『妄想コワルスキー・Full throttle』(中)


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その人はこの世でもっとも優しい心の持ち主だった。
他の誰かの苦しみを悲しみを自分のものとして感応する力を持っていた。
苦しみの声を上げる傷ついた魂に救いの手を差し伸ばすことに何のためらいもない人だった。
たとえそのことで自分が傷つくとわかっていても。

しかしある時救うことの出来なかった小さな命の重さに心打ちひしがれて、その人は心を閉ざしてしまった。
その人は待っていた。
自分の心の扉を叩いてくれる存在を。
その人は気づいていなかった。
自分の心の殻を打ち破れるのは自分しかいないということを。



「ガキさん、今日はいったいどうしたの」

予想だにしなかった人の声を聞き、里沙は心臓を鷲掴みされた思いだった。

「どうして、さゆが」

道重さゆみ。
三流雑誌と契約していたカメラマン。
特ダネを連発して一流ジャーナリストに仲間入りするのが目標だと言いながら、彼女のレンズが狙うのは美しい少女ばかり。
女だということを利用して、犯罪スレスレのセクシーショットを撮影してはハアハアしている淫らなケモノ。
ある時被写体として狙った愛がリゾナンターだということに気づくと、編集部と掛け合って密着取材を試みる。
取材対象として見ていたはずが、いつしか一線を越えていた。
ある日愛を狙う敵の存在に気づいた彼女は、そのことを愛に知らせた。
その時こそがリゾナンター道重さゆみの誕生した瞬間だった。

今は二流雑誌のカメラマンとして、芸能界のアイドルたちを毒牙にかけているさゆみが何故今日リゾナントにやって来たのか?

その疑問に対する解答はさゆみ自身の口から明かされた。
新人アイドルのイベントの取材を途中で切り上げてきたのだという。

「ホントにやんなっちゃう。 最近の若い娘ったら平気でパンツを見せるんだから」

「ちょっ、もしもし」

「見られることを恥ずかしがるからこそ見てやろうっていう意欲が湧いてくるのに、判ってないというか。
あれは本人達の意識以前に事務所のコンセプトから間違ってると思うの。
とりあえず生脚とパンツを見せておけば男は喜ぶと思ってるんじゃないかしら、バカみたい。
まあ実際それで喜ぶファンがいるというのも問題なんだけど。パンツが見えるたびに奇声を上げて。 
あんな濃いファンのいる現場なんかごく普通のファンは絶対寄りつかないから。 折角可愛い娘達なのにバカな事務所に入ったせいで伸びないと思うの。
そお思ったらなんか腹が立ってきちゃって、口直しに愛ちゃんの顔を見に来たの。それでガキさんは?んんんどうしたのさゆみの顔に何かついてる?」

アイドルのパンツに関する持論をまくし立てるさゆの勢いに気圧されてしまっていた里沙は、生じてしまった不自然な間を取り繕うとした。

「さゆがあまりにもかわいいからつい見とれてしまってたよ」

普通なら却って気を悪くしかねないあからさまな賛辞だったが、淫らなケモノは頬を紅く染めて恥ずかしげに言った。

「知ってる」

そう、私は知っている。
口を開けば自分のことを世界で一番かわいいと言うあんた。
でもその言葉があんたの本心からのものではないということを。

          ★

「納得出来ないね。あの道重さゆみというカメラマン。明らかにテレパスだ。それもあんた以上にハイレベルな。
あの娘の凄いところは、感応した人間の脳細胞を利用して未来の出来事を予測演算できるってことだ」

「わかってる。さゆがテレパスだってことは」

「じゃあなんであの娘をリゾナンターに誘わないのさ。 実戦で前衛に立たすわけにはいかないだろうけど、あの娘が後方支援に回ってくれたらどれだけ心強いか」

「それは出来ない」

「あの娘だって私たちの仲間になることを望んでるみたいだけど」

リゾナンターの活躍をスクープして一流ジャーナリストの仲間入りをすると鼻息も荒く愛に張りついていた道重さゆみ。
彼女が高レベルの精神感応能力者だということに気づくのに時間は要らなかった。
さゆみをリゾナンターに加入させるよう進言した里沙に対して、愛の返答は頑なだった。

