『狂犬は亀を背負う』


(前)


光在る処に闇が生まれる。
相容れない二つの存在は、時にせめぎ合い時に寄り添いながら今日まで過ぎてきた。
そして、今ここ極東の小さな島国でも…。

「テメーいい加減にしろ!  命のあるうちにさっさと帰りやがれ!!」

夜の帳がすっかり降りた頃、小さな喫茶店の店内で闇と光の桎梏が繰り広げられている。
その担い手は二人の女。
乱暴きわまりない言葉で対峙する女を罵った女は、この喫茶店の従業員だろうか。
愛らしいメイト服を身につけている。
メイドの衣装の上に載っかっている顔は造作こそ美しいが、眉間に出来た皺が女の印象を険しいものにしている。
そんな凶悪なメイドの眼光に怯むことなく、取り縋っているのは黒いスーツを身につけた女だった。
明るく染めた髪は薄暗い店内でも映えている。

「お願いですから、面接の担当者の方に会わせて下さい。  履歴書もちゃんと書いてきたんですから」

大きな茶封筒を手に訴える。

「だ・か・らぁぁぁ、この店はバイトの募集なんてしてませんんん。  わけの判んねーこと言ってないで、とっとと失せろ」

アタシが理性的でいるうちにな、と呟きながらメイド服を着た凶悪な魔女、藤本美貴は目の前の女に狂犬のような眼を向ける。

そうダークネスカフェの接客従業員の面接を受けに来たという女、リゾナント・オレンジこと亀井絵里に。

いやおかしいだろうが、と藤本美貴は思う。
ダークネスカフェは世界制服を企む悪の組織、ダークネスの資金源にして最前線基地なのだ。
正義の味方、リゾナンターの一員が、そこのパートに応募してくるなどという事態があっていいものなのか。

「あ、私終日働きたいんでぇ」

「やかましい!」

さっきから、この調子だ。
バイトの面接に来た。  電話でアポは取ってある。  採用の責任者に会わせろの一点張りだ。
あるいは、と藤本は思う。
あるいは、敵対組織のアジトに潜入する意図があっての作戦行動なのかもしれない。
いや、そうに違いない。  むしろ、そうであってくれと願う。
正義の味方が、リクルートスーツを着て、履歴書を持って悪の組織のアジトにバイトの面接にやってくるなんてコメディに決まってる。

「あのう、ゆくゆくは正社希望なんで、リクルート服はその熱意の現れとして…」

「黙ってないと、その舌引っこ抜くぞ!」

いや、コメディでもテンポのいいコメディなら納得だが、グダグダのコメディの狂言回しなんて役柄は願い下げだ。
そんなことをするために、ぐるりにコンビニ一軒見当たらない、北の国のど田舎から花の都大東京に出てきたのではないのだ。

そうだ、これは潜入捜査の一環なんだ。
こいつは隠しマイクかなんかを仕込んで、このダークネスカフェが悪の組織の隠れ蓑だという動かぬ証拠を掴もうとしているに違いない。
決定的な何かが掴めたら、近くに待機しているリゾナンターが大挙して押し寄せてくるに違いない。
有象無象に群がるクソ野郎どもを蹴散らしてくれよう。
いやあ、腕が鳴るぜ、と無理やり気持ちを上げようとしても、亀井絵里の真剣な表情を見ていると気が抜けてしまう。

囮捜査っていうなら、もう少し気の利いた変装ぐらいしてくるだろうな。
っていうかもう少し機転の利いた奴か、頭の回る奴を差し向けてくるだろうな。
少なくともこいつ以外の誰かを。
アタシの知っている限りでは、亀井絵里という女はリゾナンターの中でもっともそういう任務の適性の無い奴だ。
いや、マジで勘弁。

