『リゾナント殺人請負事務所録』 FILE.2~殺し屋たちの福音-Sound and liquid-~





1回目

「AUビル。5階。ACT企画」

一つ一つ確認するように里保が呟く。
釣られるように、香音も傍らの雑居ビルを仰いだ。

取り立てて特徴のない、白い壁。
窓は通りに面したこちら側にしかなく、そのすべてに地味な色のカーテンやブラインドがかけられている。
5階分の高さしかなく、その割に横幅がそこそこあるため、ややずんぐりとした印象を受ける。
そう、まるであたしみたいに…ってうっさいよ!

「香音ちゃんさ、高置水槽と高架水槽の違いって知ってる?」
「ん?こうちすいそう?」

一人ボケツッコミをしていたところに急に話しかけられ、首を傾げる。
一瞬、漢字が変換できなかった。

「あれ」
「ああ、水槽」

里保の指差す先を見て、ようやく先の言葉が漢字に置き換わる。

目指す5階のすぐ上、すなわち屋上に置かれた円筒形の物体の上半分が見えている。
その白いFRPタンクは、ビル本体と同様にやや赤茶けていた。

「さあ、別にどっちも同じじゃないの?」

屋上に置かれた水槽には、その名前の通り当然ながら水――水道水が入っている。
高さなどの関係で、水道管からの直圧では給水に必要な圧力を満たせないときは、いったんタンクに貯水してから給水を行なう。
こんな風にタンクを高所に設置する場合は、そこからの給水圧力は重力によって確保されることになる。

ただ…そのタンクの名称を気にしたことは特にない。
確かに高置水槽と高架水槽、どちらも耳にしたことあるような気がするけど。


「えー、同じじゃ答えにならないじゃん。違いを聞いてるんだからさー」

…めんどくさっ!

不満げな顔の里保に対して口にしかけた言葉を、香音は辛うじて心の中で留める。
でもほんとたまにめんどくさいんだよなー里保ちゃんのこういうとこ。
たまにね。

「じゃあ、置いてあるだけのやつと、架台がついてるやつの違い?」

若干投げやりに答えた。
このビルのタンクは屋上に基礎を打って直に置かれているが、鉄骨などで組んだ架台の上に乗せてあるものも見る。
重力給水方式ゆえに、高低差を確保したい場合などはそうしているのだろう。
読んで字のまんまのひねりのない答えなので、また里保のお気には召さないかもしれないけど、そこまで構っていられない。

「うん、そう。そう思いがちなんだけど」

あ、この答えが“正解”だったんだ。
里保の嬉しげな顔に、香音は心の中でそう思う。
こういうとこ、かわいいっちゃかわいいんだけど。

「っていうかそれが間違いってわけじゃないんだけど、明確な違いってないらしいよ」
「…は?何?結局どういうこと?」
「どっちをどう呼んでも特に間違いじゃないってこと」
「…それって要するにどっちも同じってことだよね?あたし最初にそう答えたじゃん」
「違いがあると分かった上で同じって答えるのと、何となく同じって答えるのは違うよ」
「めんどくさっ!」

今度は声に出た。
だってほんとめんどくさいよ何この人。
…でも、ちょっと傷ついたような顔をされると悪いことをしてしまった気になる。
そういうとこもめんどくさい。


里保の仕事の腕は、間違いなく「店」でもトップクラスだ。
今回のように何度か仕事を共にしたことがある香音にとっても、それは疑いようもない。
この「業界」全体を見渡しても、少なくとも里保の齢であそこまでの腕を持つ者はまずそういないだろう。
…なのに何なんでしょ、この、そうはとても思えない感じは。

ただ、そのことを他のみんなに言ってみても、大抵あまり共感は得られない。
どぅなんて、「鞘師さん超強いし、いつもクールにキメててめっっちゃ憧れます」とか本気で言ってたし。
案外、里保がこんな風なのは自分の前だけなのかもしれない。
そう思うと……ね、まあかわいいんですけど。

「香音ちゃん」

そんなことを考えていると、再び名前を呼ばれた。
「今度は何だよ」と言いかけたが、里保の顔が真面目になっていたので、香音は黙って続きを待つ。

「今回の件さ、できるだけうち一人でやらせてもらえないかな」
「里保ちゃん一人に?別にいいけど…なんで?」

今回の「仕事」の対象は、AUビルの5階にある「ACT企画」の事務所内にいる人間全員ということだった。
対象が多人数であることと、いわゆる「普通の会社」ではなく、刃物や飛び道具も常備された「危険な会社」であるということもあり、一応2人体制で来ている。

…が、実際のところ、チンピラヤクザが多少の武器を振り回してきたところで、里保一人で簡単に片は付くだろう。
だから、別に一人でやりたいという分には全然構わない。
殺し屋なんてやってるけど、人を殺したくて仕方ないわけじゃないし。
ただ、里保にしたってそれは同じはずで、わざわざこんなことを言い出したことは今までなかったのが気になった。

「…うまく言えない」

しばらく「どう言おうか」という感じで思案をしていた里保は、結局それだけを言った。
なんだよそれと思ったが、里保の胸から聞こえる“音”に嘘はなかったので、「そっか」とだけ返す。
本人にもよく分からないのなら仕方がない。


…とはいうものの、何となく見当はつく。
道重さんから今回の仕事についての説明を受けた際、里保は何かを知っていそうだった。
多分、そのことが関係しているはずだ。

要するに、ものすっごく単純に言い換えると……道重さんにいいところを見せたいんだよね、絶対。
いや、というよりも気持ちの問題…かな。
「私が一人でやりました!」なんてドヤ顔で報告したりはもちろんしないだろうけど、その事実が自分の中できっと大事なんだろうなというか。
…なんか、そんな言い方するとまるであたしがお邪魔虫みたいでちょっと腹が立つけど。

「この間の女子小学生連続監禁殺害事件知ってるよね?」
「え?知ってるよ、もちろん」

一言だけでは悪いと思ったのか、里保が言葉を重ねてくる。

「その本当の犯人の男がいてさ、そいつが便利に使ってるのがこの『会社』なんだって」
「あの……だから知ってますけど。それ全部道重さんがさっき言ってましたけど」
「あ、そっか。そうだった。その宗玄洸って男がうちらの『店』を潰そうとしてることは?」
「いや、それは初耳だけど。なんで?」
「うちらの『店』に依頼に来たんだけど、道重さんが怒らせちゃったから」
「あ、そうなんだ。だからやられる前にやっちゃえーってこと……じゃないよね?」
「当たり前だよ。多分、こっちの予定の方が元々先にあったんだと思う」
「だろうね」

