『Running to the top』


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「しょーぶです、たなさたん!」

「CLOSED」に看板をひっくり返した途端にかけられた声に、れいなは眉を顰めて振り返る。
本日の営業も滞りなく終了した。
一応、喫茶リゾナントにおける「最後」の営業だったから、いつも以上に気合が入っていた。
客入りはいつもより多めで、忙しかったけど、普段通りに終えることができた。
ふうとひとつ息を吐いてこれから落ち着こうというときにいきなりなんだ?

「これからまーちゃんと勝負してください」
「……ごめん、佐藤。なんの話?」
「だから勝負です!」

腰に手を当て、びしっとこちらを指差してきた佐藤優樹の眼差しは本物であった。
「人を指差すな」とぺしっと手の平を叩いて制し、ドアを閉める。
からんという小気味良い音が響いたあと、すぐに静寂が広がる。喫茶リゾナントは、思ったより広いんだと不意に気付いた。

「たなさたんはだれよりも強いです。もちろん、まーちゃんより強いです」

急に口上を垂れ始めた後輩に、れいなは眉を顰めつつも相手にすることなく厨房へと向かった。
まだ今日の収支報告をしなくてはいけないし、掃除も残っているし、やることはある。
後輩の突拍子もない思い付きに付き合っている暇はない。

「でも、まーちゃんがいちばん強いものだってあるんです」

椅子を持ち上げようとしたその手が止まった。
「いちばん」という言葉が妙に引っかかった。
れいなの目標は、リゾナンターで「いちばん」になることだった。
それを揺るがすものがあるというのなら、興味がある。目の前にいるこの後輩が、それを手にしているというのなら聞こうではないか。
れいながくるりと振り返ると優樹と目が合った。
彼女は、漸く真正面に立ってくれたれいなを見て嬉しそうに、だけど挑戦的に笑った。
その姿は、まるで子どもだ。ああ、ちょっとだけ可愛いって思った自分が嫌になる。

「佐藤がいちばん強いってなんよ?」
「だから、それで勝負してください」

優樹はしっかりとれいなを捉えていた。
その姿は子どもから大人へ移行する、成長期のようなものを感じさせた。
優樹はいくつになったんだっけと考えてみた。
ああ、そういえばこの前、14歳になったっちゃっけ。皆でケーキつくって、サプライズでハッピーバースデー歌って。
性懲りもなく優樹は泣いて、連られて工藤遥も泣いて、あれはあれで良い日だったな。

「負けたら、たなさたんはいちばんじゃなくなったから…えーっと……あ、りゅうねん?です!」

だれに入知恵をされたんだとれいなは苦笑した。
「留年」という言葉を彼女が知っているとは到底思えない。
だいたい使い方間違っとーし。ん?間違ってる……よね?

「だから勝負です!」

とにかくこの小うるさい後輩を黙らせるには、勝負するしかないらしい。
「いちばん」という称号は、れいなに相応しいものであって、優樹が有するものではない。
「いちばん」を背負って、此処から出て行こうじゃないか。くだらないものでも良い。なんでも「いちばん」になると決めたのだ。
道重さゆみには「いちばんバカって称号も持って行ってね」なんて笑われたものだけれど。

「で、なんで勝負すると?」

重い腰を上げ、その「勝負」に乗ってきたれいなを見て、優樹はまた笑った。
挑戦的で子どもっぽくて、だけどひとりの戦士である彼女は、やっぱり綺麗だった。
彼女はまるで、旅人の為に暗闇に浮かぶ太陽だ。
どんなことがあっても天上に高く居座り、世界を遠く広く照らし続ける、道標だ。

「鬼ごっこです!」

前言撤回。
この前、鞘師里保が学校の宿題で出た四字熟語が不意によぎった。
間違いなく、目の前の彼女との会話にはこれがぴったりだと確信した。
なにを言い出すんだこいつは。

