『水と風の宴』


※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。



ただもっと、強くなりたかった―――


連日のように猛暑が列島を襲っている。
コンクリートに覆われた都会の夏はじっとりとしていて苦手だ。
こういう暑い日には冷たくなりたいと思うのはだれもが同じで、プールに入りたくなるのも仕方のないことかもしれない。
喫茶リゾナントには、本来、体力づくりや鍛錬をするために設置された地下プールがある。
水を扱う私のような能力者は此処を使うが、それ以外の人はあまり寄り付かない場所でもある。
それを良いことに私はひとりでこのプールを独占している。

深く深く水の中へと潜り、水と会話をし、戯れ、流れを読む。
水の中は不自由だけど自由だった。
何処にでも行けそうで、何処にでも行けなくて、負荷が軽くて、重い。

自分自身の能力を理解しない限り、強くなることはない。
リゾナンターたちの持っている能力は様々で、なにひとつとして重なるものはない。
だから、リゾナンターたちはひとりひとり、闇の中に佇んで、自分の能力と真摯に向き合い、その箱を打ち破る。
私は果たして、この水の空間を自在に操れるのだろうかと最深部まで潜り込んだ。
水が体のすべてを満たした瞬間に右手を突き上げると、水泡が撃ち上がった。

「ひゃっほーい!」

高く上がった水飛沫を見ながら私は叫んだ。
コンディションはさほど良くないせいか、水泡はいつもと同程度の威力だった。
だが、それに気落ちしていてはどうしようもない。自分を鼓舞するように、ある意味でやけくそになって叫んだ。
水中で体をぐるぐると回転させ、ザバッと勢い良く水面に撥ねる。
その行為だけでどうしようもなく気持ち良くて、私は思わず笑う。

鍛錬用のプールは、25メートル×7レーン、水深は最深部では2.5メートル近くある。
私の身長では到底足がつかなくて、水をちゃんと理解していなければ溺れてしまいそうになる。


そういえば小さいころ、両親と初めて海に行ったときのことをぼんやり思い出す。
私は水に慣れるのが早かったらしく、父親に連れられ、浅瀬で浮き輪に浮かんで遊んでいた。

「お母さーん!」

浜辺で手を振って私を呼ぶ母親に声に応えた。
その瞬間に母の顔が真っ青になり、絶叫が響いた。
急にやって来た高波を認めた父親は私の腕を引っ張ろうとしたが間に合わなかった。
私の体は高波に呑まれ一瞬にして攫われた。

世界が一気にぐるりと回転した。
口や鼻から大量の海水が流れ込む。目に酸性の水が直撃して痛い。
肺から多くの空気を吐き出し、視界が泡となって見えにくくなる。
どんどんと遠くなっていく水面の光が恋しくて手を伸ばす。届かなくて、切ない。

―お父さん!お母さんッ!

深く深く沈んでいく中、私は必死に叫んだ。
漠然と、しかし圧倒的に明瞭な形を成して襲ってきた死の深淵に包まれる。
イヤだ!怖い!だれか!だれかだれかだれか!!

瞬間、だった。
暗い海の底から“なにか”がせり上がってくる。その“なにか”に押されるように、私は水面に戻された。

「だいじょうぶかっ?!おい!里保!里保!!」

砂浜で両親が叫んでいる。
私の目に飛び込んできたのは青い空と白い雲、そして両親の涙だった。

私は溺れたのだとそのときには理解していたが、不思議とその経験を怖いと感じたことはなかった。
溺れたくせに水を怖がらないなんて、と両親は後々になって私に言ったものだ。
そのときはまだ分からなかったけれど、最初に自分の能力を意識したのはあの日のことだった。

 -------

「ぷはぁっ!」

水面に顔を出して犬のようにぷるぷると頭を振った。
水の中に潜っているのは楽しい。水を操る能力を持っているせいか、息を止めて水の中にいる時間も徐々に長くなっていった。
このままずっと水と戯れたまま、水とひとつになってしまうのだろうかと少しだけ苦笑した。

「元気だねぇきみは」

唐突に聞こえてきた声に私は振り返った。
プールサイドに立っていたのは大先輩の彼女で思わず背筋を伸ばした。
水に濡れて髪もぺったりと貼り付いている姿は、たぶん、というか絶対に情けないと思う。

