『deep inside of you』


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第1回



これから投下するものは人によっては不快な描写もあるかと思います
苦手な方はスルーお願い致します



ポテンシャル【potential】
「可能な」「潜在する」の意
①潜在する能力。
②[理]力の場を大局的に表現する量。粒子が力の場の中にあるとき、その位置エネルギーを位置の関数として表わしたもの。


せん‐ざい【潜在】
表面にあらわれず、ひそみ隠れていること⇔顕在。

 ‐いしき【潜在意識】
自覚されていない意識。二重人格などの場合の分離意識。

 ‐てき【潜在的】
外面にははっきりあらわれず、内面に存在するさま。「潜在的能力」


広辞苑第三版


―――――――



鼻をつく紫煙に咳払いをし、左足首に纏わりついた金属に触れた。
鎖の先端は壁と直結している。立ち上がり、一歩踏み出したところでその長さはいっぱいになる。
なんどか引っ張ってみるが金属特有の冷たい音がするだけでびくともしない。
壁を壊すほどの力もないうえに、どうも自分の能力が封鎖されていることも感じ取っていた。
舌打ちしたい気持ちを抑え、壁に背を預けて座り込む。

紫煙が全身に纏わりついてきた。
意味はないだろうと思いながらも右腕を大きく回し、空気の流れを変えてみる。

「煙草は嫌いですか?」

自分の数メートル先でパイプ椅子に座っていた男は、手にした文庫本を閉じてそう話しかけてきた。
右手の人差し指と中指に挟まれたそれはずいぶん短くなっていて、灰がぽたりと床に落ちる。
路上喫煙はマナー違反ですよ、なんて口に出せるほどの余裕はない。そもそも此処は路上でもない。
男の身に纏った空気は、自信が対峙してきた能力者の中でも、かなり「上」の部類だと直感した。
下手なことを口にすれば、即座にこの首が刎ねられることは容易に想像できる。

「喫煙者も肩身が狭くなりましたね。いまじゃ喫茶店に入るのにも苦労しますよ」

この男の不思議な点は、纏った空気は有数の能力者のそれであるのに、口数は多い方で、しかも柔らかい物腰であることだ。
油断させるためか、こちらを見くびっているのか、それともこれが男の天性なのか、計り知れない。
いずれにせよ、瞳の中が笑っていないこの男に恐怖心を煽られる。

「煙草を吸うと肺がんになると世の中の大半は信じてますけど、実際のところ、そこに明確な科学的根拠はないんですよ」

男はポケットから携帯灰皿を取り出し、そこに押し付けた。じりっという音のあと、煙が収束する。
なにも言わずに男を睨み付けると、彼は大袈裟に肩を竦め「あなたは興味ありませんか?」と訊ねた。

「自分の信じていたものが、実は全く違う様相を携えていることに」

携帯灰皿をしまうと、今度はコインを取り出した。
親指で弾き、ぱしっと手の平と甲で挟む。

「なんの、話ですか?」

震える声でそう訊ねると、「そのままの意味ですよ」と平然と返した。
コインが宙を舞う。すぐに手の甲へと収まる。弾ける。収まる。弾ける。収まる。弾ける。収まる。
弾ける。
落ちる。
コインが床を回る。くるくる。くるくる。
そのうち力をなくし、止まる。
コインは、止まる。空を仰いだのは、剣を携え馬に跨った勇者だ。

「たとえば、最も信頼している人物が、実はとんでもない怪物であったりする、とかね」

男はコインを拾い、再び高々と放り投げた。
金属音が室内に響き、また床に落ちる。
ころころと転がったコインは、壁に当たって止まる。
コインは、止まる。空を仰いだのは、翼を携えた、魔王だった。

「意味が、分かりません」
「すぐに分かります。いや、嫌でも分かることになりますよ、道重さん」

そう口にした男は立ち上がり、彼女―――道重さゆみへと近づいてきた。
思わず逃げようと一歩踏み出すが、すぐに左脚の鎖がそれを阻む。
じゃらりという冷たい金属音が響く。男とさゆみの距離は50センチもない。

「人は所詮、コインの表と裏のようなものなんです。あなたの中に、もうひとりのあなたがいるようにね」

男はそう言うと、右手でさゆみの髪を撫でた。
悪寒が全身を駆け巡り、咄嗟に逃げようとする。しかし男は左脚をさゆみの腰のあたりに押し付け、彼女の行動範囲を狭めた。
必死に体を捩るが、なぜか、自分の思うように動かない。恐怖で竦んでしまったのか、あまりにも動作が緩慢だった。

「考えたことはありませんか?彼女の中にも、もうひとりの彼女がいることを」

男はその手を鎖骨から首筋へと滑らせ、脇腹までなんどか往復するように撫でた。
冷たい手に触れられ、必死に息を殺す。
指が胸のあたりに触れた瞬間、さゆみは両腕を精一杯に伸ばした。が、即座に手首を掴まれ、左手一本で頭の上で拘束された。
背中と両腕から壁の冷気を感じる。相反するように、胸元と腹部そして顔面に男からの熱気を感じた。
喫煙者を差別する気は毛頭ないが、紫煙の香りに吐き気を催す。

「コインの表と裏、どちらが表なのか裏なのか、実際はだれにも分からない。そしてそれは、簡単にひっくり返るんですよ」

男は熱い息を吐きながら耳元でそう囁くが、その言葉はほとんどさゆみの耳には入らなかった。
ただ、毛虫が全身を這いずり回るような嫌悪感と必死に闘いながら自我を保つことしかさゆみにはできない。
ぎゅうと目を閉じ、口元から漏れそうになる声を堪え、震える膝に鞭を打って立ちつづける。


そんなさゆみの反応を楽しみながら、男はなんどもさゆみの頭から頬、首筋、そして体のラインをなぞっていく。
微かに胸元に指先が触れ、顔を背けて声を堪える。

男の唇が耳朶を咥えようかという刹那、ばん!と勢い良く扉が開いた。
さゆみははっと目を開く。
涙で滲んだ視界の向こう、息を荒くした彼女が目を見開き、即座に腰に手を回した。

「道重さんっ!!」

“水の刀”を手にした鞘師里保は一足でさゆみの元へと飛び込んできた。
男は里保に振り返りもせずに、さゆみから離れ、距離を取った。
脅威から逃れたさゆみはその場にしゃがみ込んだ。慌てて里保が支えるが、さゆみはもはや、人の力を借りても立つことはかなわなかった。

「だいじょうぶですか?!道重さん?道重さん?!」
「っ……あ、あ……さや、し……」

さゆみは、そこに里保がいることを感じつつも、彼女の顔を見ることはなかった。
ただ顔を下げ、彼女の腕にしがみつき、なんどもなんども「鞘師」と名を呼ぶしかできなかった。
後輩の手前、取り乱してはいけないと分かっていたが、見知らぬ男が体に触れたこと、しかも女性として凌辱されかけたことが、さゆみの心を掻き乱した。
里保には、自分が来る直前になにがあったかなど知る由もない。
しかし、目の前で震えるさゆみを見て、一気に怒りが沸点に達する。


「貴様ッ!!」

しがみつくさゆみの腕を振り解き、里保は右脚で踏み切った。
大きく刀を振り上げ、そのまま振り下ろす。男も即座に腰に下げた刀を抜き、噛み合った。
独特の色合いと刃文に、日本刀だと理解する。ただの日本刀なのか、能力が仕込まれた物なのかまでは分からない。
だが、同時に途方もない負の感情が湧き上がってきた。

「早かったですね、さすがです」

さゆみは短く息を吐きながら衣服の乱れを整えた。
顔を上げると、自分の視界の先で、里保と男が刀を合わせている。数メートル先のふたりの会話が聞こえる。

「道重さんになにをした…?」
「なにもしていませんよ、まだ、ね。あと数分遅かったら、私の太くて硬いもの、咥えてもらおうと思ってたんですけど」

その言葉に、さゆみの胃の中のものが逆流してくるのを感じた。
慌てて口をつぐんで吐瀉を堪えたが、喉の奥に物が閊える感覚が拭えない。
刀を噛み合わせていた里保が怒りのままに右脚を蹴り上げるが、男は一歩早く後退し、距離を取る。
さゆみは口元を拭いながら、ふたりの戦況を見つめた。
恐怖と嫌悪に支配されるが、目を逸らしてはいけない。彼女が此処に来たのも、私を助けるためなのだから。

そう理解したところで、妙な感覚に襲われた。
そもそも、さゆみはどうして此処に居るのだ?