考え込んだ藤本を見て、何か勘違いをしたのか、ここぞとばかりにプッシュしてくる亀井絵里がよだれを飛ばした。

「て、てめえ汚えじゃねーかよ」

藤本美貴は自分の顔に自信を持っている。
美に順位を付けるなんて無粋なことだと思ってはいるが、己の美貌はダークネスの中でも極北に位置するものだと自負している。
その自慢の顔に唾をかけられたのだ。
ある意味顔射されたのだ。
辱めを受けたのだ。
それもよりによって間抜け面をしたバカ女によって。

ダークネスカフェで流血沙汰は御法度だ。
まだ旧体制、中澤、飯田、安倍といったオリメンが差配を任されていた頃は、結構ヤバいこともしていた。
店のメイドに無体なことを仕掛けてきた客を路地裏に連れ出して、死なない程度に痛めつけて、所持金全部取り上げて、キッシュカードやクレジットカードの暗証番号を聞きだして、
身ぐるみ全部引っ剥がして、記憶を改竄した上で河原に放り出したことなんか数え切れないぐらいある。


いや、あの頃は楽しかったよな。
藤本美貴は振り返る。
中澤さんの指図に従って、暴れてたらよかったんだから。
確かにアタシのことを顎でこき使うあのオバハンにはムカついたこともあった。
だけど偉そぶるだけの器ってもんがあったことは否めない。

数時間の記憶と所持品を失った全裸男が続出するという事態に、捜査当局の手がダークネスカフェ近辺に及んだ。
そこは神に選ばれし能力者の軍団。
ダークネスカフェに司直の追求は及ばなかったものの、荒事を起こした責任を取る形で中澤以下の旧体制のメンバーはダークネスカフェを去った。
今は各々の才覚でシノギを立てている。

何処をどう見込まれたのかわからないが、ダークネスカフェの差配を任された美貴に対しては、店内での暴力沙汰、特に客に対しての暴力行為は禁止されている。
そして藤本美貴はその通達を一応は守っている。
上を、特に組織の首魁であるダークネスのことなど屁とも思っていなかった藤本美貴が、何故に?
別にダークネスへの忠節に目覚めたわけでもなければ、年齢を重ねたことで将来への不安を感じたからでもない。

面倒くさかったのだ。
客を殴ることが面倒くさいのではない。
そのことによって生じる結果に対応することが面倒だったのだ。
暴行の痕跡を隠滅しするために帰宅時間が遅くなることが煩わしかったのだ。
警察の追及をかわすための偽装工作に時間をかけることがかったるかったのだ。
だからたまに訪れるバカ。  女だと思って見くびるようなバカな客にも手を上げたことはない。
…店の中では。
今も亀井絵里に対して素っ気ない態度をとり続けていたのも、面倒くさいことはとっとと済ませて早く帰りたいと思っていたからだ。

しかし今美貴は禁を破り、亀井絵里に対して腕を振り上げようとしている。
それは亀井が美貴の顔に唾するという不遜の罪を犯したからだ。
バカっ面で口角唾を飛ばす亀井絵里のウエストの辺りに美貴の右腕が伸びる。
面接、面接とうるさい亀井絵里は自分の身に危険が迫っていることに気付かない。
…そして。

「そこだぁぁぁぁっ!!」

スカート越しに亀井絵里の下着を掴んだ美貴の右腕が垂直に引き上げられた。
要するに亀井絵里のパンツを食い込ませたのだ。

「ちょぉぉぉっ! 何するんですか」

同性からとは思えない攻撃を受けた亀井は、その犯人である藤本を詰る。
眉は怒りで逆立っているが、そんなことで手を緩めるような藤本美貴ではない。
更に強く攻める。
スカート越しに掴んだパンツを更に引き上げたのだ。

「ちょっ、マジやめて下さいって!」

「うるさい。 これ以上パンツを大事なところに食い込まされたくなかったら、さっさと帰るんだ!」

亀井絵里を恫喝しながら、美貴は焦っていた。
くそっ、何てパンツ履いてやがるんだ、こいつ。
食い込まねえ。

パンツを食い込ませることには自信がある。
実際、これまでに何人もの女のパンツを食い込ませて、悶絶させてきた。
今、こうしている亀井絵里だってその被害者の一人だ。
以前に食い込ませたときは、その予想外の衝撃と自らのパンツによって責められているという羞恥心からたちどころに白旗を上げたというのに、どういうことか。
生意気にも責めに耐えて抗議してくるではないか。
それは亀井絵里が今日身につけているパンツに原因があった。

