『the new WIND―――道重さゆみ』






2013/04/06(土)


れいなは周囲を見回した。
無間の闇とはよく言ったものだが、れいなを包み込んだのはまさにそれだった。
いったいなにが起きているのか、状況を把握するにはあまりに困難だった。

「さゆ……?」

れいなは闇に問いかけるが返事はなかった。
天上を仰ぐが、そこには先ほどまであった寿命が尽きそうな蛍光灯が存在しない。
床を見下ろしても、自分がそこに立っていることを自覚するには難しい闇が広がっていた。
いったいなんだ。此処は何処だ?なにが起きている?

「れいなは、耐えられるの?」
「え……?」
「この闇の中、ひとりで佇んでいられる?だれもいない中、れいなだけの世界で、生きていける?」

さゆみの声が遠く聞こえた。
彼女の話す意味が分からない。いったいなにを言っているのだ?
いやそれよりも、れいなを深く包み込んだこの闇はなんだ?
暗闇や夜の闇とは違う。擬似的につくり出されたような感覚ではあるが、どうしてそれが此処に出現しているのか理解できなかった。

「ねえ、れいな。どうする?」

さゆみの声が響いた。
れいなは方向感覚を見失いそうになるが、必死に奮い立たせた。
短くなる息を吐きながら、拳を握りしめる。

「私と、闘う?」

その声はまるで氷のように冷たくて、一瞬、さゆみであることを疑うほどであった。


 -------

爆発のあった次の日の夜、さゆみはひとり、あの廃ビルの址に来ていた。
警察や消防が爆発の原因を調べているが、根幹にはたどり着かないだろうなとさゆみはくるりと踵を返す。
数メートル先の路地に入り、パソコンを起動させた。周辺地図を呼び出し、地下の下水道を確認する。
目当てのマンホールを見つけると、さゆみはそっとそれを持ち上げ、地下へと潜った。

下水道特有の匂いに鼻を曲げながら、あの地下室へとたどり着いた。
倒壊の危険も鑑みてか、建物内部には警官は待機させていないようだった。
さゆみは例の培養液の入っていたカプセルのあった、部屋の中心まで歩く。

「……ま、そうだよね」

カプセルは綺麗に粉砕し、跡形もない。
中に入っていた培養液も何処かに流れ去ったのか、存在しない。一通り部屋を見回すが、特に目新しい収穫はなかった。
報道によると、身元不明の遺体が数体、発見されたらしい。損傷も酷かったが、辛うじて、死後数日経過していたことが判明した。
つまり、少なくともその遺体は、里沙やあの科学者のものではなく、科学者が実験材料として使っていた人間だと分かる。
里沙が死んでいないことを喜ぶべきか、それとも死んでいた遺体に黙祷を捧げるべきか悩んだ。

「資料……」

結局そのどちらもすることなく、室内に保管されているであろう資料を探した。
爆発による損傷は酷いものの、なにか手掛かりがあるかもしれないと棚を開ける。
だが、ひしゃげた棚の中にあったファイルや書類は綺麗に焼け焦げ、読めるようなものはない。
ため息を吐きつつ、何人かの「実験体」が入っていた牢へと近づく。


鼻の曲がるような匂いを堪え、牢へと入った。
おおよそ食料とは思えないようなものが与えられていたことや、此処で排泄をさせていたことがなんとなく分かった。
あの科学者が大切にしていたものはデータそのものであって、被検体のことはどうでも良かったのだろう。
さゆみは下唇を噛みながら、牢を見回す。

一箇所、床の色が微妙に違うことに気付いた。
爆破の影響だろうかとも思ったが、どうもそうではない。
さゆみはその床を指で叩き、他の床と比較した。音が違う。なにかが此処に在ると直感した。
ひしゃげた鉄の棒を持ち、ゆっくりと力を込めて床を押すと、ガコンと穴が開いた。
そこは外へと通じる道、「抜け穴」になっていた。
此処を進めば、何処かに避難することはできる。里沙が此処を通って脱出した可能性も、ゼロではない。
しかし、あの爆発に巻き込まれたという可能性は依然として存在する。
さゆみは前髪をかきあげ、再び室内を歩いた。

多くのコンピュータが置いてあった机を確認する。
なにか資料はないかと探すが、先ほども確認したように、焼け焦げからはなにも発見できない。
下唇を噛みながら壁を叩くと、再び音が違う箇所があることに気付いた。
さゆみは思い切りその空洞音の箇所を殴ると、ボゴンと勢い良く凹んだ。壁の中にあったのは、いくつかのファイルだった。
良い収穫になりそうだと急いで確認する。
ぺらぺらと何枚か捲ると、そこには見たこともないような薬品の名前と効能が記されている。
此処で投与していた薬品も、そのひとつなのだろうと推測される。

「人権なんてあったもんじゃないの…」

あるファイルの最後のページを捲ると、そこにはSDカードがテープで貼られていた。
さゆみはそれを手にしていたパソコンに接続する。
早速パスワードを要求される。そこそこの信憑性はありそうだと、さゆみは座り込んだ。


 -------

何重にも掛かっていたパスワードと格闘すること90分、さゆみは漸く、SDカードの本体に入り込むことに成功した。
これほどの厳重なセキュリティが罠であるとは考えにくい。
さゆみは慎重に、SDカードの中の情報を読み取っていく。

「これは………」

カード内にある情報はいくつかある。
薬品の名前、効能、そして、ここ数年、全国各地で発生していた立てこもり事件のデータだった。
実験に使う薬品のことが書いてあるのは分かるが、なぜ立てこもり事件をデータベース化しているのかが分からない。
しかもこれほどに厳重にロックをかける必要性が何処にある?
さゆみは資料をスクロールしていくと、その中に、あの日の事件の名前を見つけた。

「なんで……?」

それは絵里が離脱するきっかけとなった病院立てこもり事件だった。
あの事件は、病院長や外科部長たちに対する逆恨みが動機だった。犯人らはインターネットを通じて知り合い、犯行を実行した。
素人がなぜあのような爆薬や銃器を入手できたのか、警察の発表によると、主犯格の男が海外から持ち込んだというものだった。
だが、主犯格の男はそれを否定しているというニュースをさゆみは見ている。
ニュースを伝えたアナウンサーは冷ややかにそれを報じていたが、さゆみはそれに疑問を覚えた。
そんなバレるようなあからさまな嘘をつく必要が何処にある?

