『“未来”への反逆者たち ―闇と光(5)―』


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――里沙の死を告げられたときのような感覚は、もうなかった。
里沙が残してくれたメッセージが、その思いが、今も自分の進むべき方向を指し示してくれているから。

だが、先ほどとはまた違う思いが胸に込み上げる。

  ――れいなを一人にするようなことはせんから

あの夜……自分の部屋を訪ねてきたれいなに、愛はそう約束した。
それなのに―――

唇を噛み締める愛の脳裏に、そのときのれいなのぎこちない笑顔が浮かぶ。
喪失感は、不思議と感じなかった。
ただ、その笑顔を…そして約束を守れなかった申し訳なさが、愛に静かな涙を流させた。

「…さっきも言うたけどな。あのときウチは――」
「この次会うときは命のやりとりになるかもしれない…」
「………そうや」

言わずもがなの言葉を言い訳のように重ねかけた自分に苛立つかのように、中澤は愛から……愛の涙から視線を逸らした。

「でも何で……他にだってやり方は絶対あったのに。あるはずなのに」

そう続ける愛の言葉には答えず、中澤は一枚のカードを取り出した。
次いで、無言のまま、傍らのドアに設置されたカードリーダーをくぐらせる。
微かな電子音と共に、赤く点灯していたランプが緑に変わり、室内への扉が開いた。

何も言わず実験室の中へと入っていく中澤を数秒眺めた後、愛も黙ってその背中に続く。
靴音だけを響かせ、中澤は実験室の中央に設置された、強化ガラス製と思しき小さな部屋へと歩み寄った。
そして、無造作に手を伸ばすと、そこに掛けられていた白い布を引き剥がす。

ベルト、電極……そして様々な機器と繋がる、長々と伸びたチューブやカラフルな何本ものコードが、愛の目に飛び込んでくる。
そして―――

その中央に、“彼”はいた。
半獣化した体を横たえ、全身にチューブやコードを固定された姿で。
ただ静かに……しかしその体内に絶望的な“未来”を抱いて―――

「……確かに、多くの人間が死ぬ。そやけどそれは必要な犠牲や」
「必要な犠牲?」

“彼”の方に視線を向けたままでしばらくぶりに発された中澤の言葉を、愛は小さく繰り返す。

「そうや。『ノアの方舟』の話は知っとるやろ?あれと似たようなもんや」
「ノアの……方舟……」

そのフレーズを聞くのは、これが初めてではなかった。
それこそが、愛佳の告げた“未来”であったから―――


 降りしきる雨に霞む視界の中、全身を雨に打たれながら愛佳が見たのは、この世界の終末に等しい光景だった。
 呆然とする愛佳の頭に、『創世記』の中の有名な逸話、「Noah's Ark――ノアの方舟」の一場面が浮かぶ。

 神の教えを蔑ろにし、好き勝手にふるまう人間たちに下された審判。
 40日40夜降り続いた雨は、150日もの間地上を覆い、方舟に乗っていた一部を除いたすべての生命を滅ぼし尽くした―――

 それと同じことが今まさに起こっている―――
 愛佳は慄然とした思いで、その事実と凄惨な光景の前に立ち尽くすしかなかった。

 ウイルスという名の洪水は、地球上の陸地を全て浸していた。
 おびただしい数の“人間だったもの”もまた同様に。
 そして、そこに冷たく降り注ぐ雨を生む闇色の雲は、二度と訪れることのない青空を思わせた―――


「……ゆうても、ノアの大洪水みたいにほとんどの人間が死ぬいうわけやない」

中澤の声に、愛の意識が現在へと引き戻される。
同時に、その言葉と声の調子に愛は疑問を抱いた。

「中澤さん、あんたはどれくらいの人間が死ぬと……?」

視線を愛の顔へと戻し、中澤は吐き出されたため息と共にその問いに答えた。

「この国で1000万人、世界でその15倍…いうところか。少なからぬ人数や。そやけど何かを変えるには――」
「違う…!……違うよ、中澤さん」

真っ直ぐに視線を合わせ、愛は中澤の声を遮った。
その表情には、怒りともやるせなさともつかない色が浮かんでいる。

「そらウチかって完全に正しい思ってやってるわけやない。でも――」
「違う。そうじゃない。あんたの思ってる“未来”は間違ってる」
「………なんやて?どういう意味や」

