邪馬台国議論
2ちゃんより
237 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/09/12(日) 06:37:40
俺は、なぜ、皇室が欠史八代のところを
隠したかったのか、なんとなしに分ってきたけどな。
これは、卑弥呼擁立の切欠となった倭国大乱が大きな原因だわな。
あと、魏志倭人伝の邪馬台国の時代ってのは
倭国では漢字は広くは普及していなかったが
倭国政府の官僚の間では、中国王朝との外交の必要性から
漢字を使える人は、それなりにいたと思われる。
というか、西暦1世紀頃の新の王蒙の通貨が
岡山で多く発掘されるぐらいだしな。
中国の通貨が発掘されるぐらいだから
漢字なり、中国の事情にも詳しい人間はそこそこいたと思うよ。
こういうふうに考えたら、これまで長年、描きつけてきた
弥生時代のイメージとは、かなり変わったイメージになる。
273 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/09/12(日) 14:41:51
結局どっちも予算獲得のために
こっちだこっちだと言い合ってるだけの出来レース・・・とか言ってみる
274 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 14:48:32
まあ、奈良を掘ってる学者は奈良から資金貰ってるわけで・・・
275 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 14:51:46
東国原が金出せば九州説を唱えて掘り出す学者も出て来るだろう
金が出る場所がメジャーになるだけ
芸能界と変わらない
290 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/09/12(日) 20:26:40
神武東征、神武東征というが、
そもそも、日本書紀や古事記には、神武天皇という人物は登場しない。
神武天皇という名前は、記紀が書かれた数十年後に
後から送られた名前である。
記紀に登場するのは、ワカミケヌという名の日向出身の豪族。 しかも、彼の曾祖父のニニギは、葛城の高天(高間)の出身。
このことの意味を理解すれば、皇室の創世記の謎が誰にもわかる。
291 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 20:34:43
>>290
日向出身の豪族 + 曾祖父のニニギは葛城の高天(高間)の出身
一貫性がない話にしか聞こえんがな
292 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/09/12(日) 20:47:24
>>291
そこが大きな謎だw
そもそも、ニニギの時代に出雲国譲りがあったw しかしながら、出雲国譲りというのは、 出雲と葛城を舞台にした話なんだけど 大国主が天孫に降伏したあと、なぜか、天孫ニニギは 九州南部の高千穂に移り住むわけだ。 地理的にみて、あべこべだろう? なぜ、出雲を降伏させたニニギが、 宮崎・鹿児島に移住しないと駄目なのか?
奈良県御所市高天の高天彦神社ってのがある。 延喜式で名神大社とされた神社。 そこに、天孫ニニギは、この高天の地から 九州南部の高千穂へいったという社伝がある。
ここから、皇室が隠したかった謎が解けてくる。 それは、播磨国風土記、旧事本紀にも、 出雲国譲りの痕跡があったということ。 ただし、そこでは主役は、ニニギではなく、ニニギの兄のホアカリであり、 彼が、義理の父親(妻の父親)の大国主を負かす話になっている。 このホアカリ、別名を天照国照彦といい、これは、天津と国津の両方の支配者 って意味になる。つまり、高天原も出雲も両方をたばねたという意味。 男の太陽神アマテルとは、彼のことなのである。
337 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/13(月) 00:00:03
東征っつうか移民だったんだろ
北九州世界の拡大現象がおこっただけ
アメリカだって、インディアンを責めるために大西洋渡ったわけじゃねえ
ヨーロッパの鼻つまみが新大陸に逃げてきただけ
でも、アメリカで勢力拡大する上で局所的に在来民族との戦闘があった。
それを東征っつってるだけだろ、どうせ
フロンティア精神だなんだって勇ましいが、逃げただけなんだよ
神武とか物部の系譜も似たように北九州からくいっぱぐれて
畿内に越してきただけなんだよ、はじめは交易もするし、血もまざるが、
でも拡大するにしたがって在来民と一定の衝突があった。
その歴史にすぎんと思うのだが
ただ、アメリカとのちがいは混血率の高さ。
弥生系と縄文系の血ってのは割と混ざり合るらしくて
西日本では弥生系の比率が高いらしいんだわ
日本最古の水田跡は縄文式土器で溢れてるそうだけど
日本語の形成からも考えて、在来種の言葉が主軸になっている
にもかかわらず、血で言えば弥生系が西日本を圧倒していると言っていい。
これは、はっきしいって、渡来人が暫時的に訪れて、宿借りて、繁殖したとしか思えんよ
338 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/09/13(月) 00:00:08
弥生時代は輸入鉄器で九州
古墳時代以降は国産鉄器で山陰
397 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/13(月) 18:50:16
魏志倭人伝によると、
もともと倭王は建国以来に男王の時代が続いたが やがて、倭国大乱がおこって、女王卑弥呼を共立して収まった。 この「共立」って言葉は、同時期の中国で使われたのをみると いずれも、ある王朝の中で家督争いが起こって、家臣によって 一人の王族が国王にたてられケースのみ。 中世以降の日本で例えるのなら、 南北朝時代(皇室内の皇位継承争い)や応仁の乱(足利家内部の将軍職争い)みたいなもん。
つまり、倭国大乱も、ヤマト王家内部の家督争いでしょう? ちなみに、卑弥呼がモモソ媛命ならば、倭王=祭祀王であり、 実際の政治をおこなっていた俗世王のような存在が、イニエ命(崇神天皇) では、卑弥呼が擁立される前、倭国大乱が起こる前に 男王のよって継承されていた倭王の地位は...祭祀王の地位だと思われ。 この祭祀王の王統は、何者なのか? ここがカギ。 神武~崇神の前までの天皇は、俗世王であって、祭祀王(正統な倭王)ではないと思われ。
398 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/13(月) 18:58:32
つまり、倭国の王制は、祭祀王と俗世王の二元体制だったと思われる。
後の天皇と征夷大将軍、あるいは欧州のローマ教皇と神聖ローマ皇帝の関係に似ている。
律令体制後の日本の官僚制度も、神祇官と太政官とにわかれ、
神祇官も太政官とも、中臣氏(大中臣氏と藤原氏)が支配したが
西暦3世紀ころの倭国では、トップの王自体が、祭祀王と俗世王にわかれていた?
