『the new WIND―――高橋愛』


2012/10/04(木)


れいなは勢いをつけてぐっと体を起こした。
もうずいぶん夜も深まったんだなと感じながら立ち上がる。

そのとき、背後に気配を感じた。
振り返らなくても、そこに立っているのがだれであるか、れいなは知っている。

「どうしたと?」

振り返らずにそう訊ねるが、彼女は答えようとはしなかった。
やれやれ、相変わらずのだんまりかと肩を竦めた。

「考えてたの」

ふいに彼女がそう呟いた。

「なにを?」
「どうして、こんなことになったんだろうって」

彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
れいなが振り返ると、彼女は床の一点を見つめていた。
暗いその瞳はなにを映しているのだろうと、れいなはぼんやり思った。

 -------

“あの日”から既に3ヶ月が経過していた。
それが長いのか短いのか、れいなにはもう時間の感覚すらなくなっていた。
どうしてかと考えたときに思い当るのは、すぐ横にいた、だらしない笑顔がないからだった。

「………あほ」

亀井絵里という存在は、あまりにも大きかった。それはれいなだけでなく、メンバー全員に言えることだった。
それを「好意」や「愛情」と言うべきかは分からない。しかし、彼女は間違いなく、“調整者”であった。
絵里という歯車はリゾナンターの中枢に位置し、常にメンバーと噛み合って動いていた。
その分、彼女が戦線を離脱したことは、あまりにも大きな痛手だった。

「やっぱ此処にいたんですね」

屋上に入ってくるや否や、彼女―――愛佳はそう苦笑したので、れいなは大袈裟に肩を竦めてみせる。
3ヶ月前、絵里と愛佳の入院する病院で起きた立てこもり事件の後、絵里も愛佳も重傷を負い、一時戦線を離れることとなった。
愛佳は車椅子、または松葉杖による生活を余儀なくされ、絵里は未だに、リゾナント統制部の管理下にある病院で治療中だった。
もっとも、その間、絵里と面会の機会を統制部は与えてくれなかったが。

「好きですね、空見るの」

愛佳にそう言われ、れいなは素直に頷いた。
いつからだろう、れいなはなにかあるたびにリゾナントの屋上に上がっては空を見た。
晴れの日も曇りの日も雨の日も、その日その瞬間で変わる空の色を、その瞳で、その耳で、その肌で感じていた。

「なんか、好きっちゃん、そういうのが」
「そういうの?」
「んー…なんて言うとかいな……悩みなんて飛んでく、みたいな?」

相変わらず、れいなは感性の人だと愛佳は思う。100の言葉をもってしても、彼女の胸の内を掴めることはない。
自分の中に浮かんでいる感情を素直に表象するれいなが、羨ましくも思う。

「……もう3ヶ月なんですね、あの日から」

だから、愛佳の決断を口にすれば、彼女がどういう反応をするか、愛佳は知っていた。

「……一戦を、退こうと思ってます」

たっぷりと10秒の沈黙のあと、れいなは眉を顰め、愛佳を睨む。
元来目つきの悪いれいなは、睨んだつもりなどないと言うかもしれないが、確実にこれは睨んでいると愛佳は思う。

「道重さんにも診てもらったんですけど、治らんのです」
「………なんで?」
「あの男に斬られたんは事実ですけど、それより前から脚は弱ってたんです。黙っててごめんなさい」

愛佳の告白にれいなはただ耳を傾けるしかない。
どうして、どうしてそんな大事なことを……

「戦闘での傷は癒せても、それ以外の傷は癒せない…だから道重さんには亀井さんの心臓も治せんのかもしれないですね」
「そんなんどうだってよか!愛佳は…いまは愛佳のことが!」
「歩けるようにはなるとお医者さんは話してます。ただ、あの戦場に戻るんは……」
「認めんっちゃ!」

れいなは大声を張り上げた。町中に響くようなその声に愛佳は思わず目を見開く。
肩で息を整えながらも、彼女は言葉を紡ぐ。

「そんなん…認めんっちゃ……愛佳が…愛佳までが……」

拳が震える。脚までも震えた。
なんでなんでなんでなんで―――と答えの出ない問題を呟き続ける。
どうしたって戻ることはできない。時間は刻一刻と進み続け、れいなの日常を破壊し、再構築していく。
突然現れた男。久住小春の大怪我と離脱。李純、銭琳と立て続けに男に襲われ、そして亀井絵里の長期療養。
さらに、いま、光井愛佳までもリゾナンターから離れようとしている。
これではまるで……
まるで―――?