「たなさたんが鬼です!30分捕まらなかったらまーちゃんの勝ちです!」
「はぁ?そんなのするわけないやろ!」
「じゃあいきます!えーっと、10、9、8!」
「待て佐藤!」
「7654321ぜろぉー!」

カウントダウンが一気に早くなったかと思うと、喫茶リゾナント内に風が吹いた。
優樹から発せられたような優しくて強い風、そして淡い光に思わず腕で目を覆う。
少し後ずさりをすると、そこにいたはずの彼女は既にいなくなっていた。
“瞬間移動(テレポーテーション)”か―――とれいなは下唇を噛んだ。
店内の椅子がいくつか倒れている。本当に、彼女は子どもだなと苦笑せざるを得ない。

「だから、なんで鬼ごっこやっちゃよ……」

倒れた椅子を机に乗せながられいなは呟いた。
確かに、くだらないものでも良いとは言った。それにしたって限度というものがあるだろう。
なんでも「いちばん」になると決めたものの、よりによって鬼ごっこって……
そういえば優樹は、石田亜佑美や飯窪春菜といっしょになって鍛錬場を走り回っていたっけな。
あれでなかなか捕まらないから、遥が手を焼いていたのをふと思い出す。


―――怒られてる時にいなくならないの!


そうそう、自分の分が悪いと把握するとなると泣きそうな顔をして姿を消していたっけ。
ああいうときに“瞬間移動(テレポーテーション)”は役に立つものだなとれいなは妙に感心したものだ。
しかし、そのおかげで譜久村聖が胃を痛め「どうしたら良いんでしょう」って泣きそうな顔で相談をすることもしばしばあった。
れいなが此処を去ってしまったら、キャリアが長いのは、さゆみに次いで彼女が二番目になる。
聖は自分のことを追い込みやすい性格なので、そこら辺は、「聖、ねえ聞いて聖」と犬のようにうるさい生田衣梨奈がなんとかカバーしてほしいものだ。
とはいえ、どういう未来が紡がれるのか、なんだかいまから楽しみでもある。

椅子をすべて机に乗せ、これから箒で店内を掃く作業に入ろうとする。
なにをしようとしていたんだっけ?ああ、そうだ、優樹との鬼ごっこだ。

「30分で捕まえろってか?」

感傷に浸っているうちにもう3分が経過していた。
タイムリミットまであと27分。さて、どうしたものかなとれいなは眉を掻いた。
以前のれいなならば、話しかけられても必要事項しか答えないか、そもそも話さないか、という二択しか持っていなかった。
まして、「鬼ごっこ」なんて絶対にするわけなかった。そんな子どもの遊びに付き合う意味なんてない、そう、信じていた。

それなのに、既にれいなはぐっと背伸びをして、彼女を追い駆ける準備をしている。
ああ、どうやらこの「鬼ごっこ」にれいなは乗り気のようだと自覚した。

「27分やったら余裕やろ!」

箒の柄の部分を振り回しながられいなは走り出した。
後輩の思い付きだというのに、楽しんでいるのか、それとも退屈凌ぎなのか、れいな自身も分からない。
れいなは早速、彼女が行きそうな場所へと走った。


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「見つけたぁー!」

喫茶リゾナントの地下にある鍛錬場に乗り込むと、その中心に優樹は佇んでいた。
彼女はれいなの姿を認めるとぎょっとした。

「なんでホウキもってるんですかー!」
「捕まえるより、叩いた方が早いけんね!」

れいなが柄を振り翳し、優樹は慌てて避けた。
ばきっという景気の良い音のあと、床に箒がめり込んだ。

「ほんきでやったでしょー!」
「ガチでやらんとつまらんやろーが。いちばんになるってれなは決めたっちゃん!」
「ちょ、ちょっとたなさたん怖いー!」

箒を手にした分、彼女のリーチは長い。
優樹はギリギリで躱していくが、すぐに壁際に追い詰められた。
ぐあっとれいなが箒を振り上げる。即座に優樹は能力を発動させた。
風と光、直後の沈黙。れいなの箒は空を切った。