435 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 00:06:57
なかなか、ここで文字で説明してやっても、わからんものだなw
地図なり、系図なりで、説明すれば、一発で分るんだけどなw
高天の原ってのは、平安時代までは、普通に 葛城地方のあたりというのが公式見解だった、京都朝廷では。 だからこそ、延喜式なんかでも、御所市高天の高天彦神社が 名神大社に指定されている。 高天原伝承の神社は日本全国各地にあるが ほぼ古い記録のものほど、葛城地方に集結しているんだわな。 というか、葛城地方にしか、高天原神話の由来の神社は存在しない。 たとえば、九州にある高天原伝承の神社なんて、 12世紀以降とか、後世に作られたものが殆どなんだわな。 つまり、中世くらいになると、古代の記憶が忘れ去られたわけだな。 そういう意味で、天武天皇の目論見は大成功だったと思われる。
436 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 00:09:07
古事記・日本神話の伝承地~高天原史跡ガイド奈良県御所市から
http://takama.sakura.ne.jp/
710 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 06:21:55
最近はあまり銅鐸文化圏・銅矛文化圏って言わなくなったけど
俺はやっぱりあったと思うんだな
そりゃ今では各地で銅鐸も銅矛も出土するようになったけどさ やっぱり出土する割合が全然違うんだよね
じゃあなんで銅鐸文化圏・銅矛文化圏って言わなくなったんだろうね?
それはね、この時代に二つの文化圏があっては困る人たちがいるからなんだよ そう、それは邪馬台国=畿内説の人たちなんだ
だってそうだろ? 畿内の勢力が九州の勢力の地元を通って大陸に行くことなんてできっこないんだから
環壕集落も九州には大規模なのがいくつも発見されているのに 畿内では規模と時代が怪しいのが最近やっとちょっとだけ見つかっただけなんだから
銅鏡だって勾玉だって圧倒的に九州でたくさん出土しちゃってるんだ そう、三種の神器はみんな九州が起源ってことになっちゃう
これで畿内と九州が異なる勢力だってことになったら 邪馬台国=畿内説としては大打撃なわけ
南九州の熊襲となんか対立しようがないの だって間に別の勢力がいるんだからね
もうね、必然的に邪馬台国=九州ってことになっちゃう
だから最近は銅鐸文化圏・銅矛文化圏って言わなくなっちゃったんだよ
712 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 06:32:41
邪馬台国が畿内にあったとしたらさ
勢力の拡大のしかたがバランス悪いんだよね
西や南には遠方まで勢力を拡大してるのに 東や北にはちっとも手を伸ばそうとしないの
いきなり銅鐸も捨てちゃうし、もうわけがわからない
でもね、もし邪馬台国が九州にあったなら、話は簡単 南の熊襲を服従させ、三種の神器をもった征服者が銅鐸文化圏を配下に納めながら東遷 畿内に辿り着いて西日本の統一を達成
ここに大和朝廷が誕生したってわけ
東遷の理由は大陸の勢力から距離をとりたかったからかな?
713 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/09/18(土) 06:42:42
当時の邪馬台国は狭いよ。
岐阜(美濃)、福井南部、滋賀、三重、奈良、京都少々
その程度。
大阪すら範囲外、そこが狗奴国だからね。
754 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 09:32:25
卑弥呼の国は、もともと、男王の時代がつづいていたんでしょう。
その男王もまた、卑弥呼と同じで祭祀王だったはず。
一方、卑弥呼(モモソ媛命)時代の崇神天皇は、
祭祀王ではなく、実際の政治を粉う俗世王だったと思われ。
だとしたら、神武~崇神までは、祭祀王ではなく、俗世王だったはず。
ということは、神武とか欠史八代のころ、これらの天皇は
実際の政治をおこなう俗世王だったが、
倭王家の祭祀を継承する正統な倭王は、別にいたことになる。
765 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 10:08:57
魏志倭人伝をみれば分るが
男王の時代が数十年~倭国大乱~卑弥呼共立~再び男王~台与擁立
という流れだが、
これら全部、同じ王朝内の出来事として、とらえている。
もし、王統がまったく変わったのなら、革命がおきたこととされ、
別の国が誕生したとなる。
964 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2010/09/18(土) 20:42:47
あとは記紀の年代論など得手ではないが、古代の天皇の寿命が長いのは、
国の歴史を古く見せようとして、神武天皇の即位を前660年に設定してしまった
ための引き伸ばしと考えるのが妥当ではないか。
だから、実際は 卑弥呼=倭迹迹日百襲姫 であったとしても記紀編纂時には その記憶が失われており、卑弥呼朝貢を自分たちが調整した年代が3世紀となる 神宮皇后の事跡と考えてしまった可能性がある。