(70) 265 名無し通りすがり(心臓をポクポク)


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「優樹」

初老の男性の声が響く。
優しさと、隠しきれない悲しみを帯びたその声は、
大きな犬を抱きしめた少女の肩を微かに揺らした。
気にしない素振りで少女は犬に集るハエを叩く。

「もう放してあげなさい」

少女の右目から滑り落ちた涙を、血色の悪い舌で舐めとる犬。
その毛並は悪く、栄養が行き届いていないのが明らかだった。
赤い目をした少女もそれは同じ。
だが、少女には犬よりも決定的に、生が溢れていた。

「どんな生き物でもこの世にいられる時間は決まってるんだ
 神様でもない限り、その時間は引き伸ばしたりできないんだよ」
「でも…」
「優樹は随分神様を待たせてしまったよ、もういい加減にしないといけない」
「だって…」
「お前も…もう充分だろう…」

少女の父親がそっと頭を撫でると犬は悲しそうに鼻を鳴らして、
次々とこぼれる少女の涙を何度も拭った。
その動きが段々と鈍くなっていき、力と『チカラ』の抜けた少女の腕から体を外すと、
大好きだった柔らかい腿に顎を乗せて上目遣いで少女を見つめた。
少女も同じく、大粒の涙をこぼしながら大好きだった優しい犬の目を見つめ返した。
光を失っていく様子を見られたくなかったのか、犬はそっと目を閉じた。

それからすぐ、犬に二度目の死が訪れた。
腐敗の進んだ亡骸を抱きしめて泣きじゃくる少女を、父は静かに見つめていた。

『これは神様からのプレゼントだ、優樹が正しいと思うように使いなさい』

深夜。
建物という建物が流された土地に、成長した優樹は立っていた。
右手にはメモ帳を何冊か、左手には沢山の鉛筆を持って。
久しく使っていない『チカラ』を解き放つ。
幼い体からエメラルドグリーンの光が溢れ出す。

「ンッ、ンンッ」

声が漏れるのも抑えられないくらいに『チカラ』を振り絞った。
全部使い切るつもりで、全力で『チカラ』を使った。

少しして、土の中から手が出てきた。
降り注ぐ星の光を浴びて戸惑いながら、学生服を来た男が優樹をぼんやりと見つめた。


「こんばんわ」
「え、あ、あぁ…こんばんわ」
「えっと、この紙に、ご家族の方へのメッセージと、お名前と…あっ、ご住所を、お願いします」
「あぁ…えっ?」

現状を理解できていない彼を尻目に、優樹はコンクリートの崩れる音を聞いてそちらに走る。
疑問をぶつける相手もいなくなってしまい、彼は素直に鉛筆を握って、気付く。
小指が千切れていた。痛みがまるでない。鉛筆を握る感覚すらも。

「こんばんわ、この紙に、ご家族へのメッセージと、」

優樹の声がした方を見る。
ついさっきの彼と同じように扱われている男性は、頭が一部凹んでいた。

「もういいから、君まで俺らと一緒に死んじゃうよ」
「みなさーん!募る思いもあるでしょうが早く書いちゃってー!」

空が白くなってきた頃、優樹の呼吸は荒く、支えがないと今にも崩れ落ちそうだった。
寒いはずの季節に汗を垂れ流し、虚ろな目の下にクマを作って、それでも優樹は笑って余裕を見せた。

「まだ、だいじょぶ、です」
「無理すんなよまーちゃん、俺ぁもう充分だよ」
「でも、でも、まだ出れてない人もいるかも」
「そんな深くまで埋まっちゃいねーよ」
「ありがとね、まーちゃん」
「でも…っ」
「まーちゃんが倒れちゃダメだろ」
「手紙、お願いね、優樹ちゃん」
「まーちゃん…まーちゃんは…ぁ…」

「そろそろ還る時間だ」
「満足したよ」
「ありがとう」
「ありがとね」
「ありがと」
「お疲れさん」
「ありがとな」
「ありがとー」
「ありがとう、まーちゃん」



朝焼けに照らされて、無数の体に囲まれて、少女が眠る。
胸いっぱいに、死者からのメッセージを抱えて。
数年前と同じように、真っ赤な目元で。