「…っとにちょこまかとぉ!」

れいなは鍛錬場をあとにし、階段を駆け上がった。
再び喫茶店内を見回す。先ほど片付けたはずなのに、いくつかのテーブルが動いている。
出入り口の扉に手をかけた。
からんという鈴の音。外は曇天。雲の隙間からは微かに光りが射し込んでいた。
外に逃げた、という仮説を、れいなは一瞬で突き崩した。
なんとなく優樹は、「此処」を逃げることのできるエリアと決めている気がした。

「どーすっかな……」

れいなは扉を閉めた。
なんどめかの鈴の音が小気味良く響く。直後に静寂が広がる。
音、か―――。

「鈴木やったら、“超聴覚(ハイパー・ヒアリング)”とかで居場所を突き止められるっちゃろーけどさ」

鈴木香音の有した能力は、相手の心音までも聴き取ることのできる“超聴覚(ハイパー・ヒアリング)”だ。
視界を潰された闇の中などでは、彼女の能力は非常に有効だ。
相手が何処にいるか分からないこういう状況にはもってこいなのだが、生憎れいなは、そんな能力を持っていない。
箒を振り回しながら厨房へと歩く。
業務用冷蔵庫を開けると、今日使い切らなかった水やお茶が入っていた。荒っぽく蓋を開け、呑み込む。

「“瞬間移動(テレポーテーション)”ねぇ……」

優樹の能力は、その名の通り、“瞬間移動(テレポーテーション)”だ。
「瞬間移動」には、主にふたつの能力があると聞いたことがある。
ひとつは、時間の超越。
対象者は能力を発動するその地点からはほとんど動けないが、時間を飛び越えることができる。
いわゆるタイムマシンの原理と同じものである。
そしてもうひとつが、空間の超越。
一般的な「瞬間移動」の理解はこちらの方である。
対象者は能力を発動すると同時に、別の地点へと自らの体を飛ばすことができる。
応用すれば、対象者のみならず、対象物を別の地点に引き寄せることも可能になるようだ。

優樹の有している能力は、恐らく後者の方だ。
しかも能力が未熟なため、長時間の解放は、体力的にも難しい。
だから、彼女の設定した30分というタイムリミットは、彼女の能力解放の限界値なのだろう。
実に理に適ったゲームだと、れいなは思う。

「ま、能力が目覚めた当初は3分ももたんかったし、上出来やろ」

水道を捻り、手を冷やした。
そのまま前髪をかきあげる。ぽたぽたと雫が垂れた。
彼女を捕まえるには、“瞬間移動(テレポーテーション)”の能力が閉じられた瞬間を狙うのがいちばん的確だろう。
しかし、闇雲に走って追いかけるのは、どうも非効率的だ。
とはいえずっと此処で油を売っているわけにもいかない。やっぱり、行くしかないらしい。

「おーにさんこっちらー!」

直後、背後から明るい声が聞こえた。
この野郎おちょくりやがって、とれいなは振り向きざまに箒を振り翳す。
鋭い風圧が空を切る。優樹の頬を微かに掠めたのか、彼女は右頬を押さえながら笑って逃げる。
思考に陥るのも良いが、追い駆けなくては意味がない。
行ってやろうじゃないか。れいなは「いちばん」になると決めたのだ。


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「鬼ごっこ」開始から早15分が経過していた。
ちょうど折り返しかとれいなは膝に手を当てて息を整えた。
2階のリビングにあるソファーに腰を下ろし、天井を仰いだ。
先日整理したはずなのに、また汚くなっている。机上のメモが散乱し、だれかが此処を走り去ったのは明白だ。
とにかく、この「鬼ごっこ」に勝つには、彼女の能力の欠点を見つけるしかない。
そういえば、優樹をちゃんと捕まえたことがある人物は数少ない。
確かずいぶん前になるが、光井愛佳が彼女の首根っこを捕まえてた光景を見たことがある。


―――なんで分かったんですかー?