少なくとも、さゆみは自分の失敗の尻拭いをこっそり誰かにさせるような人間ではない。
そもそも、依頼主を不必要に怒らせるような初歩的なミスなどまずしないだろう。

「ま、いいよ、その辺の細かい事情は。とにかく今回は一人でやりたいんでしょ?好きにやんなよ」
「ありがとう、香音ちゃん。大好きー」
「そりゃどうも」

…何そのきらきら輝いた笑顔。
かわいいじゃないか。


「じゃあ、いこうか」

だが、その一瞬後には完全にスイッチが切り替わる。
声も、表情も、そして体内から聞こえる“音”も、瞬時に「仕事モード」になっていた。

このあたり、さすがは里保だといつも感心するところだ。
神様のような殺し屋センスだとしばしば尊敬の念さえ抱いている。
…まあそれが褒め言葉になるのかは分かんないけどね。

顔を引き締めて頷きを返し、一応身を隠していた建物の陰から出て、目指すビルの前へと向かう。
裏通りに当たるためか、日中だというのに先ほどから誰一人の姿も目にしない。
そういった立地が好都合でここに「会社」を作ったのだろうが、そのおかげで今は香音たちにとっても都合がよかった。

素早く入口の前まで移動する。
雨避けのためだろう、少し奥まったところにガラスの押し戸がある。
ビルがくり抜かれた形で存在するポーチには、左手に自動販売機が、右手に郵便受けが設置されている。
郵便受けには、1つだけネームプレートが入れられていた。

本来、このビルは2階から5階までの4フロアにオフィスやテナントが入れるようになっているが、現在は5階のACT企画しか入っていない。
とはいえ、正確には他の階も契約上は埋まっている。
だが、“不思議なことに”無人のままで放置されている。
人通りの少ない、そして部外者のいないビルでどういった類のことが行われているのかを想像するのは、素人でもそう難しくない。
ま、ロクなことじゃないよね。
殺し屋のあたしたちが言えたことじゃないんだけど。

「監視カメラ…ダミーだって話だったけど」
「うん、ニセモノ。機械の“音”はしない」

ポーチの上部に付けられたカメラに視線をやる里保に答えてから、ふと思う。
こういう“手出し”(口出しか)は別にしてもいいのかな?
ほんとの意味で一人でやりたい…ってことなら、今のもアウトだと思うんだけど。
里保の様子を見る限り、何も気にしてないみたいだからいいのかな、多分。


エントランス部は、1階と2階をぶち抜いた吹き抜けになっていて、ビルの規模からすれば結構広めになっている。
それに付随して玄関のガラスもかなり大きく、香音や里保の倍以上の高さがある。
扉は、その大きなガラスを切り抜くような形でつけられている。

ガラス越しに中を伺い、その扉を開ける。
するりとビルの中へ入っていく里保を追うように、香音も体を滑り込ませた。

天井に埋め込まれたダウンライトは点いておらず、外の明るさに慣れた目にはしばらく少し薄暗く感じられた。
吹き抜けとなった部分は入ってすぐのホールだけで、すぐに天井は低くなる。
短い廊下を、香音たちは静かに進んだ。

左手には機械室や管理室等への扉があり、もちろん締め切られている。
右手には、パイプシャフトらしき部分に並んでエレベーターがあった。
ランプは「5」の部分が点灯している。

それを確認し、さらに奥へと向かう。
目指す階段がそこにあった。

言うまでもないが、エレベーターを使うわけにはいかない。
そりゃ使いたいけど。
ボタンを押したい衝動に駆られるらしい変わった人もいるが、そうじゃなく普通に。

滅多に使われることがないだろう階段は、照明も灯っておらず、なお薄暗い。

「足元気を付けてよ」

そう囁くと、ちょっとムッとしたような頷きと声が返ってきた。

「…分かってる」

だって実際よく転ぶじゃんか。
あ、でも仕事のときはさすがに見たことないか。


その後は無言で5階を目指す。
里保は転ぶことなく、淀みのない足取りで階段を上がっていく。

「やっぱりすごいなあ、里保ちゃんは」

少し先を行く里保の姿を見ながら、聞こえない程度の呟きを漏らした。

見ていて、その後ろ姿にまったく隙がない。
例えば今、香音が後ろから突然攻撃を仕掛けたとして、それが成功する気がまったくしない。
あっさりと返り討ちにされるイメージしか浮かんでこない。

加えて、足音や気配の消し方が常人離れしている。
香音の能力を以てしても、意識していなければ気付かないかもしれない。
本当に神様のようなセンスだと改めて思う。

「感心してる場合じゃないや」

若干置いて行かれ気味になっていることに気付き、慌てて里保の背中を追う。

いつまでも背中を見ているだけのつもりはない。
尊敬はしながらも、もちろん対抗心も持っている。
里保と同じにはなれなくても、里保と並ぶことはできるはず。

そう自分に言い聞かせながら、一段一段上がって行く。
里保の背中が、少し近づいた。


………気がした。






投稿日:2014/03/19(水) 17:28:07.02 0


2回目


「ACT企画の社員6人。宗玄洸。計7人」

再び、一つ一つ確認するように里保が呟く。
その視線の先にある事務所の扉を、香音も壁の陰からそっと窺う。

何の変哲もない…という言葉が似合う、ごく普通の片開き戸。
クリーム色の扉に銀色のドアノブ。
上部が四角く切り取られ、そこに嵌め込まれたすりガラスには、社名を切り抜いた塩化ビニルのフィルムステッカーが貼られている。
セキュリティめいたものは一切取り付けられていない。

「無防備だね」
「だね」

半分呆れたように言う里保に、頷きを返す。
表の監視カメラの件といい、「危機管理」への意識が低いのだろう。

「まあ、あのおぼっちゃんならこんなものだよね。いかにもって感じしない?」
「あたしは直接会ってないから分かんないけど」

呆れの向こう側に覗く冷笑めいたトーンに、あれ?珍しいなと思う。

どのような場合にも「標的」を客観的に俯瞰するのが里保のスタンス……と、香音は感じている。
故に、こういった、相手を見下すような発言を聞くことはあまりない。

ただまあ…今日は相手が相手だけにね。

このような「業界」に身を置いていれば、(人殺しを職業にしている自分のことを棚に上げて)眉を顰めたくなる人間に会うことも多い。
そんな中にあっても、今回の「標的」である宗玄洸は、もし「眉顰めさせランキング」なんてものがあればきっと上位を争うに違いない。


