『妄想コワルスキー・Full throttle』(後)-3~4



                              ←back   next→




次に目が覚めた時、わたしはボン。キュッ。ボン!なハートの持ち主に生まれ変わる。
切なる誓いを心に刻み込むために、枕がわりのクッションを三度叩いた。

ボン。
キュッ。
ボン?

アレ、何なんだろ?
今手に何か当たったけど何なんだろう一体?
クッションの中に何か入っている?
そんなに堅くもないし、分厚いもんでもない。
寝かされてたときは気づかなかったけど、こうして叩いてみると何か入っているのが判る、よく判るよ。
なんだろう、これ。
クッションのカバー越しなんかじゃなく直に触れてみたい。この目で見てみたい、正体を確かめてみたい気がする。
何だか判らないけど、わたしにとってとても大切な何かじゃないかな。
クッションのカバーはファスナーになっている。
多分ここから入れたんだろう。
ファスナーに手をかけて考える。

このクッションに何が入っているにせよ、それを入れたのはリゾナントで暮らしている愛かれいなの可能性が強い。
だとしたらわたしが勝手に中を見ちゃうのはちょっとマズい。
いや別に勝手に中を改めることは全然平気というか、何の罪悪感も感じない。
ぜひとも見たいんだけど、勝手に見ているところを誰かに見られるのが、マズい。

れいなは?
ブランケットを少しだけ持ち上げて、様子を窺う。
さっさと部屋に帰って着替えればいいものを、また椅子に座って携帯をイジりだしやがった。

ちっ。 れいなはれいななりにわたしのことを気遣っているんだろう。
愛ちゃんが戻ってくるまで、ガキさんを一人っきりにはさせんと、みたいな。

ちっ。 まあその気持ちはありがたいといえばありがたいという認識があるにはある。
だけど世の中にはありがた迷惑ということがあるのも事実。
例えば街角で見知らぬ女がわたしのことを呼び止めたとしよう。
汚れ無き瞳をしたその女があなたが幸せになりますようになんて言いながら、祈りだしたリ、手をかざされるのは迷惑だ。
それが女の善意から生まれた行為だったとしてもだ。
なまじ善意なんてものが介在してくると問題を処理するのが面倒くさくなってしまう。

今こうしている間もれいなは毛布にくるまっているわたしの方を時折見ているのだろう。
視線を感じる。
ガキさん、よう眠っとるねぇと善人気分に浸っているに違いない。

ちっ。 今のわたしにはそんな気遣いなんて要らない、まったくのノーサンキューだ。
今わたしが欲するのは、クッションから感じられるとてつもないエナジーだ。
れいなという邪魔者はいるが今のわたしは独りじゃない。…そうわたしには毛布という心強い存在がいる。
れいなの視線を遮ってクッションの中を暴いてやる。

寝返りを装って、身体を横向きにする。
上にした左肘を少し高く上げることによって、ブランケットの内部に空間を作る。
これで右手で作業をしても、れいなには気付かれまい。

さてと何が隠されているのか。
クッションのカバー越しに伝わってくる大きさや感触は、あるものを連想させる。
それはわたしの胸の鼓動を高鳴らせるが、敢えて口にはすまい、具体的な名称は思い浮かべまい。
大切なものを明らかにすると、消えてしまいそうで怖かったからだ。

クッションのカバーのファスナーをゆっくりと開く。
金属の触れ合うごく僅かな音が私の耳に届く。
毛布で覆われていて、れいなには聞こえるはずもないのにドキッとしてしまう。

がんばれ、わたしの勇気。

手首が入るぐらいの隙間をこじ開ける。
あと少し、ほんの僅かでわたしは…。
胸の高鳴るままに腕を突っ込んだ。

「おわぁっ」

「ガキさんどうした」

しまった。
細心の注意を払っていたはずなのに、声を出してしまったではないか。
落ち着け、わたし。

「もしかして具合でも悪か?」

れいなが近づいてくる。
ヤバい、この調子では毛布を剥がし、わたしの様子を直に確認しない限り、納得してくれないだろう。
そんなこと望んでないのに

やめて。れいな。
わたしとあんたはやっぱり犬猿の仲、不倶戴天の敵同士という関係がよく馴染む。
どうでもいいけど不倶戴天の敵っていうと、もの凄く物々しく響くけど、フグ炊いてんの的ってなるとちょっとだけフレンドリーに感じられるから不思議だ。
一緒にてっちり食べてるみたいな。
とにかくだ、れいなお願いだからあたしのことなんか気にかけず、さっさとどっかへ行っちまってくれ。

