『“未来”への反逆者たち ―氷と炎―』


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薄暗い廊下に小さく反響する自分たちの足音と、すぐ傍の2人が発する微かな衣擦れや息遣いだけが聞こえてくる。
油断無く神経を尖らせながらも、田中れいなはどこかその静けさに怖気づく自分を感じずにはいられなかった。

放棄されてからさほど経っていないこともあり、建物内部は思っていたよりもずっと整然としている。
薄く埃が積もっている他は、まったく荒廃した雰囲気は感じられない。
だが、この建物が源泉となって湧き出す“未来”を知る者にとって、それはむしろどこか不気味さを引き立てていた。

 ――愛ちゃんとガキさんは怖くないんやろか

傍らの高橋愛と新垣里沙の横顔をそっと窺いながら、れいなは思わず心の中で呟く。
そしてすぐにそんな自分を叱咤した。

愛にしろ里沙にしろ、怖くないわけはない。
だが、それ以上の「覚悟」を持ってこの場にいるはずだ。
怯えてなどいては、“未来”を変えることなど到底覚束ないのだから。

たとえ何があろうとも、どんなところにでも、自分は最後まで愛についていくと決めたのだ。
里沙と共に、最後まで愛の支えとなろうと頷き合ったのだ。
だったら、今は臆してなどいるときではない。
そんな一瞬の心の隙が、命取りとなるかもしれないのだから。

小さく息を吸い込むと、れいなは口元を引き締めた。
「覚悟」を宿したその気持ちと共に。


―やがて、廊下に響いていた3つの足音が止まり、さらなる静寂が周囲を包んだ。

「……れいなが先に行くけん」

3人の足を止めさせた扉の取っ手に素早く手を掛けながら、れいなは決然とした表情を2人に向ける。
一瞬の間の後返ってきた2つの頷きを受けて、れいなはそれを開け放ち、その内側へと足を踏み入れた―――


      *      *      *

注意深く室内の様子を伺いつつ歩を進めるれいなと里沙の後に続きながら、愛もまた神経を研ぎ澄ませていた。

何らかの実験室だったと思しき室内には、高さも奥行きもそれなりの広がりを持った空間が広がっている。
おそらくいくつも置かれていたのであろう機器類は今はほとんどなく、だだっ広い印象を受ける。

 ――そのせいだろうか……?

先ほどまでと比べて明らかに冷え冷えとした空気を肌に感じながら、愛は微かな違和感を覚えていた。
神経の表面がざらつくような、微かなノイズが室内を漂う冷気の中から聞こえるような―――

 ――ッ!?

瞬間、その漠然としたノイズが、突如背筋を凍りつかせるような感覚となって愛を襲った。
ほぼ同時に、反射的に振り返った愛の脳裏を夥しい情報や思考が交錯する。


 ――氷?  ――間に合わない   ――油断 ――殺意 ――敵 

    ――鋭く尖った    ――移動 ――死     ――“未来”

 ――避け… ――まだ気付いていない      ――致命傷

  ――迅い ――避けたら2人が


―――自分が盾に……


永劫のごとき一瞬の後、愛の神経細胞は、ただその場に立ち尽くすことを選択した―――


      *      *      *

「!!?」

激しい物音に驚いて振り返ったれいなは、そこに在った衝撃的な光景に言葉を失った。

れいなと同じく絶句している里沙から、やや離れた場所で立ち尽くす愛。
その周囲には、白い靄のようなものが立ち込めている。
そして白く霞んだ視界の向こうに、いつの間にか現れていた“敵”の姿――

だが、れいなから言葉を奪ったのは、それらの風景ではなかった。

「リン…リン……?どうして……」

立ち尽くしたまま茫然とそう呟く愛の視線の先で、今しがた放った炎の残り火を手元にくすぶらせる少女――銭琳。
それこそが、れいなを…そして愛と里沙を驚愕させた光景だった。