宗玄洸。26歳。O型の牡牛座。
ソウゲン貿易 代表取締役 宗玄幸(みゆき)の跡取りドラ息子。
そして……最悪最低の変態性犯罪者。

「女子小学生連続監禁殺害事件」として世間を騒がした事件がある。
その名の通り、小学生の女の子が不定期に拉致され、監禁され、暴行され、そして殺害された事件。
報道に堪えない部分も多く、大部分のメディアでは明らかにされていないが、犠牲になった女の子たちは、それは酷い有り様だったらしい。
「その名の通り」とは言ったものの、実際にはそんな名称では到底表せないほどに。

山林に、廃倉庫に、埠頭に――無造作に打ち捨てられていた遺体は、そのすべてが全裸だったという。
全身は、打撲の跡、擦過傷、切り傷、火傷等、その時々によって、異なる傷で埋め尽くされていたらしい。
その中にあって共通していたのは、下腹部の裂傷。
すなわち―――

小児性愛――いわゆるところのペドフィリア。
そちらの方面はあまり詳しくないのでよくは分からないが、洸がそういった性的嗜好を持っているのは確かだろう。
それも、ただの小児性愛ではなく、虐待や殺害を行なうことで性的興奮を得る類の。

少なくとも、香音にとって誰かの命が奪われ喪われるのは日常であり、だから、そこにさしたる感情は湧かない。
その感情が、死者の年齢や性別によって左右されることもない。
里保にしても、そしてこの「業界」に身を置く者の多くにとっても、それはおそらく同じだろう。
それでもなお、この件にはやはり不快感を覚えずにはいられない。

一般的な観点から見た「正義感」や「倫理観」などといったものは、職業上、もちろん香音は持ち合わせていない。
だからきっと生理的、本能的なものに近いのだろう。
さすがの里保も、同じような嫌悪感を知らず覚えているのかもしれない。

……と思ったけど、それだけじゃないかな?

結局はこれも道重さんに繋がってきそうな気がする。
アイツが事務所に来たとき、道重さんに向かって何らかの暴言を吐いたことに腹を立てているのか、それとも他に……?
まあ、あんまり根拠はない、ただの勘なんだけど。


「事務所内には全員居る?」
「…うん、いるね。7人」

里保の問いかけに、“音”を探ってそう返した後、また思う。

あ、また普通に手伝っちゃったよ。いいのかよ。
まさかあたしのことただの便利な道具と思ってないだろうね?里保ちゃん。

「よし、行こう」
「うん」

特にこだわる様子のない里保に小さく頷き返し、ドアの前まで移動する。
すりガラス越しに影が映らないよう身を低くしたまま、室内の様子を改めて読み取る。

椅子の軋み。キーボード打鍵。めくられる紙束。
話し声、咳、呼吸音。

様々な“音”が集まり、香音の頭の中でぼんやりとした景色として構築されていく。

正面右奥に1人。一人掛けソファらしきものに座って(ふんぞり返って?)いる。
これがおそらく洸だろう。
その隣に、1人が立っている。

すぐ近くで、3人が対面して座り、紙束を回しながら会話している。
その傍らに立っているのが1人。
最後の1人は、少し離れてパソコンを操作している。

「あ、香音ちゃん、さっきも言ったけど、今日はうち一人でやるから」
「…どうぞ」

ここへきての念押しに、内部情報の報告はやめ、ただ手の平を上に向ける。
あたし、あなたの線引きが分からないです、鞘師さん。


まあどちらにしろ、相手が戦闘態勢で待ってでもいるならともかく、現在の室内の状況を知ることにさほどの意味はない。
ドアを開ければすぐに分かることなのだから。

香音がそう思うのと同時に、里保はゆらりと立ち上がり、ドアをノックした。
返事を待たず、ノブを捻ってドアを押し開ける。
そのまま流れるような動作で事務所内へと入っていく里保の後に、香音も続いた。

室内の状況は、香音が思い描いていた景色にほぼ合致していた。
そのことに一人満足しながら、成り行きを見守る。

「なんだぁ?ここはガキの来るところじゃねぇぞ?どっから迷い込んだ」

苛立ちと困惑の混ざり合った表情を浮かべながら、立っていた一番下っ端らしき若い男がこちらへと歩み寄ってくる。
うん、やっぱり「危機管理」の能力ゼロだねこれは。
立地からして、誰かが迷い込むような場所じゃ絶対にないんだからさ。

「お前…?あんときあの事務所にいたやつじゃねーか」

ソファにだらしなく座って煙草をふかしていた洸が、そう言いながら机の上に乗せていた脚を下ろす。
そこまで気付いていながら呑気なことだ。
なるほど、里保が「あのおぼっちゃんなら…」と言っていたのも無理はない。

「ちょうど今、お前らの話してたとこだ。…おい、見せてやれよ」

顎をしゃくるようにされ、一人がテーブルの上に置かれていた紙を手に取り、にやけた顔で突き出してくる。
内容は見えないが、何段かに分けられて文字が並び、左上には写真がクリップ留めされている。

「お前らんとこの情報だよジョーホー。俺クラスになると、こんくれーすぐ調べられんだわ」

その言い回しに失笑しかけ、辛うじて噛み殺す。
先ほど“聞”こえていた会話からしても、書かれているのはせいぜい「宣材」レベルの情報でしょうに。


「で?ワビでも入れに来たのかよ?」

続いて発された一言に、今度は笑いを通り越してある意味感心する。
なるほど、そういう考え方も存在しているのかと、目からウロコの気分だった。

「それがいいぜ、お嬢ちゃんたち。この人、怒らせるとこえーから」
「土下座な、土下座」
「もちろん全部脱いでからな」
「ぎゃはは!こんなガキの裸見て誰が得すんだよ。あ、若か」
「あぁ?俺からしたら年増だっつーのこんなの」
「マジっすか。筋金入りっすね」

里保は黙ってそれらの雑言を受け流している。
もちろん、ただ立ち尽くしているのではなく、計っているのだろう。
ひとたび動き始めてから、全員を無駄なく確実に倒せる手順とタイミングを。