「なあ、ガキさん。 愛ちゃんからも聞いてるよ。今日はなんか様子がおかしかったって」

れいなの手が毛布にかかる。

ヤバい、最終防衛戦が突破されてしまう。
寝てる状態のわたしがどんなに毛布を強く掴んだって、立ってる状態のれいなが引っ剥がそうとするチカラには適うまい。
このままむざむざと思い通りになってたまるか。

…こうなったらアレをやるしかない。
ダークネスのスパイ教習課程で学んだアレをやるしかない。
アレは本当にやりたくなかった。
アレをやってしまうと、後々のダメージがヒドすぎる。
もしもアレをすればリゾナンターの仲間たちと、今後一緒に行動することが出来ないかもしれない。
それぐらい最高レベルにヤバい技だ。

だがやるしかない。
マジ気合いを入れてやるしかない。
何かを手に入れようとすれば何かを失う。
人生において目的を達成するにはそれなりの覚悟を示さなくてはならないということだろう。

わたしはわたしのチカラを発動した。
マインドコントロール。
目には見えぬ精神の触手を対象者の精神に進入させ思いのままに操る能力の対象となるのは、れいなではない。
そうわたしだ。

わたしは自分の脳内の痛覚をつかさどる領域にアクセスすると、呼吸器系の器官の痛覚をカットした。
マインドコントロールとは他者の精神を自由に操るだけのチカラではない。
指向性のある微弱な電磁波を発信して、対象の脳内の電流を変化させ、誤認識や誤作動を起こさせるチカラだ。
脳が指令する身体内の反応ならば、生命が維持できる範囲内で制御可能だ。
マインドコントロールというチカラによって、わたしはわたしという兵士を支配する王となるのだ。

王であるわたしは兵士であるわたしに命令した。
一気に息を吸い込むのだ。
大量の空気をれいなに気取られぬよう静かに、一呼吸のうちに吸い込むのだ。

兵士であるわたしは王であるわたしの命に従った。
通常なら3000cc未満の肺活量のわたしが、限界の倍以上8000ccの空気を肺に送り込んだ。
そうして蓄えた空気を圧縮すると一気に食道に送り込んだ。
それほど大量の空気を一気に移動させれば、肺や気管は悲鳴を上げるだろう。
気管の毛細血管に損傷が生じるかもしれない。
だが、やるのだ。
王の支配は絶対だ。

再びマインドコントロールを発動させて食道の活動を一時停止させる。
空気の搬送路と化した食道を通過した圧縮空気はわたしの下半身に到達すると、解放を求めてある一点に向かった。
そして王は命令する。
放てっ、筒!!

バァリリリィィーーーーーッ!!

わたしの生体波動砲から発射された圧縮空気はブランケットを3センチばかり浮かし、れいなを直撃した。
するとれいなの動きが止まった。

「ガ、ガキさ…」

プースゥゥゥゥーーーッ!!

追い打ちとも呼べる第二波はれいなの思考を完全に停止した。そして…。

「何か店の中が暑うなったかな。 ええっと換気扇回そうかな」

居たたまれなくなったような様子で、その場を取り繕うと何もなかったことにしてわたしから離れていった。

そうこれこそがわたしがダークネスのスパイ教習課程で学んだ最終奥義、「砲屁」である。

「砲屁」という名で誤解されがちだが「砲屁」は決して屁ではない。
わたしが自らの能力で体内各器官のリミッターを解除して大量の空気を取り込み射出しているだけである。

「砲屁」という名がそう思わせるのかもしれないが、「砲屁」には殺傷能力はない。
ただの空気である。
そんなものが何故スパイの最終奥義と呼ばれるのか。
それは砲屁がスパイという存在に対する世間の一般認識を逆手に取った高等な心理学の考察から生まれたからだ。

そもそも世間一般の人間はスパイや諜報部員という職業にどんなイメージを抱いているのだろうか。
ソリッド・スネーク。 ジェームズボンド。 ゾルゲ。 マタ・ハリ。
一騎当千のタフガイ、華麗なる女たらし。 一国の運命を動かした動かした諜報部員に艶やかな悪女。
想像上の人物に実在した人物。
実に様々なスパイの貌を私たちは思い浮かべることが出来る。