「まさか―――」


ふと、思った。
仮に主犯の男の供述が真実だとしたら?
報道によると、犯人らのメールには確かに主犯の男が爆薬や銃器を購入したことが記載されていた。
もしこれが、主犯の送信したものではなかったとしたら?
メールは別の人間が作成し、送信したもの。そして裏で操っていたものこそがダークネスだとしたら……?

「絵里を、絵里を傷つけたのは…」

絵里がリゾナンターを離脱する経緯となった事件の主軸が、一般市民の犯罪ではなく、ダークネスだったとしたら。
さゆみの怒りが急に沸点へと達す。
勢いよくパソコンのカバーを閉じた。
ずるずると膝を折った。呼吸が短くなる。心臓が早鐘を打つ。血が巡る。頭痛がする。奥歯を噛みしめる。

「絵里っ―――!」

この段階では仮定以外の何物でもない。だが、あの事件にダークネスが何らかの形でかかわっていたことは事実だった。
ダークネスに関係しない一般人の犯罪に、リゾナンターが干渉することは禁じられていた。
あのとき、上層部たちはさゆみたちに連絡のひとつも入れなかったため、れいなとさゆみは、この事件の犯人はダークネスとは無関係だと判断した。
だが、実際はそうではなかった。
本当に上層部が把握していなかっただけなのか。ダークネスの暗躍に気付いていなかっただけなのか。
それとも、本当は知っていたにも関わらずなんらかの理由でさゆみたちに連絡を入れなかったのか?

―“解体”を目的として………?

瞬間、ぞわりと背筋が凍った。
さゆみが顔を上げると、入り口には彼女が立っていた。


「あれ。気付かれないように近付いたはずなんだけどなー」

軽口を叩いた彼女にさゆみは身構えた。
しかし相手は大袈裟に肩を竦めたかと思うと、両手を挙げて丸腰であることをアピールした。

「こんな場所で闘うつもりはないよ。そういう目的で、此処に来たんじゃないから」

彼女の言うことにさゆみは耳を貸さなかった。
この状況で相手の言うことを信じる方がバカというものだ。
さゆみが真っ直ぐに彼女を射抜くと、彼女は困ったように笑って「まあいいから話を聞いてよ」と一歩近づいた。

「それ以上来ないで下さい」
「だから待ってってば。闘う気はないんだよ」
「一歩でも近づけば、攻撃します」
「もー。分かった。じゃあこの位置から話すよ。ちゃんと聞いてね?」

彼女―――氷の魔女はそうして立ち止まり、両手を下ろした。
さゆみは構えを崩すことなく、対峙する。
恐らくれいなであれば、迷うことなく飛び掛かったはずだ。だがなぜか、さゆみは躊躇した。

「そっち、いま大変みたいじゃん。半年間で人員減りすぎでしょ」
「それがどうしました?」
「事実を言ってるだけだよ。そんな怒らないでってば。で、これからどうしていくわけ?」

どうしていくか、という問いに、さゆみは言葉に詰まった。
小春に始まり、ジュンジュン、リンリン、絵里を失い、リーダーである愛、愛佳、里沙も去っていったいま、残されたのはさゆみとれいなだけだ。
残ったふたりで、これからの未来をどう生きていくかなど、考えたこともなかった。


「いまはあのヤンキーちゃんとふたりだけでしょ?そんなんでウチらに勝てるわけ?」
「そんなことあなたたちには関係ありません。ふたりしかいない絶好の機会ですから、闘いに来たんですか?」
「だから結論を急ぐなって。違うし。私はさ、シゲさんを誘いに来たんだよ」

彼女にはなぜか、シゲさんと呼ばれることが多いが、その呼び名は嫌いだ。
そんなことはどうでも良いのだが、「誘いに来た」とはどういうことだ?

「シゲさんさ、こっち側に来ない?」
「……なにを言ってるんですか?」
「そのまんまの意味だよ。リゾナンター抜けて、こっちに来ないかって言ってんの」

勧誘というものを、さゆみは初めて受けた。
こんなに可愛いというのに、街中を歩いていても、モデルや女優の誘いなんて一度も受けたことはない。
宗教の勧誘ですら受けたことはないのだが、それはかえってありがたかった。
そんなさゆみが生まれて初めて受けた勧誘は、敵対するダークネスの幹部クラスからのものだった。

「あり得ません。あなた方にも何のメリットがあるんですか?」
「これは私個人の意思だよ。上層部には関係ない」

氷の魔女はくるりと背中を向けるとまるで脚本を読むように芝居じみた風に話始めた。
ダークネスの目的は世界の統一と支配。
総帥を頂点とした能力者集団であるが、お世辞にも統率が取れているとは言えない。個人主義であり、実力主義が徹底されている。
魔女もまた、目的を共有しているのみで、総帥に絶対服従しているわけではなく、自由に動くことができる。

「シゲさんの治癒と破壊の両極な能力は、やっぱり欲しいわけよ私は」
「このチカラをあなたの為に使えと?」
「考えてもみなよ。いまシゲさんは泥船に乗っている。7つの大砲を撃ち込まれ、もうあとがない。それでもまだ、その船に乗りつづけるわけ?」


さゆみの拳は微かに震えた。
言い返せない自分がいることに腹が立っていた。
いま、リゾナンターにはふたりしかいない。もうだれも、残っていない。それでも尚、留まる意味があるというのか?
そもそもなぜ、この段階になってまで、私は此処に居るんだっけ?

「なにを考えてるか分からない上層部に仕えるより、こっちに来た方がその能力はもっと有効に使えると思うんだけど」
「……そんなことっ」
「いつまで“上”についていくつもり?やめときなって。自分の頭で考えて行動した方が絶対に良いよ。私みたいに」

矢継ぎ早に言われさらに閉口する。
口が達者だと自覚していたはずなのに、なにひとつ言い返せない。
魔女はくるりと振り返った。相変わらず笑ったまま、こちらを見ている。
冷たい微笑に、背筋が凍る。なにも考えていないようで、静かな意思を持った瞳に、震える。
これが氷の魔女と恐れられる所以なのだろうかと改めて感じた。

「時間をあげるよ。決心がついたらまた此処に来て」

さゆみが「行きません」と発する直前、冷たい風が飛び込んできた。
思わず腕で目を覆うと氷の粒が走ってくる。頬がかすり、傷ができた。血が微かに伝う。
目を開けるとそこにはもうだれもいなかった。室内の数ヶ所が凍りついている。
足元のパソコンを確認したが、こちらには何の問題もないようだ。
力がどっと抜け、さゆみはぺたりと腰を下ろした。



