『XOXO - Affectionate place-』


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他の建物がそうであるかは知らないが、病院の最上階の多くは入院患者の衣類の天日干し用に提供されている。
そこにはエレーベーターで行くことは出来ず、一階下で降りて、自らの力で階段を登らなければならない。

“間違って落ちちゃったりとか、絵里みたいに死にたくなった人が簡単に死ねないように”

3月。暦の上ではとっくの昔に春を迎えているというのに、相変わらずの冷たさと威力を持って屋上を吹き抜ける風が多くの衣服を揺らす。
それは、隣人の髪を乱すということと同義で。

「んもう、今日は前髪さんの絶好調dayだったのに!」
「大丈夫だよ、前髪けちょんけちょんでもさゆは可愛いんだからさ」

けちょんけちょんって何よ…んもぉ!なんて前髪を抑えるのに必死な親友を視界の端に捉えながら、あごを天に向けた。
最初にここにやってきたときも、こんな目の覚めるような蒼だった。


二時間おきに点滴変えて、三日おきに針を変えて、一週間に一回総回診を受ける。その繰り返しに飽きていた。
気がついたらエレベータに乗って、無心で最上階を表すRを連打した。
初めて逃げ込んだ先が連れて行ってくれたのは、ただ階段だけが上に伸びる空間だった。
両手で点滴台を押してハコから抜け出す。三歩歩いたところで、チンという音がして後ろで扉が閉まった。
前にそびえる段差の連なり。手すりの細さと変わらない右腕で棒を掴んで右足を踏み出した。
けれど、それ以下の細さの左手では点滴台を持ち上げられなかった。
背伸びして、輸液パックだけを台から外して左腕で抱え込んだ。四段登ったところで足が震えた。
さらに二段登ると、高さが無いために圧が弱まった輸液管を血液が逆流していた。顔を上げた。頭がくらくらした。
ぼやけた視界に浮かぶ天国のドアまであと三段だった。
一段登った。パックにさした空気穴用の点滴針から輸液が垂れた。
一段登った。膝の笑いが止まらなくなった。
這い上がった。震える両手でノブをまわした。
突然目に飛び込んできた光に視界を支配された。失われた平衡感覚と体力の限界でその場に倒れ込んだ。
閉まろうとしたドアが左手にぶつかって動きを止めた。そのまま重力に従って瞳を閉じた。
やっと終わる。そう思った。


顔を何かがなでる気配がして、首元に温かさを感じた。
ゆっくりとまぶたを持ち上げた絵里が見たのは一面に広がる蒼だった。天国だ。そう思った。

「やーっと気づいたんか。いくらあんたが軽くてもお姫様抱っこ四十分はきついわ」

突然蒼に割り込んできた鮮やかな茶色と、端正な顔。
神様?それにしては若いと思うし、言葉も乱雑な気がする。ってか神様って女だったの?

「神様でもないし、言葉は元からこんなん。女は正しい」

やっぱ神様って謙虚なんだなぁ…あ、女神様のが正しいのかな?

「だーかーら、神様やないって言うとるやろ、愛や愛」
「だってさっきから絵里が思ってること…」

目が細くなって、口角が優しく上がる。

「やっと声でたな。かわええ声しとるやん」

右腕に乗せられていた頭が肩に移動させられて、風にあおられた髪の毛を耳にかけてくれた。

「かわええ顔と声しとるけど、やることはかわいくないな。
本当に死にたかったら普通は点滴引き抜くぐらいのことするやろ。
あんたがキツいのは分かる、でもやりきれんならやったらあかん。
そんな簡単に死にたいとか思ったら神様に失礼や」

おでこの髪をかき分けて、愛が降ってきた。

「生きといてくれてありがとう。絵里」


「もー絵里聞いてるの?」
「聞いてる聞いてる、前髪かわいいよ」
「ぜんっ然聞いてないし、今の前髪さんはかわいくない」

あの日から絵里の腕はずっと太くなって、点滴だっていらなくなって、階段だって何段でも登れる。

「だから、やっぱり愛ちゃんは女神様だと思うんだよね」
「何の話?」
「ううん、こっちの話だよぉ~」
「絵里、やっぱり頭おかしくなった気がする」
「さゆのいじめがどんどんひどくなるよぉ~」

今まで何度も見てきた呆れ果てた表情にお決まりの台詞を返すけれど、親友はそれを無視して自分の話を続ける。

「今日ね、愛ちゃん新しい珈琲豆探しに行ってるかられいなが一人で店番してるんだって、めっちゃ見たくない?」
「気になるねぇ、絶対テンパッてるよ。これは行くしかないね」
「じゃあ、さっさと外来行ってきてくれる?さゆみ待つの嫌いなの」


ほーい、と返事をしてドアに向かう。
この階段を手すりを使わずに降りて、エレベータに乗って一階のボタンを押すんだ。
そして外来で処方箋とお薬もらったら急いでリゾナントに行く。
れいなを茶化して昼寝したら、みんなで愛ちゃんの帰りを待つんだ。
愛ちゃんはこだわる人だから、もしかしたら朝まで珈琲豆探すかもしれない。
でも、もう大丈夫だ。朝まで待っても絵里の身体はキツくなんか無い。
だから、絵里は愛ちゃんの入れたての珈琲を一番最初に飲むんだ。

階段に繋がるノブをしっかりと握って、右腕で扉を引いた。
後ろからの風におされて、一歩を踏み出す。
冷たかったはずの風はいつの間にか、春の匂いがするようになっていた。