ボクサーパンツを履いているのだ。
以前仕掛けた時は、セクシー系とまではいかなくともランジェリーを身につけていたのに、今日はボクサーパンツタイプの下着を身につけているのだ。
おそらくは履き心地を重視してるのだろうが、今その選択が亀井絵里の股間を守っているのだ。
その幅広の布地の形態が、食い込むことを阻んでいる。

「くそがっ。  色気の無えパンツ履きやがって!」

思わず悪態もつきたくなろうというものだ。

「これが私の勝負パンツなんです!」

狂犬の一吠えにも怯む様子を見せない絵里の態度が美貴の負けじ魂に火を点けた。

「くそぉぉぉぉっ」

スカート越しに絵里の太股に美貴の指先が食い込む。

「ひぃぃっ」

下半身を走る激痛に思わず悲鳴を上げてしまうが、それはまだ幕開けに過ぎなかった。

「おらっ! おらっ! おらっ!」

美貴の指先は当然絵里のパンツを掴んでる。
その状態を固定したまま、抜群の身体能力を駆って垂直に飛び上がった。
その結果、これまでとは格段の違いで絵里にパンツが食い込んでいく。

「ひぃぃぃぃ」

ここが攻め時だ、美貴は判っていた。
パンツの形状に救われたとはいえ、今日の亀井絵里はひと味違う。
さっさと退散させて、閉店作業を終えて、帰宅してから録りだめてあるTV番組を見るには、ここで勝負を賭ける必要がある。
だから肉体だけでなく精神面からも攻めなければ。
女として耐えられないぐらいの恥辱を与えてやるのだ。
下衆な言葉を浴びせてやるのだ。

「そうか、イイか。  最高か。  若い姉ちゃんがこんな感覚を覚えちまったらもうお嫁にいけなくなっちまうぞってか、ゲハハハ」

こんなことをするために、北海道のど真ん中から上京したわけではないという思うと情けなくて涙が出てきそうになる。
しかし、女一匹この世知辛い世の中を生きていくには綺麗事だけじゃやっていけない。
やるんだ。

更なる強い決意を以て絵里にパンツを食い込ませようとしたときだった。

「い・い・い…いつまでも弱い絵里だと思ってたら大間違いですよ!」

亀井絵里が逆襲を始めた。
自分がやられているのと同じように、藤本美貴のパンツに手をかけて、美貴の股間に食い込ませたのだ。

「ヒ・ヒイ」

すんでのところで美貴は悲鳴を噛み殺した。
圧倒的に攻め込んで、優位を確かなものにしたはずの美貴が一瞬で劣勢に追い込まれたのは、身につけているメイドコスチュームにあった。
男性客の視線を意識したミニスカートという形態が亀井絵里の手の侵入を容易にしていたのだ。
つまり、亀井絵里は美貴のパンツを直接鷲掴みにして、食い込ませているのだ。

スカート越しに亀井絵里のパンツを掴んでいる美貴との差は歴然だ。
そして付け加えるなら美貴が身につけているパンツも影響している。
そのパンツかなりのセクシーランジェリー。

その瀟洒なデザインの下着は美貴よりも劣る絵里の膂力によってでさえ、用意に一まとめにされた。
一本の紐となったのだ。
その紐が美貴を締め付けているのだ。

いくつかの事象が重なって、美貴に不利な状況を作り出した。
その状況に辛うじて踏みとどまった美貴の精神は賞賛されるべきものであった、が、しかし勿論亀井絵里はそうはしなかった。