「さゆはわたしより凄い。 わたしはそれこそ息のかかるぐらい近くにいる人間の心の声しか聴くことは出来ないけど、さゆはもっと広範囲の声を拾える。しかも人間以外の動物の心の声まで」

「だからこそ」

「聞いて。そんなさゆが私たちの仲間になって、チカラが深化してしまったらとんでもないことになる」

愛が懸念するのは能力が深化したさゆみがより広範囲に渡って他者の精神と感応することで、とんでもない負荷を背負ってしまうのではないかというのことだった。

「こうやってリゾナンターとして再び起つ前のわたしがそうだった」

突然心に飛び込んでくる見ず知らずの人の悲しみ、妬み、憎悪。

「はっきり言ってたまんないと思ってた。 地獄だとも思ってた。 あたしみたいな低レベルの精神感応ですらそうなんだから、もしもさゆがそんな状態に陥ったら、さゆが壊れてしまう」

「精神にロックしたりフィルターをかけることによってある程度そんな事態は避けられると思うけど」

「確かにね。 指向性の強い思念はそれでかなり防げると思う。 でも本当にやっかいなのは無意識の悪意」

人はあまりにも簡単な理由で、他の誰かを妬み、嫉み、憎み、傷つけばいいと心の中で思ってしまう。
明確で強い自覚を持たず抱いてしまう負の感情。

「これは防げない。 声として認識不可能な重苦しいノイズが心の中に沈殿していく。そして能力者を少しずつ蝕んでいく」

愛はいつになく暗い目をした。

「わたしはもう戻れないし戻る気もない。でもあの娘には出来るだけ今のままでいて欲しい」

精神感応者にして予知能力者である道重さゆみをリゾナンターに迎え入れるプランはそこで一旦棚上げとなった。

愛の危機を察知したさゆみが、急を報せることで、リゾナンターの仲間入りをしたのは1ヶ月後だった。

          ★

リゾナンター入りした道重さゆみは愛の危惧した通り、その強いチカラゆえに他者の負の感情を自分のものとして共有し、危機に陥った。
しかしその都度仲間の信頼を支えに乗り越えてきた。

そして今日もさゆみは日常を戦う。
悪意なき悪意という銃弾に立ち向かうために、自分を鼓舞する。

よしっ。さゆみは世界で一番かわいいぞっ。

まだリゾナンターじゃなかった頃のさゆを愛ちゃんが気遣っていたのには少し嫉妬したね。
あの時の私はまだダークネスの一員だったというのにね。

精神感応と精神干渉。
他人の心にアクセスするてという意味では同じ領域だというのに、決定的に異なるチカラの作用するベクトル。
私が発信機なら愛ちゃんやさゆは受信機。
私が責めなら愛ちゃんやさゆは受け。私がタチなら愛ちゃんやさゆはネコ。
えっ何この両手に百合の花、愛欲の三角関係。



「えっなんでさゆと里沙ちゃんが抱き合ってチューしとるんや」

「違うの愛ちゃん。これは誤解なの」

「さゆは黙ってな。 いい機会だから愛ちゃんに知っておいてもらう。 私とさゆは愛し合ってる」

「嘘や。 あーしというもんがおりながらそんなこと。嘘やろ」

「愛ちゃん、聞いて。 さゆがいけないの。 さゆがガキさんを誘ったの」

「さゆは良い子だなあ。 きっかけはどっちからだったかなんてもう大した問題じゃない。 そう重要なのは私とさゆが愛し合って、うっ何をする」

「ガキさんがあーしを捨てるんならガキさんを刺してあしも」

「うぅっ、二人の心をもてあそんだ私にはふさわしい最期さ。 さゆにお願いがあるんだ。 私の棺には安倍さんの写真集を入れ…」

「いやぁ、ガキさん。 さゆみを残して逝かないで、ガキさん、ガキさん。 いやぁぁぁぁぁ」



「ちょっとガキさんお腹押さえてどうしたの。 まさかまた獣が」

「言うなぁぁぁぁぁぁ!!」

獣という言葉に忌まわしい記憶が蘇ったではないか。
あれほどの辱めを受けたことがいまだかつてあっただろうか。
いや、ない。
憧れの安倍さんと狭いエレベーターの中に二人きり、side by sideでfece to face。
あんな状況願ったって簡単に実現するものじゃないのに獣が、私の中のおぞましくも醜い獣が。
何、あの究極のお仕置き羞恥プレイ。