「馬鹿正直な他の皆は騙せてモ、私は騙せまセン。私は…嘘つきですカラ」

“決行”は明日であると偽り、ジュンジュン――李純と共に“置いて”きたはずの少女は、静かな声でそう言った。
その声には明確な怒りの色が滲んでおり、それはれいなの胸に痛みを与える。

「ごめん、リンリン。だけど……」
「フザけるナ!」

同じ思いであろう愛の言葉を遮るように、銭琳は声を荒げる。

「高橋サン、あなたたちハただここで死ぬだけのためニ、皆を置いてきたのカ!?だったら、私はあなたたちを許さナイ!」
「リンリン……」

初めて見る銭琳の激しい感情の爆発を、れいなは息を呑んで見つめていた。


「“覚悟”が足りまセン」

僅かな静寂の後、玲瓏たる銭琳の声が室内に響いた。
次いで、銭琳はれいなたちの方に向かってゆっくりと歩を進めながら言葉を継ぐ。

「相手を斃してデモ前に進む“覚悟”ガ。たとえ仲間が倒れたとしてモ、それを踏み越えて前に進む“覚悟”ガ……皆サンにはまだ足りナイ」

先ほどとは一変した静かな口調のその言葉は、それでいて先ほど以上にれいなの心を激しく揺さぶった。

 ―――“覚悟”―――

先刻、自分が改めて固めたと思っていたそれは、まだまだ甘いものであったのだ。
命のやり取りがあるかもしれない…いや、あると分かりきった場所で抱く“覚悟”としては―――あまりにも。

「向こうに迷いはありまセン。今の攻撃が何よりの証拠デス。その“覚悟”の差が、結果となって表れル。本当の“覚悟”があれバ、相手の殺意に気付いたはずデス」

愛よりさらに数歩前に立ち、そう言いながら視線を廻らせる銭琳につられるようにして、れいなは初めて焦点を“敵”に合わせた。

白い靄が晴れたその向こうに立つ一人の女性。
黒を基調とした、どちらかといえば軽装に身を包んだその上には、端整な顔に浮かんだ微かな笑みが在った。

「まさかあの状況で回避されるとはね。それに、今も一瞬たりともあたしから注意を逸らさなかった。やるじゃん。確かにあんたには“覚悟”とやらがあるみたいだね」

半ば揶揄するように、半ば本気で感心するようにしながら女は口を開いた。

「氷の能力……私ハずっと、お前のその能力に対抗するためニ鍛錬してきたからナ。こんな形デ役に立つ日が来るとは思わなかったガ」
「……?あたしを…知ってんの?」

静かに紡がれたその銭琳の言葉に訝しげな表情を浮かべる女と同様、れいなと里沙も僅かに首を傾げる。
ただ、愛だけが何かに気付いたように小さく息を吸い込んだ。


「7年前のことを覚えているカ?お前たちが海の向こうでしたことヲ」

銭琳のその言葉に、瞬時女の顔から表情が消えた。

「…そうか。あのときの。…でも“獣人族”の生き残りはあんたじゃないだろ?」

女の言葉に、れいなはかつて李純から一度だけ聞いた話を思い出した。
古来から獣化能力を有する者が稀に生まれたという自分の一族の話を。
ほんの数年前、李純ただ一人を残して虐殺されたという一族の話を―――

「ああ、違ウ。だが、その娘を命懸けで逃がシ、そしてお前に殺されたのハ……私の父ダ」

その衝撃の告白に、れいなは思わず“敵”から再び視線を外し、銭琳を見た。

あまり過去の多くを語ろうとしない銭琳に、れいなも敢えて色々訊ねるようなことはしなかった。
だが、きっと愛は知っていたのだろう。
ほとんど表情は見えないが、それだけはなんとなく分かった。