思考の沼に入りかけたとき、里保が視界の先でその顔面を鷲掴みにされていた。
名前を呼ぶ間もなく、彼女はそのまま地面に叩きつけられた。
ごきぃっと鈍い衝撃音のあと、声にならない叫びが里保の口元から漏れた。
思わずさゆみも両手で口を覆う。明らかに、無事では済まないような音が部屋に響いた。
床に血だまりはできていない。頭部からの出血はないようだが、脳が揺れたことに違いはない。

「あれ。もう終わりですか?」

男は里保の顔から手を放し、彼女を見下ろした。
長い髪を床に泳がせ、両腕を投げ出したまま動かない。
まさか。と一瞬さゆみは息を呑む。
直後、腰が浮いたかと思うと、それをばねに両脚がぐんと男へと伸びてきた。
「おっと」と男は避け、すぐさま里保も立ち上がった。

「鞘師!」

恐怖で竦んでいたさゆみだが、そこで漸く彼女の名前を呼べた。
ぐあんぐあんと脳と視界が揺れる中、里保は眉間に深く皺を刻んで立ち上がる。
“水の刀”からは手を離さずに、奥歯を噛みしめて射抜くような視線を送りつける。

「イイ目ですね、鞘師さん。でももう少し、欲しいですね」

なにが「もう少し」なのか分からないまま、柄を握る手に血が零れた。
やはり出血したかと眉を顰めたが、それが額や頭部からではなく、鼻血だと気付き、そっと指先で拭った。


男はくすっと笑ったかと思うと、再び一足で懐に入ってくる。
自分の領域を荒らされるのは好きではない。しかし、この男の侵入を、分かっていても止められない。
刀を翻して防御するが、隙間を拭うようにして男に右手首と“水の刀”の柄を同時に掴まれる。
そのまま捻りあげられ、宙に躍り出てる格好になる。
回る視界を正しながら大きく右腕を振って斬りかかるが、空を切っただけで感触はなかった。
空中でバランスを保とうとすると、今度はその左足首を捕まえられた。
まずい、と体重を右脚に乗せて踵から振り下ろす。
男は慌てて脚を解放し、距離を取った。焦点の合わない視界を必死に立ち上がらせ、里保は両脚で自身を支える。
既に息が上がっている。際どい、と首に汗が滲んだ。

「ポテンシャルって言葉、御存知ですか?」

男はそう語りかけるが、当然のように里保は答えない。
代わりに左脚で地面を蹴り上げ、一足で男の間合いに入る。刀を引いて防御されるも、下から振り上げた“水の刀”が微かに男の鼻先を掠めかけた。
口笛を吹きながら「凄い能力ですね」と笑う男は、なぜか余裕を漂わせていた。

「ポテンシャル、可能性や潜在能力という意味合いが強いですよね」

話すのをやめる気はないのか、男は刀を構え直して言葉をかける。
里保は奥歯を噛みしめ、再び地面を蹴る。


常に冷静であれとなんども言われてきた。そんなことは百も承知だし、理解しているつもりだった。
しかし、いまの里保にそんな理屈は通用しない。
自分の大切な人が傷付けられようとしている状況を前にして、平静を保つ余裕なんてなかった。
ただ怒りに身を任せ、刀を振り翳す。

「だれの中にも等しく潜在しているチカラ、あなたの場合はそれが“水限定念動力(アクアキネシス)”、そうだと理解していませんか?」

里保の怒りの原因はそれだけではない。
先ほど激しく湧き上がった負の感情。それは憎しみや怒りを超えた先にあった、深い色を纏う絶望という名の感情だ。
さゆみを傷付けようとした相手は、圧倒的に里保よりも強い。先ほどから数度刀を触れ合わせただけで分かる。
里保は完全に、弄ばれている。男の口数が減らないことが良い証拠だ。
相手の有する能力がなんなのかまだ理解できないが、圧倒的な差が厳然として存在し、歯が立たないことは理解できる。
一応「戦闘ごっこ」をさせてもらえているが、男が本気を出せば、この場で四肢をもがれることも覚悟していた。
それなのに男は即座に里保を殺す気はないようにも見えた。こいつはいったい、なにを考えている?

「それはひとつの真理です。但し、正確に言えば、それだけではない」

刀を弾かれ、直後に腹部に鈍い痛みが走る。男の右脚をもろに喰らい、膝を折ることはなかったが数メートル後退した。
「鞘師!」とさゆみはまたその名を呼ぶ。
どうして私は、こうやって彼女の名前を呼ぶことしかできないのだろうと心が軋む。
あの日もそう。月から魔物が下りてきた夜、私は彼女の背中を見ていた。
本当は私が、彼女より前に立たなければいけないのに。
あの子はいつだって、私の前で私を護ってくれる。冷たい水の底に沈められそうになった、あの日だって―――





投稿日:2014/03/10(月) 22:36:00.88 0


第2回





さゆみの思考などよそに、里保は刀の柄を握る力を込めただけで彼女の声に答えない。それどころか、視線さえも、渡さなかった。
聞こえていないのか、返す余裕がないのか、それさえもいまの状況からは計り知れない。

「理解できませんか?あなたの中に眠っているポテンシャルというものを」

そうして男が指を弾いた瞬間、里保の視界からその姿が消えた。
見えなかったのではない。文字通り「消えた」のだ。
弾かれたように振り返る。既に男は里保の背後に回り込み、刀を振り翳していた。
避ける余裕はない。そのまま“水の刀”を胸の前に構え、振り下ろされた日本刀を受け止めた。

インパクトのあと、大きく後退する。
膝を曲げて必死に堪えるが、あまりにも大きな衝撃を受け止めきれない。
衝撃―――それはまさに「衝撃」だった。

いま、奴は、なにをした?

「そんな顔をするな。焦りが目に見えて無様ですよ」

男は数メートル先で刀を肩に乗せ、軽く足でステップを刻んでいた。
里保は必死に思考を巡らせる。
いま、里保の目の前から男が一瞬消えた。物理的に人が消えるなどあり得ない。だが、それが男の能力だとすれば合点がいく。
「vanish」か。あるいは消えたと見せかけて「teleportation」の類なのか。
いずれにせよ、発動の瞬間を見失えば、次こそ斬られると覚悟する。
柄を持つ手が震えていた。恐れるな、臆すなとなんども言い聞かせて必死に呼吸を整える。


「鞘師……」

掠れた声でさゆみは名を呼ぶ。彼女は男と正対したまま、動かない。
これまでの闘いを見て、さゆみはひとつの違和感を覚えていた。
里保の動きが妙なのだ。
確かに男が強いことはさゆみにだって理解できる。里保が振り回されていることも、遊ばれていることも分かる。
だが、それにしては里保の動きに異変がある。ほんの少しだけ、いつもより遅いのだ。
彼女の振るう“水の刀”がいちども男の体を斬れないなど、あり得ない。
それほどまでに男が迅いのならまだ理解できる。実際迅いのだが、里保が追えないほどの速度ではない。
いざと云うとき、斬りつけるその一瞬、里保の動きが微かに「遅れている」。
いまも、そう。
男が背後に回ったとき、里保の視線は空を切っていた。確かに迅い動きだったが、彼女は明らかにその姿を見失い、あっさりと背中を取られた。

「まさか……」

さゆみが此処に拉致された理由をもういちど思い出す。

今日、さゆみはひとりで喫茶「リゾナント」にいた。夕方、子どもたちの声が徐々に小さくなり、夕陽がゆっくりと影を落としたあの時間帯。
カランと「リゾナント」の扉が開いた。まさにそれが、逢魔が時に現れた魔物だった。
いらっしゃいませと声を掛けると、この季節に似合う黒いトレンチコートを纏った男は、迷わずカウンターへ歩き、メニューを手にした。
いつものようにさゆみがグラスを置くと、男はさゆみの手に触れた。
「え?」と声を出そうとした直後、さゆみの記憶が途絶えた。

次に目を開けたとき、彼女は此処に居た。
左足に鎖を巻かれ、壁を背にした冷たい空間にただひとり置き去りにされていた。
あの男は大股に脚を開いてパイプ椅子に座り、文庫本を片手に煙草を吹かしていた。
なにが起きたのかを理解するより先に、恐怖が心を支配した。


そしていま、さゆみの中に、ひとつの仮説が浮かんだ。

「ところで鞘師さん、それがあなたの本気ですか?」

刀をぶらつかせながら、男が里保に問いかけた。
その言葉に切っ先がぴくっと撥ねた。動揺を悟られたことは目に見えているが、それでも里保は応えない。

「確かに15歳にしてよくやってると思いますよ。戦闘能力はいちばん高いし、状況判断もできる。
切り込み役として現在のリゾナンターを牽引している。だけど、逆に言えば、それがあなたの限界ですか?」
「どういう、意味です…?」

里保は初めて、男の問いかけに答えた。
はっとさゆみは里保の目を見る。怒りと、憎しみと、絶望とに彩られた負の瞳が、男を射抜いている。
呑まれている、と思った。あの冷静な里保が、この状況に呑み込まれている。
その一因が自分にあることくらい理解している。
相手にどんな能力があったにせよ、男に拉致され、鎖で繋がれ、そしてあんな瞬間を目の前で見せてしまったのだ。
未遂とはいえ、15歳の女の子の前で晒して良い姿ではなかった。あまりにも無様であまりにも惨めだ。
しかし、だからこそ里保には止まってほしい。
お願い。お願いだから、待って。待って鞘師―――

「あなたはまだ、こちらの能力を理解しきれていない」
「なに……」
「つまり、こういうことですよ」

男はそう言うと、右手の中指と親指を弾いた。
ぱちんという小気味良い音のすぐあとだった。さゆみの呼吸が、止まった。


「――――――!」

異変に即座に気付いた里保は男から斬られるかもしれないことも厭わずに駆け出した。
「道重さんっ!」とさゆみに駆け寄り、その肩を抱く。

「道重さん!どうしたんですか!?道重さん!?」

まるで子どものようにさゆみを揺さぶるが、さゆみの呼吸は戻ってこない。
なにかがつっかえているかのように、喉から肺へと酸素が入り込まない。
肺が止まったわけではない。だが、その器官としての役割を果たそうとはしない。
喉を掻き毟り、床を叩き、汗を滲ませてもがく。酸素が、呼吸が、息ができない。

「道重さん!道重さんしっかり!!」

里保の声が徐々に遠くなる。
汗が床に落ち、頭が真っ白になっていく。
落ち着け・落ち着けとなんども自分に言い聞かせる。人間の呼吸は2分程度なら止まっても死なないと本で読んだことがある。
だいじょうぶ、さゆみだって2分なら止められるはず。無様に、取り乱しちゃだめ。そうしないと、また、この子が……

「道重さん!しっかりして下さい!道重さん!」

里保の瞳から、怒りが消え、代わりに哀しみが現れる。絶望の色が濃くなって、いまにも光を失いそうだった。
だめ。だいじょうぶ。だいじょうぶだから、鞘師。だから、だからそんな目をしないで。
そう言いたいのに声が出ない。息が止まった状態ではなにも伝えられない。
辛苦の痛みに耐え、歯を食いしばって顔を上げた。男は相変わらず笑ったままこちらを見ていた。