「……聞かんかったことにするけん」

れいなは頭をかきむしり、逃げるように屋上を後にした。
現実から逃げ、あり得た未来、いままでの日常を胸に思い描く。失くしたくなかった世界が、そこには広がっている。
だれもが、信じていた、その笑顔の咲く明日を、願ってなにが悪い?

「……なんでよ……」

れいなは目頭を押さえた。
熱いものが体の奥底から湧き上がって瞳に溢れた。
先ほどまで見ていた冬の空が、遠く、遠く、感じた。


 -------

会議室の外が騒がしくなった。
なにやら空気が変わったなと感じたとき、扉が勢い良く開かれた。

「会議中だ!」
「だれだ侵入を許可したのは!」

罵声が飛び交うなか、ひとりの少女に視線は向けられる。
彼女は真っ直ぐに、会議室にいる中心人物を見据え、口を開いた。

「……どういう意味ですか、この辞令は」

静かに、だが滾るような思いを携え、高橋愛は管理官へと言葉を発した。
刃は鋭く胸を貫こうとしたが、彼はそれを一笑に伏して振り払った。

「文字通りだ。本日23時59分を以ってリゾナンター統制リーダーより外れてもらう」
「なんの説明にもなっていません!」
「思ったより時が早く来たのだよ。必要なんだ、この辞令は」

すべての言葉が終わる前に、愛は左手に宿した光を管理官へと放った。
彼へ衝突する直前に光球は破裂し、空気がざわりと変わった。
だが、一瞬にして沸騰した彼女の想いは、そう簡単には解けない。

「貴様、管理官に対して―――!」
「こいつを追い出せ!査問委員会にかけて処分を!」

様々な罵声を無視し、愛は地面に左手を叩きつけた。
ぐらりと地が揺れ、会議室にいる全員が騒ぎ出す。まるで戦争の始まりのようだとぼんやり思う。

「奴を捕えろ!」

声が響いた直後、周囲の男たちが愛に飛びかかってきた。
この男たちは愛たちを管理する側に居ながら、大した能力は保持していない。まさに赤子の手を捻るようなものだと愛は一閃を引いた。
一瞬にして部屋に光が満ち溢れ、男たちは後退する。強い光線を目に浴びたせいか、視力を一時的に失ったようだ。

「き、貴様ッ―――」

部屋が揺れる。
狙いは最初から管理官ただひとり。愛は彼を睨み付けながら、右手の中に光りを宿す。
彼は黙ってこちらを見ていた。距離はさほど遠くはないが彼の表情を垣間見ることはできない。

「………きみは、詩は好きかね?」

低く呟かれた言葉に眉を顰めたが、彼の問いかけには答えずに、頭を働かせる。
前回のように“能力制御(リゾナント・フォビット)”を使われてしまっては成す術はない。それを発動される前にこちらが仕掛ける必要がある。
しかし、発動のタイミングも条件も分からない状況では圧倒的に不利だ。
此処は先手を打つべきか、しかし一撃で斃すことは絶対条件だ。長引かせると後がない。

「諸君はこの颯爽たる 諸君の未来圏から吹いて来る 透明な清潔な風を感じないのか」

それは何処かで聞いたことのあるものだった。
記憶を紐解く必要はなかった。それは前回、彼と対峙したときに放たれた言葉だ。

「それは一つの送られた光線であり 決せられた南の風である―――宮沢賢治を知っていますか?」

応えるつもりはなかったので黙ったままでいるが、思わず彼の名を頭の中で巡らせた。
宮沢賢治という名に聞き覚えはある。確か、「注文の多い料理店」という話を学校で習った気がする。
どんな内容の話だったかは、思い出せないのだけれど。

「彼は童話作家として有名です。「銀河鉄道の夜」や「セロ弾きのゴーシュ」などは代表です。でも、彼は詩人なんですよ」
「詩人……」
「先ほどの詩は「生徒諸君に寄せる」というものです。中学生に送った言葉ですよ。実に、透明で清涼なものだと思いませんか?」

光りを宿したまま、彼の言葉を黙って享受する。どういう真意があるのか、愛にはその意図が読めない。

「―――“重力閉鎖(グラヴィディ・クローズ)”」

その言葉が発せられた瞬間、愛の手の中にあった光が弾け飛んだ。
消えたのではない、弾け飛んだのだ。
なにが起きたのか分からずに眉を顰めたが、即座にその双肩に感じたことのない重さが圧し掛かった。
「がぐん」という音のあと、情けないほどに無様に地面に伏した。