「つーかよ、ワビ入れるにしてもお前らじゃ話になんねーだろ。こいつに来させろよ、このオバサンによ」

だるそうに移動し、“情報”の書かれた紙をつまみ上げながら、洸は煙をさゆみの写真に向かって吹き付ける。
同時に、水面のように静かだった里保の心音が、僅かに揺れた。

おい?里保ちゃん……?道重さんのこと、もしかして割と本気だったりする?禁断の恋ですよ、それは。

「あーこの子の全裸土下座ならちょっと見てーわ」
「いいね、俺も俺も」
「ま、土下座じゃ終わんねーけどな」
「しばらく飼って、ヤリたい放題のオモチャコースだな」
「若、例のクスリまだあるんでしょ?」
「クスリ?ああ、あんぜ。パパに言えばもらえる」

ソウゲン貿易(裏)がメインで取り扱っているのは、そういえば非合法の怪しげな薬類だったなとその言葉で思い出す。
ちなみに他には、銃器であったり、臓器であったり、それから人間そのもの…なんてこともあるようだ。


「ま、そんなわけだからよ、とりあえずあのオバサンとっとと連れてこいよ」

言いつつ、洸は手にした煙草を写真に押し付ける。
写真が熱で溶け、歪む。同時に里保の心音も。

…ちょっとちょっと、この程度で?マジですか、鞘師さん。

きっと本人にはあんまり自覚はないのだろうし、恋愛感情とはまた違う気もする。
ただ、こんな程度のことで(僅かとはいえ)乱れる里保を見るのは驚きだった。

表面上はまったく動じていない里保に、洸は手にした煙草を向ける。

「お前はここ残れ。おい、後ろのぽっちゃり。お前がこのオバサン連れてこい」

この野郎!誰が……ぽっちゃりならまあ許す。
里保ちゃんの心音もピクリともしなかったしね!(泣)

「おら、来いよ」

立ち止まっていた“下っ端”が、洸の無言の指示を受け、里保へと手を伸ばす。

「あのとき、道重さんが言われたことを覚えていますか?」
「あぁ?」

伸びてくる手を自然な動作ですっと避けると、里保は初めて口を開いた。
その口調と表情は穏やかで、とても静かだ。
だけど、香音はよく知っていた。

「私、こう見えて……いい腕してるんですよ?」

それが、“豪雨の前の静けさ”であるということを。





投稿日:2014/03/26(水) 17:29:27


3回目


言葉を発し終わるのとほぼ同時に、里保の体は動いていた。
いつの間にかその手の中にあったナイフが、“下っ端”の喉を真横に切り裂く。
一瞬遅れて、局地的な赤い雨が降り注いだ。

その雨に濡れないよう、既に里保は素早く体を反転させながら次の体勢に移っていた。
同じく雨ざらしにならないよう、そして里保の邪魔にならないように部屋の端に移動しながら、香音はその様子を観察する。

あの一言は余計だったね、里保ちゃん。

視線を走らせた里保が僅かに眉を動かすのを見て、心の中でそう呟く。
あんな言い方をすれば、よほど鈍い相手でない限り、こいつは自分たちを殺しに来たのだと反射的に思うだろう。
……まあ、よほど鈍い相手ばっかりだったみたいだけどさ。

一人の喉を掻き切った里保が既に次の動きに入っているというのに、ほとんどの者は最初の体勢から動けていない。
里保の行動がよっぽど「予想外」だったのだろう。
「危機管理」の意識が文字通り致命的に低い。

その中で唯一、パソコンを操作していた男だけが里保の言葉に反応し、ほぼ同時に動き出していた。
そのおかげで、“下っ端”の喉を掻き切ったナイフを投擲しようとしていたらしい里保よりも一瞬早く、“パソコン”の姿は机の陰に隠れていた。

あの不必要な一言さえなければ、予定通りにいっていたはず。
でもまあ仕方ないよね。
それでもどーしても言いたかったんだよね、里保ちゃん。

やれやれこれは重症だなあと改めて思う。
さゆみに対して特別な感情を抱いていることはもちろん知っていたが、ここまでとは思っていなかった。
…ここまでってどこまでなのか分かんないけどさ。

陰に隠れた“パソコン”の様子を見て一瞬で判断を切り替えた里保は、次の「標的」への間合いを一気に詰める。
どうにも空回っている印象は否めないが、それでもその動きはやはりさすがだと言わざるをえない。
初速からトップスピードまでの加速があっという間で、一瞬で移動しているような錯覚すら覚える。
能力を使用した亜佑美にはさすがに及ばないだろうが、身体能力が人間離れしている。


その頃に至ってようやく椅子から立ち上がっていた男たちだったが、迎撃どころか防御の体勢も整わないままの棒立ちに近かった。
硬直する男たちを尻目に、里保のナイフが滑らかに動く。
手前の2人がそれぞれ喉を裂かれ、貫かれたところで、残った者たちはようやく目の前で起こっていることを把握できたようだった。

「うおあぁッッ!」

「同僚」の血飛沫を浴びながら、先ほどにやけた顔で資料を掲げていた男が里保に掴みかかる。
だがそれは到底冷静な行動とは言えず、なんとか事態の把握はできても、理解まではまだ思考が届いていないらしいことを示していた。

男の手を軽々と避けながら動かされた里保の手により、また新たな赤い雨が降る。
3人分の雨によってできた赤い水たまりに、掴みかかろうとした姿勢のままの男が倒れ込み、飛沫が跳ねる。
その頃には、飛沫を避けるようにして、里保は資料の散らばるテーブルの上に跳び上がっていた。

「うお、お……」

言葉にならない言葉を漏らしながら、洸は後ずさるように元いたソファの方へと下がる。
忘れられたようにその指の間に挟まっている煙草が、いまだに煙を吐き続けているのがどこか滑稽だった。

テーブルの上に立った里保の目が一瞬そちらを追いかけ、次いで鋭く動く。

「クソが!」

先ほどまで洸の隣にいた男が、机の引き出しから取り出した拳銃を、そう言いながら里保に向けたところだった。

アメリカ製じゃん。こんなとこにはお金使ってんだね。

よく目にする粗悪な拳銃ではなく、黒光りする“上等”な拳銃だったことに場違いな感想を抱く。
次の瞬間、乾いた破裂音が響いた。

「な……?」

続いて、間の抜けた声が漏れる。


発射された弾は、里保のところまで届くことなく失速し、情けない音とともに床に転がっていた。
思わずといったように、男は自分の手の中の拳銃に視線を動かす。

あーあ。まあ気持ちは分かるけどね。

そう思ったのとほぼ同じ瞬間。
致命的な隙を作った男の喉元に、里保の手から離れたナイフが突き刺さる。
拳銃を見つめた姿勢のまま、男はぐにゃりとその場に崩れ落ちた。

「水操作能力―アクアキネシス―」と一般的(?)に呼ばれる能力を、里保は持っている。
…里保ちゃんが自分の能力のこと、どう呼んでるかは知らないけどね。

里保に限らず、香音も含めた「リゾナント」のメンバーは、全員が同じようにそういった特殊な能力の持ち主だ。
一般的な名称を用いている者もいれば、自分で好き勝手に名付けていたり、誰かが言ったのが定着したり…なので、能力名に統一感はあまりないかもしれない。
ともかく、それぞれが異なる能力を有している。