その手が微かに動き、再び指を弾いた瞬間、忘れていたように肺が通常の動きを取り戻した。

「はあっ!」

直後、むせ返るような咳を吐く。滞っていた酸素たちが全身を巡り始める。
脳が一瞬割れかえるような痛みを覚えるが、堪えた。

「道重さん!!」
「あ………っ、かはっ……」

また、先ほどと同じように声が枯れてしまった。
心配ないよと彼女に手を伸ばす。里保は泣きそうな目でさゆみの右手を握った。震える手から痛みや切なさが共鳴してくる。
だめ。だめだよ鞘師。お願い、そんな顔しないで。

「理解、しましたか?」

心配ないよ、そう伝える前に男が里保に言葉を投げた。
ああ、やはりそういうことかとさゆみは理解した。この男の能力は―――

「“時間操作(タイム・トリック)”……いや、もっと限定的な、“時間遅延(タイム・ディレイ)”か」
「御明察。ただもう少し早く気付いてほし……」

男の声は最後まで音になることはなかった。
風圧が眼前に襲い掛かり、瞬時に過ぎ去っていった。
ぷつっと皮膚が裂けた音がしたあと、左頬に斜めに傷跡が生まれる。そこを綺麗になぞるように血の線が浮かんだ。
できあがったひとつの筋を親指でなぞり、「ほう…」と血液を指に擦り付けた。

「イイ、ですね」

これまで掠めることはあっても、皮膚が避けるほどの衝撃を受けたことはなかった。
いわば初めての打撃にもかかわらず、男は冷静に笑うだけだった。
親指をべろりと舐め上げると、左足で地面を蹴る。
いつの間にか男の懐に飛び込んでいた里保もまた同時に跳躍する。
刀が中空で噛み合い、衝撃で弾かれる。間髪入れずに二刀目を翳す。一瞬、切っ先が男の左肩を捉える。肉に入り込みかける刀身を右脚で蹴り上げられる。
再び距離ができる。里保は地面に落ちるのを待つことなく次の一手に入った。

「なにっ…?」

さゆみも男も、ほぼ同時にその言葉を口にした。
里保は自らの“水の刀”を二分していた。平たく言えば「二刀流」というものだが、それをさゆみが目にするのは、初めてだった。
着地と同時に腰を大きく捻り、半ば背中を見せるように構え、円盤投げのように右手の中にあった短刀を投げつけた。
男は舌打ちし、刀を正対させる。
“水の短刀”は日本刀に裂かれ、文字通り水となって弾けた。水が目に入り、男の視界が遮られた。
怯みながらも男は指を鳴らす。構うことなく数歩先に里保が飛び込み、下から斜めへと斬り上げた。
大きく体を反らして切っ先を避けられる。ひとつの機会を逃したことに対し、里保はあからさまに舌打ちをした。

さゆみは呼吸を整えながら、あと数ミリで男の顔はまっぷたふつになっていたことを理解した。
先ほどより里保のスピードが上がっている。
あの男の能力を理解したからか、それとも発動の瞬間を見抜いたからかは分からない。
ただ、彼女への妙な違和感がまだ拭いされていない。
先ほど感じた速度のことではなく、もっと本質的な「なにか」、その「なにか」がおかしい。


「さっきよりもイイ目になりましたね」

男はトレンチコートの内ポケットに手を伸ばし、黒い鉄の塊を手にした。
それが拳銃だと気付いた里保はすかさず物陰に身を顰める。
一発、銃声が響き、壁にめり込む。
厄介だなと再び舌打ちした。

「良いんですか、そんな場所に隠れても。まるで袋の鼠ですよ」

男は右手に日本刀、左手に拳銃を携え一歩ずつ里保に近づき言葉を吐いた。
先ほどの呼吸困難を経験し、さゆみは、この男の能力が時間停止ではなく遅延だと気付いた。
恐らく、さゆみの肺機能を遅めたことにより酸素を全身に巡らせる速度が著しく損なわれ、呼吸が止まったように錯覚した。
発動は恐らく、指を鳴らしたその瞬間だ。
いまこの場で指を鳴らされ、里保が“時間遅延(タイム・ディレィ)”に囚われれば、それこそ彼女は蜂の巣になってしまう。

「自分が目視できる範囲で発動し、その対象は自分の手がスキャンした場所」

物陰からの声に、男の脚が止まる。

「さっき水が弾けて目を細めたとき、指を鳴らしても“時間遅延(タイム・ディレィ)”は発動されなかった。
つまり、指を鳴らすだけでは発動条件には満たされない。
あなたのスピードが上がったと錯覚したのは、私の両目が光を需要する速度が遅くなったから。
打撃が当たらないのは、あなたに触れられた右手がインパクトの瞬間に遅れているから。
道重さんの肺機能を遅らせることができたのは、あなたがその汚い手で道重さんの体…上半身に触れたから」


演説を終えると、里保は物陰からすっと左手だけを伸ばした。
発動させてみろと言わんばかりにひらひらと挑発されたにもかかわらず、男は満足そうに称賛する。
「予想以上ですねこれは」とわざわざ銃をしまい、手を叩いた。
あの一瞬でそこまで見抜いたのかとさゆみもまた感嘆に近い感情を抱く。

「ですが、あなたに発動できなくても、先ほどのようにこちらの彼女に発動すれば良いだけのこと」

男はそうしてさゆみに視線を向ける。狙われていると理解するが、恐怖で体が竦んでなにもできない。
もっとも、脚に錠を掛けられた以上、この場から逃げることなど不可能なのだが。

「その前に、その手を刈るまでだ」

里保は口元の血を拭い、べっとりと汚れた手のひらで地面を叩いた。
すると、手の平の血がぬるりと動き出し、まるで細長い蛇のように意思を持ち、男の足元へと走っていった。

「これは……!」

“血の蛇”は男の左足首に絡みつくと、獲物を締め付けるようにとぐろを巻いた。
そのまま蛇は里保の元へと戻ろうと走り出す。男は強烈な痛みに足をすくわれ大きく仰け反った。
一瞬の隙を逃すことなく物陰から飛び出し、振り上げる。
虚を突かれた男は即座にコートの中の拳銃を取り出す。
銃声が響き、肩を貫かれる。構わずに“水の刀”を振り下ろす。里保の刀身が綺麗に男の右手を捉えた。
日本刀の柄と里保の刀に挟まれ身動きできなくなった指が吹っ飛ぶ。
ぼたぼたっという重苦しい音のあと、男の右手人差し指と中指、そして親指の第一関節が血の海に浮かんだ。


「っ……!」

支えを失った日本刀が落ちた。
男の右手からは指が3本失われ、辛うじて薬指が半分千切れかかった状態でぶら下がり、小指だけが綺麗に直立していた。
左手の中には相変わらず小型の銃が握られているが、痛みからかその銃口は揺れている。
短く息を吐きながら「迅いじゃないですか」と男は片頬を上げた。

「それがあなたの本気ですか?」
「関係ない。さっさと此処から消えろ」

冷徹で黒色のその言葉は、そのまま彼女の心を映しているようにも思えた。
ぴりぴりと肌に感じていた違和の正体は、里保の有した激情なのだろうかとさゆみは思う。
激情の要因はただの憤怒ではない。
もっと深い、根幹にある、憎しみや哀しみが滲み出ているのが目に見える。


―――あなたの中に、もうひとりのあなたがいるようにね


真っ黒な感情を剥き出しにする里保を目に映すと、なぜか、先ほど男が放った言葉が頭をよぎった。
相変わらず床に落ちたコインは真っ直ぐにさゆみを見つめている。
男の手がさゆみを撫で回したあのときの言葉は、いったいなにを意味していたのだろう。




投稿日:2014/03/11(火) 22:35:27.21 0


第3回






「私の手を刈るのではなかったのですか。手ではなく、指先、しかも3本だけしか落とせていませんよ」
「指でも手でも大差はない。言いたいことは、それだけか」

男の言葉を受け、改めて刀を構え直す。
さゆみにも、そして里保自身にも勝算があった。
男の能力発動条件である指鳴らしだが、少なくとも右手は防げている。能力を行使するには左手に持った銃を持ち直すか落とすかしかない。
互いの距離は遠くはない。左手を動かした瞬間、里保が一足で懐に飛び込めば、殺せはしなくとも致命傷は与えられる。
里保の左肩が撃たれているとはいえ、明らかに有利なのは、こちらだ。

「……残念ですよ、その程度が本気なんて」

男はゆっくりと銃を構え直した。
銃口は真っ直ぐに里保の眉間を捉えている。しかし、彼女の速さなら避けられないことはない。

「憎しみを身に纏って迅くなったは良いですけど、所詮はそのレベルなんですね」

男の口から放たれる言葉は、到底追い詰められた人間のそれとは思えなかった。
確信めいた余裕が何処から立ち現れるのかさゆみには理解できない。
まだなにか隠し玉があるのだろうか。だが、右手がほぼ機能しない中で里保が負けるなど、それこそ想像できない。
里保は応じることなく男を睨み返し、柄に込める力を強めた。
男の指先が引き鉄にかかる。ゆっくりと力が入っていき、微かな金属音が空気に触れた瞬間、里保は左足で地面を蹴り上げた。





なにが起きたのか、里保も、さゆみも、分からなかった。
一足で懐に飛び込むはずだった。
だが、里保は未だにその場に居たまま、一歩も動けないでいる。
左足は地面から数センチ浮いた場所で止まり、右手は刀を握りしめたまま、ほんの少しも機能しない。

「鞘師!」

里保は焦りを目に映しながらも、必死に腕と脚を動かそうとする。
が、自分の意思に反し、まるで石像のようにそれらはびくともしない。
正確に言えば、微かに前に進もうと動いては居るが、あまりにも遅い亀の足は、紛れもなく“時間遅延(タイム・ディレィ)”の効力だった。