「水も滴る良い女って感じですよ」
「あ……え?」

彼女はクスッと笑って水面をなぞるように指先を軽く動かした。
無風の空間に微かに風が流れ、水がざわめき、小さな波をつくった。

「おかげで濡れちゃいましたけど」

そうして彼女は笑って一回転して見せた。
確かに彼女は綺麗に左半身だけに水がかかり、その白い服からは水を滴らせていた。

「え、え?い、い、いつですかっ?!」
「さっきだよー。きみが派手に水泡を打ち上げたときから此処にいたんですよ?」

私はさらに慌てた。だれもいないと思っていたらまさか彼女がいたなんて―――
そうすると彼女がずっと此処にいて、私を見ていたことになるが、いったいなぜ?
そんな疑問も微かに浮かんだのだが、そんなことよりまずは謝ろうとプールサイドまで泳いだ。

「すみません亀井さん!全然そんなつもりなくて!」

水から上がった私の姿を見ると、彼女―――亀井絵里はくすくすと笑った。
柔らかい微笑みは何処となく儚げで、だけど綺麗で、瞬間に言葉を失くしてしまう。

「許してあーげないっ」
「え?」
「へへ、うーそっ」

おどけるように話しながら、亀井さんは水に足をつけた。
先天的に抱えた心臓病のために、亀井さんはプールに入ったことはあまりないらしい。そんな彼女が此処へ来るのは少し予想外だった。
亀井さんは、ぱちゃぱちゃと脚で水を弾いた。光りに反射する水が妙に綺麗だった。

「きみはどれくらい泳げる?」
「……は?」
「絵里は25メートル泳いだことないなぁ……小学生以来だもん。プールに来るの」

そう言うと亀井さんは立ち上がった。
てくてくとプールサイドを歩き、スタート台へと昇る。
その姿はどう考えたって嫌な予感しかしない。光井さんのように先見予知能力なんて備わってなくても分かる。
亀井さんは「よーしっ」と両手を挙げて「せーのっ」と膝を折った。

なんて言うべきか、止めるべきだったのか、なにをするべきだったのか、私には正直分からなかった。
彼女の考えていることは、いつも私の予想の斜め上を行く。そういうハチャメチャなところは、えりぽんこと生田衣梨奈にも共通している。

気付いたときには、亀井さんは水の中に飛び込んでいた。
華麗な飛び込みなんてできず、小学生がやるような腹打ちで痛そうだった。

「か、亀井さんっ!」

冷静に分析している場合じゃない。心臓病を抱えた人がプールに飛び込むなんて論外すぎる。
私も頭から飛び込み、亀井さんのいる場所まで一気に泳ぐ。
さほど距離がなかったためにすぐに彼女は見つかった。水中の彼女は、だらしない笑顔を携えていた。
その笑顔が妙に綺麗で、それでいて哀しくて、何処となく優しくて、やっぱり理解できないと思う。

私は両手で水を掬うように円を描き、ふわりと持ち上げる。
亀井さんと私の周囲の水がうねりを上げ、一気に水面へと打ち上がった。
ふたりして水面に顔を出して呼吸をする。亀井さんは相変わらず「うへへぇ」と笑っていた。

「な……な、な、なにしてるんですかっ!」
「ん~、飛び込み」
「あ、危ないですよ!急にそんな」
「へへ、少しはきみのことが分かるかなぁと思って」

亀井さんはそうして水で濡れた前髪をかき上げた。その仕草は少しだけ大人っぽい。いや、十分に。
フクちゃん―――譜久村聖は亀井さんを敬愛している。その声とか、笑顔とか、仕草のひとつひとつとか。
そんなフクちゃんの話す亀井さんと、いま目の前にいる亀井さんがどうしても結びつかない。
亀井さんって、こんなことするような人だっけ?

「私のなにが知りたいんですか?」
「んー、いろんなことが知りたいですよ?」

そうしてまた笑うと、亀井さんはすいーっと手を広げてぷかりと水面に浮かんだ。
漂う姿はその名の通りの「カメ」というよりもクラゲに似ているが、そんなことを言おうものなら風で吹き飛ばされそうなのでやめにしておく。
彼女の体が沈まないようにゆっくりと水面を揺らすと、彼女はそれに気付いたのか「良いよ、そんなことしなくても」と笑った。

「絵里はカナヅチじゃないですよ?」
「……25メートル泳げないのに?」
「あー、そうとも言うね」

亀井さんは腰を沈めて再び立ち泳ぎの格好になる。
顎を突き出して犬掻きの要領でプールサイドまで泳ぎ、ザバッと水から上がった。
ぺったりとワンピースが体に貼り付き、ラインがくっきりと分かる。私よりも大きな胸やお尻に思わず目がいってしまい赤面する。
やっぱり亀井さんは大人だ。外見もそうだけど、たぶん、中身も。
私も彼女に倣うように水から上がった。用意しておいたタオルを亀井さんに差し出す。