          ◇          ◇          ◇

2012/10/13(土)


「なっ……?」

全身が上空から何らかの力によって押さえつけられていた。
いったいなにが起きているのか把握しようとするが、全く理解ができない。
まるで大きな手が捻り潰そうとしているようだと思ったとき、愛はそれが「重力」だと気付いた。

「明察。さすがはあの手練れのリゾナンターをまとめ上げる統制リーダーだ」

管理官は不敵な笑みを浮かべると指を弾いて音を鳴らした。
「ぱちん」と小気味良い音が鳴ったかと思うと、今度はその「手」によって愛は宙へふわりと持ち上げられた。
上下左右、方向感覚が全く失われ混乱する。無重力空間とは、こういうものなのだろうかと理解した。

「この閉鎖された空間内での重力は私の思うがままです。地球の2倍である木星の重力や、1/6である月の重力も味わえますよ」
「はは。此処なら宇宙遊泳の疑似体験が可能なんだ。そりゃ楽しそうだね」

そうしてからかうように返したが、次に指を鳴らされた瞬間、愛は激しく地面に叩きつけられた。
あまりの重力加速度に内臓を痛めてしまったようだ。腹部が破裂したような感覚に襲われ、思わず血を吐いた。

「現在、木星の2.3を体験中です。ちなみに太陽はどれくらいかご存知ですか?」

もういちど、指が鳴る。
押さえつける手はさらに勢いを増していく。
地面に体がめり込んでいき「ああああ゛あ゛!」と呻き声を上げた。

「太陽は実に23倍です。そんな重力空間では、人は生きていけません」
「なに、を……?」
「受け入れてくれませんか、この人事異動を」

受け入れなければこの場で愛を殺すことも辞さないという様子だった。それほどの重圧を、この男からは感じる。
だが、此処まで好き勝手で横柄なことばかりされて、退くわけにはいかない。
所詮は手駒だろうが、替えの利く兵隊だろうが、構わない。蒼い共鳴で結ばれたあの9人だからこそ、此処まで来れた。

「っ……ざけろ」

だから、その9人の誇りを護るためならば、どんな無様になろうと、立ち上がろう。
平伏すことも、斃れることも、負けることですら、恥ではない。そこから一歩踏み出せれば、また始められる。

「納得、いく……までは、退かない」

内臓が破裂しているのだろうか、尋常ではない痛みが走り、体の奥底が悲鳴を上げている。
だが、それでも愛は膝を手で叩き、必死に奮い立たせて立ち上がった。

「まさか……この重力空間で…」

地球上の重力のおよそ3倍はあろうという空間内では呼吸をすることさえ困難だ。
彼女たちがいくら常人離れした体力と能力を有しているとはいえ、この中で立つことは想定外だった。
しかもなにより、彼女のその瞳は、いまもなお光を宿し、退くことを知らない。闇夜を照らす、松明だ。
輝きを失わない愛に、管理官は目を見開いた。

「理由を、答えてもらう……なん、で、こんなっ―――!」

管理官の能力に真っ向から対抗する愛に、統制部が揺れた。まさか彼女がこんなにも力を持っているなど、だれも予想しえなかった。
彼は、震えながらも立つ愛を見据え、括目する。

静かな時が流れる。
互いに口を開かずに拮抗した。

どれくらいの時間が経っただろう、管理官は唐突に指を弾いた。
再び押さえつけられると覚悟した愛だったが、瞬間に空間が割れ、一定の重力が負荷された。
“重力閉鎖(グラヴィディ・クローズ)”が解除されたのだと気付いたのはそのときだ。

「あらゆるものが、一個の全体を織り成している―――」

管理官が再び声を発した。
それはまた詩的な言葉であり、愛は黙って受け入れる。
一歩ずつ彼は近づき、愛と正対した。

「そして、ひとつひとつが互いに生きて、働いている。一は他と響き合い、作用しあう」

その言葉を告げたかと思うと、彼は愛の前に跪いた。
突然の行動に、愛はもちろん、統制部全体がざわついた。
彼はそれらを意に介さずに静かに発した。

「命令、ではなく、願いとして、聞いてくれないだろうか」
「………え?」
「どうしても必要な、この異動を」

管理官は深く頭を下げ、重々しく言葉を吐いた。
口元から流れ出た血を拭うことも忘れ、愛は黙って彼を見つめる。
いったいなにが起きているのか、把握することは難しそうだった。


