし その1


わが政権構想 猛獣小沢をこう使う 
死にもの狂いで政権交代を実現し、私が総理になる 鳩山由紀夫(民主党代表)
                                構成:角谷浩一(政治ジャーナリスト) 

五月十六日の民主党両院議員総会における代表選挙を経て、民主党の新しい代表に就任させていただきました。
小沢一郎前代表(現代表代行)の辞任を受けて行われた代表選挙に、前執行部で幹事長を務めていた私が立候補したのは、来るべき総選挙で腐敗しきった自民党政治に終止符を打って、国民のための政治を行う政権交代を実現すためには、私が先頭に立って、挙党一致の民主党を確立しなければならないという強い思いがあったからです。

幸い、多くの方からの支持をいただいて当選することができましたが、対立候補の岡田克也さんにしても、その思いは私と全く同じだったと思います。私も岡田さんもお互い敵だと思って戦ったわけではありません。
五五年体制以降、細川、羽田両連立政権の一時期を除いて半世紀以上続いてきた自民党政権こそが最大の敵であるという点については、当たり前のことですが、私たちの思いは一致していました。だからこそ、政権交代を実現するために、岡田さんに幹事長をお願いしたのです。

もちろん、自民党が長年続けてきた、上から目線の政治、官僚主導の政治を、いまこそ変えなければならないという気持ちが、岡田さんのみならず民主党の誰より強いという自負が私にはあります。政権交代は、私が天から与えられた使命だとあるとさえ思っています。

先日行われた麻生太郎首相との党首討論において、自民党と公明党による連立政権は、“官僚の言うなり政権”だということが、図らずも明らかになりました。
麻生政権の背後には巨大な霞ヶ関の官僚組織が控えていて、言葉では政治主導、官僚主導とは言っているけれども、官僚主導政治から全く抜け切れていない。
党首討論をやってみて、改めてその紛れもない現実を痛感しました。だからこそ、自公政権では駄目なんです。
麻生政権は「官から官へ」だ
今回、政府が国会に提出して成立した15兆円にも上る補正予算にしても、官僚の天下り先の団体に巨額の予算をつけたり、ハコモノ建設を復活させたりして、民間に回るのは1兆4000億円しかありません。15兆円のたったの1割です。
なぜこんな馬鹿げた補正予算がまかり通るのかといえば、麻生政権が官僚の言うなりだからです。

民主党の若いメンバーが中心になって調査をしたところ、4500の天下り団体に25000人の官僚が天下っているという事実もわかりました。
しかも、その団体に毎年国の予算が12兆1000億円も投入されています。
まさに官僚任せ、官僚擁護の政治を行っているのが麻生政権です。

これでは、かつて小泉純一郎首相時代に盛んに使われたキャッチフレーズの「官から民へ」ではなく、「官から官へ」です。
つまり、麻生政権は、相も変わらず、タックス・イーターのための政治を行っているのです。
私たち民主党は、タックス・ペイヤー、つまり税金を払っている一人ひとりの国民のための政治をしたい。
上から目線の政治を排して、国民目線の政治を行いたい。私は党首討論でそう主張しました。
すると、麻生首相は、「官僚バッシングだけやってもうまくいかない。
(民主党が政権を獲るつもりなら)公務員をやる気にさせるような方法を考えておかないと、とても役人、公務員は動きませんよ」と、政権交代を目指す私たちに“忠告”までしてくれました。

笑止千万です。まさに、上から目線の麻生首相らしい答えだなと思いました。
政権担当能力のない民主党に官僚は使いこなせない、と言いたかったのでしょう。
しかし、本当に麻生首相は自分たちが官僚を使いこなしていると思っているのでしょうか。
使いこなしているどころか、使われているのが実態です。
麻生首相は、私が申し上げた国民目線の政治という言葉を捉えて、国民目線と言うなら、国民の最大の関心事は小沢代表代行への西松建設からの献金問題だ。と強い口調で言及しました。
しかし、私が、西松建設から献金を貰っていた議員は自民党にもたくさん居るのではないかと質問しても、麻生首相は問題をすり替えてしまい、自民党議員の問題については全く答えませんでした。
小沢代表代行の秘書が逮捕された後に、漆間巌官房副長官が「自民党には捜査が絶対に及ばない」と発言して問題になりましたが、検察を含めた官僚組織は自分たちの味方であるという認識かあるからこそ、そうした発言ができるのでしょう。
自民党の政治家と官僚の持ちつ持たれつのなれあいの関係を、政府高官自らが端無くも吐露してしまったわけです。

