『影法師』-2


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目次

2012/01/31(火) 更新分


『さえみ』が口にした「変態1号」という言葉を耳にした美貴は愕然とした。
道重さゆみがそのように称されているという情報は入手している。
新垣里沙というスパイこそ失ったものの、リゾナンターに関する情報の入手源は他にも存在する。
光井愛佳や銭琳以降暫く途絶えていた、新しい共鳴が復活した2011年。
新たにリゾナンターに加わった年少のメンバーへの偏愛ぶりを捉えて、変態と称せられていることは知っている。

…しかし、そのことを正直に『さえみ』に告げてもよいものだろうか。
『さえみ』は道重さゆみの危機を救う為に生まれたもう一つの人格だ。
そして、『さえみ』はトリックなしで人体消失のマジックを実演することの出来るチカラの持ち主である。

癒しの天使という道重さゆみのパブリックイメージとはかけ離れた「変態」という二つ名を自分が知っていることを『さえみ』が知ったら。
『さえみ』が自分の口から道重さゆみが「変態1号」と呼ばれていると口にしたのは、さゆみにとって不名誉な事実を知っている者を網に捕えるための餌だったとすれば。

~ああ、知っているぜ。 重さんが1号。 新入りの譜久村ってやつが2号なんだってな~
などと口にした途端、「消え失せよ。 さゆの汚点を知る者どもよ」とか言って、【物質崩壊】のチカラを奮うのではないか。

― こいつは考えどころだぜ ―

刹那の間に美貴は熟慮した。

「いやっ、知らねえな。 あの重さんに限ってそんな変態なんて呼ばれることはないだろうが」

ハズレだった。
道重さゆみのもう一つの二つ名「変態1号」を知らないと美貴が口にすると、『さえみ』はそうですか、と言い事の仔細を説明し始めた。
不毛な数分間。 そして…。

「わかった。わかったから。 要するにあんたの妹さんが変態と呼ばれている状況を何とかしろって言うんだな」

及ばずながら力になってやると言いながら、美貴は席を立とうとした。

「とりあえず、れいなのやつを締めてくるわ。 まだその辺をうろついてヒッ」

美貴は思わず悲鳴を漏らしてしまった。

『さえみ』に腕を掴まれたからだ。

「待ってください。 まだ私の話は終わっていません」

『さえみ』の肉体は道重さゆみの肉体だ。
非戦闘要員である道重さゆみの力を以ってして行なわれた制止なら、美貴は容易に振り切って見せる。
しかし【物質崩壊】というさえみが持つ異能のチカラの存在が、『さえみ』の制止を磐石の重みに感じさせていた。
美貴はすごすごと椅子に腰を下ろした。
それを見届けると『さえみ』は口を開いた。

「あなたは何か考え違いをしておられるようです。 確かにかわいいかわいいさゆみが変態と呼ばれることは、私も快く思ってはいません。 しかし…」

『さえみ』は意外なことを話し始めた。
本来なら不名誉と思われる「変態」という呼び名を、さゆみ本人は嫌がっていない。
むしろ内に秘めた嗜好が晴天白日の下にさらけ出されたことで、吹っ切れたように明るくなっていると。

「さゆみの中に存在する私にはわかるんです。 変態1号と仲間に言われた時、口ではイヤと言いながら喜びに震えているさゆみの気持ちが」
「じゃあ、何の問題も無いじゃん」
「それがあるのです。 変態と言われるようになって暫くの間は浮ついていたさゆみの心が、このところ少し沈みがちなことに」
「時間がたつとやっぱ変態呼ばわりが堪えてきたとか」
「そうではありません」

これは自分の想像でしかないと前置きした上で『さえみ』は言った。

「さゆみは悩んでいると思うのです。変態と 呼ばれるようになったきっかけである新しいリゾナンターの仲間の一人。
鞘師里保ちゃんとの距離が中々縮まらないことを気に病んでいるのだと思うのです」

どちらかというと抑揚に乏しい『さえみ』にしては珍しく、急き立てられたような口調で話し続ける。

「だからあなたにはさゆみが鞘師里保ちゃんともっとお近づきになれる手助けをしていただけないかと」
「断る!!」

美貴は即答した。
さっきから『さえみ』の言っていることを聞きながら思っていたことだ。
この話はコメディだ。
それもキレの良いコメディでもなければ、風刺の効いたユーモアセンスに溢れたコメディでもない。
ひたすらグダグダと筆を重ねるだけの三流のコメディだ。
そんな話で人が死ぬとか、身体が消されるとか不穏な事態なんか起こりうる筈も無い。
【物質崩壊】上等である。
自分は『さえみ』に消されることは無い。
生命の安全を確信した藤本美貴は、『さえみ』に告げた。