 -------

さゆみは喫茶リゾナントの地下にある鍛錬場で、ひとり、ルームランナーに乗って走っていた。
一定のリズムで走りながら汗を流す。耳にはいつも聴いていた音楽が流れる。
この曲は、絵里も好きだったっけ、と思った途端に、脚が止まってしまう。

「………」

器具から脚を下ろした。
未だにひとりで走り続ける機械を尻目に、さゆみはイヤホンを外した。
もう、涙も枯れ果てたと思っていたのに、ふとした瞬間に瞳は潤う。
まったく、感情というものは、いつの間にかスイッチが入ってしまうものだとさゆみは思う。
いっそのこと、完全に切れてしまえば、楽なのになと苦笑した。

瞬間、脳内に声が聞こえた。
正確に言えば、彼女の“気”、そして“想い”を感じた。
なにを感じ、なにを考えているのか、彼女の抱えているものを感じ取った。

「共鳴―――」

さゆみはそうして、蒼き9人の絆の名前を口にした。
バラバラで、夢も希望もなくただ惰性のままに毎日を生きてきた9人を繋いだそれは“希望”だった。
しかし、いま、その“希望”が重く圧し掛かる。
頭の中で感じ取った想いに、さゆみは天井を仰いだ。

「愛ちゃん……」

そのとき、喫茶リゾナントの気配が変わり、彼女が帰ってきたのだなと分かった。
ただし、彼女の纏う共鳴の色が、いつもよりも濃いことが気がかりだった。
ああ、やはりすべてが動き始めたのだなと、さゆみは汗を拭きながら上階へと急ぐ。
瞬間、激しい物音が響いた。
机や椅子の倒れる音、だれかの叫び声が耳にうるさい。
もう、止められないことは覚悟していた。しかし、さゆみはそれでも諦めないように自らを鼓舞してドアを開けた。

「だからいま説明を…」
「説明って、説明ってなによ!」

喫茶リゾナントでは、愛と里沙が、文字通り、取っ組み合いの喧嘩をしていた。
というよりも、里沙が愛に馬乗りになり、その胸倉を掴んで恫喝している。
いつも仲裁役に回り、先日も、一触即発だったれいなを止めた里沙が、これほど激昂しているのをさゆみは初めて見た。
いや、さゆみはおろか、此処にいるリゾナンター全員が、初めて目にした光景だろう。
おかげで瞬時に、ふたりを引き離すという任務を忘れていた。

「落ち着くっちゃガキさん!」
「田中っちは黙ってて!」

そうして里沙はれいなを振り払うと、彼女はまるで子どものように吹き飛んだ。
ここまで反抗されるとは思ってもみなかったのだろう。予想外の力にれいなは目を丸くした。

「愛ちゃんまで、離れるってどういうこと?あの管理官とかいう人となにを話したの?」
「ガキさん落ち着けって…」
「はぐらかさないで言いなさいよ!」

こんなにも熱く滾っている里沙をだれも見たことがなかった。
リゾナンターを後ろから支え、常に仲間たちと交流を取り、笑顔を絶やさない彼女の姿に眉を顰める。
だが、それ以上にれいなは「離れる」という言葉に意識を奪われた。
確かに先ほど、れいなたちは、愛の想いを“共鳴”した。しかし、しかしそれでも、信じたくはなかった。

「今日で、リゾナンターを離れる……あとは、ガキさんに任せる」

口をついた言葉は圧倒的な力を持ってれいなの心を射抜いた。
弾かれたように里沙は愛を組み伏せ、その拳を振り上げた。
だれかが「ガキさんッ!」と叫んだが、里沙は躊躇することなくその拳を振り下ろした。
鈍い音のあと、愛の口の端から血が流れた。

「なんで……なんでっ?!」

里沙は彼女の胸ぐらを掴み引き寄せた。詰め寄る姿は、到底普段の彼女からは考えられない。
悪い夢でも見ているようだと愛佳は思った。ああ、いつからこんな風になってしまったのだろうと頭を抱えた。

「あの男の迎撃に備え、特殊本部が設置されることになった」
「あの男…?」
「小春や愛佳、そしてジュンジュン、リンリンを傷つけたあいつの攻撃力は計り知れない。
この3ヶ月、目撃情報は得られてないにしろ、次に迎撃を受けたらその損傷は…」
「だからってなんで今日?もっと事前に連絡があるのが普通じゃないの?それに、こっちに何の相談もないって…」

愛と里沙の間で繰り広げられる会話にれいなはおろか、さゆみも愛佳もついていけなくなった。
いったいなにが起きているのか、だれも理解できていない。一瞬の沈黙のあと、れいなが漸く「……は?」と声を出した。