「……娘がいたのか。…なるほど、此処で会ったが百年目というやつだね。あんたにとっちゃ運命のお導き…って感じ?」

元の揶揄するような口調に戻った女は、肩を竦めるようにして小さく笑う。

「運命…そうなのかもしれナイ。だが、もし本当に運命が導いたのだとしてモ、それは過去のためではナイ。復讐を果たすためではナイ。未来のためダ」
「……何言ってんの?」
「分からないカ。…ならば、お前は一体何のためにここに立ってイル?」
「……永遠を得るためだ」
「…お前こそ何を言ってイル?」
「ま、あんたらには関係ないことだ。…どっちにしろ、そんな理由なんてどうだっていいんだよ。結果は…変わらない」

女が言葉を切ると同時に、れいなは周囲の空気が一瞬にして張りつめるのを感じた。
それは、再びこの場が命の飛び交う戦線と化したことを意味していた。


「あんた…銭琳だっけ?礼儀としてあたしも名前くらいは教えとく。藤本美貴。よろしく」

嫣然と自身の名を告げるその周囲で、空気が軋むような音が聞こえ始める。

「皆サン、約束してくだサイ」

油断なく藤本を見据えたまま、銭琳は背後のれいなたちにきっぱりとした口調で言った。

「この先どんな場面が訪れテモ、互いを助けようとしないでくだサイ。自分が生き残っテ、目的を果たすことだけを考えてくだサイ。…それが“覚悟”デス」
「……分かった。約束する」

一番に頷いたのは里沙だった。
僅かな逡巡の後、愛もそれに続く。

だが、その言葉の重さを、れいなはまだ受け止めきれずにいた。
確かに、他人のことまで気にしている余裕などないことはこの数分で思い知った。

 ―― やけど…やけどそんなんっ……

れいなの煩悶を置き去りに、銭琳は冷酷なまでに静かに言葉を継いだ。

「絶対デスよ?私は皆サンを助けまセン。だから皆サンも、何があっても私に構わないでくだサイ」

その言葉が終わるのとほぼ同時に、藤本の周囲に幾本もの鋭く尖った氷柱が浮かぶ。
おそらく先ほども背後からあれを飛ばされたのだろう。
もしも銭琳がいなければ、確実に串刺しにされていたに違いない。

 ――でもこっからは自分の身は自分で守らんと

銭琳の言葉を反芻しながら、れいなは攻撃に備えて身構えた。
…いや、身構えようとした。


「……なん?体が…?」

自分の体が意志とは無関係に震え始めていることに気付き、れいなは戸惑いを覚えた。
武者震い…?恐怖…?それとも……

「まさか今のバカ長い話の間、あたしがただボーっと待ってたとでも思ってたわけ?ほんと甘すぎ」

小馬鹿にした表情で藤本が嘲笑う。

「低体温症って知ってる?人間なんてもろいもんだよ。中心体温を1度も下げてやれば、もうまともな戦闘なんてままなんないの。…今、どれくらい下がってるだろうね」

用語や、具体的な症状の知識は持ち合わせていなかった。
しかし本能的にその意味するところを悟ったれいなは、反射的に藤本の方へと足を踏み出した。
おそらくすでに体温は正常値を下回り始めている。
少しでも早く行動しなければ、何もしないままに体力だけはどんどん奪われていくだろう。

だが……
次の瞬間飛んできた“氷の矢”に、れいなは再び足を止められた。

 ――疾い…!

銭琳の炎によってすかさず迎撃され蒸発したそれは、相手に近づけば近づくほど回避が困難になるだろう。
もし一本でも避け切ることができなければ、あっという間に体中に穴があく……
そのこともまた、れいなは本能のうちに理解した。

「やっぱ厄介だな、炎使いさん。あんたがいなきゃとっくに終わってたんだけど」

動きを止めたれいなを視界の片隅に捉えて冷笑しながら、藤本は微かに肩を竦めた。
だがそこには苛立ちの色はなく、むしろ余裕すら感じられる。

その余裕の意味を無意識に考えていたれいなは、ふと藤本の視線が微かに動いたのを感じ取った―――


      *      *      *

自身の能力が相手のそれを上回っているという手応えを感じながらも、銭琳は積極的な反撃に転じられないでいた。

 ――まだ何かを隠している

4対1という状況にも関わらず藤本が浮かべる余裕の笑みは、単なるブラフではなく、何か裏に秘めたものを感じさせる。
迂闊に手を出せない理由はそこにあった。

…かといって、このまま黙って対峙し続けるのが最も危険であることも、銭琳は理解していた。
体温が低下した状態においては、何もしていなくても大きく体力が削られていく。

 ――どこか突破口を………!?