「け、獣はね別に私の中だけに要るんじゃないんだからね。 誰の中にもいるんだからね。 さゆの」

「1714」

しれっとした顔で返されてしまった。
でも私はそんなさゆを憎めない。
もしも他の誰かがこんな対応をしたらタダじゃおかないところだ。
そうたとえばもしもれいながしないっちゃなんてふざけたことを言おうものなら、あの女の顔写真にメルアドを付けてそこら中のエロ掲示板に晒してやるのだ。

“ヤッピー!! 今日はカラオケで盛り上がりすぎて終電逃しちゃった テヘ。 誰か泊めてくれる人募集中~。 もし泊めてくれたらイイコトしてあげる、お願いね”

どうだい、れいな嬉しいだろう。
あんたが欲しくて欲しくてたまらなかったメールの着信御礼入れ食い状態さ。
喜べ。そしてこの世の春を謳歌するがいい。
そして思い知れ。
むさ苦しくもおぞましい男達の剥き出しの欲望に晒されて脅えるがいい、恐れおののくがいい。

でも待てよ。
あいつのことだ。
突然の着信ラッシュに勘違いしかねない。

「ガキさん見ると。れいなのボン。キュッボンなボディに目が眩んだ男たちからのラブメールがこんなに来てるとよ。
れいな、こんなものに心動かすような安い女じゃないのに。はぁぁ困るっちゃ。」


許せない。れいな許せない。
何がボン。キュッ。ボン!だ。
何が安い女じゃないだ。
お前なんかより私の方が、私の方が、私の方が。
見ていろ、れいなめ。

“今日はネズミーランドで遊び過ぎて、帰りの電車がなくなってしまったの。(*^^*)
こんな私を泊めてくれる優しい王子様いませんか?あ、私Cだから。正真正銘のCだから”

「ちょっとガキさん。私と話してる途中で何携帯いじってるの」

自分と話ながら、携帯電話を操作しだした里沙を訝しんださゆみは、里沙の肩を揺さぶった。

「あっ」

送信しちゃったよ。 あたしの顔写真添付してエロ掲示板に貼っちゃったよ。
どうしよう。

「あっ、じゃないでしょう」

さゆみが怪訝そうに里沙の顔を覗き込んでいる。

肩を揺すぶられた弾みで、貼ってしまったではないか。
れいなへのあらぬ対抗心から、リピドー盛んな男たちに顔写真とメルアドを晒してしまったではないか。

何するのよ、アンタと喚きかけた里沙だったが、流石にそれは思いとどまった。

来る。
欲望をたぎらせたむくつけき男たちからのメールが来る。
自分の軽はずみな行動がもたらすであろう収拾のつかない事態に思いを巡らすと心が沈んでしまう。

里沙は知らなかった。
エロ掲示板に貼られた里沙の画像は男たちの欲望の対象とはならないことを。
こいつ、Cだってよ何言ってんだこの身体でといった嘲弄の対象となることを知らなかった。
中々に痛い女として警戒され、メルアドもスパム扱いされ、結局一通もメールは寄せられることなく終わることをこの時点の里沙は知らなかった。

とにもかくにも今はさゆが問題だ。
何故今リゾナントにいるのか。
一緒に行動することの多い亀井絵里や最近連れ回す機会が増えている光井愛佳の姿もない。
何故さゆはリゾナントを訪れたのか?
それもたった一人で。

ま、まさかさゆもそうなの?
さゆも凡奇湯を狙っているというの!
信じられない。
た、確かに身体がほっそりしているわりには顔は大きくて、しかも油断した時はただでさえ大きめの顔がむくんで見えるって、いつも気にしてた。
さゆは気にしていた。
でも、だからって凡奇湯の力を借りてボン。キュッ。ボン!になりたいだなんて。
変わった。
さゆは変わってしまった。

警察から破壊命令の出たガイノイドペッパー警部たちに心を見い出して救おうとしたさゆはどこへいってしまったの。
改造されたキメラ獣の爪に傷つきながら、彼らの心の叫びを感じ取ったときのことを思い出して。
もう、あの頃の純粋なさゆには会えないの。
自分のどす黒い欲望に心を奪われてしまったさゆなんてさゆじゃない。