―――「リゾナンター抜けて、こっちに来ないかって言ってんの」


―――「シゲさんは泥船に乗っている。7つの大砲を撃ち込まれ、もうあとがない。それでもまだ、その船に乗りつづけるわけ?」


―――「自分の頭で考えて行動した方が絶対に良いよ」



先ほど魔女が残した言葉が頭をよぎった。
敵の言葉を真に受けて心を狂わせるなど愚か者のすることだ。そんなこと百も承知だった。
それなのに、考えないようにすればするほど、さゆみの心に巣食った闇は徐々に膨らみ、静かに侵食を深めていった。
パソコンを持ち、のろのろと立ち上がる。
もうこれ以上、この場に居てはいけないと、歩き出した。
帰ろう。早く、早く帰らなくては。

帰る?
何処に帰るというのだろう。もう、帰る場所なんてとっくにないのかもしれない。

小春の笑顔が、ジュンジュンの膨れっ面が、リンリンの驚いた顔が、絵里の寝顔が、愛のとぼけた顔が、愛佳の困った顔が、里沙の怒った顔が、浮かんでは消えた。

足を止めないように必死だった。
ずるずると重い体を引きずるように、さゆみは下水管へと消えていった。




投稿日:2013/04/06(土) 10:35:43.55 0


2013/04/28(日)


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げほっと痰の絡んだ咳をした。
今日もまた、れいなは鍛錬場に籠っていた。
とはいえ、トレーニングをすることもなく、ただ床に横になって、真白い天井を眺めていた。
最後にトレーニングをしたのはいつだろう。里沙があの崩落に巻き込まれてから、していないのではないか。
最後にご飯を食べたのはいつだろう。ロクに動いていないせいか、空腹をあまり感じない。
最後にさゆみと話したのはいつだろう。……いつだっけ?

「………どうしよ」

れいなは勢いをつけて上体だけ起こした。
脚を投げ出したまま、いまの状況を整理した。
里沙は行方不明のまま、連絡も取れない。れいなも個人的にあの崩落したビルに行ったが、警備があるために、中に入ることはしなかった。
さゆみの力を借りようかとも思ったが、なんとなく話しかけづらかったためにそれをしていない。

里沙がいなくなってもう2週間が経つが、一向に上層部からの連絡はない。
“上”と連絡が取れるのは代々、リゾナンターの長だけであり、長以外は連絡先を知らない。
愛から里沙にリーダーが引き継がれたときに、専用の携帯電話を受け取っていたが、その電話もあの崩落に巻き込まれてしまった。
里沙がいないことはとうに上層部も知っているはずだから、向こうからアクションを起こすだろうと思っていたが、今日の今日まで、それはない。

いまのところダークネスに大きな動きはない。
下位構成員たちが街で暴れているようなニュースは目にするが、れいなたちが出る幕もなく、警察が動いている。


結果、なにもせずにただ喫茶リゾナントにいるだけの日々がつづいていた。
なにをやっているのだろうと自分に対して辟易するが、どうしても一歩が踏み出せない。
このままで良いはずはない。この状況を打破するには、さゆみとしっかり話す以外にない。
それなのに、れいなは今日まで、さゆみに声をかけることができない。
彼女もまた、資料室か自室にこもり、あまり外に出ることはなくなった。

「壊れとーのかな…もう、れなたち」

自嘲気味にれいなは笑った。
生まれも、境遇も、年齢も、国籍も、なにもかも違う9人が集まった。
デコボコで、バラバラで、衝突もあったけれど、目的を共有し、ただ自らのチカラを鍛え上げ、自分の信じる正義のために闘った。
捨て猫だったあの日から、れいなは此処で生きる意味を見つけた。
だけどもう、そんな日はつづかない。このまままた、捨て猫に戻るだけなのかもしれないなと天を仰ぐ。

「お似合いやろ……」

夢を見て必死に走り抜けてきた捨て猫は、仲間を失い、また捨て猫に戻りましたとさ。
めでたしめでたし。

れいなはごろんと再び横になった。
真白い天井が迫って来るようで、妙に腹立たしい。
げほ・ごほとまた咳をする。
この咳の原因がよく分からない。
3週間ほど前から妙に喉が痛くなり、血を吐くようなこともなんどかあった。
病院嫌いなれいなは、原因は気になるものの、通院することはしていない。とはいえ、このまま放置するのも良くないのだろうか。


腕で目を覆い、ぐるぐると回る思考を止める。もうなにも、考えたくない。
さゆみと話さなきゃいけないと分かっているのに、動きたくない。もうこのまま、終わってしまいたい。
なにもかも捨てて、もう、このまま、この息を止めて。すべてを、無に―――


―――「れーなは、闘うの、好き?」


ふいに彼女の声が甦った。
いつだったか、彼女の見舞いに病院に行ったときに投げられた言葉だ。
闘うことに存在意義を見出していたれいなを鋭く抉った言葉に、素直に応えられなかったあの日。
まるで子どものように拗ねて、目を逸らして、そして黙って病室を出て行った
どうしてあんな話になったんだっけ?それまで彼女となんの話をしていたんだっけ?

記憶をゆっくりと掘り起こしていく。
あれ。なんでこんなことをしているんだろう。思考を止めたかったはずなのに。
ずいぶんと矛盾しているのに、どうしてか、れいなはやめようとはしなかった。

ゆっくりと、あの日のことを思い返す。
白くて狭い、殺風景な部屋の中心に、彼女はいた。
ベッドの上に上体を起こして、ぼんやりと窓の外を見つめている。
四角く切り取られた空は温かいオレンジ色に染まっていた。


そうだ、あの日は夕陽が妙に綺麗だった。
今日の終わりを告げ、夜の始まりを教えるその色が、まるでれいなを笑っているようで、それが嫌で逃げ出したんだ。


―――「この心臓が治るよりもね、闘わないで良い世界を見たいっていうのが、絵里の夢なんだぁ」


心臓病を患い、静かに時を過ごしている彼女の口から「闘い」という言葉が出てくるだけで胸が痛んだ。
それでも彼女は真っ直ぐに、れいなを射抜いている。
唐突に彼女は自らの夢を語った。胸元に手をやり、ぎゅうと握り締めて、夢を語った。
あのとき彼女は、れいなになにを云いたかったのだろう。なにを伝えたかったのだろう。
彼女は、絵里は、あのとき―――

