『平和の音』


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鈴木香音は頬杖をつき、窓の外を見ていた。
夏の夜空には星が輝いている。
こと座のベガ、わし座のアルタイル、十字形に並ぶはくちょう座のデネブの3つを結んだ「夏の大三角形」が夜の海に浮かんでいた。
中学校の理科で習った知識が早くも役に立ってなんだか嬉しくなる。
確か、ベガを「織姫星」、アルタイルを「牽牛星」と呼ぶということを理科の先生は言っていた。
そうか、あの星が織姫さんで、あの星が彦星さんなんだと香音はゆっくりと腕を上げて指を伸ばした。

窓ガラスをなぞるように指を動かし、「さーさーのーはー、さーらさらー」と七夕の歌を唄う。
「七夕」といえば、7月に祝うものであるが、まあ夏ということに変わりはないだろうと気に留めずに唄った。
それと同時に、七夕といえば生田衣梨奈の誕生日じゃないかと思い出した。
あの鬱陶しいKYはひとつ歳を取ったのだし、もう少し落ち着いてくれないだろうかと苦笑する。
とはいえ、その鬱陶しさが彼女の良いところなんだけどと思いながら「おーほしさーまー、きーらきら」と唄ったところで、彼女の「耳」は、その音を聴き取った。
唄うのをやめて、ゆったりと頭を擡げる。
地下の鍛錬場から階段を登ってきたのは、いつも通りのよれよれのシャツとパンツを纏った鞘師里保だった。
彼女は黙って右手を挙げてこちらに挨拶をしてきた。香音も素直に右手を返し「おつかのん」と冗談交じりに笑いかける。

「新作メニュー、決まった?」

里保は鍛錬で乱れた前髪を整えながら香音に訊ねてきた。

その言葉に肩を竦めつつ、香音は手にしていたメニュー表とノートを広げてみせる。

「しょーじき、微妙です」
「微妙ってなんだよ。微妙って」
「美味しいけど売れる気がしない」
「ダメじゃんそれ」

里保は顔をくしゃっと崩して笑うと、香音の書きかけのノートに目をやった。
彼女は「喫茶リゾナント」の売れ筋メニューを分析しつつ、オリジナリティある夏の新作をつくろうとしていた。
斬新さや目新しさは、一瞬は人々の目を引くものの、長くはつづかない。もっとずっと愛される定番・看板メニューをつくりたいと考えていた。
もちろんそれは一朝一夕でできるものではないから、香音は悩んでいるのだけれど。

「やっぱ、真面目だよね、香音ちゃんは」

里保はタオルで額の汗を拭うと、鎖骨あたりまで伸びた黒い髪をひとつに結った。
夏は暑い。切りたくはないけれど、思わず切りたくなる。いや、でも、切りたくない。

「里保ちゃんだって真面目じゃん。鍛錬ばっかかと思えば厨房入って野菜切ってるし」
「だって前に田中さんに、鞘師ってできるように見えてなんも出来んって笑われたんだもん。マジ、子どもって」
「でも玉子焼き褒められてたじゃん。子どもじゃんか」

香音はからかうように笑うと、厨房の奥にある冷蔵庫からサイダーを取り出し、グラスに注いだ。
夏らしい清涼感溢れるサイダーがグラスに満ちていく。里保は自然とグラスの中の炭酸の泡を見つめていた。
泡はしゅわしゅわとグラスに浮かび、そしてぽんっと表面で消えていく。
「しゅわしゅわぽん」という音は、夏らしくて、可愛らしいのだけれど、ふいに何処か切なくも感じる。
浮かんで・消えて。浮かんで・消えて。
それはなんとなく、私たちをそのまま表しているような気がするから、自嘲気味に笑いながら、それを飲み干すしかない。
泡のように浮かんで・消えて。浮かんで・消えて。

その一瞬の中で、それでも輝きたいと願う。
「子ども」だけど子どもじゃない。瞬間に「大人」にはなれないけど、それでも追いつきたい。
自分が目指すその場所まで、必死に走り抜けたい。
なんて、何処かの詩の一説みたいだと苦笑しながら里保はグラスを手に取った。