ところでどうでもよいことだけどマタ・ハリという名前を聞いたときは顔を赤らめてしまった。
股が張るなんて何て破廉恥な、と勘違いしたのも今ではいい思い出だ。
とにもかくにも今大切なのはスパイのことだ。 今何よりも重要なのは世間一般の人達が諜報部員についてどんなイメージを抱いているかということだ。

スパイといえば潜入。
敵地に潜行し誰にも気付かれないように重要な情報を入手する。
あるいは敵の秘密兵器を破壊する。
それこそがスパイの本懐ではないだろうか。
異議は認めない。

ジェームズ・ボンドはあんなに目立っているじゃねえかと言う方もおられるかもしれない。
異議は認めない。
誰が何と言おうと敵の目を逃れて工作する。
これすなわちスパイ冥利に尽きるのではないだろうか。

ところでどうでもいいことだけど
わたしさっきから誰と話してるんだろう?
交信!?
まさかわたし交信してるの?
飯田さん?
飯田さんしてるの、わたし?

まあいい。
とにかくだ、スパイとは孤独なのだ。
スパイとはクールなのだ。
スパイとは他人の目を盗み、息を潜めて目的を達成するストイックな存在なのだ。
だからスパイは…放屁しない。
ジェームズ・ボンドが放屁してるところを想像できるだろうか。
放屁したことに気付かれて、潜入モードから逃走モードに移行するメタルギアソリッドなんてプレイしたいだろうか。
男とベッドを共にしたその場でしでかしてしまったすかしっ屁を誤魔化そうと、”何か臭いませんこと”と言うマタ・ハリなんて有り得るだろうか。

否。
断じてない。
スパイは放屁しない。
いや、あるいは過去には放屁するスパイが存在したかもしれないし、今も世界のどこかで屁を放るスパイというものが存在するのやもしれない。
少なくとも世間一般の人達の認識はそうじゃない。
スパイは放屁しないというのが世間の人達の認識であり定説だ。
ということはだ、もしも正体がバレかかっているスパイがいたとしよう。
疑いの目で見られ身に危険が及ぼうとしているそのスパイが放屁すれば、どういうことになるだろう。

疑惑の視線から逃れられるのではないだろうか。 正体が露見することを防げるのではないだろうか。
スパイは放屁しない。
そんな世間の認識がスパイを救うのだ。

放屁する人間はスパイではない。
誤った世間の先入観がスパイを死地から逃れさせるのだ。


そしてどうせ放屁するなら周囲の人を驚かせるぐらい豪快な屁を放る方がいい。
放った屁の音が大きければ大きいほど、その間抜けさがスパイの正体を隠す擬態となる。
かくしてスパイの最終奥義「砲屁」は生まれたのだ。

田中れいながわたしが頭からかぶっていた毛布を剥がそうとしたのは、わたしの様子に疑惑を抱いたからではないだろう。
不自然な声を出してしまったわたしの健康状態を純粋に心配してくれたのだろう。
しかし毛布の中でわたしがクッションの中に手を突っ込んでいるのを見れば、わたしに対する好意は疑惑に変わり、その場で糾弾されるだろう。
それだけは避けたかった。 それだけは耐えられそうになかった。
だからわたしはスパイの最終奥義「砲屁」を発動したのだ。

その甲斐あってか不自然な声は放屁を抑えるためだとれいなに思わせることが出来たようだ。
その証拠にれいなは何もなかったかのようにわたしを解放した。
あるいはわたしとれいなが亀井絵里と道重さゆみのように打ち解けた関係だったら、屁を話題にして会話も弾んだのかもしれない。
だがそうではなかった。

わたしとれいなは不仲でもないし、疎遠でもないが、かといって親密でもなかった。
通り一遍のつきあいというかうわべだけの関係というか、ビジネスパートナーとまで言うと、言い過ぎかもしれないがとりあえずは当たり障りの無い関係だ。
その程度の結びつきだったことがこの度は幸いしたのだ。

それにしてもというべきか、やはりというべきか。

わたしは自分の手が握り締めているものを改めて見直した。
頭から被っている毛布をわずかばかり開けることで少しだけ光源を取り込んでいる。
一般のものよりも一回り大き目の茶封筒、宛名は喫茶リゾナントの高橋愛。
差出人は中澤裕子。
そう、わたしが手にしているのは中澤からの招待状。
人類の宝「凡奇湯」へのパスポートだった。
あれほど焦がれていたものが今わたしの手中にあるというのにわたしの気持ちは弾まなかった。
なぜならば、この招待状がこんなところに隠してあったということは、わたしの情人、高橋愛がわたしを裏切ったということを意味しているからだった。