「退屈しのぎにはなったから、今日のところは見逃してやる。 これ以上わけ判んないこと言っているとそのゴスロリ衣装引っぺがしてやるぜ」

意外なことに『さえみ』は豹変した美貴の恫喝に、動じることはなかった。
余裕ありげな笑みさえ浮かべている。

「わかっています、藤本さん。 私もさゆみの心の中の闇で生まれた女。 人間が恐怖だけでは動かないということをね」

言いながら分厚い封筒を取り出した。

「ここに百万円というお金があります。 私のお願いを聞いてくれたらあなたに差し上げてもよろしいのですよ」
「やってやろうじゃないか」

考えるまでも無い。
百万円という金があったら、スーパーの値引きセールとか気にしないで食材が買える。
消費税とか気にしないで、高級の国産黒毛和牛の肉が買えるのだ。
大抵のことはやってやる。
改めて気合を入れ直し椅子に座りなおして、ふと気になったことを口にする。

「しかし、その金は妹の金でもあるんじゃないのか。 いいのかよ、あんたの一存で使っちまって」
「ご心配ありがとうございます。 でもこのお金はさゆみの知らないお金です」
「しかし、それはおかしいだろう」

あるいは『さえみ』の人格でいる間に、どこかで働いて貯めた金なのか。
しかしそんな二重生活をすれば、道重さゆみの肉体に掛かる負担も大きくなるだろう。
妹のために存在する『さえみ』がそんな真似はしないとは思うのだが。

「さゆみは何百、何千枚というメンバーの写真を撮っています。 中にはあられもない姿のものもあります。
そんな写真の中から身体のパーツだけを切り取って少し加工したものをwebサイトで公開すれば、あら不思議」
「おまわりさ~ん」

閑話休題。
「一応顔は判らないように修正してしますしね。 何の問題も派生しません」
「まあ何か起きたってアタシには何の問題もないけど」

とりあえず、『さえみ』の手にしている百万を手にするために動くことは決めた。
しかし、その手立ては思いつかない。

「つーか、どうやってあんたの妹と鞘師ってやつをくっつけっるんだよ」
リゾナンターの部外者である美貴にそんなことが出来るのか。 当然の疑問を美貴は口にした。

「それがあるのです。 というよりリゾナンターと敵対するあなたにしか出来ないことがあるのです」

『さえみ』によると、鞘師里保は道重さゆみとの間に一定の距離を置こうとはするものの、決して嫌悪しているわけではないという。
鞘師が大怪我した時に、懸命の努力で治癒に努めてくれたさゆみに感謝の念を抱いていることは間違いないという。

「ですから、狂犬と呼ばれたあなたに鞘師さんを死なない程度に痛めつけていただいて、その怪我をさゆみが治してあげれば、鞘師さんとの距離がもっと近づくと思うのです」

― コイツ、とんでもないことを言い出しやがった ―

流石に道重さゆみの心の闇の中で生まれたと自称するだけのことはある。
半ば呆れながら『さえみ』を見つめる。

「こんなこと他のリゾナンターには頼めませんしね。 といって私が手を下せば鞘師さんがこの世から消えてしまいますしね」

百万という現金は喉から手が出るほど欲しい。
しかし、『さえみ』の浮世離れした要求に応じて、鞘師里保を襲撃するという軽はずみな行動をしてしまっては、自分の値打ちが下がるような気がする。

「何か安い美人局みたいな手口だな、オイ」

自分の考えを安いと言われたことで、『さえみ』は不機嫌そうになる。

「つーか、そんなことで鞘師ってやつを襲えとか、マジかよ。 あいつ、アタシより一回り以上年下なんだぜ」
「怖いのですか」
「はっ、何言ってんの」
「水軍流を修めた鞘師さんが怖いのですか」
「ふざけんなよ、テメー」