その中にあっても、里保の能力は強力で汎用性も高い。
たった今、拳銃の弾を失速させたのも、その応用の一つだった。

以前に里保本人が言っていたことだが、水中で撃たれた銃弾は、長くてせいぜい2,3メートルしか進まないらしい。
口径の小さいものになると、1メートル程度で勢いを失うのだそうだ。
また、逆に威力が高いものだと衝撃で弾自体が砕け散ってしまうらしい。
それくらい空気中と水中の抵抗って違うんだよ香音ちゃん(ドヤ顔)……らしい。

里保が相手の銃口の前に飛ばした「水」は、もちろんほんの小さなものだった。
だけど、里保の能力に支配されたその水の塊の抵抗力は、普通の水の比ではない。
……のだと思う。多分。
とにかく、銃口から飛び出した弾はすぐにその「水」に突っ込み、運動エネルギーの大半を失って落下した。
一言で言えばそういうことになるのだろう。

…一言で言えばそういうことになるんだけど、実際にそれが簡単にできることかというと、そんなわけはない。
里保のセンスをもってすればこその芸当であって、誰にでもできることではない。


…あたしだって、やり方こそ違えど、拳銃を無力化させることくらいできるけどね。
それは主張しておきたい。
まあ、「リゾナント」の全員が、何らかの形でできるだろうけど……。

そんなささやかな対抗意識を燃やす間も、もちろん里保の「仕事」は滞ることなく進む。

動き始めてから10秒かそこらで5人を片付けた里保は、ライティングデスクの陰に隠れた洸の方へと一瞬目をやった後、“パソコン”の方へと向かう。
手の中には、いつの間にか2本目のナイフがあった。

里保は、太もものところに数本を収納できるナイフホルダーをつけている。
以前に、「うち、太ももが良いってよく言われるんだよね」という、「どこで誰にだよ」とツッコみたくなることを言いながら、チラチラと見せてきた。
だけど実戦の中では、太ももを拝むどころか、大抵いつ取り出したのかすら気付かない。
このあたりも本当にさすがだなと思う。
太もものホルダーを見せながら「ちょっとだけよー」とか言ってくるのをスルーしたら傷ついた顔をするめんどくさい人だけど。
ドリフは好きだけどさ、どう返していいか分かんないんだよそんなの。
って何の話だよ。

…よっぽどヒマなんだろうね、今あたし。

殺しをしたいわけではないし、むしろ他の誰かがやってくれるならそれに越したことはないけど、何もすることがないのはさすがに退屈だ。
里保の動きを観察するだけで勉強になると言えばなるのは確かだが、あくまで里保のやり方であるが故に、そのまま参考にできるわけでもないし。

…それにしても、血の雨が降る部屋の中で退屈しているあたしって、改めてやっぱり普通じゃないな。

そんなことも思う。
その「あたしって普通じゃない」という感覚もどこか他人事で……これはきっと罪深いことなんだろうね。
いつかこの罪はきっと、何らかの形で自分たち自身に返ってくるのだろう。
そんな風にも思う。

「た、たすけ……て……」

耳に届いた掠れ声に、我に返る。


這いずるようにして出入り口付近まで逃げていた“パソコン”は、もはや抵抗の気力も無くしたように命乞いをしている。
それを見下ろす里保からの返答は、当然ながら言葉ではなく、冷酷なナイフの一振りによって為された。

――あと一人

そんな声が聞こえてきそうな動作で、ゆっくりと里保は部屋の奥へと視線を向ける。
そこかしこが赤に彩られた部屋の中、すっかり蒼褪めた顔がそこにはあった。

「こ、こんなことしてタダで済むと思うのか?お前ら、俺が誰か分かってんのかよ?」

蒼白になりながらも、最後のプライドなのか、それともこの期に及んでまだ自分の「特別」が通用すると思っているのか、洸はそう凄む。
凄んでるのは台詞だけで、声は震えて迫力も何もあったもんじゃないけどね。
大体、相手が誰か分からなくてこの仕事が務まりますかっての。
答える気にもなれない―――

「もちろん、分かってます」

って答えんのかよ。

「あのとき、道重さんが言われたことを覚えていますか?」

またそれかよ。

「『ここ』は、ときにはあなたの“特別”が通じないこともある世界……なんです」

あ、そんなこと言ってたんだ。
そこまで言われてたのにあの危機意識のなさは、ある意味大物だね。

「ま、待て。金ならあんぞ?取引しようぜ。お前らもその方がトクすんだろ?な?」

何て想像通りの台詞でしょ。
里保にとってもきっとそうだっただろう。


ただ、里保にとっておそらく想像外だっただろう――でも想像はしておきべきだったかもしれない出来事――は、その直後に起こった。

「ッ!?」

洸に冷たい視線を注いでいた里保の背後から伸びてきた腕が、その首に回される。
咄嗟に間に挟んだ左腕ごと首を締め上げられた里保の体が宙に浮いた。

見るからに鍛え上げられた身体といい、発散する雰囲気といい、間違いなく「同業者」だ。
里保でさえ直前までその気配に気付けなかったことからしても、相応の実力を持っていることも間違いない。
ボディーガードとしてなのか刺客としてなのかは分からないが、洸が雇っていた「プロ」だろう。