「まず発動条件の指摘からしましょうか」

男は銃口を下げると、出来の悪い生徒に諭すように語り出した。

「水が弾けて目を細めたときには発動されなかった。その着眼点は良かったのですが、あなたの意識はやはり指と音から離れていなかった」
「なに……?」
「指はフェイク。本当は目の奥にある視神経からの伝達が能力の発動条件なんですよ」

その言葉に、里保は目を見開いた。
判断を見誤ったと痛感すると同時に、嫌な汗が背中に落ちる。
その判断ミスは、とてつもなく、取り返しのつかないものではないかと。

「発動を止めるには目を刳り貫くしかない。指なんかどうでも良いんです」

だらしなく指がぶら下がった男の右手を一瞥すると、絶え間なく垂れ流されていた血液が止まった。
失血が遅くなっていると理解したとき、男の言葉が嘘ではないことを同時に理解した。


「次に発動範囲。確かに範囲は、私が目視でき、手がスキャンした場所ですが、それは有機物に限りません。
実際、あなたの“水の刀”はもう、遅延されているでしょう?」

里保はハッとして手中にある“水の刀”の形状を変えようとするが、能力が発揮されないことに気付いた。
形状は徐々に変わりつつあるが、自分の手足の動き同様に、あまりにも遅すぎる。これでは遠距離から砲撃することもできない。

「そして遅延の速度。それに考えが及ばなかったのは意外ですね。まさか通常の1秒が10秒程度に遅くなる、なんて思っていたわけじゃないでしょう?」

男は左手で軽く引き鉄を引いた。
ばん!という重い音のあと、里保の右膝が射抜かれる。苦痛に顔を歪めるが悲鳴を奥歯で噛み殺した。
さゆみはもう、そんな彼女の名前を呼ぶことすら敵わなかった。
胸が張り裂けそうになった。どうして、どうしてこんなことになっているのだろうと後悔がせめぎ合う。

「10分の1・100分の1と刻めますが、いま、あなたの右手と左足の時間は、約1万分の1秒の速度で動いています」

その言葉に、さゆみも目を見開き、里保は息を呑んだ。
咄嗟の計算が出来なくとも、1分が60秒であり、100分でも6000秒だと理解できれば、いかに鈍足であるかは分かる。
いま能力をかけられた里保は、手足が1秒で動かせる範囲の動作に、2時間46分40秒もかかることになる。

「以上3点の見過ごし。お分かりいただけましたか」
「貴様ッ……!」
「そこで黙って見ておけば良い。呪うなら、自分の無力さを呪って下さい、鞘師さん」

銃をコートにしまうと、「ではつづきをシましょうか、道重さん」とさゆみに向き直った。
冷笑という言葉があまりにも似合う目の前の存在に、全身の毛が逆立つ。
脱兎の如くもがくが、当然のように冷たい鎖がさゆみの動きを阻害する。半径1メートルから、動けない。

里保の中を焦燥が駆け巡る。手足があまりにも鈍重で、骨が悲鳴を上げる。
だめだ。いけない。早く。道重さん。逃げて!

「道重さんっ!」

右手と左脚を“遅延”された里保が叫ぶ。しかしその声はさゆみには届かない。
男は全身を舐め回すように眺めると、「スタイル良いですね」と笑った。
さゆみは悪寒と恐怖に抗いながら必死に男を睨み付ける。そうしない限り、自我が崩壊しそうだった。

「さっきは触っただけですからね、せめてキスくらいさせてくれませんか」
「舌を、噛み切られたかったら、いつでもどうぞ」

凛とした佇まいでそう返したいのだが、言葉尻が震え、あまりにも情けなくなる。
男の背中の向こう、数メートル先で里保が必死にもがいているのが見える。せめて里保が打開策を見つけるまで時間を引き延ばしたい。
だが、それがなんの解決にもならないことはさゆみがいちばん理解していた。
能力封鎖されているとはいえ、そもそも自分がこの鎖に繋がれている以上、あり得る未来は限られているのだから。

「あなたの目的はなんなの?」

肩や鎖骨に触れられながら、さゆみは初めて男に問うた。

「あなたを犯すことのその先に意味がある、と言えば分かりますか?」

引き延ばしにしては杜撰な質問だったが、意外にも男はその問いに答えた。
その先とはどういうことだとさゆみは眉間に皺を刻む。
一瞬「結果」という生々しい考えが浮かぶが、即座に排除した。そんな理由ならば、さっさと能力を使って済ませれば良いだけのことだ。

「地球上に水がどれほどあるか、ご存知ですか?」

急に理科の授業が始まったような発言にさゆみはまた眉を顰めた。
ころころ変わる話題で攪乱させようとしているのか、と思考を巡らせ始めたとき、男は言葉を紡いだ。

「約14億立方キロメートル。想像もつかないような数字ですが、地球の表面の約3分の2は水です。
お分かりですか?鞘師里保の“水限定念動力(アクアキネシス)”を本気で解放すれば、地球上の生物を一瞬で死に絶えさせることも可能なんですよ」

一気に吐き出された言葉に、さゆみも、そして里保も目を見開いた。
地球上の生物を?一瞬で死に絶えさせる?

「先の震災での最大の被害は津波でした。
人々が油断していたのもありますが、あの怪物は一瞬のうちに街を呑み込みました。彼女はそれを操る術を持っている」

その言葉の意味を理解するまでの時間はあまりにも必要だった。

「鞘師里保はその気になれば、この世界を滅ぼすことすらできる。いわば、神にも悪魔にもなれる存在なんですよ」

鞘師が、この世界を滅ぼす悪魔?
確かに里保の能力は、身近な水を刀のように形状化したり、砲弾のように固めて撃ち抜いたりするものだ。
先ほど初めて目にした「二刀流」や「血の蛇」も、その能力の延長線上にあるものだとは理解している。
だけど、その能力範囲は考えたこともなかった。
鞘師里保のチカラ―――“水限定念動力(アクアキネシス)”―――いったい、どれほどの量の水を、どれほどの威力で操作できるのだ?

「たとえばアメリカに雨が降ったとしましょうか。その雨が刀や針のようになったとしたらどうです?」

男の言葉を、想像する。
万物を潤すはずの天からの恵みが、一瞬にして凶器に変わる。覆いを斬り裂いたそれは、大地に血の雨を降らせる。
それはまさに、911の再来。世界地図を書き換える狂気だ。

自分たちの能力は国家権力を超えるほどの危うさも有している。分かっているはずだったのに、忘れてしまいそうになる。
ダークネスとの殺戮により、死と隣り合わせな日常を過ごしているにもかかわらず。
死ぬことよりももっと大きく、計り知れないほどに広がる“闇”の存在に。

「そんなこと、あの子は、しない」

光を呑み込もうと大口を開けた闇に、抗いを突き立てる。それが愚直な蟻のひと噛みでも、さゆみに口を閉ざすことはできない。
彼女が無意味に能力を解放して、信念を曲げて殺戮に走ることなどあり得ない。そんなことくらい、さゆみがいちばん知っている。

「空腹は最高の調味料、と聞いたことはありませんか?」

再び、男の口から語られる言葉の趣が変わった。
今度はなにを言おうとしているのか、やはり思考を巡らせるより先に男が話す。

「人を最も強くするものは、正義感でも、まして希望でもない。絶望ですよ」
「絶望……?」

さゆみの反復に満足そうに頷いてつづけた。

「それは人生最高のエッセンスです。先の震災で人々が生き延びた術は、深淵に立ち、真の絶望を見たからです。
一切の光のない闇に孤独に立つ自分を見て、人は立ち上がるのですよ」

さゆみが着ている喫茶「リゾナント」の制服であり淡い水色のワイシャツに男の手がかかる。
思わず両手で跳ねのけようとするが、先ほどと同様に左手一本で頭上に固定された。
遅延された両手は、そのまま壁に張り付いたように動かなくなる。
まさしく「絶望」がさゆみに襲い掛かってきた。どう足掻けば、この不利を逆転できる?どうもがけば、最悪の結末から外れられる?

「だから私は見てみたい。正義の味方を気取る彼女ではなく、絶望というエッセンスを得た彼女を」

真っ直ぐにさゆみを見つめながら言葉を突き立てる。
男の向こうがわ、“時間遅延(タイム・ディレィ)”を打ち砕こうとする里保は必死になってさゆみの名前を叫んでいた。
それは、道に迷った幼子が、母親を求めて探す姿とよく似ていた。

「破壊と絶望を振り翳し、世界を統一するための、狂気を」

シャツに手がかかる。
抵抗の術はなにひとつない。
だめだ、動けない。このままじゃ。私……私―――

「彼女の中に眠るポテンシャルを。潜在能力を解放した、鞘師里保を」

シャツのボタンが弾け飛び、胸元まで強引に開かれる。
里保が叫ぶ。さゆみは覚悟と絶望を感じながら唇を噛む。
さゆみが下に着ていたグレーのインナーに男は大袈裟に肩を竦め、滑稽なピエロのように顔を歪ませた。

「このインナーは、あなたにはいささか不格好ですね」
「寒いからね……冬の水作業はキツいの。洗い物、あなたもしてみる?」
「では温め合いましょうか。挿れて腰を振るだけで良い汗がかけますよ」

虚勢を張って言葉を並べるが、男はなんの興味も示さずにそれを蹴り倒していく。
インナーに手がかかり、力が込もるのを感じる。
「やめろおお!!」と里保は力の限り叫び、右膝からの出血を針に変えて男へと飛ばす。
男はその動作を予期していたかのように、振り返りざまに“血の針”を刀で斬り落とした。
カランと意識を失くした針に里保は絶念する。唯一の、たったひとつの突破口になりうるチャンスを逃した。
対照的に男は笑い、そのままさゆみに向き直ると、一気にインナーを引きちぎった。


「いやっ!!」

ぎゅうと目をつぶって叫んだ。
情けないと思ったが、我慢できなかった。
家族以外、異性に見せたことのない、己の姿。
シャツを引きちぎられ、上半身に下着一枚の姿は、あまりにも頼りなく、あまりにも惨めで、あまりにも憐れだ。