再び言葉を遮った愛に訝しげな表情を体ごと向け、中澤は硬い声で問い返した。

「犠牲は……あんたらが思ってるよりずっと多い。そんなものじゃ済まない」
「な………っ!?」

口を半開きにした中澤の瞳の中に、様々な色が見え隠れする。
だがそれも一瞬のことで、中澤はその愛の言葉が嘘ではないと判断したようだった。

「…あんたとこの予知能力者が視たんか?どれぐらいの……犠牲が出る言うんや」

低い声でそう問いながら、中澤は愛の瞳を覗き込んだ。
冷静さを装った声の出だしが少し掠れたことに苛立つような素振りが、その内心を物語っている。
複雑な感情を浮かべた視線を返しながら、愛は静かにその問いに答えた。


      *      *      *

「世界ではおよそ55%。この国では……約80%の人が……死ぬ」

愛の言葉に、中澤は息を呑んだ。
思わず出かかった、「そんなはずはない」……という言葉もまた、愛の表情の前に呑み込まざるをえなくなる。

「そやけど……カオリは……」

そう、カオリはそこまでの被害が出る前に食い止められると言っていた。
他でもない、自分たちの“組織”が開発するワクチンが歯止めをかける形になって。
実際、既に極秘裏にワクチンの製造は始められている。
完成までにそれほどの時間は要さないところまで来ているはず―――

―――『変数』

先ほど愛に向けた言葉が頭を過ぎる。
高橋愛の存在によって、また“未来”は思わぬ方向へと変わってしまったのだろうか。
だが、確かめたくてもその術はない。
“未来”を知る者は……飯田圭織はもう、存在しないのだから。

突然姿を消した飯田から、最後に電話が掛かってきたときのことが思い出される。
どういうことなのか、どこにいるのかと問い質す中澤に、飯田はまったく関係のない言葉を返した。

 神にも変えられない“未来”がある。だけどね、自分だけがその“未来”を変えられることもあるんだよ。
 神にも変えられない“未来”を……自分だけが。そう、未来は……この手の中にある。いつだって。

その言葉の意味は、はっきりとは分からなかった。
普段口にしていた、「未来を知るあたしは神」という意味合いとはおそらく異なっているということが、辛うじて感じられただけで。
……そして、飯田圭織が帰ってくることはなかった。
何一つ理由が告げられることはなく、何があったのかも分からないままに―――

だからそう、だから…戻れないのだ。
新たに自分に“未来”を告げてくれる者はもういない。
この道が枝分かれすることはない。
…いや、させてはいけないのだ。
最後までこの道を往き、歩んできた自分の足跡が紛れもなく“正義”であることを証明しなければならない。

「ノアの方舟」――その言葉が再び浮かび上がる。
犠牲が想定していたより遥かに多いとしても……それこそ、それが“神の思し召し”なのかもしれない。
……そう、未来という名の神は望んでいる。
新たな「創世」が為されることを―――


「だからお願い―――」
「愛ちゃん、ウチは戻る気はない。ウチが往く道の前に立ち塞がるなら……排除するだけや」

愛の懇願を断ち切るように、中澤は低い声で言い放った。
その声には、愛を反射的に身構えさせるだけの殺気が込められていた。

「中ざ―――!?」
「―――!?」

それでも説得を重ねようとしたらしき愛の言葉が唐突に途中で止まり、視線が中澤の背後へと向けられる。
その視線を追った中澤の目も、愛と同じように驚きに見開かれた。

「後藤………」

そこに在ったのは、凄みのあるオーラで包まれた怖いくらいに端整な容貌―――
今まさにこの部屋に足を踏み込んだ、後藤真希の姿だった。

「愛ちゃん、最後のお願いに来たよ」
「………?」

      *      *      *

抑揚の乏しい…それでいて切羽詰まったような響きを持つ後藤の言葉に、愛は困惑の表情を浮かべた。
だが、そんな愛の様子には一切構うことなく、後藤は淡々と言葉を継ぐ。

「ねえ愛ちゃん…あたしを殺してよ。愛ちゃんならできるよね?あたしの全部を……殺してくれるよね?」
「―――――」

あの日―――久住小春と初めて出逢った日の後藤の瞳が思い出される。

苛立ち、哀しみ、諦観、そして恐怖………
一見無感動な表情の中、後藤の瞳には多くの感情が揺らめいていた。
あのときはその意味するところがはっきりとは分からなかった。
でも、今なら少し分かる気がする。