「藤本さん、あなたは確かに強い」

言葉とは裏腹の自信を顔に漲らせながら、滔々と話出す。

「確かにあなたは強い。 絵里なんかの何倍も強い。 もしかしたら何十倍も、でも…」

その強さがあなたにとっての命取りだと絵里は言った。

「強いあなたはこんなことをされたことがないでしょう。 こんな風にパンツを食い込まされる痛さを、恥ずかしさをあなたは経験したことが無い」

亀井絵里史上、いまだかつて無いほど力強い言葉が彼女の口から紡ぎだされる。

「能力抜きの身体能力だけの肉弾戦なら、あなたは最強かもしれない。 だけどその最強ゆえにあなたは敗れる」

亀井絵里の声は自信に満ちていた。  そして、要求する。

「だから、さあ。  これ以上パンツを食い込まされたくなかったら早く面接担当の人を呼んで。  私、真剣なんだか・・あ、ああっ」

亀井絵里は困惑していた。
勝利を掴んだはずなのに、目的を達成する寸前まで来たはずなのに、波が来たのだ。
藤本美貴が掴んでいるパンツが今まで以上に、強く強く食い込んできたのだ。

「ガハハハ、何ですかぁ。  いっぱしのヒーローぶりやがって。 ああ、そうさ。 アタシはこんなことをされたことはない。  いまだかつてこのアタシにパンツを食い込ませた奴はいない」

だから、今自分は経験したことの無い痛みを味わっていることを美貴は認めた。

「だ、だったら早く降参して、面接の担当者を…」

待て待てと美貴は言った。

「焦るんじゃねーよ。 確かに今アタシが味わっているのは初めて経験する痛みかもしれない。 だから戸惑ったさ。 だけどな…」

美貴は語気を強めた。

「本当に強いってえのは、本当の本当に強いってえのは。 相性だとか経験だとか得手不得手だとかそんな細かいもんを吹っ飛ばすぐらい強いんだ、こんな風に」

美貴は伸び上がった。
伸び上がることで、パンツの食い込みを軽減させたのだ。 そして出来た一瞬の間隙を突いた。

「ほれ、どうだ」

最大限の膂力を振り絞って、絵里の体を吊り上げた。 勿論パンツを掴んだままだ。

当然ながら絵里のパンツの食い込みはきつくなり、再び美貴に勝利の風が吹いたかに見えた。   しかし…。

「し、しまった」

美貴自身が伸び上がることによって得た高さのアドバンテージ。 
その虎の子を美貴自身が放棄してしまったのだ。
自らの手で亀井絵里を吊り上げることによって。

「負けないんだから!」

再び巡って来た勝機を逃すまいと、絵里が美貴のパンツを食い込ませる。

「まだまだ!」

己のプライドを賭けて美貴が盛り返す。
もしもこの二人の攻防を第三者が目にしたらこう言っただろう。

「ほう、土俵際の吊り出し勝負。  力が入りますなあ」

しかし二人が勝負を繰り広げているのは、丸い土俵ではない。 
ダークネスカフェの店内なのだ。
永遠に続くかと思われた一進一退の攻防は、しかし打ち破られる時が来た。
ダークネスカフェの入り口を潜るものが現われたのだ。

「私の名はダークネス。 闇の王と呼ばれ…」

美貴と絵里。 お互いのパンツをつかみ合っている姿を見た闇の王は、頭巾越しに一瞬光らせた目をすぐに逸らした。
重苦しい空気が流れる。

「えっと、誰もいないんだったら帰ろっかな」

すぐ傍にいる美貴と絵里をいなかったかのように振舞うと、踵を返し出口に向かう。

「おいっ!」
「待って!」

藤本美貴と亀井絵里。
反目していた筈の二人が声を揃えて、ダークネスを呼び止めた。

「逃げるな。 この不毛な膠着状態を何とかしてくれ!」
「あなたが採用の責任者さんですよね。 お願いです、面接を!」

闇と光。
相容れない二つの存在の戦いは続く…



(中)


ダークネスカフェには女性従業員の更衣室を兼ねたスタッフルームがある。
殺風景な室内には小さなテーブルと安っぽい椅子が4、5脚。
壁際には並んでいる個人のロッカーの右端には、カフェから席を抜き今はスナックのママとして働く中澤の名前が睨みを利かせている。