かなしいよ。
私スゴくかなしいよ。
何がさゆをそんな風にしてしまったのか判らないけど、凡奇湯に野心を抱いた時点でさゆは私の敵になった。
だって私は人類の宝凡奇湯を守る使命を帯びた誇り高き戦士。
凡奇湯に邪心を抱く者はたとえ誰であろうと…。

悲壮な決意を胸に里沙は腕時計の竜頭に手を伸ばす。

もちろんのことながら里沙は竜頭なんて難しい言葉は知らない。
竜頭を里沙のボキャブラリーの範疇で言い表すならば、腕時計の文字盤の横にポチッと突き出てて、摘んで回して時刻なんかを合わせる小さなやつである。
これをそのまま用いればいったいどうなってしまう。

“悲壮な決意を胸に里沙は腕時計の文字盤の横にポチッと突き出てて、摘んで回して時刻なんかを合わせる小さなやつに手を伸ばす。”となってしまう。

冗長ではないか。
グダグダではないか。
こんな調子ではいつまで経ったって、里沙は凡奇湯にたどり着けないではないか。
里沙があまりにも不憫ではないか。
だからここは“悲壮な決意を胸に里沙は腕時計の竜頭に手を伸ばす。”と記述する。
竜頭なんて古くさくて難しい言葉なんかガキさんが知ってるはず無いしなんていうツッコミは、いくらそれが正当でも里沙に対してあまりにも無情である。

悲壮な決意を胸に里沙が腕時計の竜頭に手を伸ばしたのは、勿論時計の時刻合わせをするためではない。
竜頭に仕込んである強化ワイヤーを用いるためだ。
何故腕時計に強化ワイヤーが仕込んであるのか。

それはその腕時計がダークネスから支給されたスパイグッズだからである。
まだ里沙がダークネスから離反していない頃の話だ。
安倍なつみの前の前の写真集を大量購入したために食事代に困り、泣く泣く腕時計を手放した里沙が代替えとしてダークネスの備品部から無断でガメてきたのだ。
その腕時計に暗殺用の強化ワイヤーが仕込まれていたのだ。
その強化ワイヤーを使うということは…。

わ、わたしが悪いんじゃない。
悪いのは変わってしまったさゆなんだからね。
これから行おうとする凶行を前に、猛烈な自己弁護をする里沙。
その片方の目は道重さゆみの白い首筋を。もう片方の目は厨房の中の高橋愛を捉えている。
さゆは不思議な生き物を見るような目で里沙を見ていたが、警戒している様子は見られない。
愛は調理に気を取られて里沙の方を見ていない。

大丈夫だからね、さゆ。
一瞬で終わらせるから。 絶対に苦しませないから。
これ以上さゆがさゆでなくなるのを防ぐために、これは必要なことなんだ。

凡奇湯に野心を抱くさゆを粛清するため、腕時計から強化ワイヤーを引きだそうとする里沙は、その感触の重さに手こずっていた。
当然だ。
ダークネスの備品庫からパクってきてから一度も使用していないのだ。
錆びつき固まってしまっている。
竜頭を摘みながら悪戦苦闘している里沙。

ヤバい。
このままではさゆに怪しまれる。
愛ちゃんに気づかれる。
破綻を防がんと渾身の力を指先に込めて、竜頭を引っ張った。

「「こなクソぉぉぉぉ!!」」

しかし努力も空しく竜頭は微動だにせず、里沙の手は空振りしてしまった。

「ちょお、ガキさん」

さゆみが目を丸くして驚いている。
さゆみにしてみればごく自然な反応だ。

自分と話していた里沙が、会話の途中で携帯をいじり始めたり、さゆは変わったと呟きだしたり、腕時計を触りながら奇声を上げたのだから。
だかさゆみの素晴らしいところは、そんな突発的な言動を取る里沙にすら優しい視線を注ぎ続けるところだ。
里沙は指先から出血していた。 さゆみのことを粛清するために使おうとした腕時計型スパイグッズで傷つけてしまったのだ。
それは自業自得なのだが、そんな事情を知らないさゆみは、咄嗟に里沙の指先を口にくわえた。