『さえみ』が自分を挑発しようとしていることはわかる。

「アクアキネシスという能力を持つ鞘師さんと戦うのが恐ろしいのですか、と私は聞いているのです」
「だから、違うっつーの」

むきになる美貴を愉快気に見ながら、『さえみ』はここぞとばかりに畳み掛ける。

鞘師が美貴のことを軽んじてこんなことを言っていたといってけしかける。

「氷雪の魔女など恐るるに足らん。 氷の元素記号はH2O。 水と同じじゃけんわしのアクアキネシスで無力化してくれるわ」
「あのクソガキがっ!!」

実際に鞘師がそんなことを言ったのかどうかはわからない。
あるいは目の前の『さえみ』が自分を動かす為に捏造しているのかもしれないが、たとえそうであっても自分が蔑ろにされることには耐えられない。

「上等じゃねえか、鞘師。 殺ってやるぜ」
「あの、出来ればあなたの魔法で思いっきり鞘師さんの体温を下げる線でお願いできないかと」
「あん?」
「足腰が立たないぐらいに痛めつけた上で、雪を降らせるなり氷漬けにするなりして、鞘師さんの体温を下げて欲しいのです」
「面倒くせえこと言い出しやがるな」
「雪山で遭難した人間を救うには裸になった人間の体温で温めるのが一番良いのです。 つまり低温状態の鞘師さんを救う為にさゆみが肌と肌を触れ合わせて、ぐふっ」

変態の姉はやっぱ変態だったな。
鼻血を流しだした『さえみ』を冷ややかに見つめながら美貴は思う。

「で、いつ鞘師ってくそガキを襲うんだ。 当たり前の話だが仲間がいたりすると、お前の要求どおりの状況を作り出すことは難しいぜ」

自分より一回り以上年少だといって、鞘師の実力を軽視する真似はしない。
洩れ伝わってくる情報では、只ならぬ使い手であることは間違いない。
そんな鞘師を『さえみ』の要求通り、死なない程度に痛めつけて、低温状態に陥れるには、出来れば鞘師一人の状態の方が望ましい。
そして、出来ることなら…。

「不意討ちだな。 油断しているところを後ろから一発かまして抵抗力を奪ってから好きなように痛めつけてやる」
「さすが、藤本美貴。 私が見込んだだけのことはあります。 胸糞が悪くなるぐらい卑怯なやり口ですこと」
「テメーが言い出したことだろう」

とりあえず何をするべきかは決まった。
問題はどのような方法で実施するかだ。

「だがよ。 鞘師ってやつが一人っきりでいてなお且つ、お前の妹が助けに現れて不自然でない状況っていうのを作り出すのも難しいんじゃないか」
「そうなのです。 私がさゆみを装って電話で誘き出しては意味がありませんしね。 第一、さゆみからの誘いに鞘師さんが応じてくれるかどうかも不透明ですしね」
「誰か他のリゾナンターの携帯から呼び出しのメールを送信すればいいんだろうが、そう都合良く携帯を貸してくれる奴もいねえだろうし…」

― いたよ、一人。 まだこの近くをうろついてる奴が一人いるよ ―

          ・
          ・
          ・

「放せ、放すっちゃ」

急いで駆けつけた高架下の公園に、れいなはまだいた。
美貴に痛めつけら、『さえみ』に失神させられたダメージを引きずっているのか、少しフラフラしながら歩き出そうとしているところを掴まえることが出来た。

「だから、放してやるからテメーの携帯をちょっとだけ貸せって言ってるんだよ」
「この携帯をアンタに渡したら悪用して、仲間にどんな悪さをするか知れん。 だから渡せんたい」

