初めからわかっていたはずだった。
誰も、本当の自分を認めてはくれない。
たとえそれが、どれほど「信じられる」と信じた仲間であったとしても。
生きているのか死んでいるのかわからない。
小春は、自分が幽霊になったような気がした。
誰かの視点と一体化することはもうなく、完全なる第三者として仲間たち8人の様子を眺めている。
立ち昇るコーヒーの湯気。
窓辺から漏れる夕暮れの陽光。
愛はカウンターの向こうで洗い終わった食器を丁寧に拭いている。
絵里はテーブルに突っ伏して居眠りをしている。
里沙とさゆみは寝ている絵里にいたずらを仕掛けようとしている。
れいなは新メニューの開発に試行錯誤している。
ジュンジュンとリンリンはお菓子に手を伸ばしながら日本語の勉強をしている。
愛佳はそんな二人の勉強を見ながら自身の学校の宿題に励んでいる。
いつもと同じ「リゾナント」の一階の風景。
小春だけが、そこにいない。
今から飛び込んで話しかければ、仲間たちは振り向いてくれるのだろうか。
振り向いて「小春」と呼んで笑ってくれるだろうか。
小春の不在を気にも留めていない彼女たちは。
不在を当然のものとしてそれぞれの時を過ごす彼女たちは。
わからない。
確かめる気力も起こらない。
小春の心は、徐々に仲間たちから遠ざかりつつあった。
精神的な距離はやがて物理的な距離を生む。
支えにしていた仲間への関心・執着を完全に失った時、小春の心は闇に捉われ消えていく。
「・・・早く消えちゃえばいいのに」
輪にも入れず、声一つかけられない臆病な自分。
こんな幽霊みたいな状態でいるくらいなら、いっそ。
自暴自棄に落とされた小春の独り言は誰にも聞こえない、届かない。
そう思っていた。
それなのに。
『消えたいの?』
まるで空間が、そこだけ切り取られてしまったかのように。
小春の周囲の時間が止まる。
他は誰一人こちらを向いたりしないのに、その人だけが小春の呟きに反応を示した。
『消えちゃダメだよ、小春』
その声の主は、いつの間にか食器を拭く手を止めていた。
食器とふきんをその場に置いて、憂いと温かさの混じった瞳を小春に向ける。
「あい、ちゃん・・・」
『小春がいなくなったら、さみしーじゃん』
そう言って、愛はにかりと笑った。
久しぶりに、本当に久しぶりに誰かと目を合わせたような気がする。
小春の心の中に他人の存在が入り込むなんてしばらくなかった。
ずっと小春は独りで。
信じたい信じられたいと思えた人すら信じられなくなって。
「小春は別に・・・寂しくないよ」
こうやって強がりを吐くことを覚えた。
強がる気持ちは嘘じゃない。
だけど、まるきり本当というわけでもない。
小春は自分を一人でも生きていける人間だと思っていたし、実際ここまでは一人で生きてこられた。
独りでも大丈夫だという確信があった。
だから平気で強がりを吐ける。
けれど、それを寂しいと思う自分がいるのも確かだった。
“一人だって良い。でも、仲間がいればもっと良い”。
心の奥でそんな風に思ってしまうから、強がりはいつまでも強がりのまま。
本物の強さにはなってくれない。
「『寂しい』とか、よくそんなこと言えるね。今まで小春が心の中で何考えてきたのかも知らないくせにさ」
小春は苛立っていた。
なぜこの人はこんな歯の浮くような綺麗事を簡単に口にできるのだろう。
彼女が自分の何を知っているというのか。
こんな、意地っ張りで臆病で自分でも大嫌いな本当の“小春”の姿。
『・・・そうかもね。あたしには小春の考えてることなんてわからない』
「でしょ。だったら」
『でも、知ってることだってあるよ』
愛は、微妙な苦笑いを小春に向ける。
『普段は大ざっぱでノーテンキなのに、変なとこで細かいこだわりとかあってさ。
なんも考えてないようで実は結構考えてたり、なんか考えてそうで実はなんも考えてなかったり。
バカっぽいことやってるように見えて、やっぱただのバカだったり』
「・・・ぜんっぜんっ、褒められてる気しないんだけど」
『褒めてねーよ、別に』
そうして今度は悪戯っぽく笑う。
愛は楽しそうだった。
小春といて、愛は心底楽しそうに笑っているように見えた。
『どこからが本当でどこまでが本当じゃないとか、あたしにはわかんない。
でも、一緒に過ごした時間の中にいくつか本当のことはあったはずでしょ。
そこから本当の“小春”を想像するんじゃダメなの?』
愛が小春の顔を覗き込む。
まっすぐに目を見つめられる。
決まりが悪くなって、慌てて小春は目を逸らした。
『無理に隠そうとも曝け出そうともしなくていい。小春は小春のままでいてくれれば、それでいいから』
心が、跳ねた。
頑なだった小春の中の何かが、音を立てて動き出そうとする気配。
愛は自分といることを負担に感じていない。
そのままの“小春”を認めてくれている?
