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リカルド・クアレスマポルトガル代表

ザッケローニはこうなる

ウディネーゼはセリエAとセリエBの間を行き来する中堅クラブだったが、オリバー・ビアホフ、マルシオ・アモローゾを獲得し、3バックを採用。 3-4-3、3-4-1-2というシステムを導入し、イタリアでは考えられない攻撃的サッカーで、チーム作りを始めた。すると、1997-1998シーズン、そのサッカーが実を結んだ。ACミラン、インテル、ラツィオなど強豪クラブに対しても一歩も怯むことなく、攻撃的な姿勢を貫いた。その結果、ビアホフが得点王になり、チームも3位に躍進。“奇跡のウディネーゼ”と称賛され、翌シーズンにザックはACミランの監督という座を獲得したのである。

 この成績もさることながら、ザックの凄さは、まだ若く、未完の選手を積極的に登用し、勝てる攻撃サッカーを実現したその手腕にある。まず、セリエBのアスコリでゴールを量産していたビアオフを見いだして、トップに置いた。メンタル的に気弱だったビアホフを起用することで中心選手であることの自覚を促し、得点王にまで育てた。また、ブラジルに帰っていたアモローゾを獲得し、持味のスピードとテクニックを発揮させ、攻撃にエッセンスを加えた。ザックがウディネーゼを去った1998-1999シーズンにアモローゾはセリエAの得点王になる。ザックは再生工場としての能力も発揮したのである。

3-4-3システムで、サイド攻撃に重点を置く。

 システムは、基本的に3-4-3(オプションで3-4-1-2)で、ウィングバックが高い位置をキープし、積極的に攻撃に関わる。そこに攻撃的 MF、ボランチが加わり、厚みのある攻撃を演出する。ACミランでは、ベルルスコーニ会長がミラン伝統の4バックを主張したが、頑なに3-4-1-2のシステムを貫いた。

 ザックは、そのシステムをミラン監督就任1年目の1998-1999シーズンに完璧に機能させた。ビアホフとジョージ・ウエアの2トップ、トップ下のズボニミール・ボバンを中心にサイドバックのトーマス・ヘルヴェグ、ボランチのデメトリオ・アルベルティーニ、さらにブラジル代表のレオナルドらが加わって攻撃的なサッカーを展開。シーズン終盤に追いすがってきたラツィオをうっちゃって、見事スクデットを獲得したのである(リーグ最優秀監督賞も受賞している)。自分の哲学を貫き、ACミランの超個性派集団をまとめ、チームとして機能させ、結果を出した手腕は高く評価されるものだ。日本代表でも実績に関係なく自らの眼力で選手を選び、攻撃的で質の高いチーム作りをしてくれるだろう。

 ACミラン以降は、ラツィオ、インテル、トリノ、ユヴェントスとクラブを渡り歩いてきたが、そのすべてがシーズン途中の代打としての起用であり、インテルで4位に終わった以外、結果も残せていない。シーズン途中の交代で、かつ短期間でチームを建て直すのは、どんな監督でも難しい仕事ではあるが、ACミラン以降、9年間もさしたる結果を出せていないのは、勝負師として不安が残る部分である。

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