「いただきます」
「はい、いただきます」

そう言うと、香音とグラスを合わせた。
チンという明瞭な音がだれもいない「喫茶リゾナント」に響く。昼間は客で賑わうこの場所も、閉店後は静寂が満ちている。
この静けさが里保は好きだ。だれにも邪魔されない、リゾナンターだけの空間。
静かな音が香る空間だけが、里保の心を満たしてくれる。

「って、里保ちゃん、サイダー控えてるんじゃなかったっけ?」
「えっ。香音ちゃんが出しといてそういうこと言うかな?」
「だって、飲みたそうな顔をしてたし」

香音はそうしてからかうように笑い、グラスを呷った。
里保は困ったように目を伏せて眉を掻く。
「サイダー」は自分の好きな飲み物であるが、最近飲み過ぎのせいか、腹部周りが、まあいわゆる「ぽにょっと」してきた。
簡単に言ってしまうと、脂肪分が増えてきたのだ。
年頃の女の子にはありがちかもしれないが、それにしたってこの「ぽにょっと感」はなんだか納得いかない。
後輩である佐藤優樹には「隠れポニョなんです」なんて笑ってからかわれるようになった始末だ。
なんてことを言うんだ、なんてことを!と思ったけれど、反論できないから仕方ない。

里保は、闘うときに両脚で体を支える癖があった。
それが悪いとは言わないけれど、全身の中心、いわば体幹で支えないことには、脚をさらわれたときにすぐに倒れてしまうのは明白だった。
体幹で支えればお腹の筋肉も発達して脂肪も燃焼するはず、なので、私はできるだけ、体幹を鍛えるようにしていた。
とはいえ、それこそ一朝一夕でいくはずもなく、まだまだ「発展途上」という段階なのだ。
それでもサイダーを飲みたい欲求は収まらず、腹部の「ぽにょっと感」は、一向に治らない。いや、炭酸を控えようとはしているのだけれど。

「真面目なのか子どもなのか、分かんないよねー」
「うっさいうっさい。良いじゃないか、もう」
「はいはい」

香音と笑いながらサイダーを飲む。
夏の匂いと夏の味がする。
これだからサイダーはやめられない。なんて言い訳する気はないけど。
やっぱ私、子どもだなーなんて思っていたとき、ぴりっと空気が張り詰めたのを感じた。
嫌な、空気。なにかが通り過ぎるような感覚。そこには確かに「だれか」いると即座に判断した。
その「だれか」が私たちにとって圧倒的な不快感をもたらす存在であることも、分かった。

カンっとグラスを置き、腰のホルダーに左手を伸ばす。
が、ふいにテーブルに置いていた右手を彼女に握られた。
「え?」と思わず顔を上げると、香音は優しく、だけど何処か寂しそうに笑って首を振った。

「だいじょうぶ。もう、だいじょうぶ」
「なに、が……?」
「あの人、もう、死んじゃう。意識だけ、残ってるけど。もう、闘う力はないよ。このまま、向こうで、死んじゃう」

香音の言葉の意味が、一瞬では理解できなかった。
だが里保は必死にその真意を噛み砕き、彼女の深淵を覗こうとした。
そうして見えてくるのは、得体のしれないほどの暗い闇と、哀しみと、そしてどうしようもない切なさだった。
里保がなにか言おうと口を開こうとしたが、結局それは言葉にならず、香音はまた笑った。

どれくらい沈黙がつづいたかは分からない。
10秒か、1分か、5分か、それとも10分か。気付いたときには、香音はカウンターを回り、ドアを開けて外に出ていた。
そのまま香音は暫く戻って来なかったが、里保はその間も、その場から一歩も動けなかった。
どうして私は、此処で一歩踏み出せないのだろう。
死にかけである敵に対し、情けをかけることも、花を手向けることも、とどめを刺すことも、なにひとつできないのだろう―――