「っ―――」

瞬間、右手が熱を帯びたような感覚に捉われた。
ふと右手を翳すが、変化はない。
気のせいかとも思ったが、この熱の感覚は本物だ。

れいなは上体を起こし、改めて右手を確認する。一見すると変化はない。だがなにかがおかしい。
ぎゅうと握りしめ、ぱっと放す。もういちど握りしめ、放す。静かに繰り返す。
手の平を大きく開き、ゆっくりと虚空に円を描く。
そのとき、見えないはずの円が、はっきりと見えた。
見間違いではない。まるで水面にできた航跡のように、れいなの右手に沿って、円が浮かび上がっている。
眉間に皺を刻みながらも、れいなは真っ直ぐにその右手を見た。
なにかが、なにかが此処に在る。


 -------

さゆみは部屋にこもり、パソコンのディスプレイを食い入るように見ていた。
何重にも掛かっていたパスワードの奥にあったものは、あまりにも膨大な量の資料だった。
なんどもなんども繰り返し読み、仮定をつくっては突き崩す。
氷の魔女に遭遇してからもう2週間が経っているが、さゆみの脳内には相変わらず、彼女の言葉がこびりついて離れない。
忘れようとするのに、あの声が壊れたレコードのようにまわりつづける。

息が短くなるのを感じ、ぐっと伸びをした。
すっかり冷えた紅茶を飲み干す。味なんてあったもんじゃない。
立てこもり事件のデータベースを閉じる。思考を切り替えようと別のファイルを開く。
実験に使われていたであろう薬品のファイルを開いた。
ずらりと並んだ見知らぬ名称たちに辟易しながらもスクロールしていく。
効能も併せて読むとさらにうんざりした。抵抗力を弱めるもの、脳を麻痺させるもの、痛覚を倍にするもの、自白剤のようなものなど、さまざまだ。
なぜこれほど非道なものをつくれるのか、さゆみには理解できないし、理解したくもなかった。

スクロールしていた指は、あるひとつの文字列を発見したことでぴたりと止まる。

「これは……」

その名称に見覚えがあった。
さゆみは椅子を引き、三段目の引き出しを開ける。
奥に入れてあった鍵のかかった小さな箱を取り出して机上に置いた。鍵をあけると、そこには小さな瓶が入っている。
黒い蓋に「Corridor」とラベルが貼ってある小瓶と、ディスプレイに浮かんだ文字列を見比べる。
それはひとつの間違いもなく、一致していた。
廃ビルと化したあの部屋で、さゆみの目の前に転がってきた小瓶。捨てることなく、ポケットの中に入れたそれがいま、目の前にある。
ごくりと生唾を呑み込み、効能を見る。


文字を追いながら、ぐるぐると思考を展開させる。これを使えば、世界は変わる、かもしれない。
自分の周囲にある「世界」。
信じていたもの、普通にあると思って疑わなかったもの、ずっと変わらない日常だったはずだ。
だが、ある日突然にして地図は変わった。自分の立ち位置を見失い、座標は消えゆく。
さゆみは手を組み、額に持っていく。
じっと目を閉じて深く思考の海に潜りながら、ふと、在りし日のことを思い出していた。


 -------

―――「今日の17時、喫茶リゾナントに集合」

絵文字も何もない、たった一文のメールが送られてきたのはその日の昼過ぎのことだった。
何事かと、リゾナンターのメンバーは、高橋愛の指示通り、17時に喫茶リゾナントに集まった。
肝心の呼び出した本人は、16時過ぎからリゾナントの厨房に立って、なにか料理をつくっていた。

「え、なんなの?」

新垣里沙は眉を顰め愛に話しかけたが、彼女は意味深に笑うだけでなにも答えなかった。
呼び出されて集合したは良いものの、待ちぼうけを喰らうことになり、亀井絵里は「ふああ」とあくびをする。
黙々と具材を切っていく愛をさゆみは不思議そうに見つめ、れいなもまた、分からないと言わんばかりに肩を竦めた。

「ヴィジョン視たら?」
「そう易々と能力行使させようとするのやめません?」
「コーシってなに?」
「……もうええです」

久住小春に円らな瞳で覗き込まれ、光井愛佳は逃げるように雑誌を捲った。
手伝った方が良いのかもしれないが、厨房に立った愛は「良いから座っとき」と強く言われたので、我関せずの態度を一貫している。
ジュンジュンはアイスコーヒーを片手に立ち上がり、厨房の愛を覗き込むが、しばらくすると席についた。
落ち着かないのは彼女もいっしょなのだろう。くるくるとストローを意味もなく回している。


普段とは少し違った空気が喫茶リゾナントに流れていた。
この店のマスターである愛がキッチンで料理をすることなど珍しくもない。
だが、あれほど大量の具材を買い込み、ひとりで厨房に立つのは珍しい。
しかも営業時間にもかかわらず、リンリンに頼んで「CLOSED」の札を出させてまでのことである。
リンリンは不可解に思いながらも、「OPEN」の札を返した。そして始まったのが彼女の料理ショーだ。
こめかみを掻きながらも「楽しみデスネ~」と適当なことを言って場を和ませる。
各々がそれぞれの想いを抱えながら、喫茶リゾナントに少しだけ「非日常的な」緩やかな時間が流れていた。


「よーし、かんせいっ!!」

彼女が厨房に立って、何分が経過しただろう。
たまたま時計を見ていたさゆみは、優に1時間半が経過していたことに驚いた。

「ほら、全員集合!」

愛はテーブルにガスコンロをセットし終えるとそう声をかけた。
その場にいた全員が「それ」を予想したが、同時に、「それ」はないだろうと否定もした。
だが、結局彼女が「それ」を厨房から持ってきたせいで、その予想は当たることとなった。

「鍋かよ!」
「そう、鍋やよ、ガキさん」

愛はそうして厨房から鍋を3つほど持ってきた。
里沙の向かって右からキムチ鍋、石狩鍋、もつ鍋が並んでいる。

「あんだけ勿体ぶったのに鍋なの?」
「鍋おいしそ~!」
「石狩鍋とか、凝ってますやん」
「鍋おいしそうです、ハイハイ」

テーブルを囲うように8人が集まり、愛は嬉しそうにお玉で具材を掬った。


「はい、もつ鍋が良い人~?」
「れいなそれがいい!絶対もつ!」
「モツってナンダ?」
「って人の話を聞けぇ!!」

愛は里沙のツッコミなど聞かずに人数分の鍋を注いでいく。
白い湯気を立てたそれは、実に美味しそうだ。
さゆみも皆に倣ってもつ鍋を受け取る。そういえばもつ鍋って食べたことないかもしれない。