―――あんたが跳んでいく地点、全部“予知”したから


ああ、なるほど、その手があったかとれいなは立ち上がった。
愛佳の持つ“予知能力(プリコグニション)”ならば、優樹がこれから何処へ行くかが視えるはずだ。
まあ、これもれいなは有していないので意味がないことに変わりはない。
散乱したメモを集めて机上に戻す。
全く、ホントに子どもやなと思いながら、ふと手を止めた。

「……なんで?」

れいなはいままでの思考をすべて突き崩した。
もしかすると、自分はずっと誤解していたのではないか。
そうであるならば、この「鬼ごっこ」、自分にも勝ち目がある。
メモを机上に叩きつけると同時にそこに乗った。ぐらりと揺れるが、しっかりと両脚に力を込める。
此処は喫茶リゾナントの中心地点。なんて都合が良い。

「試してみる、か」

れいなは目を閉じ、深く息を吸った。
闇の中、静かに光を探す。
静寂を切り裂くように、一歩、踏み出した。
空気が張り詰めて、ぱりんと何処かで割れたような気がする。
同時に、どだんと派手な音がした。即座に階段へと向かい、手すりに足を掛けて飛び降りた。

「いったたたた……」

優樹が頭から派手に転んでいる姿を認めた。
どうやら憶測はそこまで外れていなかったようだ。

「つーかーまーえー」
「られませんよ!」

れいなが首根っこを掴もうとした途端、優樹はごろごろと床を転がっていった。
お前はミノムシかとツッコミを入れようとしたが、彼女は即座に立ち上がり、息を整える。
全く、たかが「鬼ごっこ」になにを本気になっているのだろう。れなも、佐藤も。

「あー、たなさたん、あと10分ですよ!」
「え、マジ?」

優樹が壁にかけてあった時計を指差し、れいなも連られて振り返った。
本当だ、あと10分もない、と思ったときには手遅れだった。
れいなの目の前にいたはずの優樹はまた何処かへと消え去っていった。
子ども騙しに引っかかったと肩を落としたれいなの鼻は、微かな匂いを感じ取った。

「やっぱ、当たっとったっちゃね」

鼻先を走っていったきな臭さに、思考を突き崩すだけの価値はあったと確信した。
自分の誤解、それは優樹の能力に対するものだ。
れいなは、“瞬間移動(テレポーテーション)”という文字に気を取られて、彼女の能力の本質を見失っていた。
恐らく優樹の能力は、正確には、空間の超越ではない。
それが、れいなの発動した“共鳴増幅能力(リゾナント・アンプリファイア)”によって明らかになった。
れいなは再び店内の中心に佇むと、ゆっくりと息を吸った。
タイムリミットはあと7分。もうすぐ、決着はつく。

「死なんとは思うっちゃけど……火傷したらさゆに頼んどくけん」

れいなは一歩、踏み出した。
再びあの感覚に襲われる。
直後、地下鍛錬場に隣接しているプールへと走った。


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れいながプールに辿り着くと、彼女は派手に水浴びをしていた。
そこに跳ぶ意識はなかったのかもしれない。だが、彼女の体は無意識のうちに、プールの真ん中に向いていた。

「今度こそ、っちゃよ。佐藤」

箒を投げ捨て、プールサイドで助走をつけると、れいなは派手にプールに飛び込んだ。
ばしゃっと派手に波が立つ。
優樹は抵抗することなく、プールの真ん中でぷかぷかと浮かんで彼女が来るのを待った。

「えへへ。どーして気づいたんですか?」

優樹が前髪をかき上げるのと同時に、れいなに訊ねた。
れいなは優樹の首根っこを捕まえると「たまたまね」と口をついた。

「佐藤が“瞬間移動(テレポーテーション)”したあと、部屋はいつも微妙に荒れとった。メモが飛んだり、机が動いてたり」

そう、それはまるで、子どもが走り抜けたあとと同じだった。
“瞬間移動(テレポーテーション)”が時間の超越と空間の超越であり、優樹の能力が空間の超越であるならば、そんな痕跡が残るわけがない。
そうであるならば、優樹の能力は空間の超越ではないということになる。