里保は手持無沙汰になり、テーブルに置きっぱなしのサイダーのグラスをくるくると回した。
それからすぐに香音は戻ってきた。
香音はすっかり目の座ってしまった里保を見て困ったように笑った。
里保はその視線から逃れるようにグラスを空ける。どうしよう、アルコール入ってないはずなのに、私、酔っちゃったのかもと苦笑した。

「死にたくないって、音が聴こえたんだ」
「え……?」
「あの人。私たちを殺したいけど、でも自分も死にたくないって。生死の狭間で、必死、だったと思う」

香音はまるでひとり言のように呟くと、カウンターの中に戻り、サイダーを飲んだ。
「喫茶リゾナント」の前までやって来た男が、抗争相手であるダークネスであるとか、それ以外の刺客であるとかは、里保には分からない。
ただ、目の前に佇む彼女の話を聞く限り、彼の生命への執着は本物だったのだと気付いた。
死なないために生きていて、生きていくために死なずに闘っていく。
それはある種、人間の根源とも似ている気がした。
人はだれだって死にたくないんだ。それが戦場であれ、平和の国であれ。
人はだれだって生きていたいんだ。それが平和の国であれ、戦場であれ。

「ちゃんとさ、聴こえると思うよ」

里保は唐突に、そう呟いた。
香音は「うん?」と問い返す。
きっと、明確な答えにはならなかったが、それでも里保は必死に紡ぐ。

「そんなに、切羽詰まったようなやつじゃなくて、もっと安息の、優しい音がさ、いつか―――」

里保は言葉を切りながらも、必死に音を紡いだ。
手持無沙汰になりながらもサイダーが半分入ったグラスをくるくる回し、香音の目から逃れる。
彼女はそんな里保を見て、クスッと笑った。

思考は大人っぽいくせに、いつも言葉足らずで誤解を生む彼女の不器用さが、香音は好きだった。

たぶん、本質的に里保は子どもなんだと思う。
だれよりも純粋に平和を願うし、だれよりも純粋に死を避けたがる。
建前上は先陣を切るけれど、その手の平に溢れた血の涙を一生背負っていく覚悟を持つがために、里保は常に自らと葛藤し、自らを殺してしまう。
だから、一瞬の静寂に「すべて」を委ねる。
その「すべて」の中で、なんども生を願い、なんども闘争を嫌う。それが彼女の、子どもっぽさであり、大人っぽさだ。
圧倒的に矛盾したその15歳の里保の葛藤を、香音もまた、背負いたかった。
同じ痛みを背負った仲間として。同じ痛みを抱えた15歳として。

「だいじょうぶ。ちゃんと聴こえるよ」
「……ホント?」
「うん。ちゃんと、聴こえるよ。安息の、優しい、そう、“平和の音”みたいなやつがさ―――」

それはまるで、途方もない祈りだ。
確証も保障もない、ある意味では懸けのような、言葉だった。
それでも里保は、彼女の声に、頷きたくなった。
彼女の言葉は、心の底から信じてみたくなるような、音だった。
自分の陳腐で安っぽい心情を、彼女はそれでもその両の手の平に掬ってくれる。
だから私は、香音ちゃんを信じたい。そう、心の底から、願うんだ。

「香音ちゃん……」
「ん?」

里保はサイダーが半分になったグラスを右手に持った。
きっと、上手には笑えていないかもしれない。
これからつづいていく未来に対し、どんな顔をして歩いていけば良いのかも、分からない。
だけど里保は、震える手を必死に堪えて、香音の想いをしっかりと胸に受けとめながらグラスを傾けた。

「誕生日、おめでと」

香音はその言葉に一瞬きょとんとした目を向けた。
だが、里保の真っ直ぐな目と、どうしようもないくらいに情けなくて必死な笑顔を見て、困ったように笑いかえした。

「はいはい、ありがとね、里保ちゃん」

15歳の夏。香音は同い年に追いついた里保に対し、三日月のような柔らかい瞳を向けて、笑った。
香音の声は静寂に満ちた「喫茶リゾナント」の中空に浮かぶと、一瞬の間に溶けていった。





投稿日:2013/08/09(金) 20:38:46.46 0