悠然と立つ藤本の笑みに鋭い視線を突きつけていた銭琳は、一瞬その視線が微かに動くのを見た。
反射的にその視線の向かう先――自らの頭上を一瞥し、即座に銭琳は片腕を上げる。

「リンリン!いけんっ!!」

背後かられいなの静止の叫びが聞こえたとき、銭琳の手からはすでに頭上の巨大な氷塊に対して炎が放たれていた。
その激しい炎は氷塊を包み込み、あっという間に大量の白い蒸気へと変える。
刹那――銭琳は、れいなの制止の声の意味、そして藤本の意図を悟り……自らの次の行動を決めた。


――ほんの数瞬の出来事だった。

乾いた音を立て、氷塊の陰に隠れていたスプリンクラーのグラスバルブが弾け飛ぶ。
そこから一気に噴出した水は一瞬にして姿を変え、鋭い氷の豪雨となって4人に降り注ぐ―――

銭琳に残された選択は―― 一つしかなかった。
自らの命を捨てるという、その選択しか―――


      *      *      *

――ほんの数瞬の出来事だった。

降り注ぐ残酷な雨を仰ぎ、銭琳が両腕を上げる。
その両手から放たれた炎は鮮やかに拡散し、あっという間に凶器の群れを包み込み、スプリンクラーを変形させる――

そして――れいなは見た。
無防備となった銭琳のその小さな体の真ん中を、鋭く尖った赤い何かが突き抜けるのを―――

「リンリン――!!」

それは誰の声だっただろう。
愛か、里沙か、それともれいな自身だったのか…

だが、倒れ伏した銭琳のところへ駆け寄ろうとする足は、すでにその力を失っていた。
先ほどまでとは比べ物にならない酷寒が周囲を包んでいる。
そこに至って、れいなはようやく気付いた。
銭琳が、その能力で背後の3人への負担を和らげていたのだということを。

 ――「絶対に助けん」って…自分で言いよったろうがっ…!

「私は…嘘つきですカラ」と言っていた銭琳の言葉が思い出され、れいなは唇を噛んだ。
銭琳は、きっと最初からこうするつもりだったのだ。
その“覚悟”で……自分たちを追ってここへ来たのだ。

なのに……自分は無力だ。
“覚悟”もなければ力もない。
自分たちを救うため、無防備に相手の攻撃を受けた銭琳に駆け寄ることすらも……できない。

体だけではなく意識すら崩れ落ちそうになる中、れいなはその悔しさを、勝ち誇った笑みを浮かべる藤本への視線に込めることしかできなかった。


れいなの視線の先で、微かな音を立てながら鋭い氷柱が形成されていく。

―――1本
―――2本
―――3本

悔しかった。
それ以上に申し訳なかった。

だけど――

銭琳を刺し貫いたものと同じそれが今度は何に使われるかを十分に理解しながら、れいなにはもう何もできなかった。

「そろそろお別れの時間だね」

勝利を確信した笑みに彩られたその隣で、禍々しく揺らめく3本の尖氷が標的を定める。


そして――


「――バイバイ」


温度のないその声と共に、凍てつく矢は中空に放たれ―――――藤本の浮かべていた余裕の笑みは、驚愕の表情へとその形を変えた。
撃ち出された鋭く冷たい凶器が、柔らかく暖かい蒸気にその姿を変えたのを目の当たりにして。