「なに、愛ちゃんはリゾナンター見捨てるわけ?」
「だれもそんなこと言っとらんやろ」
「そういうことだよね?今日って言ったってもう実質5時間くらいしかないけどさ。ねぇ、違うって言いきれないよね」
「落ち着けってガキさん……」

れいなは徐々に苛立ちを覚えていた。
話題に入り込めないことではなく、彼女たちの話題そのものに対してであった。
どう考えても、自分たちに利益のある内容ではないことは分かる。頭の中に浮かぶのは、久住小春から始まった“リゾナンター解体”のことだった。
頭の悪いれいなでも、それくらい分かる。ある意味で、高橋愛の異動も、覚悟していた部分があったのかもしれない。
不思議とれいなは、冷静でいられた。いや、苛立っている自分を客観視し、冷静であろうとしていた。

「時間がないんだって。いますぐ本部設置して、体制を整えんと、次に狙われたらあとがない。
内示が出たのは確かに急やけど、私はこれを受け入れる。だから皆にも、受け入れてほしい。リゾナンターのためにも」

愛の言葉が遠くに聞こえる。
言わんとすことが分からないわけではない。たぶん、理解はできていた。ただ、納得ができないだけだった。
ああ、そうかとれいなは思った。
これが俗に言う、理不尽なのかと―――

「……残り4人とか、笑わせるっちゃね」

まるで小馬鹿にしたようにれいなは笑い、リゾナントの空気が変わった。
「残り」というその言葉は、だれも言わずとも、心では思っていたことだった。
このままなにもできず、“上”の命令に従ってただ解体が進んでいく現状が、れいなには信じられなかった。
いくら愛が“上”に忠実だからとはいえ、自らの異動を受け入れるとは思えなかった。
挑発するように滑り出た言葉を受けても、彼女はなにも言わずに黙っていた。
馬乗りになっていた里沙は、彼女の表情を見てなにかを諦めたのか、その胸倉の手を離した。
彼女のシャツには微かに血が滲んでいた。赤ワインでも零したかのようなそれは、里沙の手の平から出血したものだった。

「……やってられん」

れいなはそれだけ言い残すと、外へと飛び出した。
先ほどまで広がっていた青空はいつの間にか黒雲に覆われていた。いまにも泣き出しそうな空に涙を拭い、れいなは歩き出す。
後ろでだれかの呼ぶ声がしたが、振り向こうとはしなかった。

          ◇          ◇          ◇

2012/10/29(月)



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れいなが出て行って数分後、里沙も後を追うように外へ飛び出した。
そのころにはとうに雨も降りだし、街中が暗がりに覆われていた。まったく、梅雨でもないのにこういう雨は苦手だと、愛は口の端を拭った。

「……愛ちゃん、ホントに行っちゃうの?」

さゆみがその指先で愛の傷を癒しながらそう訊ねた。
絵里が離脱して以降、部屋に閉じこもり、外界との接触を絶っていた彼女は、ここ1ヶ月で漸く現場に復帰していた。
2ヶ月ぶりに対面した彼女は、不思議なくらい、その瞳に色がなく、愛は思わずぞくりと背筋を凍らせたのを覚えている。
そして今日もまた、さゆみの瞳は、光を失っていた。
もしかして、とどめを刺したのは自分なのかもしれないなと思った。

「上層部がこっちに黙ってなにかを画策しているのは分かってる。でも、本部設置には私も同感だから」
「でも、今日っていうのは、さすがに急すぎやないですか?」

愛佳も愛の隣に腰を下ろして訊ねた。
彼女もまた、絵里の離脱以降、そのチャームポイントだった屈託のない笑顔を何処かに置き去りにしてしまっていた。
リゾナンターはあの日から徐々に歯車がかみ合わなくなっていった。そのツケを、いまさら支払っているのかもしれない。

「最低なリーダーだと思ってるよ、自分でも。でも、断れなかったんだ、今回は」

愛はぼんやりと、内示を言い渡された今日の昼間を思い出す。
あのとき管理官は、愛を組み敷き、力で捻じ伏せようとしていたが、愛が立ち上がったら一転し、頭を垂れた。
そして彼は「力を貸してほしい」とまで言い切った。その真意は未だにわからないが、無下に振り払うことはできなかった。
確かに頭の片隅に、考えたくもない仮説が浮かんでいた。里沙にも一度話したことがある、あの最悪の結末が。