もちろん、西松建設からの献金問題については、国民の皆様からも民主党に厳しい批判をいただきました。
私たちも謙虚にそれを受け止めなければなりません。

まず、違法性の問題ですが、これは小沢一郎と検察に逮捕・起訴された公設秘書の問題であり、両人とも違法性は全くないと認識しているわけです。
これは今後、裁判が開かれる中で明らかになっていくと思います。

次に、政治家としての小沢一郎氏の説明責任の問題がありますが、私が幹事長時代に設置した第三者委員会において、すでに小沢一郎氏に対するヒアリングは終えています。
近いうちに委員会から報告書が出される予定になっています。
今内容を知ることはできませんが、国民の皆様にはぜひその報告書を見ていただきたいと思います。

それと同時に、国民の政治への信頼を取り戻すために、私たちは企業・団体献金の禁止と世襲の制限を行うことにしました。
これは岡田幹事長は本部長を務める党の政治改革推進本部で決定したことですが、企業・団体からの献金については、パーティー券の購入も含めて、三年後には完全に禁止する。
また、いわゆるダミー団体、政治団体からの献金についてはいますぐに禁止する。
世襲に関しては、同一選挙区から三親等以内の親族は出馬できないことを党規で定めることにしました。
私は小沢氏の傀儡になることは絶対にない
もう一つ、麻生首相は小沢さんが代表代行に就いたことも批判しましたが、この機会にぜひ、私が何故小沢さんを代表代行にしたのかをお話ししたいと思います。

小沢さんは、三年前の偽メール事件の責任を取って前原誠司代表が辞任したことを受け、代表に就任しました。
それまでの民主党は、何か問題が起きたときに代表を代えてより若い代表、執行部にしていくというところがありました。
若い顔が前面にでてくれば、国民の支持を得られるのではないかと考えてきたのですが、そこに大きな落とし穴があったわけです。
我も我もと、次は俺の時代だという思いが強すぎて、結果として深刻な事態を引き起こしてしまった面があります。

政治的にクリーンであっても、ややもすると若さや脆さが出てしまい、国民に強い民主党の姿を見せることができないでいる。
当時は、党内にそういうもどかしさがありましたがありました。その反省の上に立って、民主党を再生させるために、小沢さんという極めて経験が豊富で、ある意味もっとも民主党らしくない政治家に民主党の重石になってもらおう。
三年前に私も含めてそう判断したわけです。

そして、小沢さんが代表になった直後の衆院千葉七区の補選では、前評判を覆して民主党候補が勝利することができました。
一昨年の参院選や昨春の衆院山口二区の補選でも勝利し、いわば国政選挙では連戦連勝でした。
これは、それまでの民主党には決してなかったことで、小沢民主党時代に民主党が地力をつけることができたことは率直に認めなければなりません。
むしろ、大いに評価しなくてはならないと思います。

私が新代表に就任した後、冒頭にも申しましたが、私の天命は政権交代を成し遂げることだという強い思いがありました。
従って、そのためには最強の布陣で総選挙に臨むべきだと考えました。
そうしたとき、民主党にとって小沢さんの手腕をどこでも発揮してもらい、活用すればいいか、やはり、小沢さんがもっとも得意とする選挙を担当してもらうしかないと考え、選挙担当の代表代行に就いてもらいました。
当然、鳩山は小沢の傀儡ではないかという批判が起きることも予想していましたが、そのようなことになることは絶対にない。傀儡になるつもりなど、毛頭ありません。
むしろ、剛腕とか猛獣とかいうふうに評される小沢さんの力を活用できるのは自分しかいない、私はそう自負しているくらいです。

オーケストラに例えるなら、私は全体を指揮するコンダクターです。
自分がピアノを弾いたりヴァイオリンを弾くことはできません。
それぞれの奏者の能力を最大限に引き出し、不協和音を出さずに、美しい、それでいて力強いハーモニーを奏でてもらう。それが私の役割です。

新執行部の顔ぶれを見て、以前とほとんど変わらないではないかという指摘もあります。
小沢代表、菅直人代表代行、幹事長だった私、輿石東参院議員会長(代表代行兼務)の四人に、岡田さんが新たに加わって、5人になったわけですが、以前とは明確に役割が違います。
これまで党全体のことを見ていた小沢さんは、いまは連日地方行脚を繰り返していて、選挙の現場を歩いています。自分の役割を忠実にこなしています。