出血を抑えようとしたのだ。
心優しいさゆみなら、里沙が自分に危害を加えようとしていたことを知っても同じようにしたかもしれない。
そしてしばしの沈黙がリゾナントに流れる。

くわえてる。 さゆが私の指をくわえてる。
這っている。 さゆの舌が私の指を這っている。
吸われている。 私、今さゆに吸われてる。
え、何このまだ明るいうちからの積極的な求愛行動。
しかも、愛ちゃんが目と鼻の先にいるのに大胆な。

「ちょ、さゆやめて。 こんなところで」

「こんなところで? じゃあどんなところならいいの? どんなところならガキさんはガキさんのガキさんを御開帳してくれるのかな」

「やめてったら。 愛ちゃんに気づかれちゃうからやめて」

「オッケー。 愛する人に気づかれちゃダメよ。声出し我慢プレイ入りま~す」



「やめるのだ、やめるのだ !」

「もう、さっきからやかましいな」

カウンターから愛が出てきた。
トーストサンドにした食パンの耳を切りそろえるためのペティナイフを手にしている。
傷の具合を見ようとしたさゆみに掌を取られている里沙は、そんな愛を見て背筋が凍った。

さ、刺される。

大慌てでさゆみを振り払った手を大きく振った。 残像が残るぐらい高速で。

「ち、違うから。 これは誤解だから。 私は愛ちゃん一筋だから。 あ、安倍さんは崇拝の対象だから。 とにかく私さゆなんか全然興味ないし」

「ちょっとガキさんひどい」

流石に色を成すさゆみに対して追い討ちをかける。

「お前なんかあっち行け」

「何か今日のガキさん変」

さゆみの言葉に愛も応じる。

「そうやろ。 さっきも郵便受けに手を突っ込んで、シーシーとか爆弾とか変なことを口走ってたし」

先刻からの里沙の不審な行動を挙げた愛はさゆみに告げる。

「よし。 さゆの精神感応でガキさんの心の中を探ってみてくれるかな。 およばずながら私もサポートするし」

最初はためらっていたさゆみも、ダークネスに何か仕掛けられたのかも知らんという愛の言葉に意を決した。

「よぉし。 ガキさんの心の声を聞いちゃうぞ」

ためらっていた様子は何処へやら、満面の笑みを浮かべながら大きく広げた掌で里沙の頭を鷲掴みする。
さゆみの精神感応は対象と距離が離れていても有効だが、肉体を接触することで精神のより深い部分に達することが出来る。
かなり本腰を入れて、里沙の思考を読み取るつもりらしい。
そんなさゆの様子を見て里沙は焦っていた。

新垣里沙は希代のマインドコントローラーである。
その能力のベクトルこそ違えど道重さゆみにも引けを取らない精神系の能力のスペシャリストだ。
簡単に精神の深層部を読まれることはない。
有り体に言えば、仮想の深層心理を感応させて、ミスリードを誘うのだ。

精神感応のチカラを持つ愛とさゆみ。
彼女たちが仲間の心を読むことは全くと言っていい程あり得ないことだ。
たとえ仲間の誰かが問題に直面していたとしても。
それは仲間への思いが希薄だからではない。
他の誰かの精神を尊重し、過度に干渉することを慎むという意志がそうさせるのだ。
どんな困難な問題であっても、自分たちの仲間なら乗り越えられる筈だという信頼が根底にあることは言うまでもない。

だからこそかつて新垣里沙は二人のテレパスがいるリゾナンターでスパイ行為を続けることが出来たのだ。
それなのに…。

元はといえば自分の超不審な言動が招いた事態なのだが、今更そんなことを顧みない、振り返らない、悔やまないのが新垣里沙という女である。

こいつら…。
さゆはまだしも愛ちゃんまでが「凡奇湯」の御利益が欲しくなったというの。
確かに愛ちゃんの身体は愛佳やリンリンに比べればボン。キュッ。ボン!と表現するほどのインパクトには欠けているかもしれない。
だが出るべき所は出て、引っ込むべき箇所は引っ込み、エロい曲線を描く肢体には、大人の女の魅力が十分すぎるほど備わっている。
そんな高橋愛には「凡奇湯」の秘跡など不要な筈なのに。
なのに、何故?
どうして愛ちゃんは「凡奇湯」へ行くの?
私のことを捨てて。