「世代交代っていうのも、考えてたんだ、ホントは」

その言葉に、さゆみと愛佳は眉を顰めた。
実のところを言えば、ふたりも考えていたことだった。
久住小春が移動してから、もう半年が経とうとしている。その半年で、リゾナンターを去った人間は4人。
始まりが、あの男の襲撃とはいえ、それにしてはあまりにも急な話だった。
もし上層部が、水面下でリゾナンターに世代交代を差し向けていたとしたら、どのタイミングでそれを実行するか図っていたはずだ。
小春の怪我はドミノの先端だったのではないか?
あの男の襲来によって、その世代交代のドミノは一気に倒れはじめ、既存のリゾナンターを崩壊するプログラムが実行されているのではないか?

いや、待てよ、とさゆみは思う。
それさえも仕組まれたことだとしたら?
小春の怪我が世代交代のスタートだったと考えた。だが、現実はそうではなかったとしたら?
もし、その小春に起きた出来事すら、上層部が謀っていたことだとしたら?
最初から小春を厄介箱にしてしまうつもりだったら?あの男こそ、上層部の差し金だったとしたら?
そうなれば、愛の異動の話も眉唾物だ。自分たちの手駒を壊すための本部など、設置するわけがないのだから。

「……さゆ、いくらなんでも考えすぎやって」

愛の言葉に、さゆみは思考を止めた。
自分の思考を読まれたことを不愉快には思わなかった。実際、こんなことは、愛佳も、そして愛も考えていたはずだ。
しかし、上層部への疑念がどんどん膨らみながらも、愛は彼らの「命令」に従うことを決意した。その意味を、さゆみは考える。

「愛佳も、行くんやったら、ちゃんとガキさんには話してね。あの子、あれで気を砕いてるからさ」
「分かってます」

愛はそういうと、天井を仰いだ。
上層部の考えが読めないことは分かっている。本気で彼らが世代交代を測ろうとしているのかもしれないと疑念も沸く。
しかし、彼女の心の中には、先ほど対峙した管理官の瞳と言葉が焼き付いて離れない。


―――「あらゆるものが、一個の全体を織り成している―――」


彼の言葉の真意は分からない。
だがなぜか、反抗しようという牙を抜かれたような気がした。
考えても答えの出ない問いにため息をついた。薄暗い店内にぽつんと照明が浮かんだ。ああ、もうすぐ此処から出て行っちゃうんだなといまさら自覚する。
次に此処に来ることはあるのだろうか。もしかして、一生ないのかもなと苦笑した。

「……任せたよ、ガキさん」

随分と勝手ばかり言うリーダーでごめん。
ちゃんと説明できなくてごめん。
今度逢うときは、笑って謝らせてよ、ガキさん。


愛は勢いをつけて立ち上がった。さゆみと愛佳も釣られて立ち上がる。
小さなカバンを持って、リゾナントの入口へと歩くと、勢いよくドアが開いた。
雨が降りこんでくると同時に、濡れ鼠になり、数ヶ所顔に怪我を負ったれいなと里沙が入ってきた。思わずぎょっとする。

「鍋パーティーをします!」

冬の雨に濡れたふたりが高らかにそう宣言し、さらに3人はぎょっとすることになった。

 -------

「これ鍋用じゃないよね?」
「良いっちゃよ、全部ぶち込んでしまえばいっしょやろ?」
「いやー…せめてしゃぶしゃぶ用買ってきて下さいよ…これ完全に生姜焼き用やないですか」
「ちゃんと見なさいって言ったのに田中っちはもぉー!」
「やっぱりれいなはバカなの」

鍋料理。
日本は近代以前、住居には囲炉裏があることが普通であり、そこで煮炊きした料理を取り分けて食べていた。これが現在の鍋料理のルーツでもある。
江戸、明治と時代を超えて愛される料理であり、現代では、複数人だけでなく、一人用の鍋も普及している。
古くから愛されている鍋料理は、冬の定番であり、もつ鍋、ちゃんこ鍋、しゃぶしゃぶ、すき焼きといったものから、カレー鍋やキムチ鍋などバラエティに富んでいる。
いま、愛たちが囲んでいるものは、味噌ちゃんこ鍋とトマト鍋だ。食欲旺盛な彼女たちは、鍋ひとつでは足りない。