「ねえ愛ちゃん。なんで鍋なの?」
「はい、皆受け取った?受け取った?よし、じゃあ、いただきまぁーす!」
「だから聞けってば!」

とにかく現状を把握したい里沙がどんと机を叩いて立ち上がった。
能天気に箸を持った小春も、さすがにこの空気の中でキムチを食べる勇気はなく、ゆっくりと箸を置く。

「なに考えてんのよ愛ちゃん」
「……だってさ、こうやって9人で揃ってご飯食べるの、久し振りやん」

白菜を口にしながら愛はそうして笑った。
里沙は「はぁ?」と眉間に皺を寄せたが、さゆみはふと、そういえばそうかもしれないと思った。
ここ数ヶ月、全員が顔を揃えて食事をともにすることはなかった。
ダークネスの急襲、不穏な動き、殺伐とした毎日がつづくなかで、のんびりと9人で食事なんて、考えられなかった。


「たまにはこういう日も大事やと思って」
「そのために、わざわざ呼び出したの?」
「よく言うやん。何気ない日常がいちばん大切やって」

軽く口にした言葉は、妙に心に刺さった。
いつまでもつづく平和なんてない。リゾナンターである以上、常に死と隣り合わせで、この9人の生命の保障はない。
だからこそ、9人で必死に闘って、前に進んできた。
同じ、共鳴という絆で結ばれた仲間だから。

「今日は9人でさ、ぱーっと盛り上がろうよ!」

不確かな日常。確証のない未来。
だけど、この9人なら進めると思った。
年齢も、境遇も、国籍も、全く違う9人だけど、不思議と自信があった。
絶対に負けないと、胸を張って断言できた。

「じゃあ乾杯デスヨ!」
「絵里オレンジジュースがほしいー」
「あ、冷蔵庫取ってきますよ、田中さんなにがええですか?」
「じゃあグレープジュース」
「小春は麦茶ー」
「あんたは自分で取ってくるの」
「鍋美味しいダ」

凍った空気が再び動き出す。
慌ただしくなったメンバーを尻目に、愛は豚肉を頬張った。
里沙はわざとらしく肩を竦めて椅子に座り、キムチ鍋に手を伸ばした。


「きみはよく分からないよ」
「まあ分からないから良いってもんやない?」
「……さあね」

いつの間にか、目の前に紙コップが並べられていた。
愛と里沙は仲良く麦茶を手にし、右手で持つ。

「じゃあ、リゾナンターにかんぱーい!!」

威勢よく発した小春の声とともに、9人での宴が始まった。
だれかの誕生日であるとか、記念日であるとか、そんなことはまるでない。
ただの日常の、ありふれた夜でしかなかった。
だけどそれは、とても特別で、妙に忘れがたい夜となった。


 -------

目を開けると、目の前にはディスプレイの暗くなったパソコンが置いてあった。
あの9人で鍋を食べたのはいつのことだっただろう。次に皆で鍋を囲んだのは、高橋愛がリゾナンターを離れる前日のことだった。
思えば、すべては節目の日だった。
大切な想い出。大切な過去。忘れることのできない夜。

さゆみは背もたれに体を預け、ぼんやりと天井を見上げた。ごきっと背骨が鳴る。
右脚が少しだけ軋んだむ。病院にも、行かなくてはならない。そう思うけれど、体が動かない。
勢い良く体を戻し、再びパソコンを見る。
「Corrido」の効能の書かれたページを確認しながら、黒い蓋の瓶を手にする。
魔女の言葉、上層部の不穏な動き、薬品、人体実験、行方の知れない里沙。
考えることは山積みで、だけどもうなにも考えたくなかった。
頭の中に浮かぶのは、大切な仲間たちの笑顔。


―――「よく言うやん。何気ない日常がいちばん大切やって」


自信があった。
あの9人でなら何処までも走っていけると、そう信じていた。
過去の記憶との邂逅は、心を掻き乱し、捉え、波を起こして襲いかかる。
さゆみは再び、目を閉じる。
信じていた世界。何処までも、永遠につづくと信じていた、日常。あの9人での、記憶。


―――「これでもさぁ、信じてるんだよ、きみのこと?」


唐突に、彼女の言葉が甦った。
舌足らずで、甘ったるくて、へらへらふわふわと、だれにも捕まらない自由な風のような彼女は、文字通り、風のように消えていった。
その割にいつも本質を突いて、ぐさりとさゆみの心を抉る。
力強くて、立派で、そして残酷で、だけどだれよりも暖かな風を吹かせる彼女が、好きだった。


―――「争うことのない、平和な世界。そういうの、見てみたいんだ。きっとね、さゆたちならできると思うの」


あれはいつのことだっただろう。
白くて狭い病室に、彼女の好きな花を持っていった夕方、彼女は病室の窓から空を見ていた。
四角く切り取られた小さな青に向かって、彼女は真っ直ぐに腕を伸ばしていた。
天高く上った太陽を掴まんとするその仕草は、まるで子どもで、どうしようもなく、大人だった。


―――「きっと、さゆならだいじょうぶ。だから、だから、諦めないでほしいんだ。絵里のためにも、絶対にさ」


太陽を掴むことなく、腕はだらりと垂れ下がった。
さゆみに向き直った彼女の笑顔は、眩しかった。
あの言葉の意味を、さゆみが問いただすことはなかったし、できなかった。
彼女が一体なにを云いたかったのか、その真意をさゆみが知ることはなかった。
だからさゆみはいまでも、彼女の想いをその両の腕に抱えたままで生きていくしかない。

「なにを、諦めないでいればいいの、絵里……」

ぎゅうと瓶を握りしめて、さゆみは立ち上がった。右脚が軋む。
パソコンを閉じ、右脚を引き摺りながらも部屋をあとにする。
もう、後戻りはできないと、ぼんやり思った。




投稿日:2013/04/28(日) 08:30:36.62 0


2013/06/02(日)


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れいなは鍛練場にひとり佇み、大きく息を吸って、長めに吐いた。
なんどかそれを繰り返し、すっと目を閉じた。
自分の呼吸に集中し、体の中心に己の“気”を集める。
流れるそれを感じるように、耳を澄ませ、開いていた心の扉を閉じる。