― 意外と手こずらせやがるな、コイツ ―

手強いれいなの反抗に苦戦しながらも、その根性はすこしばかり小気味よい。

「どうしても欲しかったら、れいなを殺して取ればいいっちゃ」
「言ったな。 殺してでも取れって言ったな」
「あわわ、少し言い過ぎたけん」
「もう遅い」

れいなの背後を取った美貴は、右手でれいなの左手首を掴むと左腕全体を鉤型に捻じ曲げた。

「イテテッ。 でもこの程度ではれいなは負けん」

無防備になったれいなの左脇の下から伸ばした左手でれいなの首筋を鷲づかみにする。
血液の流れを止められたれいなの意識が薄れてゆく。

― あぁ。 れいな、こんなところで死ぬんか。 死ぬ前に愛ちゃんと話したかったな ―

れいなの頭の中を走馬灯のごとく、これまでの記憶の情景が駆け巡る。
…勿論、れいなは走馬灯なんて言葉は知らないが。

しかし、次の瞬間、走馬灯は砕けて散った。

「おりゃあっ」

気合一閃、美貴が背筋の力でれいなの身体を跳ね上げたのだ。
レスリングでいうところの反り投げという技である。
見事な放物線を描いていくれいなの身体。

― えっ、このままやったられいな頭から地面にぶつかってしまうやん ―

肝を冷やす暇もなく真逆さまに落ちていくれいな。

だが軽量だったことがれいなに幸いした。
余りに軽すぎたために、勢いが強すぎて不完全ながら後方宙返りをした形になったのだ。
一本の直線状に、うつ伏せの状態で地面に叩きつけられたことで、膝を少し擦りむいたぐらいの怪我で済んだ。

命を拾ったことを感謝する時間もれいなにはなかった。
死神のように滑走した美貴の左膝がれいなの顎を捉えた。
ふぎゃあという悲鳴を上げて、れいなはこの日二度目の失神をした。

          ◇          ◇          ◇

2012/02/15(水) 更新分


「かたづいたぜ」

美貴が声をかけると、物陰から見守っていた『さえみ』が出てきた。
これから行なおうとしていることに、自分が関わっていることは伏せておきたいという思惑から身を隠していたのである。

「力関係の如何に関係ない非情な戦いっぷり。 あなたを見込んだ私の目に狂いはありませんでした」
「ほめてんだか、けなしてんだかな。 しかし、まずいことになったぜ」

美貴の手には失神したれいなから奪い取った携帯電話が握られている。

「こいつ、生意気にプロテクトなんかかけてやがる」
「そんなことをしなくても、誰もこの子の携帯なんか覗き込んだりしませんのにね」
「しかし、面倒だな。 一度こいつの目を覚まさしてパスワードを吐かせるか」
「その必要はないと思います。 その子はアホですから、そんなに複雑なパスワードなんか設定しないと思います」

覚える必要の無いぐらい簡単な数字か、誰かの生年月日ぐらいしか設定しないだろうという『さえみ』の推測を聞いた美貴には思い当たる番号があった。

「まさかとは思うけど、こいつの誕生日って確か」
「いくら、この子がアホでもそれは流石に」

数秒後。
「まさか1の4並びで暗証番号を設定するアホがこの世の中にいるとは思わなかったぜ」
「れいな、恐ろしい子」

不憫なれいなを哀れみながら、メールのアプリを起用させる。
当然ながら鞘師里保のメルアドも登録してあった。

「とはいえ、どんな文面で呼び出したもんかね。 そういや、こいつは年下のメンバーから慕われてるっていうから…」
「それはこの子の勝手な思い込みに過ぎません。 一応は先輩だから鞘師さんたちもそれなりの対応をしてはいますが、この子に付き合ってあげるのは、光井愛佳さんぐらい。愛佳、健気な子」

気配り上手な予知能力者を讃える声が響く。

「じゃあ、どうするよ。 ダークネスが暴れそうだとかいう文面だと鞘師ってガキも警戒してかかってくるだろうし、仲間に廻すってことも考えられるしよ」
「私にいい考えがあります。 れいなはせめて新しい仲間からは歓心を得ようと気を回すことがあるので、それを装うのです」

―本文―
やっぴい
りほちゃん、元気してる
今日駅前の商店街を歩いとったら珍しいもんを見つけたよ
広島限定のサイダーが物産展みたいなところで売っとったけん
買っておいたよ
もしよかったら取りに来んね


「しかしこんな寒空でサイダーとか貰いに来るかね」
「あなたは鞘師さんの炭酸好きを甘く見すぎています」
「しかしねえ」

仮にサイダーが欲しくなくとも、先輩である田中れいながわざわざ買ってくれたものを無下にするような礼儀知らずの人間ではないと『さえみ』は言う。

「何か、人間的に出来たやつみたいじゃねえか」
「きっとおじいさまの教育が素晴らしかったのでしょう」

話しているうちに、鞘師から返信を受信した。
今すぐ受け取りに来るという。

「こんな寒いのによく出てくるよなあ」
「これがれいなならきっと居留守を使って出てこないでしょう」

何はともあれやることは決まった。
あと十数分後にノコノコやってくる鞘師を襲撃して、死なない程度に痛めつけてやって、低体温状態にした上で『さえみ』に引き渡せば百万という臨時収入が手に入る。
そうなれば予算とか気にせずに、欲しい物を好きなように買えるバラ色の日々が続くのだ。
ウキウキしながら傍らの『さえみ』に目をやると、スマートフォンを使ってどこかのサイトにアクセスしている真っ最中だった。