もしも高橋愛に邪心が無いならば、中澤からの招待状をこんな所に隠しておく必要はない。
しかるべく所へ保管しておいて、リゾナンターの顔が揃った時に、告知すればいいのだ。
昨年そうやったように。
しかし愛はそうしなかった。
リゾナントのレジでも私室でも、地下のトレーニングルームでもない。
れいなですら目が届かないであろうクッションの中に隠していたのだ。
これは…愛に欲心が芽生えたとしか思えなかった。
そしてその事実は理沙を打ちのめした。
自分が愛を騙すことはあっても、愛が自分に隠し事をする時が来るとは思ってもいなかったからだ。

成長したね、愛ちゃん。
騙されやすい、人の良い人だとばかり思ってたけど、もうちょっとで一杯食わされるところだったよ。
…でも運命はわたしを「凡奇湯」へ導いた。
いや運命が「凡奇湯」をわたしへ引き寄せたんだ。
こうなったらもう迷わない、ためらわない。
わたしは行く。 「凡奇湯」へ。
わたしは手に入れる。 究極の肉体を。
だがその前には難関が待ち構えている。
高橋愛の忠実な騎士、田中れいながわたしの前に立ち塞がっている。

だが、わたしは負けはしない。
なぜならわたしは誇り高き戦士。
弱音など吐きはしない。っていうかようやく「凡奇湯」への道が開けたっていうのにへばってられるかっつーの。

決然たる気持ちを支えに立ち上がろうとした里沙だったが、長時間不自然な体勢で屋外にいた疲労が彼女の肉体を蝕んでいた。
そして空腹。 さらにスパイ最終奥義「砲屁」を発動したダメージ。

駄目だ。 折角あと少しで「凡奇湯」に行けるというのに、力が…。
こんな時は、こんな時は…助けて、安倍さん。




窮地に追い込まれた里沙は崇拝の対象安倍なつみの名前を呟いた。
そして、おのれのパンツに差し込んでいた安倍なつみ写真集『夏・美』を取り出す。

ここまで読まれていや、待てよと仰られる方がおられるかもしれない。
新垣里沙は安倍なつみの信奉者にして、安倍なつみの写真集は聖典。
そんな大切なものをおのれのパンツの中に差し込むことなど考えられないと仰られる方がおられるかもしれない。

確かにその意見に一理あることは否めない。
しかし新垣里沙にとって安倍なつみ写真集は、神棚に大事に安置しておくものではない。
生きていく指針であり、人生の羅針盤であり、心のオアシスである。
肌身離さず携帯して、必要な時は紐解く。
そういうものだ。

では意識を失った里沙をリゾナントのソファに寝かしつけた高橋愛は、どうして相当のボリュームのある写真集の存在を見逃してしまったのかという疑問は残るかもしれない。
あるいは里沙のパンツの中の安倍なつみ写真集の存在を知りながら、敢えて里沙から取り上げずに置いたのか?
愛は気づかなかった。
里沙のパンツの中の『夏・美』に気づかなかった。

馬鹿を言えと仰られるだろう。
私があなた方の立場なら絶対にそう思う。

高橋愛はリゾナンターのリーダーだ。
世界を闇で覆い尽くすダークネスの野望を打ち砕くべくリゾナンターを率いてきたのだ。
それほどの存在が新垣里沙のパンツの中に分厚い写真集が入っていることに気づかないなんてことがある筈がない、と。

しかし、よく考えてほしい。
安倍なつみ写真集『夏・美』は里沙のパンツの中に収まりきるような代物ではない。
里沙が携帯する場合には、下端をパンツに差込み本体部はインナーの中に収める。
ずっとそうしてきたのだ。


ふざけるな、いい加減にしろという向きもいるかもしれない。
写真集なんか肌着の下に突っ込んでしまったら、ガキさんが冷たくて仕方ないだろうと。
確かに、ただの写真集なら冷たいだろう、不快だろう。
しかし里沙がおのれのパンツに突っ込んでいるのは安部なつみの写真集なのだ。

―安倍さんの肌ってひんやりしてるんですね。

人間の脳とはかくも愚かなものなのだ。

お前スレの無駄遣いしてるんじゃねえ。
写真集みたいなゴッツい本をインナーの中に仕込めば、ガキさんの肌が傷ついてしまうだろうと考えておられる方、いますか?
私があなたの立場ならきっとそう思うでありましょう。
しかし里沙がインナーの中に仕込み、持ち歩くのは他ならぬ安倍なつみの写真集なのだ。