徐々に体が熱くなっていくのを感じ、今度は右手に意識を集中させた。
れいなの周囲の“気”が、れいなの右手へと集まってくる。
それを乱さないように、心は閉じたまま、じっと右手のみに感覚をもっていく。

頭の中で、完成のイメージ像をつくる。
最初に浮かんだそのイメージと合致するように、もっと具体的に、太く、濃く線を描く。

不定形だった“気”が、徐々に、ある形を成していく。
れいながそっとそれを握り締めると、確かに感触があった。

深く息を吐き、右手を見つめると、そこには立派な『刀』が握り締められていた。

「物体具象化能力……」

2週間前、右手に宿ったその能力に、れいなはそう名前を付けた。
具象化されたその刀を、れいなは黙って見つめる。
光のような、淡い水色を纏ったその不定形な刀は、それでも確かに手中にあった。

未完成で不完全な能力が、いままたれいなの中に出現していた。その理由が分からない。
どうして「いま」なのだろう。
もし仮にこの能力が、あの男が現れるより先に存在していたとしたら、リゾナンターがこのような形になることはなかったかもしれない。
手遅れではないのか。なぜもっと早く出現しなかった。どうしてどうしてどうして―――!

だが、いくら考えてもその答えは頭に浮かばなかった。
れいなはぐっと刀を握り締め、振り上げる。
そのままじっと、動かない。
思考がそれでも先走る。
手が届くはずのない、あり得た未来、存在したかもしれない未来を、れいなは思う。

集中しろ。いまはそれを考えるべきではない。
いま為すべきことは、他にある。
れいなは息を大きく吸って目を閉じ、具象化された刀の重さをしっかりと感じた。
広がった暗闇の中、深く息を吐くと同時に振り下ろすと、刀は一瞬で消え去った。
その手から滑り落ち、物体としての存在をなくしたそれは、再び空気へと混ざって消えた。

「まだ、完璧やない…」

れいなは天を仰いで息を吐く。困ったように頭を掻いて、未完成の能力に笑った。
すべてを投げ出すように四肢を放り出して床に寝転がる。
深く息を吐いて、目を閉じてしまうと、世界が闇に覆われ、自分という存在の確認すらも危うくなる。
それでも、“田中れいな”は確かに此処にいるのだと認識するように、れいなは自分の周囲に気を集め始めた。

ぴりぴりと、空気が震えるのを感じる。
まるで遠雷のようだと感じていると、ふいに小春の笑顔が浮かんで、消えた。
それを皮切りに、ジュンジュン、リンリン、絵里と、此処を去っていった仲間の笑顔が浮かんだ。
愛も、愛佳も、里沙までも居なくなり、もう此処には、れいなとさゆみしかいない。
哀しくて、ツラくて、寂しくて、どうしようもない想いを叫ぼうとしても、それは暗闇に呑みこまれるだけだった。
れいなはそれでも、頭の中で確かな刀のイメージ像をつくる。
集まった光は映像となり、右手に力を込めた。

瞬間、右手の中に再びあの刀が現れた。
刀身が真っ直ぐに伸びた綺麗な刀は、何処か蒼みを帯びている。
光と気を集めてつくられたれいなの刀は、“共鳴”という単語がよく似合う気がした。

「……終われんよ、やっぱ」

れいなはぼんやりとそう呟くと、刀を握り締める。
久住小春が異動を告げられたあの日から変わっていった日常は、それでもいまもなおつづいている。
れいなが此処にいる限り、その日常は失くすことなんてできない。
失くしたくないのは、過去と、いまと、そして未来なんだ。
だって、此処を去っていった仲間たちは、だれひとりとして、その未来を諦めていなかったじゃないか。


―――「だから、逃げないんだけどさ」


―――「私が護っているのは、仲間と信念だ」


―――「私は、護りたいんです……この世界を……ジュンジュンを」


―――「世界って―――やっぱ綺麗なんだね」


―――「なにがあっても、リゾナンターは、変わらんよ」


―――「考えたって仕方ないのかもしれません。未来はすぐ、そこにやって来るんですから」


―――「助けるよ、必ず―――」



それぞれが、それぞれの信念を持って、自分の正義を信じて闘っていった。
年齢も、身長も、国籍も、考え方も、なにもかも違っていたけれど、たったひとつ、“共鳴”という絆だけが9人を繋いでいた。
そうであるならば、れいなが此処で、その牙を折るわけにはいかない。
圧倒的な絶望の闇が襲いかかってこようとも、理不尽という現実を突きつけられようとも、れいなは膝を折るわけにはいかない。
この手の中には、希望がある。


―――「闘わないで良い世界を見たいっていうのが、絵里の夢なんだぁ」


きっとそれは、途方もない祈りなんだ。
だれもが傷つかない、哀しまない世界をつくることなんて、まるで無謀な話だ。
それでもれいなは、諦めの悪い子どものように、みっともなく足掻くしかない。
みっともなく足掻いて、もがいて、手足をばたつかせて闇の中を駆け回る自分を、彼女は好きだと言ってくれたから。
ないものねだりなんだけどさ。それでも悪くない。

力が抜けると同時に、右手の刀が消滅した。
まだ不安定なその能力は、出現時間が圧倒的に短い。
ちゃんと扱えるようになるまでは、もう少し時間がかかりそうだとれいなはぐっと体を起こした。
もうずいぶん夜も深まったんだなと感じながら立ち上がる。
そのとき、背後に気配を感じた。
振り返らなくても、そこに立っているのがだれであるか、れいなは知っている。
彼女がずいぶんと寂しい想いを抱えていることを、感じ取った。

「どうしたと?」

振り返らずにそう訊ねるが、彼女は答えようとはしなかった。
久し振りの会話だったが、思いのほかに素直に言葉が出てきたことに、れいなは驚いた。
なんだ、ちゃんと喋れるじゃないか、自分。

「考えてたの」

ふいに彼女がそう呟いた。

「なにを?」
「どうして、こんなことになったんだろうって」

彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
れいなが振り返ると、彼女は床の一点を見つめていた。暗いその瞳はなにを映しているのだろうと、れいなはぼんやり思う。
右脚を引きずっていた彼女―――道重さゆみはひとつ息を吐いて、呟く。