「佐藤の“瞬間移動(テレポーテーション)”は、どっちかっていうと、高速移動に近いっちゃない?」
「へへ。せーかいです」

れいなの指摘に、優樹は素直に笑って頷いた。
未熟である彼女の能力は、まだすべてを解放できるわけではない。解放時間だけでなく、能力そのものが、開花しきっていない。
優樹の有している現時点での能力は、物体の高速移動、それはさながら、“韋駄天”のようなものだ。

「たなさたんの“共鳴増幅能力(リゾナント・アンプリファイア)”でチカラが大きくなったんですね」

れいなが発動した能力で、優樹の能力は急激に増幅した。だが、彼女はそれを自由に扱えるほどの術者ではない。
能力の撥ね返りが起きるのは当然だが、それ以上に、強大となった高速移動により、生じる摩擦熱の大きさが許容量を超えていた。
優樹が走り去ったあとに微かに鼻をついたきな臭さは、その摩擦熱で生じたものだった。

「火傷した?」
「いいえ、だいじょーぶです。熱かったから、ココに来ちゃいましたけど」

そうして優樹は「えへへ」とまた笑った。
ずいぶんと、無茶なことをしたなとれいな自身も思った。
一歩間違えれば大事故につながりかねない。摩擦熱で人体が発火することだって十分にあり得た。仲間を危険に曝していることは認識していた。
たかが「鬼ごっこ」のためになにをしているのだろうと思うが、どうしてもれいなは、勝ちたかった。


「というわけで佐藤。この勝負、れなの勝ちっちゃよ」

優樹を連れてプールを上がろうとするれいなに対し、彼女は「ちがいますよ」と否定した。
まさかタイムオーバーかと時計を見たが、まだあと2分残っている。まさか負け惜しみ?と思うが、優樹は首を縦に振らない。

「負けてません」
「そういう子どもっぽいことは―――」

瞬間、だった。
れいなと優樹の周囲から水が引いた。それは津波が起きる直前の光景に似ている。
水はまるで柱のように立ち上がり、ふたりはいつの間にか、“水の壁”に囲まれていた。
まさか、と思った瞬間、天井を仰いだ。

「さやしさーーん!」

天井につるされた壊れた照明のすぐ横から、鞘師里保が水柱とともにこちらに飛んできた。
重力の法則。物体は地球上では地面に落ちる。里保も水も、その法則に忠実に従っている。
れいなは舌打ちし、箒で応戦しようとする。が、その手はなにも持っていなかった。
飛び込むときに捨てたことをいまさら思い出す。ヤバい、ヤバい、ヤバい!

「鞘師ぃぃ!!」
「田中さん、息吸って下さい!!」

轟音がプール中に響いた。
派手な水飛沫が上がり、高く積み重ねられていた水柱が水面へと沈み込んでいく。
れいなと優樹は濁流に呑まれ、水深2メートルの地点まで叩き落された。
直後、激しい水流が体を押し上げ、一気に水面まで戻される。
げほっと喉に入った水を吐く。
れいなは強引に腕を引っ張り上げた。その腕の中にはだらしない笑顔を貼り付けた優樹の姿があった。

「佐藤!佐藤!」

まさか息をしていないのでは、と心配したが、彼女はすぐに「すごーい!」と笑い声を上げた。
れいなはホッとしたのも束の間、大声で「アホぉ!!」と叫んだ。それはプール中に響き、優樹は思わず両手で耳を塞いだ。
自分たちと数メートル離れた地点で、申し訳なさそうに目を伏せて笑う里保の姿が目に入った。


 -------

「どうしても、負けたくないからって言われちゃってつい……」

プールサイドに上がり、里保を問い詰めると、彼女はあっさりと事の顛末を話した。
ある程度予想していたものであったが、優樹が里保に「いざってときに助けてください!」と頼んだのだ。
そもそもこの「鬼ごっこ」も、優樹が里保に相談して実行することになったようだ。「留年」という言葉を吹き込んだのも、彼女らしい。