あたしは能力のおかげでちょっと前から気付いてたけどね。
だけど里保ちゃんが手伝うなって言うからとりあえず黙ってたよ。
だって線引きわかんないし。

「ケーセー逆転ってやつだな。そっちのお前も動くなよ」

得意げな顔で洸が拳銃を向けてくるので、一応両手を挙げておく。

「俺の“特別”はどこでも“特別”なんだよ。分かったか?お嬢ちゃん。お前らとは住んでるセカイが違うから想像もつかねーだろーけどよ」

先ほどの醜態を速攻できれいさっぱり忘れたかのようなその姿は、やはりある意味大物なのかもしれないと思わせる。

「おい、まだ殺すなよ。これだけのことやってくれたんだ。殺すのはたっぷりお礼をしてからじゃねーとな」

洸の言葉に目顔の頷きを返しながらも、男は里保から注意を逸らさない。
見た目通りかなりの怪力のようで、里保は、振りほどくどころか呼吸もままならない様子だった。
このままいけば、おそらく挟んだ腕を折られ、締め落とされることになるだろう。

と、自由な右手が閃いた。
その手の中のナイフが、里保の首に巻かれた男の腕を突き刺す。
不自由で苦しい体勢からながら、正確に腕の腱を断ち切る位置への刺突だった。


―――が。

鈍い音とともにナイフは弾かれ、その衝撃で里保の手から離れて落ちた。
一瞬驚いたような表情が、そして直後にやや悔しげな表情が、里保の顔に浮かぶ。
当の男の表情は、微動だにしなかった。

「俺の肌はナイフも銃弾も通さない」

抑揚のない、ぼそぼそとした声で男が言う。

肉体硬化―スティフェンド・ボディ―……かな。
今の男の言葉からして、肉体そのものではなく皮膚の硬化なのかもしれないし、例えば遥のようにもっと汎用性の高い能力かもしれない。
とにかく、男が能力者であり、実際にナイフが刺さらないことは確かだった。

さて、どうしよう。
困ったな……。

両手を挙げたまま、香音は考える。
正直、ここまでの難敵が現れるとは想定していなかった。
現状もあまりいいとは言えない。

ただ――

少しは退屈しなくて済むのかもしれない。

そう考えると、微かに頬が緩んだ。
やっぱりあたしは、あたしたちは普通じゃない。

そして――


――罪深いんだろうね。




投稿日:2014/04/11(金) 11:56:05


最終回


「カノン(canon)」という音楽様式がある。
日本語訳をすれば、「追複曲」・「追走曲」であり、平たく言えば「輪唱曲」ということになる。
つまり、複数のパートが同じメロディを、時間を置いて追唱していく様式のことだ。

そしてそれが、あたしの名前 ―香音― の由来になっている……んだったと思う。
幼い頃にそんなことを言われた記憶が、微かにあった。
「香る音」という字面といい、きっと両親は音楽を愛する人たちだったのだろう。
思えば、苗字にも「鈴」と「木」という、音や楽器に直接関係するモノが入っている。
自分は“音”に縁があるのかもしれないな、と思う。
……その割に、仕事は音楽家でも歌手でもなくって、殺し屋なんだけどね。

ただ、殺し屋にしたところで“音”は仕事と無縁ではなく、むしろ密接に関わってくる。
事実、今回のこの「仕事」の中だけでも、色んな“音”を“聴”き、状況判断に役立ててきた。
そしてそれだけではなく、“音”は意外と「武器」としても有効だ。
少なくとも、自分が曲がりなりにも里保たちと肩を並べてこの仕事をやっていけているのは、そのおかげだし。

…まあ、今回はできるだけ手を出さないでくれって言われてるんだけどさ。
でもできるだけ…ってとこがね、線引きが難しいよ。
そこのところ間違えると、里保ちゃんのことだからまた後でめんどくさいし。

さて、どうしますかね。

心の中で小さくため息を吐き、香音は改めて状況を再確認する。

自身は、「ぼっちゃん」に拳銃を向けられてホールドアップしている。
それにしても、「プロ」を相手にあんな遠くから拳銃向けて制圧した気になっているのは、よほど腕に自信があるのかバカなのかどっちなんだろう。
多分後者だけど案外どっちもかもしれない。どっちでもいいけど。
ちなみにそろそろちょっと腕がだるい。

里保は、筋肉男の腕に首を締め上げられたまま、振りほどけないでいる。
力そのものではまず敵わないだろうし、ナイフも刺さらないとあっては、それも無理もないところかもしれない。
あの体勢に持ち込まれた時点で相当に不利だし、そもそも里保とは相性が悪い相手だと言えそうだし。


そう思いながら、「筋肉男」の様子を観察する。

薄茶色の髪は短く刈られ、その下にはやや彫の深い顔立ちがある。
肌の色や口髭の感じからして、もしかすると中東あたりの血が入っているのかもしれない。
身体は、着ている黒革のジャケットが弾け飛びそうなほどの筋肉の塊。
里保の首に回された腕も、大げさじゃなくあたしのウエストくらいの太さがありそうだ。
……そうだよさすがにそれは大げさだよ!(泣)
はるなんや亜佑美ちゃんなら本当にそうかもしれないけど…。

接近戦――というより、今のような密着戦を最も得意としているのだろう。
相手を捕えて離さない筋力と、相手の抵抗を跳ね返す能力。
当たり前だが、自分の特性をよく理解した上で、自分に最も合ったやり方を筋肉男は選択している。
攻防一体で一撃必殺を旨とする里保の体さばきは見事だが、こうなってしまえばそれも発揮できない。
また、汎用性の高い里保の能力も、この男のようなシンプル故に強力な能力に対しては、応用も利かせにくいのではないだろうか。

あたしの能力を使えば、簡単に「ケーセー逆転」できるだろうけどね。

でも、それをするべきかどうかは悩ましいところだ。
里保にもプライドはあるだろうし、というかなにげに人一倍あるし、まず間違いなく怒るだろう。
しかも、はっきり言えばいいのに、言わずに怒るだろう。
自分で手伝うなと言い出しているだけに、きっと自分自身に対しての怒りが主であることがまたややこしい。
…めんどくさい。絶対かなりめんどくさいことになる。
かといって―――

やれやれだよ。
大きくため息を吐いて天を仰ぐ……なんて大きな動作はできないので、代わりにチラリと目だけで天井を見上げる。
…あ。

そのとき、ふと思いついた。
これなら里保への言い訳も立ちそうな気がするし、何より―――

やっぱり、里保ちゃんが自分でどう切り抜けるのか見たいもんね。


「リゾナンス・フラクチャー(resonance fracture)」という現象がある。
日本語訳をすれば、「共振破壊」であり、平たく言えば「振動エネルギーの移動による破壊」ということになる。