「道重さん!!くそっ!動け!!動いてよ!!」

髪を振り乱し、突進する獣の如く右脚でなんども地面を蹴り上げ、渾身の力で前進しようとする。
だが、遅延された右手と左脚は空間に張り付いたまま、一向に自由にならない。
いっそ手足を斬り落とそうにも、“水の刀”自身も同じく遅延されているために役に立たない。
里保は必死に頭を働かせ、遅延を解除する術を見つけようとするが、焦りと怒りで思考もままならない。
その間にも、さゆみの真っ白な体を男の左手が這っていく。

やめろ、やめろ。頼むから、やめてくれ。
声の限り叫び、男を罵り、手足をばたつかせ、それでも現状は変わらない。
里保の目の前で、尊敬してやまないあの人が、傷付けられていく。そんなもの見たくない。
助けなければ。護らなければ。私が、道重さんを。


―――信じとーよ、さゆも、絵里も。そして、鞘師のことも


―――約束する。絶対、鞘師はだいじょうぶだから


―――めっちゃドヤ顔じゃん、鞘師



なにが、なにがだいじょうぶなんだ。
田中さんに信じていると言われて。道重さんにだいじょうぶと言われて。
自惚れていたわけじゃない。
あのときだって道重さんを助けることができた。だから、だから今日だって。今回だって絶対に道重さんを―――

「やめてっ!!やだっ!!」

男の左手が、さゆみの下着を鷲掴みにした。彼女の悲鳴の色が濃くなっていく。
じわじわと広がる絶望が、真の闇となって里保を呑み込んでいく。
さゆみが男の毒牙にかかろうとしている現実が、里保の自我を奈落へと叩き落とした。
護らなきゃ。護らなきゃ。私が、道重さんを。護るんだ。道重さんと、あの日、約束したんだ。
道重さんは、道重さんは、私の傍に居てくれるって―――!


「道重さぁん!!」


里保の奥底からなにかが湧き上がり、すべてを呑み込んだ。
大きく心臓が撥ねたその瞬間、遅延された右手と左脚から鋭い光が溢れた。
男は肩越しにその光を感じ、落ちていた日本刀を素早く拾い、光と正対させた。
直後、光と音が激しく集散した。
爆発だと気付いたときには、既に地鳴りがさゆみに襲いかかってきた。耳を塞ぐことは叶わず、顔を逸らし、衝撃を回避する。
しかし、衝撃は彼女の全身を包み込み、背後の壁を破壊した。
ガラガラと音を立てて崩れ落ち、さゆみもまた爆風に押され、地べたに叩きつけられた。




投稿日:2014/03/12(水) 23:56:47.75 0


第4回





しばしの沈黙のあと、耳の奥がジンジンと痛むのを堪えてゆっくりと目を開く。
先ほどまでいた場所に黒煙が立ち上っている。床には所々炎が立ち込め、瓦礫が散らばっていた。
いつの間にか両手の遅延から解放されていた。痛むこめかみを押さえ、目を細くする。

「なに、が……」
「次元震、ですよ」

さゆみはハッと顔を上げる。男は日本刀をぶんと振り、刀身についた瓦礫や土埃を払っていた。
相変わらず右手から血が緩慢に滴り落ち、左腕に擦り傷、頬にいくつかの傷を新たにつくっている。
いまの爆発を受けても大きく負傷していないのは、やはりその能力ゆえだろうかとさゆみは思う。

「時間の歪みを正せるのは能力者だけ。無理に戻そうとすると、時間軸が大きく揺らぎ、爆発するんです」

男の言葉を噛み砕く。
次元震。時間軸が揺らいだ結果の爆発。その原因なんて、目に見えている。

「彼女が強引に遅延を正常に戻そうとした結果、でしょうね。まあもう生きてはいないでしょうけど」
「そん、な……」

さゆみは打ちひしがれそうになりながらも、黒煙の中を見る。
先ほどの爆発―――次元震の影響は凄まじく、部屋を派手に吹き飛ばし、見る影もなくなっていた。


天井は崩れ落ち、下弦の月の下、夜の闇が広がっている。
四方を囲んでいた壁はほとんど地べたに斃れ込み、わずかに柱が数本、痩せこけて立っているだけだ。
さゆみを拘束していた足枷も、衝撃によって粉々に砕け散っていた。
いまなら逃げることも可能だが、そんなことを思う余裕はない。鼻をつく妙な匂い、人肉の焼けた匂いに、男の言葉が現実味を帯びてくる。
鞘師…鞘師、鞘師……鞘師!!

「さや……!」

彼女の名を呼びかけたときだった。
さゆみも、そして男も、その黒煙の中に人影を見つけた。
男は口笛交じりに「凄いですね」と笑ったが、そこに立つ彼女を見て、瞳の色を変えた。
さゆみはもういちど彼女の名前を呼ぼうとしたが、思わず、躊躇った。

背後で火柱が立ったあと、彼女は一歩踏み出した。
遅延されていたはずの右手と左脚は真っ赤に染まっている。
次元震の影響か、纏っていた服はちぎれ、隙間から見える肌はいずれも火傷を負っている。
だが、さゆみを躊躇わせた理由は、そのどれでもなかった。
彼女の瞳が、真紅に変わっていたのだ。

―鞘師……?

血走っているわけでもない。彼女はまるでカラーコンタクトを入れたかのように深い赤の瞳を有していた。
自慢の長くて艶のある黒髪も、その毛先数センチが赤く染まっていた。
男は左手の中の刀を構え、「お目覚めですか?」と一歩踏み出した。


瞬間、彼女の姿が視界から消えた。
さゆみも男も息を呑む。
慌てて男が振り返るが、背後を取られたわけでもない。

「何処を見ている?」

その声に導かれ天井を仰ぐ。
彼女は天高い位置に座標を取ると、そのまま重力の法則に従いながら、手中の“水の刀”を迷わずに男へと振り下ろした。
即座に刀で応戦しようとするが一歩遅く、男はその右手首を撥ね落とされた。
悲鳴を上げる間もなく後退するが、彼女は間髪入れずに攻撃をつづけた。
流れるように刀を振り翳す彼女に対し、男もまた応戦する。

刃が噛み合い、交錯する。
ギシィっと悲鳴を上げた刀を振り払い、距離をつくる。

「やっと逢えましたね……サヤシさん」

彼女―――鞘師里保は、無表情のまま男を見つめた。
つい先刻までそこにあった黒い感情は何処へ集散したのか、いまの彼女には、あまりにも色がない。
対照的に、手首を落とされたにもかかわらず男は楽しそうに笑う。

「なるほど……そう来ましたか」

男はにたっと見下しながら、遅延されていた手足を見た。
さゆみも連られてそこを見る。


「―――!」

彼女の右手首と左足首は、なかった。
そこには真っ赤な血で固められた擬似的な手足が存在していた。
先ほどの次元震で骨が砕けたのか、筋肉や神経が爛れたのかは分からない。
だが、失った手足に変わり、溢れ出した大量の血を固め、手足の代わりとして繋ぎとめていた。
自らの血であるために抗原抗体反応も起きない。
神経を通っていないがために完全に自由な動きを取ることはできないが、
“水の刀”―――いや、“血の刀”の柄はその形状を変え、里保の“血の右手”に絡みつき、多少の振動ではずれないよう固定されていた。
同様に、左足首もしっかりと脛に巻きつき、バランスを取っている。

「全く……驚かされますね」

不可抗力かもしれないが、遅延されていた箇所を断つことで里保は自由に動くことが可能になった。
手中の“水の刀”が“血の刀”に変わったのも、同じ理由だろう。
男は心からの感嘆を述べると、左手に日本刀を持ちかえた。
斬り落とされた右手首からの血がゆっくりと落ちる中、バランスを取るかのように軽く腰の位置に下げた。
構えが、変わった。

「あれは……」

何処かで見たことのある構えはその手の中にあるものが日本刀でなければ、紛れもなくフェンシングのそれだった。
レイピアを片手に持ち、素早く突きを繰り出す西洋剣術。
単に右手を落とされたがために構えを変えたのか、それともこちらが男の本領なのかは分からない。
いずれにせよ、さゆみの意識は、男が素早く一歩踏み出し、里保の右頬を掠めたところで強引に引き戻された。


テンポ良く突きをつづける男を丁寧に払いつつも、里保は徐々に後退する。
“時間遅延(タイム・ディレイ)”が発動されているかどうか定かではないが、男は、迅い。
里保は刀身を丁寧に払うと、刀を滑らせ、下から掬い上げた。
鋭い音のあと、男の日本刀が高々と宙に舞う。
落ちてくるまでの隙に懐へ飛び込む。

だが、狙っていたかのように男は拳銃を取り出す。
スライドさせることなく、引き鉄を引いた。
連続で2発。撃ち込まれる。
1発が脛を、もう1発が首元を掠める。それでも怯むことなく振り下ろす。
“血の刀”の切っ先が眉間を微かに斬り裂く。
とろっと溢れた血が男の目に入った。視界が霞み、すかさず拭う。

「遅い」

その言葉の直後、里保は宙から落ちてきた日本刀を左手に持つと、両手の刀を振り下ろした。
想定になかった攻撃が男を襲う。
両肩口から刀剣が入り、深々と斬り裂かれた。

「ぐっ……!」

男は里保の左手首を掴むと、強引に捻った。
が、先ほどとは違い、彼女は宙に舞うどころかびくともしない。
間髪入れずに右脚で腹部を蹴り上げると、里保は日本刀からその手を離して後退する。