「ねぇ、れいな」
「うん?」
「………れいなは、どうしたい?」

唐突な質問に眉を顰めた。どうしたいとはどういう意味か、理解できなかった。
彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、意図を測ろうとしたが、その漆黒の闇はなにも語らなかった。
なにかを言おうとしたとき、周囲の空気が変わった。張り詰めた冬の痛みを携えたその空気に思わず息を呑む。

「私は、もう、終わらせたいよ」

彼女の言葉の意図が読めない。
なにを?なにを?なにが?聞きたいことは山のようにある。あるけれどなにも言えない。どうした?どうしたと、さゆ。

「全部、もう終わらせたいんだ―――」

一瞬の静寂のあと、なにかが割れるような音がした。
れいなを、そして世界を呑み込むような暗闇が広がった。
なにが起きているのか瞬時に理解はできなかった。

周囲を見回す。
無間の闇とはよく言ったものだが、れいなを包み込んだのはまさにそれだった。
いったいなにが起きているのか、状況を把握するにはあまりに困難だった。

「さゆ……?」

れいなは闇に問いかけるが返事はなかった。
天上を仰ぐが、そこには寿命が尽きそうな蛍光灯はない。
床を見下ろしても、自分がそこに立っていることを自覚するには難しい闇が広がっていた。
いったいなんだ。なにが起きている?

「れいなは、耐えられるの?」
「え……?」
「この闇の中、ひとりで佇んでいられる?だれもいない中、れいなだけの世界で、生きていける?」

さゆみの声が遠く聞こえた。彼女の話す意味が分からない。いったいなにを言っているのだ?
いやそれよりも、れいなを深く包み込んだこの闇はなんだ?
暗闇や夜の闇とは違う。擬似的につくり出されたような感覚ではあるが、どうしてそれが此処に出現しているのか理解できなかった。

「ねえ、れいな。どうする?」

さゆみの声が響いた。
れいなは方向感覚を見失いそうになるが、必死に奮い立たせた。
短くなる息を吐きながら、拳を握りしめる。

「私と、闘う?」

その声はまるで冷たくて、一瞬、さゆみであることを疑うほどであった。
れいなは眉を顰め、恐らく彼女がいるであろう方向を睨み付けた。

「闘うって、なんで、れなが、さゆと……?」
「言ったでしょ、れいな。私は終わらせたいんだよ、全部、なにもかも」


ざわりと空気が変わる。濁ったのではなく、張り詰めたのだと感じた。
瞬間、だった。
れいなの右後方になにかを感じる。
飛来物だと悟り、軽く左に避ける。が、即座に右前方より同じものが襲来した。
れいなはステップを踏むように後ろへ下がる。直後、次々にれいなに飛来物が襲いかかってきた。

舌打ちし、左脚を軸にして避ける。
スピードはさほど速くない。が、目でそれがなにか認識できるほども遅くはない。
れいなは、恐らくさゆみがいるであろう方向から目を逸らさずに、右脚で地面を蹴り上げた。
高い跳躍の中で宙に浮き、「闇」全体を把握する。
まるで方向感覚を失うような暗闇に眉を顰める。此処はいったい、何処だ?なにが起きている?
包み込んだ深淵の闇に、れいなは身震いをした。
呼吸が短くなることを感じながらも、必死に自我を保ち、落ち着けと言い聞かせる。

「さゆ、どういうことっちゃ!」

まるで猫のように着地し、再びさゆみに問う。
しかし答えは返ってこない。
「終わらせたい」と彼女は言った。「私と闘う?」と彼女は言った。
その意味が、理由が、真意が、分からない。
理解できないのか。理解したくないのか。それさえも、分からない。

「答えんね、さゆ!」

闇に問いかけても、答えは返ってこなかった。
再び舌打ちし、さゆみがいるであろう方向に駆け出した。
先ほどふたりの間にできた距離は数メートル足らずだった。れいなであれば、一足でさゆみの元に辿り着けるはずだった。
だが、走っても走っても、さゆみを掴むことはできない。
それどころか、此処は室内であるはずなのに、壁やドアにさえ、辿り着けない。
いくら地下の鍛錬場が広いとはいえ、数十秒走っても端から端まで行けないなんて、そんな馬鹿げた話はあり得ない。
とにかく、声の方向さえ分かれば、そこに向かって走れば良い。なんか、言え。なんか、喋れ。さゆ!

れいなが痺れを切らしたそのときだった。
左後方から鋭い飛来物が襲いかかってきた。一瞬反応が遅れ、避けきれなかった。
れいなの右脚の脹脛をそれは掠めた。少し遅れて痛みが走ってくる。血が流れ始めた。
動いていた脚が止まる。さほど痛くはないが、思わず蹲った。手の平で脹脛を押さえる。確かに赤い血が流れていた。
不思議だ。暗いのに、色が分かる。ぎゅうと拳を握り締めた。

「此処は“闇の回廊”だよ」

ようやく、彼女の声が聞こえた。
“闇の回廊”、と彼女は言ったが、カイロウという言葉が変換できない。なんだ、カイロウって。

「ダークネスの、たぶんあの科学者がつくった、擬似的な闇だよ」
「科学者って……なんで、さゆが、それを……?」

唐突に聞かされる「ダークネス」、そして「科学者」という言葉にれいなは眉を顰めた。
そんな彼女の足元に、何処からともなくころころとなにかが転がってきた。
こつんと足先に当たったそれを拾い上げると、その小瓶の蓋に「Corrido」と書かれていることが分かった。
血の色が分かる。ラベルが読める。やはり此処は真の闇ではないようだ。

「この前行った廃ビルで拾ったの。使い方は簡単。その瓶の蓋を開けるだけ。それだけで闇が一面に広がるの」

さゆみの声は、すぐ傍にいるような、ずっと遠くにいるような、不思議な感覚を覚えさせた。
彼女の言葉を必死に理解しようとする。「廃ビルで拾った」、「闇が広がる」、なぜ彼女は、そんなものを使っている?