「おい、今日は休日だろう。 パートも休みの筈なのに何処へ出掛けるつもりだ」

「ごめんなさい、中学の同窓会があるの。言ってませんでした?」

「いいかげんにしろ。 先週は親戚の叔母さんのお見舞い。先々週は愛佳の保育園の父母会。
その前の週は東方神起のコンサート。ここ二三ヶ月間休みの日はずっと家にいないじゃないか」

「ごめんなさい、あなた。でも私だって…」

「どうした、口ごもらないで言ってみろ。お前だってどんな事情があるというんだ、言ってみろ」

「私にだってつき合いが」

「ハッ! どんなたいそうな事情を口にするかと思ったらつき合いと来たもんだ。
大事な亭主を放ったらかしにしておいてまでしなくちゃいけないようなつき合いなんかやめちまえ」

「ハイ」

「何だその態度は。 間抜けな亭主とはもう話してる時間もありませんってか。 俺が何も知らないとでも思ってるのか」

「いったい何をおっしゃりたいんですの」

「お前が毎週毎週休みの度にいそいそとお出かけして何処へ出かけているってことだ。 凡だな」

「そ、それは」

「ふん、顔色が変わったぞ。 いいご身分だよな。 亭主が働いている間、別の男と乳繰り合うなんてな」

「あなた、違うんです。 凡さんはそんな人じゃ無いんです」

「そんな人じゃなかったらどんな奴だっていうんだ。どうせろくな人間じゃないことは確かだな、凡っていうやつは。 人の女房だと判ってて手を出すようなやつだ」

「凡さんは、凡さんはあなたとの生活で乾ききった私に水を与えてくれました」

「何わけのわかんないこと言ってるんだ」

「私が髪の毛の色を変えたってあなたは何の興味も示さないけど、凡さんはとても似合ってるねって言ってくれる。 そしてその髪の色に合った小物のアクセサリーを贈ってくれる」

「馬鹿な女だ。物に目が眩んだってわけだ」

「そんなんじゃありません。 心が嬉しいんです。 私のことを見つめて、私に起こった変化に気がついて、言葉をかけてくれる優しさが嬉しいんです」

「オイ、急に荷物をまとめ出してどうするつもりだ、オイ」

「さようなら、里沙男さん。 もう自分を偽ることは出来ません。 私はこの家を出て行きます。 これからの人生はあの人と、凡さんと生きて行きます」

「馬鹿なことを言うんじゃない。 お前が出て行ったら、俺の朝飯、晩飯は誰が作るんだ。そして何より俺のパンツは誰が洗うんだ」

「私あなたのパンツを洗うためにあなたと一緒になったんじゃありません」

「じゃあ愛佳はどうなるんだ。 あの子を置いて出て行く気か。 なあ愛。 
お前は俺の女房であるだけじゃなく、愛佳の母親でもあるんだ。 その義務まで放棄するつもりか、お前」

「愛佳はしばらくの間、私の実家で預かってもらいます。 そして凡さんとの生活が軌道に乗ったら、引き取って一緒に暮らします」


「待ってくれ、愛。 俺の言い方が悪かった。 謝るから早まった真似はするな。 話し合おう、な。 
俺たちはあんなに愛し合って一緒になったんじゃないか。ヤメロ、行かないでくれ。愛~! 捨てないでくれ、行くな~。 
もしどうしても出て行くならパンツだけは洗濯して干してから出て行ってくれ。 でないと俺のパンツが、明日履いていくパンツがぁぁぁぁ!」



何このベタベタな夫婦の愛憎劇。

新垣里沙の精神へのアクセスを中断した道重さゆみは、垣間見たばかりの里沙の思考を分析する。

夫婦とか凡さんとかパンツとか取り留めが無いのにも程がある。
こんなんじゃ愛ちゃんを安心させることは出来ない。

軽く溜息を吐くと、愛に笑いかける。

「大丈夫」

大丈夫なものか。 本心を言えば投げ出してしまいたい。
それでも踏みとどまっているのは、高橋愛の歓心を買いたいからだ。
ずっと憧れの人だった。
この人と肩を並べて歩きたいと思っても、遙かな先を天翔るように進む人だった。
この人に助けられるたび、いつかこの人を助けたい、この人に頼られたい。 そんな思いで今日まで歩いてきた。
そして今この人は私を頼ってくれている。
この人自身のことではなく、ガキさんのことで頼られているというのが残念といえば残念だ。
でもこの人の身の上に何かトラブルが降りかかることを思えばこれでいいんだろう。
何としてもガキさんの突拍子もない言動の原因を突き止めてみせる。