―安倍さんて見かけによらずハードなんですね。 私にとってこの傷は一生の思い出です。

人間の脳とはかくも偉大なものなのだ。 

論点がずれて来た。
今明らかにしておくべきなのは、リゾナンターのリーダー高橋愛が何故に新垣里沙が肌身につけていた『夏・美』を見落としてしまったかということだ。
問題の要諦はこうだ。

里沙は『夏・美』の下端を自分のパンツの中に入れて固定した上で、インナーで覆うようにして持ち歩いていた。
つまり里沙を介抱した高橋愛の目には『夏・美』の外観は目に入らなかったのだ。
しかし外観は目に入らなくとも、29.2 x 21.8センチメートルの大型本がインナーの中に入っていれば気づくのではないか。
しかし、高橋愛は気づかなかった。

実のところを里沙を寝かしつける為に、衣服をくつろげた際に身体の前面が完璧な平坦だったことを愛は視認している。
だがその状態がとりたてて異様なことだとは思わなかった。
もしもリンリンの肉体がそんな状態に陥っていたら、慌てふためきリンリンを産まれたままの姿にしてでも、事態の究明に努めただろう。
だか里沙の肉体の前面が真っ平らなことに気付いても、愛は特に動かなかった。

それは愛の二人に対する愛情の強さの違いを示しているわけではない。
二人の肉体についての認識が違っていたということだ。

何はともあれ里沙はおのれのパンツに収納していた安倍なつみ写真集『夏・美』を取り出した。
勿論毛布を頭からひっかぶった状態である。 そして表紙に頬すり寄せた。

―安倍さん、あなたは美しい
―世間が寝静まった深夜から世の中が動いている真っ昼間まで、2ちゃんねるの住民どもはあなたを誹謗することに暇が無い
―劣化したとか、改造したとか、人間の屑どもの天使のあなたに対する誹謗中傷など笑止千万
―あの者どもが何を言おうとあなたは美しい
―十年前のあなたも確かに美しかった
―今のあなたは今までのあなたの中で一番美しい。

今更見るまでもなく、脳細胞に鮮明に刻みつけられている肩を露わにした安倍なつみの上半身のカットを思い浮かべながら、崇拝の対象である安倍なつみに祈りを捧げる。

―そして、失礼ながらそのお歳でのあのセクシーショット
―水着の脇からはみ出した肉の豊満さ…ブハッ、たまんねえ。

安倍なつみへのリピドーが里沙の疲弊した精神に火をつけた。

―人は人の王となる。 
―精神という玉座に君臨することによって今、私は私の王となった。

里沙は「凡奇湯」へのパスポートをしおりのように『夏・美』に挟むと、毛布をはね飛ばし起きあがる。  

          ☆          ☆          ☆

田中れいなは幸せ気分を噛みしめていた。特に良いことがあったわけでもない。
仲間の一人と久しぶりに言葉を交わしただけ。 ただそれだけのことがれいなの心を温かくしていた。

―ちょっとドキドキしたけど、勇気を出してガキさんに話しかけて良かった

自分が居る世界を良い方向に変えるには、自分から動くしかない。 自分が少しずつ変わることによって、世界も少しずつ変わっていくことをれいなは実感していた。

―パパにメールしてみようか

自分の娘が他人とは異なるチカラを持っていることに不安を抱き、その気持ちが高じて虐待にまで走った父のことをれいなは許していた。
虐待がエスカレートする以前に父から投げかけられていた愛情のボールを拒んでいた自分を顧みるだけの心の余裕がうまれていた。

―それは人間が何度でも人生をやり直せるなら、一度くらいは他の誰かのことを憎み通す人生もありっちゃ
―でも人生は一度
―誰かを嫌ったり、憎んだりするだけの一生なんてまっぴらごめんだっちゃ

里沙が眠りについたら、一度自分の部屋に戻ろうとれいなは思った。
携帯のバッテリーも切れかかってるし、服も部屋着に着替えたかったからだ。

ミシッ。 木材の軋む音がした。

―ガキさん! まだ寝とらないけんのに

静かな店内に響いた音の主は、寝ていることに飽きた里沙だと思ったれいなは、年上のサブリーダーを窘めようと振り返った。

―何ね、その格好は

里沙の全身を見たれいなは思わず顔をしかめる。

れいなの思った通り、ソファから起き上がった里沙が裸足で床に立っていた。
里沙が立ち上がっていること自体には驚かなかったれいなだが、里沙の格好には少し驚かされた。
上半身はインナーシャツ一枚、下半身はパンツ一枚という露出の多い姿だ。
具合が悪くて寝かされていたのだから、そんな格好をしていてもおかしくはない。
しかしたとえ仲間しかいない場所であっても、何恥じらうことなく仁王立ちしている姿には違和感を覚えてしまう。
手には大きな本を持っている。 表紙に肩を露出した女性の姿があるということは、誰かの写真集なのだろうか。
そして、里沙の顔からは鼻血が垂れていた。
すでに固まって流れを止めてはいるが、正面から見るとどこか滑稽だ。