「何してんだ?」
「うっかりしてました」
「はぁ、何がだよ?」
「あなたの手によって低体温状態に陥った鞘師さんをさゆみに人肌で温めさせるのを屋外でやらせるわけにはいきません」

そのために最寄のホテルを予約しておくのを忘れたという『さえみ』は、急いで周辺の宿泊施設を検索した結果、安いビジネスホテルを一部屋確保したという。

「何といっても初めての夜なのです。 出来れば一流ホテルのスイートルームとまではいかなくても、ダブルルームぐらいは用意してあげたかったのですが」

でも安ホテルの方がリアリティがあるかもしれないと言いながら、失神中のれいなの足を引きずって小さな滑り台の陰に隠す。

「では私も姿を隠すことにします。 藤本さん、この百万円はあくまでも成功報酬ですから」

金の入った封筒をちらつかせながら公園を出て行くと、高架の支柱の陰に身を隠した。
美貴はというと相変わらず腹が減っているが、報酬を手にした後の大散財を思い浮かべると苦にもならない。
ジャージから取り出した聖剣エクスカリバーならぬ、スッポンスッポンの柄を握り締め闘志を高める。

― 早く来いよ鞘師ちゃん。 お姉さんが可愛がってやっからよ ―



          ・
          ・
          ・


「で?」
「で ?」

高架下の児童公園で二人の女が対峙している。
一人は少女と言った方が相応しい年頃だ。

「だから?」
「だからって?」

少女は年上の女に何か尋ねている。

「だから、何故におぬしはいきなりわしのことを襲ってきたのか、その理由を訊いておる」
「そ、 それはだなっ 」

年上の女藤本美貴が返す言葉に窮したのは、ここで口を割ってはさえみが呈示した百万という成功報酬が水の泡となって消えてしまうことを懸念している所為もある。
が、それ以上に切実なのは、寒空の下で不自然な姿勢を強いられているということだった 。

仰向けになった身体の下に手足を折り畳まれ、無防備な腹を晒しながら天を仰ぎ見る。
-これじゃ場末のストリップ劇場の特出しショーじゃねえか-

改めて振り返る。
何故、自分はこんな状況に陥ったのかを。
今自分を詰問している鞘師里保はどんな手練を以てして、自分をこんな目に遭わせたのかを。

鞘師里保がいかに も子供然とした物腰で、この場所に姿を現したのは、ほんの数分前のことだ。
そのあどけない様子は、その種の嗜好の無い美貴ですら思わず見惚れさせるものがあった。
その種の嗜好のある道重さゆみなら夢中になるのも無理はないと思った。
といって、さえみに依頼された鞘師襲撃を止める気などさらさら湧いてもこなかった。
それでもある種の感情から、痛めつけるのを少しばかり加減してやろうとしてしまったのがつまづきの始まりだった。

とりあえずの先制攻撃を喰らわしてやるのに、殺人キックではなくスッポンスッポンによる一撃を選んだのは、平素の美貴からは考えられない甘さだった。
その時点で美貴は見誤っていたのだ。
鞘師里保の本質を。

狂犬とは名ばかり、唸り声一つ上げずに鞘師の背後を取り、衣擦れの音さえ町の喧噪に紛れ込ませて、スッポンスッポンを振り上げることさえせず、直線的に突き出した。
鞘師里保が水軍流を極めているとはいえ、年端の行かない子供だ。
大人の剥き出しの悪意に曝されれば、心は揺れ動き、身は竦む筈だと思っていた美貴の見通しは、波打ち際に作られた砂の城よりももろく崩れ去った。

貫けよとばかりに突き出したスッポンスッポンは空を切り、美貴の天地は逆転を開始した。
それが鞘師の体術によるものだということはわかったが、どんなステップで自分の攻撃が無力化され、どんな技で体勢を崩されたのか見当がつかない。
投げられたという実感はない。
転んだ感覚に近い。
無様に体を崩され、地面に倒されそうになったが、それで美貴の戦意が揺らぐことはない。
何といっても百万という金が絡んでいるのだ。