決意も新たに事態の打開策を頭の中で練る。

ガキさんが愛ちゃんと結婚してたり、子供が出来ていたりするというのはガキさんの願望だ。
そして愛ちゃんが凡さんという男のもとに走るというのはガキさんが抱いている不安だ。
全てガキさんの精神が作り出した想像、いやあの現実性の乏しい展開はむしろ妄想というべきなの?

妄想は厄介だ。
精神感応とは人が思考した際に大脳で発生する微弱な電流の変化を探知して、自分の脳内で言語や図形に変換する能力に他ならない。
明晰な頭脳から生み出された理路整然とした思考は、安定した波形の電流に変換され、それを探知した感応者の中でかなり忠実に再現できる。
しかし不明瞭な頭脳で生まれた脈絡のない妄想は不安定な波形の電流に変換され神経を駆け巡る。
それは検出することも困難だが、感応者の脳内で再変換する際に少なからぬ誤差が生じてしまう。
そしてあまりに不規則な電流は感応者の頭脳にもノイズを生じさせてしまう。



「ちょっと、さゆどうしたの? いきなり抱きついてきて」

「ハァハァ 愛ちゃんの身体はいい匂いがするの。 でもさゆはそんなんじゃ物足りないの。もっと汗臭いのが好きなの。クンカクンカ」

「やめて、さゆ。 ガキさんがおかしくなったと思ったらさゆまで変なことを言い出して」

「そんなこと言って愛ちゃんだってホントはたまんないんじゃないの。
そのエロい身体を持て余しているんじゃないの。 欲望は解消しなければダメだと思うの」

「ダメ。 そんなところを触っちゃ」

「そんなところはダメなの? じゃあどんなところだったら触ってもいいの。 答えてごらん。 このイヤらしい口で答えてごらん」

「もう、さゆ…」



「ええ加減にしないとあーし怒るから」

「えっ私どうかしてた?」

我に返ったさゆみの目に怒りで眦を吊り上げた愛の顔が映った。

ノイズだ。
新垣里沙の妄想から生じた思念のノイズが、道重さゆみの思考を変調させたのだ。

これは放っておくととんでもないことになる。

マインドコントローラー新垣里沙の能力のベクトルは本質的に外向きだ。
したがって里沙の精神のノイズは里沙以外の人間の精神に多大な影響を与える。
それも極めて悪い…。

精神感応の精度を上げるしかない。

さゆみは決心した。

新垣里沙という強力なノイズの発信機の暴走を食い止めるには、その根源を突き止める必要がある。
広く浅く設定している精神感応の受信感度を狭く深く設定し直して、里沙の精神を探りピンポイントで妄想の原因に迫るのだ。
両手で里沙の頭を挟み、精神の触手で里沙の精神を立体的にスキャンするイメージを描く。

でもこの体勢何かカイロプラクティクスとかマッサージみたいね。
お客さん大分こってますねみたいな。



「お客さん大分こってますね」

「サブリーダーの激務は私の肉体を責め苛むのだ」

「ほうら、ここもこんなに固まって。 ホントお体はキチンと手入れしとかないと年を取ってからがキツいですよ」

「わかってはいるんだけどねぇ。 あ、ちょっと私首と肩だけお願いしたんだけど」

「いいから、いいから。 サービスしときます」

「ちょマジやめて。 そこは全然悪くないから。 っていうかそこにはプライド持ってるから」

「お客さん、冗談言っちゃ困りますぜ。 
私もこれまでに何百いや何千人の美少女の身体に触れてきました。 
お客様が身体のどの部分に問題を抱えておられるかなんて身体に触れただけで判りますぜ」