「ガキさん、その顔はなんね」

体のにどこか異変があったから、鼻血が出たのではないかと思ったれいなは里沙を気遣った。
しかし、当の里沙はというと気にかける素振りすら見せず、店の出入り口の方へ向かう。

「ちょっと、ガキさん。 そんな格好でどこへ行くん」

慌てて目の前に立ちふさがったれいなに忌々しげな視線を送った里沙は写真集を持った手を一閃させた。

「喰らえ、エンジェルインパクト!」

何のことは無い。
「天使」の写真集による横殴りである。
29.2 x 21.8 x 1.5センチメートルの紙の塊での一撃は虚しくも空を切った。
軌道を見切ったれいなが、ステップバックしてかわしたのだ。

「危ないっちゃ。 何すると、ガキさん!!」

顔が少し険しくなっているものの、まだ余裕が見られる。

天使の一撃を回避された里沙にも焦りは無かった。

―余裕だね田中っち、でも今のが本当のエンジェルインパクトだと思ったら大間違いなんだから
―わたしは今の一撃を繰り出すためにフルパワーを注ぎ込んだ、そのことは田中っちも見て取った
―したがって次の攻撃を回避する際には、今の一撃の残像が大きく影響するはず
―わたしはフルパワーで打ち込んだ、だけどそのスピードは最速じゃない、なぜなら
―なぜなら、私は安倍さんの写真集を腕の振りに対して敢えて立てた
―写真集の面(プレーン)で空気抵抗を受けたことで攻撃の速度は落ちた
―次の一撃は腕の進行方向に対して寝かせることで、空気抵抗を最小限に抑える
―最初の一撃の軌道、スピードの残像に捉われている田中っちには次の一撃は避けきれない
―最初の一撃がエンジェルインパクト・プレーンなら次の一撃はエンジェルインパクト・ライン(線)
―完璧だ

「喰らえ、エンジェルインパクト・ライン!!」

里沙は一瞬の刹那に手首を返し、安倍なつみ写真集『夏・美』の向きを換えた。
空振りの反動をも利用して繰り出した一撃で『夏・美』の角をれいなのこめかみに向かわせる。
もしもその一撃がれいなに炸裂していれば、命を奪うまでに至らないまでも戦闘不能状態に陥れていたであろう。
炸裂していれば…しかし里沙は誤った。

待ち伏せ、不意討ち、騙まし討ちにかけてはリゾナンターの中で里沙の右に出るものはいないだろう。
その特性を生かして回避運動が不可能な距離まで近づいて、攻撃するべきだった。
しかしエンジェルインパクトのスピードを換えるという戦法は高度な技術こそ必要だとはいえ、正攻法の中での駆け引きに過ぎなかった。
しかしエンジェルインパクトプレーンを間近に見たことで、れいなの格闘本能にもスイッチが入ってしまった。
その結果、最初の一撃を遥かに上回るスピードで繰り出されたエンジェルインパクトすら回避することができたのだ。
…ただし一撃目のように余裕を持ってスウェイ バックすることは叶わなかった。
その場に身を屈めて天使の一撃をが頭上を通過していくのをやり過ごすしかなかった。

―何たいこの速さ、まさかガキさんれいなんこと殺る気?