「おい、闇の王。  テメエさっきは何でバックレようとしたんだ」

長方形のテーブルの短い辺に陣取るダークネスを藤本美貴は詰る。

「こ・怖かったんだ。  見目麗しい女性二人が取っ組み合ってるのを見たら怖くなったん・・・ヒィィィ」

KKKと見紛うような三角頭巾の頭が鳴った。
鳴らしたのは…もちろん美貴の掌だ。

「おいおい、大丈夫か闇の王。  世界を征服しようっていう奴があれしきのことでびびっててどうするんだ」

「ワシも闇の王と呼ばれた男。 少々のことでは動じぬが、女はしとやかなものだという幻想が壊れるのが怖かったのだ」

「女は美しく淑やかであれなんてふざけた幻想はアタシの右手でぶっ壊してやる!」

美貴の髪がいつのまにかツンと立っている。

「「とある魔術」をパクるのはやめれ」

どちらが格上か、第三者が見れば判らない会話が繰り広げられる中、おずおずと話しかける者が居た。

「あのう、そろそろ私の面接を始めていただけないかと…」

ダークネスの座る席の真向かいに亀井絵里が腰掛けていた。  机の上には履歴書が入った茶封筒が載っている。

「あぁん! お前まだいたのか」

とっとと失せろよとばかりに、藤本美貴は語気を荒げる。
位置的にはダークネスと亀井絵里の席の間に陣取る美貴の椅子には部屋中のクッションが集められていた。
パンツの食い込ませ合いをしていた美貴と絵里の間に割って入ったダークネスは、場を換えて話し合うことを提案した。
そしてスタッフルームを開放した際に、美貴が全てのクッションを独り占めしたのだ。
流石に見かねたダークネスが、絵里に一枚提供するように促してもどこ吹く風と聞き流した美貴だったが、多すぎるクッションのせいで却って座りにくそうだ。
しかし一枚たりとも渡そうとはしない。
亀井絵里は絵里で、つい先ほどまでパンツを食い込まされていた尻が痛むのか、履いていたパンストが伝線してしまったのが気になるのか時折腰を浮かしている。
ダークネスも場の雰囲気に馴染めないのか居心地が悪そうだ。

「っていうか、何でお前ここにいるわけ? このスタッフルーム男子禁制なんだけど」

「えぇっ」

お前が何とかしろというから場を設けてやったのに、何て言い草だなんてことは言えない、口が裂けても言えない。

「まあいい。  一応お前がここの最高責任者だ。 その口からびしっとこのアホに言ってや…」

あのお、という声が美貴の話を遮った。
たちまちのうちに眉間に皺が寄り、眼球の白目の部分が多くなる。
真っ当な道を歩む人間ならそんな形相の女とかかわり合いになりたいとは決して思わないだろう。
暴力を生業とする人間なら、尚のこと絶対避けて通るだろう。
そんな美貴の凶相を恐れず、亀井絵里は語る。

「私、アホじゃありません。 亀井絵里です。 今日は御社の採用広告を見て応募させていただきました」

怒声で絵里の話を遮ってやろうと一旦は思った美貴だったが、敢えて最後まで言わせることにした。
アホには少々の脅しは利かないからな。  取りあえず言い分は聞いてやって、びしっと言ってやる。
いや、言わせてやる。

「おい、お前」

美貴が誰を呼んでいるか判らず戸惑っているダークネスの頭が再び叩かれた。

「ヒィィィ」

「お前、アタシが呼んでるんだからさっさと返事しろや、闇の王」

もはや王の権威など何処にも存在しない。

「経営者であるお前の口から言ってやれ。 当店は悪の組織のアジトで御座います。  のんきにバイトを募集するはずなんかありませんってな」

「いや、したよ」

ダークネスの口調があまりにもあっさりし過ぎていたので、その言葉は美貴の心をすり抜けてしまった。

「ほらな。 最初っから言ってただろう。 うちじゃバイトの募集なんかしてま・」

したのか?と闇の王に確認する美貴の様子を見て、喜びのあまり絵里が思わず手を叩いた。
小さく湿った音を立てた絵里の方をうるさいとばかりににらみつけると、自分の雇い主の足を蹴った。

