ギシ―――
微かに藻掻いた聖の体に、さらに厳しく縄が食い込んでくる。
「んっ…んぅ……」
漏らした声は口に押し込まれた猿轡に遮られ、視界もまた同じく目隠しによって遮られている。
視覚を奪われて鋭敏になった耳に、微かに縄の軋む音と自分の鼓動、そして傍らにいる男の息遣いが聞こえてくる。
「みじめな恰好だね。お似合いだよ」
その言葉とともに、聖の顎から首筋にかけて、かさついた指が這う。
自由を奪われた体をよじり、声にならない声で必死に呻くと、男の息遣いが僅かに荒くなったのが感じられた。
「私はちょっと出かけてくるから、しばらくそこでそうしていなさい。自分の立場をゆっくりと噛みしめながら」
聖の全身にめぐらされた縄の具合を一通り確認していた男が、ベッドから立ち上がる気配がした。
その行動が男を喜ばせ、昂らせることを知りながら、聖は再び拘束された体をくねらせ、猿轡越しに声をあげる。
「私をこんなままにして行かないで」と、全身を使って訴えた。
「そんなに心配しなくてもまた戻ってくるさ。1時間後か、2時間後か…それとも1日後になるかは分からないけどね」
不安を煽る言葉を楽しげに投げかけた男の気配が、聖から段々と離れていくのを感じる。
やがて、ドアを開ける音、「いい子にしてるんだよ」という声、そしてドアが閉まる音が続けて聞こえ、室内は静まり返った。
自分の鼓動と息遣いだけが耳に届いてくる。
厳しく緊縛され、窮屈に折り畳まれた体を動かそうとすると、縄が擦れて軋む音がそこに加わる。
身動きはほとんどできず、藻掻いても縄は緩みそうにもない。
都内にあるシティホテルの一室。
そのベッドの上で雁字搦めに緊縛されたまま一人取り残されては、ひたすら男の帰りを待つしかない。
……とはいえ、男がすぐに帰ってくることは分かっている。
ラウンジでゆっくりコーヒーを飲み、時間を見計らって戻るのがあの男の「形式」だ。
あんなことを言っていたが、調べ上げたこれまでのパターンから見ても、せいぜい30分だろう。
興奮を押し隠せていなかった様子から鑑みて、案外それよりも早いかもしれない。
そこまで考えたとき、ドアが開く音が聞こえた。
―――?
いくらなんでもさすがに早すぎる帰還に、目隠しの下の眉をしかめる。
男が忘れ物でもしたのか―――それとも別の誰か……?
前者ならば問題はないが、もしも後者であればややこしい事態になることもあり得る。
もちろん、そういった場合にどうするかといったシミュレーションも、事前にある程度は重ねてある。
何しろこの「仕事」において、不測の事態などつきものだ。
だが、次の瞬間聖の耳に届いた声は、それらの想定からやや外れたものだった。
「譜久村さん、いますか…?」
――亜佑美ちゃん…?
押し殺した囁くような声だが、亜佑美のものに間違いない。
今回の案件への関わりはないはずだが、どうしたのだろうか。
そう訝しく思ったところで、息を呑むような気配が伝わってきた。
「ふ、譜久村さん……です…よ…ね?」
次いで、明らかに狼狽したような声の問いがこちらに向けられる。
「うー」
言葉での返事はできないため、布越しのくぐもった声と共に頷いて返す。
「これは…その……捕まったとかじゃなく……その、なんというか、そういうあれの最中…ってことです…よね?」
ふふ、しどろもどろになっちゃってかわいなあもう。
耳まで真っ赤になっている亜佑美の様子が目に浮かぶようだ。
口が自由なら、すぐさま「ん?『そういうあれ』って何?」などと追い詰めて意地悪してみたかったところだけど残念。
聖、本当はそっちの属性なんだけどなー。
「うー。ううぃんん、うういえ」
代わりに、猿轡を外してくれるようにアピールする。
亜佑美はすぐにそれを理解したようで、ベッドに駆け寄ると、聖の頭の後ろの結び目に手を掛けた。
聖だったら、分かってても「え?何て言ってるの?」なんてわざと焦らすところだけどなー。
そんな聖の内心を知る由もない亜佑美は、猿轡と目隠しの布を注意深く外した。
「…ふう。どうかした?何かあったの?」
自由を取り戻した口で亜佑美に問いかける。
「はい、あの、井寺さんとこの若さんが亡くなられたみたいなんです」
「井寺専務が…?どうして?」
「状況は自殺とも他殺とも取れるみたいなんですけど、自殺するような人じゃないですよね?」
「そうだね。そっか……参ったな」
殺された理由は分からない。
殺される理由がないからではなく、ありすぎて。
井寺尋――株式会社IDELAの専務取締役――は、聖のいる「リゾナント」の「得意客」の一人だった。
「表」の顔も持ってはいるが、基本的には聖たちと同じ「裏」で生きている人間故に、殺されたことに対する驚きはさほどない。
問題なのはタイミングだ。
「確か、今も井寺さんからの依頼受けてましたよね?」
「うん」
そう、今まさにそれが進行中なのが問題だった。
もしかするともう終わってしまっているかもしれない。
というよりも、終わっている可能性の方が高い。
そうであったにせよ、今回の件は会社としてではなく珍しく井寺個人の依頼であったため、契約はご破算にせざるを得ないだろう。
今回の依頼に当たらせた遥と優樹にも、できるだけ早く連絡をしてやらなければならない。
「そう思って知らせに来たんです。お仕事中なのは分かってたんですけど」
「ありがとう。お仕事中というか、お楽しみ中だったんだけどね」