幸い、私が新代表に就任した直後に行われたマスコミ各社の世論調査では、私と麻生首相のどちらが首相にふさわしいかという問いに、多くの方が私の名前を挙げて下さいました。
西松建設の問題で民主党の支持率は一時的に下がりましたが、信頼を取り戻すために発した私たちのメッセージが国民に届き始めたのだと思います。
5月下旬に行われたさいたま市長選挙でも、民主党県連が支持した新人候補が自民党の県連と公明党県本部が推した現職候補を破りました。
新体制となった民主党への機体が戻ってきていること、政権交代を望む民意を強く感じました。
この勢いを総選挙まで持続し、さらに高めて行く努力を続けていかなければなりません。
私が自民党を離党した理由
私は代表戦出馬を表明した会見や代表戦当日の候補者演説、そして麻生首相との党首討論の場でも、「友愛社会の建設」と自身の政策理念として掲げました。

私は1986年に自民党から出馬して初当選しましたが、93年に自民党を離党して新党さきがけをつくって以降、「友愛」という言葉をずっと言い続けてきました。

初当選のときの首相が中曽根康弘さんでしたが、その中曽根さんから、友愛なんてソフトクリームのように甘くて、夏が来ればすぐに溶けてしまうようなものだと、揶揄されたこともありました。

私たち一年生議員を集めて中曽根さんが挨拶をした時に「一年生議員の最大の目的は二年生議員になることだ」と言われたことがあります。
私は、政治家としてどんな政策を立案すればいいのか、どういう仕事をして国民に奉仕すればいいのか、そう意気込んでいましたから、拍子抜けしました。

また、自民党では一年生議員は全員、国会対策委員会の副委員長という肩書きがつくのですが、国対委員長から「君たちは予算委員会の穴埋め要員だ。先輩議員が欠席したら君たちが代わりに出席するように」と言われました。
つまり、一年生は雑巾掛けをしながら、次の選挙で当選することだけを考えろというわけです。
そして、二回、三回と当選して行くにしたがい、党の部会長や国会の委員会委員長、政務次官というポストを与えられていく。
五回・六回当選すれば大臣になる。逆に言えば、当選回数を重ねれば誰でも大臣になれるのです。
そのシステムに誰も疑問を持っていない。これは五五年体制以降、自民党が長期政権にあぐらをかいてきたから成り立つシステムです。
当時、最大野党だった社会党もその現状を半ば是認していました。
「こんな政治でいいのか」、私は、そうした永田町の論理に強烈な違和感を抱きました。
そんなとき、88年にリクルート事件が起きて、国民の政治の不信が高まり、私たちは自民党の若手でユートピア政治研究会というグループをつくり、政治改革の必要性を訴えました。
その後、政治改革には二大政党制を実現する小選挙区制度に移行するしかないと考え、自民党を飛び出しました。

私たちは政治家という職を捨てる覚悟でしたし、政治改革という大義のもとでは、さきがけも過渡的なものに過ぎないと考え、2010年までの時限政党にしようと申し合わせました。つまり、政党すらも捨てる覚悟だったのです。

小沢さんたちは私たちより4日遅れて自民党を離党し、新政党を作りましたが、小沢さんたちは経世会という派閥の中で抗争があってそれで飛び出した面が強い。
私たちさきがけが離党の触媒となって、小沢さんたちの行動になったのかもしれません。
いずれにしろ、自民党を離党した動機は違いました。

小沢一郎との16年間
振り返れば、それ以降の16年間、私と小沢さんの政治活動は様々な場面で交錯してきました。
93年8月、8党派の連立政権となった細川政権で私は官房副長官を務めました。
小沢さんは新政党の代表幹事という立場で閣外にいましたが、当時は小沢さんは私のことなど目もくれませんでした。
結局、細川政権は8ヶ月余りで終焉を迎えましたが、国民福祉税騒動で閣内がぎくしゃくしてしまったのが大きな原因の一つです。
あのとき首相官邸に新生党の人が入っていれば、もう少し意思疎通が図れたのではないかと思います。

当初、官房副長官には小沢さんの当時の側近だった二階俊博さんが就くという話もありました。
官邸には官房長官に武村正義さん、首相特別補佐として田中秀之さんが入り、私が官房副長官では、官邸がさきがけのメンバーに埋め尽くされてしまう。