物体にはそれぞれ「固有振動数」というものがあり、衝撃を与えられた際、一定の周波数で振動する。
「共振」とは、物体がその固有振動数と同じ振動を加え続けられることにより、振動が異常に増幅されることを指す。
身近な例で言えば、公園のブランコがそうだ。
洗濯機が脱水時に大きく揺れることがあるのもこの現象だ。
電子レンジにもこの原理が利用されている。
建築の世界では、地震の際の共振による倒壊を防ぐための措置を講じることが、もはや常識になっている。
地震の揺れと建物の持つ固有振動数が一致した場合には、高層ビルさえ倒壊の恐れがあるからだ。

また、固有振動数が同じである場合、振動エネルギーは2者間に距離があっても伝達される。
同じ固有振動数を持つ音叉の片方を叩くと、離れた場所にあるもう一方も鳴り出す。
いわゆる「共鳴現象」というやつで、それはしばしば人と人との間の「シンパシー」にも喩えられる。
だが同時に、触れずにガラスを砕くこともできるフェノメノンでもある。


「ソニックブーム(sonic boom)」という事象がある。
日本語訳をすれば、「衝撃音波」であり、平たく言えば「音の束による轟音と衝撃」ということになる。

「音」はすなわち「振動」であり、例えば空気中では空気の分子を介して伝わっていく。
「音」の速さは秒速にして340m/s、すなわち時速にして1224km/hであり、つまり空気中の分子の振動もまた、その速さで伝えてゆかれる。
だがここで、その「音」を発するものが、それよりも速く動いていたとしたらどうなるだろうか。
分子は振動を伝えきることができないまま次の「音」に追いつかれ、圧縮されて高密度の塊となっていく。

その「音の束」――すなわち蓄積され纏められた「振動」によるエネルギーもまた、非常に大きなものとなる。
ロシアでの、隕石に因るソニックブームの被害は記憶に新しい。
数千にも及ぶ建物の窓ガラスが割れ飛び、ドアや壁までもが破壊された場所もあったほどだ。


つまり、そう、“音”は武器だ。
いや……凶器と呼んでもいいかもしれない。


だから、そう、あたし ―鈴木香音― も凶器だ。
“音”を愛し、“音”に愛されて生まれたこのあたしも。
その意味では、やっぱりこの「仕事」は、あたしにとって縁のあるものだったのかもしれないね。
「死」という闇からの「福音」を、老若男女に分け隔てなく宣べ伝えて回る、この罪深い「仕事」は―――

先ほど見上げた天井――軽天材に覆われたそのさらに上で、唐突に大きな破壊音がした。
次いで、カラガラと何かが崩れ落ちてくる音と共に、軽天の一部が激しく揺れる。

「な、何だ?何が起きた?」

隙だらけの間抜け面を晒し、洸が思わずといったように天井を見上げる。
その目の前で、衝撃に耐えきれなかった軽天材の一部が、その原因となったコンクリート片と一緒に床に落ち、再び騒音を立てた。

「うお!?天井が――」

その言葉に重なるように、先ほどとはまた音色の違う破壊音が上空から響いてきた。
一瞬遅れて、さらなる響きがオーバーラップする。
もうもうと立つ埃を穴からの光が真っ直ぐに照らす中、破壊された高置水槽から溢れ出た大量の水が、滝のように流れ落ちてくる音だった。

「何だよ!だから何なんだよいきなりよ!」

パニックと怒りが混ざり合ったような洸の喚き声が響く中、里保は即座に行動に移っていた。

表情にこそ出ていないものの、さすがに面食らった“音”を漏らしていた筋肉男に、幾粒もの水滴が激しく叩きつけられる。
「水滴」とは言ったものの、それは生身の人間であれば体に孔をあけられてもおかしくないくらいの威力があるもので、さすがの頑強な男も僅かなふらつきを見せた。
それによって締め付けが緩んだ一瞬を逃さず、するりと男の腕から抜け出る。
そして間をおかず、床の上を滑るように筋肉男から距離を取った。

一瞬――まさに一瞬だった。
締め付けが緩んだといっても、それだけで抜け出せるほどではなかったはず。
おそらくは「水」の力を借りて、緩んだ腕をさらに押し開き同時に体を下に滑らせたのだろう。
そしてこれも「水」の力で、瞬間的に間合いを確保した。


やっぱすごいな、里保ちゃんは。

ノーマルな体さばきだけでも驚嘆に値するのに、能力を併用したときの動きはその比ではない。
能力ありなら、それこそ能力を使用した亜佑美と互角かそれ以上かもしれない。

思えば、「店」に入った当初は妙に里保のことを意識し、あからさまにライバル視していた亜佑美は、いつしかそれをやめていた。
もしかすると、「仕事」で里保と一緒になったときに、今のあたしのようにそのすごさを思い知ったのかもしれない。
そして、抱いていた意識を変化させたのだろう。
肩をいからせぶつけ合うライバルではなく、この人と肩を並べて立てるライバルになろう、と。

改めて、里保を見やる。
「敵」と対峙し、こちらに背中を向けたその姿は、決して現状に満足することがなく、常に高みを目指す、いつもの姿だ。
「敵」と戦っている時でさえ、「自分自身」と戦っているように思わせられる、いつもの。

あたしもいつか、その高みへ。
あの背中に追いつければ、きっと叶うはず。

とりあえず、里保にとって相性の悪いだろうこの相手をどう退けるのか見届けさせて―――

そう思うよりも早く、里保は動いていた。
下におろし、僅かに背後に引かれた里保の右手の中に、びしょ濡れの床から水が細く立ち上がっていく。
同時に、里保の体は、ノーアクションで床を滑るように前進していた。

――刀……?