心が冷えた。
脅えたのではない、冷えたのだ。

これから自分は命のやり取りをする。
その覚悟がれいなの心に水面のような平坦な落ち着きをもたらしていた。
石のように強固な強さを生んでいた。
そして心は氷のように凍てついた。

外出して友人と会ってきた楽しい時間のなごり。
里沙と心を通じ合わせた喜びも消え去り、ひたすらに冷徹な視線を敵に刺す。

―ガキさんがその気なら、れいなも殺ってやるっちゃ

里沙は困惑していた。
乾坤必殺の一撃をれいなが避けたからだ。
残り少ない体力、疲弊しつくした智謀。
おのれの持てるもの全てを注ぎ込んだ一撃だったのだ。
これで倒せなければもう後は無いという覚悟が込められていたのだ。
それほどの一撃を…

―こいつ、かわしやがった

これがスポーツマンシップに則った試合だったならば、里沙はおのれの敗戦を潔く認めてコートを去っただろう。
剣豪同士の立会いだったなら、負けを認めておのれの首をれいなに差し出しただろう。
いや、勝者の手をわずらわせることを由とせず、自らの剣で自らの首を刎ねていただろう。
しかし、里沙は諦めなかった。
負けを認めないわけではない。 

―負けは負け、それは認めよう
―だが私は潔い敗者なんかにはなれない

里沙は戦士だった。 誇り高き戦士だった。
戦士の使命とは戦いの目的を達成することだ。
戦士にとっての誇りとは最後の最後まで目的に向かって邁進することだ。
潔く戦い、美しく敗れることよりも、卑怯に戦って手にした汚い勝利こそが里沙にとっての勲章だった。
そのためならばたとえ外道と呼ばれようと往生際が悪いと云われようと構わない。

―エンジェルインパクトラインを身を屈めることによってれいなは回避した
―それで安心して、その体勢を維持するか、否
―私が誇り高き戦士なら、れいなもまた戦士
―ならば今度は反撃のために体勢を立て直すだろう
―その時が最後のチャンスこ
―今度こそ、今度こそ…決める

一撃目を空振りさせられたことで、里沙の上半身は大きくバランスを崩し始めていた。
里沙は老獪にもその体重の変移すら次なる攻撃の予備動作として利用しようとした。


―地球は丸い、まん丸いま~るい地球が回ってる
―お日様が覗かない日があったって、それでも地球は回ってる
―そしていつか日はまた昇る、誰の心にも
―私は振り子、丸い軌道を描く振り子
―一度くらい避けられたってそんなことはどうでもいい
―何度でも同じ動きを繰り返す
―振り子の力は地球の鳴動―この回転で増幅した破壊力でれいなを潰す

「喰らえっ! アースローテーション」

里沙は賭けていた。
この回転に勝負を賭けていた。
勝負に賭けるあまり熱くなりすぎた、入れ込みすぎてしまった。

そう予想は的中していながら、マークシートの記入ミスで負けてしまった馬券オヤジのように。
帰りの電車賃に残しておいた千円札を券売機に突っ込んだって、そんな切羽詰まった馬券当たるわけない。

拾った命、巡ってきたチャンスと割り切って冷静な勝負師に徹すれば、違った展開が生まれたかもしれない。
意志を持たない振り子として回転運動を継続していれば良かったのかもしれない。
しかし新垣里沙は人間だ。 意志を持った人間だ。
人間は振り子にはなれない。
名前をつけて衣服を与えたところで、振り子が人にはなれないように。

冷静さを失い回転軸に歪みが生じてしまった里沙は、過剰な運動量を支えきれずに崩れ落ちていく。


―自分は冷静だ。

大きくバランスを崩し、今まさに転倒しようとしている里沙を見ながられいなは自分を分析する。
昨日までの、いやついさっきまでの自分ならこんな勝機を見逃すことはない。
相手が弱さを見せたら、そこにつけ込んで一気に勝負を決めていた。

まずは里沙の無防備な脚におのれの全体重を乗せて膝関節を破壊していただろう。
もし里沙が俯せの状態で防御に徹するならば、おのれの膝で里沙の背骨を砕いていた。
仰向けの状態で反撃の機会を窺っていたなら、膝を胸に突き刺し肺を潰していただろう。

そして動きを制しやすいニーオンベリーの状態を保持した上で頸部や頭部に致命的なダメージを与えていた。
それがどうだろう。 今の自分はすってんころりと転げようとしている里沙の無様な姿を冷静な観察者の目で見つめている。

自分が拳を繰り出さないのは、里沙に対する感傷からではない。
里沙に何らかの感情を持っていれば、その思いを載せて拳を繰り出している。

そしてもしも拳を繰り出せば、それは戦いだ。
仮に里沙の身体は滅んでも、里沙の名誉が傷つくことはない。
墓碑銘にはきっとこう記されるだろう。

『誇り高き戦士、新垣里沙ここに眠る
その魂は今も共鳴という絆て繋がれた仲間を見守っている』

だが今自分は拳を繰り出さず、里沙が高転びに転ぶのをただ眺めている。
このままでは里沙は自滅だ。
その墓碑銘にはこう記されるに違いない。

『ダークネスの元スパイ新垣里沙(自称Cカップ)何を血迷ったか勝手に暴れて勝手に転んで逝く
最期の最期まで仲間に迷惑をかけっぱなしの人生であった』

自分は冷酷だ。
昨日までの自分ならきっと熱い感情にまかせて闘争を繰り広げている。
拳と拳で会話を交わし自分を里沙にわからせ、里沙の真実を引きずり出している。
なのに今、自分は観察者に徹している。