「ヒィィ」

「おいおい、闇の王。 しっかりしてくれよ」

フザケてる。 たるんでる。
藤本美貴は憤慨していた。
仮にも悪の組織の前線基地である。  そこで働く人間を募集するなんてことがあってたまるか。
これには何か裏があるに違いない。  そうだ、きっとそうだ。

「それはアレだろ。 募集をかけたっていってもマトモなところでやったんじゃあないだろ」

闇サイトとか裏サイトとかいうやつ。
マトモな人間は絶対寄りつかないような胡散臭いサイト。
行方不明になっても誰も捜さないような奴を組織に引き込むのが目的だろうと確認する美貴にダークネスはあっさりと答えた。

「いや、区の発行している広報誌に載っけてもらったけど」

何を慌てていると言わんばかりに余裕綽々のダークネスを見て、苛立ちのあまり拳を握りしめる。

「テメエ、一体どういう了見なんだ! 世界征服を企む悪の組織が、区の広報誌にバイト募集の広告を出すか!」

善良な人間を集めて、洗脳するとか、実験台にするとか。
そんな悪巧みが募集の裏にあるなんてことは、期待できないだろうが。
半ば諦めながら、闇の王の答えを待つ。

「ああそれはな、誌面が空いていたから、担当の方のご厚意で無料で掲載していただいた」

あまりのことに言葉を失ってしまった美貴をよそに、闇の王はテーブル越しに絵里と話し始めた。

「いやあ、実は心配してたんだ。 ダークネスカフェなんて店名だから、若い女の子は誰も応募してくれないんじゃないかと思ってね」

闇の王の打ち明け話を絵里はにこにこ笑いながら聞いていた。

「それが昨日あなたから電話があったじゃない。 いやっもう電話で少し話しただけでいい子が応募してきてくれたなと思って」

何か手頃な得物はないか。 美貴は部屋の中を物色していた。
あのアホダークネスを素手で殴ってたら、手がもたねえ。  それに微妙にオネエキャラにシフトチェンジしやがって。
何この警戒心を減らそうとするスケベ根性。  脂ぎったオッサンの欲望が却って丸見えなんですけど。

椅子で殴るのはマズいな。
オッサンの頭が凹もうと、変形しようとアタシの知ったことじゃないが、血が流れるのは面倒だ。
後始末はオッサンにやらせるとして、オッサンが血を流した場所で着替えたり昼飯を食うってのは願い下げだ。
室内の什器を目で追いながら、ああでもない、こうでもないと考えあぐねる。
一方のダークネスはというと、オネエ言葉を交えながら、和やかな空気の中で、亀井絵里と会話を交わしていた。

けっ、気に食わねえ。
座りにくい椅子の上で座り直した美貴は、何枚も重ねたクッションの存在に気付く。
おっ、いいもんがあったじゃん。  こいつを二三枚オッサンの頭に被せて拳で殴って殴りまくる。
力を加減すれば拳を痛めることもあるまい。  アタシのお気に入りのクッションは除けといて、マルシェのも除けててやろう。
美勇伝の奴らのを使って…殺るか。

数枚のクッションを手に立ち上がろうとした美貴の耳にダークネスの残念そうな声が響いた。

「ここで亀井さんに残念なお知らせがあります」

闇の王の言葉に絵里の顔がたちまち曇る。
一方の美貴はというと、闇の王への認識を少し改めていた。

そうだよな、オッサン。  お前は何だかんだ言ったって闇の王だ。
やるときはやる。  言うべきことはちゃんと言う。
そういう奴だと思ってたよ。  さあ言ってやれ。
敵であるリゾナンターの一員を雇うわけにはいかないって言ってやれ。 そしてこのアホをさっさと追い出すんだ。