「え…?い、いや、でも、それもその、仕事のうちというか…ですし…」
「亜佑美ちゃんもこんなことしてみたい?今度、聖とする?」
「し、し、しませんよ!な、何言ってるんですか譜久村さん!」
くぅ~!かわいい~かわいいよぉ~~~
かわいいけど、これ以上遊んでいる場合ではない。
聖の「標的」であるところのあの男も帰ってきてしまう。
「何だ残念。じゃあ亜佑美ちゃん、この縄もほどいてくれる?」
「え?私がですか?私が解かなくても譜久村さんなら自分で……」
「だって亜佑美ちゃんに手取り足取り胸取りほどいてほしいんだよー」
「…ちょっともう、さっきからセクハラみたいなことばっかりやめてくださいよ!私、もう行きますから」
「ああん、待って亜佑美ちゃ~ん。聖をこんなままにして行かないで」
「知りません!ほんとに行きますからね!」
さっき男に見せた数倍増しくらいの悩ましさで緊縛された肢体をくねらせると、亜佑美は慌てて背中を向け、ドアへと向かって怒ったように歩き出した。
その耳は、さっき目隠しの下で想像したように真っ赤に染まっている。
「すみません、お仕事中にお邪魔しました」
まだ少し怒ったような調子で、それでも折り目正しい挨拶をする亜佑美の声が聞こえ、ドアが開閉する音が耳に届いた。
◆ ◆ ◆
「どぅー、もう終わっちゃった?」
「いえ、まだですすみません」
「よかった。『依頼』は取り消し」
「はぁ?何ですかそれ」
スピーカー越しに、遥の憮然とした声が返ってくる。まあ当然だよね。
でも、まだ終わっていないのなら不幸中の幸いだった……って言うのかな、こういう場合も。
「ちなみに理由は教えてもらえますか?」「死んだ?どういうことですか」「誰に。何でまた」
遥から矢継ぎ早に発される問いに、短く答えてゆく。
相変わらずチャキチャキしているなと微笑ましく思ったところで、遥の声にため息が混じった。
「まあ依頼者がいなくなったんじゃどうしようもないですけど。ってか死なせちゃダメじゃないですか。譜久村さんは何やってたんですか」
そう言われては確かに一言もない。
ただ、言い訳をするなら、今回の依頼者はこちらでガードが必要な人間ではなかった。
でも遥は依頼者が誰かをそもそも知らないので、そう言われても仕方がない。
つい、弁解じみた言葉を返す。
「別の『仕事』でどうしても抜け出せなくて。それは片付いたんだけど」
「あ、まーが言ってましたねそういえば。そっちは無事終わったんですね」
遥の言葉に、視線を動かす。
その先には、海外旅行にも行けそうな大きめのスーツケースがあった。
中身はナイショ。ふふ。
亜佑美が出て行ってからしばらくして、上機嫌で帰ってきた男の命を奪うのは簡単だった。
何しろ、向こうはこちらの自由と尊厳を奪い、完全に支配したつもりでいた。
部屋に向かう無防備な背後から、その隷属させたはずの「従僕」に牙を突き立てられることも知らずに。
「うん、緊縛好きのおじさんだったのがちょっと…って感じだったけど、まあそのおかげで楽だったのもあるし」
亜佑美に劣らずうぶな遥のことも少しからかってみたくなり、そう言ってみる。
「はぁ、キンバク好きのおじさんすか」
だが、意に反して、遥からは気の抜けたような声が返ってきただけだった。
なんだつまんない。
仕方なく、話を元に戻す。
「それはいいんだけど、えらく遅いね?なんかあった?もう絶対終わっちゃったと思ってた」
「ええ、それなんですけど」
東京発→新大阪 新幹線のぞみ205号N700系車内―――
そこで起こっている出来事を遥から聞かされるうち、聖は背筋が伸びるのを感じていた。
単純な殺しの依頼だと思っていたが、きっと裏に何かがある。
この依頼をしてきた井寺も、もしかすると知らなかった何かが。
複雑に絡み合った―――何かが。
あの人……何者なんだろ?
今回“命拾い”した「標的」の顔を、脳裏に描く。
井寺の説明では単なる一般人ということだったし、事前調査でも特異なところは見当たらなかったのだが……
とにかく、ただ殺せばいいというだけの単純な話ではなかったようだ。
早めに手を引けることになったのは、もしかすると運がよかったのかもしれない。
「もう『標的』を殺す理由がなくなったことはあっちも分かってるだろうから大丈夫だと思うけど、一応気を付けてね」
「分かりました」
念のため注意を促したが、遥も異常性を感じ取っているらしいのがその声から感じられた。深入りはしないだろう。
さすがだね、どぅー…とちょっと嬉しくなる。
「それと」
「はい」
「分かってると思うけど、“後始末”はくれぐれもしっかりね」
「…はい」
だが、こちらにはやや歯切れの悪い返事が返ってきた。
殺し屋にしては優しいところがあるのが玉に瑕なんだよね、どぅーは。
その甘さが命取りになるようなことがなければいいんだけど。
電話を切り、ベッドから立ち上がる。
こちらもなんだかんだ“後始末”がまだ残っている。
少なくとも、聖がここにいたという痕跡は完全に消して行かなければならない。
井寺の依頼の件も詳しく報告を上げないといけないだろうが、まずは目の前のことを片付けなければ。
「この縄……処分しようかな、持って帰ろうかな」
遥がいれば確実に突っ込まれそうな独り言を呟くと、聖は“後始末”を開始した。
投稿日:2013/12/17(火) 18:26:46.48 0
最終更新:2013年12月26日 04:14