地べたに叩きつけられたとしても跳ね起きて、体に刻み込まれた痛みを燃料に、鞘師に反撃するという意志があった。
そしてむしろこうでなくてはという喜びすらあった。

藤本美貴は狂犬だ。
無抵抗の相手を痛めつけるのは大の好物だが、威勢のいい相手とやりあって、最終的に泣き声を上げさせるのはもっと好きだ。
だから倒れ行く美貴の膝裏に鞘師が踝をかけて、崩しの速度を緩めたときには失望さえ感じた。
所詮、お子様だ。 相手に怪我をさせることにビビってしまう甘ちゃんなのかと。
だが美貴の感じた失望は困惑へと変わった。

踝をかけられて自然と曲がった膝が地面に付くと、そこを基点にもう一方の足や両腕まで折り曲げられ、胴体の下敷きにさせられた。
まるで結ばれたように解けなくなった両手足で、仰向けになった体を支えるというヨガのポーズのような体勢を取らされてしまっていた。

「おい、お前。何とか言わんか」
「痛ぇな、テメー」

記憶を振り返っていた美貴は頭に強い衝撃を感じた。
何も言おうとしない美貴に鞘師が業を煮やしたのか、手にしたスッポンスッポンの先端で美貴の頭を一撃したのだ。

-このガキ、やりやがったな-

美貴は怒りに身を打ち震わせた。
苦手意識が刷り込まれているさえみと対峙する際には、聖剣エクスカリバーのごとく心強く思ったスッポンスッポンだったが、所詮はスッポンスッポンだ。
人を殺傷することを目的として鍛え上げられた武器ではない。
トイレの排水の詰まりを解消することを目的に大量生産された日常用品だ。
材質も硬質のゴムとプラスティックで出来ている。
頭を叩かれれば痛いが、深手の傷を負うことはない。

-やりやがったな、このクソガキ。新品ならまだしも、使用済みのスッポンスッポンで頭を殴りやがった-

立ち寄った喫茶店のトイレからスッポンスッポンを持ち出したのは、他でもない美貴だ。
しかし喫茶店のトイレで実際に使われていたスッポンスッポンで頭を殴られるという屈辱的な出来事は、そんな経緯を忘れさせるには十分過ぎた。
そうこうしてる内にも、鞘師はスッポンスッポンで美貴の頭を叩いてくる。
最初の一撃に比べれば緩やかなものだったが、今の美貴にはその緩さが弄ばれているようで苛立つ。
だからスッポンスッポンによるいたぶりは止めるよう凄んだ。

「おい、お前。いくら敵同士だといっても、そんなもので年上の人間の頭を小突き回すっていうのは、人の道を外れているだろうが」

美貴の訴えが耳に届いたのか、手を休めた鞘師は遠くを見るような目つきになった。

「そうじゃな。わしのことを仕込んでくれたじいさまも言っておった」

鞘師里保を鍛えた祖父は、年長者の言葉には何物にも代え難い値打ちがあると言っていたらしい。
だから年上の人間は敬うようにとも。

-何とかなりそうだな。 とりあえずスッポンスッポン叩いてくるのを止めさせた上で、この身動きできない状態をどうにかさせないと-

悪知恵を働かせ、事態の打開策を練り始めた美貴の思考は鞘師の冷たい言葉で遮られた。

「じゃがな、スッポンスッポンを手に背後から襲ってくるようなやつをどうやって敬えというんじゃ」
「げぇぇぇっ」

美貴の口から紛うことなき悲鳴が漏れてしまったのは、鞘師がスッポンスッポンでこれまでにないくらい思い切り強く、美貴の腹に痛打を加えたからだ。

-こいつ絶対許さねー。 だいたい今日だって…-

「今お前が何を考えているか当ててやろうか」
「ふざけんじゃねえぞ。 クソガキがいい気になりやがって」

自分の考えを見透かしたような鞘師の言いぐさに美貴は苛立った。

「わしは高橋さんのように細やかな心の動きを読みとることはできんが、水軍流の鍛錬を積んできたおかげか対峙した敵の心理状態を読み取ることが出来る」
「なっ、何だと」
「お前が今何を考えていたか言ってやろう。 お前はわしにこんな目に遭わされたことに納得しておらん。 空腹の所為で力が発揮できず、わしに後れをとったと思っている」
「その通りだ。だいたいお前なんかなぁ」
「この痴れ者が!」