藤本美貴は闇の王が、この茶番劇の終幕を告げる瞬間を今か今かと心待ちにしていた。

「亀井さんねえ、お電話で知らせた面接の日時、明日よ、明日」

うぇ?と息を呑む絵里。

アホだ、こいつ掛け値なしのアホだ。

「…でも大丈夫。  今から面接やっちゃおうか。  丁度いいことに店を任せている藤本もこの場にいることだし」

オイッ!という美貴の言葉を無視して、話を続ける闇の王。

「あっ、面接といっても緊張しないでね。  あくまでも形だけのものだか…」

闇の王の頭が鈍い音を上げた。
藤本美貴が手にしていたクッションを、全力で投げつけたのだ。

「オイ、黙って聞いてれば、何だその言い草は。  いかにも物分りの良いおじ様を装いやがって。  それに何、形だけの面接って」

認めねえ、面接の日時を間違えるような非常識な奴は、とっととおっ放り出して社会の厳しさってやつを思い知らせてやれと喚く美貴にダークネスは向き直った。

「お前こそいい加減にしろよ。 さっきから人の頭をポカスカ殴りやがって。  お前が仕事がキツイキツイと愚痴をこぼすから、アルバイトを募集してやったんじゃないか」

ダークネスの至極真っ当な反論に、美貴は思わず言葉を失ってしまう。

「それが折角応募して来てくれた人がいたら、今度は面接させさせずに追い返そうって、お前何様?」

「いや、アタシは仕事がキツイから、マルシェももっと店に出てくるようにって…」

「マルシェは今大事な研究が大詰めです」  闇の王が厳かに告げる。

「物を壊すとか、人を痛めつけるとか、そんな荒っぽいことしか出来ないあなたとは違って、マルシェには優秀な頭脳がある」

その頭脳を最大活用することが組織にとっても有益だ、という闇の王の正論に対して、美貴も反撃を試みようとした。
試みようとはしたのだが、闇の王の漆黒の三角頭巾から覗く目を見ていたら、意欲が無くなってしまう。

無駄だ。 こいつは腑抜けだ。
こんな奴に何を言ったところで、時間の無駄だ。
しかし、…こいつをこんな腑抜けにしたのは、アタシのせいでもある。
美貴は自らのこれまでを省みる。

いくらこのオッサンがボンクラのアホンダラといっても、組織の長であることには変わりない。
その長をそん時そん時の感情に任せて殴りまくってきたことで、こいつは余計腑抜けになっちまった。
今、アタシが苦しまされているのも、何パーセントかはアタシ自身のせいだ。

束の間の自己批判を済ませた美貴は、怒りの矛先を闇の王から亀井絵里に向けた。

だいたい、お前がバイトの面接なんかに来なければこんな遅くまで足止めを食うことも無かったのにな。
お前、世界を覆う闇を打ち払う正義の味方なんだから、バイトなんかすんなよ。
その思いをそのまま亀井絵里に問い質す。

「っていうか、お前なんでバイトなんかしてみようと思ったわけ?」

美貴の言葉に一瞬虚を突かれた様子の絵里だったが、すぐに嬉々として答え始めた。

「御社に応募したのは、御社の業務内容が…」

「その面接口調はやめろ」

冷たく絵里に告げると、追い討ちをかける。

「いや、そもそもダークネスカフェっていう名前を見た時点で気付けとは言わない」

気付けとは言わないが、少しぐらい怪しいとは思わなかったのか、と問い詰める。

「それはですね、私も募集の記事をはじめて見たときは、アレ?と思ったんですよね。 でも、ダークネスって商標登録とかしてないんですよね?」

「ああ、しとらん」  闇の王が答えた。

「組織を興した時に、もしも「ダークネス」という名前を商標登録しておったら、多額の使用料がワシの懐に転がり込んで、今頃ウハウハだったろうな」

うんうん、と絵里は頷く。

「しかし、ワシはせんかった。 そのことで後悔しておらんよ。  ワシが独占しなかったことで世界中に「ダークネス」という言葉が広まった。 それでワシは満足…ヒィィ」

「何、その後一歩で巨万の富を逃した先駆者が若き日を回想するみたいなセリフ。 出来ねえよ、商標登録なんて出来ねえよ。  テメエが生まれる何百年も前からダークネスという言葉はあったさ!」

