■ ベイスメントチワワ -工藤遥・新垣里沙- ■
「ほい!そこまでっ!あがって!工藤!」
新垣の声が響く。
「いやっ!まだ行けますっ!も…もう一回」
工藤の、かすれがすれの声
「ほれっ!最初に約束したでしょーが!
アタシがやるといったらやる!やらないといったらやらない!ほい!あがるあがる!」
圧搾空気が漏れるような音と共に、分厚い金属性の扉がゆっくりと開いていく。
何重もの隔壁に守られた、その階層、その一部屋。
こんな古臭い雑居ビルの地下に、これだけの施設があるなんて。
最初、ここに通された時の工藤の感想だ。
分厚いコンクリの四方の壁は薄いミントグリーンに塗装され、天井には分厚い鉄骨と金網に守られた照明がいくつも並んでいる。
視線を壁面に這わせる。
床から2mほどの高さ、横長の窓、そこから新垣さんが『あがれ!』のサインを繰り返している。
目線をそらす。
髪の毛から、いや、あごからも、くびからも、水滴がこぼれ落ちる。
全身が、ぐっしょりと濡れている。
そして、
足から流れ落ちる大量の液体が、床の水たまりを広げていく。
「くっ!」
工藤は、よろよろと出口に向かった。
部屋を出た工藤の前に仁王立ちの新垣がバスタオルと替えのTシャツを持って待っていた。
「ほれぇ!すぐ脱ぐ!」
工藤の能力。
それは、新垣の知る限り【獣化】に近いタイプのものに思われた。
かつてリゾナントに身を寄せていた仲間の中にも、【獣化】能力を持つ者がいた。
だが、工藤のそれは、その結果こそ似通っているものの、
その根本的な部分で全く別種の能力、そう考えざるを得なかった。
【変身】
それはまさに変身と呼ぶべきものだった。
――――
今朝はやく、リゾナントに飛び込むなり、工藤は新垣に進言した。
ハルを動けなくして、みんなで武器を持って囲んでください!
そんな物騒な願い。
でもそれは、真剣な訴えだった。
二人は新垣に昨夜の事は話さなかった。
いつかは話そう?そう譜久村とは約束した。
だが、もう少しだけ、時間が欲しかった。
それよりも、まず工藤には、やっておかねばならない事があった。
自分は、リゾナントの一員として、戦士として貢献できる存在であることを、
みんなに、なにより自分自身に証明する。
あの日以来、工藤は【変身】していない。
工藤自身、不安だったのだ。
本当に自分は【変身】できるのか?
【変身】して、組織と…『あいつ』と、戦える存在なのか?
黙って話を聞き終えた新垣は、二人きりで地下に降り、この部屋に工藤を連れてきたのだ。
――――
洗いたてのタオルのいい匂いをかぎながら、工藤は必死に涙をこらえる。
「だめだ…だめだった…なんだよっ!ちくしょう!」
ほれぇとか、ほいっとか掛け声をかけながら、新垣が工藤の体をふいてくれる。
いそがしく、せわしなく、でも、やさしく、あたたかく。
工藤は、
【変身】出来なかった。
いや、
【変身】し切れなかった。
――――
工藤自身、その時の記憶がはっきりしているわけではない。
だが、『あいつ』を目にした瞬間からの記憶は、はっきりと覚えている。
確かに自分は【変身】した。
最初の記憶は、自分の全身を包む透明な液体が、肉に、骨に、変質していく情景だった。
やがて全身が肉に埋まり、視界が失われると同時に、新たに『別の視界』が開けていく。
「そうだ、これは『狼の目』から見ているんだ。」
すぐに理解する。
目だけでは無い。
臭い、音、皮膚感覚、全てが『自分で自分では無いもの』の感覚を通して知覚していた。
「ハルの中に『ハル』が埋まってる」
丁度、狼の胸腔から腹腔にかけて工藤の体が、
折りたたまれた巨大な太腿の中にはそのまま工藤の太腿が、
そして腿と一体となったような狼の脛の中に工藤の膝下が、埋まっている。
その下、獣のそれと同じように長く発達した『足』に当たる部分は狼の組織のみで出来あがっていた。
工藤の身長プラス、伸びた足先と狼の頭部
推定すれば、180cm前後の白い人狼。
白狼の目が、黒い人狼を捉える。
血が沸騰するような感覚。
怒り、憎しみ、いや、それだけじゃない。
だが、その時の工藤には、それを内省している余裕はなかった。
ただ、『あいつ』をぶちのめしたい。
意識にあるのは、その一点のみ。
咆哮。
弾け飛ぶがごとき跳躍。
一直線に飛び出す。
黒い、人狼に向かって。
2014/01/01(水) 23:46:18.68 0
最終更新:2014年01月03日 01:44