「“闇の回廊”の主人は私。れいなに私が斃せるかな?」

れいなの疑問に答える代わりに、再びなにかが飛来してきた。
慌てて腰を浮かせ、逃げる。今度は一方向ではなく、四方八方から襲い掛かってくる。
闇から飛び出したそれは再び闇に沈んでいく。もしや実体がないのか?いや、そうだとすれば血が流れる理由にはならない。

「っ―――!」

思考が止まる契機になったのは、れいなの左足首にそれが突き刺さったことだ。
れいなは叫び声を呑み込み、蹲った。
左足首に生えたそれは、真っ黒な物体だった。ぐっと力を込めて握り締め、奥歯を噛み、引き抜く。
なるほど、“闇の矢”とでも呼ぶべきものかとれいなは下唇を舐めた。

「さゆ……いったいなんがあったと?」

背中に嫌な汗が滲む。
本気なのか。本気でさゆみは、れいなを殺そうとしているのか?
冗談だよと笑って済ませられる状況はもうとっくに過ぎ去っている。れいなは現に、もう2ヶ所も怪我をしている。
だが、仲間だったさゆみが、どうしてれいなを殺す必要がある?
「終わらせたい」と彼女は言った。此処でふたりが闘うことが、「終わる」ということなのか。
「終わる」―――?「終わり」とは、なんのことだ。
なにが「終わり」なのだ。


れいなは走り出した。
闇雲に走ることが得策だとは思わないが、それ以外に成す術がない。
左足首が痛む。止血すれば良かったといまさら後悔した。

「さゆ!」

再び、“闇の矢”が襲い掛かってきた。
避けきれないスピードではない。だがいかんせん、数が多すぎる。
闇の中で、れいなはステップを踏む。踊る。踊る。まるで社交パーティーだ。ラストダンスだ。相手も居やしないのに。
首元を矢が掠めたとき、微かに、その速度が上がった気がした。
この状況はまずい。敵の居場所も分からないのに、さらに攻撃の手が休まらないなんて。
とにかく、敵の狙いは不明だが、まずは相手の居場所を察知しないことには―――

れいなはそこでハッとして脚を止めた。
いま、いま、れいなはさゆみをハッキリと「敵」だと認識していた。
なぜだ。今日の今日、いまのいままで、れいなとさゆみは同じ仲間として、肩を並べて闘ってきたじゃないか。
短くなった息を吐いていると、肩に鈍い痛みが走った。
鮮血が飛び散る。
肉が切れ、骨が断たれるような音が聞こえた。

「あ゛っ……!」

鈍い声が口から漏れた。
肩口をおさえ、折れそうになる膝を堪えた。
それでも倒れまいと真っ直ぐに前を見据える。

「なん、でよ……?」

そうしてれいなは再び声を漏らした。
もう何度目の質問だろう。一向に答えない彼女に対して、れいなはそれでも問いかけた。

こんなこと、したくない。
こんなことをするために、此処に来たわけじゃない。

「なぁ!なんでよ!!」

暗闇に叫ぶが返答はない。
そこに確かに聴き手はいるはずなのに、彼女は答えてくれない。
答えないことこそが、答えなのだろうかと天を仰いだ。

生まれた意味も、生きる理由も、なにも分からなかったあのころ、れいなに手を差し伸べてくれた人がいた。
此処が自分の居場所だと、此処で生きていて良いんだと、認められた気がした。
信じあえる大切な仲間と出逢い、自らの能力と向き合い、自分の信じる正義とともに、闘いの日々を生きていた。
闘うことを喜んでいたつもりはない。だが、その日々は、否定できるものでもなかった。
れいなにとって、リゾナンターは大切な場所だった。

その場所から、あの夏の終わり、小春がいなくなった。次いでジュンジュンが血の海に沈み、リンリンも後を追うように暗闇へと消えていった。
もうだれも失いたくなかった。もうこれ以上、壊さないでほしいと祈った。
だが、震えるれいなの腕から絵里はするりと抜け落ちた。
哀しげな瞳を有して愛は去っていった。真っ黒な刃を突き立てられた愛佳の膝は折れ、里沙は崩落のビルへ消えていった。


涙なんてとっくに枯れたものと思っていた。
仲間を失って、ぼろぼろに傷ついて、飽きるほどに泣き叫んだのに、それでもまだ、この瞳から雫は落ちる。

人間とは、厄介な生き物だと、唐突に思った。
感情があるから、こんなに悩むんだ。
感情がなければ、もっと素直に行動できた。
なにも考えずに、ただ目の前にあるものを切り裂けば良かった。
欲望のままに、痛みを知らずにただ過ぎ去れば良かったのに。

それなのに。
感情があるが故に、悩み、惑い、震え、涙する。
そんなもの、とっくに捨てたと思っていたのに、こんなにも胸が熱くなる。
まだ、叫んでいる。
此処が、心が、痛いと、必死に叫んでいる。

「なんでよ………ねぇ……」

血も、汗も、涙も。
体液はその場に迸り、痛みと哀しみを教える。
それでも彼女は、叫ばずにはいられなかった。心の痛みを、子どものように叫ぶしかなかった。
信じているから。いまのこの瞬間まで、仲間を、さゆみを、信じているから。

「なんでよ、さゆ!!!」

れいなは無間につづく“闇の回廊”の中でもういちど、叫んだ。
名前を呼ばれた彼女は、その闇の奥深くで表情を崩さぬままにれいなを見つめていた。
彼女の瞳に、感情は映らない。
それなのになぜか、確かにその頬に、雫が伝っていた。

「時間が来たんだよ……」

そう彼女は呟いた。
深い哀しみを携えた声は、確かにれいなに届いていた。

「終わらせよう、れいな―――」


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管理官は報告書を読み終えると深く息を吐いて椅子に掛け直した。
「順調」と言って良いかは分からないが、少なくとも悪い状態ではない。
だが、それはあくまでも「こちら」の話であり、彼女たちはそうとはいかない。

「宜しいのですか……」

ひとりの男が管理官に向かってそう訊ねた。
その言葉は当然、管理官にも届いていたが、彼は首を縦にも横にも振らなかった。

「良いのか悪いのか……善悪を決めるのは私ではない」

彼はそうして立ち上がった。
もし仮に、それを決めるとするならば、それは私たち人間ではなく神でしかない。
そんな不定形な存在に頼ること自体、実に非科学的で馬鹿げた話でしかないのだがなと苦笑する。

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ」

静かに、そう吐き出しながら管理官はつづけた。

「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ―――」

ニーチェの残した言葉を、管理官はそのふたりに送った。
いままさに拳を交えんとする彼女たちは、なにを思っているのだろう。

「“終わり”がなにか、その手で証明して見せろ」

管理官は強く拳を握りしめた。
それは微かに震えていた。これはもはや、神への祈りだと深く息を吐きながら眉を顰めた。




投稿日:2013/06/02(日) 04:47:18.73 0

















最終更新:2013年06月04日 07:46