「鞘師もやっぱ子どもっちゃね…」
「すみませんでした」
「いや、もういいっちゃけどさ」

れいなはシャツの袖をぎゅっと絞った。
下着まで濡れてしまった。替えの服は2階の自室だし、困ったものだと頭を掻く。
とにかく戻るかと立ち上がろうとしたその腕を、なにかがぎゅっと掴んだ。
これも予想できたものであったが、掴んだのは優樹だった。
主人に叱られた犬のように眉を下げ、れいなを見ている。

「だめ。やっぱりれなの勝ちっちゃよ」
「……まーちゃんはまけましたけど、さやしさんはまけてないです」
「優樹ちゃん」

駄々をこねる優樹を、里保がそっと制した。
ぽんぽんと肩を叩くが、優樹はまだ、れいなの腕を離さない。
れいなはやれやれとため息をつくと、また改めてプールサイドに座った。

「いっちゃうんですか…?」

右から、れいな、優樹、里保と座る。
里保は静かに息を吸うと、くるくると指で水面をなぞる。
波紋が広がり、プールに色がつく。まるで風が吹いたような景色を見ながら、れいなはひとつ頷いた。

「もう、決めたことやから」

れいなが此処を去ると決めて、もう半年が立つ。
それは当然寂しいのだけれど、彼女の歩みを止める権利はだれにもない。
そんなことくらい、優樹にだってもう分かっている。分かっているからこそ、駄々をこねるのだけれど。
優樹は黙って下唇を噛みながら、その瞳をごしごしと擦った。真っ赤になっているのは、プールの塩素剤のせいだろうか。

「今日の鬼ごっこ、田中さんが、優樹ちゃんを捕まえたんですよね?」

ふと、黙って水を動かしていた里保が呟いた。
れいなは優樹を通り越して彼女に目を向ける。彼女は水面を見たまま、視線を絡ませようとはしない。
里保は柔らかく笑うと、右隣の優樹の頭を撫でてやった。

「じゃあ、鬼が交代だね」
「え?」
「今度は優樹ちゃんが、田中さんを捕まえる番だよ」

笑いかけた彼女の目もまた、真っ赤に染まっていた。
微かに鼻を啜る音がする。プールで体が冷えてしまったのだろうか。
里保は今度こそ、れいなと視線を絡ませた。真っ直ぐにれいなを射抜く瞳を、純粋に美しいと思った。

「捕まえてみせますよ、田中さん」

奥二重の切れ長の目が、れいなの心を捉えた。
彼女の言葉の奥に潜んだ真意に気付いたれいなは思わず噴き出した。
なんてことを言い出す後輩がいるものだろう。
圧倒的な力で「いちばん」をもぎ取ったはずなのに、すぐ後ろに彼女が控えている。いや、彼女たち、と言った方が他正しいのだろう。
もうこの背中は、彼女らにしっかりと捉えられているのだなとれいなは気付いた。
静かな焔を宿したその瞳を真っ直ぐに受け止め、れいなは喉を鳴らしながら天井を仰いだ。

「れなは負けんよ。なんでもいちばんじゃないと、気が済まんけんね」

今度の「鬼ごっこ」はいつまでがタイムリミットだろう。
再び、彼女たちとともに最前線に立つ日は、以外とすぐやって来るのかもしれない。
その日まで、捕まらないようにせんといかんっちゃね。
ああ、もう。子どもやって思っとったとにね。

「よーし!まーちゃんがんばります!」
「その前にこの服乾かさなきゃねー」

威勢良く立ち上がった優樹に連られるように里保も立ち上がった。
ああ、やっぱり子どもだ、とれいなが笑うと、里保が右手を差し出してきた。
れいなも素直にその手を取り、立ち上がる。
「いちばん」というものは、思ったよりも大変なんだなとれいなは笑う。
目が少し赤いのは、昨日の寝不足のせいやなと、ぼんやり思った。




投稿日:2013/05/21(火) 14:51:18.27 0