小春は尋ねた。
「・・・愛ちゃんはそう思ってても、他のみんながそう思ってなかったらどうすんの」
『じゃあ、聞いてみりゃいいじゃん』
答えて、愛は目で促した。
その向こうには、先程と同じ姿勢のまま思い思いの時間を過ごす仲間たち。
相変わらず小春が存在しようがしまいが気にする風はなく、この愛と小春のやりとりに注意を払っている様子もない。
自分が仲間にどう思われているかは、直接聞いてみればすぐにわかるはずのことだった。
おそらく彼女たちは嘘を吐かないし、吐いたら吐いたでそれを見破る自信はある。
けど、怖かった。
仲間を信じている、だがその想いが間違っていないという保証はどこにもない。
大好きで大好きで大好きな小春の仲間が、やっぱり“小春”を見ようとしなかった今までの人たちと同じだったら。
怖くて、ずっと最後の一歩を踏み込めずにいた。
しかし今、愛が小春の背中を押している。
“聞いてみれば”と、小春にきっかけを与えてくれている。
小春と仲間を画する微妙な隙間。
埋めるなら、今しかない。
「・・・みんなぁ!」
声を張り上げ。
足を踏み出し。
少しだけ前のめりに。
「こはるは・・・・・・小春は!・・・小春なんだよっ!」
ありったけの想いを言葉に乗せて、叫ぶ。
意味や正しさなんてどうでもいい。
ただただ伝えたかった。
小春はずっとここにいて、ずっと小春であり続けるのだと。
伝わってほしかった。
「・・・バカだねーアンタは。そんなこと、みんな知ってるから」
テーブルのほうから、声がした。
里沙が呆れたような笑みを浮かべて小春を見ている。
里沙だけではなかった。
店の中を見渡せば、絵里もさゆみもれいなも、ジュンジュンもリンリンも愛佳も、もちろん愛も、みんなが小春を見ている。
“小春”の存在を受け入れてくれていた。
「・・・・・・っ!バカって言うほうがバカなんですー!だいたい、新垣さんだって結構バカじゃん!」
「なぁにぃ~!」
「バカー!!」
諍いながら、小春は飛び込んでいく。
里沙の元へ。
仲間たちの輪の中へ。
小春が心の奥で信じていたことだから、強く願えば心は必ず応えてくれる。
そう。初めから答えはここにあったのだ。
小春がそうだったように、自分の闇の祓い方はその者自身が一番よく知っているはずだった。
それを自覚できているか否か、信じた答えを強く願えるか否かの違いだけ。
さて、彼女はどうだろう。
愛は小春の世界に光が満ちていくのを確認し、次なる闇を訪れた。
背中を丸めて膝を抱える彼女の姿は、まるで何かの殻に閉じこもっているかのように見えた。
最終更新:2012年05月15日 01:24