「胸は必要ないから。 マジ私Cだから。 着痩せして見えるだけでホントCだから」

「着痩せぇ。笑わせちゃいけません、お客さん。 着痩せと言うんならこの服をこうして」

「ひぃぃぃ、やめて」

「やっぱりあっしの見込んだ通りだ。 お客さんガキさんといわれるだけあって身体もガキさんですぜ」

「言わないで」



もうだれも信じられない。
私は孤独だ。
あともう少しでさゆは私の精神を解析して、私の思いを知るだろう。 「凡奇湯」への熱い思いを。
何とか出来ないか。
「凡奇湯」の秘密を守る良い手立てはないか。
考えろ、考えるんだ。
そうだ、「凡奇湯」と全然関係のないことを考えて、頭の中を一杯にすればいいんだ。
落ち着け………… 心を平静にして考えるんだ…どうするか……… 落ち着いて考えるんだ…『素数』を数えて落ち着くんだ…
 『素数』は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……
そう孤独な戦いを続けるわたしに勇気を与えてくれる。



何なの、この数字の羅列。

里沙の精神から奔流のように流れ込んでくる数字の嵐にさゆみは戸惑った。
新垣里沙がこんなに数字のことを考えているとはどうしても思えない。
…ということは?

ガキさん、やってくれたわね。

さゆみの精神探査から逃れるために、関係のない事象に関する思考で精神を満たそうとしているのだ。

でも私はこんなことでは騙されない。

街を蹂躙した生体兵器の弱点を探るために、開発した科学者の精神を探査したことがある。
彼は秘密を守るために、原子の周期表を何度と無く暗唱していた。
誘拐された一般市民の行方を探るために戦闘員の心を読んだことがある。
彼は女の私を怯ませようと、言葉に出来ないような卑猥な単語を繰り返していた。
でも私は彼らに屈しなかった。

一つの秘密を守るために、関係のない事象に関する思考で精神を満たすというやり方は、その意図を探索者が見抜いた時点で半ば瓦解している。
無限の広がりを見せる精神世界の中を何の関連性もないトピックで埋め尽くすことは不可能だ。
絶対何らかの繋がりのある事象を人は選んでしまうものだ。膨大なトピックに法則を見出すことができたなら解答はすぐそこだ。
一連のトピックの中で独立しているものの近くに、その人間が隠したい事象は存在する。

目眩ましのダミーに数字を選んだのは失敗だったわね、ガキさん。

数字の洪水と格闘しながら、さゆみはミッションのクリアを確信していた。
どんなに無秩序に選んだように見せかけたって、必ず規則性が表れるのが数字の持つ魔力だ。

2・3・5・6!!
2・3・4!!
1・2・3・5・7・9・11!!
1・2・3!?
1??

それにしても何この一向に進まないカウントアップ。 
イライラしてきちゃう。
数字の上がり方を見る限り、単純に1つ刻みに数えてるわけではなさそうだけど。
途切れすぎ。
それに!とか?とかどういう意味。 
いったいどんな法則でカウントアップしてるの?


落ち着け………… 心を平静にして考えるんだ…『素数』を数えて落ち着くんだ
 『素数』は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……
わたしに勇気を与えてくれる……2・3・5・6!! あわわ、6は2でも3でも割り切れるではないか…落ち着け…
…『素数』を数えて落ち着くんだ……2・3・4   ダウト!! 4は2でも割れるのだ…落ち着け……落ち着くんだ… 
『素数』は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……1・2・3・5・7・9・11!!
…惜しいのだ…折角2桁までたどり着いたのに9は3でも割れるのだ…落ち着くんだ
…落ち着け…『素数』を数えて落ち着こうわたし…『素数』はわたしに勇気を与えてくれる…
…1・2・3 アレ!?…何か間違ってるわたし…落ち着け…『素数』を数えて落ち着くんだ……
…1??

「…さゆ」

精神を探査中の里沙から話しかけられたさゆみは驚いた。
いや別に里沙は意識を失っていたわけではないし、火花を散らせてバトっていたわけではないから、それほど驚くには至らないのだが。

「ねえ、さゆ。 1って素数だっけ?」

「えぇぇぇっ」

里沙は2度と素数を数えられなくなった…。
素数と非素数の狭間で囚われ、永遠に迷い続けるのだ。
そして数えたいと思っても数えられないので―そのうち里沙は考えるのをやめた

「ちょっと、ガキさんしっかり。ガキさぁぁぁん」

人類の宝「凡奇湯」を守るべく新垣里沙の戦いは続く 



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