組閣当日の朝、細川護煕首相にはそう進言したのですが、もう決めてしまったと言われた。
そもそも8党派というガラス細工のような脆い連立政権の中心を一部の政党だけで占めてしまったことが、失敗の本質だったと思います。
細川政権がもう少し長く続いていれば、自民党はもっと早く崩壊していたでしょう。
しかし、私にとってあの8ヶ月の経験はとても大きな教訓にもなっています。
連立政権を作る時に政党間の和を保つことがいかに大切か、そのためにどういう人材配置をするべきか、本当に多くのことを学びました。
その後、自社さ連立政権を作る経て、96年に私は菅直人さんと一緒に民主党(旧民主党)を作りました。
細川政権の崩壊で私たちと袂を分かった小沢さんは94年に新進党をつくっていましたが、結局、97年に新進党も解党することになります。
その後、紆余曲折を経て、2003年に小沢さん率いる自由党と民主党が合併したわけですが、この合併を仕掛けたのが、私と小沢さんでした。

細川政権以降、違う道を歩んできた小沢さんと私がなぜ和解したのか。
逆に言えば、小沢さんが私のことをなぜ認めてくれたのか。

2002年5月、私の軽井沢の別荘に小沢さんに来てもらったときに、小渕内閣で自自公連立政権を作ったことは間違いだったと、小沢さんが素直に認められたのです。
小沢さんは、自分自身に確固とした信念があれば、自民党と連立してもその信念を政策的に実現できると思っていたが、現実はそうではなかった。
結局、自民党の幹部たちに騙されていたことに気づいて連立を離脱することにしたのだと、そういう思いを吐露されたんです。

その瞬間、私の中から過去の小沢さんへのわだかまりが消えていきました、さきがけ時代には、とてもこの人にはついていけないと思っていましたが、自自連立の失敗という経験を通じて小沢さんは劇的に変わっていました。

それまでの小沢さんには、自分と意見の合わない人たちを排除してきた歴史がありました。
しかし、党内を融和させ大きな政党を作って政権を目指さない限り、自分たちの政策は実現できない、そういうふうに小沢さんは考え方を改められたのです。
それで私は、民主党という政党を大きく脱皮させるために小沢さんに賭けてみようという思いで、合併論者に大きく転向していったのです。
民主党に蔓延していた小沢アレルギー
ところが、当時に民主党の中にはまだまだ小沢アレルギーが蔓延していて、相当の反発が起こりました。
民由合併はなかなか一筋縄では進まず、私は党内の混乱を招いたとして、代表を辞任することを余儀なくされました。

結局、私の後任の菅直人代表時代にようやく民由合併が実現したわけですが、あのとき、自由党との合併を望んでいた民主党議員がどれだけいたかといえば、もしかしたら過半数の方は反対だったのかもしれません。

残念ながら、今回の西松建設の問題が起きた当初も、やはり合併したのは間違いだったのではないか、という声が上がりそうになりました。

ですが、結果としてみれば、党内から大きな反発はあったけれども、あのときの大きな賭けに成功したのだと、いまあらためて強く思います。
付け加えれば、西松建設の問題も、民主党という政党がさらに大きく生まれ変わるために天が与えた試練だったのだと思います。

小沢さんが代表を務めた三年間の功績は、選挙に勝ち続けたことだけではありません。
「国民の生活が第一」というキャッチフレーズを作り、国民に分かりやすい政治を目指すという姿勢は一貫していました。
地方を行脚して国民の懐に飛び込むという姿勢は、これまでの民主党議員にはいささか欠けていたところでもあり、若い議員や候補者を本当に鍛えてもらいました。

いま民主党は、小沢代表時代に作成したマニフェストの原型を踏襲しながら、友愛社会を建設するという私の考えも反映して、
より精緻で国民目線のマニフェストを作るべくサ行をしています。

いま、日本に欠けているのは、社会における絆です。
小泉首相時代に行われた構造改革によって、日本人が古くから大切にしてきた絆はずたずたにされてしまいました。
アメリカ流の新自由主義が持て囃され、市場原理主義で日本経済を代えていくことが、さも正しい改革であるかのように吹聴された結果、非正規雇用者は増大し、格差が拡大しました。
郵政民営化の結果、過疎地の郵便局が次々となくなっていき、その地域に住む人たちは大変な不自由を強いられています。
弱肉強食でも悪平等でもない第三の道がある
ホリエモンや村上ファンドなどによるマネーゲームが脚光を浴びたのも小泉政権でのことでしたが、その結果、日本はどんな社会になってしまったのか。
強いものが勝ち残り、弱いものは切り捨てられる。つまり、弱肉強食の社会になってしまったんです。
こうした社会では、人の幸せをうらめしく思い、人々はどうやって自分が生き残るかを考えるようになります。
だから、建築偽装や食品偽装という問題が起きたのではないでしょうか。
嘘をついても自分さえよければいい、相手のことなど考えない。そんなすさんだ社会に絆はありません。
だからこそ、私は生活は第一という主張を改めて掲げたいのです。