里保の右手の中に、いつの間にか吸い込まれるようにして納まっていた水は、明らかに日本刀の形状をしていた。
背後に引かれていた右腕が、相手を左下から逆袈裟に薙ぐように振り上げられる。

「げ」

思わず声が出た。
そりゃ出るよ。誰だって。


「水の刀」は、ナイフも銃弾も通さないという筋肉男の肌を、易々と切り裂いた……っていうか肌どころか体を真っ二つにした。

斜めに斬れた筋肉男の上半分が、下半分の体の上を滑るようにして落ちてゆく。
その上に載っている顔に浮かぶ表情は、きっとまだ何が起きたか理解できていないのだろう無表情のままだ。

…ねえ、誰だよ相性が悪いとか言ってたの。
あたしだよ。ほんとすみませんでした。
瞬殺かよ。すごすぎるよ何だよあの人。

現実に、ナイフの刃を軽々と弾き返した能力だ。
本来であれば、いくら水を刃の形状にしたところで斬れる道理はない。
だが、逆にだからこそ里保は敢えて斬撃での「リベンジ」を選んだのだろう。
ナイフを弾かれたとき、悔しそうな顔してたもんね。負けず嫌いの里保ちゃんらしいよ。

「ウォータージェット(water jet)」という技術がある。
日本語訳をすれば……特に呼び名はないが、ともかく平たく言えば、超高圧の水流による切断加工技術だ。
音速を越えるほどの速度を持つ水流は、鉄ですらあっさり両断するほどのエネルギーを持っている。

つまり、「水の刀」の表面は、おそらくそんな超高速で流れ続ける水によって覆われていたのだろう。
その水流のエネルギーが、筋肉男の能力を凌駕したのだ。
それはもう、あっさりと。

神様のような殺し屋センス――その言葉がまた頭に浮かぶ。
あたし……追いつけんのかな、あの背中……
少し近づいた気がした背中が、また遥か先に行ってしまった気がする。
…だからっていって諦めたりなんてしないけどね。

パシャ――

「水の刀」が再びただの水に戻り、小さな音と共に床に広がる赤い水たまりと混じりあった。
それを少しの間眺めていた里保が、再び部屋の奥を振り返る。
大騒ぎしていた洸は、再度の「ケーセー逆転」に、すっかり元気をなくしていた。


「ひ、ま、待て。な?は、はな、話し合おうぜ」

何を?ねえ何をですか?
心の中で小さくツッコむ。

だが、里保はもうそれに応えることなく、ただ静かに歩を進めてゆく。

「待て、待てって!まヒッ…!」

必死に「説得」を続けながら後ずさっていた洸が、無様に尻餅をつく。
もはやただ持っているだけになっていた拳銃が、その手を離れて床に転がった。

「待って、く、くれ、ま、ま……」

腰が抜けたのか、立ち上がることができずにいる洸の言葉が、「説得」から「懇願」に変わる。
里保は何一つ変えない。
表情も、歩いてゆく速度も、そして心音さえも。

「まひゅ―――」

懇願を続けていた洸の喉を、ナイフが掻き切る。
最後まで見苦しく足掻いていた洸の体は、それを表すかのようにしばらく座ったままの姿勢で血を噴き出した後、ゆっくりとその中に倒れていった。


「完了――だね、お疲れ」

努めて明るく声を掛けたが、里保は無愛想な頷き(それも頷いたのかそうでないのか分からないくらい微妙なやつ)だけを返し、ナイフの回収に向かう。

あれ?何だよもう。やっぱ怒っちゃったの?
どこで?手伝いすぎってこと?
えー。あたしが悪い?
あたしが悪いのかなあ。


「ごめん、里保ちゃん。里保ちゃんに任せるって約束だったのに手を出しちゃって」

すべてのナイフを回収して戻ってきた里保に、とりあえず謝る。
ちょっとムッとはしたけれど、すごいものを見せられた後だけに、こちらが折れることにさほどの抵抗はなかった。

すると、里保は少し驚いたような表情をした後、違うというように首を振った。

「ん?なに?手伝ったこと怒ってるんじゃないの?…じゃあさっきから何で黙ってんの?」

怪訝な顔でそう言うと、里保は少しバツの悪そうな顔をしながら口を開いた。

「喉……さっきのでやられちゃって……」
「げ。何その超ハスキーボイス。どぅよりすごいじゃん」

どうやらさっきの筋肉男の怪力に、声帯を少しやられたらしい。

「香音ちゃんがいなかったらヤバかったかも。ありがとう、香音ちゃん」
「あ、そうなんだ」

なんだよじゃあもっと早く手伝えばよかったよ。
あんな回りくどいことせずに。
でもそのおかげで里保ちゃんのすごさを見ることができたんだから、それはそれでいいか。

「里保ちゃんの『水の刀』すごかったね。いつあんなこと思いついてたの?」
「……今、かな」
「今!?あの場で思いついたってこと?」
「…と言うとほんとは正確じゃないんだけど。優樹ちゃんの夢の中に出てきたらしいんだよね」
「優樹ちゃんの?夢?」
「うん。水の刀で悪と戦う正義のさやしすんカッコよかったですよーって」
「正義って。現実と真逆じゃん。…で?正義の味方になってみたくてやってみたの?」
「そういうわけじゃないけど……ちょうど水もたくさん降ってきたし」
「誰かさんのめんどくさいクイズのおかげでタンクのある場所覚えてたもんで」


案外、それも織り込んだ上でのあの雑談だったのかもしれない。
……それは買い被りすぎかな。

ただ、あんな言い方をしてはいるが、「ウォータージェットソード」に関しては実際にあの場で思いついたことだろう。
あ、なんとなく正義のヒーローの使う武器っぽいよね、この名前。ちょっとダサいところが。
ともかく、相性が悪いなんて見立てが的外れだったのは確かだ。
「水」の能力の汎用性は、そしてそれを操る里保のセンスの高さは、想像の遥か上をいっている。
…面と向かって褒めると調子に乗るから言わないけどね。

「あぁ、疲れた、なんか」

珍しくそんなことを言い、里保が寄りかかってくる。

「ちょっと、重いんですけど。くっつかないでもらえますか?」
「冷たいよ香音ちゃん…」

押し返そうとしたが、里保の体から本当に力が抜けていることに気付き、驚く。
「標的」は片付いたとはいえ、ここから無事に撤収するまでは「仕事」のうちだ。
そんなさ中に、里保がここまで弛緩してしまうのは初めて見る。
結果だけを見れば瞬殺だったが、さすがにさっきのは里保にとっても結構な無茶だったのかもしれない。

「歩けないならえりちゃん電話で呼んでおぶって帰ってもらう?」
「……自分で歩く」
「だったらほら、しゃんとしなよ。早く帰って道重さんに報告するよ」
「ん」

まだだるそうにしている背中を、ぐいっと押す。揺れた髪から、ふわりと金木犀のような甘い香りがした。
こうしてると、そんな遠くにあるように思えないんだけどなあ。

若干眠そうな顔の里保の背景で、いまだ天井から僅かに流れ落ちる水がピシャピシャと音を立てる。
先ほどまで「凶器」そのものだったその存在は、今はただ心地よい眠りを誘うかのような音を奏でていた。
…って寝るなよ?里保ちゃん!





投稿日:2014/04/21(月) 14:41:04






















最終更新:2014年04月28日 09:54