だから、と絵里が喋り出す。

無視かよ、私のツッコミ、ガン無視かよ。

「…私も単なる偶然だと思って、電話をかけてみたらとっても優しそうな男の人の声だったんで」

ヒィ、という声が響いたのは、鼻の下を伸ばすに違いない闇の王に対して、美貴が先手を打った結果だ。

「あ、やっぱりお店の名前がダークネスだというのは偶然だったんだと思って、今日やって来たら藤本さんがいるじゃないですか」

美貴はバイトの面接にやって来たと言って、店内に入ってきた絵里の驚いた表情を思い出していた。

「あ、やっぱここはダークネスと関係あるんだあと思ったんですけど、まっ、いいかと思って」

間違ってるぞ、、亀井絵里。 正義の味方としてお前のその認識は大いに間違ってるぞ。
悪の組織の幹部を目撃した時点で、仲間に連絡するなり何らかの手だてを講じるのが、正義のヒーローのあるべき姿ってもんだろうが。
それを何?  あれっ、このダークネスカフェって店には、氷の魔女がいるぞ。まっ、いいか。 とりあえず面接、面接って、そんなヒーローいねえよ。

「でもまあ、藤本さんならまんざら知らない顔ってわけでもないですしねっ」

これからよろしくお願いしますと邪心の無い笑顔を向ける。

「あっ、勿論面接に受かって採用されてからのはなしですけど」

あどけない笑顔の下には、面接を受けるまでは梃子でも動かないっていう強い意志ってやつが見え隠れしてやがる。

「よし、わかった」

藤本の意外な言葉に絵里の顔が思わず緩んだ。

「おいっ、何か勘違いしてるみたいだから言っておく。 アタシはお前がダークネスカフェで働くことを認めたわけじゃない」

絵里の表情が引き締まる。

「とりあえずお前の熱意だけは認めてやろう。 しかし、この店で働きたいなら、ちゃんとした面接試験を受けて貰おう。全てはそれから。…オイ」

「な、何でしょうか」

直立した闇の王が魔女の託宣が下されるのを待っている。

「オマエの言った通り、これからこのスットコドッコイの面接をやるぞ。 採用の絶件は試験官全員の意見が一致することだ」

闇の王が怪訝そうに尋ねる。

「試験官全員って」

今ここにいるのは亀井絵里を除けば、ワシと…。

「そうこのアタシ、氷の魔女ミティ様と、オマエ、闇の王(自称)ダークネスの二人でこいつを面接する」

「自称ちゃうわ。 いや、しかしそんなことを言ってもさっきからのやり取りを見ている限り、オマエ絶対に採用を認めないだ…ぐえっ」

闇の王が胃液を吐いたのは、「ヒィッ」ばかりではいい加減呆れられるだろうという美貴なりの気配りだった。

「テメェ、何をどさくさ紛れにアタシのことをお前呼ばわりしてるんだ」

いやっ、悪の組織の首領が部下をお前って呼んだって何も悪くないだろうという思いを口に出せないのは、魔女に殴られた腹が痛むからだ。
決して、恐ろしいからではない。

「ああっ、確かにアタシは認めるつもりはねえ」

そんな、と悲痛な声を上げた絵里を睨みつける美貴。

「そんなアタシを頷かせるぐらい、お前の思いをぶつけてみろ。 それぐらいの強い思いじゃなければとっても認められねえ。
何てったって、お前は正義のヒーローの一員でアタシたちは世界制服を企む悪の組織。 絶対に越えられない、越えちゃいけない壁ってもんがある」

「私、絶対あきらめません」

闇と光。
相容れない二つの存在の戦いは続く。













最終更新:2011年06月23日 02:31