国民一人ひとりが自分の居場所を見出して、自分が社会の役に立っていると実感できるような社会、人の幸せを自分の幸せと感じられるような社会を作りたい。それが、私の唱える友愛社会なのです。

私の祖父、鳩山一郎は、昭和28年に作った友愛青年同志会の綱領に「われらは自由主義の旗の下に友愛革命に挺身し、左右両翼の極端なる思想を排除して、健全明朗なる民主社会の実現と自主独立の文化国家の建設に邁進する」と書きました。
いまこそ、この友愛の精神を生かした政治を私の手で成し遂げたいのです。

戦後の日本は、中央集権国家の元で高度経済成長に突き進み、自民党もその歴史の中である程度の役割を果たしてきました。
しかし、その過程で中央から地方に仕事やお金を与えるというシステムが出来上がり、いつの間にか、公共事業など特定のところにしかお金が回らなくなる悪平等が生じてしまった。
みんなが中央に媚を売って仕事やお金をもらおうとする、いわば、おねだり型の資本主義になってしまった。

小泉元首相はその悪平等を排するために構造改革を唱えた面もあったと思いますが、逆に弱肉強食のほうに舵を切りすぎました。
自由と平等という二つの精神が行き過ぎると、弱肉強食と悪平等になる。
私はそのどちらでもない、第三の道があると考えています。
それは、これまで公が果たしてきた役割を、ある程度、地域の人々やボランティアの方々に任せることによって、なし得るのではないかという考え方です。
今の官僚主導の政治は、何でも政府に任せる、政府のやることには間違いがないという発想です。
しかし、政府に任せればコストがかかる。それは、我々の税金が増えるということです。

党首討論のなかで、私は教育のことを例にとって、二百人のボランティアがエントリーしている小学校のことを紹介しました。
この学校では、20人のクラスに先生が1人と3.4名のボランティアの教師がいて、生徒一人ひとりに個人指導を行い、細かな目配りができるような仕組みをつくっています。
団塊の世代で教職をリタイアされた方々がボランティアとして活動しているわけです。子供たちはもちろん、ボランティアの方々も自分が社会の役に立っているという満足を得られます。
他人の幸せが自分の幸せに繋がり、そこに絆が生まれる。

教育現場では、教員の数が足りないという声が多いですが、教員を増やせばコストがかかります。
ボランティアを活用することでコストを減らすことができ、なおかつ、活動を通じて喜びが得られる。
これは教育に限らず、医療や介護、福祉、環境など、様々な分野で実現可能ですが、今の霞ヶ関の官僚にそんな発想はまったくありません。

地方分権の問題にしても、小泉政権時代に行われた三位一体の改革など、地方に権利を分けてやるぞという、まさに上から目線の手法でした。
三位一体の改革とは、国庫補助金の廃止・縮減、税財源の移譲、地方交付税の一体的な見直しの三つを指しますが、結局は、補助金を大幅に減らしす一方で地方に移譲された権限はわずかだけでした。
中央官僚が自らの天下りのために無駄遣いしてつくった借金が増えすぎたから、財政再建のために地方に回すお金を減らそうという発想です。
私は、友愛社会においては、真の意味での地域主権が極めて大切だと考えています。
これは我々が政権を獲っても憲法改正を経ないとすぐにできることではないかもしれませんが、地域のことはすべて地域で行う、地域でしっかりと財源を見出して計画を立て、それを実現していく社会を将来的につくっていきたいと考えています。

友愛社会実現のために政権交代を実現する
私は96年に旧民主党をつくった際に、民主党の基本理念の中で、将来あるべき国の姿として、「小さな中央政府・国会と、大きな権限をもった効率的な地方政府による《地方分権・地域主権国家》が実現し、 そのもとで、市民参加・地域共助型の充実した福祉と、将来にツケを回さない財政・医療・年金制度を両立させていく」と述べましたが、その時と私の考えは変わっていません。

むしろ、当時は友愛社会の建設といっても、理念が先行していて具体的にどういう社会かというイメージがまだ明確に描ききれていませんでした。
しかし、10年以上も友愛を唱え続けてきて、私の中でその具体的なイメージがかなりはっきりと見えてきているのです。

私が目指す友愛社会を建設するためには、まずは来る総選挙で自民党を破り、政権交代を必ず実現しなければなりません。
ですが、政権交代はスタートラインです。

政権交代の暁に私が総理大臣に就任したなら、それこそ総力戦で自民党政治ともたれあってきた霞ヶ関の官僚と戦わなければなりません。
そのときはもちろん、小沢さんにももう一働きしてもらうつもりです。