「鶏肉もうだいじょうぶかな?」
「いけると思うよ。とりあえずれいな、試食」
「え?なんで?毒見?」

文句を垂れるれいなの取り皿には既にトマト鍋から鶏肉とキャベツが乗せられていた。
そこから漂う甘い香りに思わず目を細める。朝からなにも食べていなかったれいなは、食欲には勝てず、ゆっくりと箸を持った。
しかし、猫舌な彼女ががぶりと食べられるわけもなく、口で吹いて鶏肉の熱を冷まそうとしていた。

「まどろっこしいの」

さゆみはそう言うと、鶏肉を橋で掴み、強引にれいなの口元に持っていった。
冷め切っていない鶏肉は見事にれいなの唇に当たり、「っちゃぁ!」とれいなは声を上げた。

「なんすっとかアホ!」
「だっておっそいんだもんれいな。熱いものは熱いうちに食べないとダメなの。れいなの冷えた体もあったまるでしょ」
「やからって猫舌……あーもう、熱いっちゃ!」

舌を火傷したれいなに愛佳はそっとお茶を出す。
愛はそんな光景を見ながら、そういえば、前にもこうやって鍋を囲んだことがあったっけと思い出していた。
確かあのときは小春がケラケラ笑っていて、ジュンジュンが「バナナダメデスカ?」なんて言っていたっけな。
絵里はその様子をただ爆笑して見ていて、リンリンは黙々と鍋をつついていて。
ああ、そうかと愛は唐突に思った。
寂しいって、こういうことなんだ―――

「ホラ、愛ちゃん、食べなよ」

里沙に大量の白菜と豚肉、そしてキノコの乗った取り皿を持たされ、愛は笑った。

「これ生姜焼き用やろ?」
「食べればいっしょだよ、たぶん」

その言葉に苦笑しながら白菜を食べた。
味噌の味が染み込んでいて柔らかくておいしい。冬という寒い季節にはぴったりだと思う。

「意外にイケるかも」
「おー。良かったじゃん田中っち。怪我の功名だね」
「意味違いますよ新垣さん…」
「固いこと言わない。ホラ、ビール飲もビール!」

未成年がいるというのに里沙は冷蔵庫へと走り、意気揚々と缶ビールを持ってきた。
リゾナンターの面々でアルコールに強いのは里沙のみで、れいなに至ってはビールはからきし飲めない。
しかし、それを主張しようものなら「私のお酒が飲めないの?!」とまだ酔っていないのに絡んでくるのが定石だ。
急に始まった酒宴に愛は苦笑しながらも、5人はいつの間にか、乾杯を済ませていた。
苦みとコクが喉を焼き尽くすように通り過ぎていく。
本来、愛もさほど飲める口ではないが、なぜか今日は酒が進む。鍋とビールは、昔からよく合うのだ。

 -------

宴というものは楽しい。
どういう理由で、どのような経緯で始まったのかは分からないが、愛もさゆみも愛佳も、そして里沙もれいなも、宴を楽しんでいた。
これが、送別会だということはだれもが分かっていた。しかし、だれもそれを口に出そうとはせずに、このひと時を刻むように酒を飲んだ。

「愛佳ぁ~しょ~ちゅぅぅ!」
「飲めへんくせに、もう知りませんよぉ!」
「いいのいいの、酔わせ倒すの」

れいなが酒に呑まれた勢いで焼酎にまで手を伸ばそうとしているのを見て、愛は苦笑しながらグラスを持って立ち上がった。
夜風に当たろうと外へ出る。冬の夜が深まった街には少しの灯りが点在していた。

「……もうすぐだね、異動」

愛の隣にはいつの間にか里沙がいた。
彼女は既に焼酎の水割りを飲んでいるのか、その手にはロックグラスが握られていた。

「れいなとなにを話したんや?」
「別にー。ちょっと言い合いしてお互いを3回くらい殴ったら、なんかお腹空いて、じゃあ鍋しようって流れになっただけ」
「ムチャクチャやなそれ」

雨の中で殴り合うふたりの光景が目に浮かんだ。
彼女たちが拳を交えたことはなんどか見たことあるが、れいなは一度たりとも、里沙に勝ったことはない。
果たして今日は勝てたのだろうかとグラスを傾けた。

「いっしょに行こうとは、言ってくれないんだね」

里沙の唐突な言葉は冬の闇に浮かんだ。白い吐息が空気に混ざって消える。
彼女の声をかき消すような夜風が啼いた。絵里もこうして、泣いているのだろうかとぼんやり思う。

「私と里沙ちゃんが同時に抜けるのはリゾナンターにとってあまりに大きすぎる。だけど、対撃の本部設置は急務だから、どうしても、私が行くしかなかったんだ」
「知ってるよ。知ってるから、言ってみたんだよ」