「バカな……!!」

驚きに見開かれた藤本の瞳が映し出していたのは、たった今自らの手で…自らの氷で心臓を貫いたはずの銭琳の姿だった。


再び体が少し楽になったれいなの目も、ゆっくりと立ち上がる銭琳の姿を捉え、驚きに見開かれていた。

「何故だ!?生きてるはずがない!」

いまだ目の前の出来事が信じられないといった表情の藤本に対し、立ち上がった銭琳は首もとの何かを掴むようにしながら静かに言った。

「これガ私を守ってくれタ」
「ペンダント…?そうか、それに当たって僅かに心臓をそれたのか…?でも……」

いつだったか、銭琳が「母の形見デス」と言って見せてくれた赤瑪瑙のペンダント――それが、銭琳を致命傷から救ったのだとれいなは知った。
だが、れいなは確かに見た。
心臓をそれたとはいえ、藤本の放った氷は銭琳の体の真ん中を刺し貫いた。
即死は免れたにしても、到底立ち上がることなどできないはず……

そこまで考えたとき、れいなは唐突に思い出した。
先ほどの絶望的な光景の中、微かに淡紅色の光のようなものが視界の隅に揺らめいているような気がしたことを。
その光がもたらす安らぎや温かさを、自分はよく知っているということを。

そして――
れいなは力の入らない手で、無意識に自分の服のポケットを探っていた。


「不思議カ?どうして私がこうして立っていられるのカ」
「……ああ、意味わかんなくてイライラしてんだけど正直」
「そうカ。だけど言えナイ。約束したカラ。極秘任務だト」
「…あぁそう。じゃいいよ別に」
「たとえ言ったところデ……お前らには分かるマイ」

静かに…しかし激しく氷と炎が再びぶつかり合おうとしている中、れいなはポケットから取り出したものを手に、胸にこみ上げる思いを抑えられずにいた。


「さゆ……えり……」

今しがた取り出した両親の写真―――その裏面に、熱い涙が一粒落ちる。

この戦いに臨むに当たって、自分たちやリゾナントに関わる全ての記憶を消去し、置いてきた2人。
身勝手に…理不尽に…大切な思い出を奪い、置き去りにしてきたかけがえのない仲間―――道重さゆみと亀井絵里。

それなのに、2人は…さゆみと絵里はそんな勝手な自分たちの側にいてくれたのだ。
遠く離れても、自分たちのことを忘れても……見守っていてくれたのだ。

写真の裏、その片隅に目立たないように貼られた小さなシール。
れいなには見覚えがあった。
かわいらしいシールを集めるのが趣味だったさゆみが、特にお気に入りだとしばしば言っていたシリーズだったはずだ。

そして、そのシールから伝わってくる懐かしい安らぎと温かさ……
さゆみと絵里は、きっとそのチカラを…そして思いを、この小さなシールに込めたのだ。

たとえ離れていても、仲間を守れるようにと。
たとえ一緒にいられなくても、いつでも心がすぐ側に在るようにと―――


「……要は二度と立てなくなるまでやればいいってことか。それが分かってれば十分。本気で“覚悟”するよ……あたしも」

これまで以上に温度のない、胃の腑まで凍りつきそうなその声に、れいなは視線を上げた。
同時に、それまでと比較にならないほどの烈寒が襲う。

滲んでいた涙が瞬時に凍りつき、れいなの視界は閉ざされた。
こじ開けようにも、震え、痺れる手ではそれもままならない。
それどころか、呼吸さえも―――

      *      *      *


「くっ………?」

経験したことがないほどの超低温に、銭琳は焦りと戸惑いを覚えていた。

 ――炎が……出ない……?いや、出せないほどの……低温ということか?