カランと日本刀が落ち、距離ができたのも束の間、再び里保が間合いに入ろうとする。
舌打ちし、男は目を見開く。


“時間遅延(タイム・ディレィ)”だと気付いたさゆみは息を呑む。
が、彼女は男が能力を発動させたその瞬間、再び構え直した“血の刀”で「空間」を斬り裂いた。

「なにっ?!」

果たしてその能力は行使されなかった。
まるで“水の刀”が男の能力そのものを斬り裂いたかのように、遅延が起きない。
虚を突かれた男の懐に飛び込み、その両太腿を一文字に斬りつける。
痛みに思わず膝をついた男と対照的に、彼女はしっかり両脚を地に着けて立ち、男を見下ろした。
抜け落ちた天井から下弦の月が顔を出す。冷たい夜風が里保の赤髪を撫で去っていった。

「斬撃による“能力払拭”なんて……さすがに反則じゃありませんか?」
「…………」
「……イイですね。実にイイですよ、鞘師さん」

答えない里保に対し、負け惜しみのように、心からの感嘆のように呟いた男は再び引き金に力を込める。
間髪入れずに、引く。乾いた音のあと、床がなんどかめり込む。
里保は銃弾を受けることなくさらりと躱し、“血の右手”から、少しの血を拝借し、小さな弾のように固めた。
そのまま左手で銃の形をつくったかと思うと、お返しとばかりに“血の弾”が連射され、男に襲いかかっていく。
まるでマシンガンのようなそれを回避しつつも、遂には男の右肘にいくつかの楔が撃ち込まれた。
「くっ…」と男が呻いたのも束の間、里保は静かに、呟いた。

「喰い尽くせ―――」

その言葉の直後、“血の弾”は連続して肘から肩口へと、男の体内を奔り出した。

「うあ゛あ゛あああ!!」

右腕の筋肉、骨、血管、それらを悉く破壊しながら“血の弾”が肩へと上っていく。
内部からの激痛が濁流の如く襲いかかり、男はそれを止められない。
なんども“時間遅延(タイム・ディレィ)”を行使しようとするが、全く発動しない。

激痛のあまり、所構わず発砲する。
銃弾が床や柱にめり込み、最後の1発がさゆみの足元近くに突き刺さる。
がきんという鈍い音がなんどかつづき、弾切れだと理解する。
足元が覚束ない。腕を抑えても、なにをしても、腕の中を這いずり回る“血の弾”の動きは止められない。

滑稽に踊る男を見ながら、里保はすっと左手を広げ空に向けた。
下弦の月が雲に呑まれ始める。ゆっくりと大気が動いていくのが分かった。
ハッとしてさゆみは空を仰ぐ。月の周辺に黒雲が集まり始めていた。
今日は綺麗な月影が望まれると天気予報は伝えていた。あんな黒雲、先ほどまで存在していなかったはずだ。

「まさか……」

さゆみの耳に遠雷が届いた
確実に、雷雲が発生している。
月を覆い隠している雲に手を翳し、里保はなにかを詠唱し始めた。
雷・雲・雨・水。
その条件は、揃った。

「轟き落ちろ―――」

遠隔操作の如く、里保が上から下へ手刀を斬った。
直後、天から鋭いなにかが男の右肩のみを目がけて滝のように流れ落ち、見事にぶち当たって削ぎ落とされた。


「あ゛あ゛あ゛ああああ!!」

ごきごきと骨が悲鳴を上げて砕け散り、ぶちぃっと神経が千切れる音がする。
さゆみは口元を押さえ胃の中の逆流を防ぐ。喉元に上がった酸味を堪える。
ぼとりと落ちた右腕は血の海に浮かび、肩口から何本かの神経と筋肉がだらりとぶら下がる。
地面には男の血液どころではない大量の水が溢れ散っている。なにが起きたのか、さゆみの脳は処理しきれない。
はぁ・はぁと短く息を吐く男を、冷たく里保は見下ろしていた。

「“雨の刃(レイニー・ソード)”ですか……雨雲を呼び寄せ、大気中に浮かぶ雨粒を凝固し、斬撃する……」

男の言葉に、さゆみは深くしわを刻む。
大気を動かし、雨雲を呼ぶことが可能なのか?
だがしかし、さゆみの目の前で起きていることはもはや現実以外の何物でもない。
これを受け入れない限り、前には進めない。
処理を諦めることなく、能を必死に働かせる。

雨が1時間に10ミリ降った場合、地面一面に水たまりをつくるほどの水が発生するのだと聞いたことがある。
暴風雨や台風の際、雨量は1時間に100ミリにのぼり、息苦しさをともなう圧迫感があるという。
100ミリという数字は、重圧に換算すると、0.1トンほどになる。
その力をなんらかの形で凝縮し、一点に集中させることができたとしたら。
いま、目の前で起こっている現実がその凝縮の形だとしたら―――?

先ほどまでの闘いが嘘のように防戦一方となった男と攻勢に転じた里保を交互に見つめる。
背筋が凍るほどの思考を、それでもさゆみは止めない。

「それが、あなたの、ポテンシャル、ですか」

乾いた笑みを浮かべた男に対し、答える必要がないと言わんばかりに睨み付ける。
周辺に溢れた雨水を呼び寄せ、再び里保は“水の刀”を形成した。
そして“血の左脚”を見つめると、詠唱のあと、先ほどと同様に血を拝借し、固め終えた。

「絞めあげろ―――」

それが合図のように脚から走り出た血は一直線に男の首元へ伸びた。
左手で日本刀を拾い上げて再び応戦しようとするが、刀身をするりと躱し、男の首元へと巻きつき、勢いそのままに男を柱へと押し付けた。

「ぐはっ…!」

“血の縄”が男をぎりぎりと締め上げていく。拘束を解こうともがくも、手に触れようとした瞬間に縄は液体に戻る。
戻ったかと思えば再び縄のように形状化し、男は翻弄され、成す術もなく締め上げられる。
そのうち力なく刀を落とし、半ば諦めたように、「っ……す、さまじい……ですね」と笑った。

「狂気が、よく…似合います」
「…………」
「それ、が、あなたの……本性、ですよ」

男の言葉が気に食わなかったのか、里保は首の拘束を緩め、直後に床に叩きつけた。
脳が激しく揺れ、一瞬意識が飛びそうになる。いっそ気絶できた方が楽なのだろうと直感する。
気絶させないようにしているのだとしたら、まさに鬼畜の所業だと男は片頬を上げた。
里保は地面に溢れ返った雨水を中空で固めると、躊躇いもなく、左手首と両脚に楔を打ち付けた。
もはや大声を出すことは叶わない男は空っぽの咳を吐き出した。


「……虫みたい」

里保の口から出てきた言葉にさゆみは声を失くした。
言葉そのものの意味も、彼女がそこに携えた笑顔も。これまで里保が見せたことのない姿がさゆみの瞳に映し出されていた。
里保は本来、感情の起伏が激しい人ではない。
普通の15歳が持つ感情と同じく、楽しければ笑うし、哀しければ泣く。
しかし、波を立て、激情に任せて闘うような人間ではないとさゆみは知っている。
そんな彼女がいま見せる姿は、憤怒とも、怨嗟とも、哀愁とも、憎悪とも、絶望ともかけ離れていた。

里保はいま、愉しんでいる。
標本のように男を磔にして、ぴくぴくと動く筋肉を見て、息も絶え絶えになる姿を見て、愉しんでいる。


―――考えたことはありませんか?彼女の中にも、もうひとりの彼女がいることを


―――私は見てみたい。潜在能力を解放した、鞘師里保を


男の言葉が壊れたレコードのようになんども巡る。
床に落ちたコインの裏、翼の魔王はさゆみを真っ直ぐに射抜いている。
これが、これが彼の話す、里保の本気、ポテンシャルを解放した狂気だというのか?
信じがたい現実がさゆみの目の前で繰り広げられる。引きちぎられたシャツの胸元を隠すこともなく、ただ里保を真っ直ぐに見つめていた。
真紅の瞳と赤みがかった髪を携えた彼女は、男の胸に右脚を乗せてせせら笑う。
嘘でしょう?とその目を疑っても、事実は変わることなく厳然と佇んでいる。
いったい里保になにが起こっているのか、理解しようとする暇すら、現実は易々とは与えてくれなかった。





投稿日:2014/03/13(木) 23:05:41.08 0


第5回



里保は“水の刀”を喉元に構える。少しでも動かせば血の雨が降るほどに切っ先を近づけ、「どうされたい?」と訊ねた。
選択肢を与えているようで与えていないその問いに、さゆみの全身が震え上がる。

「首を刎ねるか、四肢を削ぎ落とすか、はらわたを抉り取るか…好きなのを選んでいいですよ」

その発想も、実現可能な範囲の残虐性も、まるで子どものそれだった。
虫と人間の区別もつかぬまま、バッタや蝉の脚をもぎ、羽根をむしり取る幼子は、喉仏に切っ先を立てて微笑みかけた。

「目を……最後に、して…くれれば、いいです」
「…………」
「狂気を、最後まで、見て、」

言葉尻を捕らえることなく、里保は左手を男の眼球へと突っ込んだ。

「うあっ゛あ゛あああああ!!!」

男は叫び、仰け反った。
全身を走り抜ける激痛に耐える。右目の中で蠢く指を掻き出そうとするが、四肢に打ち付けられた楔がそれを赦さない。
目の前に広がる圧倒的な現実が、さゆみの脳を揺るがす。目を逸らしたいのに逸らせない。背くことを、だれかが、赦そうとしない。

「やめっ…が、あ゛っ…あ゛ああ!!!」

そのまま指はぶちぶちっと眼球を抉り出した。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あああああ!!!」

目の窪みから噴水の如く血が溢れ出す。
刳り貫かれた右目を興味なく投げ捨て「片方で充分ですよね」とその目を踏む。
ぐにゅり、と、柔らかく音が落ち、男の目がカエルの死体のように地面に張り付いた。
それでもプライドゆえか、闘いを放棄する気はないのか、左目をカッと見開くと、里保が構えていた腕が中空でその動きを止めた。