「へへ、ありがとね」
「……結局、なんで飛び込んだんですか?」
「ん?だから知りたかったんですよ、きみのことを」

大きめのタオルで顔を拭きながら彼女は言う。
いったいなにが知りたいんですかと聞き返そうとしたが、堂々巡りになりそうだった。

「私だって……亀井さんのことが知りたいです」
「おー、じゃあ絵里といっしょじゃん」
「いきなり飛び込むような理由が知りたいです。真面目に」

皮肉を言ってみたのだけれど、通用しなかったみたいで彼女は笑った。
亀井さんはあまり使っていないタオルを私に返すと指先をくるりと回し、風で髪を靡かせた。

「体、拭かないと風邪引きますよ?」
「これはきみのタオルでしょ?私のはちゃんとあるから」

そうして再び指を回すと、何処からか強い風が吹き、それに乗ってタオルがやって来た。
なんというミラクル。なんという能力の無駄遣い。なんて言おうものならやっぱり風で吹き飛ばされそうなのでやめにしておく。

「水を理解したかったら、自分もちゃんと水に曝け出さなきゃダメだよ」
「え?」
「風を読むことも、水を読むことも、たぶん、本質はいっしょだから」

それだけ言うと、亀井さんは頭をガシガシとタオルで拭き、出口へと歩いた。
呆気にとられながらも、彼女の言葉をゆっくりと反芻する。


―――「水を理解したかったら、自分もちゃんと水に曝け出さなきゃダメだよ」


もしかして、それを伝えるために?なんて思ったが、私はどうも腑に落ちない。
それだけのために水に飛び込むだろうか。自分の心臓に負荷がかかるという危険まで冒して?
私を理解したいと彼女は言った。理解するとはどういうことだ。知りたいって、なにを知りたいんだ。

「………だったら、亀井さんももっと曝け出してください」

私はそう呟くとタオルを投げ捨て、プールに飛び込んだ。
派手な水飛沫を立てたあと、深く深く潜っていく。
「曝け出す」とは、透明になるということだろうかとなんとなく私は解釈し、最深部で揺れた。
不思議と心が、楽になった気がした。

 ―亀井さん……着替え持ってるのかな?

最後に浮かんだ疑問を打ち消すように、私は右腕を突き上げた。
今日いちばんの水泡が撃ち上がったかと思うと、プールの天井に直撃した。

「あ……」

天井に設置されていた蛍光灯のひとつがバチバチと火花をつくり、そのまま消えていった。
勢いが強かったせいか、どうやらお亡くなりになられたらしい。
まずい。道重さんにバレたら怒られると、水泡の勢いが増したことなんて忘れて血の気が引いていく。
私は脱兎のごとく水から上がり、タオルを鷲掴みにし一目散に更衣室へと走った。
そこには亀井さんもいて、人目も憚らずにワンピースを脱ぎ始めているものだから私は思わず目を逸らした。

「……あの」
「うん?」

私はタオルで体を拭きながら、すぐ隣で着替えをしている亀井さんに話しかけた。
この場にフクちゃんがいたら大変なことになっているんだろうなと頭の片隅でぼんやり思った。
やっぱり着替え持ってたんだ。なんて冷静に分析している自分がなんとなく、バカみたいだった。

「……今度、いっしょに泳ぎませんか」
「え?」
「泳ぎ方、教えますよ、ちゃんと」

心臓病抱えている人間になんてことを言うんだと私は思った。
随分と身勝手で、随分と冷徹な発言だと自覚していたけど、それくらいしか、御礼できそうになかった。
それだけ言ってちらりと亀井さんの方を向くと、彼女は一瞬驚いた表情を見せた。
だが、そのあとすぐに目を細めて柔らかく笑ったかと思うと、「じゃー水着買っちゃおうかなぁ」とおどけて見せた。

たぶんこういうところが、私は子どもで、亀井さんは大人なんだと理解した。

「さゆとかガキさんとかダメ!って怒るだろうなぁー…いっしょに謝ってくれる?」
「これからのことをなんで謝るですか?」
「うーん……ごめんなさいの前借り?」

やっぱり意味が分からないなぁと思いながら私も服に着替え始めた。
ああ、そうだ亀井さん。

「いっしょに道重さんに謝ってくれますか?」
「えー、なんで?」
「……ごめんなさいの前借りです」

蛍光灯のこと、バレませんように。