―この冷たさをれいなにくれたんはガキさんやけん
―だからガキさんに返す

凍えるような視線を里沙に送ったれいなは遂に動き出す。
里沙を救うためでも、里沙と戦うためでもない。
里沙を否定するために、れいなは動く。


― 一体何が違っていたんだろう

前のめりに倒れつつある自分。
どんどん近づいてくる床面を見ながら里沙は戦いの一部始終を振り返る。
天使の加護を受けた攻撃はおろか、地球の力を借りた攻撃ですら、れいなの牙城を脅かすことすらできなかった。

―無様だ、銃弾に倒れ、炎で焼かれ、闇に包まれて最期を迎えるなら、まだ本望だったのに
―しかし私は転んで逝く
―自分で繰り出した攻撃の荷重を支えきれずすってんころりんと転けて逝ってしまう
―こんな惨めな最期を迎えるなんて
―これはスパイとして仲間を裏切った私への罰なの
―裏切りの罪は償ったと思ったけどどうやら違ったみたいだ
―償える罪なんて無いんだ
―それにしても田中っち、強くなったね
―会った頃は目つきが悪くて身体の折れそうなクソガキだったあんたがこれほどにデキるなんて
―今日まで愛ちゃんの背中を守るのはわたしの仕事だった
―使命のためなら、誰かを救うためなら自分のことがお留守になる愛ちゃんの背中を誰かが守らなきゃいけなかった
―もうわたしは守れない、今日からはそれはあんたの仕事だよ、田中っ痛っち

里沙の股間に激痛が走った。
気がつけば急速に里沙の眼前に迫っていた床面との距離が静止した状態だ。

―いったい何が起きたの

問いかけに対する答えは里沙の背後にあった。
れいなが右腕を伸ばして里沙のパンツを掴んでいる。
里沙のパンツを掴むことによって、里沙が転倒することを防いでいるのだ。

―田中っち、何をする
―わたしのことを助けるつもり?
―それだったらやめてちょうだい
―あんたに敗れただけでもわたしにとってはこの上ない屈辱なのに
―その上にあんたに助けられるなんて生き恥を晒すようなも…
―まさか、それが狙いなの? わたしに恥辱を与えるのが狙いで、わたしのことを助けるの?
―…れいな、恐ろしい子

人類の歴史上長きに渡って、どれほどの闘争が繰り広げられてきたのだろう。
相容れぬものを抱える同士の、各々の誇りを賭けた戦いにおいては、強い者が勝つのではない。
勝った者が強いのだ。
勝者は歴史を作り、敗者は歴史の闇の中に埋もれていく。
ただそれだけのことだ。 時に勝者が敗者に情けをかけることもあっただろう。
戦いの目的が敵の命を奪うことではなく、敵を越えることであったならば敗者の命を害することは不毛な行為だ。
だがそうやって情けをかけられ、命を救われた敗者の中に今の里沙以上に惨めな者はいただろうか。
先制攻撃を仕掛けながら、れいなを慌てさせることすら出来ず。
拳を応酬することもなく、一人相撲を取って高転びに転げようとしたところをパンツを掴まれて救われたのだ。
れいながパンツから手を離したら、里沙はそのまま前のめりに転んでしまうのだ。
今の里沙の姿を何かに例えるなら、シャンプーが怖くて脱衣所から逃げ出そうとした幼児がパンツを掴まれて捕まっているようなものだ。
そんな惨めな敗者は未だかつてこの世界には存在ただろうか、いやいやしない。

「クソがぁぁぁぁ!!」

里沙は背筋と腹筋を使って身体を後方に反らせると、その反動を利用して上体を床面に叩きつけようとした。
理由は言うまでもない。
年少の後輩に破れ去ったばかりか、そのお情けで顔面を床に痛打するという事態から免れているのだ。
その屈辱を払拭するには、自分の意志で自分の顔面を叩こうとしたのだ。

「痛っ」





                              ←back    next→








最終更新:2011年04月30日 22:08