“時間遅延(タイム・ディレィ)”が漸く発動されたが、男は右腕以外の四肢に楔を打ち込まれ、もはや形勢の逆転は不可能とも思えた。
遅延を解除できなかったとしても、その前に男の生命が途絶えるのが先だ。勝利は里保の方に与えられている。
それはだれの目にも明らかなはずなのに、里保はその手を緩めるつもりはなかった。

乾いた唇を舐めたあと、「展延しろ」と呟く。
男が応えられないでいると、溢れ返った雨水がぬるりと立ち上がった。
触手のように動き出したそれを認めた瞬間、全身の毛が逆立ったのは、さゆみだけではないはずだ。
雨水はうねうねと動いて形を変え、薄い膜のように広がった。

「趣味、わる、い、ですね…」

と、男が口にした途端、その膜はふわりと浮き、鼻と口を覆い尽くした。

「っ……!」

“水の膜”によって酸素の通り道を狭めていく。
酸素が回らなくなり、楔を打ち込まれた両脚で地面を叩いく。その度に足首から血が撥ねる。


「っ……!、っ!!」と絶え絶えになる息を吐き出すも、それはぶくぶくと泡となって消えていく。
左手首の楔をなんとか断ち切り、“水の膜”の覆いを外そうとするが、水はあっさりと指を浸透し、外すことが叶わない。
脳に酸素が行きわたらず、意識が朦朧としていく。
“死”という闇の中へ引き摺り下りる寸前、里保はふいっと指を上げ、膜が鼻と口から数センチの箇所に浮かんだ。

「がはっ!…はぁっ…はぁ……ぁ……」

漸く酸素を取り戻した男を見下ろし、里保は小さくなにかを呟いた。
聞き取れないほどの声に耳を傾けると、それがカウントを取っていることに気付いた。
いったいなにを…と思考させる間もなく、「サン・ニィ・イチ」と数字を失くした直後、膜は再び男に落ちた。
腰が撥ね、先ほどと同様の苦しみが襲いかかってくる。
右腕と右目を失ったうえ、能力の多用と出血により体力は残されていない。いまの男には数秒の呼吸困難でさえ致命傷となりうる。

「嘘、でしょ……」

途端、恐ろしい考えがさゆみに浮かぶ。
男の体力を鑑みると、もはやあと数回の打撃で死に至る状態だ。
それなのに、里保はとどめを刺すこともなく、口と鼻を塞いだり、外したりを繰り返す。
先ほど口ずさんでいたカウントダウンの意味を理解してしまうことが、あまりにも恐怖だ。

生命を弄んでいる、としか、理解のしようがないのだから。

「ひぁ…」

3度、膜によって呼吸を失わせられ、擬似的に溺れさせられた男から情けない声が漏れた。
失禁しているのか、ズボンの股上が微かに濡れていた。
“時間遅延(タイム・ディレィ)”はとっくにその効力を失い、里保は“水の刀”をそこへと向けていた。


「さ、さや……」

なにをしようとしているのか、さゆみは理解を諦めたかったが、脳はここぞとばかりに想像を膨らませる。
それをすることは、いくらなんでも、非道だ。リゾナンターとして、女性として、ひとりの人として。
カラカラになった喉で彼女の名前を呼ぼうとするが、恐怖ゆえか、へばりついて最後の一文字が声にならない。

里保はひとつ息を吐くと、“水の刀”を振り上げ、左手首を刈り取った。人参が切れるように、いとも簡単に手が落ちた。
もはや痛覚が麻痺してしまっているのか、男は悲鳴も上げずただ短く息を吐き出すしかない。

「……あとは、何処だ?」

小さく、暗い闇の中から囁く声をさゆみは確かに聞いた。
血に塗れながら男の全身を切っ先でなぞり、「何処だよ……」ともういちど訊ねる。

「何処で道重さんに触れたんだ?」

彼女の言葉に目を見開いた。
刈り落としたのは、男の両手と目。そしていま、股間を斬り裂こうとしている。
里保が狙っているのは、男がさゆみに触れた場所だ。まるで触れたという事実を消そうとせんばかりに斬り落としていく。
首を絞めた理由も、“時間遅延(タイム・ディレィ)”の発動により、呼吸を失ったさゆみに対する、仕返しとしか思えない。

「だめ……」

さゆみのせいだと思った。


そもそもさゆみが捕まらなければ、さゆみが蹂躙されそうになる現場を見せなければ、さゆみが逃げる方法を見つけていれば、
さゆみが里保に助けを求めなければ、彼女はあんなことをする必要はなかったはずなのに。
あんな、あんな風に生命を弄び、人を虫けらのように扱う彼女なんて。
彼女をそこまで追い込む必要なんてなかったはずだ。


―――その音が聴こえるまで、傍に居て下さいね


―――だってわたし、道重さんの命の恩人ですから


―――道重さん!道重さん!!


里保の笑顔が好きだった。
子どもっぽくて、可愛くて、歳相応の、15歳の笑顔の彼女が。
里保の大人びた行動が好きだった。
外界からの悪意や敵意必死に受けとめて、刀を地面に突き刺して斃れないように立とうする彼女が。

「ころし、て、く……」

男の口から漏れた声に答えるように、里保は刀を振り上げた。
下弦の月が世界を照らし、血に塗れた刀身が闇夜に光る。
すうっと息を漏らし、柄に力を込める。
スローモーションのように、振り下ろされる。


「だめ……だめ、だよ……」

里保が、鞘師里保が、好きだった。
等身大の笑顔も、大人びた口振りも、まるで幼子のような手も、黒くて長い髪も、だれよりも仲間を信頼して自らを奮い立たせる姿も。
いつだってさゆみより前に立ち、すべての悪意から護ろうとするその背中も。

それなのに。それなのに。それなのに!!


「やめて!!りほりほ!!!」


振り下ろされ、喉を斬り裂きそうにそうになったまさにその瞬間、“水の刀”はその形状を失った。
切っ先は男の体に触れることなく砕け散り、カラカラと水の球体となって床へとばら撒かれた。
ころころとビー玉のように転がった球体は、さゆみの足元に落ちていたコインに触れ、ぴちゃんと弾けた。
刀を構えていた里保は、その手中から消え去った存在に眉を顰めたが、ゆっくりと顔をさゆみに向けた。

初めて、さゆみと里保が目を合わせた。
真紅の瞳に射抜かれ、全身が震え上がった。血よりも紅いその色を、なんと表現して良いのか分からない。
深淵を覗き、奥に潜む闇に貫かれたような錯覚を覚える。

「………」

彼女は男から離れ、一歩ずつさゆみに近づいてくる。
なにも言わない彼女に、さゆみもまた、声を掛けない。喉を絞り上げられて声を奪われたような感覚だ。


1メートルに満たない距離に入ったが、逃げることをしなかった。
ただ彼女の深淵をさらに覗き込む。もしそこに怪物がいるとしても、深淵が等しく覗き込んでいたとしても。

「っ………」

里保の“血の右手”がさゆみの頬に伸びる。
体液の生温い感覚と、特有の臭みに肩がびくっと撥ねる。
怖くて堪らない。いまこの場で心臓を抉り取られるかもしれないという不安もあったが、それでも逃げない。
彼女の瞳がちゃんと、さゆみを捉えているという保証はなかったけれど。

「………みっ、しげ、さん?」

ふいに、瞳の色が落ち着いた。
真っ赤に燃えていたそれは冷静さを取り戻し、はっきりとさゆみを映し出す。
刻まれた憎しみが少しずつ消えていくのを感じた。
剥がれた仮面の向こうにいたのは、あどけなさの残る、15歳の少女だった。

「私、は……」

彼女の意識は、引きちぎられたさゆみの服と、自らの血が固まった擬似の手に向けられた。
あまりにも受け入れがたい情報が一気に流れ込んでくる。

「おかえり、りほりほ……」

だから、さゆみはそれを断ち切った。
汚れることも厭わずに、“血の右手”を強く握り、もういちど、その名前を呼ぶ。
自分だけが呼んでいた、鞘師里保の、名前を。


その呼び名を認識し、里保の色は完全に落ち切った。髪を染めた「赤」も消え去り、もとの艶のある黒に戻っている。
里保は、まだ現実をうまく理解できないでいるが、それも強引に理解させられることとなった。

「滑稽ですね」

男の声を聞き、里保は即座に振り返る。
相変わらず、両脚に楔を打たれ、体内の血をほとんど放出し、ボロ雑巾のように横たわっていた。

「これ、は……」
「あなたが、やったんですよ…」
「私、が……?」

その言葉にさゆみはハッとし、彼女の手を一層強く握りしめた。
が、まるで緊張が解けたように擬似的な手足が一瞬で弾けた。
バランスが崩れ、右脚一本で体を支える。
自分が男をそんな目に遭わせたことを、里保は認識できていない。
あの瞬間の記憶が欠如しているのだろうか。困惑と混迷の中、それでも彼女は男から目を離せない。

「凄まじい、ポテンシャル、見せて、いただきましたよ……」
「私が……」
「それでこそ、サヤシリホですよ。まさ、か…すぐ、引き戻されるとは……思いませんでしたが」

男は自嘲気味に笑い、さゆみを見た。窪んだ右目の空洞が堪らなく怖かった。
さゆみ自身、なにも分かっていない。どうして里保がああなったのか、どうして里保が、また戻って来れたのか。



―――コインの表と裏、それは簡単にひっくり返るんですよ


男が最初に言っていた話を思い出す。
ポテンシャルという名の怪物を引きだしたサヤシは、コインの裏側だったのだろうか。
簡単にひっくり返ったコインは、再び表へと戻った。


“本当に?”