「そう、あんたの能力の『引火点』をすでに下回ってるんだよ、周りの空気の温度が。もう…炎は出せない」

周囲を包むその凍てつくような空気以上に冷たい声でそう告げる藤本を、銭琳はじっと見つめる。
先ほど感じた、自身の能力が相手を上回っているという手応えは、自分の甘さであったと悟らざるを得なかった。

―そしてそれは、銭琳に再び一つの選択をさせた。

「……永遠を得るタメ…さっきそう言っていたナ」
「…それがどうした?」

唐突に先刻の話を蒸し返した銭琳に対し、心なしか藤本の声にも温度が戻る。

「私の…“トモダチ”が…言ってたヨ」
「…友達?なに?永遠なんてない…とでも言ってた?」

微かに自嘲と自棄の色を含んだその問いに、銭琳は首を横に振った。

「イヤ…永遠は…アル。でも…それは決しテ…独りでは得られナイ…ものだ…ト」
「……あたしには無理だって言いたいの?」
「そう…ダ」
「………言い遺すことはそれだけ?」

再び温度の失われた藤本の声に、銭琳は再び首を横に振る。
藤本は一瞬訝しげに眉を動かし――次の瞬間、茫然とした表情を晒した。


「……ッ!バカな……!」

呆気にとられたその表情は、直後に恐怖と驚愕に支配される。

「炎が外に出せないナラ……この身ごと燃やせばイイ」
「正気か……!?」

全身から炎のオーラを立ち昇らせる銭琳に、藤本は初めて僅かに後ずさった。

「何故そこまで……父親の復讐か?」

藤本の問いに、銭琳はまたも首を横に振る。
それと同時に、その胸中にはあの日の光景――蒼白い満月に照らし出された冬の草原――が広がっていた。


 『琳よ。お前は闇を照らす炎とおなり。寒さに心を震わせる人たちを暖める熾火となれ。信ずるものの為に命を賭けろ。守るべきものの為に己が生命の篝火を焼き尽くせ』


呼気すら白く輝く、抜けるような寒さの草原で父がくれた温もり、そして忘れえぬその言葉―――


 ――お父様……今が…そのときです……!


「言ったはずダ。復讐ではナイ。自分の信ずる未来ト……守るべき仲間の為ダ!」
「そんなものの為に……まだ見ぬ明日や出逢って間もない他人の為に命を捨てるというのか!?」
「そんなモノ?そこにこそお前の求める“永遠”がアルのにまだ気付かないカ?」
「なっ……!?」

思いもよらないその言葉に、藤本の思考が一瞬乱れる。
それと同時に、銭琳の足は床を力強く蹴っていた―――


      *      *      *

半ば途絶えかけていた愛の意識は、周囲を包み、心の中まで沁みこんでくるような暖かい“何か”によって引き戻された。
自分のものではないように重かった体が、僅かに動くようになっているのに気付き、愛は慌てて視線を泳がせる。

「……ッ!!リンリン……!」

その目に映ったのは、思わず目を奪われるほどに力強く……そして胸を締め付ける切ない美しさに彩られた炎だった。
炎は銭琳の全身を包むかのように燃え盛り、その腕に抱きかかえるようにした藤本の全身をも包んでいる。

「やめ……なんしよーと!?リンリン!!リンリンッ!!」

愛の背後で、同じように意識を取り戻したらしいれいなの掠れた叫びが上がる。
その必死の叫びが聞こえたのか、銭琳の視線がこちらに向けられる。

そこには――どこまでも優しく、柔らかく、そして美しい笑顔があった。

刹那――愛は“見”た。
銭琳の脳裏に、愛や…里沙や…れいなや…みんなと過ごしたかけがえのない日々の一場面が、美しくフラッシュバックするのを。

そして――愛は“聞”いた。
銭琳が、愛たちに向けて最後に遺した言葉を―――

「リン――――」 「再見」

炎に包まれた銭琳の口がそう動いたように思った次の瞬間、紅蓮の炎は2人の体を一瞬で覆い隠して一際激しく燃え上がり――――そして消えた。

まるで最初からそこには何もなかったかのような、静かな空間だけを残して。
愛の胸の中に「皆サン、愛シテイマス」という、哀しい一言だけを残して。

その名を何度も繰り返し呼ぶ、3つの咽びだけを残して――――――