それは彼女なりのわがままだろうか。
自分はいつもムチャクチャなことをしでかし、里沙に尻拭いを任せていた。彼女も黙ってそれに従ってきた。
そんな彼女が口にした言葉は、随分な重みをもって愛に圧し掛かる。背負ってきたものが、あまりにも大きいことが身に沁みる。

「4年かぁ……随分長いこと、闘ってきたんだね、私たち」

里沙はそう言うと腰が汚れるのも厭わず、膝を折って座り込んだ。
カランと氷の溶ける音がした。冬に似合わない水割りの音は、あの夏の日を思い起こさせる。すべての始まりの日は、夏の終わりだった。
そして小春を失ったその日は、いま思えば、「終わりの始まり」だったのかもしれない。

「ずーっとあの9人でいられると思ってたよ。10年後、たとえば30歳くらいになってもさ」

それは果てなき夢だった。
闘うこと。ダークネスを斃すこと。命を賭すこと。その中で見つけた蒼き共鳴。その9人を結んだ絆は永遠だと、信じていた。
しかし、それは叶わずに、いまもなお、牙は折れてしまっている。このまま、崩壊は止まらないのだろうかと里沙は思う。

「前に言ってた、世代交代のことだけど、統制部が新人を見つけようとしてることは知ってる」
「……それ、れいなたちに」
「言ってないよ。言ったら田中っち、本気で殴り込み行きそうだもん」

里沙はそう言うと肩を竦めた。
どうやら愛の考えていたことは的中した。統制部は世代交代のために、新人を加入させるつもりだ。
しかし、新人を入れるなら、なぜ既存のリゾナンターを外へ放り出す必要性があるのか、理解ができない。相変わらず、彼らの考えが読めない。

「そのうち私にも声がかかるかもね。新人教育とか言って」
「里沙ちゃん、それは…」
「分かってる。愛ちゃんがいなくなってから、この4人の体制が整うまでは絶対に動かないよ、此処を」

喫茶リゾナントを振り返った。相変わらず室内からは喧しい声が響く。
此処も街と同様に、小さな灯りがともっている。あの灯りひとつひとつに、それぞれの人生があることを、愛は知っている。
彼らの人生を、小さないのちを、その希望を、消させるわけにはいかない。

「“上”はタイミングを計ってたんだと思う。あの男の襲来は良い引き金になったんじゃないかな」

焼酎とともに呑み込んだ彼女の言葉に愛はハッとする。
そういえば管理官は、こう言っていた。


―――「3名とも今回の一件がなくとも異動してもらう予定だったんだが、例の男の襲撃を経て、このような措置になった」


その言葉の意味を理解しようとしていた。
もし、上層部が世代交代を鑑みていたとしたら、やはり最初から解体が目的なのかだろうか?
しかし、それはいったい、なんのために?

「……どっちにしろ、いま大きな局面を迎えてる。此処が踏ん張りどころだよ、私たちの」

そう言って夜の星を仰いだ。
冬の空は空気が乾燥しているのか、綺麗に澄んで見える。都会の此処からも、充分に星が見えた。あの星の名前はなんだろう。

「愛ちゃんが護って来たものだから、ちゃんと護っていくよ、私たちも」

里沙はそう言うと立ち上がり、腰をはたいた。
その瞳は酒に酔っていながらも、輝きは全く消えていない。覚悟と信念を秘めた焔が瞬き、綺麗だった。

「キミの門出に乾杯」
「…里沙ちゃんの門出に、乾杯」

カチンとグラスの小気味良い接触音がしたあと、勢い良くドアが開かれた。

「さゆみの可愛さに乾杯なの!」
「あほっ、リゾナンターに乾杯っちゃぁ!!」
「ふたりともお酒臭いです……あ、乾杯ですどーも」

雪崩れ込むように外に出てきたのは、すっかり出来上がったさゆみとれいな、そして愛佳の3人だった。
流れに乗って乾杯し、景気良くグラスを空けたれいなは「外バリ寒いっちゃけど!」と叫んだ。
飲めないくせにこんなに酔ってしまって後が怖いなと愛は苦笑した。

「私、やっぱり心配だわ」
「まあ、里沙ちゃんにならできるって」
「もーヤケ酒だわ今日は」

そして里沙もまた景気良くグラスを空けた。
ああ、まったく、世話の焼けるメンツだと愛は困ったように笑った。
時計の針はもうすぐ、0時を回ろうとしていた。

















最終更新:2012年10月29日 23:57