「最後まで、見て、おきたかった、ですね……あなたが、壊す、さまを」
「そんなこと、この子は、しない」

絶え絶えに呟く男にかぶせるように、さゆみは声を出した。
先ほどと同じように、先ほどよりも力強く。

「そんなこと、鞘師は、しない」


深淵を覗き込んだ。そこには翼を携えた魔王がいた。
だけど、その深淵のさらに向こうがわには、彼女がいた。
どちらも、鞘師なんだ。
斬り捨てられない、置いていけない、どちらも必要な、鞘師里保なんだ。
コインは表だけでも、裏だけでも存在するものではない。表裏がそれぞれ意味を成してひとつのコインを形成する。


「鞘師は……鞘師里保だから」


震えるさゆみの言葉を聞き、男は乾いた笑いを漏らした。
戯言だと、綺麗事だと思ったのかもしれない。理屈で語れるほど、現実は甘くはない。そんなこと、さゆみにだって分かってる。
だが、男にはもう反論する力は残されていなかった。
なにも言わずに、すうっと息を吸った。
それが最後の合図のように、男はこと切れた。





投稿日:2014/03/15(土) 12:59:54.71 0


第6回(最終回)





暫くの沈黙のあと、里保は脚を引き摺りながら歩き出そうとする。
一歩踏み出した左脚から剥き出しの骨が削られ、床にべったりと血の線をつくっていく。
さゆみは今度こそ振り解かれないように里保の左手を強く握った。
里保はハッとし、振り返る。交錯する視線は、なにも言わないふたりの感情を繋いでいた。
言葉を発することなく、里保は視線を外し、歩き出す。さゆみも連られて立ち上がり、男の死体へと歩み寄る。
穏やかな死に顔とは到底言えないほど、ボロボロになり、もがき苦しんだその姿を、ただ真っ直ぐに見下ろした。

多くの情報が錯綜する。
断片的な記憶をなんども手繰り寄せる。

さゆみが拉致されたと知り、此処へ来た。
拉致した男と刀を交え、能力に押されたうえに判断を誤り、“時間遅延(タイム・ディレィ)”によって動作を奪われた。
その間にさゆみが凌辱されそうになった。
護らなきゃと思った。助けなきゃと思った。
道重さんを。大切な仲間を。

そうしたら。
そうしたら―――?

「鞘師」

対岸へと泳ぎかけていた彼女を、さゆみが引き戻す。


里保はまだ彼女の言葉には応えず、床に散った水の玉を見回した。
遠い遠い向こうがわ、形状を失いかけていた遅延の手足が転がっているのを捕捉する。
ひとつ息を吸い、神経を集中させる。“水”に意識を渡し、左手に力を込める。
水はゆっくりと里保の手の中に集まると同時に、まるで意識を持っているかのように、里保の手首と足首を運んできた。
右手首を手にすると、ぎゅうっと粘土のように切断面を押し付ける。
さゆみはそれを見て慌てて手足に“治癒能力(ヒーリング)”を施した。
淡い色を纏って神経を繋ごうと力を込めるさゆみを、里保はそっと制した。
流れ落ちる血を橋のように渡し、辛うじてぶら下げるにとどめる。

先ほど呼び寄せた雲により、下弦の月が半身を隠した。闇に包まれた世界にふたりは立つ。
沈黙の空間がつづいたあと、彼女は震える声で「この人を…」と漸く口にした。

「こんな風に殺したのは、私ですよ」
「………」
「あのとき、道重さんを護りたいって思ったら、奥から、体の奥底から、なにかがせり上がって、呑み込んで……気付いたら、血の海の中に……」

そして言葉が、途絶えた。
コインの裏を知ることは、恐怖だ。
コインの表しか知らなかったなら、人はもっと楽に生きられたのかもしれない。
だけど、いちどひっくり返ったものを見ない振りして生きていくことなど、できやしない。
斬り捨てられないものなら、排除できないものなら、それらを受け容れていくしかないんだ。

「でも、戻ってきたよね?」
「それは……」

彼女がなにか言う前に、その腕を引き寄せた。ふわりとさゆみの胸の中に抱き寄せる。


途端、感じたことのない鋭い痛みがさゆみを貫いた。だが感触がない。
確かな、物質的な痛みを伴うが、その実態が分からない。

「み、道重さん!離して下さい!!」
「なん……で?」
「分かんないっ……抑え、られないんです!」

まるで鋭利な刃物に刺されたような痛みを覚える。なんどもなんども、さゆみの腕や肩、太腿を斬り裂き、貫く痛みだ。
まだ完全には戻りきれていないのか、能力の暴走が起きていた。
ああ、これこそが、彼女の痛みと哀しみだと直感する。

「抑えなさい……」
「だ、だからっ!」

だけど、だからこそ。
激しく雪崩れ込んでくる共鳴を、弾くことなく受け容れたい、そう願った。

「ちゃんと自分で抑えなさい、鞘師」

どうやら感情と能力の蛇口が全開になっているようだ。
急にコインをなんどもひっくり返したために、軸がブレたらしい。
あの男の云うように、遅延の時間軸を戻せるのが能力者だけだとするならば、自らの精神の軸を戻せるのもまた、鞘師だけだ。

ざくざくと、里保の感情と能力が鋭い刃となってさゆみの全身を斬り裂いていく。
徐々に物理的な損傷が出始める。頬に、腹部に、腕に切り傷が生まれ、血が滴り落ちる。


それでもさゆみは里保を強く抱きしめる。
必死に腕を伸ばして距離を取ろうとする里保だが、腕の中から逃げられない。
怖い。イヤだ。道重さん。道重さん。傷つけてしまう。私の、私のせいで。また、道重さんが!!

「鞘師が居たから、さゆみは此処に居るの」

ふいに腕の拘束が弱くなった気がした。
泣きそうになりながら顔を上げると、さゆみはぎゅうと強く目をつぶり、痛みを堪えながら言葉を紡いだ。
彼女の姿を、彼女の心を、彼女の闇を、受け容れて、そしてともに歩いて行くために。

「いつだって、あなたが、前に立ってくれたから。後輩、なのに、頼ってばかり…だったよね」
「そんなこと…!」
「だから……だからね、鞘師」

風が啼き、下弦の月が再び顔を出す。
夜の帳の中、さゆみの声だけが聞こえる。透明で、真っ直ぐで、繊細で、心強い。
鞘師里保を奮い立たせる、その声が。

「今度は、私が、鞘師を護るよ」

血よりも紅く、焔よりも青い刃がさゆみの心臓を貫く。
ぐさりと突き刺さったそれは、さらに深々と突き進んでいく。
頬から流れた血が、顎へと到達し、零れ落ちる。
それはさながら、涙のようだった。


「鞘師のこと、信じてるから」

痛い。痛い。痛い。
暗闇がさゆみを呑み込んでいこうとしている。
だけど不思議と、怖くない。
だって、もう、だいじょうぶだから。

「――――――」

里保がなにか口にした言葉を、音としてとらえることは叶わなかった。
だが、さゆみの心臓を貫いた刃は、そのまま霧のように消え去り、さゆみの体内の傷を塞いでいった。
痛みが、消えていく。闇が、過ぎ去っていく。

「やれば……できるじゃん」

さゆみはそう言うと、膝をがくんと折った。
慌てて里保が支えるが、やはりもう、自分ひとりで立っていられるほどの力は残っていなかった。

「道重さんっ……!」
「っ、疲れたの……お姫様抱っこしてほしいの」

漸く感情の波が静まり、能力の暴走が収まった。
自分の生命を懸けてさゆみは里保を護ろうとした。仲間としては当然かもしれない。だけど、いまの里保には、それがなによりも尊かった。
すべてを賭してくれた人に、精一杯に応えたかった。
それが結果的に蛇口を閉める契機となったのだと理解できた。


「ごめんなさい……ごめんなさいっ…!」

泣くことも厭わずに里保はさゆみを抱きしめた。
たくさん傷付けた。たくさん泣かせた。たくさん困らせた。
だけど、最後まで、最後まで私を信じてくれた。
感謝と後悔とがせめぎ合う。絶望と一筋の希望が相対する。

私は、私はどうすれば良いんですか?

「……早く、帰りたいんだけどなぁ」

軽口を叩きながらもさゆみは里保の背中に腕を回した。
涙は零さない。弱音は吐かない。後輩の前でみっともない姿はもう見せない。いままさにこの瞬間がみっともないけど。


―――破壊と絶望を振り翳し、世界を統一するための、狂気を


再度、男の言葉が甦る。
もしこの子のポテンシャルが狂気だとしたら。
解放された能力が、世界のすべてを闇に帰すほどの絶望を孕んでいるとしたら。
紅を纏ったサヤシリホが、再び目の前に現れることがあったとしたら。
だとしたら、私は。私は。

「眠いよ、りほりほ」

意識が少しずつ遠のいていくなか、神経が千切れたままの彼女の傷口に触れる。
温かい色を纏ったその傷口がゆっくりと塞がっていく。


ああ、もう、さすがに限界。
緊張から解放され、泥のような眠気に苛まれ、素直にそこに手を伸ばした。
里保はそれでもさゆみの体を離さない。

「道重さん……」

彼女の声が遠く聞こえる。
分かってるよね、鞘師。
あなたにしかできないことがある。受け容れるのも、乗り越えるのも、最後はあなた自身だから。
自分でちゃんと、答えを見つけるんだよ。
その代わり、その代わりね。
あの日交わした私とあなたの約束、ちゃんと果たしてあげるから―――


月影が夜の空に浮かぶなか、乱れた呼吸を整えながら里保は涙を乱暴に拭う。
鼻をすすり、「道重さん……」ともういちど呟く。

「……抱っこはしませんよ」
「えー…ケチぃ…」

答えが返ってきたのに安心したのか、里保はさゆみの体を背負った。
春の訪れを思わせる暖かい夜風が髪を撫でていく。
頭の中を巡る思考に恐怖しながら、ひとまずこの人を無事に帰さないとと歩き出した。

彼女が呼んだ黒雲は、静かに風が押し流した。
遠雷が微かに耳に触れる。だけどもう、その姿は見えなくなっていた。




投稿日:2014/03/15(土) 17:28:55.99 0



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