「そんなことはできん。あーしは……人を殺すために生まれてきたんじゃない。あーしのチカラはそんなためにあるんじゃない」

だが、愛はそうきっぱりと後藤に告げた。
里沙が遺してくれた言葉は、二度と迷わぬよう、愛の進むべき道を照らしてくれていた。

「…いいよね、愛ちゃんは。“光”でさ」

愛の言葉を受けた後藤の瞳が、その暗さを増す。

「あたしは…“闇”だから。あたしのチカラは。光も届かない真っ暗な……闇なんだよ、愛ちゃん。暗くて…何も見えなくなりそうなんだよ。自分さえも」

あたしは“闇”――その言葉に、愛は再びあの日のことを思い出す。

空中を自在に移動し、れいなを軽々と吹き飛ばした後藤のチカラは、“念動力―サイコキネシス”のようにも見えた。
しかしそのすぐ後、愛は後藤のチカラの意味するところを知ることになる。

「何の話や…?“光”?“闇”?後藤、あんたのチカラは“重力―グラヴィティ”…やなかったんか?」

蚊帳の外に置かれて困惑したような中澤の声が、愛の思考を遮った。
まるで今初めてそこに中澤が立っているのを見つけたかのような目を向けると、後藤は緩慢な動作で首を振る。

「違うよ。いや、違いはしないんだけどさ。あたしのチカラは“闇―ダークネス”だよ、裕ちゃん。あたしは闇なんだよ。真っ暗な……闇」
「“闇―ダークネス”………」

後藤の持つあまりにも強大なチカラ。
空間が歪んで見えるほどの巨大な重力。
それは、全てを飲み込むブラックホール――闇を形成する。
きっと自分自身さえも飲み込んでしまうほどの、深く……凶悪な真の闇を―――

「自分が…消えてしまいそうなんだよ、もう。だから……だからそうなる前に……あたしを殺してよ、愛ちゃん」

暗く、深い色を湛えた瞳を愛へと戻し、後藤は感情の消えた声で再びそう言った。

「……さっき言ったはずや。そんなことはできん」

飲み込まれそうな深さを湛えた後藤の瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、愛もまた再びそう告げた。

れいなと…里沙と…そして、かけがえのない時間を共にした仲間たちと出逢ったときのことを、愛は思い出す。
皆、最初は心の中に深い闇を抱えていた。
そこから抜け出せずに助けを叫んでした。

…いや、きっとずっと心の闇は抱え続けていたはずだ。
辛い過去が消えるわけではないのだから。
不安な未来が無くなるわけではないのだから。

ただ―――その闇を照らすことのできる光を、自分の力で……そして仲間と共に見つけただけで。

「闇は誰かって抱えてる。あんただけやない。それは……あんたの甘えや」

そう言い切った瞬間、後藤の瞳から完全に感情の色が消えるのを愛は見た。

「そっか……。なら…あたしはもうほんとの闇になるしかない。全てを飲み込む……闇に」
「……後藤!何を―――」
「裕ちゃんは外に出ててよ。死にたくないなら」

緩慢な口調からは想像もつかないほどの凍りつくような気配を湛え、後藤は視線も向けずにそう言った。
僅かに怯んだ表情を一瞬浮かべながらも、中澤は後藤に手を伸ばす。

「待て―――」
「邪魔しないでって言ってんの!」
「ぐ………っ!」

何かが軋むような音が聞こえ、後藤の肩に手をかけようとしていた中澤がそのままの姿勢で吹き飛ばされる。
壁面に叩きつけられる寸前、その背後に裂け目が現れ、中澤はその中へと姿を消した。

「愛ちゃんがあたしを殺してくれないなら、あたしが愛ちゃんを殺す。…光なんて言ってもさ、本当の闇は……照らせないんだね、やっぱり」

中澤の方はもうまったく見遣ることもなく、後藤は表情を無くした顔を愛に向ける。

「だからさ、愛ちゃんの“光”のチカラでは、あたしには勝てないよ。ブラックホールは光さえも出られない真の闇。……光は闇を照らせない」
「―――――!!」

瞬間―――圧倒的なエネルギーが愛を襲った。
“光”でさえ抗えないほどの、圧倒的な“闇”のチカラが。

そして……全てを飲み込もうとする闇の中、遠ざかりかける意識の片隅で、愛は聞こえるはずのない声を聞いた気がした。
もう、二度と聞くことができないはずの元同居人―――れいなの声を。
                                       To be continued...