-えっ、アタシ今なんて言われたの?-

一回り以上年齢の離れた鞘師里保に上目線で叱咤されたことだけはわかる。
それにしても痴れ者とは。

「腹が減っておらねば勝てる、ケガさえしてなければ後れを取らなかった。わしに言わせればみんな寝言じゃ」

スポーツの世界でも力を出し切れなかった理由を言い立てる者がいる。
連戦による疲労、試合中の怪我、アウェイの洗礼。

「どいつもこいつも甘いわ」

鞘師によれば戦いは試合開始の笛が鳴った時から始まるわけではないという。
試合の日時が決まった時点から既に戦いは始まっている。
もっと突き詰めるなら、一つの試合が終わった時点から次の試合に向けての戦いは始まっている。

「ルールのあるスポーツですら、かくの如し。 いわんやおぬしやわしが歩む修羅道ならばなおさらのこと! 常在戦場!!」
「ヒィィ」

凄まじい速さで振り抜かれたスッポンスッポンが、美貴の目の前を通過した。

「つーかおまいったいいくつだ?」

鞘師の言っていることが、十二、三の少女の言うことだとは思えないことを問い糺す。

「あぁ、これはじいさまの言っていたことじゃ」

祖父からの受け売りだったことをあっさり明かした。

「そっか。オメーの祖父ちゃんは偉えな」

鞘師の祖父を讃えてみせたのは、名も知らぬ彼の言葉に心服したからではない。
身動きできない状況から抜け出すために、鞘師の歓心を買おうとする打算からでたお愛想だった。
美貴の口先だけの言葉をどう受け取ったのか、鞘師の目が細まった。
自分の身内を良く言われて、機嫌を悪くする者もいないだろうとばかり、美貴は追従の言葉をまくし立てる。

「いやあ、お前の祖父ちゃんに会ってみてーや」
「ただの爺さんじゃぞ」
「いや、孫のお前を見てたら判るわ。ただもんじゃねーな、お前の祖父ちゃん」
「それはどうかわからんが」
「いやいや、たいしたもんだぜ。お前の祖父ちゃんはよぉ」

手が自由に動かせるなら、指紋がすり減るぐらいの勢いでもみ手をしてるだろう。

「いやあ、アタシも若い時にお前の祖父ちゃんみたいな立派な師匠に教わってたら、何か別の道を歩んでる気がするわ。もっと人のために命を懸けて戦うみたいな」
「お前はまだまだ若いではないか」
「いやいや、お前と比べたらばあちゃんだっつーの。もう肌の張りとか全然違うし」
「お前、何が狙いじゃ?」

どうやら美貴の態度に胡散臭さを感じたらしい。
警戒心を覗かせている。

「いやっ、狙うも何も。ただアタシはお前の祖父ちゃんに会ってみてぇなあと思っただけだ」

だから早く身体を動かせるようにしろやという真意は表には出さない。

「会いたいか?」
「はぁ?」
「そんなにわしのじいさまに会いたいのかと訊いておる」
「そりゃあ」

有り体に言えば赤の他人の爺、しかも孫娘に水軍流などという物騒な武術を仕込む爺さんなどに会いたくなどない。
鞘師里保の年齢から逆算すれば、あるいは壮年の男なのかもしれないが、いずれにせよ美貴の守備範囲外だ。
しかし、屈辱的な体勢から抜け出すには、鞘師里保の機嫌を取るしかない。
そのためなら何だってしよう。
鞘師がワンと鳴けと言ったならワワワンと吠えてみせよう。
お手を命じられたなら、クーンと鼻を鳴らしレロレロと鞘師の掌を舐めてから、自分の手を置こうではないか。
今は鞘師が抱いている自分への警戒心を薄めて、何とかしてこの状態を解除させるのが先決だ。
だから…。

「会いてえよ。会って弟子入りして人生をやり直したいんだ」
「・・・そこまで言うなら、わしのじいさまに会わせてやろう」

-水軍流だアクアキネシスだとほざいてみても、所詮はガキだ。 知恵比べになっからこっちのものさ-

自分の思い通りの展開になってきたことにほくそ笑もうとしたが、鞘師に心の動きを読まれてしまっては水の泡だ。
出来るだけ心から邪念を追い出して解放されるのを待つ。

不意に強い衝撃を感じた。
鞘師が手にしたスッポンスッポンで美貴の口と鼻を塞いだのだ。

-こ、こいつ、何しやがる-




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